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発達障害と「子供」

 ADHDである私は「自分が子供である」ということを悟る前は子供が嫌いだった。多数派的な世界の中では、ADHDは私の印象では小学校5年生くらいで情緒的な発達が停止して、後は知的な発達しかないように思う。だからいくつになっても「小生意気な子供」のような印象を持たれるのだと思う。

 これに対してASは「初めから大人(子供ではない)」だと思う。詩的な言葉を使う割りに、ファンタジーの世界に自分から入ることは無く、映画も「お金をとって見せるために作られた映像」でしかない。少なくとも多数派的に「子供」という印象をもたれる部分は少ない。

 多数派の「大人」は、状況理解が必要条件になる。「言語化する前に直感的に状況を理解し、その理解に基づいて言語化する前に問題をトラブルになった形を取らずに解決できる」というのが多数派的な大人のイメージだろう。これはADHDにはとても真似できない芸当だ。

 私は自分の世間での存在意義を、「裸の大様の子供」と考えている。おかしいことはおかしいと状況がどうあろうとはっきり言い、本当のことを言い続けるのがADHDの意味だと私は考えている。

 http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/

 

 


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コメント

    • m.y
    • 2006年 9月 04日

    ASだと確かに子供らしくない・可愛げがないとか言われやすいですね。実際に客観的にしか受け止められないですし、相手の言っていることに対して共感は出来ないですもの。聞いていて何が言いたいのか理解しようと思っても(根本的に自分の考えを変えることはないです)疲れるだけです。
    危害を与えるのであれば、人に近寄らないのがベストだと思います。

    • F
    • 2014年 6月 25日

    最近、ようやくドラマや映画を見るようになりました。とはいえ、私は恋愛ものにさっぱりついていけない(頑張って『失恋ショコラティエ』を見てみたけど、あいた口がふさがらなかった)ので、推理ものであまり愛憎劇がないものばかり見ています。ガリレオシリーズが気に入っています。
    主人公の物理学者(積極奇異型AS男性に見えます)は子供が嫌いです。(「子供は非論理的、自分に蕁麻疹が出るから嫌い」のが理由)
    映画『真夏の方程式』では、主人公と小学生の男の子との交流シーンが多く描かれるのですが、主人公は最初のうちは男の子を毛嫌いしていたのに、話が進むにつれ、彼を一個の人格を持った大人として接するようになります。
    この映画はどうにも歯に物が詰まったような感じがして私はあまり好きではないのですが、他人の領域に踏み込み過ぎないよう注意すると、ああいう最後になるのかな、と思いました。主人公は距離を置きつつも男の子に対し「君は一人じゃない」と言っていました。
    「自分(AS)は子供らしい子供じゃなかった」と思っているのなら、目の前の子供に対しても子供扱いしないかもしれません。

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