ジャイアンは「出来れば責任を回避して丸投げしたい」という基本的な志向を持つので、相手がやってくれると言えば何でも「ラッキー」とばかり丸投げする。
逆に現実的に自分が不得意なことで相手が快くやってくれることを任せるのは「利用」であり、この「利用」はジャイアンにとっては(世間の多数派にはどうかはともかく)「健全」な行動と言える。
この違いについて考えていたが、結局ポイントはジャイアンの尊厳たる「自己責任の原則」に反するかどうかの問題であると分かってきた。
例えば割り勘の計算を任せること、また私の場合は新築の自宅の設計の相談などをカミさんに「丸投げ」したのだが、これは相互納得の上での「利用」に近いと考える。
反対に、「不健全」な丸投げは、例えば最近テレビをにぎわしていた某芸能人のように、「自分のステータスを夫の社会的地位に丸投げする」というようなことである。
この違いの根本にあるのは、「そのことを現実に丸投げしていることで合理的な自己突っ込みが生じるかどうか」ということにある。私はカミさんに(信頼して)丸投げしたので、出来上がった家については「任せることを選択した自分の責任」を自覚するので、不満は生じない。(逆に文句を言おうものなら合理的に「だったら任せなければ」という自己突っ込みが生じることになる)。
「丸投げ」の問題性、不健全さは、自分の生き方の非常に重要な部分について、「自分で責任を取りたく無いから丸投げする」という形になっていることにある。
依存型ジャイアンや、先延ばしの状態など、合理的な自己突っ込みがもともと停止しているか、あるいは合理的な自己突っ込みをを「誤魔化す」形で丸投げをすると、私の考えでは、潜在化した自己突っ込みのために治り難いうつ状態や身体症状、強迫症状などが生じることになる。
この例としては、例えば「原因不明の身体の痛みなどがあり、強いジャイアンたる本人がどんなに自分なりにやっても治らなかったのに、ASの治療者が白馬の騎士然と現れて見事に治してくれた」というようなケースを想像すれば分かりやすい。
AS治療者から「我流を捨てて私に従いなさい」と言われ、その通りにすると「いい子いい子」と誉めてもらえたとする。自己突っ込みに苦しむジャイアンにとってこんな垂涎の丸投げの誘惑はないだろう。
「丸投げをして自己突っ込みから逃れられる」という構造がお分かりだろうか?
ついでに言えば、私の考えではこの人の身体症状はこの丸投げ自体が原因でさらに悪化する可能性が大であると私は想像する。
ポイントは、「丸投げしたことがジャイアンの尊厳に関わらなければ利用になる」ということだ。自分も納得して任せて、後でストレスを生じないことであれば「利用」になり、本来丸投げすることはジャイアンとして潔しとせず納得出来ないような重大な問題を丸投げすると「責任回避」の自己突っ込みが生じ、その結果病気になるということになる。
どんなに名医に治してもらっても、最終的にはジャイアンは「自分で回復するしかない」だろうと私は考えている。どのようにして回復するかを事前に説明され、事後にも説明され、本人自身の努力で納得できる形で再発を予防するのが最も健全であり、「我流を捨てる」ことはジャイアンは最後までするべきではない、出来ない、下手にすると病気になるのだ。
>AS治療者から「我流を捨てて私に従いなさい」と言われ、その通りにすると「いい子いい子」と誉めてもらえたとする。自己突っ込みに苦しむジャイアンにとってこんな垂涎の丸投げの誘惑はないだろう。
>「我流を捨てる」ことはジャイアンは最後までするべきではない、出来ない、下手にすると病気になるのだ。
耳が痛いです・・・
私が、今感じている通りの事です。
私の「我流」とは、あくまで「書くこと」です・・・これをAS治療者に全否定されたらどうにもならない。AC矯正教育で、尊厳を捨てた結果、書きたくても書けない状態に陥っている。
(ここで、散々騒いでるじゃんと言う気もするけど)
AS治療者は「僕は芸術家と言う者を一人も知りません」と抜かしていましたが。あれは「謙遜」だったのか!?「事実」だったのか??
>合理的な自己突っ込みをを「誤魔化す」形で丸投げをすると、・・・
私は、これです。なので、
>潜在化した自己突っ込みのために治り難いうつ状態や身体症状、強迫症状などが生じることになる。
子供の頃からずっと続いている強迫症状、きっとこれは、母に対するものだったという事は自分でも気づいてましたが、
うつ状態の方、これは、結婚してからずっと続いてましたが、夫への気持ちに対して、ずっと自分の心を誤魔化してきた・・・という事が原因だった事。
よくわかりました。
私の場合は、
>納得出来ないような重大な問題を・・・
母や夫に丸投げしてしまった結果、自分がそれを責任回避してるのではないかと思ってる事に対する、自己突っ込みなのでしょうか。
今回のお話、非常に興味深かったです。
新興宗教や健康食品、占いなどの信者に見られるパターンのように思えます。
もちろん、「洗脳」という意識的行為が行われることも承知していますが、やはりハマりやすい人々というのはいるわけで、自分からそういった世界に飛び込んでいく(そしてハマる)人の一部に、依存型ジャイアンがいるのでしょう。
また、以前どなたかASの方が、「世界を自分の理屈で理解したい」というようなことを書かれていたような記憶がありますが、まさに教祖的感覚のように思えます。
このような組み合わせの場合、「常識的な世界」に引き戻すことの困難さは容易に想像できます。だって、両方ともその世界が脳にとってラクなんですものね。
ところで
>例えば割り勘の計算を任せること、また私の場合は新築の自宅の設計の相談などをカミさんに「丸投げ」したのだが、これは相互納得の上での「利用」に近いと考える。
これ、現在非常によくいろんな場面で使っています。というか、人に迷惑をかけないためには、苦手分野を自覚してあらかじめ丸投げしたほうがいいと思っています。
我が家では、旅行のときなど、企画(行き先、主な立ち寄り先、趣旨を決定、切符や宿の手配をする)はわたし、実行(詳細ルートの設定と車の準備、運転、行き先で荷物を運んだり支払をしたり)は夫が行います。どちらも納得の上で担当部門に責任を負う一方、相手の部門について文句を言わないルールになっています。
すごくラクです。。。
読んでいて思いました。
依存型ジャイアンは、”ジャイアンの尊厳たる「自己責任の原則」”は持っていないの
かもしれません。
私は、依存型ジャイアンだと思っているのですが、本当の意味での「自己決定」はした
ことがなく、まわりの顔色をうかがい(まわりから期待されるような行動を先読みし
ながら)ながら、その場がうまくいくような(そもそも自己決定ができないので嘘では
なく、その場はそう思い込んでしまう)発言を繰り返します。
(矛盾があっても気がつきません)
なので、「自己責任」の原則ということ自体、そもそもなく、すべてが「丸投げ」なのかも
しれません。そして、すべての行動場面で丸投げできる相手を捜している気がします。
(私は長男でありもともと視野が狭く目の前のことしかできなかった傾向も強かったため
(ジャイアンの定義そのもの)、母が何でもやってくれて育ってしまいました。その
行動パターンが完全にインストールされているのだと思います。)
すべてが、そのときの強者の意見に従うことが「自己の決定」となっているため、
「ちょっとでも、うまくいきそうにない」、自分と対等な立場か上の立場の人と
「軋轢が生じ」そうになった瞬間に、必ずといっていいほど、欝っぽい身体化
症状が発生します。
※うまくいっているときは自分の意志で決定して、うまくいったと思っているのですが。
「自己責任の原則」があれば、その意志表示の仕方は別にして、主張すべきは主張できる
だろうと思うのです。
>私の考えではこの人の身体症状はこの丸投げ自体が原因でさらに悪化する可能性が大である
そうかもしれません。私自身、丸投げによって一時、楽な気持ちにはなれますし、行動
パターンとして完全に身についてしまっているので、必ず丸投げする相手を探している
はずです。
しかし、結局、同じことを毎回繰り返しているだけで、1年おきくらいに、結局、身体化
症状が発症して、悩まされ続けます。
ジャイアン母の話なのですが、
つい最近、ジャイアン母がジャイアン姉のところから風邪を引いて帰ってきました。
これが姉のところに行くと必ず体調を崩すので、なにやら怪しいと事情を聞いてみました。
姉は母の世話を上げ膳据え膳するそうです。
そして、姉の母への干渉(文句)はそれは凄まじいです。
また、片付けられない姉は家中物で溢れていて、寝るところが無く、
母と姉と息子・・3人同じ部屋で寝るそうです。(旦那さんは何故か居間で・・)
母はこれに対して「嫌だ」と言わないのです。
強い人には抵抗できない人なので。
ちなみに、私には・・地図を印刷してくれと母から頼まれましたが、時間が無かったので断ったら
「もう、いいよっ!この、役立たず!」と逆ギレ&暴言を吐くような母親です。
母は姉に何でもやってもらって、自分の食べた物も片付けず、寝たきりだったようです。
姉は「全て私が世話してやってるのに、お母さんは一日中、ボーっとテレビ見てるだけ。息子の世話も言われたことしかしてくれない」
と言って怒っています。
そして、熱が出たまま(姉の制止を振り切って)自分の家へ逃げ帰ってきました。
(これも何時もの事なのですが・・)
ところが、家に帰って自由に(身勝手に)なれるとサーっと熱も引いてしまって元気一杯。
千恵熱か?と疑っていました。
>「我流を捨てる」ことはジャイアンは最後までするべきではない、出来ない、下手にすると病気になるのだ。
ということですね。
母は姉のところへ行きたがりません。姉も薄々避けられていると気がついていて傷ついています。
しかも、母は私が「早く帰って来いと怒るから」と私のせいにして姉に嘘を言います。
私はいくらでも行っててくれと思うし、そんなこと一言も言ったこともないし
母は承知して嘘を付いていて、私が姉へ「別に、こっちはお母さん居なくても・・」みたいなことを言うとムッ(余計な事言うなみたいな威圧・・)とします
ここのサイトのことや、発達障害に関して母にも話していて
母に「嫌なら、嫌だって自分で言わなきゃ駄目なんだよ」と言いました。
これで良かったでしょうか・・
すみません・・続きます。
「ジャイアンの身体化症状」で、私が母を甘やかすと母がどうなってしまうかを知ることが出来ました。
私が気にしていた、母の「私が居ないと寂しがるようなことを言う」というプレッシャーですが
あれは完全に私の「勘違い・思い込み」であったことが判明しました。
今朝も、母が「今日は仕事行くの?行かないの?」と何時に無く、しつこく聞くので
「どうして?」と聞いてみました。(これが今まで言葉にして聞いたことがなかったんです)
恥ずかしいぐらい単純な答えでして・・・
私が家で仕事をしていると、掃除機を煩がるのでかけられない→掃除が出来ない。
私が外に仕事に行くなら掃除が出来る。でも、行かないなら家でやることが無いから自分が外に(遊びに)行きたい。
どっちなんだとイライラされてしまいました。
寂しがってるなんて全然でした。むしろ私が居ないほうへ行きたいらしい。
少し前なら、アダルトチルドレンの症状が出て、私を嫌がってるのかとガックリしたかもしれません。
でも、私一人で母を可哀想・可哀想って大騒ぎしてたのがハッキリ証明されたというか・・
心底思い知りまして・・恥ずかしくなりました。
母のほうがよっぽど合理的に考えてましたね。
いずみんさんの旅行の役割分担、わたしと彼の場合もまったく同じです。
(わたしの彼も程度の軽いASと思われます)
普段の生活でも、得意不得意が彼とわたしではほぼ逆転するので、
お互い苦手な部分を補い合ってる感じです。
例えば、わたしは料理を作るのは好きだけど、食器洗いはなかなか手をつけ
られずに放置してしまう。彼は料理を作るよりも食器洗いのほうが好きらしい
ので、それぞれ得意なほうをやる。
洗濯物を干すのは前に一度わたしの干し方が気に入らなかったようで干しなおして
いたので「わたしより得意みたいだからやってー」とお願いしています。
わたしにしてみれば利用なのでしょうが、相手もわたしを利用してくれていいと
思ってます。
まだASやADHDのことを知らない頃、彼と沖縄旅行の計画をたてていたときのこと。
「ここを観たい」「ここに泊まりたい」と提案するのはもっぱらわたし。
彼に「どうしたい?」ときいても、「うーん」と考えてばかりではっきり
した返事がなく、この人は本当に旅行がしたいんだろうか?とだんだん
イライラしてきてしまいました。そして、彼を背負って計画をたてている
ような重苦しい気分になってきて、とうとう一気にすべてが面倒になったため、
彼を残して一人身軽に沖縄に旅立ってしまった・・・という経験があります。
つづく
つづき。
なぜ「○○に行きたい」とか「○○が観たい」などを彼は言わないのかずっと疑問に
思っていたのですが、どうやら「あなたと一緒ならなんでもいい」らしいです。
これを口外するのをすごく嫌がっていて、自分の考えを問われると、いつも考えて
いるばかりで答えがでない、というスタイルになっていたのかな、と思います。
(AS的な部分を修正しようとしていたため?)
そんな答えでもいいから、ちゃんと口外してほしいと頼んだら、だんだん自分の
意見を話すようになりました。でも、口外するようになると今まで隠していた
AS的な発言がモロに出るのでちょっとびっくりします。
そして、それを受け入れようとすると、依存型ジャイアンに戻ってしまうので、
「何様?」と笑いとばしつつ、それぞれがちゃんと地に足が着いていられる
妥協点を一緒に探る、という作業が大切なのかなーと思っています。
依存にならない付き合い方ができるようになったのも、ここで学ぶことが
できたおかげです。
···私の場合。「詩を書く」と言う行為でAS治療者に反撃を続けておりましたが。
ついに、「AC矯正プログラムとは、アメリカの神学の産物だろう。ある帝国が沈みかけた時、その思想の上澄みが全世界に広がる」と、言った瞬間、全ての縁が基本的に切れました。
今、(共依存かも知れませんが)現代詩を書く友人を、ある意味「利用」して、文章力を再インストールしています。
もともと私の母方は。曾祖父が、初めて地方でキリスト教を伝道したと言う牧師の家系で、母はその反動で青春時代マルクス主義に走りました。
しかし、母は一方で牧師の現実的実態をよく知っていたので、多数派寄りのAS父と結婚したと思われる…。
何か、親子2代で同じ事繰り返してるよな気もしますが。ちなみに「沈みかけた帝国が~」は、父のセリフの半分受け売りですが、父はアメリカ帝国に対してこの言葉を使ったのかどうかは不明です。
最近のエントリーはコーチにボールをガンガン打ち付けられている
様で、痛すぎです。が、気持ちいい。
nさん、ゴンベエさんやmikanさんでしたか?の葛藤はすごく
よくわかるし前進が早いなぁと感心します。
mmmさんやひまわりさん、いずみんさんの
コメントはすでに抜けている!ととても参考になります。
受動AS系主人に依存しているのか?と少し悩んでいた部分は
「利用」ということだったと理解できました。
うちは無意識にかなり分担してます。確かにお互い文句は言わない。
その辺は相互利用できているようです。
お互いの人格を尊重して境界は引いてるつもりです。(…多分)
ただし、息子のことがからむと未だにいけません。
以前にやんばる先生が言っていた通りです。
問題がおきた時は軽く責任のなすり付け合いがおきます。
それもウラを使い。子供も嫌な空気を感じ更に不安定に…
最近は「預かっている他人の子だ」と念じ、冷静に合理的に
その場を切り抜ける、切り替えができる様に、修行中です。
意識して言葉で話し合うようにしてます。(子も合わせ)
が、なんやかんやで家族一、我流は通してしまっているかも。
私は夫を「無意識下で利用している」と思います。
彼が稼ぐ代わりに私が家事を担当していますが、
100%の家事は私には過負担なので、
家事の一部も彼に負担してもらって、
ようやく五分五分になるかどうか、という所です。
私の今の生活を維持するためには彼が必要です。
それが最大の「利用」なのでしょう。
でも、そこにジレンマを感じます。
胸を張って利用出来ないでいます。
なので、
何とか自分の自己評価を上げるべく努力するしかなく、
ジレンマで鬱になるより、身体に不調をきたすより、
健全な方法で何とかしたい、と模索しています。
普通に生活をする上で苦手な事がたくさんあります。
そこをカバーする努力は結構シンドイです。
だから、苦手じゃない部分を見つけ、
そこを伸ばしたいなーと試行錯誤しています。
やんばる先生のおっしゃる通り、
「我流を捨てること」が一番危険だということ、
薄々感じてました。
「フツー」の人みたいに振舞ったり、
「変な人」と思われないようにすればするほど痛くなるし、
結局は無理なことなので落ち込み、鬱になります。
ここは1つ、前向きにあきらめて、
自分のままで(周囲への迷惑だけは考えながら)
残りの人生を生きて行きたいと、
結構元気な今は思います。
又、落ち込む日もあるのもわかってるのですけどね。。。
いずみんさんの役割分担やmmmさんのコメントを読ませてもらって・・・。
私自身、体力的に無理なことが多すぎたせいか、計画・下調べなどはほとんど私が仕切って、後は「やるだけ」の状態でいつも丸投げ??していました。
たぶん、それでうまくいっていたんだと思うんです。
親子関係からの共依存のパターンが、そのままか反転してかはわからない(ミックスか??)けれど、引き継がれて私の体調不良さえなければ、それはそれで問題なく過ごしていた気がするのです・・。
このバランスが崩れたからこそ、今、私は自立しよう!や自分のアタマで考え、決め、行動していこう!!という方向に向かい、そして再びお互いが苦しくないカタチでの「利用」や「丸投げ」が出来る環境を作ろうとしている途中で・・。
「人使いが荒い!」と良く言われていました(笑)。
実行者が行い易い様配慮しているつもりでも、きっと効率よく済ませることに重点が置かれていたんでしょうね。
<指示><命令>になることを避けるために、最近は必ず
「行く・行かない、やる・やらないは自分で考えて決めてね!」と言う様にしています。
結局、お互いに部分が違うだけで、「丸投げ」の嵐だったんだと思います。
>自分の生き方の非常に重要な部分について、「自分で責任を取りたく無いから丸投げする」という形になっていること
・・・ここの部分での「丸投げ」が私にとって身体症状の原因だったと、はっきり解かってきました。
後は、「我流を捨てず」にどう生きるか、、、
ここは捨てても、ここは捨てられないぞ!!と。
>下手にすると病気になるのだ。
最後までするべきではない、出来ない、
・・・のだと。。
送信ボタンを押して、あかばなーさんのコメントを読んで思いました。
>私の今の生活を維持するためには彼が必要です。
それが最大の「利用」なのでしょう。
・・・そう思っている・・・なのに
「我流を捨てられない」
・・・無意識の自己突っ込み→身体症状・・・
結果、現実で「仕切る」ような、効率重視の言動。
これが今までの私のパターンでした。
しつこくてスイマセン!
>今までは~
・・なんて、過去形で書きましたが、
今でも「利用」していることに変わりはない。(笑)
そこで(ここで)、今までとは違ったパターンを
身に付けようとしている最中です!!
>最終的にはジャイアンは「自分で回復するしかない」<
>「我流を捨てる」ことはジャイアンは最後までするべきではない<
今回も身につまされ、深く同意いたします。
宗教も音楽も酒グルメも、すべて自分流我流にアレンジして納得させて楽しんでいます。もちろん常に自己突っ込みとの闘いですが。
ただ体が元気なうちはいいのですが、頭は冴えているのに体が弱ったときにどうなるかという不安はあります….
>最近は「預かっている他人の子」だと念じ、冷静に合理的にその場を切り抜ける、切り替えができる様に、修行中です。
ドロシーさん、全く同感です。
子に対して、意識すればするほどヘンな方向にいってしまう・・・
私も最近は、子を全くのアカの他人と思ったほうがいいのではないかと思います(とりあえず今の私には・・)。
子ジャイアンは利用(もちろん先生の仰る意味での)できるところが、無い! それが残念ですが・・
keiさんの
>今までとは違ったパターンを
身に付けようとしている最中です!!
そうですね。
わたしもその真っ最中です。
今まで自分なりに試してみていますが、
無理な事は長続きしないので、
トライ&エラーの繰り返しなのですが・・・。
焦らずに自分に合った長続き出来る事を見つけたいです。
ところで、
私自身、計画や下調べはわりと得意な方だと思っています。
しかし、実行に移すのに腰が重かったり、
計画は出来るのにとりかかる「方法」がわからなかったり。。
自分だけの事じゃない場合は、
パートナーや友人に「実行部隊」になってもらっても良いように私個人としては思います。
これは悪いことだと思われますか?
自分独りのための行動の計画の場合は、
それを遂行するために第三者に手助けしてもらう事も有りかなーとも思うのですが(コーチやカウンセラーなど)・・・。
単純に「役割分担」と認識しているので、
こういった「丸投げ」については「罪悪感」「自己突っ込み」があまり発生しませんが、
こういった心理は問題なのでしょうか?
ちょっと疑問に思ったので書いてみました。
長々と失礼しました。
>mmmさん
面白いほどウチと似てますね!
>「ここを観たい」「ここに泊まりたい」と提案するのはもっぱらわたし。
彼に「どうしたい?」ときいても、「うーん」と考えてばかりではっきりした返事がなく、この人は本当に旅行がしたいんだろうか?とだんだんイライラしてきてしまいました。
>なぜ「○○に行きたい」とか「○○が観たい」などを彼は言わないのかずっと疑問に思っていたのですが、どうやら「あなたと一緒ならなんでもいい」らしいです。
ここも、全く同じです!ほんとうに「なんでもいい」みたいですね。
うちはその後、できるだけ具体的な選択肢をあげて意見を述べてもらうようにしています。
彼の中では「意見」じゃなくて「客観的状況の説明」らしいんですが、でも同じことを気にかけて何度も口にするようなときは、ほんとは「そうしたい」んですよね。
はじめのうちは、そういう「AS的非言語メッセージ」がわからず、言葉通りに受け取って、「わかったから何度も同じことを言うなー!」とか怒ってましたが、だんだんわかってきました。
あとよくケンカのネタになるのが、何か私が失敗したとき、
「え、てっきりわかってると思ってたよ」と後で彼が言うことです。
「勝手にわかってることにするな!怪しいと思ったら言葉に出して確認しろー!」
と私がキレるわけです。
これも「AS的非言語メッセージ」と「ADHD的文字通り解釈」との戦いですね。
>kei_さん
>あかばなーさん
「役割分担」と「丸投げ」の違いは、YANBARU先生のおっしゃるとおり、相手に押し付けていること自体に、自分で責任を取れるか、ということだと思います。
丸投げした相手が失敗したとき、「あなたの役割なんだからちゃんとやってよ!!」とキレまくって終わるか、「ちゃんとやってよ!(でもあなたに頼んだわたしも悪かった…)」と自分突込みが入るか、という。
また家事を100%やるのは自分にとって負担が大きすぎるのでパートナーに、というときも、「私にはムリなの、あなたどうぞ」だと丸投げで、「家事はムリなんだけど、ほかにできることをちゃんとやるよ(病気の療養含め)」ならば「利用」になるんじゃないでしょうか??
またkei_さんのおっしゃるとおり、丸投げした相手が、それを自分の意思で「やりたいから」やっている、と確認することも大切だと思います。
ただここは、特に相手が子供だったりするとき、ジャイアン的な都合の良い押し付けの理由にならないよう、自制が必要かもですね…
>いずみんさん
いずみんさんがわかりやすく書いて下さったので理解出来そう。
頼む側と頼まれた側は同時にその事柄に対して責任を負う必要がある、という事なのでしょう。
正直に申し上げますと、思い返してみて、
自己突っ込みが入る時とキレてしまう時と2パターンありました。
私の用意や計画が不十分だった場合の失敗には自己突っ込みが入りますが、
彼に計画~実行まで任せた事で、計画が極度に不十分な場合はキレてしまっていました。
今考えれば、
「私はこんなに準備に力を注ぐから失敗しても痛手は少ないけど、アナタは計画が不十分過ぎるから極度な失敗を生み出すのよ!どうして計画を練る事が出来ないの?」
というような感情でした。
よくよく考えると、
私のパートナーは自覚は無いけれど、
計画を立てて行動する事が苦手なのかもしれません。
「何でも良い」
と口では言うのに、実際は「何でもは良くない」みたいですし、
具体的な計画、タイムスケジュールなどを考えるのが難しいように思えるので、
そこをわたしが担当して計画途中などにチェックしてもらったり、選択肢を挙げてチョイスしてもらうなどしています。
本人が「計画を立てるのが苦手」と自覚してくれれば一番楽なのになーと思っていますが・・・。
というのも、彼から責任を丸投げされることもあるのです。
続きます。
続きです。
発案者である私が立てた計画だから、
行き先は元より、内容自体に対しても、
「オレはオマエの行きたい所に付き合ってあげてる」
という感覚があるようで、
ちょっとした言い争いの時に持ち出されたりして困ります。
こういう場面でも私は「キレ」ます。
>自分の意思で「やりたいから」やっている、と確認することも大切
何かの計画や日々の生活の面でもこれは言えますね。
「本音ではやりたくは無いけど、身体を壊されたらますますこっちの負担が増えるから、それを未然に防ぐためなら仕方ない。」
というような感じだと思いますが一度確認してみます。
自分自身、「ホントは怠けたいだけなんじゃないの?」という自己突っ込みはあります。
自己突っ込みが一切生じない様に生活しようとすれば、
1週間と身体が持たないのも経験上からの真実なので、
「健康を維持出来る範囲で頑張る」
という、難しい課題に直面中です。
中間点、妥協点を模索する事は私にはとても大きい宿題なのです。
長くなりました。
いずみんさん、書き込みありがとうございます。
あかばなーさん同様、理解が進みそうで助かります。
>丸投げした相手が失敗したとき
・・・信じられないけれど、今までほとんど「失敗」はしていない??か、私の下準備が完璧だったのか・・
いや、たぶん失敗があっても「愛」でカバーしてきたか!!などどは、もちろん言えません!!(笑)
怒りのツボにハマリ難い体質故、キレることはなく、「イマイチ読みが甘かった」と自分に突っ込みを入れていた気がします。
ようやく最近、「不快」な気分と「任せた私にも責任がある」・・というところまでになってきました。
それはたぶん、
>「何でも良い」
と口では言うのに、実際は「何でもは良くない」みたいですし
>「オレはオマエの行きたい所に付き合ってあげてる」
>「本音ではやりたくは無いけど、身体を壊されたらますますこっちの負担が増えるから、それを未然に防ぐためなら仕方ない。」
・・・・ということが、見えて(表現して)きたからだろうとも思います。
つづく・・
最後の
>身体を壊されたらますますこっちの負担が増えるから、それを未然に防ぐため
というのは、もうかなり前から言葉として言われていました。
>自己突っ込みが一切生じない様に生活しようとすれば、
1週間と身体が持たないのも経験上からの真実なので、
・・・申し訳ないが、3日ともたない私なので(笑)。。
>「健康を維持出来る範囲で頑張る」
という、難しい課題に直面中
・・・まさしく!!なのです。
怠けているのか?、やれないのか、やりたくないのか?他の自己突っ込みを入れつつ・・。
私の中では、表面上は以前と変わりない私が企画・下準備・手配をして、実行は他者というカタチでも、双方の意識が変化していれば、充分円満に(円滑に)やっていけるだろう・・と(甘い??笑)
でも気分的には、今までの様なパートナーオンリーには、したくない気持ちが強いです・・・。
私は自分がやりたくない事を夫にしてもらってます・・・っていうかやらせてます。
掃除やら片付けは、私は嫌いなので、夫が休みの時はやってもらってます。
後、庭の草むしりとかゴミ出しは、私は絶対にイヤなので(土とかゴミを触りたくないので)夫の仕事です。
洗濯も頼めばしてくれますが、
夫の変な性癖趣味のものも洗ったりして、いやな思いをした事があるので、たとえ夫がしてくれても、もう一度洗濯し直します。
前はこんな事は全部妻の仕事だと思い、夫に頼む事すらできませんでした。
でも、夫の変な趣味が私にばれ、夫との内面での力関係が逆転してしまったため、何でも夫に頼めるようになり、又
夫もしてくれるようになりました。
でも、夫はそれにより自分の性癖に対する自己突っ込みから少しでも逃れ、
私は反対に自己突っ込みのような気がします。
結局は、外見的には私は夫を利用しているようで、実は、
内面的には夫に利用されている事もうすうす感じてます。
ここに告白・・・白状させていただいているおかげで、
たまねぎの薄皮がはがれたら、
今度は腐っているところもも見つかり、
そこもはがしていくと本当の私の食べられるところは、
中の中の小さい実(身・・・?心・・・?)だけだった・・・
と言う事にになってきたようです。
心境的には、気持ちいいですが、中の小さい実もすべて腐っていて、結局は全部捨ててしまわないと・・・となりうる可能性もないでもありません。
ASとADHDカップルがこんなにも多いことに改めて驚いています。
私達夫婦は何処へ行っても「変わり者」なので・・
皆さんとあまりにも似ていて、不思議な気分です。
AS夫を少しは理解出来たかなと思えるのは極最近です。
私が勝手に思うに、AS夫は想像(ファンタジー)が苦手なのかなと思うのです。
AS夫に「どうして?」と聞いても「分からない」としか応えてくれません。
こちらのサイトや、mario さんのコメントからヒントを得て想像したりして「00じゃない?」と言うと
「なんで解るの?最近偉いね、俺を理解できるんだ」などと言われまして。
でも、ピッタリ言い当てないと違うと言われます。
今回のテーマで昔を振り返りました。
結婚もして、人生を背負ってくると当然笑ってばかりいられないトラブルが勃発します。
AS夫は人生丸ごと私のせいにしました。
ADの私はまず自分を責めましたが、あまりの不安に耐えきれず、私の箍が外れてキレる(私もジャイアンの子・・)という次期がありました。 続きます・・
うちのAS夫は「反対」だけをする人なので、あの頃は私の案(反対を押し切って実行)で失敗→なじリ合いの大喧嘩。
このとき、AS夫は反対はするけれど「じゃあ、こうしよう」という代案が一切なかったです。(想像が苦手?)
夫の暴言を怨んで、私もnさんのように「夫を金ズルだと思おう」と決めた次期でもありました。
うちの場合は仕事が複雑で事態が悪化するにつれて、何の為に一緒にいるのか判らなくなってしまいましたが・・
この状態でも踏ん切りがつかないのかと、自分に呆れましたし、夫を何の利用価値も無くなってしまったと感じたのに、
あの時、ある節目で私は自分が終わりにしたくない以上、終わりにしないと答えを出しました。
あれは何十年も前の話ですが、あれから工夫も重ねました。
長い間夫の酷い暴言を許せなくて苦しみましたが、今はあの頃の自分も反省しています。
今回のテーマで再認識しました。
昔は自分が出来ないことを夫に押し付けたのに事態の悪化を私は夫にキレていました。
お互いに一人で生きていけない(利用し合っている)ことは事実で、この時点でお互い様だったのでしょうね。
夫も逃げ腰で酷かったけれど、私も身勝手でした。
成功したなと思う工夫は仕事も完全に二つに分けて、相手のやることにお互いケチをつけなくなった事です。
その上で、夫の言う「得意なほうがやればいい」を尊重して(確かにその方が合理的だと思って、自らその言葉に従った)
私が土台を作り配分と基本的なルールを決めて、夫は私の決めた中で精一杯仕事してます。
一般的な方法では無い為、色々な方面から理解されませんが、結果としてこれが一番効率が良かったです。
>相手がやってくれると言えば何でも「ラッキー」とばかり丸投げする。
>自分が不得意なことで相手が快くやってくれることを任せるのは「利用」であり、
二つを比べて考えた場合、私は前者の方が多いです。
以前のテーマにもあったように、こちらから言って(頼んで)までやってもらいたくない・・・と思ってしまう私なので、
自分が不得意であったり、やりたくないからといって、お願いしてやってもらう、ということはほとんどないです。
お願いしておいて、気に入らなかった場合、文句は言えない立場で『やっぱり頼まなきゃよかった』と突っ込みが入ります。
相手が「やってあげようか?」と申し出てくれた場合は、自分が不得意ではなくても、任せてしまいます。
その結果が気に入らなくても、「任せることを選択した自分の責任」を自覚するので、諦めます。
私は、皆さんのご家庭のように、相手に頼むことができず、
結果、添い遂げるための努力や工夫は全くせず、
自分の両親と全く同じようになっていく、自分自身の夫婦関係や家族のあり方を終らせることを選択し、
別居を実行しました。
皆さんは、お互いを理解しようとし、家庭も子育てもなんとかなっているようで、素晴らしいと感心します。
『利用』と『丸投げ』・・・難しいです。
ひまわりさんに同じくです。
さらに、子供がいて、利用と丸投げがうまくいっている人がいれば知りたいです。
>こちらから言って(頼んで)までやってもらいたくない・・
・・・関係がこじれている時はホント、常にそう思っていました。
実際に私が立ち入れないお店への買い物を頼んで、その時は「いいよ」という返事でしたが(ほんとは「いいよ」ではなかったんでしょうが)、別件でモメた時に「じゃ、○○に買いに行ってやらない!」と言われ、間髪入れずに
「いいよ、別に。。買いに行ってくれなくても・・」と、口からスンナリと出てしまいました。(笑)
頼んでおきながら、デカイ態度ですよね。
とは言うものの、日常生活において、肉体的な面での不足はどうしようもないので、優先順位を決めて、、
早い話が「自分」の欲望は後回しにして(笑)、まずは生活に必要なことを「依頼」していくことにしたのですが、これまた、「命令」や「指示」に聞こえることが多いらしくて、モメる時は決まってソコに引っ掛かりを感じているときみたいです。
なんでも自分で出来たらいいのに・・・と思いますが、出来たら出来たできっと、こういう工夫もせずにいるんでしょうしね。。
身に付けたいことが、まだまだたくさんありそうです。
・・・自己コメント補足
>実際に私が立ち入れないお店
・・・って、自分で読んでみて、これじゃなんだかアヤシイ??如何わしいお店みたい・・・(笑)。
以前にも書きましたが、私の場合、過敏症が入り口なので
例えば芳香剤やコスメの香りが漂うドラックストアやホームセンター、銀行・郵便局なども行けない建物のうちで、
前出のコメントのは、郊外型スポーツ用品店でした。
生活に関わることではなく、あくまでも私的な買い物の依頼で・・・。(普段は通販を利用したりしてますが、)
なので、ほ~んとに
>頼んでおきながら、デカイ態度
だって、つくづく思います(笑)。
昨日、初めて自分の発達障害、学習障害の相談に行きました。
検査の日程も決まりました。実際自分が発達障害だと明らかになるのが、少々怖くもあり又楽しみでもあり・・・
年明けになりますが、その内容がその時、ここでお話できそうな心境ならば、又書き込ませていただきます。
ところで、昨日それ以外に私の仕事の事、息子の進路の事で、ダブルパンチがありました。
二つとも、私にとっても息子にとっても楽な方へ話が進んだのですが・・・
息子の方の事はとりあえず、
私の方の問題は、相手にその時は、「では、(お言葉に甘えて)そのようにそのようにさせていただきます。」等と言ったものの・・・
私の事ばかにしてるんじゃないの?・・・
と私自身、思えて
自分の自信のなさがとても惨めに思えてきて、又、その時どうして私自身の本当の気持ちを伝える事が出来なかったのだろう・・・という自分に対する悔しさ・・・
仕事の事に関しても相手に気持ちよくまる投げ出来そうな事さえ出来ません。
私自身に自信がないから・・・?
そんなんじゃ、これからもソンするよ・・・と別の私がささやいています。
今回のテーマと皆さんのコメントを見て、何か言葉になりそうなことがもんもんと頭にあったのですが、忙しさにかまけてその頭を放置していました。
ASは他人の丸投げも受け入れてしまうし、下手をすると自分を愛着相手に丸投げしたくなる生き物でもあるかもしれないと思いました。
上の記事を読んでも思いますが、才能あるASは、時に余分なくらい他人を“丸引き受け”するのが確かに上手いです。
自分の幼児期からの記憶をたどると、何で人の愛情を測っていたかというと、私の何をどこまで引き受けてくれるかで、喜んだり心の距離を取ったりしていた部分がありました。(親の本物の愛情は別物だと年を追うごとに理解しました。でも不満が・・・)
しばらく前にコメントに例として挙げた『ずっと普通になりたかった』のグニラさんが、ご自分の障害を知る前にしていた行動も、その視点で読めば“愛着相手への自分の丸投げ”ですね・・・。そして、その衝動がよく解り、共感できる私自身に、今でも揺らぐこと無い(?)失望を実感したものでした。
親から生まれてきたくせに、障害を知らされていない間の感性は、総合するとまだ、プログラムをされていないロボットなんですよね。
人にフィードバックをもらって、データ取って、プログラムの立て方ダウンロードしてもらって、スケジュール立てられるようになって、初めて何していいか解る、みたいな。
よそ様からもらって、もらって、もらうまで分からない。
だから“私をもらって”みたいな行動に繋がると思いました。
許されるなら幼稚園の頃の私も、口利かないで黙って何したいかも考えないで、人にテクテク付いて歩きたかったようなものでした・・・。グニラさんはASが強く、完全にできなかったのですが。
しかしできないと、支配したい子が寄ってきて、いじめるものなのですよね・・・。
それに、私の育った場所は大人も自分の丸投げを許しませんでした。プログラムもセットもインプットもされていないロボット一台を、私は一人で操作しなさい、それを楽しそうにしなさい、と私は命じられたのでした・・・。
続きます。
続きます。
何を書きたかったか、これにたどり着くまで連想したことを逆にたぐっていくと、発端は仕事中の文句から始まった再燃でした。
仕事で子どもを引率して行った素敵なカフェで、子どもを叱ったんですよ・・・静かな声でですが。(怒るはよろしくない、叱る、べきであるという言葉を私なりに心がけつつ。)
その場で注意しないと、意識の中に入っていかない種類の経験というものはあるものです。私は支援するための人間なので、しないほうがこの場合不適切なのです。
しかし、私が他のお客であれば、必要以上に恐く見えたであろうと思います。過敏な人なら、私は妖怪のようだったかもしれません。
そして、職場にはカミングアウトと過剰適応をしているため、「聞いて聞いて」と自分がすっきりしたいがために愚痴の聞き役を押しつける相手も無し。
愚痴を自分で処理する能力をつけられなかったのは何故かとこだわりはじめ、親が物事の一面の見方しか私に教えなかったからだと責任転嫁を始めました。
物事にはメリットとデメリットがあり、私がその片方だけにこだわり、親がそれを復唱して根付かせた、だから私の頭には親の言葉が今も無用に響いて再燃するのだ、とまで考えた後に、(では愛着相手の価値観や言葉に感情抜きでも問答無用に振り回されるのは何故か。それは私がASらしく頭を愛着相手に明け渡しているからではないだろうか。)と浮かび、そこから前のコメントの“私を相手に丸投げする”の仮説がでてきたのでした。
これらを、カフェから帰ってきてから、車で帰宅するまでダラダラ、ダラダラと考えていたわけです。
我ながら、うざい再燃です。
しかし、これを管理するやり方も、人や本の方法ではダメでした。我流のやり過ごし方を見つけながら、効かなくなったら取り替える繰り返しでした。
まだ続く長い人生を思うと途方に暮れますが・・・ジャイアンのかた達も孤立しつつ工夫しながら頑張っていることを思えば、私も自分の管理、やめられませんね。投げられませんね。
先生のおっしゃる「我流を捨てる」とはADHDの自分にとっては
「自分を捨てる」ことだったんだと改めて思います。
一生けんめい「我流」で生きてきた。でも多数派のなかでは激流をさかのぼるような生き方だったし、周りを見渡してもそんな生き方してる人‥つまり「世の中もあんたもそんなんでいいのかよ!?」ってさけびながら自己突っ込みにもだえながら歩いてる人‥っていなかったから、もう「我流」で歩くのの疲れちゃったんですよね。
聖書の教えはわたしの「我流」を認め受け止めてくれるものだったのに、自分で考えることをやめたADHAは多数派の流れに押し流されて自分が何者か分からなくなっちゃった。
気がついたら死ぬ目に遭うほど体はボロボロになってました。
あーこわいこわい。もう二度と「我流」を、「自分」を手放さないようにしよう。
先生のおっしゃる通り、そのうち体も良くなると思います。
今は「我流の自分」で生きるリハビリ生活でいいのだ!!