私は自分が死んだほうが良いのかと考えたとき、「これまで殺してきた動物」のことを考えることにしている。
(さすがに結婚後は家族への責任のことを先に考えるが)
毎日のように、鳥や豚や魚を殺して食べてきているわけで、この事実は消えない。子供の頃に飼い切れないで殺した虫や海の生物も多かった。血を吸いに来た蚊も数え切れないくらいにつぶしてきた。高速道路で走ればトンボがフロントガラスにぶつかって死んで行く。
私の人生に関わって死んで行った生命を「関係ない」「当たり前」とは言えないだろう。中途半端に死んだら、食べてきた、殺してきた動物や植物などの「生命」に対して申し訳が立たない。
誰も「手が全く汚れていない」人などいないと私は思う。
違うのは、「そのことを自覚しているかどうか」だろう。
時に私も過集中で自己正当化の木に上ってしまうことはあるが、大事なことは、その後で自分自身の立場について考え直すことだ。
単純にこれまで食べて殺してきた生命のことを思い出すだけでも、自分の人生にベストを尽くすしかないという結論は導き出せる。食べてきたことだけでも、私にとってはどんなに何を埋め合わせしても埋めきれないような負い目だ。
社会的に迷惑をかけてきたことはなおさらのこと。
私が最後に取り出す「究極の自己突っ込み」だ。
生き続けることは責任であり、その場その場でベストを尽くし続けることしか出来ない。
どんな理由があろうと、死ぬことを人のせいにするのは根本的な無責任であると私は思う。
ジャイアンはその「中心志向」のために意識して努力し続けないと万能の神になったような気になってしまう。
その中心志向を「反証」し続ける努力が必要だ。自己突っ込みはそのために役に立つプラスの努力となりうる。
・・・わたしはここへ来て、やはり「母親」のことが最大の自己突っ込みになっているのだなと思いました。
「可愛がってくれた記憶」とか言うのではなく、最期までAS父に迷惑をかけて、周囲を振り回して、
(父は「愛着」しているので、そうは思ってはいないかも知れないけど、)
ああいう「ジャイアン」になりたくない、という頑ななまでの思い込みが、自己突っ込みになってる気がします・・・
・・・確かに母は世間の扱いには長けていた。
その長所だけを(難しいけど)引き継いでいけないかなと思っています。
PS;これは「依存型ジャイアン」になりたい、という意ではむろんありません・・・自分で依存型かなぁ、とふと思うこともありだけど、それにしちゃKYひど過ぎ。今回のコメントも、先生が極めて哲学的なことを仰られているのに滅茶KYかも。
更に、自分なりの究極の自己突っ込みをするとすれば・・・
その「母殺し」をやっちゃったのは自分なんで、であるが故に葬式には出たくないけど、
しかし一生、自分の手が穢れていることは事実なんで、それに対する”埋め合わせ”と言う感覚とはちょい違うんですが、
だからこそ寿命まで生きぬかなきゃならない、とでも言ったらいいのかなぁ。
「マクベス」の「森が動いてくる」までは、自分では死ねない、と言ったら端的でしょうか。
阪神淡路大震災の時に渦中にありながら、十分な救援活動ができなかった、せまりくる火事を見てそのなかに生き埋めになってまだ助けられる可能性がある人がいるということなど理解も及ばず、ただその場から逃げることしか考えられなかった、あの時の記憶はなにかの拍子に再現され、究極の自己突っ込みとなっています。
私は、どこまでも自己中でワガママな人間なので…「死にたい」と思った時、周りの人への迷惑や ましてや先生の仰る犠牲にしてきた命の事など 考えてません。ただ、ある時気づいたのが 「死にたい」と思っている理由が その時の環境や状態がイヤで 手っ取り早く逃げたいと思っている事。という事は、別に死ななくても 環境が変わればいいじゃん、と思ったら ラクになって 冷静に 何がイヤなのか問題を見つめ どうすればいいか 自分で考えたり 他者に助けを求め素直に意見を聞く事ができる樣になりました。後で考えると 何故この程度の事で…?と 自分を情けなく思いますが、今は、「死にたい」と思うと もう一人の自分が 「ああ、また大げさに騒いで問題を直視してないよ」と横から クールに呟きます。 このクールなもう一人の自分が どうにか 自己中な私に 歯止めをかけてくれてます。(とはいえ、自己中な私が勝ってしまい 一人反省会がしばしば開かれます)
前向きジャイアンのTamaです。
なるほど!の一言です。
この考え方は、心の奥の、いつでも取り出せるところに
置いておこうと思います。
今はまだ、私自身が若いため(若いと言っても30手前ですが)私の究極の自己突っ込みは、
「これだけ悩み苦しんだ経験は、形を変えて世に出さなければ!」です。
いつか世界が本当に自分を中心に回り出し、自分に巨大な力が宿ると信じているんです。
今はまだ、その過程であり、生きること自体が大切なのだと思っています。
その時に成し遂げることが、先生のように誰かを救うことなのか、一瞬の輝きを人々の心に残すことなのか、世の中の仕組みを優しいものに変えていくことなのか。
まだまだ模索中、ジャイアンは止まることなく体を動かしながら、進んでいくのみです。
先生は頭を使うことが出来てすごいと思います。
私はジョギングしながらとか、絶え間なく体を動かしていないと思考が止まってしまうので…。
わたしの場合、「死ぬぐらいならすべて放り捨てて自分のことを誰も知らない新たな場所へ逃げろ」と言い聞かせるようにしています。ネコさんと同様、その時の環境や状況がいやで、手っ取り早く逃げたいだけのことが多いので。
こう考えると、わたしにはここだけじゃなくて逃げる場所があるんだ、と理解すると自由な気分になれて冷静さを取り戻せます。そして「死ぬしかない」と切羽詰っていたことがすぐに馬鹿馬鹿しく思えます。
今はまだ独身で子供もいないので、このやり方で落ち着いていますが、養う家族ができたらこうもいかないのかなー、とも思います。
わたしは死に対する恐怖感が希薄なのか、死んだ先への好奇心が強かったりするので、「この人生もういいや、はい次」みたいなところがあります。次は何があるのかわくわくする、といったような。
この自分特有の楽観的な感じと、周囲の人間の「死」に対する悲観的な感じが、わたしの中で同居している感じがあるのでブレーキはかかりますが。
一度はカッコつけましたが・・・
>ASにとって、異性って苦痛です!
私(ジャイアンAC)の場合、私自身は別に異性は苦痛じゃないんだけど、向こうが最終的に私を”苦痛”らしい・・・
これが、実は最大の自己突っ込みかも(知れない。)
「共依存」は困るけど、一度はまともな恋愛しないで死ねるか!!が、(今気付いたけど)『生き続けることは責任であり、その場その場でベストを尽くし続けることしか出来ない。どんな理由があろうと、死ぬことを人のせいにするのは根本的な無責任であると私は思う。』の原動力になってるかも。(なんかせこい?)
私も自殺未遂経験は何度かあります
救急車騒ぎにもなりましたし電車も止めました
ごめんなさい
今思うにあの頃は甲状腺疾患もあり
ほんとに思考がどーかしてたとしかいいようがありません
暇があるとネガティブになるので
忙しくしてポジティブになるようにしています
またセントジョーンズワートが効くので、飲んでいれば
落ち込まず
イライラせず
比較的平和に生きられます
前は自分も周りも自分の理想通りにしよう
と必死で
そうならないと死にたかったみたいでした
今は他人は手の平で転がす
自分はとにかく努力する
そして感謝する
今は自殺願望は全くありません。
生きるのが辛いと思ったことは数限りなくありますが、死のうと思ったことは不思議とありません。
死んだらほんとうにラクになれるのか? 疑問です。
肉体はなくなっても、魂は生き続けるかもしれない。
そうだとしたら「自分だけ死んでラクになりやがって、どこまでもズルイ奴だ!!」と自己突っ込みすることになって死ぬ意味がなくなります。
不治の病で延命治療を拒否するのは許されると思います。
横ズレ、すみません。
>「共依存」は困るけど、一度はまともな恋愛しないで死ねるか!!
いやいや、私の目にはこれが本来の大人が持つ健康的な願望だと映りますよ。
私は頭で考えすぎるから、結婚に至る恋愛と遊びの恋愛に頭の中で分けて白黒つけているから、「あんな進展はキャパ越えるから駄目、これはこうだから駄目」と結論付けて終わります。
白黒無しに本気恋愛をしようと意気込むのは、それはそれで間違っていないと思います。それだけむーんさんは、恋愛では健康な多数派に近い価値観を持ってるのかも。少なくとも私よりは・・・。
私は、恋愛とかときめきに向けられなくなったベクトルが、あらゆる雑談に向くようになりました。雑談をクリアしなければ理解も協力も無い、誠意も努力も泡と消えると思っていますから、現実でもインターネットでもせこいを越えてほとんど強迫です。
どこで合いの手を入れるべきか、どこはうけておくタイミングか、私のような人間はどこは黙っておくべきか、どの自己顕示を捨てるか、どこまで黙ると嫌味か、どの話題は何のサインか、発散で出しただけの本物の気晴らしか・・・人より察知が遅い分、裏を読んで、読んで、黙って読んで、特に職場では失言を避けて何ヶ月先まで予想される損を避ける計算をして、理解や協力や助けを受けられるための保険を掛けます。自分が気晴らしに飢えていることを自覚している時期もありました。それを打ち切った頃の気分は忘れられませんし、未練も時々ぶり返しますね。
女性が何人もいる場では、雑談に対する姿勢が命綱です。
雑談の参加姿勢によって、互いの価値観、体調、悩み具合、悩みの優先順位度、存在価値等まで察知できるからです。
だから人と群れて遊ぶということは、未練があっても切り捨てなければならないのが現状です。
後腐れ無くできる人が不思議に思えることもあります。
私は心の中では、刀のつかに手をかけ、いつ勝負になってもいい構えで、次ぎも雑談する資格を失わないように、平凡な話し合いやここのようなコミュニケーションをすることが多いです。
だから生きるのは疲れます。
ぴよよさんのコメント、AS的で面白かったです。
>私は頭で考えすぎるから、結婚に至る恋愛と遊びの恋愛に頭の中で分けて白黒つけているから、「あんな進展はキャパ越えるから駄目、これはこうだから駄目」と結論付けて終わります。
これは「世界に対する自分の位置づけ」がしっかりしてるからじゃないのかなぁ。家のAS弟もてましたが、「結婚前提の相手」と「ただの女友達」を、ADHDからすると厳密すぎるほど厳密に分けて付き合ってました。
(ADHDは場当たりなのであまり考えない)
>私は心の中では、刀のつかに手をかけ、いつ勝負になってもいい構えで、次ぎも雑談する資格を失わないように、平凡な話し合いやここのようなコミュニケーションをすることが多いです。
・・・これがAS弟もそうなんだぁ。正月しか家に帰ってきませんが、「人が近い」らしく、(家族なのに!)一見自然体ですが、びりびりするほど気迫をかけて”雑談”(・・・もはや”雑談”ではない気が)しているのが分かります。
・・・ただ、私が多数派と同じ健全な恋愛観を持ってるかはどうかなぁ。恋多き(←過去形)友人に、「恋愛は人間関係、ミズモノだから、それを目的とすると共依存になってしまう・・・それより、自分がしっかり生活して生きがいを持つ事が大事、そうすればいい恋愛は後からついてくる」と諫められました。
バツイチメル友(←ブログのプロフィールに既婚/未婚ではなく、”離婚”と書く面白い人)にも、「一人で頑張ってるときが今思うと一番もてた、男の尻を追っかけてもてたことは一度もない」と・・・
PS;私は、恋愛すると向こうが主体になっちゃうから、結果的に「重い」みたいなんですよね~。倒れるまで一人で頑張る気迫でないとやっぱダメみたい。
よく考えると・・・
この年まで家にいて、未だに小学校高学年レベルのことしか出来ない(料理の手伝い、自分の洗濯物、掃除はほとんどしなくて雨戸の開け閉て位)自分って、
それだけで究極の自己突っ込みに値すると思った・・・(@_@。
(しかし、何故男性は稼げれば・・・それって大変だけど・・・家事をしなくていいのかな、とこれまた小学校5年生レベルの疑問にぶち当たったりしています。)
あれこれ理屈言わない方が本当いいと多数派ヘルパーさんもYANBARU先生の言う事は正論だと仰ります、はい。
PS;最近、父は私が少し人間らしくなってきたのが嬉しいのか時々叱ります・・・よかったよかった。凹んでばかりでなく、調子よくしてることも少しは必要ですね。
子供の頃から入退院の繰り返しで、アナフィラキシーや以前書いた救急車で搬送中に意識不明や、
とにかく自分の意思とは関係なく「死にそう」になっているせいか、自ら死にたいと思ったことは、とりあえずありません。
アナフィラキシーのときも、近所の小児科の先生が私の体質を理解してくれていて、
規定量の半分した注射しなかったそうで、そのおかげでなんとか命拾いをしたようなもの・・・と後から聞きました。
その時は小学生だったので「死に対する恐怖」と言うより、苦しさに対する恐怖が強くて、
その後イコール死、という関連思考に移っていった感じです。
なので私の場合は「体調不良」が自己突っ込みの序章・・・
ここからスイッチオンになるパターンがほとんど。
今もここ1週間程、デトックスモードで体調悪に引きずられそうなところを、なんとか持ちこたえている感じです。
こういう時に以外と効きそうなのが、「志高き生き方」をしている人や自分のやりたいことに直線で挑んでいる人を、TVでも見聞きして「比較」「相対」思考をいい方向へ使って軌道修正・・・・
あまりやりすぎると自己評価低になるのでほどほど程度と、自分にも似たような気質がある!!と確認するくらいがいいのなと・・・。
そして、超不調なときと比べるとなんとかラクとか、「とりあえず」・・・と言いつつ何かやるとか、
薬は使えないので、ひたすらこのデトックス時期が終わるのを待つのみ・・です。
ココロのデトックスも連動しているようなもの??なのかも・・です。
・・・人間にとって・・・
やっぱり「ハイヤーパワー」って必要なんだろうか!?
・・・ミーティング仲間にメールして、やはり「信仰」を持っている人は強いなと思った・・・
(神様に「突っ込んで」もらっている訳だから当たり前かも知れないが。)
家は、前にもカキコしたように、父方仏教母方クリスチャンで、私がハーフの信仰しか持っていないから、今思うと元彼との最大の行き違いはそれだったみたいなんですよね・・・(ものすごい教条主義者だった。)
おまけに、母が青春時代マルクス主義に一度転んでしまっているので尚良くありません・・・(ミーティング的には。)
神に頼るのと、己に頼るのとどちらがいいのか!?
平均的日本人には、あまりない悩みかも知れないけど、(文字通り)イタイ発達障害の頭で今真剣に考えています。
Keiさん
私も体調不良の時は思考がネガティブです
風邪のひきはじめすら
もうすぐ死ぬかも
と考えます
それだけでなくミスも許せないし、一人で鬱鬱と悩む。やる気もなくなる
熱が下がると同時に
なんだ、風邪じゃん
大丈夫!!
とすぐノー天気になりますが
これはADHDだから?
今は虫歯にやられ気味
早く歯医者いかなきゃ
「虫歯」。
これはもう、鬼門!!
ネガティヴ思考の扉が全開モード・・・。
昨年の春、被せていたものが取れてしまい15~20年ぶりくらいに歯科へ行きました。
が、診察室に立ち入ることが出来ず、過敏症について説明をしたら、待合室で治療をしてくださって、
なんとか無事、終了しました。
虫歯は自慢じゃありませんが、たくさんあります。
しかし、進行させない自信がありました。(過去形)
口の中の不調は、消化器の毒出し・・・
特に奥歯なら「大腸」の毒出し・・
トラブルがあると、食べにくい(痛い)、これは、カラダが食べ物を入れて欲しくないから・・・
という話を聞いて、対策は「小食」。
如何せん薬が使えないので、この手で、10数年進行をストップさせてきました。
ところがこれも、ストレスには勝てないみたいです。
最近、日に日に穴が大きくなってきています。
外的刺激がことごとくダメージに変わっていく感じがします。
今日、緩和ケア病棟へ転院した親戚の叔父さんの訃報が入り、ここでも過敏症には鬼門の「お線香」がダメージになりそうです。
叔父さん、逝くの早やすぎ!もう少し、頑張って欲しかった・・・。
(いささかトピずれですみません)
今日、大手掲示板で昔の知人が自殺したとの報が入ってショックでした・・・
明らかに多数派の、それも神経の太そうな人(でも鬱とパニック障害)だったので、多分掲示板が嫌になっての狂言(ウソ)だと信じたいのですが、やはり結構なダメージを受けました。
セラピストも危険な領域の掲示板だと警告していたので、撤退してよかった。
ここではYANBARU先生がしっかり管理なさっているから、大丈夫だと思うけど、亡くなってしまうとそこで時間は終わりなんだなと感じました。
>中途半端に死んだら、食べてきた、殺してきた動物や植物などの「生命」に対して申し訳が立たない。
同じ感覚を持っています。
小さい頃読んだ『ブンナよ、木からおりてこい』という物語の影響かと思います。
思えば、これも増長した蛙の子が高い木に登り、世の中に打ちのめされる話。ジャイアンそのもの。
しかし私の究極の突っ込みはそれでなく、引きこもり時の私に姉(推定多数派)が放った一喝です。
「人間なんか嫌いだと、何を偉そうな顔をしている。
そんなに嫌いなら、人間が作ったコーヒーを飲むな。人間が汗水たらして作った服を着るな。
裸で誰も来ない山奥にでも行ってしまえ。独りで暮らせ。」
反論など一言も私にはありません。
姉が若くから人間関係に苦労しつつ、手に職つけて頑張っていたことを知るだけに、ますます。
で、現在自分が周囲と人間関係を結んでいるか、というと・・・脱落気味なんですが(汗)
とりあえず、ご近所の皆様と挨拶だけは「保つ」・・・のが目標です。
>で、現在自分が周囲と人間関係を結んでいるか、というと・・・脱落気味なんですが(汗)
とりあえず、ご近所の皆様と挨拶だけは「保つ」・・・のが目標です。
・・・私の場合、まず「おはようございます(orこんにちわ、こんばんわ)」「さようなら」「いただきます」「ごちそうさま」をとにかく意味は考えなくていいから、半年間言えと父に言われて・・・
(あの人もたまには、まともな事をゆう。)
それから、(なんかもうここに書くことかと言う気もしますが)食事を家族と一緒に取るようになって、間食しない(特にアイスクリームを食べない)事を覚えました・・・(あと、遅れたら携帯で連絡する、嘘はつかない。)
本当に幼稚園レベルなんですが(@_@。
礼儀と常識がないといくら才能があってもダメだと、昔『ガラスの仮面』にも描いてあったよな。
>私の人生に関わって死んで行った生命を「関係ない」「当たり前」とは言えないだろう。中途半端に死んだら、食べてきた、殺してきた動物や植物などの「生命」に対して申し訳が立たない。
先延ばしの鬱状態の時、依存による自己突っ込み?の時等に、よく「死」について考えてました。
私は先生のように他の生命と関連付けて考えることはできませんでしたが、「私が死ぬことで他の誰かに迷惑をかけないだろうか?」という発想はしていました。
例えば、駅のホームに飛びこんで死んだら、家族が鉄道会社に多くの賠償金を支払わなければならない…等ですが、何より「もし中途半端に死のうとして後遺症が残った場合、自分で死ぬことができなくなり、一生誰かに面倒を看て貰わなければならない」と思うと怖くて自殺できないです。
このブログに辿り着き、自分の正体を知った今では「これは(誰にも迷惑をかけたくないという)AC的な考えからではなく、無責任に自分の命を放り投げ、残された人達に尻拭いさせる事に対して抵抗があったからだ」と納得できます。
きっと一生自分を責め続けることになるでしょうから、これが私の「究極の自己突っ込み」になると思います。
(続きです)
過去に自殺未遂をしたことがありますが、その時に、元々備わっている人間の「生きたい」という本能故の「生命力の強さ」を思い知り、「簡単に自分で死ぬことはできない」ことを悟ったのも、今現在自殺に抵抗がある理由かもしれません。
なので、自殺に失敗して自分で死ねなくなった時のことを考えて「その覚悟ができてから死ね!」と考えていました。(今では「どうせできないでしょ?」と軽く受け流せるようになりましたが)
ちなみにもう一つ、「自分の先祖が狩猟や戦国等の厳しい時代を生き抜いてきた結果、今自分が生きていられるのに、平和な時代(国)で自ら死のうと考えている自分が情けないし、ご先祖様に申し訳ない」という気持ちもありました。
「死」について、先生のように現実的な物事に結び付けて考えることは少なかったのですが、自殺後のことだけは現実的に考えていて「本当に死にたいと思っている人間が、ここまで冷静に考えたりするだろうか?」と、良い意味で自分の楽観的な性格を思い知らされることもよくあります。
上記の私の「ご先祖様に申し訳ない」というコメントですが、読み返していて何だかおかしいと違和感があります(汗)
平和な国・時代で自ら死のうとしていることに対し「情けない(納得できない)」という気持ちはありましたが、「申し訳ない」は違いますね。(戦国時代のご先祖様なんて顔も知らないし…きっと軽蔑するだろうなとは思ってましたが)
>生き続けることは責任であり、その場その場でベストを尽くし続けることしか出来ない。
どんな理由があろうと、死ぬことを人のせいにするのは根本的な無責任であると私は思う。
私の場合「自分が死ねば、誰かが悲しむ」という発想は全くありませんでしたが、「本当にこれで良いのだろうか?」と何度も自分に問い掛けていました。
「生き続けることは責任」というのは、裏を返せば「自ら死ぬことで、自分の人生から逃げ出す事(丸投げ)が無責任」ということですよね。
そういう考え方はしてました。
どうせ死ぬんだから責任云々なんてもう関係無いでしょ?とも考えましたが、やっぱり納得できなかったです。
自殺という行為自体が「究極の丸投げ依存」ということになり、抵抗していたのだろうなと考えています。