私はADHDを不朽の古典にならって「ノビ太型」と「ジャイアン型」に分けて考えているが、ジャイアンの典型例とも言えるのが最近引退したアスリートA氏(ついでに師匠もおそらくそうだろう)だ。
最終的に突きつけられるまで辞めることになることを想像できないKYぶりは非常に重症だ。
以前に嘘をついて故郷に帰ってサッカーをしていた時には非常に都合の良い「健忘」になったりもした。「都合の悪いことは忘れる」という疾患名だ。
これだけ「学習できない」のは明らかに「障害」であり、本当にKYで気付いていないところなどは「悪気でない」という印象を与えて本格的には嫌われない。
もしも確信犯で「全部分かってやっている」のなら、本当の悪人に見えるはずで、そこが発達障害との鑑別のポイントになる。
アスリートA氏をジャイアンと考えると、最近起こったことは「学級などでよく見られる発達障害叩き」と本質は同じように見える。
多数派は発達障害が上に立つと決まって叩き潰そうとする。「自分達は周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん」という心理だろうか?。
数年前に「○○えもん」氏がマスコミからこき下ろされた状態と私には重なって見える。
学級での「いじめ」と本質的に同じことが行われていると言えないだろうか?
私は昔マスコミにいたが、これがマスコミの一番醜いところだと思う。
都合のよい「健忘」
わたしもよくやるので、人事だとは思えません・・・
周りは、あんなことしといてよく忘れられるなと言いますが、本人は本当に覚えてないわけで・・・
でも、この「健忘」があるからこそ、死にたくならないで済んでるやろなと最近は思います。
多数派からすれば、迷惑極まりないのでしょうが。
A氏のように、スター性を持った人間にはKYな発達障害みたいなのが多いのかもしれませんね。
わたしの主治医は、「人間は生まれた時は、全員発達障害であり、環境要因や、その人の成長の度合いで変わってくると思う」と言ってます。
この考えも、とてもおもしろいと思いませんか?
更新楽しみにしてます^^
ヤンバル先生と同じような推論を建てていた者のひとりです。
テレビ画面から見えるアスリートA氏とT親方に共通している
「状況の認識の甘さ・問題解決能力の低さ」など、両者には曖昧な事柄への迅速で的確な対応の困難さが伺えます。
アスペ系の指導者がADHD系の弟子をうまく指導し育成できなかった「予想できた結果」が、
今回、問題をこれ程までに複雑かつ重大にしてしまった原因ではないでしょうか。
T親方 → わかっていないから出来ないアスペルガー → 要点を捉えて指導できない。
問題の収拾が出来ない。
尊敬されない。
アスリートA氏 → わかっているけど出来ないADHD →トラブルが起こりやすい。
同じ事を何度も繰り返す。
反省できない。
DV系に類似した行動(暴力的)。
明白になりつつあるアスペルガー系、ADHD系人材の社会・組織に存在している確率の高さ、
また主要・重要ポストに就いている事実を私たちはもっと明確に認識する機会が必要ですね。
当事者を取り巻く周囲が理解しサポートする環境さえ整えば適切な対応も検討できます。
理解できる人が「出来ない人」を『出来ない!』と理解するだけで全く違った結果が生まれます。
「ある部分の稀なる能力」の人的財産の発掘・育成が当たり前になる社会を心から望んでいます。
この説明ですっきり筋が通っている印象を受けました。
”発達障害叩き”はいたるところで起こっているように思います。僕にも経験があります。
マスコミの悪い一面については激しく賛同!
「都合の悪い事は忘れる・・・。」
20年近くも仕事を休んだり出たりを繰り返したのは、これだったかもしれません。
ウツで休んで、心身が復活すると、
「私は大丈夫だ。」「あれはちょっとしたアクシデントだ。」と感じて復職する。
で、また調子悪くなってまた休む。
それを10数回繰り返しました。
前にできていたんだからできるはずだ。
今度こそ今度こそと意気込むだけでした。
今学校に通ってますが、
留年し、今年また危ない状況です。
「シングルタスク」なのに、いろんな手わざを同時にすることが必要です。
感情のホールドや人とのコンタクトも必要です。
はっきり言って苦手な事ばかりなのに、
なぜかできそうな気がしています。
なのになぜできないのか?
リベンジ!
そんな感じです。
やばいです・・・・・。
「都合の悪い事は忘れる・・・。」
20年近くも仕事を休んだり出たりを繰り返したのは、これだったかもしれません。
ウツで休んで、心身が復活すると、
「私は大丈夫だ。」「あれはちょっとしたアクシデントだ。」と感じて復職する。
で、また調子悪くなってまた休む。
それを10数回繰り返しました。
前にできていたんだからできるはずだ。
今度こそ今度こそと意気込むだけでした。
今学校に通ってますが、
留年し、今年また危ない状況です。
「シングルタスク」なのに、いろんな手わざを同時にすることが必要です。
感情のホールドや人とのコンタクトも必要です。
はっきり言って苦手な事ばかりなのに、
なぜかできそうな気がしています。
なのになぜできないのか?
リベンジ!
そんな感じです。
やばいです・・・・・。
「都合の悪い事は忘れる・・・。」
20年近くも仕事を休んだり出たりを繰り返したのは、これだったかもしれません。
ウツで休んで、心身が復活すると、
「私は大丈夫だ。」「あれはちょっとしたアクシデントだ。」と感じて復職する。
で、また調子悪くなってまた休む。
それを10数回繰り返しました。
前にできていたんだからできるはずだ。
今度こそ今度こそと意気込むだけでした。
今学校に通ってますが、
留年し、今年また危ない状況です。
「シングルタスク」なのに、いろんな手わざを同時にすることが必要です。
感情のホールドや人とのコンタクトも必要です。
はっきり言って苦手な事ばかりなのに、
なぜかできそうな気がしています。
なのになぜできないのか?
リベンジ!
そんな感じです。
やばいです・・・・・。
「都合の悪い事は忘れる・・・。」
20年近くも仕事を休んだり出たりを繰り返したのは、これだったかもしれません。
ウツで休んで、心身が復活すると、
「私は大丈夫だ。」「あれはちょっとしたアクシデントだ。」と感じて復職する。
で、また調子悪くなってまた休む。
それを10数回繰り返しました。
前にできていたんだからできるはずだ。
今度こそ今度こそと意気込むだけでした。
今学校に通ってますが、
留年し、今年また危ない状況です。
「シングルタスク」なのに、いろんな手わざを同時にすることが必要です。
感情のホールドや人とのコンタクトも必要です。
はっきり言って苦手な事ばかりなのに、
なぜかできそうな気がしています。
なのになぜできないのか?
リベンジ!
そんな感じです。
やばいです・・・・・。
「都合の悪い事は忘れる・・・。」
20年近くも仕事を休んだり出たりを繰り返したのは、これだったかもしれません。
ウツで休んで、心身が復活すると、
「私は大丈夫だ。」「あれはちょっとしたアクシデントだ。」と感じて復職する。
で、また調子悪くなってまた休む。
それを10数回繰り返しました。
前にできていたんだからできるはずだ。
今度こそ今度こそと意気込むだけでした。
今学校に通ってますが、
留年し、今年また危ない状況です。
「シングルタスク」なのに、いろんな手わざを同時にすることが必要です。
感情のホールドや人とのコンタクトも必要です。
はっきり言って苦手な事ばかりなのに、
なぜかできそうな気がしています。
なのになぜできないのか?
リベンジ!
そんな感じです。
やばいです・・・・・。
アスリートA氏と、元オリンピック金メダリストのI氏は、とても良く似ている。
私は前からそう思っていました。
A氏引退後、彼らがハワイで落ち合ったらしいとの報を聞き、お互いの辛さが最も分かり合える2人だろうなと感じました。
某SNSでA氏引退に関する日記を眺めると、まさに『多数派のマイノリティいじめ』の様相を呈していました。義憤にかられた私は、友人の日記に次のようなコメントを投稿しました。
* * * * *
…A氏とI氏には、王者として皆から何を求められているか=無形の空気を敏感に察し、常に自らをコントロールして「如才なく振る舞う」安全機能が、生来的に備わっていないようです。
ただ、彼らはその安全機能を持たないからこそ、「反応の早さ」が勝敗を分ける格闘技界で、若くして頂点を極めることが出来たのだろうと感じます。
「品格がない」と異分子を攻撃する大多数の人間は、安全機能を備えています。
それは、社会生活を上手に生き抜くための能力です。
けれど、生きるか死ぬかの極限状況では、役に立つどころか足枷になります。
脳に安全機能がついている限り「判断に少し時間がかかる」から。
伝統系格闘技に必要なのは「強さ」より「品格」という価値観がはっきりした今、今後は品格重視でアスリートを育てることになるでしょう。そうなると、A氏に匹敵する天才は、もう世に出ないと思います。
多数派の力を頼んで異能の異分子を排除する世界は、魅力を失い、やがて必ず衰退するでしょう。
* * * * *
ジャイアンは悪いかも知れないけど、いじめっ子集団はもっとタチが悪い!
実際問題、反省できるタイプの方なら配慮もしてあげたいと思うのですが、他人を利用しても感謝もせず、サポートされたことはすぐ忘れ、自分の損得しか考えず相手を搾取して一番になっていく・・こんな一部のハイパーなジャイアンがそばにいたら、どう接すればいいのでしょうか。
怒ればメンタルになるか、報復の方法をしつこく考えたりするし、ほめてあげれば、一人勝ちを満喫して感謝もしないし、助けてもらったことも忘れてしまう。
結局そこまですごかったら離れるのが一番だと思うのですが、職場・家族等離れられないときもある。
そんな時、どうしたらいいんでしょう?
集団で叩くのが一番てっとり早いけど、それはしてはいけない。そんな時、どう行動すればいいのでしょう?全くわかりません。どうか教えてください。
「自分たちは周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん」
という感覚は、おそらくジャイアンである自分が、同じタイプであろうと思われる人々に、(多数派の人に対してよりも)より強く感じてしまいます。
心理学的な意味の近親憎悪とはこういうことでしょうか…
前回発言したジャイアン母とのバトル経過なのですが
このバトルを振り返って・・
先生の言葉の≪ADHDは楽をしてはいけない≫の「攻撃性を出してもさもありなんと理解される可能性がある」と、『都合極まりないのだ』この言葉を何度もかみ締めました。
母をお金で世話をすれば、一見、私の話も聞いているかのような態度でした。
私の甘い態度が問題を更に悪化させて、潜在化させていました。
≪多少なりとも改心して、私に愛情を持てるようになったのだ≫と勘違いをして安心しました。
もちろん、現実は全くの正反対でした。
母は「口出すな、金だけ出せ」と言っている事にも気が付きません。
年金が無いし家があるから生活保護も受けられない。心底、困っている-それは理解できます。
自分なりに計算して渡せる可能な上限を伝えました。
それを書面化してサインさせました。
母が受取ったお金に私も一切の口を出さないと説明して。
サインしたものの母は納得しません。
なので、私が母にいったいいくら渡したと思っているのかと・・領収書つきで、全て合計した金額を見せました
すると母から「70過ぎの親をバカにして、酷い事をよく言える。私があんたを育てたお金はじゃあどうするんだ」・・と言われました。
元々は母の使いすぎから、破産するのではという危機感から問題が起きました。私が我慢して節約して、母がお金を使う。おかしいです。
親戚に娘に家を乗っ取られると泣いたらしく、全く意味がわかりません。
母に年金が無いのは私の責任ではないのに。
そして、何よりも困っているのは
「娘は旦那が大事になって、親が邪魔になった。死んでほしいと思っている」といじけてしまった事です。
放っておくべきなのか、いったいどうすればいいのか。
大事に思っている事と、出来ることに限界がある事とは別なのだと
必死に説明しましたが。
私は母が「私の理想とはかけ離れた人」という真実を受入れらました。
心底、がっかりでした。
でも・・母の真の姿を見ても、否定されても
恍惚感を伴う、あの恐怖で覆われた私の攻撃心≪消えてなくなりたい衝動≫は起きませんでした。
母は最終的に突きつけられても、相手も現状も何も理解出来ません。
>多数派は発達障害が上に立つと決まって叩き潰そうとする。「自分達は周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん」という心理だろうか?。
この説明は、すごーく理解できる分析であり、自分の感覚にピッタリきました。
私も、常識的ではない旦那との結婚生活を、
普通(多数派)なら、旦那の「変」さに早々と気付き、早々に離婚の運びとなったでしょうが、
共依存(であったと考えられる)関係に陥って、長々と一緒に過ごしてしまいました。
その時々の辛い体験は、記憶としては残っていても、精神的苦痛としては忘れています。
だから、別居などという今は、人から見たら不幸な状況なのでしょうが、
「都合の悪いことは忘れる」・・・特徴を持っているのか?
共依存の相手から離れさえすれば、悩んだり落ち込んだりして精神的身体的に病む姿は全くなく、
日々、自分らしさのまま生きて、KYな自分にも気付きながらも、元気でいられることに、顔がほころびます。
まさに、引退会見の翌日、空港で思わず笑みがこぼれてしまった『アスリートA氏』の如く・・・
A氏を、私のような人間と一緒にしては申し訳ありませんが、
A氏について、こう分析したYANBARU先生は、すごい!!です。
記事と関係なくて申し訳ありませんが、報告させてください。
1月、ADHDの過集中の回で投稿させていただいた浪人生のあみです。
実は受験、また失敗してしまったのです・・・。
とは言ってもセンターが良かったで受かった女子大があるので2浪はないのですが、一般受験はすべて落ちてしまいました。
やんばる先生もそうですが、ADHDがあっても高学歴のひとはいるし、自分もまったく勉強しなくても進学校に進めたりしたのですが、大学受験はダメでした。甘かったです。
思えば一日中眠くて集中できないし、集中できたと思ったら次の日つぶれるし、改善するお薬もでないし、不利なことばかりでした。
自分は親族が高学歴な人ばかりだったので、それもあって「頑張れば私もできるはずだ」と思っていたのですが、やはりADHDには逆らえませんでした。直前になっても集中できませんでした。
「好きでないことを無理やりやっても実を結ばない」
そう、深く実感しました。
結果は残念ですが、自分のダメなところをしっかりと直視できたようで、逆に清々しくも感じます。後悔はありません。
傍から見れば、私は受験生のクセに寝てばかりだったかも知れませんが、それでも私の精一杯でした。
ダメなところはダメということで、ADHDの性質は大切にしながら、これから大学4年間、ADHDの良さを活かせる何かを見つけたいと思います。
私の投稿にご意見をくださったぴよよさん、どうもありがとうございました。今はゆっくり休みます。
記事に関係のない長文、失礼いたしました。
あみさんへ
はじめて投稿するNKと申します。
受験、お疲れさまです。
私はADHD疑いの者で、大学教員をしております。
家族も発達障害の疑いがありますが、皆教員です。
日本の大学の試験は、発達障害の方への配慮がないので大変だったと思います。
まずはゆっくり休んでください。
こころもからだもつかれているはずです。
そして、自分は何に向いているのか、何がしたいのか、この機会によく考えてみたらよいと思います。
大学入学後、資格取得、編入学、転部、院進、留学などたくさんの分岐点があります。
大学への入学は通過点に過ぎず、これからが大事。
そのことをお伝えしたく、筆を執りました。
無自覚ジャイアンのモラハラにあった者としては、、、
仮にA氏がジャイアンだとしても、障害者として扱う配慮を多数派側がしない(できない)のは本人に自覚がないからだと思います。
>自分達は周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん」という心理だろうか?
叩かれずに上に立ち尊敬されてる発達障害者もいますから、「成果さえあげれば暴力事件を起こしても良いという事にはならない」というのが今回の多数派の心理だと私は思います。「暴力」は被る迷惑の中でもレベルが高いですし、頂点に立つ者は暴力を振るって反省しなくても良いというモデルをTVで写し続けるわけにいかない事情もあるでしょうし。お笑い界のS氏にも言える事で、関係者は彼の暴力問題に相当苦労しているのではないかと思います。
発達障害の様であっても、自覚が無く周囲がいつまでも尻拭いすることで本人が「責任」を学べないなら、他人からは「そういう人(個性)」として扱われても仕方がないと思います。誰かがあなたは発達障害ですと教えるべきなのかもしれませんが。。。自覚の無いことが頂点を極められた理由の一部という事もありえますし。。。それにA氏本人は自分に困ってないように見えます。私のモラハラ夫もそうでしたが、困ってない本人が受診を考えるはずもなく、自覚してもらうのは困難を極めます。成人の無自覚モラハラDVジャイアンが受診にたどり着く道はあるのでしょうか?
ともあれ、暴力は、まずいと思います。
多数派だろうが少数派だろうが頂点を極めてようが。
初めて投稿します。
ADHDの診断を受けていて、ジャイアン型だと自負してますす。
>自分達は周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん
この発想は、多数派ではなくいかにもジャイアン的ではないでしょうか?
なぜなら、私が抱く感情そのものだからです。
成果を上げて偉そうにしている人に無性に腹が立ち、
何様か!?と言いたい衝動に駆られます。
自分の自己突込みが強く、自己突っ込みのない同類に腹が立つのは、嫉みの一種でしょうかね(トホホ)。
多数派なら、実害を受けてる近い関係でもない限り、
気を使わず成果あげてるから云々なんて理由で
「許さん」て感情は湧かないと思うのですが。
少なくとも私の身近な多数派さんたちはA氏について
「あ~ぁ。(大人になって)衝動を自分で抑えられず暴力振るうようでは、、、せっかく強いのに残念。」
という感じです。
こんな事を書きつつ、自分は同類ジャイアンを批判するほどできてるのか!?
と自己突っ込みが始まっています。
「人格も実力のうち!」と、自分に言い聞かせる毎日です。
続投すみません。
書いていて思ったのですが、
実は頂点を極めた発達障害を潰そうとするのは、
それを嫉んでる発達障害ってことはないですかね?
A氏問題の火付け役も、
もしかしたら自分のように「許せない」ことが多い発達障害の人なのではと思えます。
今思えば、多数派が「まだこの話で盛り上がってるの?」とシラけてる中、
ワイドショーに熱くなり続けているのは自分でした。
友人に「もうよくない?そこまで言うことか?」
と言われて過集中状態だったことに気づくことが多々あります。
遠からずいつかA氏のことがこのブログに出てくると思いました
私がマスコミを見ていて嫌だったのは
散々たたいて辞めてから
でもA氏もその競技を愛していた
とか
あまりにも早く頂点にたったから品格を学べなかった
とか
本人をかばうような記事コメントがではじめたこと
発達障害への教育システムがなってないならA氏が問題なのではなくこれからも品格のない人はその世界からでてくるだろう
辞めたらおしまい
みたいな空気
散々叩いたけどまぁすごい人であった
みたいなマスコミの論調
汚いものに蓋
って感じで本当に嫌です
しかもなんの解決にもなってない!
暴力は確かにいけない
しかしそれも過集中で短期になっている所に被害者が火をつけたから。
周りと本人が正しく認識してさえいれば!
こんなことがくりかえされない様祈る
ミユさんやもぐらさんの意見は、
そうかも・・・と考えさせられました。
確かに、ADHD特徴がかなりある私も、もぐらさんと同じく、
>成果を上げて偉そうにしている人に無性に腹が立ち、
何様か!?と言いたい衝動に駆られます。
・・・といった感情は、日常茶飯事です。
そして、そんな自分に自己突っ込みしては、落ち込む毎日です。
けれど、
>多数派は発達障害が上に立つと決まって叩き潰そうとする。
・・・ということも、あり得る気がします。
なぜなら、多数派は発達障がいのある人の(コミュニケーションが苦手ゆえの)人の良さに漬け込んで、言葉巧みに利用している所があると感じているからです。
なので、利用していたつもりなのに、(想像力の乏しさゆえの)素直さ(疑わなさ)から、一つの事にのめり込み、その結果『強さ』を形に残したりするもんだから、
そこで、
>「自分達は周囲に散々気を使って生きているのに、気を使う努力もしないで成果だけ上げるのは許さん」
・・・という心理が沸き起こる気がします。
といっても、多数派の心理など私なんかに、知る由もありませんが・・・
正直なところ、引退させられるような重大な過ちなのか?と思います。
怒る権利があるのは被害者本人だけだし(示談も済んでいるのに)、協会は制裁や罰を与える権利はあると思うけど、辞めさせて終わりって何なのか?と思う。
マスコミは大衆にウケるような吊るし上げは得意ですよね。
「スポンサーからの規制が多い」から本当に国民にとって大事なことは報道しないくせに、一個人相手にそこまでバッシングするか?と思います。
社会性の障害をもつASとしては、
社会性の障害をもたない方は、多数派であろうとなかろうと、
上に立った人間を引き摺り下ろそうとすると思います。
金沢沢大学で、社会性の障害を軽減すると研究を進めているホルモン・オキシトシン。前に調べた時に、このホルモンを投与すると、嫉妬とか妬みという社会的感情も強くなるという海外(確かニューヨーク市大)の研究を目にして、さもありなん、と思いました。
社会性の障害は、私自身には他人を羨ましいとかいった気持ちを抱かないという形でも顕れていますから、このホルモンを鼻から吸入して摂取するとでそういった感情を持つようになったら嫌だなと思いました。社会性とやらは諸刃の剣ですね。
ASの自己中心性は、状況を支配しようとするから、どうしても人より上を目指す。ジャイアンさんの中心志向性も同じ。
社会性の障害をもたない方は、上を目指すだけでなく、他人を引き摺り降ろすことで、相対的に自分を上に持っていこうとする。
多数派の方々などは、自分がそういう気持ちを持っているから他者のそれにも敏感で、察知すると身をかわす、撃退する術も幼少の頃からの体験でお持ちなのでしょうね。
前から私の脳に引っかかっていた存在でしたが、頭の中で言いたいことは今まで寝かせてました。
もし秩序を重んじるために、本人の自覚を促し、生き方を変えさせるのなら・・・結論から言うと、私は無理だと思うのです。
アスリートを統括する、一番上の団体では。
そして、マスコミでも無理です。ヤンバル先生のように中を垣間見たことはありませんが。
自体に変化を起こすなら、チャンスは二回あったはず。まず鬱になってかん黙になった時。
出身国へ戻したのに、巨体が動かなければヘリで吊るしてでもそれ相応の医師へ連れていく理由は付けられたはず。ご実家にはそれだけの財力もあったはずです。
口を効かないのは本人の責任。
本人がすぐ甘やかされたがっていたとしても、もしそうしない選択をしたらした者は責められてはいけない。
本人がそれを望んでも仮に出身国もそれを望んだとしても、心地よく共依存させない甘やかさない者の責任では、ない。
そういう前提で行くなら、変わった見方をすれば、口を効かせるまで、周囲はここぞとばかりにもっと変わったことをしても良かったのではないかと。だから目的を達するためなら例えばヘリやクレーンで吊るしても批判される根拠はなくなると思うのです。
目的さえ達成すれば、本人も過ぎたこととしてこだわらないでいられるはず。その位の大物の器はあるのではないでしょうか。
ただ、日本に戻すならば日本もそれ相応の用意をしなければならないでしょう。
彼の人権、社会的地位、人気、組織の中の扱い、アスリート仲間の感情的な自分への扱いや尊敬、今まで得ていた特権、それら全部がそのまま保証されるのか、また、その中の一つでも落とすなり変化が生じるなら、誰かが責任もってその理由を筋道立てて話せるのか、その準備が出来ないと、無理。
今の日本に、それが出来るとは思えませんよ。だから無理だと思いました。
続きます。
続けます。
次が最後の暴行事件を起こした時。この時は既に奥様にも離婚されていました。
処分はまず警告にしておいて、発達障碍まで行かなくても、暴力衝動を話の切り口にして、上手に話を切り開いてくれる医療関係者に相談相手を求め、そこから長い時間をかけて発達障碍の可能性に話を進めていく道もあり得たと思います。そこまでしないなら解雇、という選択支だともっと、偉い人たちにも体裁が付いたような気がするのですが。
そして、本人も周囲の人(色々な人が沢山いるのでしょうね。)にそれを要求するチャンスでもあった気がします。自分で動く権利と、責任も感じられれば、リゾート地の他にも行くことと、することはあったのでは・・・。
発達障碍と“品格”についてついつい深くかんがえてしまったのですが、これからは、当事者であれ多数派であれ、あの山(過去コメント参照・・・。)のど真ん中に住む人間は全員、国に存在を大切にされない時代であることを自覚するなら、せめて共通項を持つ当事者同士位はどう振る舞うべきかを改めて考えあってもいいのではないかと思いました。
(もちろんふもとに住む方達もまた別な試練がありますよ。解決しない試練が。こんなこと触れるべきではなかったのですが・・・すみません。)
ジャイアンもASも、日々起こることで、理屈で仕方が無いと分かるどうしようもないことでも、自尊心や自意識や美醜とか過去に一度刷り込まれた物とか気になる事実を見聞きすると自動的にスイッチが入ります。
頭の中で異常反応してビリビリ放電します。中には過剰受信も過剰行動化もする者もいる。
ただそれに自然に振り回されているだけだとどうなるかも多くが経験してきてうんざりしています。情報収集が得意な人は事例も沢山見てきているはず。
いつもすみません。まだ続きます。
続けます。
ヤンバル先生のように困難と具体的に向かい合ってくれる支援者に恵まれた、ほんの、ほんの一部を除いては、人に話に行っても違う話に脱線させられるか、私のように“人”も物理的に消えていなくなるか、答えが見えないまままた社会という戦場に体よくたらい回しをされるか、ついには私より弁が立つ者には口を閉じて自分の面子も放棄、保身すらも出来なくなるように薬を飲まされるかしか、当事者が踏まされる道が残らなくなってしまいます。
そして私達は最後に残る“ビリビリ”した反応だけに支配されていくことでいいのでしょうか?
誰に何の義理があって私が野生動物に返らなくてはならないのでしょう!
違う重篤な病気のかたなら、これが人前に出ても、医師の前に出てもスイッチが入りっ放しのはずです。刺激された時だけでなく、現実と幻想が強引に混沌とし、常時そこから抜け出せません。だから薬は有効なのでしょう。
しかし私達自覚済みの発達障碍当事者は、面倒なことに原因を取り除いたり、初めの刺激以上の刺激を与えられれば、いい刺激でも良くない刺激でも、スイッチは頑張って切り替わってしまいます。
そして、それは多くの立場の人間が多くの判断基準で多くの迷惑な偏見を勝手に持つ状態を招きます。または混乱の中で、理解を半端なまま、放棄します。
その、迷惑で勝手な偏見や先入観から今我が身を守る、少ない方法の一つが“品格”とは言えないのでしょうか。
しかし確かに、発達障碍に“品格”は曖昧で教えづらいかもしれません。すぐに大勢に褒めて欲しいジャイアンにとっては、即効性のある手段で無いし、個人対個人で褒めて欲しいASにとっても相手のいちいちの反応が実行する基準になりがちでしょう。
揺るがない独自の道徳規準に基づかなければならない“品格”をきちんとこなすのは、私も含めて難しいかもしれません。しかし努力する価値はある・・・。
そんな曖昧な結論だからこそ、今まで強化されずになぁなぁで済んできてしまったかもしれませんね。
私は、
人を妬ましく感じたり、
成果を上げて偉そうにしている人に無性に腹が立ったりします。
しかし、
>他人を引き摺り降ろすことで、相対的に自分を上に持っていこうとする。
・・・という感情は持ち合わせていません。
その点で、私も
(ヒゲ達磨さんの言うところの)社会性の障がいを持っている側の人間で良かったように思います。
人を蹴落として、自分が上(中心)になった状態は、
自分が上(中心)になったとは言えない、と考える人間です。