おそらくASの医局の先輩から、私の診療スタイルについて、「投げ飛ばして受身もさせないような」と評されたことがある。この先輩は、「言語的には厳しく責めながら非言語的に(表情や口ぶりで)フォローする」という高級な芸当が出来る人で、ASや知的障害、依存的なタイプの人は「この先生が通ると正座して待つ」というくらいにコントロールしていた。(ただ決まって人格障害の人は悪くなっていたが)。
依存型ジャイアンは、多くは幼少期に親から言語的にはけなされながらも、非言語的に依存され、「非言語的なつながりこそ真実」と捉える習慣がつき、その結果、自分のほうから伝えたりアピールしたいことも非言語的に表現、行動する。
「自己突っ込み」は言語的な世界の現象であり、「真実は非言語的な世界にある」というスタイルでは、自己突っ込みは生じない!。人をコントロールするにしても見下すにしても、表面上の態度とは異なる「ウラ」で行えば、自分自身に対しても自己突っ込みという責任を負わなくてもいいのだ。
こういう依存型ジャイアンにとって、言語的には厳しくとも非言語的にはフォローしたりするASの態度は、「マタタビ」のように作用するのだろう。このASからの非言語的なフォローをひとたび体験すると病み付きになり、あくなき依存の泥沼にはまり込んでいくのだ。
言語的には責められるような行動をあえてしながら、それにも拘らず「非言語的に赦せ」という要求を繰り返す。ジャイアン出身の境界線人格障害はこうして出来上がる。
「真実は非言語的な世界にある」というのを常に念頭において、相手の言葉よりも態度に注目し、判断材料としています。
古参の会社人間に”鍛える”と称して厳しい罵声をあびせて仕事をさせる人がいますが、こう言う人にかかるとジャイアンが境界線人格障害を発症する可能性があるということなのでしょうか?
うちの息子は依存型ジャイアン寄りと思います。
普通に親子がやる?「なんて馬鹿者なんだ、おまえは!」
と、怒鳴りながら抱きしめてやるというパターン。
他のお友達と悪さなりを一緒にしている場面などで、とりあえず我が子を
中心に注意して、あとから「もちろんあんただけが悪い訳じゃないよ。
わかってるよ。」みたいな感じでヨシヨシしてフォローすること。
この程度のかかわり方もジャイアンの人格形成に、少なからず悪影響を
及ぼすのでしょうか。
確かに思い返すと二次障害的なもの、、3、4 歳頃からありました。
伝わってると思っていたこと、違ったかたちで認知されていたのかな。
わからない、難しい。
自分では合理的って思ってたけど、自分流になだけで…
実は私も依存型ジャイアンなのかもしれません。
混乱しています。
う~むむむ今回の内容は手厳しいですね~。
確かに、AS元彼はこの雰囲気ありましたね~。怒鳴り飛ばしたすぐ後、「ドウシタノ?」などと優しく聞いてくれて、それに私が乗っかってごろにゃん、という雰囲気は少なからず(いや、多いに)ありました。
それに比べると、YANBARU先生にはいつも投げ飛ばされては体勢を崩して起き上がっている気はしますですよ・・・
*************
ただ。ここからは、前回のスレッドの内容に対するコメントになってしまうのですが、彼が「よーし、回りが全然見えてないところがあるよね」とか、「人の話を(質問しないで)聞くこと!」などと言ってくれたのは(まるで幼稚園ですが)いいアドバイスだったと今も思います。
AS&多数派のお話を聞いていると、そういうところで「気付き」があるんですよ・・・例えば、mario(AS)さんの「人は自分が思う、だけでは動かない」とか、まーちんASさんの「何故、ジャイアンは特別扱いされて平気なのか、自分には想像もつかないことなので」と言われると、
なるほど、フツーの人(というよりAS)は、「世間」なるものを常に意識しながら動いてるんだな、とか、
あとyouさんの「多数派には本当の意味での自分は自分、がある」と言われると、なるほど自分には、実は「自信」が欠けてるんだな、とかと、色々とやはり気づきになります。
と、いう訳で、「共依存」を警戒しつつも、やはりここにASの方の参加を待つわけには行かないんでしょうか?
「非言語的なつながりこそ真実」
これ、AS元彼に最後のころ散々説教されたことです・・・曰く、「君にはボディ・ランゲージが通じないし分からない。”視覚優位性”と言うんだがね。遠まわしに言ってることも、ネットの世界ならまだしも、現実世界では全然分からない」
・・・で、だからADHD矯正施設へ行け・・・と言われたんですが。(多数派PSWも同意見だった。)
思うに、日本では「非言語的なつながりこそ真実」というのは依存型ジャイアンに限らない現実なのでは・・・もっとも、バーバルなコミュニケーションにはバーバルに返し、ノンバーバルなコミュニケーションにはノンバーバルに返す、という”フェア”が出来ないのは、まさに自分自身だと思いますが。
>言語的には責められるような行動をあえてしながら、それにも拘らず「非言語的に赦せ」という要求を繰り返す。
モラハラDV被害にあって骨を折られた友人がいます。彼女の元旦那さんは正に↑でした。暴力・罵倒の裏には「赦せ(赦されて当然?)」という非言語的メッセージがありました。
母親には絶対服従の人だったそうです。その母親たる人は「小さい頃から乱暴で我侭だったけど、それも個性と思って伸々育てたんよ!」と言ってたそうです。経済的に依存させる事でジャイアン息子を操り、親子そろって占いを何よりも信じていたそうです。。。
>ASからの非言語的なフォローをひとたび体験すると
ASに限らず、多数派であっても依存傾向のある人は同じ様な非言語的なフォローを多く使います。責めながらフォローしてジワジワと相手の境界線に侵入しようとする人もいます。
この境界線への侵入を「許可する」「却下する」を自分でコントロールし相手にフェアに伝えるのが、多数派の「本当の意味での自分」ではないかと私は思います。
依存型ジャイアンの誕生のプロセス、そしてどうしてASと依存関係になるのかがよくわかりました。
私が依存に鈍感なのは、親が”依存”タイプではなく”支配と利用”タイプだからだと思います。
先生と同じく、依存に引き込まれなかっただけでも親に感謝しなければ・・
でも私は子どもに対して、自分で突き落としておいてすぐに赤チン(歳がバレる!)塗るような矛盾したことをしていました。
今はそれはないです。
(ブログに参加した成果だと思います。先生ありがとうございます。)
これはエゴと合理的の矛盾由来なのかな、と思っています。(そう言い切る自身はないですが・・)
子どもにとってはとても迷惑ですね。
とにかく、ジャイアンらしく人にはかまわず(自分の子どもでさえ)あっさり接したほうがお互いのため、であることはとってもよくわかります。
>モラハラDV被害にあって骨を折られた友人がいます。彼女の元旦那さんは正に↑でした。暴力・罵倒の裏には「赦せ(赦されて当然?)」という非言語的メッセージがありました。
ぞぞぞ、まりさん、これ実話ですよね!?
私のAS(と思っていた)元彼には、やはりジャイアンの素質があったのかも知れない・・・
とにかく、こっちが幼稚園生レベルなので、「モラルを叩き込まれるのは仕方ない」と諦めていましたが、
(例によって’ウソ’です。私もかなり佐々木夫妻的に反撃しました、が・・・)
とにかく「君は人間的に0だ」「ACだ、発達障害だ(←軽蔑の念がこもっている)」「ミーティングに自分の意志で行きなさい」「バカ(2度言われた)」etc.の発言を繰り返すんです・・・
その内、私を甘やかしている父が乗り出してきて、「こいつはその内本当に暴力を振るうぞ」と言い出したので、お開きになりましたが・・・
彼のおかげで、私の三重苦の治る前のヘレン・ケラー状態がかなり治ったので、周り中が喜んでますが、私はいまだに恨み持ってます。
PS;でも、一緒に働いてた多数派PSWさんは、きっちりバウンダリー引いてYES・NO言ってましたね。どうやったらああできるのか、すごく不思議でした。8~12才向けのアサーティブ・トレーニングの本(パット・パルマーです)を理解するのがやっとの私には、到底無理だったかも知れない。
>依存型ジャイアンは、多くは幼少期に親から言語的にはけなされながらも、非言語的に依存され、「非言語的なつながりこそ真実」と捉える習慣がつき、その結果、自分のほうから伝えたりアピールしたいことも非言語的に表現、行動する。
ここを読み返して、自分はやはり依存型ジャイアンではないような気がしてきました・・・
と、ゆうのも、私は「言語」以外で人とコミュニケーションする術を知りません。(かんしゃくは起こすけど。)
AS元彼にしてもですね、大体「言語的」どころか、リアル言語では全く「好き」とか「嫌い」とか言えなくて、ほとんど肝心な時は筆談で通していました・・・
(あと、「詩」とか一緒に見た映画とかの「評論」ですね、この方法では、確かに感情表現出来ましたが。)
こう書いてくると、やはり私はオカシイのかな。とにかく徹底的にノンバーバルは苦手です。
最近、ボーエンの「家族評価」という本を読みました。
この本によると、他人への依存性(情動)は家族間で親から子、そして孫へと世代を超えて受け継がれるものだそうです。
家族のうちの誰かがこの仕組み(家族システムズ理論)を知って、自律(分化)するための努力を始めると、その人が引き金となって家族全体の自律が進んでいくそうです。
このところ、この本が示す世代を超えた家族間の情動の流れの中での「発達障害者の役割」について考えていたのですが、まり様の投稿を読んで気づきました。
多数派、AS、ADHD関係なく、それぞれが人に依存しない生き方を模索することがやはり大事なのだろうと思います。
依存しないための方法の模索(これが難しい!!)こそ、それぞれの脳の違いを知ったうえでの作業となるため、こここそが専門家の領域となるのではないかと思います。
バーバルとノンバーバルを使い分けすること事自体が相手への甘えであり依存を表している → 自分が自律していれば発言と態度はおのずと一致する → バブルバインドに苦しむことが少なくなる → 風通しの良い人間関係が築かれる、となるのではと思います。
追伸:合理的ADHDの方は、たとえどんな依存的な家族の中に生まれても、その合理性ゆえに家族間の情動の連鎖を断ち切れる存在となり得るか?(だから巻き込まれるが故に二次障害になるのか?)
今新たに浮かんだ疑問です。
むーんさん、
実話ですよ。私も聞いたときはゾゾゾでした。
彼女の受けた暴力・罵倒は、AS元彼さんのそれとは大分違う感じがします。
例えば、
自分が金を使いすぎて家計が苦しくなる⇒何に使ったんだ!?家計管理しろ!!+暴力
怒鳴ったために子供が起きて泣く⇒教育が悪い!+暴力
こんな風に、あらゆる不都合・不満(会社・友人・親・金・家事・育児)が妻のせいにされ、反論しようものなら暴力・罵倒。
大怪我しても「お前は大袈裟なんだよ!」と病院に行かせて貰えず保険証もお金も隠される。。。
暴力については「お前がそうさせた」、
継母までも「怒らせるあんたが悪い」と正当化。
こんな事が繰返されるうちに被害者は自己評価が下がり、私はダメ人間だから逃げても生きていけないとまで思ってしまい、「逃げ遅れ」ました。
彼女は法を間に挟み、「隠れ見下し」することでようやく難を逃れることができました。
元彼さんのは、そんな言い方どうなのよと思う節はありますが、「愛」は感じますよ。
>バーバルとノンバーバルを使い分けすること事自体が相手への甘えであり依存を表している → 自分が自律していれば発言と態度はおのずと一致する → バブルバインドに苦しむことが少なくなる → 風通しの良い人間関係が築かれる、となるのではと思います。
なるほど~。
私は、一時期AS元彼にメールを禁止されていました。何故かと言うと、私は、表面上ニコニコしている手前、時折とんでもない物騒なメールを打つ傾向にあったんです。
(「ぶっ殺す」とか。)
最近は、段々自分の内心を素直に表現できるようになったので、そういう事はありませんが、「会いたい会いたい会いたい」とかはいまだに打っちゃいますね。
(それでいて、ミーティングで他人をハグしたりされたりするのは物凄く苦手です・・・< (_ _)>)
芥川龍之介の「手巾」の美学は、古く古くなったんですね~。
(再び雑考)
ASがジャイアンにとって、最大の「マタタビ」となる理由は、「ノンバーバルに認めてくれるから」というのも無論あるでしょうが、(でもそれだったら多数派にも、それらしい優しい人は沢山いる、)
ASが(井戸の中の理論からかも知れないけれども)、結局一度一緒になったジャイアンを死ぬ気で「理解」しようとするからじゃないかと思えて来ました・・・
ジャイアンにとって、「理解されたい」というのはおそらく最大の衝動だと思う。それを抑えて、多数派と一緒になって孤独の中で内省の道を歩むか、それともある程度の病気を押しても、ASと一緒になって、「共に理解し、また理解されようとする」道を歩むかは、全く本人の自由だと思います・・・
(私は、「共に理解しようとする」道からは落ちこぼれたものですが。)
AS元彼がなんで好きだったかと言うと、ノンバーバルに優しかったからではなく、薄給の中で、山ほど私の病気に関する本を買い込んで、何とか「理解」に近づこうとしたのが嬉しかったように思えます・・・結果的には、彼のしつこさから、常に前頭葉が痛む頭痛持ちになってしまって、良かったのか悪かったのか全く分からないけれど。
むーんさん、はじめまして
あなたには確か「某AS氏に私ははめられた」と書かれてたような...
ちょっと笑ってしまいました。
それはある意味当たっていて
私はあの手のコントロールや圧力をリアルな生活でずっと受けていた自分に気が付いて自分自身に腹が立っていました。
そうさせる依存的な自分に一番問題があるのですから。
>ASが(井戸の中の理論からかも知れないけれども)、結局一度一緒になったジャイアンを死ぬ気で「理解」しようとするからじゃないかと思えて来ました・・・
それは必要と言う名の雁字搦めのようだと私には思えてしまいます。
「理解」というよりコントロールする宿主を得るため死ぬ気で寄生しようとしているように感じてしまうのです。
(元彼を知らないのにすいません)
一生懸命さをみせてジャイアンに「必要だ」と思わせれば思うつぼなのではないのでしょうか?
(受動型ASは特にそのように感じてしまいます)
「あなたは私が必要なんでしょ、だからあなたは私のためにこういうことをするのは当たり前です」
「なんで私が動かないといけないの?私はあなたにとって必要で大切なんでしょ?」
「私の言うことが正しいのだからききなさい」
「これはあなたの為にしたことだよ(自分がやりたかったことでも)」
そういう支配は受けませんでしたか?
相手のことが必要ならば何でもやってあげる(尽くしまくる)ことは可能なのでしょうか?
私はムリです...たとえ相手を愛していても「何でも」は出来ません。
相手の言うとおりに行動するというのは依存型ジャイアンにとっては
「相手の言うとおりにやっているだけだから」と責任を取らなくていいので心地いいかもしれません。
でもそうすると病気になりますよ...とここのブログではずっと言ってきているのでは と思います。
>結果的には、彼のしつこさから、常に前頭葉が痛む頭痛持ちになってしまって
...ほら~
でも、選ぶのはむーんさんです。
どちらの生き方をしても誰もなにもいいません。
・・・どうなんだろう・・・
例のAS彼は、(おそらく)積極奇異型と思われましたが、確かに「君が君の意志で俺に尽くせ」という支配は受けました。コントロールもされてました。
が・・・AS元彼に出会わないで、自分のACに気づかず、発達障害に気づかず、(まぁ自分が底付いてから考えればいい事だったのかも知れないけど・・・恋愛したこと自体が一種の底つきだったんだと思う)AS父の支配の元にあればよかったのかなと思うと・・・< (_ _)>
彼と出会ったのは、よくない出会いだったかも知れないけど、(孤独に負けたとは言えるかも、)「創作」のネタには相当なりましたね・・・で、なければここにこうして流れ着くこともなく、一生親の買ったマンションで「岩山の上で」無為に暮らすか、あるいはどこかの施設に流れ着いていたでしょう。
「共依存」は人間に避けて通れない茨の道だと、私は感じています。一生「相互依存」だけで暮らしていける人はおそらくいないか全人口の1%に満たないと思う。・・・
思わず、真面目に返答してしまいましたが、どうかご容赦を。
...ASの支配を渡り歩いている?
まさにここのタイトルどおりの「マタタビ」なのでしょうか?
>「共依存」は人間に避けて通れない茨の道だと、私は感じています。一生「相互依存」だけで暮らしていける人はおそらくいないか全人口の1%に満たないと思う。・・・
それでもジャイアンは依存すると病気になるのは?
変わりたい、治したいと思ってないのかなぁと思えてしまいます。
(共依存に戻りたがっているようにも見えてしまう)
もしかしてむーんさんはジャイアンではない?
私はまた間違ってしまったのでしょうか...
ジャイアンでないのでしたら上のコメントは忘れてください。
立ち居地が違いすぎます。
いや、ジャイアンACだと思いますけど・・・
(何で何度もコメントせにゃならん)
私は、自分の道は自分で考えたいと思ってます。例え、共依存に落っこちてもそれは自分の責任。だから得るところもあったと信じたいだけです。
どういうところが、具体的に得るところがあったかと言うと、彼は毎日掃除洗濯料理をしていた。(当たり前のことですが。)その「当たり前」が、甘やかされた私には出来ていなかった・・・(今はやってます。)
「どらえもん」ドクターは、「彼が混乱させてすまなかった」と謝ってたけど、私はそれまで実に20年間、何もしていなかった。AS父の支配下にあったことも気づいてなかった。
私は、結局あひるさんの言うように、彼に依存しすぎて捨てられたんですけど、彼の与えたアフォメーションの本に、「回復の初心者には、依存する相手が必要。その内、一人で歩き出せるようになります」と書いてありました・・・
要するに、私は赤ん坊だったんですよ・・・その事を、無理やりにも気付かされた、というよりそこから引っ張り出された事に、AS元彼に”感謝”はやはりしたいと思っています・・・。
何度もコメントしなくて結構ですが
私はいつも面白いことを書いてあるなと拝見しています。
もちろん共依存は自分の責任です。得るものがあるかないかは聞いていません。
また共依存に戻りたがっているようにみえるだけです。
彼には捨てられたんですね...(それは知らなかったです)
私は別に彼に依存しすぎて捨てられたんでしょ
などとは書いてませんよ...
共依存するかしないかは本人次第です。
ただこのブログのコーチングは
ASには
ジャイアンが病気になるから依存はさせないほうがいい
ジャイアンには
共依存は病気になるから止めたほうがいい
の方向性だと思っています。
私は間違って解釈していますか?
あひるさんの解釈は、ここのコーチング通りだと思いますよ・・・優等生です。
ただし、世の中には色んな事があるという事です。私は、病気と言う岩山の上で20年過ごして、父も母も私には全く無理解でした。・・・私は、社会人以前というより人間以前だったと思う・・・
そこから引き出してくれたのはやはり彼でした。だから、未練があるのは正直事実です。
彼が、最後に私に残したコメントは、「自分で決めること」でした・・・
私は、YANBARU先生を尊敬していますが、YANBARU先生の方針に依存したくないなとも思っています。(何しろ”魔性のクライアント”なんで。)
「自分の道を自分で決める」力は今ないかも知れないけど、せめて自分の歩いてきた道は、自分で分析したいというのが私の方針です。
私こそ聞きたいです、それは間違っているのかどうか??
>...ほら~
でも、選ぶのはむーんさんです。
どちらの生き方をしても誰もなにもいいません。
(今頃逆切れしたくありませんが)わたしはこういう言われようが一番腹が立ちます。「誰も何もいわない」?言ってんじゃんあんたが私に。
あひるさん、主語をはっきりさせて下さい。「私としては、あなたがまた共依存の道を歩くのは感心しない」なら、答えようもありますが。私は、ノンバーバルを得意とする依存型ジャイアンでは、基本的にありません。軽々しく一緒にしないで頂きたい。
「彼に捨てられたんですか」と同情されてもちっとも嬉しくありません。半分は、私が我を頑として曲げないから、彼が「勘に触る」と言い出したのです。(その前の依存型ジャイアンとは彼は上手く行ってたようですが。)
別スレッドでもやってるみたいですが、人を批判するなら名指しにはっきりなさい。皆「私のことかしら?」と、いやな気分になりますよ。人に説教する身分ではありませんが、遠まわしな嫌味はこの際やめたほうがいいですよ。
最近 AS元彼との依存関係を断ち切った者です。只今 依存まみれの人間関係を振り返り、自立への道を 暗中模索しております。
「ジャイアン親子の共依存」「マタタビ」「かわいそうという考え方」 で 今までの依存関係は 大体理解できそうです。
確かに AS元彼の非言語的な部分に 振り回され すがり、自己を見失うこと 多々…。「ネコにマタタビ」と申しますので、「マタタビ」 の後ろにある井戸に 落っこちないよう 肝に命じたいと思います。
初めて投稿させていただきます。
長年、夫との共依存関係に悩んできました。そう言う私自身、ADHDのACだと思います。
数十年間、「もうダメだ別れる」「やっぱり私にはこの人しかない」の繰り返しをやってきました。
「自分の道は自分で決める」と仰るむーんさん。
「最近共依存を断ち切った」と仰るネコさん。
その決め手となったものは何ですか。
まだ、このブログを読み始めて間もないので、これから色々勉強していきたいと思っています。
わたしはYANBARU先生のような、「投げ飛ばして受身もさせないような」診療のほうがありがたいです。先生のASの先輩のような医師だと、「いい人でいなきゃいけない」というような気持ちが働いてしまって逃げ出したくなります。
以下、あひるさんとむーんさんのやりとりを見ていて。
>あひるさん、
はじめまして、依存型ジャイアンから脱出途上のmmmです。
あひるさんはご自分のことを、依存型ジャイアンあがりの現在は純粋なジャイアン、のように書かれていましたが、わたしから見ると、一つ前の「あるコメント」のエントリーに掲載されたコメント主とやっていることが変わらないように見えます。(つまり純粋なジャイアンには見えません)
あのコメントからも、あひるさんのコメントからも、自己正当化するポイントが他者に介入し過ぎで、なおかつ優等生ぶっているように思えます。
純粋なジャイアンは自分を正当化するだけで同じジャイアンであっても他人は他人、なのに対して、依存型ジャイアンは「救いたい」とか「助けたい」のようなお節介が目立つような気がします。
まさにそれこそ、共依存の名残ではないかと思いました。
(ちなみにわたしも優等生やお節介、よくやってしまいます。あ、このコメントもお節介かもしれませんが、何かの役に立てば・・・程度の心持ちで送信します)
共依存を断ち切ってライオンになるのは目指すところではありますが、程度もペースも人それぞれ。むーんさんの言うように、わたしもAS元彼には感謝しています。ふられた後、死にそうになりましたが、遅かれ早かれあれを通過しなければならなかったと思うので
もしかして、むーんさんとのやりとりで「何を偉そうに」・・・と自己突っ込み中でしたらこのコメントはスルーで構いません。
(やっぱり依存型ジャイアンは自己突っ込み入らないのですかね?同類として興味があるのでできれば教えていただきたいです。ちなみにわたしは今回のあひるさんのコメントぐらいのことを誰かに言ってしまったら、確実に自己嫌悪→謝罪のコースです)
はじめまして ウェンディさん!私も AC&ジャイアンです。
私は ACがとれかけ自立の道を歩もうと 家を出た所、依存性の強さから そのまま AS元彼に依存しちゃいました。もともと 「私は私の道を行くわっ」という中で 自己を捨て 彼の価値感に合わせる事は とても苦しかった。苦しいからと 井戸の外に出ようとすると 力ずくでも 引き戻される…最後は お互い 罵倒しあい 心身ともに 疲れ果てました。
彼の中に 私に対する愛着はあるものの 一個人として 私を認めてくれている感じが ありませんでした。
共依存の苦しみは 正直 もう こりごりです。おぼつかない足取りではありますが、こちらのブログで 共依存に至るシステムを学習しつつ、自立の道を進んで行きたいです。
はじめまして、mmm さん
正直なコメントありがとうございます。
エラそうですか...痛いですね、私は。
そういうつもりはないのですが、そうみえるのであれば本当のこととして反省しなければいけません。
私は「あるコメント」の投稿は
むーんさんが指摘しているように
ノンバーバルな表現をしてしまったのかと反省中であったりします。
私は依存から完全に抜け切ってないし、優等生ではないです。
間違ったことも言うし、間違ったこともします。
自分のことは見えないので、真っ直ぐに言われることはキチンと頭に入れないといけないと思っています。
ただ余計なお世話は...ジャイアンというかADHDには多いと思われます。
(自己正当化するわけではなくて)
あひるさん、おはようございます。
「あるコメント」スレッドではレスをありがとうございます。
私のノンバーバルな含みを持ったコメントが発端になってしまったようで
申し訳ありません。
むーんさんもなんだかごめんなさい。
私はつい先日、私の中の矛盾(たぶん合理的ADHDじゃないってこと)を
子の主治医に指摘されて、初心に戻り勉強中の身です。
リアルタイムでやんばる先生のブログでも取り上げられていて、
混乱の最中なのです。
mmmさんがずばり言われていること、私自身に言われている気もして
ストンと入ってきました。
余計なお世話、を私はやんばる先生にどうもしてしまって
うざがられていると思います〜
>純粋なジャイアンってくくりでは実は少ないのかもと感じます。合理的な親(自己がしっかりしていて)が愛情たっぷり育て
それなりに能力が高く自己肯定感も充足されている子供なら、
そう育つかな?
こぱんださん、余計にあやまらせてしまってすいません。
私の見解ですが、(ジャイアンACです)子供が依存型ジャイアンに育つか否かは、ASとの関係性が大きく、依存型ジャイアンを親に持つかどうかとはあまり関係ないような気がします・・・
私の母は、AS祖母にまさに「言語的にけなされつつ非言語的に頼られる」状態で、結婚前の男性関係(おそらくはAS)も頻繁、積極奇異型ASの父と結婚してからは、まさに「依存型ジャイアン」そのものでした。
しかし、私は母には、確かにある意味頼られたものの、一方では「やられっぱなし」の状態でした・・・あまり具体的に書きたくないのだけれど、幼少期からねちねちとノンバーバルに虐める、最近では祖母が「私に遺す」と言う年金を勝手に使い果たす、etc.
それでも、AS父が、もう少し私に関心を持ってくれていたら、「ASを手玉に取る」ようになっていたかも知れないけれども。とてもとても(今のところ)その技量はありません・・・
同性同士の依存型ジャイアンと純系ジャイアンて多分相性悪いんですよ、きっと・・・
PS;家の場合、AS父の取り合い合戦になっていたので、余計、そうだったかも知れませんが。_(_^_)_
・・・とは言え、私も「マタタビ」を一度嗅いでしまった以上、立派な「股旅」にこれから育たない、という自信はありませんが・・・
なんかかえって失礼な物言いをしてしまったみたいでごめんなさい。
むーんさん、コメントありがとうございます。
率直な感想ですが、むーんさんは精神的に今まで本当によく
頑張ってこられたのだなと感じます。
(経済的だとかの面などでどうかは知りませんですよ!笑)
生まれついての脳(生物学的なもの)に、その強烈な親子関係。
歪まない方がおかしい状況ではありますね。
定型発達の子はどんなに過酷な環境におかれても、一時的な心因の
反応はあるにせよ、内因性の精神病の発病率はさほどでない。
というような文を読んだ記憶があります。
脳の脆弱性にすでにハンデがあるのでしょうね。
私自身の父はADHDだったと思われますが、
酒たばこやギャンブルの依存があったぐらい(充分だ!)で、
生活力はないけどやさしくはありました。
母は定型で父のフォローにまわった挙げ句のストレスからでしょう、
病気で亡くなりました。
その後に父が精神を病んでしまって苦労させられたものだから、
、私はACにも近いのかなと思います。
むーんさんの苦労とは質が違うのだけれど(私なら絶対逃げそう)
私も自分分析、続けます。
こぱんださんありがとうございます。
私にも、優しい祖父がいました。やはりアルコール依存で、それでも長生きした方で76才で没しました。
しかし、私は遅い子だったのと、祖父とは同居していなかったので、彼が側にいて成長できたら、自分の人生ももうちょと違っていたかなと思います。
今、多数派ヘルパーさんと普通にお茶碗を洗ったり、洗濯物を干したりして結構楽しいです。しかし貯金がいつまで続くか分からないので、病気との寸刻みの闘いです。
むーんさんへ
いつも拝読させて頂いていますが、不思議に思うので教えてください。
どのコメントでも必ずって言って良い程、AS元彼が出てきますよね?その方は、むーんさんのお父様同様、むーんさんを支配(コントロール)しようとしてきた訳ですよね?
元彼です。沢山の思い出があり、なかなか忘れられないのも事実でしょう。まして、むーんさんの為に色々やって下さっていた様なので。でも、私には分からないんです。なぜ、自分の事をコントロールしようとしていた彼の事をこんなに思い出せるのか。私も、初めて一緒に住んだ彼が(違う意味かもしれませんが)コントロール魔人でした。確かに彼に支えられた時期もあったし、優しい部分もあったけど、それだけです。思い出す事は殆どありません。
むーんさん、失礼を承知で書かせて頂きます。
やはり、元彼に依存している部分があるのではないでしょうか?むーんさんのコメント、読んでいると苦しくなる事があります。もう一度、『依存』について考えてはいかがでしょうか?かく言う私も『勉強中』です。一緒に頑張りませんか?
・・・実は、ここらではっきりカミングアウトしますと、私は、発達障害のみならず、一度統合失調症に罹った経歴があります。(YANBARU先生によると、ジャイアンACのパニックが、統失と誤診されることもあるそうなので、あるいはそれだったのかも知れませんが。)
で、元彼はその意味で「先輩」だったんです・・・(はっきりとは言ってませんでしたが、やはり、心の病で高校を中退したと言ってました。)
それで、私の心の病を、かなり我慢して受け止めてくれる面があったので、「依存」していたのは事実なれど、無理解な親とはっきり違っていたので、強烈な想い出になっているかと思います・・・
ところで、行ってきました専門医。YANBARU先生から、メールの返信が来ないので、あるいは見放されたのかなと思い、(と、いうかこのブログに出会う以前に予約を取ってしまったので、断るのも悪いかなと思ったのもありまして。)
で、初診の結果によると、「発達障害の特徴は十分あるが、幼少期のデータが少なすぎてなんとも言えない、もう一度問診を」との事でした・・・
(ちなみに、リアルでの喋り方が独特で、抑揚がなくいささか聞き取りづらいそうです。)
YANBARU先生、メールプリーズ。
YANBARU先生、および皆さん申し訳ありません・・・
実は、先ほど父と大喧嘩してしまって・・・「なんで、この家にいなくちゃいけないの」と・・・
20年前に出てしかるべき科白だったんですけれども。
>あなたにとっては現実の人生での回復が重要で、ネット上
のことも最低限にして、仕事を目指すか家事で自立するか、
言葉だけでなく現実のなかでの実績を積み重ねる方向が
ベストだと私は思います。
というのが、YANBARU先生のご返答なので、やはり、もう一度中間施設に通おうと思います。父からの完全な自立にはなっていないんですが、今の私には「学校(中間施設は学校じゃないけど)に通う」が精一杯なので。
そこで、「依存」以外の関係性を探っていけたらいいなと思います。
皆さんありがとうございました。これから投稿は出来るだけ控えますので。
(追記)
私の生意気な発言の数々で、皆さんを混乱させたかと思います。本当にすみませんでした。あひるさんにも申し訳なかったです。そして他の方々、付き合ってくださってありがとうございました・・・。
むーんさん
まずは良かったです。20年かかろうが30年かかろうが道が見えてきたのは素晴らしいことです。
むーんさんがジャイアンなのかACなのかそれ以外の何者なのは私にはわかりませんし勝手に判定するべきでもありませんが、発達障害者には問答無用で投げ飛ばして受身もさせない「師」も時には必要なのではないかと思います。
私も重くて面倒な親元を離れた後、(自分自身の)依存が強すぎて非常に生きにくい時期が5年ほどありましたが、親戚のお兄さん、カリスマ的実力の「千秋サマ」系上級生、風来坊の叔父(故人)と少なくとも3人の投げ飛ばし系の師に恵まれ、不惑を超えた今でも有難く思っております。
(ちなみに私の場合、昔うかうかと登ってしまった山の主・受動的AS&AC彼は「迷惑で厄介で辛かった過去」でしかありません。)
私はパソコン通信時代からネットに関わっておりますが、むーんさんに限らずネット上で何かしらその人の「琴線」に触れる発言に対し、激しく反応したり噛み付いてしまう人は少なくありません。ジャイアン(あるいは発達障害)指数と「琴線」の数は正比例するような気すらしています。
私も攻撃モードに切り替わった時はそれはもう凄いですし、確かに若い頃はそこら中に噛み付いて玉砕しておりました。
しかし「怒る」あるいは「キレる」事でその場の謝罪は得られるでしょうが、定型発達者は必要以上の深読みをしてくれないので、キレるともれなく「面倒な人」「厄介な人」という烙印が付いてきてしまいます。他人のブログは一般の掲示板や実社会以上に気を使わなくてはならない場所です。匿名が許される場とはいえ固ハンでやっていく以上、怒ることで自分に有利な方向に誘導できる時以外は怒らない方が長い目で見ると「トク」だと思います。
クリスチーネさん、まずはありがとうございます・・・
リアルの専門医の方と話しあった結果、(この方もちなみに見事な「投げ飛ばし系」でした、)「統失患者には発病までの歴史があるが、君にはそれがない」と言われた事と、最初のドクターに「君は統合失調症というには1%違う気がする」と言われたことなど、鑑みてみると、
やはりジャイアンACの可能性が高いと思われます。
とにかく20年近くほとんど家にいたので、世間知らずもいいところですが、これから、「キレる」ことないように気をつけます。
PS;70過ぎた父ですが、肺気腫と高齢のためか、最近私には服従モードなので、やっと楽になってきました。それに、「発達障害」という”漢字”ならば、私の病気も受け入れられるみたいです。どうも色々ご心配おかけしました。
ずっと昔から考えてきた事ですが、孤立型にとっての「マタタビ」とは、「論理」であるような気がします。
孤立型は、「自分目線の論理」がなければ、何も他人に物申すことも関わることもできなくなるのでは?
私はかなりの疑問です。
先生がブログを書く事によって、確かに孤立型にとっての世界は広がる事でしょう。
でも、本人の、現実世界とのギャップが、ますます広がる。
最近では、「かわいそうな人かもしれない」と思いはじめましたが…私の中に自己突込みが無いのが、怖いと、心底思います。
あれほど毛嫌いしていた孤立型の発言パターンが少しわかるようになってきているのかもしれません。そんな時に偶然ADHDさんと話すと、不思議な事に、私の中では無理なく自然に修正がきくし、私の心もまた、おだやかな状態に戻れるのです。あれほど孤立型から「修正」されるのは耐えがたい苦痛になるのに…不思議です。
私の弟は、基本的にむずかしい本ばかり読んでいますが、ジブリの制作ドキュメントが放送されると食い入るように見ていますね。「鑑賞」を越えた何かがあるからでしょうか。
私が自分の事しか見えなくなって、他人に当たり散らす時、たしかにそれ自体は良くないことだけれど、その分、同じだけ、自分を認め、他人をうらまず、社会をうらまず、まだ立てる、まだ歩ける、まだ生きる事ができると思う時があります。
幸いなことかどうかはわかりませんが、私の言葉自体の殺傷力のレベルは、大体の場合、私の言葉からはそれほど無い事が自分でもよくわかっているので、せいぜいが「他のもの・人に託つけた発言」と言われるくらいの出来事であるのは幸運だと思っています。
私の現実は、「他のもの・人に、かこつけた発言」の、その後の事、ということで、私は自分のすなおな心構えなどを通して、現実ではリアルタイムに、時間がかかったりするけど、きちんと自分で反省したり、自分から修正したり、自分から前進したりしていけるので、トータルでの事態はそれほど悪くならない事が多いです。
孤立型は、「私の自発的な、変化を通した、前向きな前進」を、「許さない。」それが私には窮屈で、強制と感じ、非常に苦痛なのです。
孤立型の本質の一部として、「現実での実態をリアルタイムに想像できない」という事がありますが、
本人は、現実においても、固定された論理思考によって他人を断定したり分析したりする事が通用すると思うらしいですね。
「現実における自分自身のコントロール」よりも「現実の実態をリアルタイムに想像できない自分に開き直り、性懲りもなく、固定された論理思考によって、他人を断定したり分析したりする事が、現実にも通用すると思い続けたい」本人を見ていると、「アナ雪」の「♪ありの~ままの~」の歌がBGMで脳内に流れてきそうです。
私は、自分の心持ち次第で現実を変えていける(ただし、とても遅い、亀並みの遅さです)」という「予後(見通し)」が良いのかもしれません。
どうぞ心ゆくまでうらやましがれば?って感じですね(笑)
私の母が、私に言っていましたが、「すなおであるという事は1つの能力だ」という言葉、すなおに受け取っておこうと思いました。
(いつの間にか、「早死にしたいという気持ちは去っていました。」妹に負けずおとらず、私もどこかしら現金なようです。)
(今の私の家族仲は、ほどほどに良い状態を保っているので、今後このブログにお世話になる事はほぼ無いと思います。しいて言えば、もしも私に子供が出来た時、かもしれません…。せいぜい「他のもの・人に託つけた発言」をしないように気をつけたいと思います(笑))
では、ありがとうございました。