私がASの人に一番「ASらしさ」を感じるところは、「人の存在が絶えず前提されている」ということだ。あるASの人から、「ASは人から干渉されると困るんですか?」と聞かれて、「あなたは全く干渉されないことが想定できますか?」と逆に聞き返したことがある。ASの人は干渉されないことが想定できないと思う。
ADHDは逆にACやAS被影響症候群などの二次障害がひどい場合を除き、「干渉されないことが当たり前」という基本前提で考えると思う。
その他、「この人のおかげでたいそうひどい目に遭っている」と訴え続ける割に、「だったら距離を置いて関わらなければ良い」という発想が出来ない。とかの、ものの考え方の「結果」の部分よりも、「当たり前に想定している」部分によりASらしい、ADHDらしいとところが現れる。
例えば計画で言えば、ADHDは第一感で長期計画を立てようという認知はない。現実生活の不適応のために二次的に世の中に適応するために長期計画の必要を感じるようになることはあるが、最初から当たり前に長期計画の形で認識するASとは違う。
不適応の結果として、二次的に「困ったから努力して考えたりするようになった」ことはもともとの発達障害とはとりあえず分けて考えたほうが治療やコーチングの役に立つ。
だからこの二つの合併があるかどうかを考える場合、それぞれ自分のものの考え方の前提となっている部分を見てみる努力をお願いしたい。
「関連付け」、「デジタル認知」や、「バラバラの認知」は全て「何も考える前から当たり前にそうしているものの見方の基本形式」というあたりのもので、結果として似た状態になっているのと何とか区別したい。
すこし考えてからそれぞれのコメントにお答えする予定です。
ASの人の「人の存在が絶えず前提されている」という場合、『人』=『他者』のことだと思うのですが、ここしばらくのやりとりの中で見えてきたことは、ASの人の場合、配偶者や恋人など特に『愛着を持った他者』には、自分と一心同体であるかのような感覚を持っているようなイメージがあります。
どういうきっかけで、あるいはタイミングで、どんな要素で、愛着の対象になるかということまではわかりません。おそらくASの人の『想像力の障害』の部分で、『自分からは見えない自分という人間(人格)を認識しずらい』というところから、『愛着の他者』は必要不可欠なのかもしれません。
そういったAS的な世界観では、配偶者や恋人は『自分の分身』なのだから、自分の思惑から外れた行動をするはずもないし、別の感性でものを見たり、感じたりすることが想定できないのも無理はない。
夫が私と結婚したのは、AS的な『愛着』からであるということは非常に受け入れがたい事実ですが、なんとなくそう思えてきました。私は、夫と結婚したのは、少なからず彼という人格が好きだったからで、彼の人格を尊重して・・・というスタンスで今まで来たのですが、彼はそういうことではなかったのですね。(この事実も受け入れがたいけれど、仕方ないですね。)
彼の思惑から外れてしまう私(愛着の対象、というのはやはり悲しい表現ですが)は、今や彼にとって『愛着を断ち切りたいけれど断ち切れない存在』になっているのでしょうか?これを修復するには、私が彼の愛着の対象らしい行動を取らないと難しい、ってことなんでしょうか?何気に昨日のコメントを書いたあたりから感付いていましたが、確信に近くなってきました。
今、私は『彼は私よりも、彼の世界観や感性に近いものを本質的に持っている人と過ごすほうが、彼にとってストレスも少なく、安心できて良いのではないか?』と考えはじめています。
さんざんASの立場からコメントをしてきて今更・・ですが、私は「干渉」されるのが嫌いです。
「干渉」されたら息苦しいだろうし、「干渉」すること自体見苦しいことだと思っています。
私には子供が二人いますが、上の子は普通に手が掛かり普通に親離れしていき、この子の「親」としては「干渉」する必要も無かったです。
下の子は「発達障害」特有の大変さがあり、周囲からも理解してもらえなくて「その子の親」としては「子供の手となり足となり」結果的に「過干渉」になってしまったようですが、この「手間」さえ無ければ、私はどんなに楽だっただろうか・・と正直思います。
「こんなに酷い目に遭っている」から距離を置いたし、こちらから様子を伺うような電話もしなかったです。
夫婦関係に於いても、お互い「干渉するべきではない」と思っています。こんな私でも、許してもらっているのは「干渉しない」からで、又、私のことでもいちいち「干渉してこない」からお互いの存在をストレスに感じることも無いと思います。
今日の記事も私には高度な読解力を要する文章で、先生の求めるレベルの回答ができているかどうか疑問です。
「表面」よりも「芯」の部分の声を書いたつもりです。見当違いなコメントでしたら、ご指摘お願いいたします。
yurinさん
AS的な観点からみるとちょっと違いますので、私の考えを説明してみますね。
愛から始まって、パートナーになって、安心して、愛着の対象となる=自分の一部になる。彼の思惑は「客観的にこうあるべきだ」と言うものであって、そうでない事が不満になっているだけ。
愛着自体が悪いのではなくて、愛着によって相手をちゃんと見なくなる(思い込みが強くなる)のが悪い。相手をちゃんと見れれば、愛着は即ち愛だと思います。ですので、彼が「客観だ」と思っているものが「主観だ」と気付かせる事が出来れば、問題の多くは解決するのではないかと期待します。
始めまして。
30歳直前で、何故自分は片づけが出来ないのか?
注意力が散漫なのか?
社会人になって責任が伴って行くうちにどんどん息苦しくなっていくのは何故なのか?
と考えて、先生のHPにたどり着きました。
ADHDの生い立ちと経過にある、多動型から合理的なADHD
までの直線に、私自身の生い立ちと現状が書いてあってびっくりしました。
また、父方の親戚のほとんどが、ADHDの症例近い人で埋め尽くされているので本当に驚きました。
母の親戚からは、変わった一族だとか、血がとか言われてたのですが、性格の差ぐらいにしか思っていませんでした…。
そして、少し心が軽くなりました。
もしもADHDだったなら、仕方が無い。
自分の症状を理解して、角が立たない程度に普通のことをこなして、仕事に集中できるんじゃないかと思いました。
彼氏にも思ったことはすぐに口にしないほうがいいとか、
遅刻ギリギリにしか行動できないのか?そして10分遅刻…。
よく問い詰められていました。
自分でもわからなかったのですが、そういう性質を持っているってことでいいのでしょうか?
意識して、一旦言葉を飲み込む。
遅刻の10分前がタイムリミット。
普通の人は最初からわかっていることなんでしょうけど。
もう少し、研究して、
どうすれば、きちんと一般的な定義で責任を持って仕事を果たせるのか?
彼に迷惑をかけないで、一緒に入れるパターンを見つけられないか模索しようと思いました。
>marioさんへ
お返事、ありがとうございます。
私が夫について考えるようになって、AS的認知もそうですが、それ以外にも問題がありそうな気がしてきたのです。そのキーワードは『モラハラ夫』。つまり彼の行動の一部は私にとって、これに近いものを感じることがあるのは事実なんです。
実は昨夜、モラハラ夫関連サイトを見ていました。そして辿りついた自分なりの仮説は『モラハラと発達障害は、とても密接な関係があるのではないか?』ということです。
もちろん。『発達障害=モラハラ(モラルハラスメント)』ではないということが前提です。
ただ、AS的認知もADHD的認知も、表出のしかたによっては、受け取る側からそう捉えられる可能性がある、ということは否定できないかもしれません。
また、発達障害の認知が二次的な認知を呼び、結果として『モラハラ』につながっているケースもあるかもしれないと考えます。何故なら『モラハラ夫』の特徴の中には、ASのこだわりや、自己正当化型ADHDの表面的な認知を思わせるものが随所に見られるからです。
モラハラの根底に発達障害があり、発達障害のコーチング等でモラハラ夫がそうでなくなるなら、『モラハラの影に発達障害あり』と疑ってみるのは、悪いことではないと思います。
恐らく『モラハラ』の根底には何らかの発達障害が絡んでいるケースはいくらかあり、その殆どは、家庭環境などから二次的にそうなっているのだと私は仮定しています。
そういう意味で、私は自分のブログで、夫のことをもう少し詳しく突っ込んで書いてみようと思います。
YANBARU先生、皆様はじめまして。
自己診断「ADHDのAC」の、
「何も考える前から当たり前にそうしているものの見方の基本形式」
です。
・科学とは仮説の集合。
・医学に一番必要なものは実用。
・社会を構成する全員が否定する法律は守る意味も必要もない。
・完璧で静的な秩序の息苦しさより、でたらめで予想不可能な混沌の不安のほうがまし。
→予想不可能な変化は不安だしストレスになるが。
・人と人は完全に解りあうことはできない。
→しかし相互の努力である程度理解は可能。
→だからこそ、その努力は尊い。
・善意のない人間はいない。悪意も同じく。
・「正しい/間違い」と「良い/悪い」違う意味。
→原因の有無と善悪も別。
・誰かを一生恨むくらいなら、とっとと忘れる。
・自分が関わりになったことに「責任がない」ことはありえない。
・人間には生まれながらの「権利/義務」はない。「自由/責任」はある。
・自分は時子音で評価する。
→外からの評価は受け入れる。
・評価は基本的に絶対評価。
→人と比べて上でも下でも、別にそんなにうれしくも悔しくもない。
・恥は掻かされるされるものではない。恥は掻くもの。
・物事は事実によって判断するべき。
・理屈や推測と事実が合わないときは、事実が正しい。
→もちろん、観測や記録や認知が間違っていることもある。
・全てのことはいつか終る。
YANBARU先生、皆様はじめまして。
自己診断「ADHDのAC」の、「ものの見方の基本形式」の一部です。
・科学とは仮説の集合。
・医学に一番必要なものは実用。
・社会を構成する全員が否定する法律は守る意味も必要もない。
・完璧で静的な秩序の息苦しさより、でたらめで予想不可能な混沌の不安のほうがまし。
→予想不可能な変化は不安だしストレスになるが。
・人と人は完全に解りあうことはできない。
→しかし相互の努力である程度理解は可能。
→だからこそ、その努力は尊い。
・善意のない人間はいない。悪意も同じく。
・「正しい/間違い」と「良い/悪い」違う意味。
→原因の有無と善悪も別。
・誰かを一生恨むくらいなら、とっとと忘れる。
・自分が関わりになったことに「責任がない」ことはありえない。
・人間には生まれながらの「権利/義務」はない。「自由/責任」はある。
・評価は自分がする。
・基準は基本的に絶対基準。
・恥は掻かされるされるものではない。恥は掻くもの。
・物事は事実によって判断するべき。
・理屈や推測と事実が合わないときは、事実が正しい。
→もちろん観測や記録や認知の間違はある。
・全ての事はいつか終る。
ASとADHD の合併、という点について、思いついたことがあったので書きます。
もしかしたら私の息子(6歳)はそうではないか?と思いました。
根拠としては、『集中力が持続しないところが特にADHDのようである』からです。
たとえば、朝の着替え、非常に時間がかかります。現在6歳2ヶ月ですが、同じ年齢の子どもと比較すると倍以上時間がかかります。(途中集中力が途切れて休みが入るので、20~30分程度)また、朝の寝起きも良くなく、非常に起きにくいです。一回起こすのに声を掛けて、それで起きることはなく、ほぼ毎日二回三回声をかけて、やっと起きます。
ところが、自分が楽しみにしている行事(運動会など)となると張り切って自分から起きて着替えもすばやいです。いつもこうだったらいいのにと思うんですが、普段の日は全くダメです。
しかし、診断は『ADHDの合併』ではありません。こだわりやその他の特徴はまさしくASです。だから診断もASのみです。
主治医からは、息子に二次障害などの指摘はありません。合併という診断があるかどうかは、改めて尋ねたことはないので、特に聞いてはいませんが・・・。
発達障害を遺伝的に捉えるのは間違いかもしれませんが、たとえば血液型のABO式のAB型のように、発達障害にも理論として『ASとADHDの両方の特徴が混ざり合う型』はあるのかもしれないなと考えました。
ちなみに私たち夫婦は 夫受動型AS、妻ADHDという組み合せです。息子は恐らく受動型AS、二女が多動のないADHDではないか?といわれています。