AC、人格障害関連

「説明」の意味

 発達障害、特にADHDは「説明」という答えを求める。

 カウンセリングを受けても、「話を聞くだけで何も言ってくれなかった」と言って不満を述べたりする。また答えを待てない。答えがあるなら早く知りたい。

 知らせるべき事実があったのに、配慮して知らせなかったとしても、「何で教えてくれなかった」と腹を立てることが多いのは発達障害の特徴である。

 診断もそうだ。ADHDであるのかどうか? 疑問を持ったからには答えを出して欲しい。
 
 ADHDは、発達障害は、何故このように答え、説明を求めるのか? を最近考え続けている。

 発達障害の臨床を経験している人であれば、「ADHDが小学校5年生頃の時期に突然周りが見えるようになり、物事の理解がその時期を期に急速に進む」 という現象を目にしたことはおありだろう。

 私はこの現象を、私自身の遠い体験からも、「それまでバラバラだったさまざまな知覚や認識が突然説明可能な形でまとまって見えてくる」と理解している。

 例えば自分のある態度(アクション)と周囲からのある反応(リアクション)が結びついたものであることを理解するには、かなりの「合理的理論的な理解」を必要とする。小学校3年生頃までのADHDは、この複雑なリンクについて頓着しない、全く感じていないように見える。5年生からこれが分かるようになるのだろうと私は考えている。

 ADHDの一次障害、もともとの障害は、多数派で言う「空気」のプラグインが故障しているということだ。その結果、自分自身の衝動統制も諸刺激・外界からの諸情報の連関の関連の認知(世界理解)までもが障害され、「諸刺激がバラバラに知覚されている」状態が思春期前のADHDの「自然状態」とも言えるだろう。

 しかし実際にはこのままで生活し続けることは困難であるので、代償的に世界の「説明」を自分で「調達」する。
 私は以前ジャイアン型ADHDの「衝動統制」のシステムで6分類を試みたが、衝動統制だけでなく、認知のシステム全体の問題なのだ。

 この「調達」されたシステム、枠組みはADHDの一次障害とは別物であるが、これ自体、多数派の「定型」、「正常」、「普通」とは根本的に異なるので、多くは思春期以降に二次的な不適応を起こすことになる。広い意味での二次障害であるが、 社会的な二次障害と区別するために、「二次的な適応形」と呼ぶことにしよう。

 さてこの「調達」の多くは、最終的に「合理的説明」に帰着するだろう。物事にはルールや根拠があり、言語的な説明の形で諸刺激の連関を「理解」出来る。逆に言えばこの合理的説明自体がADHDの多くにとっては世界の「体験」そのものであるということになる。

 このあたりがADHDが不合理を容認できない理由であると私は考えている。

 別の適応形としては、「支配的な親などの誰か別の人の意味づけを丸ごと借用する」という依存型の意味体系も存在する。

 私はある思春期のADHDケースで、「ネットゲームの原理を丸ごと借用している」という適応(?)形になったネットゲーム依存の状態を発見して驚いたことがある。
 ネットゲーム以外の日常現実は最低限となり、本人はネットゲームの中の「報酬」に嬉々として従う。文字通りそれが彼の「世界」の全てとなるのだ。

 従ってADHDにとって「説明」とは、「諸刺激、諸情報の結びつきの意味づけの体系」、言い換えれば「体験される世界」そのものであり、説明として採用する理論体系が変われば認知も行動も全てガラリと変わってしまうことを意味する。

 これがADHDにとっての「説明」の意味だ。  


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コメント

    • なみこしまり
    • 2011年 8月 08日

    はき捨てるようなコメントですみません。
    初めて書き込みます。このブログは4年ほど前から拝見させていただいてます。
    発達障害(ADHD)の私からいえば、多数派の人は「不合理を許容できる不思議な脳」の持ち主です。
    40代に突入してようやく「多数派がつくる世の中というのはあいまいなものによって成り立っている」ことがわかってきました。
    あいまいで無責任な言動が普通に認められ、そのことに疑問を持つ人が少ないという現実も。
    全体の仕組みや状況を理解しなければ、自分の立ち位置もわかりません。
    社会を知ること。仕組みを知ること。自分を知ること。ずっとそのために生きています。他に何があるのかわかりません。
    多数派から見れば少数派は切るすてる対象です。それが合理的であることはわかります。
    それでも一人の人間としての尊厳があり、存在しています。人として平等なことを認めてもらえればいいのです。
    「説明」を求めることで「理解」することが必要なのは、生まれつきの特徴でしかありません。
    「耳が聞こえない」から「紙に文字を書いてくれ」と同じです。
    生れつきそうであるものにとって、開き直って生きるしかありません。
    開き直るとは、自分の状況を受け入れるということです。覚悟するということです。
    「自分の状況を受け入れる」ことができずにグズグズする多数派の何と多いことか。
    そんな人たちに「わがまま」だの「空気を読めない」だの言われることに納得ができません。
    不条理です。

    • 匿名
    • 2011年 8月 08日

    ジャイアンの小生は中学に入ったときに「ある程度」周りが見えるようになったと記憶しています。
    不良が多い中学だったので、周りが見えないと危険な目に遭う、という状況がそうさせたのだろうと。
    それでも危険な目によく遭いましたが。
    ちなみに今の日本、特に放射能汚染の実態と、実態からかけ離れた情報操作や欺瞞こそが、多数派の弱点をさらけ出しているように思えてなりません。
    ジャイアンは騙されないよ、と。

    • sora
    • 2011年 8月 08日

    以前「ジャイアン」という言い方に抵抗があると書いた者です。「ジャイアン型ADHD」だと抵抗がほとんどないことに気がつきました。
    私は大学生まで「バラバラの知覚」でした。
    卒業して自分の道を選択する状況になって初めて世界が少し体系化しました。しかしまだ「支配的な親の価値体系を丸ごと借りてる」状態でした。(ちなみにその体系は学歴、容姿、資産など社会的にいかに勝ち組かというもの。そこに当てはまる自分は優れている、でもはずれた部分は価値なしのダメ人間・・・傲慢と卑屈の支離滅裂です。)
    36歳で診断を受けて、自分なりの知覚で経験を考え始めると世の中がまったく違って見え始めました。
    生まれ変わったように新鮮な世界が見えてきました。
    びっくりしました。同時に、赤ちゃんのような幼児性も増したのではないかと思っています。周囲の人はイライラしているように思います。「なにをぶりっ子(古い言い方ですが)しているのか。今まであんたの人間性を見てきている。今さら善人ぶるな」と思われているかも・・・。
    なんだか悲しいですね。でもそれを背負って生きてくしかないです。

    • もふもふ
    • 2011年 8月 08日

    あるとき突然周りが見えるようになる、、、というの分かります。無意味に蓄積してきた経験があるときから配線がつながり始めて意味や流れを持ち始める、、、。「なーんだこういう事だったのか!」と腑に落ちる、、、。
    また、採用する理論体型が変わると認知などががらりと変わる、、、。これもまさにそう。
    私の母は超支配的で精神的にかなり幼かったのですが(ほぼ精神虐待)母のその歪んだ価値観を知らず知らずに採用して生きていました。他に手本がありませんでしたからね。
    自分の認知がおかしい、と気づくまでは人生辛かったです。
    辛いので色々探して、最初は彼氏に逃げ、次にスピリチュアルに傾倒しましたがどうもうまく行かない。却って損ばかりで余計に辛い。だのに嘘の笑顔で、、、。これでは実家できまぐれな母親の機嫌をとっていた頃と何も変わらない、、。
    、、結局現在は認知のゆがみとか交流分析などもろもろをちょこちょこ合わせたスタイル、自分の感情を大切にするスタイルで生活していますが、今までの中ではこれが一番しっくり来ていて、自分が楽で周囲からも好かれる。多分、この理論でビンゴかな?と思っています。が、もっといい理論があれば、あっさり別の人間になるでしょうね、、、。
    未診断ですが、ああ、私はADHDなんだな、と思います。
    ちなみに子供に処方されていたコンサータをたまに失敬しますが、いい感じにクールに割り切り上手になれて仕事に集中できます。

    • なみこしまり
    • 2011年 8月 09日

    先のコメントの承認ありがとうございます。
    スレチなコメントのお詫びではありませんが、記事の関連でのコメントです
    >カウンセリングを受けても、「話を聞くだけで何も言ってくれなかった」と言って不満を述べたりする。また~
    >知らせるべき事実があったのに、配慮して知らせなかったとしても~
    まず事実を受入れ、的確に対処(あるいは準備)する時間が自分自身いないことに苛立ちます。
    誰も身代りになれるわけでもない自分自身の人生であり、貴重な時間です。
    医者やカウンセラーの「専門家としての所見」を踏まえて(もちろんそれだけでなく、自分の脳で考えうる全てを総合して)「自分自身で下す結論」こそが「納得」です。
    ですから医者やカウンセラーのの所見が違っていても腹が立ったりはしません。
    その可能性も含めて所見を求めているのであり、大切なのは「自分自身で結論を下すこと」です。ですから誰も責めるものではありません。
    良いことであれ悪いことであれ、現状認識を誤れば次の判断・行動を誤ります。
    「配慮」で知らされない事実によって「判断を誤った」とすれば、そちらの方が大問題です。
    >ADHDは、発達障害は、何故このように答え、説明を求めるのか?
    最後の結論だけでは、過程の合理性はわかりません。ですから「その結論に至った経緯」を聞かなければ合理的な判断かどうかわかりません。
    それに支離滅裂(場面によって相反することを使い分ける)な矛盾した発言や行動の謎を解くには、その説明を求める以外ありません。
    ちなみに「みんなと仲良くしろ」という先生自身が「みんなと仲良く出来ていない」ということについて、「なぜ自分ができない(あるいやろうとしない)ことを人に要求するのか?」
    といった疑問に説明をしてくれた先生はいませんでした。
    今になって「教師らしい振る舞いをするために、ステレオタイプ的なことを、深く考えもせずに適当に言ってたこと」とだと理解しました。
    >さてこの「調達」の多くは、最終的に「合理的説明」に帰着するだろう。~
    それ以外の生き方を知りません。想像もできません。
    「合理的」を突き詰めるから「不条理」を味わいます。

    • ぱふぱふ
    • 2011年 8月 09日

    >「それまでバラバラだったさまざまな知覚や認識が突然説明可能な形でまとまって見えてくる」
    これは特別なことではなく、学習などの過程でも普通に見られることです。
    多くの人が体験することを取り上げて、私にも思い当たるという感覚をよみがえらせ、ADHDの特徴であると説明することは無茶ではないでしょうか。

    • pipi
    • 2011年 8月 09日

    はじめてお便りします。
    子がADHDです。
    その関係でこちらへうかがいました。
    私もそうかもしれません。
    ずっと、生きずらいと感じてきました。
    こちらを読んでハッとしたのは、
    本当に、人の名前と顔をいつまでも覚えることが
    出来ないのです。
    また、十数年来、ずっとペーパードライバーで
    何度、練習しても車幅感覚が理解できず、
    (運動神経はそこそこあり、自転車は手放しでどこまでも
     乗れます。自宅で自分の体をぶつけたり、物を壊してしま う様な事は、ありません。娘には、そのような事が多いで す。)
    擦ったり、ぶつけたり、
    危険なので、ずっと運転を避けてきました。
    数年置きに何度となく練習に励んでは挫折…
    を繰り返してきましたが、ある時、突然
    運転が出来るようになりました。
    以来、無事故です。
    また、仕事でも、画像診断系ですが
    エコーがいくらやっても、勉強しても
    立体感覚がつかめずに、
    何年も苦手なままでおりましたが
    ある日突然、わけが判るようになり
    難しい判定描出も出来るようになりました。
    ばかばかしいと思われるかもしれませんが
    誰に言っても信じてもらえませんが、
    まさに、ある日突然に回路が繋がる感じなのです。
    これは、あきらめず練習に励んでいたからでしょうか?
    それとも、その時期が来た時に勉強を始めれば
    もっと、短時間でモノになったのでしょうか?
    続きます。

    • pipi
    • 2011年 8月 09日

    続きです。
    と言いますのも
    現在、差し迫って英会話を習得しなければならず、
    しかし、英会話に関しては、
    英会話学校に通っていたこともありますし
    高速学習に高価な学費を払っていたこともあります。
    ずっと、英語のテープやラジオを流していても
    十数年来、全く聞き取れません。
    自分で伝えたいことを言うことはできて、通じますが
    相手の話している事が全く理解できず、
    不審がられてしまいます。
    限られた時間で習得をしなければならないのに
    今、必死で勉強をしても時間の無駄かも知れない。
    と思うと心配で仕方が無いのです。
    また娘のことですが、受験勉強でも
    受験をあきらめるか?と思っていた最後の一月で
    娘は急に回路が繋がり、
    あきらめていた志望校に
    合格いたしました。
    しかし、また現在回路が混線中で
    成績は芳しくなく、学校で残されています。
    学習時間は長く自宅でも頑張っているのに
    全く身にならないのです。
    教師には、ノートを見せても勉強していることを
    信じてもらえないようです。
    このままでは、進級も危ぶまれますが
    以前の経験から、このような時に
    塾へ行っても、回路は繋がらないと思っています。
    回路が繋がりやすくなるコツがあれば
    スイッチなるものがどこにあるのか
    先生の研究、臨床経験からヒントをいただければ…
    と思いましてご相談させていただきました。

    • ちひろ
    • 2011年 8月 11日

    多数派の人たちの行動のなかで、
    自分が理解できないことを理解しようとした時、
    「光を探してブラックホールを覗き込むようだ」と、ずっと思っていました。
    「ブラックホールの中に光はないだろ・・バカ」と、結論づけたのに、
    「じゃあ、あれなんなの説明してよっ!」と、ジタバタしながらぐるぐる回っていました。
    最近では、自分が指さすものも、なんなのかさえわからなくなってきて・・。
    説明できないものがあるという説明では到底納得できない。
    私をいじめた集団に今も聞きたい。
    「不合格の理由を説明してください」と。私が納得できるかたちで。
    ・・あ。この書き方はまずい・・。危ないところでした(>_<) 文字どおり、数学の答えを尋ねるのと同じ意味で、 「分からないから教えてください」と訊いたのに 「分からないなんて、なんて傲慢なやつだ!!」とボコボコに叩かれる。 多数派の人たちに「分からない」と言うことが 「俺様は正しい」と言うのと同じだと気づいたのはほんの最近です。 先生の記事を読んで・・ 私は「説明」を求めていたのかなという気がしてきました。 メール一本で辞めた私の行動にもつじつまが合う。 子供のころから基本的にインドア人間なのに、 わざわざサークル活動参加して、 精神症状だしながら、「説明」求めて9年間もいじめ続けられるなんて・・・ ある意味・・すごい。

    • なみこしまり
    • 2011年 8月 11日

    説明ができないのは
    ●説明できるだけの理解力・説明力がない(頭の中が整理されていないので会話がかみ合わない)
    ●説明が必要な相手だと思っていない(こちらを軽視している)
    ●自分にとって都合が悪い(例えば自分が悪いということを言いたくない)
    ではないですかね?
    多数派のコミュニケーションならそれでもいいのかもしれませんが、発達障害者相手では通用しないので「説明を求める方が悪い」と逆切れしていると思っています。
    私は「真剣に・真面目に・誠実に」すればするほど、相手に説明を求めるようになります。
    だから親密になろうとするほどトラブルになると思います。

    • 2011年 8月 11日

     私は、ADHDが早急に答えを求めるのは、出し抜けに発言するといった行動の延長線上の逆側近位に位置する行動なのでは、と思いました。これは、「待てない」現在の日本社会の影響をある程度受けているように思います。特に都心部の医院や病院の窓口では、待ち時間の長さからイライラして事務の人たちに怒鳴り散らす場面をよく目の当たりにしますね。
    さらに、ADHDにとっての「カウンセリング」を少し考えてみる必要があるのではないかと思いました。まず、カウンセラーの「配慮」とは何かです。「話を聞くだけで何も言ってくれなかった」という意見は、ADHD当事者にとって当たり前の感情のように思います。
    クライアントが発達障害であることで、一般的なカウンセリング技術を用いても「共感」に基づいたラポールが形成されないのではないかと思います。ここで気づかなければならないのは、ADHD当事者が必要としているのは「情報」あるいは「自己の体験と持ち得る知識の整理とまとめ」(これは先生が「合理的説明」「体験される世界」といわれたことかなぁ?)のであり、「共感してほしいのではない」ということ(先生のいう「他者が必要ではない」という特徴ゆえでしょうか)ではないかと思えるのです。
     カウンセラーは医師ではありませんから「診断」することはありません。早急に答えを求める傾向のあるADHD当事者へのカウンセリングは、まずその点を明確に示す必要があろうかと思います。おそらく、それを明確に示したとしても、ADHD当事者は答えを求めるでしょう。受診行動をとることは不適応を起こしているからと考えれば、衝動統制があまり機能していない状態であってもおかしくはないと思えてきます。
     そうすると、カウンセラーの基本的態度である「共感」は、「待てないほど衝動統制がきかない自分に苦しんでいる」という部分において必要になるのではないでしょうか。カウンセラーが多数派の場合には、「自分の価値を横において」共感しようとするとかなりのストレスになるだろうと推察されます。
     カウンセラーも人間ですから、いくら感情の統制に努めても愚痴は出てくるでしょう。私には発達障害を対象としたカウンセラーなどは到底できません。ですから、発達障害を対象としてカウンセリングをすると選択したカウンセラーさんは素晴らしいと思います。

    • 2011年 8月 12日

    あと、この「説明」の意味を読んでいて気になった点があります。どなたかが「バラバラだった知覚や認知が説明可能な形でまとまってみえてくる」ことを、「学習の過程でよくみられること」だといわれました。思考の発達は、ピアジェによる思考の発達段階の研究に始まり、その後のブルーナーによる知的発達の水準の研究により学校教育の重要性を指摘されています。これはADHDに限ったことではありません。
    ただ、多数派と認知思考形態の違うADHDの思考の発達が、全く同じなのか?と疑問を持ちました。また、様々な刺激に反応している分、その刺激がバラバラに記憶として収納してしまっているため、その記憶情報がつながりを持ち始めるまでに相当の時間と労力と支援を要するのではないかと思いました。多数派の場合、おそらくある程度系統立てられた記憶収納庫があり、刺激そのものがそのときにつながりがなくても適当な記憶収納庫に格納され、容易に引っ張り出すことができ、その記憶と新たな刺激とをつなげる作業が容易に行えるのではないか、と思えます。
    特別支援教育においては、自閉症への教育方法がしばらく前から研究され、視覚支援ツールが開発され、教育現場へ少しずつ浸透していきました。しかしながら、ADHDの子どもたちへの指導は衝動統制が主眼にあり、思考の発達といった側面はまだまだだと感じます。刺激が少ない学習環境をつくることのほかに、「空気」のプラグインが故障していることに対しての「いちいち(いわなくてもこれぐらいわかるだろう内容)の説明」が必要であり、バラバラな記憶収納に対して系統立てた説明が必要であると考えます。学齢期にこのような学習が得られたならば、成人以降、「空気」が読めずとも合理的思考により諸刺激の連関を理解して、周囲の状況に適応できるのではないかと考えます。教育の目的は、次代を生きる人々の育成です。多数派だけでなく少数派も、社会の形成者として生きるように育んでいかなければなりません。手はかかりますが、発達障害の発達期の教育はとても重要に思います。

    • pathy
    • 2011年 8月 14日

    いつも参考にさせていただいております。
    このブログで使用されている字体はちょっと読みづらいです…

    • yohko
    • 2011年 8月 14日

    私は、ルボックスを服用して世の中の仕組みや、自分が言い放ったことに対する相手の反応の予測等がわかるようになりました。
     「ああそうだったのか!なぜ、そんなことに気づかないですごしてきたのか?」と不思議でなりません。なぜなら、アルコール依存症になりお酒をやめてから3年以上たってから、もう50歳になろうかという時でしたから。遅きに過ぎました。ルボックスの効果もやはり、2年以上待たないといけなかっただしょうか。
     ルボックスは7年間飲んでいます。やめる勇気はありません。
     「説明を求める」ことも、親への恨み、世間への恨みが回復うしてからでないと、私の耳には届きませんでした。
     ですから、見えず聞こえずの無間地獄を歩いていたようなものでした。

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