(①からつづく) わが子ジャイアンの経過を見ていると、5、6歳までは明らかに中心志向で努力家だったのが、小学校入学後に注意欠陥が激しくなって、「完璧にはとても出来ない」という現実経過の中で、最初は「嘘をつく」露骨な否認をはじめ、その後はへらへら笑いながら「大丈夫」「後でするから」といった言い訳っぽい態度で「居直り正当化」とはじめた。
これは小学校3年生頃までに見られることもあり、「思考を現実に合わせる形での二次的なスタイルの修正」と考えることも出来る。
親としての私はこの経過を見て不安になった。自分自身に言い訳をして誤魔化し笑いをして、これは既に一種の二次障害なのではないか? 以前の努力家の「良い」面が捨てられて、言い訳ばかりする経過になる。
そういう不安の中で実は私はジャイアン子を信頼できる先生に受診させた。「コンサータの服用」という方法を考えたからだった。
コンサータを服用して現実の適応において注意欠陥がある程度改善されれば、中心志向を向上心として努力の原動力とし続けることが出来る。
今思えばこの判断の根底にあったのは私自身の親としての不安が子供に投影された形であった。
中心志向を持つものとして、現実に注意欠陥で自分が「出来ない」現実を突きつけられれば、激しい(中心志向の)自己突っ込みが生じ、「嘘をつく」までの否認や「考えないで放置する」という誤魔化しは当然生じるだろう。
私に良く似ているわが子の反応の中に私は自分自身の不安を感じ、自分自身の二次障害の辛さにもう一度直面することになった。
私は信頼するわが子の主治医に(コンサータで)「普通に生活するチャンスを与えてみたい」と懇願したのだが、これは私自身の思いでもあった。
実際苦しい二次障害の中で生きてきたADHDとしては、「子供の頃にコンサータがあったなら」という思いは切実だ。
しかし、もっと突き詰めて考えてみて、上記の「混同」の問題に気付いた。「中心志向」は必ずしも必要な道ではない。むしろ大人になってから「抜く」ことを考えるような厄介なスタイルであるのだ。
私は何故わが子を中心志向に引き戻そうとしたのだろうか?
ここまで考えて、「中心志向が無くなったらどうなるんだろう」という自分自身の不安が本体であったことに気付いた。私自身が中心志向を原動力として前進を続けてきた経過から、中心志向以外に向上する方法を想像できず、自らの中心志向を「厄介」と言いながら「無くなっても困る」と考えていたことに気付いた。
そこまで冷静に考えて、「居直り正当化」を見直すと、これこそ「合理的な教育の成果」の他ならないわけで、するべきことは「居直り正当化を徹底的に合理的にすること」である。
誤魔化しは許さないで、合理的に正当化させることをしつこく続ける。これで「考えない」依存型への道は回避できるはずだ。
私自身もこれまで数度書いてきたが、「メインエンジンを停止する」という形で、中心志向を出来るだけ封印する方向で実際考えている。
中心志向を実際に振り回してしまうと、人間離れした努力をするエネルギーは得られるが、現実の仕事の中ではチームプレーを破壊したり結果が出ないと虚脱状態に陥ったりしてマイナスも非常に大きいからだ。
救いは、「合理的に生きつつ、興味や好奇心だけを前進のエネルギーとする」というスタイルだと私は思う。
中心志向はある意味有用だが失うものも大きいある種のドラッグのようなもので、やはり「抜くべき」ものである。
興味深く拝読しました。
合理的に生きるというのが僕にとっても重要なようそであり、感情のままに判断して行動すると無駄な行動が多くなり体は過労状態になります。財布の中身も減っていく。
全身のエネルギーを興味や好奇心におくのは僕もしています。この場合、周囲の理解を越えてしまうとひたすら孤独な探究がつづくことになりますが、命をかけてもそれを続けたいくらい楽しい毎日があります。
最近感じたことです。
“全てが自分の思い通りにいかないことは本人が一番辛い”
今まで本当に辛かった。
今まで外部へ向けていた衝動や怒りは全て親へのものだった。
散々親に『お前らのせいでこうなった』『お前らは親になる資格がなかった』『よくも自分が親になれるなどと思いあがって能力もないのに子供産んだよな』と言ってきた。
でも跳ね返されて全く届くことはなかった。
エネルギーだけ吸い取られ徒労に終わり、絶望と無気力のみが残った。
そこでようやく気づいたのです。
『人のことは変えられない』
この人達は親以前に大人でもないただの幼児だったと。
私の気持ちなんて分かるわけが元々なかったと。
そうしたら、私のことは私自身さえわかっていたら良いと、他人に私を認めてもらいたい欲求がなくなりました。
嫉妬もない。社会に対して不満もない。ようやくそういう境地に達しました。
親も自分の親に愛されずに育ってきた孤独な魂。
だから子供を自分達の分身として育てる。
表向きは私のため、でもそれは親のため。
親が親として機能しているかは、子供の気持ちを聞いたことがあるかどうか。
親に言われ続けたことは親が死んでも子供の中に生きつづけ子供をがんじがらめにする。
そんな連鎖は断ち切らなければならない。
だから私はこの両親の元に生まれたんだろう。
ジャイアンだって変われるのだ。
障害のせいだ、環境のせいだと言って逃げたくない。
人を傷つけてまで我を通すなんてレベルの低いこと。
もうそんな時代じゃない。
一人きりで孤独と向き合い泣きわめき暴れて破壊して小さかった私を救ってやる。
自分の思い通りにならないと知ったら全てのエネルギーが自分の内側に向かう。
私を救うことが出来るのは私だけ。
ジャイアンに救いはあるか?僕はこう思います。
高名な心理学者である加藤諦三氏の「自分を嫌うな」
という本に
「人の心を破壊するのは利己主義者ではなく愛他主義をよそをった利己主義者である、ストレートな自己本位ではなく他人本位の底に隠された自己本位である。」とあります。
この文章の意味は抑圧することの怖さを表してるのだと思ってます。
例えを言うと、母が子に自分の劣等感を解消するために子に高学歴を要求する。それを母親は「私のために行って」というのではなく「あなたのために言ってるのよ」と愛他を装う。子は前者の言葉だと対決できるけども、後者の言葉だと何もいいかえせなくなり、憎しみを抑圧する。
この加藤氏の言葉はジャイアンにとって大切な気がします。
つまり、ジャイアンは利己主義であることを認める。
それが周囲の被害を小さくする。
でも自分は利己主義だ利己主義だとばっかり思っていると、これだけだと苦しい。本当に苦しい。だから僕はこう思うようにしてます。
自分はadhdであり親の愛情を受けずにここまでよくがんばってきた。親に愛されずに、犯罪を犯したり精神病院に入った人はいくらでもいる。でもここまで生きてきたんだから、そんな自分を認めてあげようじゃないか。
「自分は利己主義者だけど、この世に生まれてきたんだからそんな自分を大切にしてあげようじゃないか。」
極端を揺れ動く少数派がこの感情を持つことは難しいんですが、このアンビバレントな感情をどれだけもてるか。
そこに救いがあるきがします。
もう一つ。加藤氏の同書につぎのような一文があります。
「最もいいのは、親に愛されること、次にいいのは親に愛されないことは、最悪なのは親に一体化にされ親の意のままに支配されること。」
僕は親でもなんでもないんですが、ジャイアンが親になってしまった時にこの一文は非常に重要な言葉なきがします。
つまり、ジャイアンが子供を持ってしまったとき、ベクトルを子供に向けず自分に向ける。それが最善だということ。
愛情とは「暖かい無関心」だと勉強しました。
人間は自分でしか強くできないし自分でしか変われない。
親はそれを「見守る」ことが愛情だということ。
ジャイアンはこの暖かさを与えることはできないけども、
子の心に深く進入する支配よりも無関心のほうがはるかにマシなんじゃないんでしょうか。
今回はとても考えさせられました。そしてここまで親としてのエゴを自らえぐりだせる先生はすごい。ジャイアンであり中心指向の高い私が子供を持ったとき、いかにして高い確実で生まれてくるジャイアンの子供を育てるべきなのかは常に考えています。
「居直り正当化を徹底的に合理的にすること」。たいへん興味深いです。どういうことなのか、よく考えてみたいと思います。
今は合理的ADHDですが、子供の頃は自分ができない事にぶち当たると、すぐに癇癪をおこすなど、ジャイアン的な所がありました。
何故、今、合理的になったのか?
思い返すと放任ともいえるほど、私の選択に口を出さずにいてくれて、私から考える事を取り上げなかった上その選択からの責任も取り上げなかった。
その為絶えず、何故こうなるのか?その責任は何処にあるのか?困った事を繰り返さない為にはどうしたらいいか?を自問自答していました。
そんな事を繰り返す内に現実をありのまま見る事や、自分の選択は自分で決めたら責任も自分に返って来る事を理解していきました。
今、自分の娘がジャイアン時代の自分にそっくりで、つい口出しをしたくなります。けれど、返って来るのは反発だけで、すんなりと頭に入って行ってないのはわかっているので我慢してます。いつか来た道なので見ているだけなのはもどかしいのですが、考えて、こけて、教訓を覚える事をなるべく邪魔しないようにしたいと思っています。
母との同居を解消することを決意しました。
自分の人生を守るために。
時間はかかっても、必ず。
救える努力はあるが自分自身が努力しないと出来ない。
ADHDなど薬で救うのでなく自分から変えないといけない。発達障害者と人格障害者と間違えやすい。薬漬けをさせる発達障害者に分からない医者も多い。
周りが救える環境を整えてほしい。成人・大人の発達障害者の当事者同士が集まる会を多くの人に知って来てほしい。関心をもってほしい。 YANBARU先生の地元でもやっている。
「まるクリニック」で来る事が楽しみです。
スタッフ、職員などが大人・成人発達障害者に理解されると良いですね。
3月28日~31日のNHK福祉ネットワークですがテーマが「福祉ネットワーク シリーズ大人の発達障害」です。
午後8時~8時30分予定です。先生も見てほしい。
みなさんの掲示板などでの質問・ご意見を参考にして取り組んでほしい。
先生のブログ更新に感謝します。
先生、まさに うちは 同じ状態です。
この ブログを 周りの人に すすめているので、詳しいことは 書けませんが…
ストラテラのことを、詳しく知りたいです。
ブログで 取り上げて いただけませんか?
大人は、
いつから 使えるように なるんでしょうか。
中心志向はどうやって抜きますか?
学力、運動、音楽など才能に恵まれたジャイアンは幸せです。
我が子は全くそれに恵まれなかった。でも学力、容姿で努力なしにトップのトップを要求水準とし、満たされない(当然)事に気づくと「ひどい」鬱状態になりました。
親としては、まず元の学力が低いうえに努力しないので当然という説明を普通の親のようにする。でも、何百回しても理解されない。
どうして、1の次は100なのか、2や3のひとけたの状態を甘んじて受け止めないといつまでたっても100にならないといくら説明しても、「100じゃない」と鬱になる。
大人なら違うのでしょうが、子供なので、理解する前に疲れて鬱になる。
屁理屈は上手でも理解力が幼児の様です。
かろうじて少しいい思いをする場所を探してあてがい、100を目指すより、とりあえず10,20を目指す方が「超、超、超トクなんだ」と感じさせると少し納得したようで動き始めました。
私がたどり着いた結果は、結局「損得でしか納得させられなかった」。そしてその話を聞かせる様にもっていくには、金銭的に裕福な思い、楽しくいい思いをさせて気分良くさせるしかなかった。
他に何か中心志向を抜く方法はありますでしょうか。
私の方法は多くの回数は使えないと感じています。
その使い方を考えるのに疲労困憊です。
救いはある。必ずある。
ADHDのACの良いところは、ADHD親のプラス部分を身で感じ心で感じていることから、何事にも公平であろうとする姿だ。
何故か、家庭と学校を行き来する子どもに、学校生活(自分と違う児童生徒との、何人かおよびクラス全体の関係、自分と担任との関係、他の教科との教員との関係が複雑に絡み合う世界)が、家庭との違いをもたらします。
その子どもの、家庭の暗黙の領域から、社会的役割を認識する知的発達へと「内的に働きかける」役割があるから、子どもは「方便」を。
「方便」は、「方便」。
彼の目指すところは、先生よりも先のことでしょう。
貴方は彼を軽んじている。自分よりもできないと。
中心性云々よりも、彼の思うことに寄り添うことはできぬか。そなたの愛情が必要なのだよ。