このブログのコーチングの目指すところは、「自分の脳の働き方の特徴について正確に理解する」ということだ。しかしそれが進むにつれて「自己評価が下がった」というASの人が複数居られ、どうしたものかと考えている。
実は私自身も、例えば思春期の人に最初にASを告知する時には、「あなたは少数派であるが、少数派であるといって、全面的に合わせる必要は無い」と説明している。ASのコーチングの基本は、まずASであることを「否認しない」「受容する」ということで、その段階のコーチングでは「ASらしく生きて構わない」と実際助言している。
そういう意味では、ここで進めているコーチングは、「上級編」であり、少なくともASであることを否認しなくなった段階以降に、本人が「ASでありながら世間と共存する道を探りたい」という前向きの努力をする場合にのみ有効であると思う。
さてそういう上級者のASに対しての助言として、「目標の下方修正」というテーマは非常に重要になってくる。ASについての事実を知って自己評価が下がるのは、「目標が相変わらず非現実的に高い完璧なレベルに設定されているから」である。
自分自身のことであっても、「当たり前に完璧に」という目標を立て続けて、ここでのコーチングの結果を見てASについて冷静に理解していくと、「その目標に比べると自分が駄目で」というのではかえって中途半端になる。
ASについて理解したら、必然的に「目標を完璧なレベルに置くこと自体が非現実的」という理解から、「有限で現実的な目標を立てる」ということまで考えて行きたい。
その方向でどのような困難さがあるか、さらなるコーチングのためにASの人に教えてほしいと思う。
『目標が相変わらず非現実的に高い完璧なレベルに設定される』のは、おそらく「子供時代に、他者によって下げられた自己評価に対する自己防衛の延長線上」にあるからではないかと思います。
目標設定が高ければ高い人ほど、「自分を否定された」という気持ちの強い人ではないかと思います。
今でこそ「有限で現実的な目標設定」ができるようになりましたが、やはり私も「高い目標設定を自分に科し、それに向かう努力は惜しまない、結果を出せば、認めてもらえる」
「高い目標をクリアできれば『普通以上』になれるかもしれない」という幻想を抱いていたと思います。
もしかすると、『普通以上』にならなくては立っていられないほどプライドが高かったのかもしれません。
何故、「有限で現実的な目標」を立てられるようになったかは、大きな『壁』にぶつかったことがきっかけです。
「非現実的に高い完璧なレベルに設定されていた目標」を棄てざるを得ない状況に追い込まれて、実際棄てきるまで時間がかかりました。
でも、それによって自分が救われたような気持ちがします。
正直、生き易くなったと言っても過言ではないです。
ただ単にASの方に「高すぎる目標を下げなさい」と言ってもなかなか自分からは下げれないと経験上思います。
ASの方がこの先、本当の意味で大きな『壁』にぶつかったとき、抵抗しながらも「目標設定が強引に下げられる」し、「下げられた目標設定」によって意外にも気楽になれることを知るのではないかと思います。
はじめまして、38歳の女性、AS当事者です。
2年前の診断から、自分の生き方を模索しています。
そして最近、自分に課すハードルが高すぎるのも生き辛さの原因の一つかな?と考えておりました。
「目標の下方修正」が必要だと気付きながら、どの程度で「良し」としたらいいのかが、わかりません。
手探りですが、自分の楽な生き方を見つけていきたいです。
はじめまして。AS当事者かどうかはわかりませんが、その特徴を多く持つものです。
100%の目標を捨てるのは難しいです。目標を捨てることは自分の生きがいを捨てることに等しいから。
そこで、100%の目標以前に、その到達の過程として、20%、40%、60%、と段階的に具体的な目標を設定して、そこを通らねば、100%へは近づけない、という到達可能な目標を関所のように置いていくと、気分が楽になります。
とりあえず20%へ、次は40%へ、常に前進している感じで、自己評価を保っていけます。
自分はこんな感じでなんとか割り切ってますが、いかがでしょうか。
HIKARIさんへ
文章から概約すると『ASの人は、どうしても目標設定を下げないといけないような現実に直面しないと、自分からは下げられない』というふうに読み取れます。
また『目標設定を下げることで生きやすくなった』とも書かれています。
これらのことが二つとも事実であるのなら、『目標設定はある程度下げたほうが生きやすい』と(ADHDである)私は考えるのです。また(ADHDである)私的には『自分はASであると受容・あるいは認めることができるのなら、目標設定を下げるのは社会で生きやすくなるためにある程度必要なこと』と、ADHD的に発想します。
壁にぶつからなくても、自分から『目標設定を下げよう』という意思が持てることがある、としたら、それはどのような時(場合)でしょうか?
結局私は
〉必然的に「目標を完璧なレベルに置くこと自体が非現実的」という理解から「有限で現実的な目標を立てる」という下方修正がどのような困難さがあるのか、答えてなかったような気がしました。
ここだけに焦点をあてて「私の場合」で考えれば、本当に恥ずかしい話ですが、分かりました。
単純に言えば「『天才』に憧れた」ように思います。
「平凡」ではなく「非凡」。
振り返れば「私も『天才』になりたい」と超非現実的な幻想を本気で思っていた自分がいたことを否めません。こういう考え方だから『下方修正』自体、考えもしないことだったように思います。
もしも下方修正を迫られたら「天才になる夢」を棄てることで、「凡人」として「凡人」の中で埋もれて生きていくことを強いられる怖さがあったように思います。「凡人」では『自分の存在価値』を証明できないという怖さとでも言いましょうか。
今は、等身大の自分を知ることで『天才志願』から足を洗い、『天才と呼ばれた偉人たち』の一ファンに収まっているところです。
私の場合は『身の程知らず』の極みでした。
YANNBARU先生、大学院の申し込みは終わりました。これで道が開かれるかな…。仕事の情報をネットで探してみましたが、今の仕事よりいい仕事はないですね。まだ自己評価を下げきれてないのかな。。。
たとえそれが非現実的であれ、高いレベルに目標を設定しながら、そこに到達するために50を60に、10を20に、1を2にする努力を続ける。それなら問題ない筈です。
仕事に付いてはそうであるように努力しています。もちろん、50を60にする努力を続ける事は私には難しくかなり苦労していますが、それでも目標を高いレベルに置き続けたいと思います。自己評価は下がり気味ではありますが、耐えて踏ん張って努力すればそれでも良いはず。HIKARIさんの言うところの天才に憧れる凡人です。自分にだけ出来ることがあると未だに(もう良い歳ですが)本気で信じています。
人間関係に関しては自己評価がかなり下がってしまっていますが、50を60にする努力の重要性はここで勉強しました。100%の相互理解は無理にしても、少しでもそれに近づきたい。問題は相互理解への方法論(100%を求める事が相互理解を阻むという問題)であって、それに気を付ければ100%に近づく事を目標にしても良いはず。
私は目標を下げる事を良しとしません。どんなに辛い思いをしても、それに自分が耐えられるならば、高い目標を持ち続けても良い筈です。そうした生き方が少数派であるASとしての私のASらしい生き方だと思います。
yurinさんへ
>壁にぶつからなくても、自分から『目標設定を下げよう』という意思が持てることがある、としたら、それはどんな時(場合)でしょうか?
私には大変難しい問いです。
私は大きな壁(それこそYANBAR先生の言うところの『崖っぷち』)に立たされたことがきっかけだったので、とてもこの答えは難しいですね・・。
愛する者を失いかけた『崖っぷち』なので、変わらざるを得ない状況だったのです。
それほど私にとっては、切羽詰った状況でした。
だから、この答えは私には想像がつきません。
marioさんも『天才に憧れた』という事実を知って、「私だけじゃなかった」という安堵感があります。
>目標を下げることを良しとしません。どんなに辛い思いをしても、それに自分が耐えられるならば、高い目標を持ち続けても良い筈です。
とても潔い感じがします。
私も、他者に迷惑をかけないのならば、高い目標を持つのは問題ないと私は思います。
やんばる先生。wakabaです。こんばんは。
先生に指摘されて、自分がASで、あるだろう・・という自覚を持ってきましたが・・・ここで繰り広げられている議論はさっぱりわかりません。
まるで、先生は、見えない大きな怪物と戦っているようです・・・・。
ASの人に、言葉で文章でコーチングって無理ではないですかにゃ・・・・・。
反撃されるだろうし(どこが?なにが?50%で???と議論は続く)
もともと、ASの人は、個人主義ではないでしょうかねぇ。
普通(多数派)と違うとは感じられても、合わせる!という気は、本心では「ない」と思います。
どうして?何で??と、細かく求められるだけのような・・・・。そして、細かく粉砕されて、元々のコーチングの目標は霧散してしまう。
ADHDのやんばる先生が、ASの人を苦手とするのは・・そういう理由もあるからじゃないでしょうか?
ASの人は、コーチングを喜ばないと思います。
多数派の人は喜びますけど。
ASだと自分を認めたくない人へ援助するには、
やはり、ASらしさを肯定していくほうがいいと思います。
結果的には、それで、多数派との違いにも気付けて、行動の修正も図れると思いますが・・・。
HIKARIさんの『天才に憧れる』という理想は、前のコメントと合わせて考えると『自分を認めてほしいけれど、現実はそうでなかったという、ギャップの中で生まれた理想』のように感じました。
ADHDの場合、『診断されて救われる』のは、『今までの困難は全てADHDであったからで、自分が悪いとかダメというからではない』と思えるからだと私は思うのですが、ASの人はそれとは若干異なるようですね。
つまり成長過程において『天才(完璧)でなくても認めてもらえる』という環境が必要だった、ということのように私は感じます。ただこれには、『早期の診断』がないと難しいことで、私達の世代にはいたしかたないことであることは十分理解しています。
marioさんの『高い目標を常に目指す』のが、自分の生き方の美学であるならそれもかまわないのかな、と私は思います。
ただ、コーチングにおいては『高い目標を設定してそれに自分が届かないとわかっても、『それでダメということではない』し、『今は100に向かう途中過程』だと考えることで、自己評価を下げずに済むように感じました。
自分の生き方の美学、まさにそうですね。
私は自分の生き方の美学に従って生きて行きます。
自己評価は気持ちの上で多少下がったとしても、客観視することで持ち直せると思います。
最初の方のコメントに戻りますが、私は幼少時にも自己評価の問題は持っていなかったと思います。自分の人間関係に疑問を感じたのは高校生の頃が最初ですから。その意味でHIKARIさんの最初の予測は私については合っていません。
そして完璧を求めるのは自己評価と関係ないような気がします。
yurinさんへ
>成長過程において『天才(完璧)でなくても認めてもらえる』という環境が必要だった、ということに私は感じます。
それは大いにあると思います。
「認めてもらえた経験」は自信回復になりますし、その後の生き方が『前向き』になるのではないかと私は考えます。
でも、marioさんのコメントを読んで、少し私も迷いが生じました。
私は孤独を好み、好む割に寂しかった(意味不明な)幼児期を過ごしているので、『完璧を求める』原因を幼児期の心模様と『関連付け』しているだけかもしれない・・と思う節も出てきたり・・。
いずれにしても、「認めてもらえる環境」は大事だと私は思います。