私はADHDとして極度に不確定な見通しのつかない世界に生まれた時から生きている。だから逆に不確定な状況下での行動には慣れていて、「見通しがつかなくて予想外の発見があるからこそ生きていて楽しい」と感じることも少なくない。ある意味でASの正反対の極端な場所に立っていると思う。
例えば一人旅をしていて、旅先で偶然に知り合った人と語り合ったり、異文化に触れて自分自身についても新たな発見があったり、そこまで行かなくても、日々このブログの場所でもASの方とのいろいろな出会いの中で新しい出会いと発見がどんどん生まれて来ている。
人との関わりの一番楽しいところも、相手がこんな考えを持っていたのかと発見したり、お互いに話している中で自分の考えがまとまったり、私が良く感じるのは、他者の眼を通じて「自分自身についての発見がある」ということだ。
私は昨年末頃AS被影響症候群で「ASの人の考えは尊重するしかない」 と思い込み、ずばり反論することが想定出来ない状態になっていた。
それが、かなり追い詰められた段階で「これはASの認知を取り込んでいるだけだ」と思い立ち、この場でずばり反論することを試みた。その結果ASの方にも多くの発見があったはずではないだろうか?
然るにASの人はそういう反論がしにくいような態度を身近な人に取り続けている。想定外のことに言外に不満を表明し、積極的に想定外のことを受け入れる態度に欠け、過去の相手の発言を根拠に「首尾一貫しない」と相手を責める。
例えばASの人でも、上記のような態度を取られたら、それ以上自分を理解してもらうために説明したりする意欲がなくなるのではないだろうか?
この態度が新たな出会い、創造的な新しい交流や相手からの率直な反論や異論の表明を妨げていることを自覚する必要がある。言葉と態度で、想定外のことにもオープンな姿勢を示さない限り、身近な人に支配的になることは免れない。
例えば非常に極端な話、ASの人は相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けたほうがいいのだろうか?
相手が生きた人間である意味があるのだろうか?
かなり厳しい書き方になったけれど、ADHDから見ると実はこれくらいに感じる。
人との出会いは、感動であり、その人と語り合うことは新たな発見でもあります。
私の場合は、生れ落ちたときから自分を客観視してしまい、つまり・・自分を抑えた、はっきり物言えぬ子供で、周りに子供らしくずけずけ「だめ!」と言える友達が羨ましかった。何をやるにも1テンポ遅れて、からかいの対象となってしまった。
自分を抑えた時期が長く、「この世は自分以外の為にあるもの」と漠然と感じていました。
抑圧された(本当は誰も抑圧なんかしてないのに)空気の中で育った反動として、私の場合は何かを取り戻すためにある意味「言いたい放題」になってるのかもしれません。
自分を客観的に見過ぎた代償として、大人になる為に一時的に自分を客観視することを棄てた・・とでも言ったらいいのでしょうか。
時々、忘れかけていた「客観視」「相手の立場に立って考える」「相手からどう見えるのか」という作業をすると『反省』に繋がることもあります。
>>ずばり反論することを試みた。
>>上記のような態度をとられたら、それ以上自分を理解してもらうために説明したりする意欲がなくなるのではないだろうか?
反論は容認できます。しかし、相手に不安を与えるような反論は容認できません。
>>ASの人は相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けたほうがいいのだろうか?
>>相手が生きた人間である意味があるのだろうか?
想定外の事態が起きたときでも、安心できる場所(広い心で受け止めてくれる人)がいた方が良いです。それだけで安心なのです。想定外の対応をできたときは、「よくがんばったね」と褒めてほしい。そうすることでASは経験を塗り変えて固定観念の枠が広がるのではないでしょうか。
我が家の場合。
たぶんADHDであろう二女と積極奇異ASである三女。この二人は小さい頃からよく衝突していて、なぜなのか考えていて最近やっと、原因がわかってきた。
ASの三女。自分の一人勝手な『断定』が多い。今朝もそれでケンカになった。二女の『勝手に一人占めしないで』に対し、自分の断定に根拠を示そうと言い返す。ASは口達者で、自分の理論には自信をもっているから(相手が年上でも)強気に出る。その結果ADHDの二女が『切れて』衝動的に手を出す。手を出したら止まらない二女に、感情的になって泣き叫ぶ三女。・・・我が家には良くある光景。
私は『どっちもどっち』と説明します。まず三女。断りもしないで『自分のもの』と決めつけるのは、二女にしてみれば気に入らないのは当たり前。それなら最初に言葉で断るなどするべき。また二女も、コントロールに歯止めがきかないのは、ある程度仕方ないにせよ必要以上に手を出すのが良くない。程ほどのところでセーブする必要がある。
昨日『前に言ったことと違うんだけど』と、二女が切り出した。夫はASだからか、『一度言ったことは覆すでない』が口癖だから、我が家は(私も含めて)どうもそういう雰囲気があるみたいだ。二女が部活を数ヶ月でやめたことも、よく言葉で批判していた。私はよく考えて『考え方は変わってもいいんだよ』と返した。思えばこの言葉は私自身が『禁句』のように思っていたふしがあったから。
お互い、『適度に許し合う関係』がないと、『共存』は難しいのは事実。うちはADHDが少数派なので、肩身の狭い思いなのも、事実。きょうだいでも、私が『こだわりが強い』ASを優遇してるように(二女には)見えるようで、よくそれを指摘されて痛い(^_^;)だから反動で三女につっかかるのかな?なんて想像します。
ASの人はすくなくとも『自分の認知と他者の認知』の違いをわかることは大事だと思いますよ。・・・人と共にすごすのなら。
>>例えばASの人でも、上記のような態度を取られたら、それ以上自分を理解してもらうために説明したりする意欲がなくなるのではないだろうか?
高圧的な態度、逆切れしていると良く言われます。説明する意欲がなくなるか?相手によって代わっていると思います。客観的に見て相手を選んでいるような気がします。
家族に対しても、納得が出来ないことは、逆切れ・物を破壊していると言われます。
>想定外の事態が起きたときでも、安心できる場所(広い心で受け止めてくれる人)がいた方が良いです。
それはASの人にとって大事な環境であると私も思います。できるかぎり、そうしたいと私も考えています。
ただ、相手も人間だから寛大になれるときと、そうでないときがあるのですよ。・・・・どうか、わかってくださいね。
>例えば非常に極端な話、ASの人は相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けた
>ほうがいいのだろうか?
好きこのんでASに生まれてきたわけではないという事は、心に留めておいてください。
そしてみんな、この生き辛さを何とかしたいと苦悩している事も、心に留めておいてください。
AS当事者として反論させていただくと、私も人間です。相手にロボットを求めているわけでは
ありません。ただ、認知が歪んでいるため相手に対して自分が常識的に対応できないのです。
認知が歪んだ少数派ゆえの苦悩をもっているのです。
>相手が生きた人間である意味があるのだろうか?
そのような事を言われると涙がでます。
私もみんなと同じ、人間です。
相手が生きた人間であるがゆえに意味があると思います。
それとも、私の存在自体が間違えているのでしょうか。
昨日、今日の先生のご意見や、皆さんのご意見を伺って思った事があります。
どんなにどんなに足掻こうとも、解ってもらえぬ人々との関係。その足掻きが=支配であり、そこから得た物は屈辱でしかなく、「支配」をやめるために、私は「自己評価を下げる」という作業をしたのではないかと思いました。
そして、その「自己評価を下げ続ける作業」は現在進行形なのです。(新たに出会う人には自己評価を下げた状態でオープンな姿勢で、自分をさらけ出し、今でも関わらなければならないどうやっても全く私を解ろうとしない人には更に自己評価を下げて)
であるのならば、「自己評価を下げる」以外のどのような方法で、「支配」をやめる事が出来るのでしょうか。
「相手が生きた人間である意味」もちろん!と、思ったのですが、私が引きこもる対象も「生きた人間である」事に気付きました。
先生のおっしゃるロボット、ストレスを回避するためには一理あるのかもしれません。
ALIVEさんのお気持ちに大変同感します。
私はこの記事、大変興味深く読みます。単なる反論のようには思えません。
私はまず、先にコメントしたように、自分の子育ての姿勢を反省しました。そしてAS当事者のひたむきさや純粋さに触れることができました。
そして、この記事にこめられた真意は何だろうかなどといろいろ『想像』しては勝手に考えを巡らせています。
ADHD的には『断定できない相手の意図』であるほうが面白いのです。
AS当事者も当然人間で、またADHD当事者も多数派も人間です。分かり合いたいのは、実はみんな同じだけど、その意味合いや求めるところが、それぞれ違うのかもしれません。
(スレッドの主としての各々へのコメントはまたの機会にするとして、一言だけ「AS被影響症候群にさらされているADHDの叫び」としてADHD一当事者としての私自身もコメントをつけておきます)
「私も人間だ」というのは、ADHDの「命」としての「可能性」を否定されて、うつになったりACになったりして苦しんでいる「ASの身近に居るADHDの気持ち」でもあるということです。
私が上記のようにADHDの原則を100パーセント振り回せば、「ASも人間です」と言わざるを得ないのと同じように、ASの原則をそのまま適用すれば身近なADHDを精神的に「人間として扱わない」という意味になることを理解してください。
「ここで感じている気持ちが相手が体験している気持ちである」ということです。
私自身は診断を受けた事はありませんが、最近『意味不明な人』に困り果ててこのサイトにたどり着き、ASとADHDという人々の事を知りました。ASがまさにカタログのようにその人物に当てはまるので、納得して安心しました。でなければ鬱になるか、相当なトラウマになっていたと思います。文字通り、私の自由意志、人間性の否定。支配され、乗っ取られるような恐怖でしたよ。
YANBARU先生のスレを読んで先生のおっしゃりたいことが理解できました。昨日は正直、ショックでしたよ~。
ASは特別な対象に対して人間扱いとは思えない扱いをする、ということを自覚して欲しいのですね。
素直に反省します。
相手だって人間だから間違うこともありますよね。私たちASは間違いを許せなかったり、知らず知らず相手を追い詰めてしまってたんですね。思い当たる節が多々あって心から反省と、今後の自分のあり方に心して「支配の断念」を実践する努力をしてみます。
これはかなり本当の自分を抑えることになるのですが、大人になるために(40過ぎてるのですが)一歩階段を上るために「相手の立場に立った物の見方」を優先する努力をします。
yurinさんの「分かり合いたいのは、実はみんな同じだけど、この意味合いや求めるところが、それぞれ違うのかもしれません。」
その通りみたいですね。ASは対象を見ているのに対して、ADHDはいつも遠くを見ている。そんな時、「心はここにあるの?」と聞きたくなる。でも遠くを見ている対象も同じ人間。相手を尊重し、少し遠くから相手を見るように、、、う~ん、、、できるかな~?
YANBARU先生へ。
>ADHDの原則を100パーセント振り回せば、「ASも人間です」と言わざるを得ないのと同じように
>ASの原則をそのまま適用すれば身近なADHDを精神的に「人間として扱わない」という意味に
>なることを理解してください。
なるほどと、腑に落ちました。今回の内容、YANBARU先生にしては、遠まわしの表現が多く
歯にモノが詰まったような表現でしたので、何を言いたいのかがはっきりせず、読み手として
困惑してしまいましたが、この返答で真意が分かりました。
AS者も異文化理解のために、もっと努力しろということですね。
ただ、この生き辛さを何とかしたいと苦悩し、異文化を理解しようと努力しているAS者も
いることは、心に留めておいてください。
>「ここで感じている気持ちが相手が体験している気持ちである」ということです。
ご指摘ありがとうございます。「ASの身近に居るADHDの気持ち」は肝に命じます。
ふぇありーさんへ。
>ALIVEさんのお気持ちに大変同感します。
同感していただき、ありがとうございます。
お互い困難な状況の中にいますが、YANBARU先生が言われていたように
「一つ一つできることを見つけてつぶれない程度にベストを尽くしていきましょう」
という事を、こつこつ試行錯誤するしかないようです。
どうもありがとうございました。
この記事を何回か読んで、なんとなく肩の荷が下りたような感覚を覚えています。
思えばASの息子に逆らうのはご法度のように感じて思い込んで、息子の言うことは多少苦しくても、何でも聞いていた自分を考え直すいいきっかけになりました。多分それが重なると『AS被影響症候群』になるという事でしょうか。
どんな場合も、無理なときは『ノー』と言える勇気は必要。人間だから、今日オッケーでも明日はダメかもしれない。それを伝えるのも大事ですね。
もう少し『自然体』で家族と接したいと思いました。
>>ASの人は相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けたほうがいいのだろうか?
>>相手が生きた人間である意味があるのだろうか?
わたしはASかどうかわかりませんが、小さいときから「普通にしなさい」「これができてなんでこれはできないの」「変人」「もっと(人と)うまくやりなさい」「屁理屈」「かわいげのない」の言葉に慣れきっています。
高校時代、大変楽しく過ごしたのですが、それでも、自分がロボットとして生まれてくればもっとよかったのではないかなあと思っていました。石になるのは今でも憧れです。
周りが全員アシモだったら、それはそれで、たぶん全くかまわないと思います。
しかし、今の職場に、ロボット的ふるまいに徹している人間が何人かいます。対応を覚えたので不都合ではありませんが、わたしのアタマの中を空白にしてから仕事をします。
(わたしが彼ら彼女らが、コンピュータが組み込まれたロボットのようだと思うのは、行動のため入力したプログラムと、その結果の出力が、見事に合致しているので、全く同じ想定内の対応を続け、予測可能なところです。
・指示されたこと以上のことも以下のこともしない。
指示がおかしいということに気がついていても、そのまま行う。
・部下に指示を出す立場にあっても、上記と同じ。
もし部下がミスをしても、それにあわせて進める。
周りがそれで困惑したり予定が狂ったり、仕事がおかしくなっても、
部下も自分もできる範囲のことはしたので、
どちらも責任はないと考える。
・自分で計画した生活の予定が変更されるのは、
5分でも、緊急事態でも、家族のことでも耐えられない。
・仕事と私生活の両方等価に充実させるのが生きる目的である、
と、判を押したように全員同じ言葉を繰り返す。 )
周りの生きた人間に全員ロボットのふりをされたら、たぶんかまわないでいることができないと思います。
ロボットはロボットであり人間は人間であるという理解というか固定観念から抜け出すのは、わたしには無理だと思われます。
追記
>>過去の相手の発言を根拠に「首尾一貫しない」と相手を責める。
いつも相手から、わたしはこの言葉も受けています。
それでも、相手が首尾一貫していても、先の書き込みのように考えます。
まるで、カイロスのようです。
>相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けたほうがい>いのだろうか?
>相手が生きた人間である意味があるのだろうか?
この文面とほぼ同じ内容を、私は十数年来パートナーシップを持ってきたある人送ったという不思議な符合に気付きました。
その人とは、恋愛とは少し違うけどビジネスパートナーとも言えず、毎日電話は掛かってくるし(基本的に相手は電話には出ない習慣があるのでこちらからは滅多にかけない)一緒に旅行にもゆくけど所謂男女関係や一般的な恋愛関係にもならないという、普通に理解して頂くには適切な表現が見当たらない関係を保ってきました。
今まで、私はADHDやASやACという傾向は大なり小なりどんな人の中にも存在すると感じており、取り立ててそういう概念で考えることはなかったのですが、このブログを読んでると、私はADHDの傾向があり、相手はASに近い気がしてきます。
一応ADHDの傾向を持つことは自覚しているけれど、それはある種楽しいことでもあり、致し方ないことでもあり、まあいいんじゃないかと思っている私の生き方が、多分、相手には理解し難く、私の言う事はころころ変わると言われたり、私を何が何でも支配しようとされている圧迫感を感じるような最近、相手も、間違いなく、かなり疲れておられるように思います。
彼と彼女は、普通・一般には表現できない関係でいることがお互いによかったのかもしれません。
でも本当にそれがいいのかしら・・・
もっと踏み込んでもいいのではないかしら・・・
私の行く先を探してみたく思います。