ADHD関連

ジャイアンの「丸投げ」

 ジャイアンの脳は本来「責任を取りたくない」性質を持つ。

 責任を負うと、うまく行かなかった時に自己突っ込みをしなければならず、また、失敗のときに他者から攻撃されても反論できない。

 だから、(責任を負っていたとしても同じだが)「うまく行かなかった時だけ人のせいにする」という特有のみっともない行動パターンとなる。

 と言いながら、「仕切る」ことは好きなので、ああしろこうしろと口だけ出したりする。うまく行ったときは自分の功績にして自慢したがったりもする。

 自分の子供でさえ、ジャイアンは当たり前の親としての責任を自覚しない。極端には「問題」がなくなると忘れてしまったりする。自分が不安にならないことのほうが優先するので、パートナーでも施設でも、出来ることなら「丸投げ」したいと考え、実際丸投げすることも多い。

 他者の責任逃れには異常に厳しいのに、自分が丸投げしていることについては無頓着で、問題に気づきさえしない。

 この心理が何故だろうと考えているが、結局「自分以外の人は全部関係ない」「利用するかしないかだけ」のような対人関係のドライさが根本にあるからだろう。

 「長男」や「家系」に執着するジャイアンは多いが、それは主に「自分の責任を押し付けられるという意味で利用価値が高い」という意味なのかもしれない。

 書いていて自分でもぞっとしたりもするが、ジャイアンはかくも孤独で、意識的に努力や選択をしない限り、「当たり前」には誰ともつながっていないのだ。

 ジャイアンにとって「丸投げ」はむしろ当然のようにさえ映る。違和感を生じない。

 だからこそ、意識的にこの特徴を自覚して努力し続けるしかない。この意味でも究極のKYであると私は思う。 


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  6. ASと想像力⑥ 理解の可能性と結果の要求
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コメント

    • らーら
    • 2008年 10月 06日

     YANBARU先生、いつもわかりやすく学びの多い文章をありがとうございます。
    >意識的に努力や選択をしない限り
    >意識的にこの特徴を自覚して努力し続けるしかない
     この部分を読んで、努力する課題は人それぞれではあるけれど、多数派にとっても、とても大切なことと思いました。

    • エイト
    • 2008年 10月 06日

    先生、今回のテーマは全てそのまま母のことです。
    私に縁を切られて、私の長男に執着するのは、純粋な愛情からではけしてないですね。
    母の場合、「意思と選択」のテーマで先生が仰った ”自分は責任をとらないで、相手にとってかけがえのない特別な存在であり続けたい” という依存や支配の感情?
    それとも、今回の ”自分の責任を押し付けられるという意味で利用価値が高い” という計算?
    私には後者にみえるけれど、どちらにしても長男が被害を被ることは間違いないです。
    長男は自分のことを理解してくれる人と勘違いしているみたいですが、これからも予測される被害について根気よく説明していきます。
    そしてもし利用されたときも、私は尻拭いしない。
    自業自得です。

    • むーん
    • 2008年 10月 06日

    わたしなどは、一番大切な「自分自身」を、援助職に丸投げしようとしていた訳で・・・
    ここに出てくるのもなんかおこがましいのですが、考えてみると、いつも両親が私をカウンセラーor施設に丸投げしていたんで、その究極の形として、そうなってしまったかなと思う。
    >ジャイアンにとって「丸投げ」はむしろ当然のようにさえ映る。違和感を生じない。
    ・・・母にとっては、そうだったのかなと思います。(ちなみにAS父は、「病気は医者が看る物」という考えだったみたいです・・・)

    • kei_
    • 2008年 10月 06日

    「丸投げ」体質は言うまでもないのですが、私の場合はその後、「ねじれ」があるような感じです。
    丸投げしている訳ですから、責任は取りたくないはずで、にもかかわらず、ことがうまくいかなくなると「自分に落ち度はなかったか?」「不手際はなかったか?」という突っ込みがまず入ります。
    突っ込みが入るのと「責任をとる」というのが、自分の中で必ずしもイコールになっていないのかも・・・ですが。
    共依存の関係では、突っ込みは入りつつもポロポロと丸投げし易い環境であるうちは脱出するのは、難しそう・・・。
    ジャイアンっぽさ全開でいけば、「この件はこの人に丸投げしたのが間違いだった!!」となるのでしょう・・・。
    でも、「この件は」ではなく、「人生まるごと」丸投げしてこの間違いに気付いたら・・・・
    気付かなかったフリにも限界ありそうですしね・・・(笑)。

    • kei_
    • 2008年 10月 06日

    自己コメントの補足を・・・
    主語(特に後半部分の主語)は、全て「自分(私)」です。
    気付かなかったフリにも限界がありそう・・・というのは、振り返って見ると、自分が本腰を入れてAC外し=精神的独立を目指そうとしたのは、
    「こんなんじゃラチ開かん!」と、どこかで「限界」に達していた時からじゃないかと思うので・・・。

    • まり
    • 2008年 10月 06日

    >他者の責任逃れには異常に厳しいのに、自分が丸投げしていることについては無頓着で、問題に気づきさえしない。
    丸投げした物を、断られたり、スルーされたり、投げ返されたりすると、どうなるのでしょうか?
    弟は、『俺はのけ者にされた』というような言動に出て丸投げを受け取らない者を責めたりします。
    これはジャイアンの『自分に不都合な状況は察知する』に当てはまるかなと思っているのですが、どうなんでしょうか。。。

    • ぴよよ
    • 2008年 10月 07日

    なるほど・・・。
    このブログのコメント欄の、私の立ち位置が前よりももう少し見えた気がしました。私のようなASは、ジャイアンにとっての鴨ですね。鴨のサンプルですね。
    ネットでも、現実でも。空気を心を込めて読んだ気になるAS。その不備を取り繕おうと、気遣い上手になろうとするAS。誠意を伝えようとするAS。自らの誠実の形を伝えようと、言葉にしようとするAS。自分を説明しようとするAS。正義の在り方を考察し、問題提起しようとするAS。etcetc・・・。
    見方を変えれば、ジャイアンがより付け入りやすくするためのお膳立てになり、共依存欲求を持つジャイアンにとっては、ネギを背負わせた鴨になる利用要員になりうるわけですね。
    昔、まだ発達障害の単語を知らなかった頃、お酒の席でいわゆる“深い話し”をやんわり避けて、私の話題から話しの矛先を変えようとしたら、逆ギレされて怒られたことがありました。
    女性が集まると、パワーゲームが始まるものですが、全部否定してやるから自分のことを話せ、酒の肴に説教したいから話せ、という意図の要求にNOを言って怒らせた経験でした。言っても言わなくても怒るのが、パワーゲームの優位に立った女性の特権だった時代でした。
    先輩はストレスや憂さを晴らして(下の者に丸投げして)当然、人を踏み台にして(丸投げして)でも晴らして当然、なルールに、誰も逆らわないどころか、皆上手に合わせていた場所でした。私だけが、下手でした。だから望まれたのだと思います。私には(不注意ミスや暗黙の了解の弱さによる)弱みがある。だからネギを背負えと、望まれたのです。
    許せないんでしょうね・・・。
    永遠には家来を続けないAS。
    人間だから反論もするし、恨めばたまに妖怪化もするAS。
    しかしASだから、何かするにも独特で。
    表現も、伝達も、結局手間暇をかけないと分からなくて。
    ついには、かけたくもない愛情を我慢して示さないと、コミュニケーションまでシャットアウトしてきたりして。
    自覚の薄いジャイアンに至っては、きっと最後はASが人間であることも、生きてることも許せないくらい、憎んでみたりしたいのでしょうね。

    • mario (AS)
    • 2008年 10月 07日

    なるほど「丸投げ」なんですね…
    別居した際、子育ては自分ですると言い張りながらも、ずっと私に預け続け、親権争いでもビックリする位にアッサリと親権を諦め、一方で「子供を取られた」と言う。本人が意識しない丸投げ体質だと思えばなるほど納得できます。
    ジャイアンが問題でも何でも(家事でも子育てでも)丸投げし、ASはそれを受け止めることで自分の価値を評価してもらえると勘違いする。ジャイアンの方では受け止めてもらえるのが当然の相手だと認識する。受け止めてもらえなかったら、その相手を(無意識に)こき下ろす(利用価値が無くなる?)。
    丸投げを受け取れない状況で、理由なりを上手に説明する、いや気持ちを上手に表現することで、問題を(軋轢の発生を)回避することは可能なのでしょうか?AS側としてすべき事が、とるべき手段があるのかどうか、気になる所です。

    • ウェンディ
    • 2008年 10月 07日

    ぴよよさんの言葉が胸に突き刺さります。
    >見方を変えれば、ジャイアンがより付け入りやすくするためのお膳立てになり、共依存欲求を持つジャイアンにとっては、ネギを背負わせた鴨になる利用要員になりうるわけですね。
    私(ジャイアン)と夫(AS)の関係のようです。
    確かに、ADHDに取ってASは<またたび>ですが、ある意味<葱を背負った鴨>でもある。いかにも自分が頑張ってあなたを支えてます風に装いながら、実は<丸投げ>の機会を覗っている。ジャイアンは実に人のコントロールがうまいので、この点、自己嫌悪です。
    ASは丸投げされたものを、仕方なく引き受けながらも、決してその場から逃げない。とんでもなく純粋に感じます。
    >永遠には家来を続けないAS。
    人間だから反論もするし、恨めばたまに妖怪化もするAS。
    しかしASだから、何かするにも独特で。
    表現も、伝達も、結局手間暇をかけないと分からなくて。
    ついには、かけたくもない愛情を我慢して示さないと、コミュニケーションまでシャットアウトしてきたりして。
    夫が私に向かっていっているように聞こえて、自分(ジャイアン)のあり方に嫌悪してしまいます。
    自分を分かってもらおうとしすぎていた自分に、反省しています。
    反省… これもジャイアン流自己突っ込み?でしょうか。

    • むーん
    • 2008年 10月 08日

    >丸投げを受け取れない状況で、理由なりを上手に説明する、いや気持ちを上手に表現することで、問題を(軋轢の発生を)回避することは可能なのでしょうか?AS側としてすべき事が、とるべき手段があるのかどうか、気になる所です。
    私の場合。
    AS元彼に、「(君といると)全部(家事が)俺の指示待ちになってしまうに決まってる!」とはっきり怒鳴られました。
    おまけに、「そんな自分のある女性どこかにいると思ってるんですか?」と聞くと、「そうですね、いると思う、そういう女性と話していた方が楽しい・・・」と。(で、ふられました。)
    ・・・いっそそこまではっきり言ったらどうでしょうか?mario(AS)さん。

    • you
    • 2008年 10月 08日

    >丸投げした物を、断られたり、スルーされたり、投げ返されたりすると、どうなるのでしょうか?
    おそらく、鬱、原因不明の頭痛・腰痛など慢性疼痛や下痢などの身体症状、が出る。あるいはお前とは関係を絶つ、と逆ギレですね。
    人生に「自分自身で」描いた確固たるイメージや理想を、おそらくもっていないのがジャイアンなのかな、と夫の今までをみて、そう思っています。
    私はASではないし、おそらく多数派なのですが、私のどこが「おいしい」のか謎ですが、夫は私に依存してきたと思います。
    「お前が豊かな家計でないと結婚してくれないだろうから、ひたすら年収が良いだけで、やりがいの無い職種を選んだ。だからこんなひでぇ会社で俺は死にそうだ、お前のせいだ」

    これに対して、「あなた自身の人生だし辞めればいいでしょ、転職したらいい、自分で決めなさい。やりたい仕事をして幸せになって。家計が足りなきゃ私も働くから」と投げ返したら、
    「履歴書書いといて、転職情報探しておいてよ」・・・(私)はぁっ?!何この人・・・絶句。丸投げ、ですよね、自分自身のことなのに。
    「ボクも、息子と同じように扱ってよ、息子のお兄ちゃんって感じがいいな。父親面したくないんだ」
    →「嫌です、できません。あなたは私の夫であり彼の父です、頑張って。」と依存を全面的に拒絶したら、多分仮面うつ、及び常に頭痛や背部痛で苦しむようになって、かれこれ数年です。おまけに年増女性との浮気発覚して逆ギレでした。甘えさせてくれるところが、全てのポイントのようです。私に利用価値が無くなった(丸投げさせてくれなくなった)ら、もうお前とは終わってる関係だ、と、本気で妻子もろとも棄てようとしてました。その剣幕や言葉の暴力は、今でも鳥肌が立つほど凄まじかった・・・。
    結局、「あなた自身はどうしたいのか?自分の足で自分自身の人生を歩みなさい」という、自立の必要性に直面すると、逃避反応としての、本人も自覚しないものに苦しむのだと思います。今は彼は、ひどい腰痛、下痢、ギャンブル依存、です。根本解決をどうすればいいのか、私も見ていてつらいし、悩ましいです。

    • rid
    • 2008年 10月 08日

    うちの母はそんな感じです。
    恐らくADHDで、やんばる先生の分類に従えばジャイアンだと思います。
    母自身は、「サブリーダーをやるのが好き」と言っていました。
    ヒラは嫌だが、責任は取りたくないから、だそうです。
    そういった発想にも、それを実の娘に対して口にすることにも、笑ってしまいますが^^;
    家庭内での仕切りっぷり&リーダー(父)への丸投げっぷりは
    まさに母の考える「サブリーダー」的ポジションだったと思いました。
    私や親戚から見れば
    「どうでもいいことにこだわり、肝心なことをやらない母親」だけど、
    母自身には「こんなに頑張っているのに誰も認めてくれない」という気持ちがあるようで
    その悲壮感がジャイアンのズルいところというか、なんというか。
    憎ませてもらえないのなら、関わらないしかない、と今は思っています。

    • kei_
    • 2008年 10月 08日

    書き込みをする前にyouさんのご主人の現状を読ませてもらって、少し躊躇してしまいました。
    というのは、「問題」の勃発はある意味「転機」になって、無自覚丸投げ派は、ここで自覚できたり、すでにやや依存体質に気付き派はいよいよここで直面化して、自身の精神的独立への第一歩を踏み出さねば・・・と、(とりあえず気持ちの上だけだったにでも)、それぞれ何かしらの好転が期待できそうな気がしていました。
    自身を振り返っても、そういう気になったきっかけは、やはり直面化だったように思うので・・・。
    ただ、以前も父親のことを書きましたが、どうも最終的には「フォローありの状態」だったようにも思えます。丸投げ体質脱出初期段階としては、その程度からのほうが、身体に優しい・・・というのか。
    (できないことは協力するから、自分の出来る範囲でまずはやってね・・・程度の、とういのか 笑)。
    相手あっての共依存なので、ここで相手方が自身の依存体質と向き合うカタチにもなってくると、なかなかスンナリことが運ぶとは思えないでしょうし・・・。
    若い頃より、歳を取って次の関係にそう簡単に移行できないと、ますます「転機」の色も濃くなると思う反面、しんどさもまた、倍付け!!ですね。

    • ぴよよ
    • 2008年 10月 08日

    ぴよよの後に、かっこ付けで(鴨)と付けようかと思いましたが、大人げないので止めました。
    ジャイアンが「丸投げ」をめでたく成立させるためには、ASのいわゆる罪悪感みたいなものがちょうどいいのかもしれませんね。それこそ『またたび』なのでしょうね。
    受動型ASとして自分の認知を振り返ると、相手のパーソナリティ?の境界線を見極めるのが下手です。とても下手です。
    だから、会話相手が(なんて一方的な!)と感じることを言ってきても、その言っていることが相手の自己中心発言なのか、常識的な発言を私の我が侭で抵抗感を持って受けとめているのかは、違いが分かりそうでなかなか分かりませんでした。すごく若い頃は、余程の子どもレベルの自己中心発言でやっと、その場でも分かるような鈍さでした。今でも、その判断には長いと一週間考えることもあります。
    この認知の鈍さが『またたび』であり、鴨なのかもしれません。
    極端を言うと、ASの私に自己主張があろうと無かろうと、自己の境界線を持っていようといまいと、才能あるジャイアンにとってはきっと鴨なのです。人間じゃない。
    鈍ければつけ込めます。
    そのつけ込みの結果が、ただの勘違いであろうと、人生訓であろうと、大きく言えば無実の罪で反省させて強迫観念でも持っている状態が、正しい状況判断能力もちょうど落ちて、いわゆる“便利”な利用要員になりやすい状態なのかもしれませんね。
    褒めなくてすみますし。感謝しなくてすみますしね。
    その上ASが日々自省して、反省を元に自己鍛錬でもしてくれれば、自分が煮炊きされるためのネギを一生懸命刻んでいるようなものなので、きっと心身安定するでしょうね、ジャイアンは。
    真実が見えないまま戸惑いと自己嫌悪の迷宮にいるASは、ジャイアンの健康の元なんでしょうね・・・。
    続けます。ジャイアンの記事ですみません。

    • ぴよよ
    • 2008年 10月 08日

    続きます。
    しかし、受動型ASにも人のコントロール力はあるので、問題はコントロール力を使う目的は何か、を、いつも正しく見極めているかどうかが、まずい共依存になるかならないかの分かれ目ではないかと思いますが・・・。
    こんな私も、職場で一部のジャイアン系の子に好かれたり、ささやかですが支援が通じた、伝わった経験があるので思うのですが、自己理解や、障害特性の自覚が進むまでは、正しい目的によるコントロールはありだと思います。その手段と目的を、先生も日々書いてくださっているのだと思います。
    独身者が書くのは恐縮なのですが、大人同士の関係の場合は、個人のエゴを満たすために使われる手段か、家庭運営という大変で立派な“仕事”のために、やむなく使われる手段かで、その価値はかなり違うと思うのです。
    悪い癖で、話を大きくするのですが、日ごろの生活情報誌?などで目にする人間関係術や、自己実現系の文章を読むと、つい癒しに憧れます。
    私も発達障害を知らなかった若い頃、○n○nが大好きでした。自分もこんな私になりたい、こんな感性を持って、こんな結果を目指す私でありたい、たぶん努力すればなれる、みたいなファンタジーを感じたのですが、結果はダサイ自分の生活力を正しく知ってそれに合わせた行動ができないと、自立は無理でした。共同生活者がいればなおさらでしょう。(こんなキツイ私になんてなりたくないのに!)と思っても、白黒付けないと先へ進めない局面もあると思います。
    夫婦って、その嫌な白黒付けの汚れ作業を一緒にやってくれる人が見つかるわけですから、丸投げさえされなければ、そして家庭“運営”目的にさえ迷わず二人で向かっているなら、ありがたいことなのではないかと思います。
    どちらかのエゴ中心にさえなっていなければ、消極的に言うと仕方ない、積極的に言うなら発展途上の、悪いわけではない形というのもありではないかと思うのですが。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2008年 10月 08日

    続きます。
    私は、そのありがたい感謝すべき時にのがさず感謝できるかというと、まだできないから、結婚や同棲、恋愛には本能的に全身でブレーキをかけているのもあるのかもしれません。たぶんありがたさには鈍さで気づくのが遅れ、兄弟喧嘩でもあるまいしですがエゴにはエゴで返しそうな気がします。
    本当は、気づかないことは互いの話し合いで伝え合うべきなんでしょうけどね。実行って、難しいのでしょうね。
    だからいい年ですが、私は人間ができてないというのもあるんです、きっと。
    結婚を知らない者が、失礼いたしました。

    • まり
    • 2008年 10月 08日

    >おそらく、鬱、原因不明の頭痛・腰痛など慢性疼痛や下痢などの身体症状、が出る。あるいはお前とは関係を絶つ、と逆ギレですね。
    これは自覚がなく又自分で治そうとしていないから起こるのでしょうか?付け入る隙を狙い、「相手を思うようにしたいと願っているのにそれがうまく行かない⇒我慢が必要⇒身体症状」なのだとしたら、丸投げはいけない、人は思い通りにならないと自覚し、自分で努力しようと思えているジャイアンなら身体症状は徐々に出なくなるのかなと…
    「自覚の差」という意味では、多数派と同じだなと思いました。ジャイアンに限らず誰でもストレスなどから他者に八つ当たりをしてしまったり投げ出したくなるときもあるわけですから。
    弟を見てると、気が付けないというか気が付きたくない。
    保身のような「分かっちゃいるけど俺に都合悪い物の存在は認めたくない」という我侭切れが多いです。やってもらって当たり前でやらない奴はいらないと思ってそうに見えます。
    せめてKeiさんの
    >(できないことは協力するから、自分の出来る範囲でまずはやってね・・・程度の、とういのか 笑)。
    のように、「『自分の責任の下』手助け・サポートを他者に依頼する」ならいいのですが…自覚の進んでいないとこれは無理そうですね。
    『自己責任』の認知が薄い人は多数派でもいて、そういう人はそういう人として周囲に認知されます。発達障害を理解しようと思いつつも、保身攻撃の度が過ぎるとジャイアンだからといって多めに見れず、丸投げされた物を投げ返さずにそのままドブに捨てて『無責任な奴』とレッテル貼って終わりにしたい気持ちになることがあります。。。

    • むーん
    • 2008年 10月 08日

    ちょっと待って下さい・・・
    「自己突っ込み」で今心臓がばくばく言ってます・・・
    「丸投げ」は確かに悪いが、それを受け止めてしまう側にも問題はある・・・
    ASが、勝手に愛着相手のジャイアンの大事な「責任」を、勝手に引き受けてしまう面にも問題はあるんです。だから、「共依存」なんです。
    「丸投げ」は決して”快感”ではありません。受け入れられたら受け入れられたで、やはり身体症状が伴います。
    『無責任な奴』とはっきり言われれば、そこで激しい自己突っ込み入って、元に戻る、戻ろうとするのがジャイアンでもあると思う(全部かどうかは知りませんが。)。

    • むーん
    • 2008年 10月 08日

    >「『自分の責任の下』手助け・サポートを他者に依頼する」
    自覚うんぬんの問題ではなく、ジャイアンはこれがもっとも苦手なはず・・・
    「自己責任」を取れ、と言われたら際限なくどこまでもとってしまうのがジャイアンでもありますから。(「依存型ジャイアン」の場合はこの限りではないのかも知れないが。)
    私の場合も、(前投稿の内容に戻りますが、)ASに依存していた頃は、「自分に違和感が無い」どころか、知り合いに電話はかけまくる、泣くわめくで不安定の絶頂でした・・・
    向こうが逃げ出すのも無理は無いというか、こちらも別れて3ヶ月ほどしたら死ぬほど落ち着きました。・・・ジャイアンにとっては結局「関係を切る」のが一番の親切なんじゃないかと思う、今日この頃です。

    • you
    • 2008年 10月 08日

    夫は、自分では自覚していないと思います、「なんでおれ、こんなに具合が悪いんだろう、いつでも体中が痛いのだろう」と悩むものの、それが自分の深淵にあるとは思っていないように見えます。自己分析も、しているとは思いますが、育てられ方が悪かった、父親と母親のせいだ、というところでストップ(まあ、実際、その通りなので、原因の殆どだとは思うが)しているのではないかな。
    彼の身体症状は、過去を思い返すと、息子が生まれたのとほぼ同時に始まっています。
    ジャイアン母(多分)の長男としてどこかズレた溺愛を受けて育ち、思春期以降は割と優しげでしっかりした女性(私)の傘の下へシフトし、相手が望んでいるだろうと予測する自分像へ自分をはめ込み、生きてきたのでしょう。が、自分に子どもができて、父親の責任が生じ、パートナーの私は「息子の母」になってしまい、もはや自分を庇護してくれる余裕は無くなり、彼の中で何かが崩れてしまった、のかな。
    大人として親としての新たな自己を確立できないから、苦しいのかな。恋愛やギャンブルで思考を麻痺させて、逃げているのかな。
    もちろん私も、一部甘えさせた上でのソフトランディングを考えたりもするのですが、やんばる先生の記事を読んでいると、結局のところ、それではスポイルに変わりなく、何も解決しない気がしまして。
    或いは、スパッと離婚して、独り、放り出してあげたら、すぐ治るのかも、とか。浮気発覚して速攻で別居して行った夫ですが、別居中は一人でアパート暮らしで体調が良かった、と言ってましたし。別居中も、土日に息子に会いに戻ってくるやいなや、トイレに入って下痢してましたね。丸投げさせてくれないパートナーや、責任が嫌でも生じてしまう子どもと一緒にいると、身体症状がひどくなる。重症ですね・・・。本人にもどうすることもできないし。やっぱり彼の心身の回復は、離婚しかないのか、と、彼を思っての離縁を考えることも多いです。

    • パパイヤ
    • 2008年 10月 09日

    うーむ、私の丸投げを受け止めるのを途中で放棄されてしまったから、じゃあもういらない!と元夫をポイ捨てしたような気がしてきた・・
    marioさん
    >丸投げを受け取れない状況で、理由なりを上手に説明する、いや気持ちを上手に表現することで、問題を(軋轢の発生を)回避することは可能なのでしょうか?AS側としてすべき事が、とるべき手段があるのかどうか、気になる所です。
    YANBARU先生理論を私独自に解釈すると、ジャイアンはある意味、超理性的なので(愛情云々とか抜きで、純粋に相手が利用できるかどうかを見分けられる)相手がどんな理屈をこねていても、自分にとって有利かどうかで状況を見極めそうな気がします。(つまり「気持ちを上手に表現した結果」=「ジャイアンが得するという説明」になれば、向こうが折れるのではと。)

    • kei_
    • 2008年 10月 09日

    身体症状ですが、私が個人的に感じる「感覚」としては
    <依存関係の中での身体症状>=丸投げをなんでも受け止めてもらえていた頃
    と、
    <精神的独立を目指して、やや丸投げしつつもなんとかしようという時期での身体症状>
    では、見えている(起きている)不定愁訴は同じであっても、心理的に、というか(精神的に)随分、違ってきていると思います。
    前者の頃は、得体の知れない(本人的にもたぶん回りも)、理由がわからない閉塞感なり、圧迫感、息苦しさのようなものが混在していて、実際、呼吸器系の(喘息やら呼吸困難)の症状も多かったですし・・・。
    一方、後者になると、以前やんばる先生の記事にもありましたが、「未知の世界へ踏み出す不安・恐怖」に対しての身体反応と言う感じで、引き金が明らかになりつつある・・・というような。
    後者を感じるようになってみて、前者の身体症状の所以も、不安や恐怖なのだろうと理解はできそうな気はしますが・・・。
    前者のままでは、その不安や恐怖に対処しようがありませんでしたね・・・私の場合は。
    ドクターショッピングも薬が使えない体質だったことが幸いしてか、しませんでした・・・。
    前の自己コメントで、自分の中で「自己突っ込み」と「責任を取る」がイコールになっていないかも・・・と書きましたが、いくら自己が潰れるほど(滅するほど)突っ込みを入れていたとしても、
    実際に目に見えるカタチでの言動なり、態度が「責任を取る」(多数派さんからみての)とは、程遠いと、結局は「無責任」と同じになってしまうだろうと思うので、
    そういう場(一般社会)に身をさらすことに対する恐怖心があったように思います。
    もちろん、今でもありますが、精神的独立を目指すようになって、「丸投げ」を「依頼」に変えるプロセスを試みるようになってきてからは、(それでもなにかしらの非難なりがきたりもしますが)、
    「逆認知」している気がします。
    私も無責任かもだけど、アンタのその発言もかなり無責任なんじゃ!!っていう具合に・・・。(爆)

    • あひる
    • 2008年 10月 09日

    >彼を思っての離縁を考えることも多いです
    you さん、いきなり失礼します。
    散々かいてあるのですから「彼を思って~」などというのはなしでしょう。
    ひどく受動的な感じを受けます。
    「こんなヤツはイヤ」でいいのでは?
    「あなたの為に~してあげる」
    自分自身の行動でもあるのに「あなたの為に...」はどうかと思います。

    • まり
    • 2008年 10月 09日

    ジャイアンにとっては、丸投げは引き受ける奴のせい(引き受けると言ったのだから最後までやって当然と相手の責任にはうるさい)=供依存させる奴がいなきゃ俺だって丸投げしないのかもしれませんが、供依存が無ければ丸投げが治るかというとそれは別問題で、弟の場合は丸投げ返しをされて自己突込みが入った後もあの手この手で責任を押し付けようと試みます。
    この『丸投げ』は多数派にもあると思います。ボーダー友人の依存は同じ様な物でした。彼氏=依存相手だった頃の彼女は、依存を許されなければ愛が無いと嘆き情緒が乱れ、次の依存相手を探すの繰り返しでした。彼女に関してのみ言えば『自覚』が変化の重要な要因でした。
    弟はあまり自覚が無いというか、youさんのところと似ていて自己分析が途中でストップしています。かといって、本人が見ようとしない物を他者が無理に見さす事はすべきでないとも思いますし、、、私にはジャイアンの丸投げと多数派とのそれの違いが良く分かりません。「責任」が苦手なのは構わないけれど、こっちが引き受けないからといって攻撃される筋合いは無いし、多数派だからといって無限・無条件に我慢できる訳でもない…家族なのでもちろん心配で気にもなるし、必要なら手も貸したいけれど、独立してもらうのが一番良いのではないかと最近考えるようになりました。丸投げできない距離からサポートするのが私の頭の中での理想です。

    • いずみん
    • 2008年 10月 10日

    ご無沙汰しております。
    母になって1年と9ヶ月が過ぎました。
    丸投げ…、しまくりです。
    といっても、現在子育てを丸投げする相手がふだんはいないので、自分でやっています。
    しかし、いったん夫や、義母に預けたら、もうぜんぜん関与しません。
    こないだは、半年振りに友達と飲み会になったので、義母に子供を預けて終電まで飲んできました。
    休日の午前中は、夫と子供を「散歩いっといで~」と放り出します。受動型ASの気がある夫が何度も電話してきますが、「そんなの自分で考えて何とかしろ!」と逆ギレです。
    さすがに義母に預けたときは文句言わないようにしてますが、実母だったりしたら文句つけまくりです(ちゃんと野菜食べさせろとか、テレビ見せっぱなしにするなとか、外で遊ばせろとか)。
    よく母や、伯母などに、「保育園に預けて離れていると子どものことが気になって仕方がないでしょう」と言われるのですが、ぜんぜん!
    一人で出かけるのが楽しみでしかたありません。
    仕事の間は、子供のことをほぼ完全に忘れていられるので幸せです。そして会社を出たら仕事のことは完全に忘れてしまい、夕食の支度その他家事の段取りのことだけ考えています。
    こんな母でも、今の所娘は後追いしてくれますが…、この先どうなるか…

    • you
    • 2008年 10月 10日

    >散々かいてあるのですから「彼を思って~」などというのはなしでしょう。
    >ひどく受動的な感じを受けます。
    >「こんなヤツはイヤ」でいいのでは?
    >「あなたの為に~してあげる」
    >自分自身の行動でもあるのに「あなたの為に...」はどうかと思います。
    この批判は、もっともです。
    彼を思っての離縁、のとこに至るまでの私の思考プロセスを書かなかったので、いきなりなぜそのモード?って思われますね。
    一連の騒動で、当然に「こんなヤツはイヤ」→即離婚、と私はほぼ決意していたのが一年前。様々な老若男女からアドバイスというか経験則やら長期的視野で考えよ、等など、提示され、このブログのジャイアン思考も理解していき、少し時間を置こうと思ってきた、ところです。
    一番の課題は、幼い子どもがいることです。息子にとって何が、ベストとはいかずともベターなのか・・・現在の日本社会での「パパとママがいる」標準モデルが、顕在的潜在的に子どもに刷り込まれていく(改めて見渡すと、テレビ番組や絵本など、お父さんがいるのが大前提です、ほぼ全部)ことを考えて、少なくとも多感な思春期までは、両親揃った状態をギリギリまで可能な限り持続させるべきなのではないか、と。子どもの成長発達のために、夫と私は努力すべきだし、離婚は今はやめておこう、と一応自分なりに決めたのです。
    が、やはり、身体症状に苦しんでいる夫の姿をみると、解放してあげたいという感情があることにも気付きました。離れたほうが幸せにラクに生きられるのならば、と。これが「彼のためを思って」の部分です。
    しかしそうしたら、また一種の甘やかし?なのかな・・・つまり、彼自身が選択した結婚生活を、歯を食いしばって続けて子に対する責任を放り出すことを許さないのが、正解の対処なのか?
    などなどですね、ほんと思考がグルグル回って、何がよいのかわかんなくなっちゃうんです。
    次に続きます

    • you
    • 2008年 10月 10日

    続きです
    私は深く傷ついたし別れたい→でも子どものためには離婚しないほうがよい気がする→でも苦しむ夫を見ると、彼のためには離婚した方がよさそう→ムリして続ける結婚生活は子どもにも悪影響?→でもやっぱり、壊すのはいつでもできるし努力して継続の道を探るべき?・・・そんな調子です。
    私が離婚したければ、した方がいい、という率直な行動がベストだという考えもよくわかります。結果、子どもにとってはそれが一番歪まないやり方なのかもしれないですよね。
    子どもは、対人関係のスキルを、両親のやりとりの中でかなり学習してしまいますから、いつまでもギクシャクしている夫婦では良くないし。うまくできないのなら、きれいさっぱり別れて明るく楽しく生きているお母さんと一緒の方が健全かもしれないし。
    結局、誰も、正解なんてわからないのですが。ただ、ひとついえるのは、「あなたのためにお母さんは我慢して自己犠牲を払ってきた」という押し付けを子どもにする、最も悪いケースだけは避けたいです。これだけは絶対したらヤバいですから。
    結局、子どもの為に、と、夫の為に、と、自分の為に、とが三つ巴で、何がベストなのか、混乱中です。

    • まり
    • 2008年 10月 10日

    「利他と尊厳」に書き込む前にKeiさんのコメントを読めばよかったです。。。
    >「未知の世界へ踏み出す不安・恐怖」
    弟はまだこの恐怖に直面したくなくて必死にそうしなくて良い状況を作ろうとしているのかなと思いました。
    『他者の境界線内に入り(依存)且つ尊厳がほしい=不安もなく楽』という状況がほしいが、口に出したら自己突っ込みが入るに決まってるから非言語的な方法で自分を誤魔化してる?
    『向き合うべき自分自身の不都合な真実から自分が逃げているためにから回りしている』事に本人が気付くためには、何が必要なんでしょうか…

    • kei_
    • 2008年 10月 11日

    自分の身に起きたことの範囲内での解釈しか出来ないですが、時期とかタイミングとか複雑に絡み合って、ようやく「現在(いま)」があるという感じです・・・。
    確かに「問題勃発=直面化」がきっかけでしたが、それは誰かが(相手が)意図的に起こしたものではなくて、私が意図的に起こしたわけでもなく(当然! 笑・・・)。
    相手を取り巻く環境や状況の変化に当人が(相手が)にっちもさっちもいかなくなって、それに引きずられる様にして、関係性も変化を余儀なくされた感じだと思います。
    結果、「お互い自身の内面の葛藤は自分で処理しましょう!!(できるだけ)」という方向へ・・・でも、これって当然。
    この当然が出来ていなかったことに気付いて、だからといってすぐさま解決!!というわけではなく、その間には「放り投げ(サジの投げ合い)」とか、「今までこっちが引き受けていたんだから、次はそっちでしょ!」的感情もあって、
    正直、これには私、全くお応え出来ませんでした・・・というか、全然別のカタチで応答してました(爆)。
    ただ、問題の勃発=直面化というのは、大・中・小、様々な大きさで人生あちこちに用意されていると思うんですよね。
    私の場合は、前にも書きましたが20代前半に救急搬送中に意識不明・・・の出来事の後に、それまでの依存=丸投げ体質に拍車がかかったように思うんですが、身体面での不調の中、自己肯定感=自分の人生に対しての肯定感が全くもてなくなっていたように思います。
    人生、いつ、なにが起こるのか・・・という不安や恐怖でしょうね。
    つづく・・・

    • kei_
    • 2008年 10月 11日

    「尊厳」の記事を読んで、自分が「厳密な自己決定権」を真剣に問題にし続けるタチだとしたら、このアクシデントのダメージの大きさも理解が進んだ気がしました。
    当たり前ですが自分の人生のすべてにおいて自己決定権があるなど、有り得ません。
    なので、究極の丸投げは、神でも仏でも、宇宙、大いなる大地、自然(呼び名は自由)にお任せする・・・
    時間(年月)の経過とともに、そこにあった感情を知って(追体験するのではなくて。。そういうセラピーもあるとは思いますが)、
    私はただ、そのとき、そのダメージに際して引き起こった感情(不安・恐怖)があったことをまず知って、
    それが今の不安・恐怖に姿・形を変えている、すり替わっている場合もあるのでは、思うんですよね・・・。
    同じ感情を事象・対象を変えて持ち続けてしまうこともあるのでは?と・・・。
    なんだか、まとまらない長文になってしまいましたが、意識の変化が石ころ一つ蹴飛ばしただけでも起こるのなら、この先たくさんの石を蹴飛ばしてみたい・・・が,
    蹴飛ばせる程度の大きさの石だけで、デカイのはカンベンかな・・・(笑)。

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