私はあえてここではコーチングの考察の時と違い、「外から見て」ASの想像力を検討している。AS側からの想像も私にはある程度可能だが、問題が非常に困難であることが分かっているので、その前に「反対側からどう見えるかを確認しておく」という作業をあえて行う必要あがると考える。だからASの人にはこの内容は絶望的に映るかもしれない。それを承知の上で、まず「反対側から見たらどうなるか」の現実を見てほしい。
さて自明のこととも言える「未知の未来」を受け止めるのも大変であるが、他者の意図についてはさらに未定としなければならない。しかし実はもっと困難な「他者の意志の自由」という最大の問題が残っている。
非常に単純に書いてしまえば、「AS的に断定した瞬間に、相手は意志の自由を認められていないと感ずる」という事実を理解する必要がある。
意図をAS流に「普遍化」することも、実はASのなじみの枠組みの中に「固定」することにしかならず、そう「固定」されてしまった他者は、結局ASの確定的な予想の範囲内の行動の自由しか持たない。
意志の自由とは、「断定されない自由」であり、「未知、不確定にとどめる」=「決め付けない」ことなしには相手の自由を尊重することはできない。
逆に言えば「あなたがどんな選択をしても、それを予想できなかったと言って責めるようなことはしません」「あなたが選んだ私の予想外の選択をあなたの自由な選択の結果として尊重し、常に理解しようと努力します」という姿勢がどうしても必要となってくる。
この「尊重」が「相談」の始まりであり、この努力の後に「お互いの意見を述べ合う」という順番となるのがAS以外の人にとっては「当たり前」の基本前提となっている。
まずこの点を確認することから始めよう。容易ではないが、可能性は無いことは無い。
いつもお世話になります。こちらでは、初めて書き込ませていただきます。金曜日の受診までどうしても待てずに、ご連絡を差し上げます。
ここの所の、「ASと想像力」を読んでいまして、少し自身が見えて来たように思います。それと同時に、私はこんなにも他者に対して自分を押し付けて来たのか、今も知らず知らずにそうしているのかという思いで、ますます自身が解らない状態になっています。
ただ、本日の
>「あなたがどんな選択をしても、それを予想できなかった>と言って責めるようなことはしません」「あなたが選んだ>私の予想外の選択をあなたの自由な選択の結果として尊重>、常に理解しようと努力します」という姿勢がどうしても>必要
という事は、理屈では解りました。
しかし、実際には非常に難しく、その様に伝えているつもりが、一体どれだけ、どのように相手に伝わっているのかが解りません。
お願いのつもりで、送っているメールも、自己正当化型ADHDの元夫にはやはり私の意見の押し付けになっているのでしょうか。
自身がASで、離婚した子供の父親がADHD、子供達はAS。私は、自己評価を下げる事で耐え忍んで来ましたが、子供たちには「私のような苦しい選択は背負わせたくない」という思いでいっぱいです。
そのためには子供たちを私が一方的な一時的な父親による攻めから守らねばならないと思っています。出来るだけ父親を立て(この時点で、私はまた自己評価を下げるのですが)、私の考えを押し付けるのではなく、一つのお願いとして伝えているつもりです。
しかし、子供たちの父親自身が自分のADHDをも知らず、子供たちのASを否定し続けている中では、私が今出来ると思い込んでいる最高の努力も、報われないのでしょうか。
最近このブログを見つけて、やっとスッキリしつつある状態です。自信は無かったものの、今、私のこれまでの常識を伏せて、我が子に自由な選択を与えています。子供が希望した選択を尊重しても必ずしも期待どおりの結果にならない場面も多々あります。その場合も怒らず、理解するよう努力します。
子供からいろいろ学ばされました。私自身がASかASのACだとこのサイトで確信しました。スッキリして少数派であることに誇りを持って生きていきたいです。
ふぇありーさんへ
はじめまして。私は『自己正当型ADHDの母親』に育てられ、最近まで二次障害に悩まされて来たADHD当事者です。『母親は他人の悪口ばかり』で『人の話を聞かないで、自分の考え方を押し付ける』最悪と言える環境で生きてきました。 二次障害を殆ど抜けた今でも私はたまに『こんな自分の人生は最低で、これから先どんなに頑張っても無駄かもしれない』と不安になって、泣けてくる時があります。でも『諦めたらそこで終わり』と思い直してまた『頑張ろう』と立ち上がります。私から見ると自己正当化型ADHDの理解は(同じADHDから見ても)難しく、自分の母親を見る限り、『よほど本人が自覚しない限り、最終的には一人になるしかない』ような印象です。
私が一言だけ言えるのは、どんなに困難でも、諦めないでいるかぎり、道は拓けるものと信じて私は生きている、ということです。
自分の話ばかりになりましたが、あなたの書き込みを読んで『諦めないで』と、一言さしあげたいと思った次第です。
あれ!? えっ!?
ちょっとショックかも...
>逆に言えば「あなたがどんな選択をしても、それを予想できなかったと言って責めるようなことはしません」「あなたが選んだ私の予想外の選択をあなたの自由な選択の結果として尊重し、常に理解しようと努力します」という姿勢がどうしても必要となってくる。
私にはここが難解です.
ASに対して、そのように接し、安心と信頼を得ることが大事だと言われているのかなと、どうしても解釈してしまいます.
自分がASにそう接しなければならないと思いこんでいるからかもしれません.
しかしそれ以上に、信じられないのかも...
相手の選択が自分の想定外の場合、ASはその人を責め、許せない気持ちになり、その結果、その想定外な結果が起きた理由をまたこじつけていく...ということですか?
他人の思考や行動が自分の予想を超えることなんて当たり前で、想定外の結果が出たら、自分の予想(入力した情報なりシステムなり)を疑い、反省するのが当たり前ではないですか...
いや、そこまで突き詰めるのはAS的かな?
あ、誤解だったよ、とか、間違っちゃった! とかが許されないんでしょうかね?
そんな当たり前すぎることが当たり前じゃないのでしょうか?
でも、そうなのだとしたら...いくつかの???が、納得できるかも....
しかし、もしそうだったら...
どうコミュニケートしていったらいいんでしょう...!
何重にも重なった誤解を解きほぐしていかねばならないようなことですよね...
相手にASの自覚(それ以前にASの概念さえ)ない場合、解きほぐす作業自体がまた誤解を生みませんか?
実際、触らぬ神に...みたいな心境になっているのも事実で...
逆に自覚があってコーチングの道を歩んでおられる方々は、ふぇありーさんのように不安になりますよね...
逆にふぇありーさんには、こんな風に言いたい気持ちです.
「ASだろうとそうでなかろうと、人間同士のコミュニケーションなんてそんなに正確に伝わるもんじゃないと思う.分からなくても保留しながらつきあっていって、伝わっていないか不安だったら確かめていく努力をし、うまくいかなかったら教訓にしていけばいい.みんなその繰り返し.決してASだけが特別じゃないと思うよ...」
いつも拝見しています。
自身のブログでこの記事を取り上げました。
http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070108/1168252911
ぼくは自分がケアを行う立場なので、自分らがどういった文脈の中で生きていて、何がかれらの妨げや壁となっているのか、改めて気付いて新鮮な驚きを得ることができます。
よかったら、ぼくの記事もご覧下さい。
報告までに。
yurinさん
りすさん
ありがとうございます。
決して、諦めるつもりはありません。
長期的な目標を立てて、それまでには元夫や義父母との関係を何らかの手段を使って立て直そうと、先生に関わっていただいています。
結果的に最大で最悪な(私にとって)作業の先延ばしなので、毎日が苦しいのだと言う事は自覚しています。
でも、このことが解らなかった昨年の夏まではもっと苦しんでいました。
自分の中で、何故正しい事を主張して、それを煙たがられるのか、クレーマー扱いされるのかと言う事が徐々に見えてきて、不安でもありますが、理論付けが好きなASとしてはありがたいことです。
日々、思う事、考える事が異なり、ひっかかる矛先も変わります。
今改めて昨日のコメントを読み返して、私は一体何を考えていたのだろうと、ちょっと恥ずかしい思いをしています。
それも、先生の今日の「ASと想像力⑤」を拝読しましたら、全くもって、その通りだ!と、思ったからです。
ngmkzさん、時間をみつけ、立ち寄らせていただきます。
みなさま、ありがとうございます。
ふぇありーさんへ
お返事ありがとうございました。
私も思い出せば昨年夏ごろ、自分について深く悩んでいました。
私の場合は『どうして人とうまくやれないのか』ということでした。先生に書いた初めての『相談メール』を今読み返すと、自分でも『混乱状態で何をどうしたいのかがわかっていない』状態がわかり、恥ずかしい限りです。
ここ数ヶ月でやっと『自分の正体』がわかり、本来の『ADHDである自分』を取り戻すことができて、やっと自信が持てるようになってきました。
私の4人の子ども達も発達障害のように思えます。大変ですが、『本来の自分』に戻れたならきっと、やり遂げることができると思っています。
> 逆に言えば「あなたがどんな選択をしても、それを予想できなかったと言って責めるようなことはしません」「あなたが選んだ私の予想外の選択をあなたの自由な選択の結果として尊重し、常に理解しようと努力します」という姿勢がどうしても必要となってくる。
この文章を読んで思わず笑ってしまいました。丸々っとそのまんま、ウチの旦那の話のようで。
夫は昨年度の長女の幼稚園の担任の先生に強い愛着を持ってました。
それは私から見るとチョット度を超えた愛着で、長女の卒園に際して4年半の幼稚園生活(一応補足しますと幼保一体型の幼稚園です。)を走馬灯のように編集した動画にフラッシュ的に担任の先生の笑顔や真剣な眼差しを差し込んだミュージックビデオを制作してプレゼントしちゃうという、、、まじで、私から見ると「それって若干キモい保護者なんじゃないの?」な事をやっちゃうくらいに愛着を持っていました。
卒園式を間近に担任の(ちなみに年齢24才の超美人さんです)先生がすっかり塞ぎ込んで涙ながらに「子供たちが卒園するのが寂しい」と切々と訴えられて、夫は何か、もう、すっかり虜になって、そのくせ制作したミュージックビデオを自分で渡すのは恥ずかしいから娘に託して(と言っても実際は私が渡したんだけど)みたら、先生は年度末でご退職との事。
帰宅して夫にその件を伝えた時、まさに引用文の逆の反応がありました。
自身の自閉的な想像力で構成されたストーリーに、先生の退職は予定されていなかった。もう、それだけで、激しく自分が侵害された気になって「裏切られた!」「もう、あいつの顔は見たくない」だそうで、、、、
心配しなくても退職するんだからもうお目にかかる事もないでしょって私は思うんだけど。
ところがね、、、ここからが面白いの。
私は弟たちの事もあって卒園式後も何度も幼稚園に行く事があって3月中は長女の担任の先生にもお会いしてたんだけれど、夫が担任の先生の様子を聞くのです。
「先生、俺の事、何か言ってなかった?」
「あ、うん。最近見ませんね、って言ってたよ。」
「(勝ち誇った様に)フン!行ってやるもんか。思い知ればいいんだ、自分が何をしたのかを。」
(この後30分くらい、園児やその保護者に前もって一言も告げずに卒園式後にひっそりと退職する事がいかに人として間違っているかについて、私が同意するまでコンコンと説教)
恐ろしいのは、30分も説教されるとADHDの私としては「そう言われてみればそうかもしれない。」と説得されそうになってしまう事。
(直接自分に関係する事でこの様な説教にさらされると重篤なAS被影響症候群になりますね)
しかし、今回は私は直接は関係ないので落ち着いて考える事ができました。
そしてたどり着いた答えが冒頭の引用文。
そう、夫は他者の意思の自由を認める事ができない人なんだ。どんなにもっともらしい説明で自分を正当化しても、夫自身が自閉的な想像力で他者の意思の自由を奪い取る脳の病気の人である事に変わりはない。
私は「あなたの言い分には、一部同意できる部分もある。が、例えばあなたの話の中に一切登場してこない幼稚園に残るその他大勢の先生方の立場から見れば、、、私がその立場だったら、同意できないと思う。」と伝えてみた所、目を白黒させて固まってしまいました。
ただし、私自身、夫の脳の病気の事をとやかく言える立場じゃない。
わたしは長女の担任に言ってしまったのです「夫は先生の事が大好きだったから、辞めてしまうなんて裏切られた。ショックが大きすぎてもう先生に会いたくないから幼稚園に来ないと言ってます。」と。
発言した瞬間の私には先生の心を傷つけようとの意図は無かった(要するに何も考えて無かった)のですが、言い終えた後の先生の表情を見て「やばい!失敗した。」と気付きました。
馬鹿ですね〜。ジャイアンですね〜。人の事とやかく言えません。
夫には「相手の立場に立って考えられる」という強い自負があって、最初から相手の心情を想像する気がサラサラない私から見ると、「それは立派なことなんでしょうね、だって小学校でも中学校でも先生ときたらみんな口を揃えて「相手の立場になって考えなさい。」とよく言っているもの」と思いつつ、何か納得いかない強い違和感がありました。
前回の書き込みの一件の様に「あなたが想像した相手の心情って、本当に当たってんの?」という事が度々あって、というか、私からみたら殆どのケースが「それはあなたの思い込みでしょ」って感じに「ハズレ」て見える。
当然、想像である以上「ハズレ」もあるワケで、だから強迫的合理主義者の私は「そんな予想は無意味だ」と思うのですね。
私にしてみたら、「相手の立場に立った【自分】を想像して、その時【自分】はこう思うから相手も当然そう思っている」と断定するのって結構な確率でハズしてますよね?って風にしか見えない。
そんでハズレたと思い知らされると、この世の終わりみたいに落ち込んじゃって、仕事も手につかなくなって、ご愁傷様ですって思うのだけど、そんな夫から「お前も相手の立場に立って考えろ」と説教されるのは、かなり納得がいかなかったりします。
どうも夫は
「相手の立場に立って相手の心情を想像する」と
「相手の立場に立った自分の心情を相手の心情と断定する」の違いが理解できないようです。
本人曰く、自分の心情と相手の心情が同化し(たと思い込み)、そのモードに突入するともはや理性ではコントロールできないそうです。()内は私の補足です。