ジャイアン語録3
「相手の気持ちを考えようとすると、頭が止まるんです」
表面上はおだやかで、他人からは一見ジャイアンには見えないごく普通に見える人だけれど、家族はボロボロになっている。その家族の気持ちについて説明し、想像することを薦めたときに出てきた言葉だ。
このあたりはジャイアンの行動特徴が脳の障害から来ることを示していると思うが、徹頭徹尾自分のことだけで世界が構成されており、他人の気持ちなどはよほど努力しない限り頭に入ってこないのがジャイアンの実際の姿だ。
本人に悪意はない。本人に見えたことに対してはむしろ善意で行動していることは分かるのだが、その前提になっている情報と思考があまりに自己中心的であるために、実際の行動は非常に見当違いで乱暴な行動となる。
他人には面倒見がよく、気さくで嫌われることはむしろ少ないが、家族などの関係者からの見方が全く異なることまで細かく見れば、立派なジャイアンであることは分かる。
特に身近にACやASの人がいると、ジャイアンの乱暴な言葉や行動に振り回されて精神的に追い詰められ、病気になる人もある。
私自身は、ジャイアンである母親から「人の気持ちが分からない」と言われ続け、そのおかげで自分は努力する必要があることが分かったので、自分は苦しかったが、その分周囲の人に迷惑をかけることは(あることは間違いないけれど)少なくなったかもしれない。
だからジャイアンに必要なのは、「自分が脳障害で病的に人の気持ちが分からない」という事実をまずきちんと理解して受け止めることだ。当たり前のことが当たり前に見えていないのだ。
元気で、明るくて、面倒見がよく、気さくで、皆に好かれてて、仕事にも熱意を持って真剣に取り組んでいて…
周囲から見て悪い評価は一つも無さそうなのに、パートナーである私だけ何でこんなに振り回され続けるんだろう、辛い目に合わなければならないんだろうと、ずっと苦しんで来ました。もちろん、私の個性が(AS的な部分が)引き起こした事でもあるのですが…
今回の先生の記事に、少し救われた気持ちです。
もうすぐ離婚しますが、子の為に、これからも妻と向き合い続けるつもりです。
>他人には面倒見がよく、気さくで嫌われることはむしろ少ないが、家族などの関係者からの見方が全く異なることまで細かく見れば、立派なジャイアンであることは分かる。
何で他人にはいい人なのに家族にはひどい人になるんでしょうかね。しかも本人の意図しないところで。不思議です。
>「自分が脳障害で病的に人の気持ちが分からない」という事実をまずきちんと理解して受け止めることだ。当たり前のことが当たり前に見えていないのだ。
ADHDでもASでも発達障害の人は自分の現実を自覚する事がとっても大事と思います。
私はASです。私は人の気持ちがわかってないらしいと気付いてから気をつけるようにしているのですが、今度は深読みしすぎて混乱します。バランスが難しいです。
一歩ずつ前進していきたいです。
mario様にお尋ねしたい事があります。
「もうすぐ離婚しますが、子の為に、これからも妻と向き合い続けるつもりです」と、ありますが、『子の為に』というのは、別居や離婚により離れて暮らす我が子に対する諸々の『親心(子を思う親の情け·辞書より)』から来る思いなのでしょうか?
それともAS的な『愛着』から来る思いの方が強いのでしょうか?
また、『愛着』は 別居や離婚により物理的·時間的距離をおく事によって、薄れたり消えたりするものなのでしょうか?それとも逆に、愛しさが募るのでしょうか?
お答えしたくない場合はスルーしていただいて 構いません。
先生は、犯罪や非行と発達障害の関係を
どうお考えですか?
まとまった考えがあったら、お願いしたいです。
特にモラルの欠如について、毎日考えてるのですが・・
wishさん
正直な話、親心なのか愛着なのか(愛情なのか)分かりません。と言うか、違いが分かりません。YANBARU先生の仰るところの愛着と愛情の違いも感覚的に理解できていません。
距離を置くことで何かが薄れるのは間違いないと思います。そう言う意味では息子と過ごした後に別れた時が一番辛いです。毎回、こんな想いをする位ならいっその事会わない方が…って考えない事もない。
とは言え、その辛さ以上に会いたいのは確かです。加えて、息子にとっては、父の愛が必要、親から見捨てられていないと言う実感が必要だと思ってます。(これは親心かな?)
ついでに、つい「子の為に」と書いてしまいましたが、まだ自分たちの問題としてもちゃんと妻と向き合うつもりです。現状では妻の要求を全面的に受け入れており、ある意味甘やかしている状態になっていると思いますが、状況が落ち着いたら、折に触れ客観的な話もして行くつもりです。(ここまで粘るのは愛着の一種なのかも知れません。)
(コメントでやり取りされているなか、会話と関係ないものを横からすみません)
>相手の気持ちを考える
相手がどう思うか、それを考えようとすると、
「彼/彼女が本人としてどう思うか」というよりも、
「自分が相手の立場だったらどう考えるか」という
あくまでも自分を基準とした想像になってしまっているような気がします。
(考えようとしているだけ、自分なりに頑張ってはいるのですが)
>「家族などの関係者からの見方が全く異なる」
という点について思うところがあります。
(自己正当化型だと思う)私の感覚としては、「内」と「外」という線分けが漠然とあるような気がします。
「内」…主に家族
「外」…そのほかの人たち
「内」
自分が素で相対できる相手の範疇です。
大抵気を使うこともなくそのまま思っていることがずばっと口に出ているのだろうと思います。気を使ったりすることもあまりありません。
揉めても、また元の関係に戻るような安心感?があります。
関係性は、家族になった時点の関係と同じ、という感じだと思います。
@自己正当化だと仮定した上での最近の対応:
できるだけ、険のある声にならないように気を付けています。
(つい低い地声で話してしまうので)
(コメントの続きです)
「外」
だいたい、家族以外の相手です。
声もつくってしまいます。
理由はわからないのですが、意外に気を使います。
(自分に不都合になるような面倒事をおこさない、勝手な気の使い方という可能性も充分ありますが。怒らせないための気の使い方といいますか)
関係性は、「こちらからは関係の変化を望まない」という感じです。
関係が発展すると、どう対応していいか分からないので。
その辺で出くわした小学生相手に丁寧語で喋ったりしてしまうこともあります。
@自己正当化だと仮定した上での最近の対応:
そういう行動を選択した理由が自己正当ではないか(<今振り返れば、多々ありました。というか大半なのではないかと)ちょっと自己ツッコミを入れてみて、過剰反応を避けてなるべくサラリとした対応になるよう心がけています。(あくまでも「なるべく」ですが)
ずっと同じ関係で変わらない相手には「内」扱い、
変化の可能性がある相手には「外」扱い、というかんじでしょうか。
素はどちらかというと、「内」だと思います。
深い関係、発展する関係というものが苦手です。
特定の時期から現在までおそらく「評価に過剰反応して、極端に引きこもったり、病的な強迫症状や時には妄想的」(『ジャイアンか病気か』の項)という状態のようなので、もし機会がありましたら、自己正当化型ADHDのACの修正方法の具体的な手法をいつか取り上げて教えていただければと思います。
(認知療法などは本でもありますが、ADHD向けのアプローチを教えていただければと。
ちなみにひきこもりや強迫症状は多々あっても、他の行動化は特にないので、認知修正のアプローチが上手くいけばある程度回復できるのではないかと勝手に思っています)
(連続書き込みで長々申し訳有りません。
不都合でしたら削除してください。)
自己正当化型の内ヅラと外ヅラが違う理由?についてですが、もしかしたら
ADHD:「状況がわからない」
自己正当化型:「状況をコントロールしようとする」
この二つの性質が重なっているのが一因なのかもしれないと(私に関しては)思いました。
1.他人とは関係が変わる可能性がある
2.関係が変わると、状況が変わる
3.状況をコントロールしようとする性質があるが(自己正当化型)、状況がわからない(ADHD)ので、コントロールすることがますます難しくなる
4.混乱する(憂鬱になったり、身体症状が出たり)
もしくは
a.衝突するとどうなるかわからない相手と衝突すると
b.状況がわからないことになるかもしれない
c.そうなるとどうすればいいのか分からなくなるので困る
(家族は、相手のことがある程度分かっているので、そう収集のつかない状態にならない)
以上の過程を避けるために「外ヅラ」という対策を私はとってしまっているのかな、と前の書き込みをした後思いました。
ふと思ったことなので、それが私が外ヅラを使ってしまう仕組みを表しているものなのかどうかはわからないですし、的を得てないかもしれませんが、「どうすればいいかわからない」という状況を自分が思う以上に恐れているのかもしれないと感じました。
状況をコントロールしようとするのは、混乱や不都合(先延ばしや憂鬱の原因)を避けるためというような気もします。
何に関しても、結局は自分のためなのでしょうが。相手にも自分にも難儀ですね。
mario様
回答 有難うございました。丁度、『親心』と『愛着』の違いについて 考えていました。参考にさせて頂きます。
wishさん、何か分かったら教えて下さいね。
>ミミさんへ
「内」と「外」
とってもわかります!
そうです、そんな感じ。
「外」である他人に対してはすごく気を使うし、
うつ病で薬を飲んでいて疲れていても、話しかけられると
にこにこ元気さんです。
「内」である夫には○○してくれない!○○してほしい!今日こんなんがあってさ、あー疲れた、頭痛い
など、自分の感情を表に出せて、気を使わないですむと言う感じでした。
でも「内」であるAS夫がそっけなくて冷たいと急にのびたのようにへらへらと従ったりします(謎)
この感情は自分でコントロールできません。
今は素にさせてくれる人がいないので、つらいです。
>リカさま
態度が違うこと、普段はあまり意識してなかったのですが(なんか変だなぁとは思っていたのですが、気付き出せるほど意識を払えていなかったので)
YANBARU先生が言語化されているのを見て「確かに自分そうだった!」というかんじです。
態度が一貫していたら、楽なのですが。安定した存在になりたいです。
>「内」であるAS夫がそっけなくて
分かります、家族のほうが疲れていたり元気なかったりすると、こっちが機嫌をとってしまいます。互いにとってよくないとは思うのですが(相互依存みたいなので)。最悪の事態の回避といいますか。
マイナスをどうしようというのではなく、プラスを相乗効果で上げられるのが一番だと思うので、できればどちらも精神的によっかかるのではなく、互いの楽しさを応援できればいいなぁと思います。
>素にさせてくれる人
私の場合は、1人でいればそれである程度素なのであまり「素にさせてくれる人」というのは必要ではないのですが、「人と一緒にいながらも素で楽しくいられる」という相手はいればいいですね。大体ADHDの人です。
>ミミさんへ
>態度が一貫していたら、楽なのですが・・・略
そうなんですよね、自分でもおかしいなって思いながら直りません。人によってころころ態度が変わってしまう。。。
>分かります、家族のほうが疲れていたり
わーそうなんですか!
一緒ですね。
これって自己正当型の特徴なんですかね。
飴と鞭みたいな、なんか私だったら私とは絶対付き合いたくないと思ってしまいます。そこまでわかってるのにー。なんで自分を変えられないんだろう。
>素にさせてくれる人
ちょっとミミさんのコメントを読んでいて思ったのですが、
仮に私がジャイアンだとしたら、言う事を聞いてくれるのび太を
探している状況かなぁ。
状況をコントロールしようとするのは恋愛にいてよくあります。
必ず自分が主導権を握りたいと思うし、
自分が思うより相手が思ってほしいと思うし、
メールがこないと何だかわからない不安が押し寄せて
いっそ別れようかと思ってしまいます。
こういう感情をコントロールできたらいいなと思います。
ミミさんとリカさんのやり取りを見て、私は思わず笑ってしまいました。
実は、私もそうなんです。まず、内と外があります。
内では、ジャイアンみたいで、私の思い通りにやりたい気持ちがあります。(実際、やってます〜〜)
素っ気ない旦那(うちの場合はADHDのようですが)にはチョッカイを出してまで、こっちを見て貰いたくなる時があります。そのくせ、チョッカイを出されるのは大嫌いでなんてワガママなんだろうか。
家庭内で一人になりたくなる時があり、台所の戸を閉めてCDを聴いたりして一人になりたくなる時があります。
素に戻る感じです。
そして、外は、やはりトラブルや誤解を避ける為だと思いますが、いろんな顔を持っています。
本当は内向的なのに、社交的に振る舞った結果、誤解され、誘いを受けると、最初は嬉しいのだけど、すぐに負担になる、私に期待なんかしないでね、と逃げたくなる自分もいて、収拾がつかなくなる時はストレスです。
私も声を掛けられれば、(薬を飲んでいる身でありながら)ニコニコ元気さんで、相手に合わせて「自分って、一体何!?」と思います。
相手によって態度がコロコロ変わるというか、変えるのは、自分でも変だと思ってました。
「相手の気持ちを考えようとすると頭が止まる」と言うのは、私の場合は逆で、相手の気持ちを考え過ぎて、「きっと、これだ」と想像して、こちらの出方が変わるような感じです。
先生のASスピリットの『受動型AS』に書かれてある「相手の立場に立っても受動型」を、未だに解読できずにいます。解説していただければ有り難いです。
『相手の立場に立っても受動的』というと言うことをずっと考えていました。
自分のことで考えてみたら、こういうことを言っているのではないかと言うところにたどり着きました。
これは正しいかどうか分かりませんが、実際の具体例で考えてみました。
私の友人が、とても重い鬱で入院してました。彼女とは、長い付き合いで、遠からず近からずの間柄で、現在は退院しています。
今年、彼女から戴いた年賀状に、私と話をすれば、元気になれるような気がしますと書かれていました。
この言葉には「会いたい」という気持ちと「今は、まだ気分が優れない」と言う意味があると思いました。
私は、彼女の状況を想像して、会いましょうと誘うべきか、いや、無理に誘わないで、そっとしておいた方が良いのか悩みました。
これも、『もしも私が彼女の立場なら、どうされたいか?』が基準になっており、一本電話を入れて、話をして、「気が向いたら来てね!」と伝えています。(幸い、彼女の自宅と私の職場が近いので)
こういうことを、『相手の立場に立っても受動的』と言うのではないだろうかと、今、気が付きました。
間違っているでしょうか?
HIKARI様の26日付·27日付コメントを読んで。
「内と外があり、内では自分の思い通りにしたい」という点は、今のところ 自分には思い当たりません。家族それぞれが自由(自己中)に過ごしてる感じです。『今のところ』なので、今後『これがソレに当たるんだ!』と、気付く時が来るかもしれませんが…。
それ以外の記載は 私がAC的な認知で生きていた頃(現在も多少 引きずってますが)に似ています。
うろ覚えなのですが、このブログ内か、YANBARU先生のHPに受動型ASは『ADHDに似ている』or『ACに似ている』という記載があった様な気がします。
…と、言う事は「ACの状態は受動型ASに似ている」にも置き換えられるのでは?と、書き込みながら思ったのですが…。
wishさんへ
先生の記事、2月11日の『ASの逆も真』を思い出しました。
過去の雑感日記を読めば、ブログの記事以外にも分かり易いことがたくさん書かれてあります。
確かに、ACとASは酷似していると思います。一度、私も「なんだ、私はただのACだったのか」と思ったことがありましたが、実は今は自己評価が低くないです。(苦笑)
受動型ASとADHDの区別や、自己愛と受動型AS、自己正当化型の状況理解の特徴、受動型ASのこだわり、受動型ASの愛着、ASの愛着・・等など、参考になる記事がたくさんあります。
HIKARI様
2/11·エントリ『ASの逆も真』を読んでみましたが、頭の中が 混乱するだけで、読解力の無さを痛感しました。しかし、『ACとASは酷似している』と言う事は『しっかり』理解できました。
今まで 漠然とした認識でしたが、正しく『酷似』ですね。
wishさんへ
正直、『ASの逆も真』は、ややっこしいですよね。
ところで、wishさんは「相手の立場に立っても受動的」をすんなり理解できましたか?
私の解読は、wishさんと同じ意味ですか?
この解読に、半年かかりました。
HIKARI様へ
私は息子が受動型ASではないか?と 指摘を受けた時に『常に相手が中心‐受動的な相手中心の発想、流され続ける』という記載を見て、『相手の立場に立っても受動的』=『相手の意思や意見に流される』と言う事なのか?と、考えていました。後々、本人の話しを聞いたり観察していく上で、その意味が分かってくるのではないかと思っていましたが、違うタイプの様なので、しばらく受動型ASの認知を考える事はありませんでした。
先日のHIKARIさんのコメントを読んで「なる程、そう言う解釈だったんだ」と思ったのですが…。
wishさんへ
ありがとうございました。
ASもジャイアンも、似てるので、迷うところですよね。
特に、主観と客観も違うし、自分では、自分はこうだ!と思っても、傍から見れば違うように見えるかもしれないし。
ありがとうございました。
HIKARl様。
『ASもジャイアンも似ているので、迷うところですよね。特に主観と客観も違うし…』と、ありますが確かにそうだと思います。
ただ、このエントリにコメントした『受動型ASを指摘された息子(現在は違うタイプだと判明)』は、小学生の息子の事ですよ。
私には18歳のチョ~ADHD息子と、9歳のAS的認知の息子がいます。
もしかしてチョ~ADHDの方と勘違いなさっているのでは?と 思ったので、敢えて書き込んだ次第です。
wishさんへ
はい、勘違いしてました~。
実は、私は最近やっと自分が『受動型AS』ではないか?と絞り込めてきたのですが、wishさんの息子さんが、違うタイプだと判明したきっかけは、どんなところでしょうか?
差し支えなければ、教えていただけませんか?
無理にとは言いませんので。
私も、自分と向き合って半年、とても長い旅をしているようです。
HIKARI様へ
幼い頃から息子を見ていて、多動の目立たないタイプのADHD(ADD)だと思っていたんです。
でも、主治医から『受動型AS』の可能性(指摘では無く可能性でした。前文撤回です)を示され、しばらく観察や受診を続けるうちに『ADD』でも無く『受動型』でも無く『積極奇異型』だと感じました。
受診時に、主治医の質問に対し、息子本人が言語化する事によって見えて来たものです。私には死ぬまで(死んでも)理解不能であったと思われる『愛着』と言うものも、「これが そうなんだ!!」と。今のところ 頭の中では理解できましたが 言葉や文章として表現するのは困難ですが。
YANBARU先生のHP‐ASスピリット『積極奇異型』で言えば、
A.①②③④ 特に④は日常生活で何か尋ねたりすると「(自分以外は身内であっても)他人事だから分からない」と答えます。
C.①②⑥ ②は友達との約束等で かなりストレス抱えます。
D.①④⑦⑧⑨⑩ やはり④⑦は友達との関係において多発。
上記が 今のところ見えてきた部分ですが、これから更に見えて来るものがあると思います。『受動型』と想定していた頃は、その様に見えたのですが、本人の言語化によって『積極奇異型』だと認識できました。
環境にもよるでしょうが、生きて行く上で、息子(AS者)のストレスは(身体症状を含め)計り知れないものだと感じています。私も身体症状ありますが、AS者のそれと比べると『お気楽的』にさえ感じられる今日この頃…。
※記号表示のみで分かりにくいと思いますが、悪しからずご了承下さい。
wishさんへ
とても丁寧なご回答、ありがとうございました。
『言語化』で、見えてきたということですね。
私も、最近、『言語化』『文章化』で、自分のことを新発見することもあります。
ASスピリットと照らし合わせながら、読ませていただきました。
『積極奇異型』と『受動型』で決めかねていたら、最近になってASに似た『ジャイアン』も出てきて、選択肢が増えて混乱してます。
ASとジャイアンの違いの情報を、もっと提供していただければ、選択肢が整理できます。
wishさんへ
分かり易いご回答、ありがとうございました。
『言語化』で見えてきたということですね。
私も、最近『文字化』『文章化』で、自分自身の特徴を客観的に見ることを、経験しました。
ありがとうございました。
HIKARI様へ
確かに、情報が多い程【自己診断】がしやすい反面、混乱も生じますよね。
私もHIKARIさん同様に、自分自身の意味不明な部分は『文章化』する事によって見えて来たりします。(現在も継続中です)
私はYANBARU先生がASとADHDを『愛着』の有無で区別している事に関して、あ~そうなんだ、くらい(安易)にしか考えていませんでしたが、最近になって分かって来た感じです。
約10年程前に息子がADHDと診断されてから、様々な書籍を通して、私自身もADHD以外の何者でもないと思っていましたが、このブログを通して、自分の中にAS的な要素を多く持ち合わせている事に気付きました。ADHDの息子にも同じ事が言えますし、ASの息子にはADHD的な要素が沢山見えます。
それで、YANBARU先生が『愛着』の有無で区別すると言う点に着目~!!
HIKARI様が『ASに似たジャイアン』で迷いが生じているのであれば、『愛着』の有無で区別が可能ではないですか?
私は小学生の息子がASで無ければ、また、診察に立ち会っていなければ『愛着』の意味(感覚)も分からなかったと思いますし、YANBARU先生がASとADHDを『愛着』で区別する本当の意味も分からなかったと思います。
自分自身が何者であるか分からない程、歯がゆいと言うか、苦しいものですよね。
wishさんへ
私は、ずっと『愛着の有無』で、自分をASだと思っていました。
ところが、先日の5月13日の『マザコンのジャイアン』で、それまでの『愛着』の定義が、ひっくり返ったので、一時的に混乱してしまいました。
その混乱振りが、自分で『ぐちゃぐちゃしてる』と思ったので、ジャイアンなのかな?と。
いずれ、自分にもジャイアン的な要素があると思っていた方が、プラスにこそなれ、マイナスにはならないと思います。
ASの可能性の方が自分では大きいと思っていますが、消去法で、取り組み中です。
ずっと、子供のことを、風変わりだと思っていましたが、自分も充分、変わり者であることに気がついた以上、自分の正体の確信を持てるまで、頑張ります。
ジャイアン妹は、彼女の病気で周りのたくさんの人が心配したにもかかわらず、私はこんな大変な目にあわされても一人で病気を克服しもう怖いものはない。。家族のみんな弱い人間・・・私が頑張らないと・・・
姉は元気がなく世間では無理なので、世間体もあるので結婚して、私が母の面倒は見る。。との考えのようですが、周りからは・・家の事は何もしないパラサイトのようにしか見えないような気がするんだけどな・・・。