ADHDに「さびしい」という感情が存在するか? という難しい問題がある。
基本的にADHDは「対人個体認識の障害」であると私は考えている。他者との個体同士の(XX氏とXX氏の関係という)特別な関係を直接経験することが困難である。はたしてそういうADHDに「愛情」などを求める部分はあるのだろうか? 仮にそういう感情があっても「面倒」なことと感じるように思う。
では他者にいったい何を求めているのか? 何か求めることがあるのか?
この問いの私なりの答えが、先に書いた「他者からの理解」であった。
ではその「理解」とはいったい何か? どういう意味があるのか? という風に考え続けている。
私が日々の臨床のなかで「理解」の努力を続けていて、相談者との間にある「理解」が成り立ったとき、
相談者の中に起こるものについて想像すると、「理解され得た、即ち他者から合理的に説明され得た」という思いだろう。
(合理的な説明であれば、当然解決策も示されることが多いわけであるから「答えが出た」という思いも大きいだろう)。
結果として「自分の体験している世界の説明は他者からも認識できた」「自分の体験している世界の説明はある確実さを獲得した」
という意味で一種の「お墨付き」「証明」的な意味があると考えることが可能だろう。
もっと進んで、「自分だけの中での説明」が「他者との間で論理的に相互理解が可能であった」ということは、
「論理的な説明の妥当性が個人を超えて広がる」ことを意味し、これは結果として多数派の「空気」に代わる
社会的普遍的な(当面は一対一の関係にとどまることが多いが)説明として機能することになる。
(この論理展開は「弁証法」というのに少し似ている)。
多数派の「空気」が「プラグイン」としてもともと集団のDNAレベルの本能と文化的継承の両方の中に織り込まれているのと対照的に、
ADHDの「説明」は一人ひとりの個人の中での合理的な説明から相手との共有、それを積み重ねて大きな集団での共有(の類推)へと進むことになる。
この意味では、「理解」とは、「自分と他者の違いを超えた合理的な共通した説明原理があったことの証明」ということになる。
翻って多数派は、プラグインした共通のソフトの上で常時相互作用相互依存しながらいろいろな情報処理を行っている
ので、「共通の場に居る」ことははじめから自明であり、「わざわざ確認する必要もない当たり前の体験」となっている。
ADHDの場合、それ(他者との間に共通の説明が成り立つことがあること)は「証明するべき」こと、「証明されない限りあるかどうか分からない」ことであるということになり、それが「理解」の意味である。
>自分と他者の違いを超えた合理的な共通した説明原理
わかりやすい説明でした。ありがとうございます。お互いの立場を超えた
相互理解があった時にこそ普遍性が生まれる。確かに最初は一対一の小さ
な範囲かもしれませんが、部分が全体に広がる可能性を感じています。
今読んでいる本にも書いてあります。
「真如は人間の言葉を離れたところにある。しかし言葉を費やさざるをえない。言葉によって真如あり。」と。
YANBARU先生の説明以上に、はすのはなさんのコメントがわかりやすかったです。
>真如は人間の言葉を離れたところにある。<
本当ですね。同じ景色を見ても、同じ本を読んでも、同じテレビ番組や映画を見ても、同じものを飲み食いしても、感じることは基本的に別物ですからね。同じはずがない。
それを同じように綺麗だとか感動したとか美味しいとか言うのは、やはり自分も相手に理解されたいし、相手のことも自分が理解したい、という気持ち、少し違うかもしれませんが「心気持ちの余裕」がないと成り立たないことではないかと思います。
そういう意味では、YANBARU先生の「理解」はADHDに「心気持ちの余裕をもたせる」ことに繋がり、治療効果を期待できる最初の第1歩になるのではないか、と考えます。
多数派の「空気」に替わるものは、
他者からの合理的な説明よって証明された相互理解。
だから、ADHDが「空気」を認識するためには、
他者からの(合理的な)説明が必要であるということを、
理解してもらう必要があるってことですねっ!!(*^^)v
ADHDは「空気」どころか「世界」すら「説明」で構成されているので、
多数派に説明を求めるのは、
世界を理解、あるいは構築しようと努力しているのであって、
「空気」を否定し、集団を破壊したりする意図はないので、
「KY」とだけ言って、ボコボコに叩かないで下さいと。
ところが、多数派の「空気」は「プラグイン」状態であるので、
合理的な説明が不可能なことが多い。
・・どうする(TT)
残念ながら理解する人、居場所、行政、デイケアなどの仕事&取り組みが足りない。
この間、琉球新報の記事で地元で大人・成人の発達障害者を理解する居場所作りがあります。先生が務めているデイケア職員、看護の人を見学、勉強などするのも良い事です。
掲載日は後日に教える。 ADHD、ASの気持ちを考えてほしい。
あの、「掲載日は後日に教える」とは何事かと思いました。
ここに書き込んでいるのは、真摯に自己の問題に取り組もうとしている人々です。先生の記事に対して、真摯に向き合い、自分なりに言語化している人々です。
おそらく、ここに書き込んでいる人々は、理解する人、居場所、行政等の取り組みに対する不足をどこかしらで感じている人々であろうし、日本各地に住んでいる人々であると思います。
そのあたりを考えていただければと思います。
たとえ琉球でも、「居場所はあるよ」と教えてくれるのとても嬉しいです。
あの時、私に一番必要な言葉だったのかも。
いじめられ続けないで、さっさと自分の居場所を探す旅に出れば良かった。
私はまだそれができるのに。
「自分の居場所は自分で作る」
うん。やっと大人になれた気がする。ちょっとだけ。
みさんの記事を削除してほしい。
真剣に取り組んでいる。
あの、「掲載日は後日に教える」とは何事かと思いました。
ここに書き込んでいるのは、真摯に自己の問題に取り組もうとしている人々です。先生の記事に対して、真摯に向き合い、自分なりに言語化している人々です。
おそらく、ここに書き込んでいる人々は、理解する人、居場所、行政等の取り組みに対する不足をどこかしらで感じている人々であろうし、日本各地に住んでいる人々であると思います。
そのあたりを考えていただければと思います。 written by み / 2011.08.18 01:36を削除を希望します。
私の意見が悪いであれば削除してもOKです。お願いします。
私も一生懸命に真剣でかんがえています。
批判的な内容です。私が書いているのに人を傷をつけます。
sky記事、みさんの記事を削除してほしい。
多数派の「空気」を優先させるなら、このコメントの状況をただ眺めて
やりすごすのかもしれません。
ただ、先生はここで「理解」の意味を問われ、自分だけの中での説明を
もう少し広げて、他者との間で理論的に相互理解を可能とする方法を提
案されています。
私はみさん、skyさんのコメントは削除すべきではないと考えます。
利用規約にコメントに関しての定義が書かれています。もう一度読み直
してみました。
第13条(ブログの記事・コメント内容に関する禁止事項)
会員および閲覧者は、以下の各号に該当する記事およびコメント、
ならびに以下の各号に該当するおそれのある記事およびコメント
を掲載してはならないものとします。
第三者の名誉または信用を毀損するもの、その他第三者を誹謗中傷するもの
第三者のプライバシーを侵害するもの
個人の特定につながるもの
第三者に対する嫌がらせ、または脅し
第三者の著作権等の知的財産権を侵害するもの
第三者の権利または利益を侵害するもの
第三者に経済的または精神的損害を与えるもの
第三者に嫌悪感を与えるもの
(以下省略)
今回はこれらに該当するものはありません。だからこそYANBARU先生も
皆さんのコメントをここに掲載されているのではないでしょうか。
誰もが一生懸命で、真剣です。ただ「言葉」は時々、誤解を招くものでも
あります。ここでコメントを削除してしまったら、ただ何も無かったこと
になってしまうだけです。共に考え合うことをこの場所では必要としてい
るのではと思います。
「理解」は一時の意思疎通でしかありません。 不変ではないし、論理的な思考ではありません。 むしろ「誤解」すら悪意無く、美しく利用されるの現実世界です。
私のコメントに対し削除依頼が出されたことについて、説明を試みてみたいと思います。
まず、Skyさんのコメントを読んでしばらく考えたのです。Skyさんは発達障害当事者であり、周囲からの理解が得られず苦労しており、発達障害者の居場所作りに参加し、それを足掛かりに、苦労している発達障害者のために働きかけようとしているのだということが文面を見てわかりました。ただ、私がひっかかったのは、誰に対して、何を伝えたいのか、だったのです。それと同時に、ここでコメントを書いている自分を含めたADHD当事者の今向き合っている事柄と背景について考えました。
私は当事者同士の関係について、上下関係でなく並びの関係であると考えます。そして、何かを伝えたいとき、教えるではなくともに学びあう仲間への情報提供という形で表出されると思います。
通常、他者に「教える」というとき、教員から児童生徒に、教授が学生に、先輩が後輩に、といったように上下関係が存在します。私は、Skyさんと自分との関係、およびコメントを書いている人々との関係に、「教える」「教えられる」関係にあるかについて「違う」と思いました。そして、SkyさんはADHD当事者に対し「ADHD、ASの気持ちを考えてほしい」という願いを述べています。ここに集うADHD当事者は、ADHD当事者であるヤンバル先生の臨床と自己探求から得られた知見を読み、そこから自己理解、他者理解へと深化させようとしています。そのような「場」であることから、「教える」という言葉が適切ではないと考えました。
さらに、インターネットでは日本全国、いや世界の各地の人々が読んだり書き込んだりすることが可能です。琉球新報はインターネットでも読むことができますが、成人発達障害者の中には仕事をしている人々も多いことでしょう。たとえ「発達障害者を理解する居場所作り」が開催されたとしても、仕事のために参加することができない人々もいます。「教える」ということが適切ではないと考えました。
できるなら、「発達障害者の居場所作りがあります。ぜひ、多くの人々に参加していただきたいと思います。発達障害者はもちろん、発達障害者にかかわる人にも、発達障害に関心がある人も、多くの人々に参加していただくことで、発達障害に対する理解を深めていきたいと思います。」といった形で伝えていただきたいのです。そうすれば、多くの人々が興味を持って参加しようとしてくれるのではないでしょうか。
一所懸命になるほど言葉が乱れてしまうことってありますよね。
小生はミスを続けるスタッフを注意するときなどに、ついつい酷い言葉を投げかけてあとで後悔することしきりです。
ネットやメールも送信したとたんにしまった!と泣きそうになることが結構あります…..
すいませんでした。次から反省します。
ご迷惑をかけてすいません。
skyさん・・・
謝らないで、
それじゃあ、飛んで火にいる夏の虫です。
宇宙の果てまでぶっ飛ばしてやりたいと、ピコピコハンマー持って穴の前で構えているのに、
おむすびころりんって落ちていって・・・。
太らせるんじゃな~~~いっ!
私も40年近く生きている中で、思い返せば顔から火が出るほど愚かなことを散々してきています。それでも少しずつよくなっていると思っています。
さてSkyさん、琉球での「大人の発達障害者の居場所作り」の日程、よろしくお願いします。
知りたいです。
みさんが顔から火が出るほど愚かな事をした出来事を。
その結果、社会からつまはじきにされて、傷ついて、
人間はパンツ一枚だって社会からいただくものだということをすっかり忘れ、
原因を他者にもとめて恨み続けたり、ファンタジーにひきこもり悲劇のヒロイン(まさかヒーロー!?)になったり、
怠け者のかまってちゃんになったりしてる、ありのままの姿。(今の姿がそうなの?)
ここなら分かってくれる人もいるよ。
似た者同士すぎてムカつく人もいるケド(それは私だっ!)
穴の中の雲の上から穴の中の下々の民を眺めて、弱者を等しく救いたいなんて言ってたら、
いつまでたっても良くはならないと思うよ。
小さな傷からでも光は入ってくるよ。
私の場合、今は苦しんではいません。先生の「愛情などを求める部分がADHDにあるか?」「面倒なことと感じるように思う」といったことを肯定する自分がいます。ただ、その時その時の理解を求めている自分がいることも確かです。
さて、何を書いたら理解が得られるか、考えながら書いてみようと思います。
私は20代、趣味の関係の人々に「自分が、自分が」と主張が強く、人の話を聞かないとよく言われていました。その当時、私にはその意味がわからず、わかってもらうためにより主張していたように思います。これは先生のいう「対人個体認識の障害」にあたると思います。
さらに、刺激を求めて夜な夜なバーに通っていました。その当時はちやほやされて心地よかったのでしょう。楽しみが逃げてしまわないように通ったのです(衝動性および新奇追求)。夜の街を歩くことで得た経験は、ここで語ることができない酷なものも多くあります。(衝動統制の障害と二次障害)
車もよくつぶしました。20代は車のために仕事をしていたといってよいでしょう。でも車は手放せない。なぜなら自分の自由の一部だからです。最近では、オイル交換を「先延ばし」してつぶしました。車屋さんに「人間の血が無いのと同じ、本来はお亡くなりになっている状態、よく(運転者私を)連れてきたものだ」と叱られました。(注意欠陥と先延ばし)
まだまだいっぱいあります。人を憎んだり、それをひきずって正規職員の道を自ら閉ざしたり。それでも、自らの道を開拓する。それが、本来持っている性であり、紆余曲折であったとしても生きることに自ら肯定しています。
私は、裸一貫で20台を歩いてきたといっていいでしょう。でも、窮地で救ってくれた人がいたのです。それは、叱ってくれたり、支えてくれたり、さまざまな形で接してくれた人の「私への理解」でしょう。ある人は「枕を涙で濡らしているのだろうな」といいました。またある人は、「理解できる教員や上司がいなかったのだろう」といいました。彼らとのつながりは今はないけれど、心の片隅で理解者であったことに感謝しています。
そうだ、怠け者に関しては、料理ができません。いくつかの料理の工程を組み立てたり、調味料の分量を記憶したりといった芸当は私にはできません。今夏休みなので料理本をさばきまとめていますが、いつも同じ味で、焼き加減でといったことができません。結婚したいと思った時期はありましたが、それは「家事に専念するか、仕事を取るか」の2択だったように思います。私は自分の力を試せる仕事を優先しました。ゆえに独身です。家事や育児に専念できないと感じた私は、その上に旦那から愛を求められても「面倒」なことと思うでしょう。それでいいと思っています。
小生の最大の理解者は母親でした。
母子家庭で自身が病弱だったこともあり、幼少期から「手に職をもて。どんなときでも自分だけの力で生きていけるようにしろ」と呪文洗脳のように言われ続けました。
サークルや友人関係が長続きしないことも自分の所為であるとは全く思いませんでした。少なくとも社会人になるまでは。
しかし母親とは毎日のように衝突し、悲しい思いをさせ、亡き後に毎日遺影に手を合わせて後悔しています。
親も真の理解者も、いなくなってからはじめてその存在の大きさに気づくという好例です。
>みさん。返信ありがとうございます。
ぶっちゃけっていって、
「ピチピチの20代、夜の街で遊びまわり、車を何度も買いかえたりしていた、貯金なしの40才目前の料理のできない独身フリーター女性・・・?」
・・・ついに・・人生の崖っぷちにたどり着いてしまったってことですか(>_<) 似てるかと思ったんですけどなんかま逆です。 ちなみに私は 「ピチピチの20代は、故郷から1000キロ離れた場所で、前に子供、背中に子供、後ろの椅子に子供のをのせてままチャリで走り・・。 30代で夫に浮気されたり、近所のママ友(?)には誹謗中傷ながされてひどい目にあったりと崖から転落し、 40才の今!ワーカーホリックの夫との関係は良好(^^♪ (なにせ別居してるからっ!結構稼いでくるしね。いまんとこ・・。) そして、で、夫の働いた金で、たまに朝まで趣味仲間の男友達と酒飲んであそんだりしてます(文字どおり酒のんで騒いでいるだけです!目的がお酒ですっ!) ちまにみ自宅に車は無く、パート先は調理場。 なんか・・ほんとにま逆だからびっくり。 あ。これだけじゃあ、ずるいか・・。 転落した時、家の中ではほとんど一日中寝て過ごし、(・・たぶん4、5年ぐらい・・なんか記憶があいまいなのさ・・・) 今は仕事はしているものの、子供は放任し、家は中は超ちらかってます(T_T)
こら、私はフリーターではない。それに車を単に乗り換えたのではなく、「つぶした」と書き、そのあとに(注意欠陥と先延ばし)と書いた。それに、どう読んだら崖っぷちなのか、よく読んでください。
ADHD女性にとって、家庭を持ち子育てすることと仕事をして経済的自立をすること、双方にそれぞれ苦難があることは理解します。その上で、私は子どもの成長発達に必要な栄養を与えられるか、環境を整えられるかと考えた時に仕事を選んだのです。また、ママ友という関係をうまく築けるかにも思いが及びました。
らいむさんは、ママ友との関係について、誹謗中傷を流された原因をどう考えるのですか。また、子どもを放任し、超散らかし放題の家をどう考えるのですか。さらに、結構稼いでくる旦那に対し、旦那の金で遊んでいる自分に対してどう思いますか。自身の体験からお話しいただきたいと思います。
らいむさんは、虐待とネグレクトに対し、どう思いますか。ここでは自分は何かをやっているなどの答えではなく、客観的に見てどうかをお話しいただきたいと思います。(子どもに対しても含む)
さらに、そのギャップについて、どう考えますか。
私は依存型ジャイアンではありません。依存型のジャイアンが、「自分は努力しなくても衝動を達成でき、非言語的に対人関係を操作する」「衝動を実現するための強欲ぶりはジャイアン特有のもの」であることは、らいむさんも承知でしょう?
初めまして。お付き合いをしているパートナーがADHDの可能性が高く 調べているところでこのブログに出会いました。
『説明』や『理解』についてはとても理解しやすかったです。
正直 彼との今後についてどうしたら良いかわからないのです。お互いの不満を話し合えば 合理的で極端な話になってしまいます。感情の話をしても理解してもらえません。譲歩案を出しても 出来ない で終わり。もちろん出来ないから出来ない というわかりやすい答えなのですが 歩み寄りの気持ちはないのかと悲しくなるのです。
「そういうADHDに「愛情」などを求める部分はあるのだろうか? 仮にそういう感情があっても「面倒」なことと感じるように思う。」
とありましたが まさにそう思っているように感じます。
深く付き合っていくことは困難なのでしょうか。
多数派の私が当たり前だった土俵で考えている以上うまくいくはずがない とブログを読んで思いました。ただ彼の土俵は 私には理解しがたいのです。。。
乱筆乱文失礼致しました。これからも参考にさせて頂きます。
>サミエルさん
私は今年になってADHD診断を受けた二十歳過ぎです。
とても時間が経過した後の投稿でしかも横レスになってしまうのですが、いくつか私も考えられるところがあります。
これは私個人の感覚なので「彼」とは異なるかもしれません。
私は愛情をもらう前に理解がほしいです。少なからず私も周囲の「あたりまえ」が自分にとって理解不能なもので、とても自分にとって理不尽な事がありましたし、今でもあります。そのような理解不能な状態はすごく苦しいですし、対処の仕方も分からないことが多いのです(何しろ原因となる構造がわからないのです)。そのような状態で、自分が認めてほしいと思っている人間が「あたりまえ」を説明してくれないと、同じように理不尽さから疎外感を感じてしんどくなるんですね。極端な言い方をすれば「愛情」は「娯楽」で理解は「衣食住」なのです。衣食住がまともにできなければ愛情という衣食住が足りてこそ享受できるものをまともにとらえることはできません。
私は、「あたりまえ」がどのような前提においてどのようなルールの上に成立しているのかについて細心の注意を払います。私の友人も好きになる人(必要とする人)は、自分にとって何が必要であるかをちゃんと「理解」してくれる人を好きになります。
私にとって「理解」は、行動を起こす根拠そのものです。私が人と交友関係を結ぼうと思った時は、必ず長く話して自分と相手の考えをすり合わせて理解できる関係を結ぼうと考えます。理解できないこと・されないことそのものがコミュニケーション上で大きな問題となるからです。
ADHD傾向の40代女です。
「理解」ということについての所見を読んで、なんとなくツボに入ってくる感覚があります。しかし、まだ、何かがわかったようでわからずに、ひっかかっています。よって、他人に私が思ったことを、こうやってコメントを投稿して、他者から理解を得たいと思った次第です。
「他者から合理的に説明され得た」「自分の体験している世界の説明はある確実さを獲得した」という状態って、「私は○○の事について、△△だから、□□だと思う。」と話した時、他人から「それって、つまり、○○は、◇◇だから、☆☆ってことよね」と言われ、他者からの言葉に自分が「そうそう!!」って思えた状態をさすんですよね。
相手が「えー!?○○は、△▽だから、××だよー」と相手の考えをぶつけてきたら、それは理解を得られていないという状態になるということですよね。
では、「あなたは、○○は、◇◇だから、☆☆って思っているんですよね。でも、世間は○○は、△▽だから、××だと思うんですよ。」と言われたらどうなんでしょうか?皆さんはどうですか?
私は、それは一応理解を得たということで、さびしくないですね。
では、「あなたは、○○は、◇◇だから、☆☆って思っているんですよね。でも、世間は、○○は、△▽だから、××なんです。だから、あなたのそんな考え方は、通用しない。やめるべきです。」と理解はされたが、その後否定されたら、どうなんでしょうか?
理解されているから、さびしくない?理解はされているけれど、後から否定されるとやっぱりさびしい?皆さんはどうですか?
私は、やはり、否定のされ方が、そのカギを握ります。「私あなたはその考え方をやめた方が良いと思う」という風に個人的な意見を言うような表現で否定されたら、さびしくないです。だって、「私は違います」と処理できるからです。「○○するべき」とか「これが正しい考え方だ」とか言われたら、理解されていないという気持ちになり、さびしい気持ちになります。(そんなときは、さびしさが、相手への攻撃として表現されます。)
さびしいという感情はあるんですよ。
それがどこからくるかというと、私の場合個体認識の障害から関係性を認識出来ないとか空気が読めない特質がありそれが生む感情だと思います。
だから気にしなくてもいいと。それこそ自分のせいじゃありませんから。
その事については誰のせいでもない錯覚だと思ってます。
「理解」について、私は誤解されないために喋りたくないとこがあるんですが、言い換えれば理解されれば喋るということで、やはり理解されたいんだな。はい理解されたいされたい。良かったです。このブログは発達障害に詳しい精神科医のYANBARU先生がやってるブログだから、私はくどくどとコメントしている訳です。という訳でいつも有り難うございます。
この記事での「理解」とは過程で相対化もするのだろうと思いますが、私は相互理解を得る過程で喧嘩になってもいいのです。でも相手にもそういう前提がないといい結果にはならない。誰とでも出来るわけではなく、でやはり一対一です。
多分自分は弱いからそれでいいと思ってる。
同居ジャイアンは合理的ジャイアンですが、喧嘩は殺すまでだから決して出来ないそうです。