「二つのチャンネル」で述べた非言語的なメッセージへの反応をもう少し掘り下げてみよう。
まずAS積極奇異型は「反応もするが制御も出来る」。ただ実際は制御の「方針」がAS的で多数派とずれるために多数派と同じ意味での「空気を読める」にはならない。
次に合理的ADHDであるが、「反応もせず制御も出来ない」ということになる。究極のKYであるが、徹底して合理的であるため、合理的な理解の下に多数派との共存の可能性は大きい。
さて問題はジャイアン(自己正当化型ADHD)だ。ジャイアンの場合には、「反応はするが制御は出来ない」という表現が一番妥当だと私は思う。ASのウラの言葉である非言語的なメッセージをジャイアンは感知できる。そのメッセージの中に「自分が世界の中心だ」というASらしい前提を感じ取ると、ジャイアンの中心志向が激しく反応して腹が立つのだ。
ここから先がASの人の想像が困難であると思うが、ジャイアンは腹が立つと、そのかんしゃくを表出しているだけで、自分が発する非言語的なメッセージを抑えることも出来ず、当然調節も出来ない。
ほとんどのジャイアンの非言語的なウラの意味への反応は、こういう意味では、幼児的な反応とほとんど変わらないと私は思う。一つの感情があり、それを表する言葉があり、その感情を表す表情や口ぶりがある。それだけだ。
そういう意味では、二つのチャンネルを別々に使い分けられるASとは全く違うといえる。ジャイアンから見れば「二面性」ということになり、ASから見れば、「フォローも何もしない単純さ」ということになる。
唯一つ例外は、ASの愛着の環境で成育する中でボーダー的な非言語的な技術を発達させていった依存型ジャイアンで、非言語的なレベルでASをいとも簡単にコントロールし手玉に取る。
依存から卒業したジャイアンは言語的にも非言語的にもシンプルにライオンに戻る。人を必要とせず、依存することも不要となったジャイアンは狐のように二つのチャンネルを使い分ける必要自体が無いのだ。
YANBARU先生、見事としか言い様がないです。非常に的確な観察と分析です。今まで私が感覚だけで捉えていた事を、見事に言い当てています。
加えて、ジャイアンや合理的ADHD、更には依存型ジャイアンの事まで述べられているというところが、私の人生にとって、これから先、役立ちそうです。
先生、感謝致します。
確かに狐のようですね、わたしは。
ジャイアンの依存がなくなったら、既に身に付いた非言語的な技術も自然となくなるのでしょうか?
わたしにはそれは退化することのように思えます。
例えばADHDゆえにACであることを認めたらその時点でAC的なものが薄れる・・・というのは退化だとは思いません。ACは取り去ったほうがよいと思うので。
ただ、獲得した非言語的な技術を失くすメリットがわからない、といったかんじです。依存に使うためのものだとは考えておらず、実際に職場に受動型ASと見られる女性がいるのですが、非言語的な部分にあまり反応しないでおこう・・・というように役に立っています。(苛つきはありますが、できるだけ省エネで仕事を円滑に進めたいので。)
そして、ジャイアンは「人を必要としない」が前提のため「依存」か「非依存」の2極で書かれていると見受けられますが(違っていたら申し訳ありません。指摘してください)確かに人の助けが欲しい、頻繁に連絡を取り合いたい・・・などと思うことはほぼありません。ただ、理解して口を出さずに見守っていてくれる人はありがたいです。そういう人であればわたしも役に立てることがあれば手を貸したい・・というような情緒的な面は少なからずあります。そしてまた、利用する(これはジャイアンの言葉だと思いますが)という関係もあるとは思います。
なので上記のようにわたしの場合は利用以外でも「人を必要とする」場合もあるため、「依存」か「非依存」の間のグレーゾーンもあると考えます。
また過去のネタを持ち出したり紛らわしくしてすいません。
サンプルとして必要であれば使ってください。
最近のわたしの発言は、狐ではなくライオンであるジャイアンの方々の深く分析する孤独な作業の妨げになるかも?という懸念があります。。。
これを読んで、なんで自分がAS彼に「君は最悪のクライアントになる可能性がある」(実際、彼自身にとってもそうなった訳ですが)と言われたのか、よく理解出来ました・・・
私は、相手が援助職だと(幼少時から親が預けっぱなしだった関係上)、特に相手がAS的である場合、常にそこに上にYANBARU先生がお書きになられている「パワーゲーム」を繰り広げてしまいます・・・
(女友達との関係性で悩んでいた時、ASっぽい女性カウンセラーに相談に行ったら、「あなたは性同一性障害です」というはなはだしい診断を下されて、大喧嘩になったこともあった。)
相手が多数派で、冷静に距離を置いている場合、あまりこの問題は起きませんが、どうも「私の治療法=絶対」というASカウンセラーって案外多いような気が個人的にはします。(ASの教員が多いのと同じで。)
そうすると、私は癇癪を起こす怒鳴る喧嘩になる。AS彼は、いよいよゆうこと聞かせようとやっきになる、以後繰り返し。
全ての「カウンセラー」なるものから縁を切ったら、私のこの「病気」は、治りかけています。
前向きジャイアン、Tamaです。
>人を必要とせず、依存することも不要となったジャイアン
これは私のことだ!と思い、コメントを書きます。
ちょっと前までの私は、チャンネルの切り替えが激しかった。
だからいつも疲れていて、生きるのがしんどかった。
今は違う。
何にも依存せず、自分が世界の中心なのも変わらない。
そして、すべての他人を大きな心で許せる時間が増えたということです。
(もちろん、スイッチが入ればジャイアン全開、相手を叩きのめしたい衝動がわいてきます)
2つのチャンネルで同時にものを考えることができない為、3人以上の人の集まりは苦手でした。場の空気を読むことに対して、2人→3人で、すごくレベルが上がるからです。
今も基本は変わっていませんが、3人以上の時でも何とか過ごせるようになりました。
他人に無関心すぎる自分、人の話を聞かない自分、やりたいことだけ一生懸命な自分。
問題はあると思いますが、快適に生きている今を大切にしたいと、心から思っています。
>唯一つ例外は、ASの愛着の環境で成育する中でボーダー的な非言語的な技術を発達させていった依存型ジャイアンで、非言語的なレベルでASをいとも簡単にコントロールし手玉に取る。
これ読んで、(スレッドの内容からまたしても逸脱しますが)「のだめ」は、「依存型ジャイアン」ではないかと思った・・・
「のだめ」は、千秋サマがいかに「オレ様」を表出しても癇癪起こさない。佐賀の実家の親御さんは、多数派にしか見えないけど・・・千秋サマを見事に非言語的レベルでコントロールしてますよね。「押しかける」とか、「世話焼かせる」とか。(私の、AS彼の元カノもそうだった・・・)
だから何?って感じですが、AS父に小さい時から蹴飛ばされて、(精神的にですが)「基本的に」依存型ジャイアンでない私には出来ないワザだったと感じました。
狐になりすぎていて本日ぶっ壊れました。
昨晩の偉そうな書き込み、申し訳ありませんでした。
土日に両親に会って(ジャイアン母、受動AS?のような父)、感情的にならずに両親の言い分は理解したい、だけど自分は両親のようにはなりたくない、という働きを過剰にしていたみたいで、狐の状態をさらに助長させていたようです。しかし、理解し合えないという理解もしてもらえず、一方的にわたしのやり方を責められた揚句、会話を拒否されました。このショックが大きかったのか、今朝、ボーダー的に大爆発してしまいました。
非言語的な技術を身に付けたのは親と理解し合いたいという理由もあったため、こんなに頑張ったのに自分は受け入れられないのだ・・・と。まったく恥ずかしいですね。
わたしもおとなしくライオンに戻ろうかと思います。人を期待する自分にも嫌気がさすので。そして、チャンネルを切り替えてばかりで疲れました。。。
Tamaさんが書かれているように、わたしも3人以上の集まりが苦手です。途端にに空気がわからなくなり、身体が強張ります。でも、自分の心地よいように過ごしていると、そういったことも緩和されてくるのですね。とても参考になりました。
自分のやり方を理解してもらえない関係は断ち切るなどして(親でも)、できるだけシンプルにならなければいけない、と今朝の爆発後、あらためて思いました。
(両親はわたしとの関係が切れるのを恐れるので少々苦しいですが)
>ジャイアンは「反応はするが制御は出来ない」
先生の仰るとうりです。
自分でも単純で幼稚だと思います。
なぜ私が怒ったのか、私は相手のことをどう思っているのか、全部言葉に表す、ただそれだけです。
相手がどう思おうと関係ない。自分が我慢するのは嫌、それ以上の意図はない。
相手との関係を維持しないと自分が非常に不利になるとはっきり自覚すれば我慢もできるのでしょうが、そんな心境は私にはACの状態でない限りあり得ないかもしれない。
人との関係を維持することに費やすストレスとかエネルギーとか、考えただけで疲れます。
「人嫌い」とはいいませんが、ほんとうに私には人は必要ないのです。
いつか先生が仰ったように、ADHDのほうがかえって「自閉的」というのは私によくあてはまると思います。
ジャイアンは反応を制御出来ない。私が制御し続けたら病気になりそうです。
>なぜ私が怒ったのか、私は相手のことをどう思っているのか、全部言葉に表す、ただそれだけです。
相手がどう思おうと関係ない。自分が我慢するのは嫌、それ以上の意図はない。
>相手との関係を維持しないと自分が非常に不利になるとはっきり自覚すれば我慢もできるのでしょうが、そんな心境は私にはACの状態でない限りあり得ないかもしれない。
これ、うらやましいですエイトさん・・・
私はACジャイアンのため、家ではずっと「我慢」をしてきました。(発病のせいもあります、病気で働けない以上、親との関係を維持しないと、経済的に非常に不利になるので。)
問題は、現在、AS父とヘルパーさんの3人で暮らしているのですが、食事を3人で取っているだけで息がつまりそうです。家族なのに、空気が読めないんです。
>ジャイアンは反応を制御出来ない。私が制御し続けたら病気になりそうです。
とありますが、現在頭痛が止まらず、本当に病気になりそうです。(抑うつ状態は元からでしたが・・・)
AS彼の「普通に普通に」という特訓が、よかったのか悪かったのか・・・困っています。「人との関係を維持することに費やすストレスとかエネルギーとか」で全部元気が消えちゃって、かえって働けないのかも知れないです。
人が、勝手に喋っている図書館とか喫茶店は全然平気なんですが。
私はジャイアン両親に支配されました。
高校生のころはひどい過食や離人症に悩みました。
進学という名目で祖父のところに運よく非難してから、少しずつ自分らしさを取り戻したような気がします。
祖父と暮らして最初にしたことが1年で20キロ痩せたダイエットです。
自分の意思だけで自分をどうにかすることに飢えていたのだと思います。
発達障害の組み合わせの家族、しかも一緒に生活などしていたなら、その事実だけで病人がでる(いちばん弱い立場の人が病気になる)ということだと思います。
むーんさんがお父様と離れて暮らすことが可能ならば、体調はもっとよくなると思うのですが・・
(思うだけでなにもできずにすみません)
私も、実は、大学時代に地方の祖母(母方)のところに避難したかったです・・・が、「地方の大学なぞもっての他」という家の方針のために、何も出来ませんでした・・・
学歴、収入偏重の家に縛られてきた事を強く感じます。
AS彼と恋愛して、初めて「自分の意志だけで自分をどうにかする」ことに挑戦しました・・・それは一時(1年間)は上手く行っていて、家事(料理と洗濯掃除ですが)は全部やっていたし、毎日どこかに必ず外出して誰かに会ってました。
が、彼がいなくなった途端、またこのていたらくです・・・
どうも、いきなり動いて疲れが出ているのかな、とも思うのですがよく分かりません。
早く、AS父親から「自立」したいです。
(連投します)
「早く~したい」と言うのは、先延ばし的表現ですね・・・
20年間これをやってきたような気がします。
ありがとう、エイトさん、何とか自活の方法を考えているところです。難しいですが。
>合理的ADHDであるが、「反応もせず制御も出来ない」ということになる。究極のKYであるが、徹底して合理的であるため、合理的な理解の下に多数派との共存の可能性は大きい。
これを読んで、前回までのテーマに、みなさんがあんなに熱くコメントし合っているのに、
私は、大して感じるところがなく、反応できない理由がはっきりしました。
そして、YANBARU先生の分析では、ADHDの可能性が高いものの、多数派の知り合いも沢山いたりする理由も、分かりました。
ただ、多数派の中では、かなりのKYである自分も自覚していて、上手く付き合っていけているつもりでも、かなりしんどくて、引きこもりたくなります。
やはり、私は合理的なADHDである可能性が高そうです。
話は変わりますが、
>2つのチャンネルで同時にものを考えることができない為、3人以上の人の集まりは苦手でした。場の空気を読むことに対して、2人→3人で、すごくレベルが上がるからです。
・・・とTamaさんが言われていますが、ジャイアンさんはこの3人以上が辛いんですね?!
私は、なぜか2人きりで話し続けるほうが辛かったりします。
YANBARU先生の言われる、
>言語的なチャンネル一本でコミュニケーションを続けるため、多数派とはかなりのズレを体験する。
・・・からなのかなー?
2人だと、相手が話すか自分が話すかをしていないと、気まずくなりませんか?
3人以上で居て、みんなの空気が読めなくなったら、私は黙り込んで、聞き役に徹します。話さなくても良い状態は、気楽になります。
だから、それができる3人以上が私は心地良いです。
(だからと言って、一人ぼっちを好んだりはしません。
なんたって、新しい物好きで楽しいこと好きで刺激を求めるADHDですから・・・決して人を必要としているのではありません・・・笑)
数日前まで、熱くコメントの場に参戦していましたが、
そもそも、環境(人的環境も含めて)に影響を受けやすい為か、多数派もしくは、それらしき人と接点が増えてくると、ここを読んでも、そんなに熱く反応できないかも!?です(笑)。
コロコロ変わるのは、AC入りのせいかもしれませんが、どちらの場(環境)にいても、気力と体力が続かない・・・という感もありますが。
「達観の後の脱力を目指して!」のつもりが、志半ばにしてすでに脱力しているって感じです。
結局、どれもあてはまる「場」がある気がしますが、確実に肉体面では、半端じゃなく反応して、当然、制御不能です。
何年も前のお話にコメントしていいものか迷いましたが
書き込みしておこうと思います。
僕はおそらく合理的ADHDです。
元々は中心志向型と暴君型のキメラで、
衝動統制しないための理由を探し回って生きていました。
つまり、自覚的には「正義とは」「常識とは」という高尚な仮面をかぶせて
実質的には言い訳を探していたわけです。
学生時代に、死にかけの猫をひろい、猫に「正義を押し付けようとして」、結果、衝動統制の有益性にきづいた、という
経過があります。
そこから、知識収集と自己ツッコミのらせんで
元々あった過眠症状と、姿勢、ADHDの関連でこのブログを見つけるに至ります。
僕は、不適合に対して知識収集癖があるので、おかしな方面にも
手をだしてみるのですが・・
コミュニケーション法を探しているときに、催眠誘導法に行き当たりました。
はしょりますと、多数派が形成する「空気」というものを言語的に理解することが可能になりました。
例えば、イエス返答が続けばそれは承認のメタメッセージとなり
ノー返答が続けば、不信ないし不審のメタメッセージになる、など
(それもひとによるので、目線、声の大小、口調の変化などを参考に、リアルタイムで「個々人の独立情報」として蓄積していきます。よく、忘れてしまいますが・・)
なので、インストールプログラムを「見つけられれば」ADHDでも擬似的に非言語言語二刀流が使えるように、なるのではないか・・
と、僕は考えています。
悠々とさんと同じようなことありましたよ。
中学生の頃飼っていた犬が死期を迎え、注射で延命しようとして母に止められたことがありました。とても悲しかったがそれでよかったのだった。父が死ぬ前にも、別の治療をしている遠くの病院の話をしたが、父に「もう行かれないよ」と断られた。私はその時父に別れを告げられたと思ったけれど、父は一人で既に家族と別れていたことに気付かなかった。自分のために父を苦しませて酷いことをした。今でも後悔してる。最後に昏睡状態が続いた時にさんざん謝っておいた。看護師の人が「耳は最後まで聞こえているんですよ」と教えてくれました。
母だって看護師なのに教えなかったな?ジャイアンめ。
>例えば、イエス返答が続けばそれは承認のメタメッセージとなり
これですが、WAISの数唱やった時に「素晴らしい!どこまでもやれる」と思ったのはこういうことですね。自分が人の話にイエス返答を繰り返すということは現実にはほとんど無いのでそれが出来ることに感動したんだな。心理士さんも承認のメタメッセージを受け取っていたということですか。
意味無しの言語でないと成立しないところがなんとも。
認知症の人への対応に、明らかに違うことを言っても承認するというのがありますね。私には非常に難しいです。そうしてる自分の顔が曲がっててバレると思います。
これは言語的だけど内容は無視なので非言語コミュニケーションなわけですね。自分が言うことを気にしなければできるかな?
JETさん、お返事ありがとう!
気づいてくださって、うれしいです。
僕もどうしても嘘がつけないので、嘘をつかないでも上手くやっていく技術として
催眠誘導を使っています。
イエスノー返答は、多数派の間では、とても重要な衝動統制として
働いているように僕には見えます。
天気や、目の前の当たり前のことについて、などイエス返答のやりとりをし
たとえなにかあっても、直接はノーと言わず
(大抵はイエスバット法、という、「そうだね、正しいと思うけどでも」などのマイルドな言い方に変換していたり)
最悪その話題自体を無視してしてまで「ノー」と言うことを避けています。
これが、ヤンバル先生が別のスレッドでお話していた「攻撃」統制なのではないか、と思います。
つまり多数派はイエス返答のやりとりをする人間を「味方」と識別し
ノー返答がなければ「敵ではない。相手に攻撃意図はない」と識別
し
ノー返答が続くこと自体が「攻撃意図」として識別している。
(これ「だけ」ではありませんが、言語的にはこれが主要判別機構になっているように思います)
発達障害者は正直に否定をしてしまうので、多数派に敵認識されやすく(なので、多数派の中では、おそらくこれは、「反撃」なのです)
そしてこの敵味方判定をインストールされていないうちは、誰が攻撃してくるかわからずに緊張してなければいけない。
僕は、この構造を考えついてから、とても穏やかな気持ちでひとと接することができるようになりました。
同時に、今まで、自分に近寄ってきたひとに、ひどいことをしたことが、たくさんあったことを理解して
自己つっこみで、うーうーうなっています(´・ω・`)