発達障害のコーチングの実際の内容は「具体的な場面での状況分析」となる。今私は診療の場でひとりひとりについて時間をかけて行っているが、同じような場面もあり、ブログ上でも出来るかなと考えた。
「この状況を分析してほしい」という方は、まずメールにて私に分析してほしい状況を具体的にこのブログ半分くらいの字数で送っていただく。
それをそのままここにコピーして私なりの状況分析をつけて掲載する、その後他の人にもコメントしてもらうということが出来れば、似たようなことで困っている人にも役に立つし、またケースの蓄積ともなる。
例えば今外来で相談に乗っているあるADHDの人のケースでやってみよう。
1.最初Aさんから「Bさん知ってる?」と聞かれて
2.「知っている」と答えたら
3.その後AさんからBさんの陰口をしばらく聞かされた。
という話で、「状況分析」として発達障害が勉強しておくべきことは、最初の「Bさん知ってる?」の質問が実は多数派の世界ではテストのような意味があるということだ。
1.の質問は実は、「私はこれからBさんの陰口をあなたに話そうと思うのだけれど、例えばあなたがBさんの親友であるなど、その陰口を聞いたら困るような事情はないですか?」という意味だ。
2.だから多数派で陰口を聞きたくない人は、「よく知らないから」とか逆に「友達だよ」と言って、「私に話したらまずいよ」ということを知らせる。
(実際にはこの間のやりとりでは、「どんな言い方(口調)をするか」とか、「どんな顔の表情をしているか」、「どんなしぐさをするか」などを通して双方から非常に多くの情報がやり取りされている)。
3.上記のような理由で、発達障害が正直に文字通りで答えると、想定外のいやな思いをすることになる。もしも途中で「そういう話なら聞きたくない」と反論すれば、「最初に聞いていいような態度を取ったくせに」という話になり、感情的にこじれるだろう。
4.だから発達障害は、大体意味が分からないときは、「よく知らない」とか消極的に答えておいたほうが無難だろう。下手に相手に合わせると、「覚えのないことになで同意したことになってしまう」ということであり、心しておきたい。
この手の具体的な「状況」をお待ちしています。
例に挙げられている状況・・・実際私は人の顔を覚えられないので『○○さん、知ってる?』と聞かれても大抵知らないので『よくわからないなー?何年生の(子どもの)お母さん?』などと答えることが多いです。
なんとなく『あの人かな?』程度に知ってる人だったら、『△△あたりに住んでる人?』とか、別にわざと外しているわけではないけど、本人が確定できないから、『知ってるよ』と答えることができないことが幸いしているのでしょうか?こんなふうに曖昧な(結果的に相手の思惑を外した)答え方をするから、恐らく『・・・話にならないわね』と思うのか、悪口を聞かされたとか、不都合が起きたような経験はないです。
でも『○○さん知ってる?』が、多数派の人の間ではそういうルールになっていたなんて・・・知らなかった(^_^;)
相手も知っているであろう人のことを、あえて『知ってる?』という聞き方をすることに意味があるんでしょうか?
私も最近そういうことがあって
「よく知らない」(本当に知らない)
と答えたのだけど悪口を聞かされてしまいました。
なにも知らない私に話してその人の印象を悪くする作戦(?)
なのでしょうか?
よくよく考えてみると
「あの人は~だからあなたも気を付けたほうがいいよ」
というのがけっこう多いです。
どうでもいいことなので適当な返事をしていますが
同意したと受け取られている可能性が大きいですね。
なんだかショックです。
お久しぶりです。
元腎臓医師、現在医学研究科博士課程二回生の31歳女性です。
私は片付けられないから、ADHDの可能性はあるかもしれないが、人との関わりを持ちたいと願うほうだからASではないと思っていました。今でもそう思います。
すくなくとも社交的だし、共感を求めるので自閉では無いでしょう。
毎日接している病棟ナースの名前は一人も覚えられなかったけど(だってみんな顔似ている)、何故か週に数回しか行かない外来では私は人気者だったし。
でも、仮にASとして、私の感覚としては「アンビバレンス」が何よりもしんどいです。
例えば、クラス全員のひとに嫌われても、その全員が自分にとって全く興味の対象でなければどうでもよいこと、と思えるわけです。陰口だって、意地悪だって、全く気になりません。
だけど、
「勝手に愛着」を持ってしまった場合、
ちょっとでも自分のことをわかってもらえないと思うと、
過剰に辛い。
「大好き」であればあるほと、「離れたくなる」
だけど「一緒に居て欲しい、気にして欲しい。」
毎日がその繰り返しになるのが、辛いのです。
わかりますか、世界中の人全員を敵に回しても、「愛着の特定の誰か」に嫌われなければ、全く気にすることでもないと思えるのです。
かえって、私が全員全く興味をもつことのないひととか、
むしろ悪人で非道とかの大嫌いな部類のひと、が同僚だったり、クラスの人たちだったり、上司だったりしたほうが「自分の仕事」に熱中できて「とても幸せ」だったりするくらいです。
続きです。
今は上司も、チュウベンもとても大好きな部類の人間です、
だから未だかつて無いほど、正直辛い。
上司には「いつまでも逃げていては駄目ですよ」といわれますが、かかわり方がわからない。
上司とは一週間全く会話しない、3ヶ月以上実験結果も報告しないなんてことあるのに、細胞をくれただけの片道2時間かかる所に居る「共同研究者」には数週間毎に逐一報告書出していたり。
弟もそうかも、身内には「おとうさん」、「おかあさん」と呼びかけができないのに隣に住んでいただけの他人のおじいさんに「じっちゃん」といきなり呼んで両親にショックを与えていた。
仮に「私がASと仮定」した場合、「アンビバレンス」を解消する方法論が診療 治療の場で有効に行われれば、
「ASで辛い」生活や人生を送る人はいなくなるんじゃないか、とも思います。
K先生もいいんだけど、幼児用なので、私にはもう、遅すぎるのです。
成人用の「アンビバレンス」克服論ってありませんか。
世界中に私が興味を持つような人間が「一人も居ない」ならどんなに幸せか、と思ってしまうのです。(世界中の全員が大嫌いならどんなに幸せだろう。)
minaさんへ
先日は私のブログにコメントありがとうございました。
(違っていたら、ごめんなさい。お名前と自己紹介からそう思ったので)
あの時、なんだか中途半端なお返事しかできなくて、申し訳なく感じていました。自分のブログは、私の将来的な目標のためのひとつの試みとして、発達障害その他について、考えたことをまとめています。そういった事情から、直接的なコメントがしずらく、ああいう形になってしまいました。失礼だったかもしれない・・・と反省しています。
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私はいちADHD当事者であり、またASの息子、ADHDの娘をもつ親でもあります。その立場からAS(自閉症)という障害の印象を書きたいと思います。
ASとは、つまり本質は『自閉症』ですが、イメージとして『殻にこもって人と関わりを持たない』ように見えますが、意外とそうではないようです。
私の知ってる自閉症の子どもは、人懐こく、息子のことが好きで(=たぶん愛着を持っている)、ニコニコしながら、名前を呼んで走りよってきます。実はこういうタイプの自閉症の子どもは多くいます。また息子も人懐こく、大好きな幼稚園の先生には自分から寄っていって甘えるような子です。
人と関わらないというよりも、むしろ適切な関わり方ができない、またはむずかしいのだと思います。息子の友達も、相手の反応は殆ど気にしないで、息子が『やめて』と言っても、おかまいなしに関わろうとする。こういうのが『愛着』なのかなと思います。
またHPにある『発達障害の医師の雑感』の2006年8月12日の日記『忘れられたい時もある』に共通するものを若干感じました。
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アンビバレンス克服というのは、つまり愛着の克服またはコントロール、という意味なのでしょうか?そのようにも受け止めました。