ASと自己正当化型ADHDは自分の非を認めることが苦手である。もともと自分と異なる価値観があること自体、かなり現実の中で苦労して学習しないと想像することは難しい。
その結果、どうしようもない失敗や、どうしようもない現実の問題に直面すると、「くよくよ悩む」ことはしない代わりに、頭痛や吐き気、ふらつきなどの身体症状が出現する。人によっては強迫症状や聴覚過敏、視線恐怖がひどくなることもある。
こられの症状を治す方法は、当然症状が何故起こっているかを解明し、本人に直面化を促すことになる。もともと非を認めたくない発達障害の場合、さまざまな抵抗をするけれど、それ以外に回復の道は無い。
くよくよ悩むことは、見た目は良くないし、後ろ向きで生産的でない印象があり、悪く言われることが多い。しかし現実には前向きの発想ではどうしようもない問題もあり、時には愚痴ったり泣き言を言ったりすることが必要な場合もある。
一見前向きで切り替えが早いと見られるスタイルも、身体症状が出てきているということは「体がついてきてない」ということだ。悩むべきときには悩み、現実から目をそらさないこともひとつの能力だと思う。
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またまたこめんとします。
タイトルをみて思い出しました。
「悩む力をとりもどす」というのをべてるの家の書籍にちょくちょく出てます。
もともとは、統合失調症のために開発された「当事者研究」という幻聴の傾向をつかむ手法があります。
発達障害の「こだわり」「認知のずれ」というのにおきかえたらしっくりきます。
私は発達障害者なのですが、パニックやフラッシュバックやこだわりを全面にだすことで、認知の遅れを取り戻す作業になってるのではと実感してます。
先日、「アスペルガーは後悔しない」の記事にコメントを書きましたが、今日、この「悩む能力」を読んで、どうもASとADHDでは、失敗や現実問題の対処法の姿勢が、微妙に違うのかもしれないなと思いました。
ASにもADHDにも、自分の非を認めない、反省が全くない、もっと言えば、自分を客観的に見る視点が全くない人もいますが、
十人十色で、自分を客観的に見ることができる人も、もちろんどちらのタイプにもいます。
その場合でも、ADHDとASの自分へのアプローチ法が違う感じがしました。どちらか一方が正解なのではなくて、それぞれのタイプに合ったやり方があるように思われます。
以下、あくまで私見です。
私の身近なAS系の人々(るる診断)は、前提として自分に間違いや考えのずれはないと考えていて、うまくいかない場合は周囲に原因を求めるように見えます。自分自身の問題として悩むというより、周囲の対応や世間を責める傾向となり、原因が広がりを持って当初の問題があいまいになり、解決が長引くように思えます。
自分を含めた身近なADHD系の人々(るる診断)は、うまくいかない時には必ず自分にも問題がある、と思いつめるところがあります。不必要に自責の念に囚われる一方、その反動なのか他者を責める状況が生じたりし、結果として問題解決が遠のくように思えます。
このように書くと、いずれの場合も問題をシンプルな姿にすることが解決への近道、なのだと思いました。あとは、当事者がどう考えるか。。。
「切り替えが早いスタイル」、これは私のパートナーが該当し、身体症状も当然出ません。私は、効率のよい生き方に合理性と憧れを感じていました。しかし近頃ではつくづく、自分には合わない生き方だと得心しました。
私は、自分の生きるスタイルを確立して、しかもそれに縛られず、悩む時には大いに悩んで、心を自由にして生きたいです。
昨日の投稿後、私見の部分は余計だったなと自己突っ込みが。。。でもせっかくの(自責の)機会なので、なぜ書きたかったか、掘り下げて考えてみました。
現況で私は、子どもにもパートナーにも、家族に関わる周辺の人たちにも、ついでに言えば仕事関係の若干名にも、“直面化を促したい!”のだと思いました。一番言いたい相手は、やはり子どもです。
でも言えない。
私(ADHD)自身は、他人から「自分の問題に直面化したら」なんて、とんでもないこと!で絶対に言われたくありません!!(自分が直面化できているかどうかは別として)
思春期にある子ども(るる判断の積極奇異型AS)も、他でもない母からそんなこと言われたくなかろう、と想像してい
ます。
悩むことも一つの能力、それが子どもに備わっているかどうかはわかりません。ここは親として、子どもの力を信じる局面だと思いました。子どもが自ら選択している「社会的関わり」の中で、いつか、自分で気づく力を身につけていけると信じます。(信じるのは私の心の自由で、それが私のスタイルです)
・・・ここ1,2カ月、堂々巡りのような投稿も少なくないですが、それが私のありのままの“悩む能力”なのだと思いました。