ASと想像力の問題で、まず「想像力」とは「未知」の「異文化」を理解しようと努力する力、可能性であると考えよう。
ASの人が(ADHDなどの)未知の異文化に出会ったとき、まず困難であるのは、「分からないことに耐える」ことだと私は想像する。
ASの人は物事を密接に「関連付けて」理解する特徴を持っている。ある新たな情報が入ってきたとして、それが「これまでの理解の枠組みと無関係にただ目の前にある」という状態は非常にストレスになる様子で、「分かる」=「これまでなじんできた考え方の枠組みの一部として取り込む」ことを常に考えているように見える。
これは自閉症的な脳の働き自体から来ているのかも知れないが、「あいまい」であることが不安の原因になり、とにかく具体的に見えるようにはっきりさせておきたいという衝動が働くのだろう。
さて未来と他者は、どう考えても「既知のことの一部として取り込む」ことは不可能だ。未来は予測できず、また他者は完全に知ることは出来ない。ASの人も理論的に、「頭では」このことを理解できるはずだ。
こういう場合多数派やADHDはどうしているかというと、「未定」=「当面は未定だが近い将来に新たな情報を追加して理解する予定」とか、「未定」=「今は未定だが相手の意向を聞いてみながらお互いに妥協していく予定」といった考え方をしていると思う。
「まず『未定』の引き出しを作る」というところが出発点であるかもしれない。頭の中に未定の引き出しを作り、あいまいな情報や未来や他者に関係することはとりあえずそこに入れておいて適宜取り出したり戻したりする。
こんな表現でASの人は理解できるだろうか? またどのような困難があるだろうか?
出来れば当事者の方、教えて下さい。
私の場合、変化することに対する恐怖を和らげるために、イメージが使えるのではないかと始めた方法があります。
自分を受け皿とイメージし、何か大きなものがやってくるのを受け止めるというイメージで瞑想してみました。まだ、始めたばかりなので、結果は分かりませんが、私には合っているように思います。これは、YANBARUさんのおっしゃる、「未定の引き出しを作る」という課題に似ているので、コメントしました。
本来の資質に逆らうことなので、継続的な根気強い働きかけが必要と思いますが。
私も、他の方々の、この件に関するご意見もぜひお聞きしたいです。
恐らく私の家族の殆どがASである(私の判断では6人中4人)と思うので、私の接し方や言葉かけが適切であるかどうか気になるので(どうも自分流を押し付けているような気がしてきたので)、AS当事者の意見やお話が聞きたいです。しばらく自分のコメントは控えて聞くほうに専念しようと思います。宜しくお願いします。
どちらかというと、ASと想像力①に対して私見なのですが、今回のテーマにも共通する
と思いますので、以後こちらにコメントしたいと思います。
「ASと想像力①②」や「支配を断念する決意」はAS当事者の他者世界認知への
考察であり、私自身の認知のゆがみの根源を指摘していただける文章なので
しっかりと理解しながら、少しずつ、ゆっくりと正直に書き込んでみます。
>未知であり、どんな反応が来るか予想できないような状況での
>「分からないことに耐えられるか?」や
>「決め付けないでいろいろな可能性に対応できる柔軟性をどこまで持ちうるか?」
>などが実際上の「想像力」の前提になってくるだろう。
そのとおりだと思います。しかし私に限って言えば、上記の内容はものすごい努力や
忍耐を必要とすることです。
私は過剰な努力を自らに強いて、二次障害が悪化することが怖いです。
(事実に対して、どこがすれ違っているか=いびつな認知と、いびつではない認知の
境界線がよく分からない)
正直に言うと、今まで思いもしなかった事実があり、それらはものすごく高いハードル
のようであり、さてどうしたものかと現状とのあまりの落差に困惑してしまいますが
「一つ一つできることを見つけてつぶれない程度にベストを尽くしていきましょう。」
を思い出しながら、やってみるつもりです。
まず、「断定しない」という事を注意してみようと思います。
「ASと想像力②」私見・1です。
>まず困難であるのは、「分からないことに耐える」ことだと私は想像する。
そのとおりだと思います。分からない・知る事ができない=恐怖・不安・いらだちです。
>ASの人は物事を密接に「関連付けて」理解する特徴を持っている。
知る事ができない=不安(非常にストレス)の方程式を崩すために、何にでも
独自の関連性をもたせて、根拠の無い安定を求めようとします。
(根拠の無い安定である事は最近学びました。事実は未知のものを恐れるあまりに
既知の何かにしがみついているだけです。)
上記のように「未知のもの」に対してはストレスを感じるので、当然、「未知のもの」を
避ける意味で「既知のもの」に関連つけてしまうため、本来体験すべき未知を体験
しないも同然になり、つねに既知の範囲で物事を断定するのかなと最近感じます。
(発達過程における未知体験の不獲得・未整理)
もし発達過程における未知体験の不獲得であるとしたら、YANBARU先生はどのような
感想をお持ちになるでしょうか?
「ASと想像力②」私見・2です。
>未来は予測できず、また他者は完全に知ることは出来ない。
>ASの人も理論的に、「頭では」このことを理解できるはずだ。
はい、頭では理解できますが、現実的にはその部分の経験の記憶がありません。
断定がはずれた時、気持ちの切り替えもうまくいきませんし、そもそも、その場で
気持ちを切り替えるという発想さえうかびません。
実際にはパニック状態に近くなります。混乱します。
今は理解者に「この場合はこうです。」「あの場合はこうです。」と事あるごとに
子供のように、手取り足取り教えてもらって、未経験な部分を学んでいます。
そのような事を繰り返していると「出来事に対しては、分かる事ではなく経験だけが必要」
なのかなと思ったりします。
(個人的理解(分かる事)をぬかして経験だけの認知だと、断定がとまる感じがします。)
>多数派やADHDはどうしているかというと「未定」=「当面は未定だが近い将来に
>新たな情報を追加して理解する予定」とか「未定」=「今は未定だが相手の意向を
>聞いてみながらお互いに妥協していく予定」といった考え方をしていると思う。
私の場合は、このような柔軟な発想はまるで浮かびません。
やはり見通しがたたず、不確定要素の多い状況は苦手です。
自身、なぜか人としての重要な何かが欠落しているとしか思えません。
本来的に持っている資質の正反対を求めなければいけないのですが
この状態からでも、認知の修正は可能なのでしょうか?
人生の折り返し地点をすぎてから、資質の正反対をめざし、ゆがんだものを
直し、足りないものを足していく作業は、正直、苦痛です。が、今のままでも
苦痛なので、ゆがんだ認知修正を試してみるしかないのですが、修正できる
可能性はあるのでしょうか。
ここ数回の「ASの想像力」は、私にとってとても大切な事のような気がするのに、もう一歩理解できません。
確かに物事を密接に関連付けて理解し、新たな情報を整理しています。「あいまい」である事はとても不安です。それでも「分からないことに耐える」必要性が分かりません。未来と他者も、既知の事として取り込むことは不可能でも、既知のことに関連付けて取り込むことは可能です。未来の完全な予測や他者の完全な理解は困難でも、分かる範囲から理解を試みることは理解を進める上で重要だと考えます。
私には単純な『未定』の引き出しは、理解を先延ばしにしている、理解する努力を怠っているように感じます。
もちろん、関連付けて取り込んだ未知は、新たな情報に従って関連付けの修正が必要であるし、注意しないと「こじ付けによる関連付け」になりがちなのは理解できます。それを自分がしてしまいがちなのも分かります。関連付けをした後で、それに注意を払うのを怠れば、間違った関連付けを修正する機会を失うのも理解できます。
それでも、私には未定の理解は常に続けるべきものであって、『未定』の引き出しと言うものは取り入れ難い印象です。
そうは言っても、既知であった筈のパートナーが突然未知の存在に変わり、関連付けも出来ず情報も得られず激しく混乱し続けているのも、私にとって事実です。これは既知であると思ったこと自体が間違えてあって、全ての物事は変わり続けると言う事実に注意を払う必要があったのだと考えています。
『未定』の引き出しに入れるのではなく関連付けに『仮定』と言うラベルを付けるのが、この問題に対する今の私の答えです。
「ASと想像力②」私見・3です。
>多数派やADHDはどうしているかというと「未定」=「当面は未定だが近い将来に
>新たな情報を追加して理解する予定」とか「未定」=「今は未定だが相手の意向を
>聞いてみながらお互いに妥協していく予定」といった考え方をしていると思う。
再度読み直してみると、私は「未定」や「予定」という思考を持っていないことに気づきます。
「予定」ではなく「独自の断定」になってしまいます。
逆にお尋ねしたいのですが、皆さんはどのような時に、「未定」や「予定」を使うのですか?
また、「未定」や「予定」をどのようにして習得されたのでしょうか?
>相手の意向を聞いてみながらお互いに妥協していく
この双方向の情報のやり取り、交換という作業も、私自身の認知のゆがみや
臨機応変の無さにより、現時点では困難な作業です。
相手の意向をうまく読み取れないので、どうにもなりません。
このひずんだ形で固まってしまった私の人生はやり直すことができるのでしょうか。
>これは自閉症的な脳の働き自体から来ているのかも知れないが
>「あいまい」であることが不安の原因になり、とにかく具体的に見える
>ようにはっきりさせておきたいという衝動が働くのだろう。
意志は自閉症的な脳の働きを超えられるものなのでしょうか。
私自身の存在が「あいまい」であるため、世界を固定し具体的に見えるように
するため、衝動的に自分で独自の操作をしているのかなと感じます。
(要するに、目の前に具体的に存在しない物や可能性を、直感的に
取り扱う能力が不足している)
>どんな時に未定や予定を使うのか
>未定や予定をどうやって習得したのか
『未定や予定を使う時』はさしずめ『今は、どうなるかはっきり確定しないけれど、たぶんこうなるだろう』『今は、はっきりした結論は出せないけれどとりあえずこういう事にしておこう。』という状況下で使われると思います。
『どうやって習得したか?』は、私には自覚がなくて、分かりません。
ASの当事者の方にお聞きしたいのですが『A かもしれないし、Bかもしれない』というような、『一つの事象について、二つ以上の可能性が存在する』という事実に対しては、どのような印象を持たれますか?やはり不安な気持ちを持たれるのでしょうか?
> 『A かもしれないし、Bかもしれない』というような、『一つの事象について、二つ以上の可能性が存在する』という事実
不安な気持ちを持ったという印象は記憶にないですが、それに関する情報を集め、何とか解決を図ろうとするのは確かです。重要な問題が解決できないと袋小路に入って、いつまでも考え続ける傾向もあります(今がそうです)。
逆に非ASの方に質問。可能性が複数あって決断するだけの情報が無く、それでも何かに決める必要がある場合、どれかに決めることが出来ますか?どうやって決めますか?
yurinさん、回答ありがとうございます。
>『どうやって習得したか?』は、私には自覚がなくて、分かりません。
そうですよね。自然に直感的に習得しているのですよね。
私の場合はそれらを一つ一つ意識しないと習得できないようです。
>『一つの事象について、二つ以上の可能性が存在する』という事実に対しては
>どのような印象を持たれますか?やはり不安な気持ちを持たれるのでしょうか?
「世の中は予想不可能なことが実はたくさんある」を学んだので、今はそのこと自体が
たんに事実であると認識できているので、不安は感じませんが、以前は
自分の意志のみでAかBを選択できる状態はいいのですが、私自身に関わることで
他者の意思・意向でAかBかが決まるような状態は、決まるまでの間不安を感じました。
(YESかNOがはっきりしていればいいのですが、あいまいな部分が多いと不安定に
なります。)
目の前に具体物が存在しない場合に、可能性を直感的に取り扱う能力が不足している
のは今は自覚しています。
「ASと想像力②」私見・4です。
>「まず『未定』の引き出しを作る」というところが出発点であるかもしれない。
この作業はできると思います。ブラックボックスの応用ですね。
「断定」を断ち切るブラックボックス。
「あいまい」を受容するブラックボックス。
「世の中は予想不可能なことが実はたくさんある」ブラックボックス。
たしかに「まず『未定』の引き出しを作る」という作業はAS者にとって重要な点で
あると個人的には思います。しかし同時にどのように使いこなせばいいのか?と
疑問点もあります。
私にとっては、引き出しを作る事と使う事は別の事のように感じます。
はじめまして。ここ数週間でいろいろなHPを見て、自分自身がASではないかと感じている者です。
yurinさんの
ASの当事者の方にお聞きしたいのですが『A かもしれないし、Bかもしれない』というような、『一つの事象について、二つ以上の可能性が存在する』という事実に対しては、どのような印象を持たれますか?やはり不安な気持ちを持たれるのでしょうか?
についてですが、その時点では、「二つ以上の可能性を感じる」ことができず、一つの結果だけが存在する形ですかね。だから、結果以外のことが起こると、どうしていいか分からなくなるのが現状です。
marioさんの質問に、非ASの一人として答えさせていただきますね。
>可能性が複数あって決断するだけの情報が無く、
>それでも何かに決める必要がある場合、どれかに
>決めることが出来ますか?どうやって決めますか?
ADHDたる私の場合、ここで「とりあえず」の登場となります。
可能性複数、情報不足、ならば正しい決断ができる確率はかなり低いですよね。
それでも決めなくてはならないならば、できるのは暫定的決断のみ。
「とりあえず」どれかに決めるけれど事後修正の可能性大、と考えます。
正しいかどうかはわからないままに歩み始め、その後に軌道修正が必要と考えたら修正する、というやり方です。
試行錯誤、try and errorの末に正解にたどりつける、と考えています。
以下は私事。
働き始めて2年目に「(診断)病理」という専門分野を選択したのですが、当時、自分の決断に自信がなく「いつまで病理をやるかわかりませんが、とりあえず、よろしくお願いします」などと挨拶しました。
当時は自分の率直な心情を述べたつもりでしたが、後でふりかえると、入門時に自分から「とりあえず」という挨拶は長く続けている先輩たちにどう受けとめられただろう、と思います。
今となってはちょっと恥ずかしい思い出です。
slummyさん、ありがとうございます。
問題が重大でなければ私にも「とりあえず」が使えるんですけどね。ただ、後で軌道修正するような選択はすべきではないと考えている自分が居ます。まさに「悩むけど後悔しない」スタンスです。一旦決定すると軌道修正の可能性を打ち消す方向に自らが動いていた気すらします。
袋小路に入って既に1ヶ月以上、そろそろ決めねばなりません。どの選択肢にも未来がないように感じるのは、まさにAS的思考なのでしょう(頭では未来がある事は理解できているのだけど)。
ここまでAS当事者の方の意見をお聞きした印象を私なりにまとめると『ASの人にとって、変化するという現実そのものが受け入れがたく、また困難が伴う』というように感じました。また『不確定という概念、思考そのものが存在しない』ようにも感じます。
『予定』『未定』を『とりあえずの物体(箱)』捉えて『そのとりあえずの物体(箱)は、時間という物理的条件によって変化する』と考えるというのはどうでしょう?先生が書かれているのは恐らくこういう事だと思いますが…。
ただAS当事者の人がこの作業を一人でするのは負担が大きいように想像します。サポートの必要性も強く感じます。
slummyさんへ
AS者の一人としてslummyさんのコメント参考になりました。
>ここで「とりあえず」の登場となります。
「とりあえず」、いい言葉ですね。なんだかほっとします。
>それでも決めなくてはならないならば、できるのは暫定的決断のみ。
>「とりあえず」どれかに決めるけれど事後修正の可能性大、と考えます。
「とりあえず」=「事後修正の可能性大」で、あくまでも「暫定的決断」なのですね。
現実的な対処方法で腑に落ちます。
私の場合、この「暫定的決断」という発想が無く、「独自の断定」=「固定的な決断」
になりがちなので、やはり途中修正が難しく、それゆえ混乱してしまうと感じます。
「とりあえず」=「事後修正の可能性大」を利用させていただきます。
>正しいかどうかはわからないままに歩み始め、その後に軌道修正が必要と考えたら
>修正する、というやり方です。
歩み始めるその最初の一歩が「とりあえず」なのでしょうか。
現実的に、最初から完璧な答えをはじき出せるわけは無く「とりあえず」スタートしながらも
刻々と変化する状況を読み取り、自身の思考にフィードバックさせて、その時が来たら
「とりあえず」に対して修正を加えて、再構築するという方法と思っていいのでしょうか。
とても参考になりました。どうもありがとうございます。
(少し肩の力を抜くことができました。)
「ASと想像力②」私見・5です。
>頭の中に未定の引き出しを作り、あいまいな情報や未来や他者に
>関係することはとりあえずそこに入れておいて適宜取り出したり戻したりする。
「適宜取り出したり戻したりする」私はこれがまったくできません。
入れたらそのまま封印で、「適宜取り出したり戻したりする」は困難です。
こんなに難しい作業を皆さんはよくいとも簡単に行えるなと感心してしまいます。
この件に関しては、私はまったく無力です。
現実的にはその部分の経験の記憶がありません。
私の場合、経験したことに対して自身へのフィードバックが無いのかもしれません。
そのために物事に新しい情報を追加して物事を再度更新する機能が動かない
のかなと思います。(物事の固定化=断定の要因なのかもしれない)
>ある新たな情報が入ってきたとして、それが「これまでの理解の枠組みと無関係にただ
>目の前にある」という状態は非常にストレスになる様子で、「分かる」=「これまで
>なじんできた考え方の枠組みの一部として取り込む」ことを常に考えているように見える。
AS者の場合、「分かっている」ではなく「既知のものにこじつけている」という事ですね。
このあたりはslummyさんのコメントにある「とりあえず」=「事後修正の可能性大」を
つねに意識しておく事が、今のところ自分にできる唯一の方法かなと思います。
それにしても、覚えるべきこと、学ぶべきことがあまりに多く、まさにつぶれない程度に
対処していかなければならず、重要な事とはいえ、大変ではあります。
いろいろと他者に教えていただかないと、自力ではどうにもなりません。
YANBARU先生や皆さんは今までの私のコメントを読んで、外から見て、どの点が間違っている
と思われるでしょうか?注意すべき点は何でしょうか。欠落しているものは何でしょうか。
>今までの私のコメントを読んで、外から見て、どの点が間違っている
と思われるでしょうか?注意すべき点は何でしょうか。欠落しているものは何でしょうか。
恐らく『AS当事者としては』少なくとも間違ってはいないと思います。ただこの世の中は『すべてにおいて変化するのが当たり前』というところがあります。これは自閉脳にとって、とても生きにくいと想像します。
ALIVEさんの
>物事に新しい情報を追加して物事を再度更新する機能が動かない
のかなと思います。(物事の固定化=断定の要因なのかもしれない)
・・・は、恐らく自閉的な脳の働きである『思考の切り替えがスムーズにできない』から来ているのかなと思います。だから『物事を断定したい=さまざまな可能性について考えることが難しい』のだと思います。想像力の欠如などといわれるのもこの『自閉的な脳の働き』のためだと思います。
・・・余談ですが私の夫も『○○だと思う』という曖昧な表現を嫌います。なにかやはり『○○である』と断定したいようです。
・・・まず『他者の心も予定もすべて、変化するものである』ことを念頭においてみるよう心掛ける。具体的には、自分の意識の中に、このデータをインプットする、といいますか・・・こういった試みはどうでしょうか?
>覚えるべきこと、学ぶべきことがあまりに多く、まさにつぶれない程度に
対処していかなければならず、重要な事とはいえ、大変ではあります。
・・・そうですね、無理しないでゆっくり考えていきましょう。
marioさん、未来はありますよ。
>後で軌道修正するような選択はすべきではない
一度選択した後に、更に良い方向に変化させようとする意志の結果として軌道修正するのですから、積極的、建設的な軌道修正として前向きに考えられないでしょうか。
(楽観的・刹那的なADHD特有の発想かもしれませんが。)
ALIVEさんへ。
このたびは思いがけずレスポンスいただけて、光栄です。
コメント欄におけるALIVEさんの真摯な自己分析は、YANBARU先生の深い洞察に満ちた人間観察とあわせて、私にとってはこのブログを読む楽しみの一つとなっています。
ALIVEさんの文章は優れた言語表現能力のたまもの、と初登場時から感心しつつ読ませていただいています。
確かな論理性と人間的な暖かみの両方があり、重い内容であっても読む側を苦しくさせず、むしろ言葉になって表現されたことの開放感を共有させてもらえます。
これは他の人には決して真似できない、ALIVEさんの文体に固有の美質です。
注意すべき点や欠落しているものは私にはわかりません。
欠点よりも、既にお持ちの長所、才能を自覚していただきたい、というのが私の率直な思いです。
これからもALIVEさんのコメントを楽しみにしています。
ゆっくりで結構です。書き続けていただければ嬉しいです。
slummy先生
先生のコメントに気持ちが暖くなりました。先日ブログも拝見しました。『やんばる先生』をはじめ沖縄には、素敵なお医者様がいらっしゃるのですね。一度行ってみたくなりました。だけど私は飛行機が苦手なので、まずはそれを克服しないといけないのですが。
暖い人間味のある医療は、これからはとても大切だと思います。これからも良いお仕事頑張って下さい。
…私信のような文章で、すみません。
yurinさん、回答ありがとうございます。
>ただこの世の中は『すべてにおいて変化するのが当たり前』というところがあります。
>これは自閉脳にとって、とても生きにくいと想像します。
そうですね。『すべてにおいて変化するのが当たり前』が現実的思考法ですね。
私自身 yurinさんもご指摘のように 『思考の切り替えがスムーズにできない』ので、
物事の変化が起こるたびに、切り替えがうまくできず、どんどん遅れていく感じが
自身はがゆいのです。
>まず『他者の心も予定もすべて、変化するものである』ことを念頭においてみるよう心掛ける。
>具体的には、自分の意識の中に、このデータをインプットする、といいますか・・・
>こういった試みはどうでしょうか?
『他者の心も予定もすべて、変化するものである』・・・今ようやく気がつきました。
いかに自分自身が「ひとりよがりのこじつけの固定された限定世界」にいるのかを
感じました。現実はyurinさんのおっしゃるとおりです。
>ただAS当事者の人がこの作業を一人でするのは負担が大きいように想像します。
>サポートの必要性も強く感じます。
私自身もその点は強く感じますので、袋小路に入り込まないように、一人でできない
部分はサポータの協力を得るように努力しています。
今回のようなyurinさんの回答も私にとっては認知修正面において有力なサポート
になります。
slummyさんへ。
暖かい心を感じる返答ありがとうございます。
>確かな論理性と人間的な暖かみの両方があり、重い内容であっても読む側を苦しくさせず
>むしろ言葉になって表現されたことの開放感を共有させてもらえます。
どうもありがとうございます。開放感を共有という表現に、心からうれしく思います。
私の表現を共有してくださり、また温かい言葉をかけていただき、勇気がわいてきました。
>これは他の人には決して真似できない、ALIVEさんの文体に固有の美質です。
自分では良く分からないのですが、そのように外部から見ていただけて光栄です。
そしてうれしいです。今持っているものを大切にしようと思います。
>欠点よりも、既にお持ちの長所、才能を自覚していただきたい、というのが
>私の率直な思いです。
そうですね。私は自身のプラス面をもっと確認し自覚しないといけませんね。
それが勇気を持って前向きに生きるという事なのですね。
ご指摘ありがとうございます。なかなか自分では自身の姿が見えないので
外部から見ていただき、指摘していただけると、とても助かります。学びになります。
>これからもALIVEさんのコメントを楽しみにしています。
>ゆっくりで結構です。書き続けていただければ嬉しいです。
どうもありがとうございます。つたない自己分析ですがslummyさんの言葉に
勇気をもらいましたので、今後もマイペースで進めていこうと思います。
今後もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
ALIVEさんへ
ASの家族(子ども達、夫)と生活している私は、毎日の生活そのものが『異文化理解とサポート』になります。毎日のことですから、どうしてもADHD流の押し付けになっている部分も多かろうと、自分自身をそう見つめて反省もあります。特に幼い息子は、まだ自分の言葉で自身の世界を語りきれず、私もつい自分流の解釈をしてしまいがちです。だから私の方もALIVEさんはじめ、AS当事者から多くのことを教えてもらっているのです。
またADHDの私は『人の話を聞くのを忘れて』、つい自分の話ばかり一方的にしてしまいがちです。ここでこのようなやりとりをすることで、実は私自身の学び(=修正)にもなっているのです。
>今回のようなyurinさんの回答も私にとっては認知修正面において有力なサポートになります
何より嬉しい言葉です。ありがとうございました。
>ASの人は、物事を密接に「関連付けて」理解する特徴を持っている。ある新たな情報が入ってきたとして、それが「これまでの理解の枠組みと無関係にただ目の前にある」という状況は、非常にストレスとなる様子で、「分かる」=「これまでなじんできた考え方の枠組みの一部として取り込む」ことを常に考えているように見える。
>これは自閉症的な脳の働き自体からきているのかもしれないが、「あいまい」であることが不安の原因になり、とにかく具体的に見えるようにはっきりさせておきたいという衝動が働くのだろう。
この通りです。
これで、これまでのストレスの原因が分かりました。
「あいまい」とか、「はっきりしない」ことがとても、ストレスになっています。
そこで、今後どうしたらいいか?
>「まず『未定』の引き出しを作る」というところが出発点であるかもしれない。頭の中に未定の引き出しを作り、あいまいな情報や未来や他者に関係することはとりあえずそこに入れておいて適宜取り出したり戻したりする。
頭の中で、物事の優先順位が決まっているので、自分としては、それを片付けてからでないと、2番に進めない(頭の切り替えが難しい)ようなところが、大いにあります。
都合よくというか、引き出しに入れたり出したりできる脳であれば、もっと、生活が充実していくだろうと想像できます。実際問題としては、難しいところです。
>ASの人は物事を密接に「関連付けて」理解する特徴を持っている。ある新たな情報が入ってきたとして、それが「これまでの理解の枠組みと無関係にただ目の前にある」という状態は非常にストレスになる様子で、
私は自分をジャイアンだと思うのですが、上記があてはまりますので、しばし、自分は実はASなのか?と考え込んでしまいました。
>「分かる」=「これまでなじんできた考え方の枠組みの一部として取り込む」ことを常に考えているように見える。
この点はちがいました。「あいまい」はとても不安ですが取り込むことはせず、周囲の人間に「何とかしろ、あるいははっきりさせろオーラ」をふりまきます。
⇒それに気づいた今は、子どもをはじめ家族に対し、迷惑をかけている可能性を、常に頭におくことにしています。
>「まず『未定』の引き出しを作る」
先生のアドバイスは、私にはとてもしっくりと来ました。
ところがコメント欄にてASの方が「未定」という概念が取り入れがたいとおっしゃり、「独自の断定」という言葉を使われています。
この「独自の断定」という言葉が、今の子どもから私に伝わる“感じ”を端的に表しており、私が直面している「子どもとの会話の息苦しさ」に通じるものでした。
(もっとも子どもの方も、ずっと、別の息苦しさを感じていたのだろうな。)
>「とりあえず」=「事後修正の可能性大」
子どもに「独自の断定」を感じた時は、「とりあえず」という言葉で応じ、暫定的決断であることを伝えてみようと思いました。
ご自身を冷静かつ論理的に分析なさっておられるコメントの数々に、ジャイアン母からAS子への理解に大きな力をいただけました。
「ASと想像力」一連のエントリーとコメントは、これから何度も読ませていただきます。
先日の自己コメント
>子どもに「独自の断定」を感じた時は、「とりあえず」という言葉で応じ、暫定的決断であることを伝えてみようと思いました。
についてです。
現状
1.子は既に「相談という形で会話をしている“つもり”のよう」だ。
2.その“相談の「仕方」”が、私には「強要」に感じ、気に入らない。
ふりかえり
・今も子の言動に振り回されているが、数年前の混乱状態に比べれば些細な影響と言える(数年前の状況は、文字通り悲惨であった)。
↓
・悲惨な経験があったからこそ、私は今、自分に向き合おうと努力できる(少なくともそのつもりで書いています)。
↓
①~⑨および「理解と努力」のエントリおよびコメントから
「自分を知ることよりも自分を変えることの方が、はるかに困難である」つまり、ひとは「自分の変え方」が分からず苦悩する、という印象を持ちました。
「お互い様」「持ちつ持たれつ」については、ADHDは自分が不利益をかぶらない「直観的50%」を目指し、ASは「事を細分化・寸分たがわぬ公正」を目指すのかなと思いました。(あくまで私見です)
以上から、過去の出来事は私の視点からは「自分に対する猛攻撃」と捉えられても、人との境界があいまいなAS子”である(らしい)子ども自身は、母に攻撃を仕掛ける前に既にダメージを受けており(この点はすでに自覚がある部分)、「猛反撃したこと」で少なくとも母と同程度にダメージ(子供にとってはさらなるダメージとなりますね)を受けたのかもしれない。
上記に多少なりとも妥当性があるとしたら、私にとって、「従来の母子関係を破壊する力」=「自分を変える力」が子どもに備わっていることの根拠となりえます。それは私の「安心」につながります。
子どもに「暫定的決断」とつたえること、それは「場当たり思考」であり、「ジャイアンの傲慢」なところ。
⇒子どもが、“必要”を感じた時に、“もがきつつ”考える機会を奪うことはしない。
・・・私は、一刻も早い決着を目指して“必死”のようです。
◎家族に対し「“自分を抑圧しない”最低限の声かけ」について、具体的出来事のたびに考えていく。
◎想定外が発生したら、自身の言動修正を再考する。
当面の目標を設定しました。