自己コーチングガイド各論② ASの自己理解そのG (対人関係の特徴)
G.AS特有の対人関係の特徴を理解する。
多数派は対人関係を、全体として複数の人で構成される「場」として認識し、その一要素、一構成員として自分自身や他者を認識する。「場」においては、自分自身から見て重要な人と重要でない人の序列(立場)があるほか、「場」全体の中での(雰囲気として察知される)「仕切る人」と「従う人」の序列(立場)もあり、そういう複雑な関係の絡み合った「場」全体が人間関係となる。
多数派はその中で、自分自身の序列(立場)や、相手の序列(立場)とを瞬時に直感的に察知して、基本的に「表立って対立が生じない」ことを重要として対人行動を決める。
従って、多数派は特定の二者関係も、その他多くの関係の中で「比較的近い相手との二者関係」であり、言わば重要性は「程度の差」であって、ある相手との関係が他の一切の関係に優先する「絶対的」であったり、また逆に「完全に平等」 ということもない。
これに対しASは、直感的な状況認知は多数派と共通するが、「人への愛着または執着」という大きな特徴があり、例えば多数派の「序列(立場)」が富士山のようななだらかな程度の差であるとすると、ASの「序列」は切り立った崖のようにゼロ百の極端な形で愛着の対象である仲間と他人を分ける形になる。
特定の相手との二者関係もやはり極端で、「お互い理解されるのであれば完全に理解されるしかない」という非常に厳密な理解と察知を要求することになるので、結果として「ケースバイケースの適宜の妥協」は困難となり、支配か絶対服従となることが多い。
私はASの人の対人関係のイメージを「オオカミの群れ」という風に想像している。仲間は徹底的に大事にするが、裏切りは許されない。
また、ASも自分が納得することを大事にし、対立を恐れないので、多数派の「建前を言って体勢に合わせても対立を避ける」という行動は理解しがたいことが多い。
あなたの生活で上記の説明に当てはまることがありますか? 具体的に書き出してみましょう。
この対人関係の特徴は、現実生活の中では、多くの場面では多数派から「程度を弁えない極端な行動」、「自己中心的」、「反省しない」、時には「挑発的」という反発を食らうこともある。
ASの側から努力するべき点は、「多数派が集団の「場」での対立を恐れる行動パターンを持っている」ことの理解と、多数派からの誤解を回避するための予防策だ。例えば、「重要なことは一対一の場で伝える」などは有効である。
また、「理解」の意味が違うことを理解することも重要だ。ASの求める「理解」は厳密で、「中途半端では許されない完全な理解」を要求することになってしまうが、多数派の意味の理解は、ただ「表面上対立していない」というだけの意味であり、それを(AS的には無意味に見えても)多数派は後生大事にしているのだということを理解する。
もうひとつ、ASは愛着の対象の相手は、無条件に「自分のことをすべてわかるはず」と前提してしまう傾向があるため、「基本的に誰であれ、自分でない人は、言葉で説明しなければ分からない」という単純な真実を繰り返し思い浮かべて確認することも重要だ。だから、「(自分も相手も)分かるはず」とは決して考えず、全て言葉で説明してお互いに理解する努力を続けると自分に言い聞かせ続けることが必要である。
上に書き入れたあなたの困難さに対して、上記の工夫を具体的に考えてみて書き入れてみましょう。
こんにちは。
AS当事者からみると、今までの自己コーチングも読み返してみて、結果行き着くところは
対人関係の不具合・緊張が「最大の課題」であると思います。
今回のYANBARUドクター様の視点はとても興味深い表現が多々あるので、
じっくり考えながら、自己理解のために、いくつか質問をさせていただきたいと
思います。多分、このブログをROMしている当事者や医療関係者にも、今回のテーマは
たいへん参考になると思います。
(この章はG-1,2,3と細かく分けて、深く掘り下げていただきたいぐらいです。)
私の今回の書き込みは、他のAS当事者に会ったことが無いゆえのピント外れの
表現かもしれません。その点はご理解してお読みください。
(今回は、理解=物事の内容や意味を知ることと定義します。)
>その一要素、一構成員として自分自身や他者を認識する。
>複雑な関係の絡み合った「場」全体が人間関係となる。
自己理解には他者理解も含まれるという根拠において疑問に思うのですが
この場合、個人の主体はどこに存在するのでしょうか?
一構成員というのがキーワードであることはわかるのですが、そこには目に見えない
総意というのがあって、相違は許されないという事なのでしょうか?
構成員同士が常にお互いの顔色をうかがいながら、自分のポジションを確保
しあっているのでしょうか。そしてそれらは、半固定でありながらも、重なり合う部分で
流動的に変化していくポジションという感じなのでしょうか?
私は混乱して、なぜなぜ状態になってしまいました。
まったくわからないというのが正直な感覚です。
ASと多数派世界はこんなにも理解要求度臨界点が違うのかと
ただ驚くだけです。
多数派のことをよく理解しているASの人がいるのならば、聞いてみたいなというのが
実感です。
・・・続く
・・・続き
>多数派は特定の二者関係も、その他多くの関係の中で「比較的近い相手との二者関係」であり
>言わば重要性は「程度の差」であって、ある相手との関係が他の一切の関係に優先する
>「絶対的」であったり、また逆に「完全に平等」ということもない。
この表現が、私にはまったく理解できませんでした。他の人にも読んでもらいましたが
やはり理解できませんでした。
要約するとどのような事なのでしょうか。
>多数派の「序列(立場)」が富士山のようななだらかな程度の差であるとすると、
>ASの「序列」は切り立った崖のようにゼロ百の極端な形で・・・
どう考えても、多数派世界の序列のほうが、手法として無難ですね。全体を安全に
守るということが最優先なのだな・・・と感じます。
ASが自ら多数派世界との間に溝を作ってしまう感じが少し見えてきました。
他者が何を最優先するのかを知る事により、それなりの事前対応策は持ちえる感じがします。
また、ASの「序列」は・・・という記述がありますが、YANBARUドクター様が
ASから「序列」を感じ取られるのは、どのような点なんでしょうか?
これはAS自身では絶対認識できない事なので、ぜひ教えていただきたいです。
私は学びたいです。
>ASも自分が納得することを大事にし、対立を恐れないので、多数派の
>「建前を言って体勢に合わせても対立を避ける」という行動は理解しがたいことが多い。
対立は結果であって、自身が求めているわけではありません。そのように結果として
対立になってしまう点が、ASの厄介さです。
私自身は対立はありうる事で、それをどのように解決するかが重要だと思っています。
私の場合、もう理解という概念を捨てて、「それが現実である。ただそれだけだ」と認識した
ほうが、いいのかもしれません。多数派・少数派の違いではなく、もはや自身が違う生物の
ような感じがしてきました。(違う生物である事が悪いわけではないでし、卑下しているわけ
でもありません。)
今まで私は、
<グループの中にいると、人間の距離が近いはずなのに
孤独感や疎外感を感じる>と
思っていたのですが、
多数派にとっては、その程度の人間の距離が
普通で、楽しい、んですね。
今まで感じてきた孤独や疎外感が
<自分中心でかつ、距離の近い関係を求める自分>
にあったと認識できました。
今後もきっと、
グループのお付き合いは苦手な1つだと思うけど、
このことをたまに思い出して、
気に病むことのないようにしたいと思いました。
こんにちは。
AS対人関係の特徴 対応策 私見です。
>多くの場面では多数派から「程度を弁えない極端な行動」、「自己中心的」、「反省しない」
>時には「挑発的」という反発を食らうこともある。
結局、他者との係わり合いにおいて、どこまでが妥協できることであるかを自覚し、
相手が何を最優先しているかを読み取り、臨機応変に対応していかなければ
ならないのですね。
しかし、私は臨機応変は獲得できなかったので、せめて自身の妥協点を把握しておき
「ある地点から先には、足を踏み入れない」といった対応策しか思い浮かびません。
やはり遠いですね。世界は。私のプラス面を生かせる場面はないです。
>「多数派が集団の「場」での対立を恐れる行動パターンを持っている」ことの理解と
>多数派からの誤解を回避するための予防策だ。
ASの私から見ると、直接的な対立は避けようとしているのは観察できますが
実際には、うわさ話や陰口といった形式で、対立しているようにも観察できます。
そしてピラミッド形式の上下関係が明白にあり、権威に寄りかかる姿も観察できます。
なんといっても印象的なのは、「世間体」というものを最優先する場面がある事です。
(もしかして集団の「場」=「世間体」?)
要するにお互いの関係が変わらないことが重要視されているのかなと感じます。
そしてそれらは結果、異端・異分子を排除する意識に直結しているなと・・・
どちらにしろ、誤解を回避することは私自身への刺激を減らす事につながるので、
私はこの指摘を忘れないようにしないといけません。
・・・続く
続き・・・
>「重要なことは一対一の場で伝える」などは有効である。
相手が「一対一の対等性」をもって接してくれるならば、有効であると思います。
>もうひとつ、ASは愛着の対象の相手は、無条件に「自分のことをすべてわかるはず」と
>前提してしまう傾向があるため・・・
この点はAS当事者自身が自力で認識することが困難な内容だと感じます。
YANBARUドクター様は、どのような場面で、それらを発見したのでしょうか。
それはASの、どのような動きから観察できたのでしょうか?興味深いです。
>全て言葉で説明してお互いに理解する努力を続けると自分に言い聞かせ続けることが
>必要である。
この点に関していえば、発達障害の有無に関わらず、誰もが言葉で説明しあう状態が
理想だなと思います。
しかし日本語自体があいまいな表現を許す言語なので、言葉をお互いに定義付けして
おかないと、言葉のすれ違い、意思のすれ違いがおきやすいです。
(もしかしたら、多数派世界では、あいまいな表現が好まれるのかも・・・
今度機会があれば試して見ましょう。)
現実には、多数派世界では「一対一の場」において、個人的意見=個人批判と
受け止められる事が多く、また、ピラッミッドの下から上(権威あるいはもっと単純に
年齢差とか・・・)に意見するのは場を乱すから、ご法度で・・・
逆読みすれば、私の場合、年上に対しての敬意が足りないという事になるのでしょう。
多数派世界では、年齢に関係なく平等に敬意をはらうという行為は、敬意をはらって
いないのと同質なのかもしれません。
やはりあらゆる事に、注意深くなければなりません。(だから緊張してしまう自分を発見)
現時点での私のできうる工夫・対応策は、「逃げるが価値」です。
そうですね。
多数派だって見えないところでは『対立』してるし、
『自己中心的』なところも目に付く。
権威に対しては自我を押し殺しても従順になり、
反面、弱者に対しては横暴とも思えるような要求を
無理に押し付けたりする。
人間同士なのだから考え方は違って当然で、
対立するのがむしろ当たり前なのに、
違うモノも同じにしようと、有無を言わさず考え方を押し付けたりもする。
・・・ADHD流偏屈私見では、そのようにも観察できます。
YANBARU先生始めまして、
AS当事者の
Zack-Balanと申します。
いつも大変興味深い内容で、気づかされる点も多く
感謝しながら拝読しております。
ところでASのタイプについて
自分なりに考えたことを書いてみました。
問題の映画は沖縄では4月21日から公開されるので
「映画を見た後に」感想などいただければ
ありがたいです。
http://plaza.rakuten.co.jp/utsu1974/diary/200703180000/
Zack-Balan様のご意見に深く同調致します。
発達障害を熟知している精神科医(医療関係者)が どの程度いるのか…?
また、精神疾患・身体症状(受診せずとも生き辛さを感じている人々)の根底に発達障害との関わりを感じ、着目する医師が どの程度いるのか…?
多くの医師、いや 全ての医師にYANBARU先生の様な見解を持って頂きたいと 願わずにはいられません。
Zack-Balan 様
ブログ拝読いたしました。
成人発達障害の場合、表面上は二次障害のほうが強く出ていて、元々の発達障害の姿がなりを潜めてしまっているケースが多いので、それが診断を困難にしているのだと私は察しています。
ただ二次障害の部分だけ診断されることになっても、症状が改善しない場合に、発達障害を疑うことができれば、いくらかのケースについては、診断可能になるのではないかと思います。
また発達障害の診断ですが、成人の場合は子どもと比べ、たくさんの難しさ、面倒さがあるのは事実です。本当の意味で発達障害に熟知していなければ、疑うことすらできないのではないかと、私は想像します。
そのためには、まず『発達障害は子どもだけの問題ではない』ということを、社会に訴えていく必要があるのではないかと思います。
映画の内容は私はわかりませんが、メディアを通して成人発達障害の問題を伝えることは(形はどうであれ)重要なことではないかと思います。
Zack-Balanさんへ
私も「モーッアルトとクジラ」の映画を観たくて仕方なかったのですが、私の住んでる所では上映しないそうで、残念です。
私も、子供が「ボーダー」と診断されてから、絶望感と、母としての罪悪感などに随分悩まされました。
全ての罪を受ける為に、とことん「ボーダー」を調べ、いろんな映画も観て、本も読みました。
「親子の連鎖」とい言葉に、「私も何らかの人格障害なんだ」と苦しみ、更に自分の親を恨むという悪循環に陥っていました。
でも、私は娘を「ボーダー」で片付けられたくないのです。
私自身も「生き辛さ」があったし、子供に関しても「育て難さ」があったからです。そして今、娘は「生き辛さ」に直面しています。
自虐的にサイトを彷徨っているとき、YANBARU先生の「人格障害という前に」という記事を見つけ、今、本当の理由を探しているところです。
暗闇の中で、一筋の光が見えた気がしました。