私が「ASと想像力」で行ってきた作業を振り返ってみると、ASの人にとっては「当たり前」の認知の形式や基本前提のような部分について細かく「言葉にして分析する」という作業だった。
これが「理解」につながる意外に近道であることが分かったので、ここで「理解のための努力」の指針を書いてみようと思う。
誰でも自分自身にとっては「当たり前」であるものの見方の基本的な前提や形式をわざわざ言葉にすることは考え付きにくい。しかしASとADHDの相互理解のためにはこのレベルのお互いの説明と理解が非常に重要になってくる。
そういうわけで、相互理解への道は実は「自分自身が当たり前と思って言葉にして来なかった基本的なことをあらためて言葉にすること」から始まる。
ASの人については、前回までにかなり突っ込んで分析してきた。ASの人は前回までに確認した「ASの人には当たり前だがADHDには適応できない考え方」を意識して、「これは当たり前としてはいけない」と考える努力をしてほしい。
ADHDについては、機会を見て同じような分析を試みようとは思うが、それぞれ個人的にも「当たり前と思っていることを言葉にして説明する」作業を実際のコミュニケーションの中で試みてみよう。
例えば、「ADHDには現実世界は細部が省略された略図の集まりのような形で認識されている」というようなことだ。
「略図」なので、「手早く全体像をつかむ」ことには向いているが、細部はまだはっきりしていないので、非常に大雑把でASから見れば「雑」にみえるような認知のプロセスとなっている。
かたや「略図」、かたや「細密画」なので、イメージを伝えるのが困難なのは当たり前だ。まずは「相手に世界がどう見えているか」を想像し、説明する作業が「理解のための努力」だ。
私はMIXなので、両方の部分について考えましたが、ピュアなAD系からすれば、MIXな私はやはりどちらかと言えば、細密画系なんでしょうねぇ…と実感。
ピュアなAD系の友人は何人かはやはりいるわけですが、機動力についてはかなり共通性を感じますが、思考については、ピュアなAD系の人は大雑把で主語が抜けたりして話についていけなかったり、略されている部分がわからなかったりよくあります、確かに。
互いの間にある『言わずもがな』な前提について、語るのは野暮かもしれませんが、ここを面倒がらずに、ASは被害妄想を持たず、ADは責めずに客観的に話し合うことが相互理解につながるような気がしてきました。
私も相互理解について先日から考え続けていたので勉強になりました。
ASの不安感は意外と些細な一言、大丈夫だよ…で軽減されることも多いです。相手が自分を見ていてくれてる実感があれば平気な時もあるし。
受け止められ感が欲しいんです。これはACもあるからかな?
とにかく、『わかって当たり前だろ』と互いに思わない意識を大事にしたいです。
『相互理解』。いい言葉ですね。
これまでで、ASもADHDも『それぞれ一長一短がある』ことがわかりました。そろそろお互いの批判はやめて、理解のために役立つコミュニケーションがしたいと(個人的に)思いました。
ASにも程度の違いあります。つまり、細部にこだわる程度の違いのことです。
以前に、ある医療関係者からこれまでのことをきかせてほしいと言われたので、よりわかりやすく具体的に話したつもりなのですが、「話が長いので、もっと解りやすく話してください」と言われたことを思い出しました。
自分では、相手が知りたいことに誠心誠意、伝えているつもりなのに、相手は大雑把は経緯を知りたかっただけのようでした。その時は、心の中で「具体的な場面場面を言葉にして表さないと過去の経緯なんて伝えられないのに・・」と自分に求められている説明の程度がつかめなくてモヤモヤしたのを、覚えています。
それから、ASの知り合いと一緒にいたとき、私は彼が第三者に対して「わかってもらうまで説明する」姿勢の強さに驚いてしまったこともあります。私にすれば、「何もそこまで事細かに説明しなくてもいいのに・・・」と。その姿は、とても痛々しく、私がストップをかけないではいられなかったほどでした。
彼と話しているうちに、私より強烈だけど似たところがたくさんあるな~と思いました。
『理解とはどういうことを意味するのか?』
何を「はっきり言うか」?のスレッドを何度か読んでいるうちに、『理解』という意味合いについて考えるようになりました。
『理解』という言葉が意味することもやはり曖昧で、個人個人で受け止め方が違いますよね?
私は『理解』=『お互い悪いところを改める』ではないと考えるんです。『双方の脳の働きを理解した上で妥協点を見つける』ことだと思いますが、皆さんこれについて、どう考えているのでしょうか?まずこのあたりを知りたいと思いました。
YURINさんのこの考え方に賛成です。
(ごめんなさいパソコンのキーボードの調子が悪くて小文字のアルファベットが出てきません。)
私も、『理解』とは『お互いの悪いところを改める』のではなくて、『お互いの個性を認め、妥協点を見つける』ことだと思います。
『何を「はっきり言う」か』でYANBARU先生の
『基本は「脳の働き方の根本的な違いをお互いの理解することであり・・・」』
は、非常に納得できたと思います。
昨日のYURINさんからの問いかけに、何度も返事を打っては消し、打っては消し・・・とうとう投稿できませんでした。それは、あなたから指摘されたことが私にはあまりにも意外なことだったので、言葉選びに慎重にならざるを得なかったからです。
これほど、脳の働きが根本的に違うのだということも理解しました。
また私のコメントに分からないことがあれば、質問してください。
HIKARIさんへ
お返事ありがとうございました。
私がASの人に感じることは『自分がわからないことを相手に聞く、尋ねて確認してみる、ということをしない』ということです。少し前のスレッドに『相手の意図と相談』のところでもかかれていますが、『相手がどういう意図でこういうことを書いているのか』というのは、相手に直接聞いてみないとなかなかわからない、ということです。
実は、一般的にはこれはコミュニケーションの基本で、みんなが了解していることです。しかし多数派はよほどのことがない限り相手の意図をあからさまに言葉では確認はしませんけどね。
しかし、私たち発達障害者は、やはりきちんと言葉で確認しないといけないのです。
ところで、『私から指摘された意外なこと』というのは具体的にどういうところでしょうか?一つでもかまわないので、あげてくださるとありがたいです。
コメントありがとうございました。
へんちゃん様
ADHDとしては根拠も無く「大丈夫」と言うことには逆に不安があります。「ずっと見ている必要がある」というだけでかなりの負担になりますので、ここは「相手に不安をなくしてもらうことははじめから求めない」くらいが良いのかもしれません。
yurin様
「批判」と「はっきり言う」ことの違いは非常に難しく、たとえ批判になっても「はっきり言う」ほうがお互いのためであると私は思います。ただ感情をぶつけることはマイナスなので、そこはコントロールしてください。
HIKARI様
私はその相手による違いを、「愛着の有無」と想像しています。痛々しくなるのは、完全な理解を追い求めているからでしょう。生きている人間には完全な理解は不可能で、ここが重要ですね。
yurin様
「理解」の中身についても一度詳しく検討しましょう。
HIKARI様
あなたの理解のための「努力」は立派であると私は思います。
コメントありがとうございました。
たった今、ジャイアン息子とやり取りした中であまりのおおざっぱさにびっくりした考え方がありました。息子が家族が集まるダイニングのパソコンでオンラインゲームをしていました。それを後ろからぼんやり見ていて、「へぇー、○○大先生ってハンドルの子がいるんだぁ」と一言言ったら、ジャイアン息子が鬼の首でも取ったかのように「これはプライバシーだ、俺のゲームを見るんじゃねぇ。お返しに(ママの)メールを見んぞ!」と強気で言い出しました。「はぁ?どういう事?」と突っ込んでゆくと、、、。
以前、私がメールのやり取りしているのをずーっと覗き込んでは馬鹿にしたり揚げ足をとったりしていたジャイアン息子。
迷惑そうに追い払われることが続いても気づきません。なので「他人のメールを勝手に読んではいけない。プライバシーの侵害だよ」と注意しました。
それを息子は「(他人の使っている)画面を見るのはプライバシーの侵害でいけないこと」と翻訳しており、今回の発言にいたったようです。
たしかにある意味では人が使っている画面を見るのはプライバシーの侵害なのですが、個室のならともかく、家族が画面を眺められる場所にあるPCを使っているのだから、それは違うだろう。とパブリックとプライベートの違いを説明しました、、、。また例外はあるが、基本、サイトはパブリックで、メールはプライベートだとも言いました、、、。
どんだけ大雑把なんだ、と思いました。