精神疾患に見える発達障害シリーズ⑦
その他のいろいろな人格障害と診断されている発達障害
私の経験では、最終的に私がADHDやASと診断した人の以前の診断名は多彩だった。
受動型ASの人が「依存性人格障害」、「回避性人格障害」、受動型ASの人が夫や彼氏など愛着の対象に対し支配的な態度をとる状況で「自己愛性人格障害」など。
ASもADHDもストレスが強くて、反応性に混乱したり暴れたりしたときに「情緒不安定性人格障害」、「失調性人格障害」など。
ADHDのACも訴えの内容や過剰反応したときの行動自体は「境界性人格障害」に表面上似ているので、表面的な診断上はつけられうる。
いずれも発達障害であるから、「もともとの性格的に」あり、ある時点から後天的に「病気」として急に始まったものではないという特徴から診断されるのだろう。
一生懸命にきちんと診断基準に当てはめて診断しようと努力されているのは分かるが、残念ながら上記のいろいろな診断名をつけても「だからこう治療すれば」という治療に役に立つことは少ない。むしろそういわれた本人や御家族が落ち込むマイナスのほうがはるかに大きい。
最初から子供のころからの自閉的な特徴(偏食、服装へのこだわりなど)や、注意欠陥、状況が分からないなどの発達障害を疑う生活歴を聴取していれば、発達障害の診断は比較的容易で、診断された後にコーチングや環境調整、周囲からの理解の道も開けてくる。
私は 何かしらの人格障害と診断名のつきそうな生き方をして来た様だ。
プライド高く、高飛車な言動で他者を傷付け、振り回して生きて来た。
最近になって、自分の目的の為に人を利用して得たものが有る事にも気が付いた。
そうして得たものが有るがゆえ、私は 現在もこの世に存在していられるのではないかとも思える。
私は 日々抱く自分自身の感情が分からない。悲しみなのか 不安なのか 心配なのか 怒りなのか…
私だけでなく、みんなも そうなのだろうか?
自分自身の過去を 深く掘り下げて振り返ろうとする度に、動悸や冷や汗と共に頭痛が始まり、途中で断念してしまう。
過去の自分の姿を見る事が怖いのだろうか?
見てはいけないものなのだろうか?知ってはいけない事なのだろうか?
「私は私なのだ」と、自分を肯定的に捕らえる瞬間があるかと思えば、否定的な自分に打ちのめされる。
現在の自分は、何かしらの人格障害と呼ばれるタイプの成れの果ての姿では無いかと感じている。
惨めで情けない姿ではあるが、認識できる範囲の過去に対して、反省が生じている。
活き活きとしたADHDらしい人生を歩めるのは いつなのだろう。
そう遠くはない未来だと信じたいし、信じている。
全ては 自分次第なのだろう…
子供が、いろいろな病名を貰って、最後に辿りついたのが『境界性人格障害』。
それから私は『人格障害』を調べ上げ、愕然とした。
『人格』の『障害』・・?
とても、やるせない気持ちと、どんどん調べ上げていくうちに、「私の育て方が悪かった」「3歳までの、どんな場面がいけなかったのか」「できることなら、あの頃からやり直したい」と、自分を責める日々が続いた。
しかし、『原因探しはしない』という病院側の大前提に、子供の頃の話を聞いてもらう機会も殆ど無く、話したとしても、『言い訳』にしか聞こえないだろうと、この思いを飲み込んできた。
そして、自分の『人格障害』探しが始まった。
『人格障害』の本を読み漁り、自分はこれかもしれないと思っていた。
久しぶりに、今、『人格障害』を調べてみた。
『受動型AS』というのは、とても先生が掲げる『人格障害』に似ていることを発見した。
思い当たることがたくさんあった。恥ずかしいことに、一つではない。
でも、私も、ある日突然ではなくて、ずっと小さい頃から周りとの違和感に悩んできた一人である。
この文章を複雑な気持ちで読みました。
私は総合病院のコメディカルです。
心療内科で入院する方々は大抵「…人格障害」の病名です。
そんな患者さん数人と関わると、半分くらいが「生まれつき生きにくさを感じていたのでは?」と思われ、また近親者も「人格障害」や「行為障害」の診断を付けられている事が多いです。
(勤務する病院に精神科の医師はいますが、主な仕事は他科入院患者の精神安定です。)
私が発達障害に関わっているので、「そう見えるだけ」ならいいのですが…