ノビ太型ADHDは野心も無く、欲も無く、ジャイアンや積極奇異型ASDから見ると「向上心が無い」という風に見えたりして、パッとしない存在に思われがちだ。しかしノビ太には別の不可能に見えることを簡単に成し遂げる超能力とも言える役割が可能であり、だんだん私にも意味が理解できて来た。
およそ世の中で一番どうにもならない難しいことと言えば、「受動型ASDの内モードを修正する」ということだと私は思う。実はノビ太にはそれが簡単に出来てしまう。以下にシミュレーションをしてみよう。
例えば、受動型ASD女子とノビ太型ADHD男子のカップルを想定する。
A.ノビ太は受動型ASDが内モードを出しても平気である。
これも驚くべきことなのだが、ものの言い方も乱暴で無理難題を要求したりしても、ノビ太は不思議に「普通に反論」してびくともしない。時には「正論であるが屁理屈に近くて反論のしようが無い」ような話になって受動型ASDはそれ以上要求を続けられない経過になる。
理論的に説明を試みると、ノビ太以外の相手は「大体その口のきき方は何だ」とか「明らかに不平等な要求を何で平気で出来るか信じられない」というような感情的な反応をするので耐えられない。ノビ太にはそういう反応は不要なので、言葉の上だけで受け取り、言葉の上だけで返す。「言外のことには反応しない」というところがポイントなのだ。
B.ノビ太に対しては、受動型ASDは内モードでもまったく違う「やさしい」「譲歩するような」行動パターンを実行できる。
これも驚くべきで、私がケアしている複数の受動型ASD氏が本人自身で驚いているのだが、例えば「受動型ASD女子が自分から相手にアプローチする」というような他の場合では絶対にあり得ないことが行動できてしまうのだ。
この理由も、理論的に説明すれば、「受動型ASDの常套手段である非言語的なアプローチがまったく通用しない」ことに加え、「ノビ太には相手より優位に立つ行動が感じられないので、受動型ASDはノビ太に対しては自分が劣勢に立たされる感じを経験しないで譲歩できる」というような説明が可能だろう。
受動型ASDは内モードでさえ、ノビ太には「やさしく」なれるのだ。「譲歩」して平気なのだ。
その結果、ノビ太型ADHDと受動型ASDのカップルは、「受動型ASDがちょっと抜けたノビ太の空気が読めない部分などを補って細かい面倒を見る」というような非常に平和でお互いにプラスになるパートナーとしての関係を実現できる。受動型ASDのほかの相手の(かなり厳しい)場合を考えるとまったく驚くべきことだ。
ノビ太は同様な仕方でジャイアン型ADHDや積極奇異型ASDなどの「トゲトゲした」発達障害の面々にも、「トゲを包み込んで周囲に対して無害化する」ようなことが出来る。万能の解毒剤のような必殺の能力を持っているのだ。
ノビ太こそ偉大である。
AC、人格障害関連
ノビ太の超能力
コメント
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先生こんにちは。
パスワードメール、何度かリトライして受け取れました。ハンドル名は都度、短くなりました。
このところ「相手を見下す」ということを考えています。(今、実生活上で私にとって愉快でない状況にあります)
先生がかつてブログされたように、見下すことに対する自己突込みというのが私にも確かにあり、
見下すことによって得られそうな合理的思考に移ることが困難です。
しかし「見下す」ことで、「相手とはつきあわない・交際範囲から外す」が現実的に可能になるなら、
それはそれでいいのかなと思い始めていたところです。
見下し感を表に出さずに話を進めるのは難しいですが、「演技」と割り切り演じる必要があると思っています。
先生のおっしゃる「言外のことに反応しない」は、ジャイアンにとっては非常に難しいことですが、
私の現状から考えると、実利があると思えます。演技の幅として、スキルとして持ちたいものだと思いました。
今年も様々なヒントをありがとうございます。
ブログの継続は、私にとってとてもうれしいことでした。
どうぞよいお年をお迎えください。
昨年末こちらに書いた「愉快でない状況」が結着しました。
自分の様々な感情の湧き上がりに過剰反応をしつつ
相手をねじ伏せ優越感に浸ること がはたして利得と言えるのか
自分を見つめながらの日々だったと思います。
つかれました。。。
同時に、衝動統制について
私はつくづく幼児並みだなあ と痛感することがありました。
行動の時点では本当に「目先のこと」しか見えておらず、
あとから、あれってどうよ!? と自責。
思えば、私の人生 それの くりかえし。
今の私は、不必要な自責は不合理だと思っていますが
この機会・今日のこのコメントを契機に 過去の膨大な「自責リスト」を見直して
今後また生じるであろう衝動に 適切に対処できるよう
ほどほどの責任感をもって臨みたいと思いました。
近ごろ、「自己責任ということ」について考えさせられます。
私は衝動統制について幼児並みという自覚ががあります。それと同時に
責任という言葉を、多数派と比して(この比較に意味があるのかどうか疑問ではありますが)
重く考え、またその範囲も 広範にとらえているのではないかと思い始めました。
重大に考えるからこそ、手出しをしない・できない という側面があった
(つまり丸投げ でしょうか・・・)とも思えます。
子どものころ、ささいなことでも
「ママ、○○していい?」と いちいち確認していた自分 を思い出しました。
私にはもう「○○していいわよ」と言ってくれる人は いません。
この世界中 どこにも。
これからは、あらかじめ 自分が「現実的に責任が負えそうな範囲」を想定し、
「この行動に関して 私の責任は ここまでよ」
と 言語化する習慣 をつけます。(もちろん、ひとりごと にしておきます!)
私は他者との「適度な距離感」がつかめないし、
自分の言動に対する「適度な責任」がよくわからないのだと思います。
この「適度」というのは、多数派が違和感なく思える「程度」のことなんですよね。
人に対しても、物事に対しても 周囲の人に「ちょうどいい」と思われる距離がつかめない。
今まで よく 無事に生きてこられたなと思います・・・
思えば、一生けんめい考えていると「余計なこと考えすぎだよ」と言われ、
思いのままに動けば「行動に移す前に考えなさいよ」と、言われていたわけです。
他者が私の言動をどう受け止めようと、彼らの期待通りに生きる必要はないので、
自分に困難が生じたときは、
1.優位に立つために自分から動きたい という衝動を抑え
2.相手の出方を見極めて
3.自分はどうしたいのか 考えて決める
というようにしたいです。
目先の優劣にこだわる不合理を考え、日々それを手放そうとしています。
「主体的に生きること」とは、実際 難しいことでした。
それでも、日々、歩んでいきます。
このところ、コメント欄を毎日使わさせていただいています。
ありがとうございます。
つまるところ、私の感じるところの「困難」には
「言外のことには反応しない」 が、有効なのだと思いました。
ジャイアンがひとたび反応すれば、脳内には過剰な思いがバブルとなって
あふれかえります。
バブルをつぶすことができるのは 自分自身だけです。
今の段階では、一つ一つ ピンを刺すイメージですが、
慣れてきたら、一挙にバチバチとつぶせそうな気もします。
そのうえで、ひとつ思うことは
正当な怒りがある(まあこれも 自分にとっての正当ということになりますが!)
ということでした。
表現の仕方に 合理的配慮は必要なのかもしれません。
過剰反応のバブルに惑わされず、物事の本質を見極める視点を
育てていきたいと思います。
最近のコメント欄で「察知」「感知」という言葉を目にし、そこから
自己責任について考えたことを書きます。
自己コメの最後尾に続けたかったのですが、できなかったので
この場にコメントします。
思うに、多数派さんは空気を読んで行動している(のですよね?)。
いわば自然に状況を察知し、場の暗黙のルールに沿った言動をとることができている。
したがって 場に属する人たちから責任を問われるような事態が生じにくいし、
お互い、なあなあで済ますことができる。
対してジャイアン(少なくとも私)は、空気を読み違えていることが多く、
暗黙のルールを事実上無視した言動 をとってしまう。
しかも、言動の後に 自分が周囲から浮いているかも ということは感知できるので、
空気読めない=適切な行動がとれない のは自分が悪いんじゃない?
というような感情が芽生える。(誰からも 表立って責められていないのに。)
もっとも最近は「自分らしさの追求」とか「言った者勝ち」といった
風潮を感じますし、それに伴って(?)の「自己責任論」もあったりして、、、
多数派さんも 察知して行動することに疲れてきたのかもしれません。
自分が「感知派」だからというわけではないけれど、
およそ生物として生きていく以上 まず「感じること」 が先なのではないかと思います。
察知するのは後知恵 というか、場に適応するためのスキル じゃないのかな。
そう考えると、今までリアル社会で 内心違和感を覚えながら使っていた
「すみませ~ん」「おせわおかけしました~」
などという言葉も、上手な世渡りのためのアイテム だと思えば、
これからは割り切って使えるような気がします。
自分は何かと「多数派(敬称略・以下同じ)は」とか「ASDは」とか、
なぜ 他のタイプの人と比較して ものを考えてしまうのだろうか?
本来孤高であるはずが、なぜ他者の反応をうかがうような考え方をするのか?
つまるところ、ジャイアンは本来孤高の人ではあるが、
それでも やはり誰かに自分の存在を気付いてほしいのだ と思いました。
(AC的な、ということではなく、素のジャイアンでも)
多数派は人格の輪郭(私のイメージ)が滑らかだから、たがいに寄り添っても
侵害したりされたり、が生じにくい。
多数派が成長の過程で、ごく自然に衝動統制を身につけている(ように見える)ことは、
すごいとしかいいようがない。
ジャイアンは輪郭が凸凹で、ASDは輪郭があいまい(正直いえば私には無いように見える)だから
侵害したりされたり、文字通り大変なことになる。
ジャイアンとASDの共存については、せいいっぱい いろいろ考え実践しましたけれど、
私個人の見解として、共存することは非常に困難だと思っています。
その一因として、ジャイアン(私)は、依存関係と共存・共同・協力関係との
適切な線引きができないので、依存的状態と共存的状態との間を
極端に行き来するような状態となることが挙げられます。
また、周囲からの刺激(自分とは無関係であっても)に過剰に反応しがちなので、
その影響を避けることが難しいからです。
ということは、家族間では特に問題が生じやすいことになりますが、
それじゃ家族関係は終了! はい さようなら~
というわけにもいかず。(まあホントはさよならする方がより正当なのかもしれないが)
で、少し違った角度から考えて「自覚的にぶれ幅大でいく」という生き方
もありなのではないかと思いつつあります。
生き物として生きる限り、およそ理解できないのが他者であるし、
納得できないことは常に起こりうるし、したがって合理主義は何かしっくりこないし、
ジャイアンが欲を捨てると、何やら生気まで失うような気がするし、
ジャイアンであっても じぶんらしさを手放す必要はないのではないか。
↑
熟慮の上での記述であり、自己正当化のために書いているのではありません。
ぶれ幅の大きい自分を むしろ堂々と認めつつ、
・寛容であること
・俯瞰的視点を持ち続けること
・多数派から大きく外れないこと
それでもって、ようやく家族が共生できるかな。
先日、知人から「自分がメンタル面で体調を崩したとき、父親から
『頑張りすぎなくていいよ』と言われ、救われた」という話を聞きました。
そこで感じたことは
私(r.)もパートナーも、こどもにそのような言葉をかけなかったなぁ。
(だから私はダメな親だ。)
↓
「がんばりすぎなくていい」という言葉、多数派は「気遣い・思いやりの言葉」として
受けとめるのだろうな。
↓
でも、私がへこんでいるときに親からそう言われたとしたら
「今まで頑張ってきたことを否定された」「今後の行動を強制された」
と受けとめそうだ。
↓
ドラマのセリフならば、その言葉に支配を感じないかもしれない。
・・・長々と書いてしまいましたが、私自身の独特な認知(言葉を字義通りに受けとめ、
さらに深読みするところ)が実感できたので、こちらに書きたくなりました。
しかしながらよくよく考えると、親からの『頑張りすぎなくてよい』とは、
・あなたは今まで実力以上にがんばった(評定)
・体調を崩すほどにがんばるのは、いかがなものか(批判)
・全くがんばらないのはよくないので、身の丈に合う程度にはがんばれ(命令)
ということなのではないでしょうか。
親が発した言葉を素直に受け止めた子どもは、これからの人生を主体的に考える機会を奪われ、
親の顔色をうかがい、親に支配され続けて、送ることになるような気がしました。
先生の当記事を読み返しつつ、超能力のない私はここに書いたような思いを抱えたうえで、
究極の利己主義にて飄々と生きていけるよう、今日も過ごしていきます。
昨日の自己コメントを読み、ゼロ百思考に苦笑です。
「がんばりすぎなくていい」には、支配面ばかりではなく、本人への配慮とか、
世間の常識に照らして行きすぎであることを「事実」として指摘するとか、
そういった側面もあるのでしょう。
アドバイスを上手に受信して、適切な(体調を維持できる程度の)努力をするよう、
主体的に自分の行動を転換できる人もいるのでしょうね。
自分は器用に行動できそうにないタイプで、かつ適切に行動できる人への羨望があります。
そんな自分を直視して、私は私なりに飄々と我が道を行くスタイルが、
今の自分の落としどころなのだと思います。
ジャイアン型ADHDと診察済みの男(妻子もち)です。
面白いことに、私の妻も、これまでも恋愛対象者も親友も、そして、子供も、
ほぼのび太型ADHDとみています。
若いころに、
なぜ付き合っている対象者は、
私の顔色を見たり、なにか、心配をしたり、手間をかけたりしないのだろう。
と不安になったことがあります。
でも、愛していなかったり、気が無いわけではないようだ。
だから、よくわからない。自分が無いような、積極的でないような。
周りからも、不思議だって思っていたようです。
たぶん、多数派の場合は言語外のコミュニケーションやキャッチボールを重視するのであれば、
彼女たちは不満であったはず。
一方でジャイアンな私にとっては
放置してくれるし、自分自身に深く入ってこないので、面倒でないし、依存をしなくてもよい。
そして、気を使わなくてもよい。(だから私はジャイアンなのだと自己突込み)
ということで、私は、のびたさんに出会えたこととても感謝をしています。
>「受動型ASDがちょっと抜けたノビ太の空気が読めない部分などを補って細かい面倒を見る」というような非常に平和でお互いにプラスになるパートナーとしての関係を実現できる
兄夫婦はこんなふうになってきましたよ。私も内モードがよくわからなくてずっと外モードに見える理由がわかったです。
この記事を見て先生はさすがプロすごいと思いました。ふざけていませんよ。私は薬効のせいか、報酬系のスイッチが入ったみたいで「ジャイアン親にほめられたかったな」と思った。過去形だから今はいいのだけど、とりあえずパートナーにほめてみてと言ってみましたが、んー偉いとしか言えず、特に何もしていないのでよいのだけど、そのように自分が近しい人に対して自分だけのためのことを求める、ということができるようになったということが、自分の中で喜ばしかったです。また自己評価が下がったとき、下がらないようにするためにも、人からの評価を報酬として必要とするのだとわかった。
>自分が近しい人に対して自分だけのためのことを求める、ということ
これは利用以外でということでーす!!
私はパートナーをひとつ利用しています。ジャイアン能力のある人は縄張りがあるようなので、ひとり居ると他のジャイアンよけになることを発見したので、そこを利用しています。
リアルでは私の周りにのび太さんはいないので、はっきりわからないのですが、「のび太さん」と「のび太さん」のコンビって、何だか飄々として、ゆるキャラ同士みたいで、傍で見ていても、ほのぼのするのかもなあ・・・なんて想像しています。
兄は書かないので代わりに書きますが、兄の場合は、兄も変わった(のほほん→少し厳しさを出した)ので、兄と義姉共々セットで変わったなと思います。非言語に反応しないで(できないで)言語で反応し続ける姿は他から見ると断固とした態度にも見えるのではないかと想像・・・
この記事を見て私はゼロの概念を思い出す。その昔インドで発見されたというゼロ・・・。ググってみてください、似てると思いませんか。文章だけを見て私はそう思う。
合理型パートナーによると、パートナーは職人なのだが様々なモノの中にゼロを探すという。それが一番美しいんだって。詩的抽象的な表現ですが、私もそれはわかる。私は例えば仕上げの作業で一番美しいところを探す。そこで止める。それがゼロのところだとパートナーは言っているのだとわかる。例えばバイクに乗っていれば、エンジンが一番滑らかに回る、車体に振動が無くなる回転数がゼロのところということになる。園芸では植物の生育条件がつりあっているところがゼロということになる。パートナーは、ゼロはなかなかつかまらないという。ゼロのところで止めておくことが難しいのである。
他に、私は運動はできないけど、バランスとるのだけ得意だったりしたり。客観と主観の一致を求めてる。とかとか。私もゼロを求めている、ということが言えるかと。パートナーは意識的に、私は無意識にやっているとこは違う。それは個体認識に差が有るからかも。
パートナーのゼロの概念は一般的ではないかもですね。そして私もですが概念だけ勝手につなげていくとそうなるということですね。どんどんやっちゃだめだよ、とプロセスを大切にしているASDぽい人にたまに叱られます。
そうそうゼロの概念は実用に向かない場合があることは注意です。
waisの数唱も+-ゼロ概念でした。
私も兄も、自分が変化することは厭わないです。
ああ、なぜ悪意がわからないのかそれを気に出来ないのかわかった、私は悪意は悲しいばかりで非建設的のほかはなんの意味も見出せなかった、パートナーは人の上に立つ場合は、他の人の悪意は重要だという、だからだ、あああああ
でも悪意を気にしている人は、それだけ個体認識ができるということだと思うので、自信もっていいと思います。実際の非言語情報を受信できるのか、何かの直感があるのか、経験したことからか、とにかく何かしらあるのだしょう。
私はやる気が無いてことですね
ああ皆はそんなにもやる気でいっぱいなんだね、何かと自分を結びつけて方向性を見出せるんだね。なるへそ・・・
何らかの方向性、それが怒りでも不条理でも。現実の中でそれを見つけていくこと。
私の中の一番強い方向性は、自分が好きなもの。それは、直接ヒトではない。先生は、意外と不条理が好きなのかなと思ったり。不条理は不思議ですもんね。
返信機能は四回までですか。短いコードはバグを減らせる。つまり自己突っ込みを減らせる。自分を効率化して組織には余裕をもたせる。以上。
そうかジャイアンACの人の仕組みがわかってきたような・・・
のび太様の不器用さに、何らかの直感?による過剰なやる気がプラスされてから回りのような感じかな・・・
ASDの人のひにくがわからないというのとは、違うと思いますので注意。
あくまでも私は 人間としては特殊な認知をもっている だけですからね。正誤はありませんよ。
私がこの記事を理解できるのは、実際の生活から理解できるからです。。実験は済みということです。。。会社を一旦辞めた後々、人づての私に対する評価も聞いた。その話から浮かぶ人は、なんとかなったっぽい、大丈夫ぽいと思えた。相殺できたかなという、、、
で、私はここで途切れてしまう。そこから先の展開も自分で求めていくことがおそらく本来のコミュニケーションなのだろうと思う。生きてる人間に対してはわからないまま進めることは抵抗があるが、ここは先生にありがとうと返すところであると思う。先生この記事をありがとう。
内モードの修正について、私と兄に共通するのは、「こうしてみたらどうや」ということを相手にずーっとずーっづーっと言い続けられる、ということがあったので、それでではないかと。これは飽きてもできるような。なぜかというとたぶん普段自分に言っていることだからだと思う。
私のほうのパートナーの場合は風呂に入るのが面倒で嫌で、本人はお湯が可哀想だから入ることにしようかと悩み、でもやっぱり入ると決めるしかないよねということで風呂嫌悪に終止符が打たれました。
そういえば兄は一度完全完璧にに離婚しようとしたんですけど、それで義姉は心療内科を受診したり別居で一人暮らししたりして自らを変える努力をしたんです。そうそう。義姉の実家両親も戻ってこさせないようにしたし兄も自らののほほん性を改善しようとした。頑張ったのは一人づつだけどそれらがかみあった環境ができたのが大きかったのかも。んー。ここで話はシステムに再帰。
ん?この記事を賞賛というふうに理解するには、やる気能力が必要だな・・・。そこはいまいちあやふや。でも偉大だって書いてあるから、褒めていると思った。
やる気のある人はこの記事は賞賛ではないのかもしれなかった。ですね。
しかしこの記事で私は先生がマタタビと呼んだものが、なんとなくわかったかも。満たされない中心志向のある人は、常に慰めを必要とする。でも言葉で慰めるということは中心志向のゆえに傷つく。非言語での慰めフォローは、受け入れやすいのかもしれない。
私は非言語フォローって、なんか物理的なことを想像しちゃうんでよくわからなかった。野球でいえばフライに打ち取るとか。この場合外野手が球をキャッチすることが私にとっての非言語フォローですわ。実は物理的フォローだったですね。そしてルールによる裏打ちも、非言語ではないし。非言語って答えも根拠も無いものだから、んー。私は当てにはできないですね。
>非言語って答えも根拠も無いものだから、んー。私は当てにはできないですね。
対人間の場合の非言語を使った表現のこと
でもそれがわかる人は、答えにも根拠にもなるということでせう。
わかってはいないが独自解釈する人は、勝手に答えや根拠にできるのだろう。そこにはそう思いたいという願望が意識的か無意識的かにあるのであろう。というふうに理解。
でもこのブログのサブタイトルには反するようだけれど、今までの自分の来し方がすごく重要だったということも思うんです。そこの、なんだ、価値みたいなものが。何のスキルも無く時間も無いと、本質的なことが発達するのかも。外モードでなく思想において。英語の勉強の前にラテン語を勉強するようなこと。(そんで英語は勉強しない)私はまたもや相殺できた気になって、あああ、ここで止めるべきとどうしても思い。ます。
あっ死ぬわけじゃないですよ。主観的時間が進んだということです。書くこと思いついたんで、だらだらと、続いていきます。
自己突っ込みや他者突っ込みは、「お前だって論法」の一種だと思います。
自分を戒める言葉(自己突っ込み)として使うのは自由だけど、それは一貫性を求める美学に近いものです。
相手に対して使った(他者突っ込み)時点で、議論ではなく喧嘩になってしまう可能性が高いです。
建設的な話をしようと思えば、他者突っ込みは明らかに禁じ手なんですが、他者突っ込みばかりしている人を見ると我慢できなくなるのも、しょうがないのかなと思います。
これを我慢とすら感じない鈍さが、偉大さなんでしょうね。
私自身は「トゲトゲしたグループ」だと思うんですが、時々トゲトゲしそこねます。議論にばかり気が行ってしまうからなのか、頭がいっぱいだからなのか。
前の職場であった出来事ですが、おそらく積極奇異型の院長と私が衝突したことがありました。
過日の会計(例の、仕事ができない同僚の)のことで。
例の同僚と患者さんから話を聞き、文献を当たって、患者さんの言うことに理があると判断し返金したのですが、後でそれを知った院長は「患者さんの言いなりになるなんて情けない」「患者さんによって態度を変えるのか」「あの患者さんはいつもお金に細かくて前にもあったんだ」「まともに相手にしなくていい」と怒鳴り始め、「論点が違います」と説明したものの、結局議論は平行線のままでした。(診療報酬点数表の分厚い本を見せて説明しても目が泳いでいて『よくわかりませんね』とろくに読んでもらえない)
後日その話を聞いたのび太さんは「『あの人の言うことは真に受けなくていい』なんて、Fさんより院長のほうが患者さんによって態度を変えている」。
「そう言われれば確かにそうだ。のび太さんがいてくれたらよかったー」と言うと、「いやいや、その場でそれは言えない」と笑ってました。
※もしこの言葉を聞いたら、あの院長は自分を振り返りそうな気がします。とても生真面目で、気づいた問題から目を逸らせないタイプに見えたから。
やんばる先生、お久しぶりです!(旧ブログの)道産娘改めnobigappaです。
最近「現実的必要の再インストール」が進むに連れ、自分自身に変化が現れたので報告したくなりました(^-^)
まず、先延ばしの原因であった「夜の仕事を辞め、昼夜逆転生活から日中の生活スタイルに戻す」ことを実行し、今も継続中なのですが、一度「現実的必要で行動する」ようになると、身の回りのことに自然と目が向くようになり、今では(自分から)動かないと落ち着かなくなりました。
また、(おそらく依存によるストレスで)たまに出ていた「戸締まりの確認・(かなり奇妙な)部屋の家具の配置の確認」等も、「現実的にそこまで確認する必要無いから」という理由で止められるようになりました。
何より驚いたのは「人からの要請→現実的必要」の再インストールが進むに連れ、「人の気持ちが分からなくても平気で居られるようになった」ことです。つまり、この記事にあるように「(相手の非言語的アピールに対し)言葉の上でしか言い返せなくなった」のです。
今までは、相手の意図や思惑といったものを(分からないながらも)深読みして考えたり、情緒的に配慮することがあったのですが、最近では、そういうことを考えること自体非常に面倒臭くなりました(なので以前のような深読みの長文コメントも書くのが面倒になりました)。あと、相手の情緒的な訴えや揺さぶりも「片耳から片耳へすり抜け、心に響かなくなった」感じで、周囲の受動型ASDの人達に対しても、かなり淡白に言い返すようになりました。
良い傾向ですね(^-^)v
よく他の方のコメントで「依存は良いものだ」「自分を変える必要等無く、先延ばしを続ければ良い」「状況察知能力はあった方が良い」「発達障害の特性等考える必要無い」といったものがありましたが、そういったコメントを見て「先生の記事内容と異なる」ことは認識できても「別に私が指摘することじゃ無いし、私はコメント者の一人として『自身を振り返ったコメント』をし続けよう」と、自然に思えるようになりました。
改めて「私は他者との情緒的な交流を必要としないADHDなのだ」と、現実的必要の再インストールを通じて実感できたこと、とても嬉しく思います。先生には本当に感謝しております
以前のように楽はできなくなったので、確かに大変と言えば大変だけど、動いている時はかなり調子が良いです。
この調子で自身を振り返り、時には反省→軌道修正で行動を改め、「止まること無く走り続ける」ことを持続していこうと思いますp(^-^)q
では、また記事が更新された際に伺います♪
議論のルールは確認しましたょ。でも、私は議論できないかも。聞く係。
うん?全部外モードと思うのは、つながってるからでないですか。人の存在はつながってるでしょ。死ぬまでは。どれもこれもその人でしょ。生きてるうちは。だからです。そうそう。外&内というよりは、私がモード無しだからわからない、ということがある。と少し前に思ったけど、今になって書いておきます。しかし書くまでは覚えているんですが、書くとそのあと忘れる可能性がある。
忘れるのは、終了したことである。
終了していないことへの方向性はある。
ついにジャイアン能力有り合理型の友人と、論拠を示しあい、理解しあった感を得ました。突っ込みは、論拠を示せという意味合いで有効と私は思う。避けるとき利用 の終了の予感もしました。なんとかなりそうな。←てきとう)
私は人との関係性が薄いし、わからないし、直感的なものは無いし、だけど、関係性を持ちにくい特性を有り難がられるのはどうしてもいやだ。(だから、働きに触れたこの記事に感謝)私は今まで自分でその特性が悲しかったから、幸運と言えるのかもしれないが、でもなぜ有り難がられるかっていうと、そういう人たちは自閉的でいたいということでしょ。最初にそう言えばいいのに。それが一番大事なんだって。それはのび太は関係無いもの。