およそジャイアンACほど珍妙に見える人はいないだろう。私も現在も含めて周囲からはさぞ珍妙に見えているだろうと自覚する。(珍妙から偏屈に移行できれば上出来というところだろう)。
例えば「私は良い人と言われるのが怖いんです」というほどの極端で大げさな自己評価の低下や、時には非常に不可解な強迫症状があったり、統合失調症に酷似した関係念慮(よくよく見ると誇大妄想に近い)や、「だめんず」を引っ張り込んで共依存になったり現れ方も千差万別だ。
私も京大時代はおそろしく変な格好をしていたが、いでたちからして珍妙になることが多い。
逆に言うと珍妙で不可解なケースはジャイアンACかもと考えると意外に理解が成り立ったりすることが多いのだ。
さてジャイアンACはACを治してみるともとのジャイアンが表面化して攻撃性が非常に激しくなることが多く、最初の頃は私もその段階ではじめてジャイアンACに気付いたことが多かった。
ケアの基本方針は、「まずACを治し、本来のジャイアンに戻ってから、次にジャイアンとして自己突っ込みをしながら世間に適応していく道を探る」ということになるのだが、その方針で進めていくと、強いジャイアンが現れると思いきや、ASにぶら下る立場に舞い戻ったりするケースも多くて、不思議だった。
最近やっと分かったのだが、これは「依存型ジャイアンのAC」というまた一回り複雑な病理であった。
依存型ジャイアンはもともと合理的に考える習慣が無く、非言語的状況理解だけで場当たり的に乗り切る。器用でそれでやって来られたケースはそれはそれでその後(周囲が)苦労するのだが、親の依存型の方が上手で、弄繰り回されてぐちゃぐちゃになった「依存型のAC」という状態だ。
合理的に考えないからACっぽく悩むというよりも、摂食障害や見え見えのヒステリー様の「身体表現性障害」、被害妄想に近い状態になったり、表面上は「パニック障害」という人も多い。
やっぱりケアはまずACを治し、その後手近な依存に逃げようとするのを丹念に面倒を見ながら環境調整を続けて、直面化をしつこく続けながら合理的な思考と自己突っ込みが出てくるのを待つ。「自己突込みが出て来たら一山超えた」という感じだ。
そう言えばACから依存型ジャイアンに戻った状態で、「攻撃性をまったく自覚しない」というのがこのタイプの大きな特徴だ。傍から見ると顔には攻撃性は見え見えに出ているのだが、本人に攻撃的な気分が自覚されないところが不思議なところだ。
しかし結果依存型からも戻ると、ジャイアン本来の攻撃性は立派に表に出てきて、同時に自己突っ込みも出てきて、先延ばしなどするようになるので最後の姿を見れば立派なジャイアンであったと分かることになる。
摂食障害や全ての難治性の精神科的プロブレムの背後にこれがあるかもしれないので、頭において置くと見通しがいい。
珍妙なジャイアンACの部分を読むと、私はますますジャイアンとKYのASの区別が付かなくなりそうな気分になりますね。
ずっと前にここに出した『ずっと普通になりたかった』のグニラさんも思春期時代は変な服にこだわりを持っていました。服と言えばそれを着ることしか必要を感じなかったようです。
それと比べると、例えばヤンバル先生にはKYではなくポリシー等が服を着る動機になっていたように見受けられますが・・・どちらもたぶん人の助言には耳を貸さないと思われますので、診断が無ければ、どちらがどっちだか全然分からないと思います。
かく言う私も、仕事で水びだしになる日には、下に半ズボンを履きやすい理由から、もの凄く流行遅れの太いジャージを着ます。なんとかしなければと思いつつ、ついこれを組み合わせてしまいます。対処を思いつかないという、アイデア不足もある先延ばしですが。
診断と自覚済みジャイアンと、診断と自覚済みのASは本来、自身の欠点を直すためにお互いの長所を見習う観察対象としての価値があるのかもしれません。
ラポート取って接近するなら理解ある定型か合理的ADHDなのでしょうが、上下関係を作って貰うとジャイアンもASも勝手に依存が増幅して自分を振り返れなくなる可能性があります。
ACも入ると心は子どものため、反省とリバウンドによる自己正当化を繰り返すしかありません。(ずっと過去にらしい子を受け持った事あります。対同僚にはどっちも全部私のコントロール力不足のせいにして謝っていましたよ。“せい”は致し方ないにしても結果何かが当人の“ため”になったかどうかは何とも言えませんね。こう扱われて幾人もの大人の手の中をくぐって暴走する子は他にもいるんでしょうね。)
上下で見えないものは横並びで見ると見えることがありますが、その鏡になる相手が、互いに天敵にもなりうる相手なのかもと思わされます。
接近すると傷つけ合いになります。
何かを求めるとアダでしか返ってこない相手です。
でも「教えてよ。」を言わずに、想像力を鍛えてプライドをねじ曲げて観察すると、何かが分かってくる相手なのかもしれません。お互いに・・・。
定型の人は話し合いで分かり合えるのに。羨ましい。
寂しい学び方です。
どう考えてみても不合理な理由で留年決定。
生まれて初めて、怒り心頭に達し、他人様に切れて、泣きながら大声で不合理さをがなりたててしまいました。
どこかわくわくしてて、
自分がものすごく力強く感じ、
自分の中身がフワフワしてた状態が、
カチッと身体に入った気がしました。
それ以来ずっとそれが続いていて、
いろいろ現実対処できるようになりました。
週一回ボランティアに行き、
久しぶりに現実に居る感じが戻ってきました。
これは、ACの部分が抜けたということでしょうか?
鬱から脱したということでしょうか?
ファンタジーの世界から抜け出せたということでしょうか?
自分では分からないのですが・・・・。
スクールは退学することになりそうです。
現実離れしたスクールなので、
それもいいのかもしれません。
もし退学したら、
ボランティアをもう少し増やしたり、
別の形(一人暮らしのご老人の所に手紙を書く・・・)
のことも自分で考えて動いていこうかと思います。
自分の考えで、
自分の納得することを、
自分のペースで、
現実的に行っていく。
自己中も攻撃性も衝動性も必要ない状況を作れば、
私にもやさしさや勤勉さはあるのですから、
それを発揮できると思います。
ものすごい遠回りしてきましたが、
やっとたどり着いた結論です。
どうもありがとうございました。
はじめまして。まだ過去ログを読ませていただいている途中ですが、目からうろこの連続です。
このようなブログを、どうもありがとうございます。
私は自分のことをこれまでASかもしれないと思ってきましたけど、こちらのブログを読んで、ASでなくADHDのACだったことに、気がつきました。
そしてASの元夫に、何も言えなかったのには理由があったこともわかりました。
後、時間を連続して感じてないから、積み重ねというが感じられなかったり、
誰かに自分をわかってほしい気持ちは強いけど、個人的な関係は大切に思わなくて、一人が気楽で好きだったり、
小さいころからずっと変人と言われて、体育の時間とか、いつもなぜか笑われたり、
「何とかなるさ」という感じで過ごしてきたので、ASの子供から、もっと心配してほしいと言われたことがあるけれども、その意味がよく理解できなかったりしたことなど、
こちらのブログ読んで「そうだったのか」と合点しています。
自分のことを最低の出来損ないで、生きている価値がないとずっと思ってきましたが、今になって思えば、そういうどん底の思いのおかげで、ジャイアンにならずに済んでいるのかもしれない、とも思いました。
私がACを少しずつ回復させてきたのは、人間以外の生き物に、自分を肯定してもらえているという、小さな思いのおかげです。
あらためてそのことにも、感謝したいと思いました。
もっといろいろ読んで勉強させていただきますね。
どうもありがとうございました。
最近、ACを自覚してから鬱症状が出るようになり、朝起きるのが物凄く億劫です。
ただ、それと同時に、動悸を伴うヒステリーやふらつき等が治まり、自己突っ込みらしいもの(突っ込みって言うから漫才のようにコミカルなものかと甘く見てたのですが、自己嫌悪に近い自分を責める感情ですね)が回復してきたので、これは先延ばしによるものかと思っています。
ジャイアンの攻撃性が見られないうちに(むしろ以前の方が攻撃的だった)先延ばしの症状が出てきたってことは、元々のび太だったんですかね?
結構きついので、婦人科の方が落ち着いたら心療内科に行こうかと思います。
(多分、強迫性障害の治療の先延ばしが原因でしょうから)
このブログで自己認識を深め、ようやく自分らしさを取り戻しつつあります。
最近「悩むとか不安になるって、こういう感覚なんだな」と実感できるようになり、とても不思議な気持ちです。
これ迄はそんな事を考える余裕も無かったんですね。
いつも気付かせていただき、ありがとうございます。
これからは、のんびり進んで参りたいと思います。
道産娘様
横からすみません。(って今さら言う言葉ではないですね。このブログではいつも横レスしてしまってますし。先生、いつも失礼しております。)
>このブログで自己認識を深め、ようやく自分らしさを取り戻しつつあります。
私、内心すごく感心しております。このブログを読むだけで、どんどん自己探求が進んでいらっしゃるようなので、すごいなあと思います。
私は過去多くの心理の専門家と関わって、だいぶ変化してきて、やはり直接指導やカウンセリングを受けないと自己改造は難しいなあと思っていましたが、道産娘さんはブログだけで自発的に変化なさっているようなので、びっくりです。
きっと勘がすごくいい方なんでしょうね。
また、よけいなコメント書いてしまったかもしれません。
ここはお友達倶楽部ではないのだから、とことん自分の内面にベクトルを向けなくては!
最近、コメントしては後で考え直すことが多いです。
脚下照顧(自分の足元を見つめる)の精神を思い出すことにします。
アメジストさんへ
私のFさんへの発言により、アメジストさんの発言の自由を奪ってしまったようで申し訳ありません。訂正をお願いします。アメジストさんの過去の振り返りを述べることは、これまでの自分を見つめ返すという点で、何ら問題がないと思います。そして、とことん自分の内面にベクトルを向ける、といったことまでは要求していず、多くの人はぼちぼち自分の内面に向かい、ぼちぼち歩んでいっていると思います。たまに直面化の場面でぼちぼちとはいかなくなりますが、意味不明の人々が織りなすものですので、そこは、自分のことではない、と区別していただければと思います。
私がFさんに言いたかったことは、馴れ合いでなく、ということでした。頭痛や胃薬で無理やり身体症状を抑えながらギリギリまで頑張ろうとする自己を、変わった人に好かれるというエピソードをもとに「正当化」するのでなく、自分を傷つけてまで対象となる人に何かをしようとする自分を見つめてください、ということでした。身体症状が出るのは心身のSOSですから、それを無理やり抑え込んでいればいずれ破綻します。私は破綻することがわかっていながら「そうですよね~」などと言えません。それでも自分で決めたことと返されれば、それは個人の選択として尊重します。
み 様
私は一切 み さんの発言は気にしておりません。どの発言のことをおっしゃっているのかも実はわかりませんし。
自分で道産娘さんに感心しているというコメントを書いたものの、なんとなく自分がハイになっているというか、饒舌な感じがしたものですから、自分で自分を戒めただけのことです。
紛らわしい文章を投稿してすみません。
かえって気を使わせてしまい、申し訳ありませんでした。
アメジストさんへ
いや…格好つけて「自己認識」だなんて言ってますが、実際のコメントは愚痴ばかりですよ(汗)
本当は自分で日記をつけながら自己認識した方が良いのかなと思ったのですが、誰かに見られてる方が長続きするし、後から客観的に他の方のコメントと見比べながら読み返すことができるので、(勝手に)先生のブログを利用させて貰ってます。
10代の頃、漠然とした生きづらさから森田療法等の本を読んだのをきっかけに、「ありのままの自分」になりたいと常に思って生きてきました。
でも、一体何が「ありのまま」で、どう肩の力を抜いたら良いのかわからず、いっそ開き直って、これまで通り他人の価値観に依存しながら生きよう、周囲の目上の人に可愛がられる従順な人間でいようと自分を押し殺してきましたが、そんな関係はとても苦痛で、結局自分でぶち壊すしかなく、さらにストレスでホルモンバランスを崩しました。
(中学の頃から婦人科の世話になってるので、もう慣れましたが…)
話が逸れてしまった上、また愚痴っぽくなってしまい申し訳ありません。
「自分を知りたい!」一心でこのブログにすがり付き、自己診断を進めるにつれて、モヤモヤとした霧のようなものが徐々に晴れていくようでした。
病院で発達障害と診断されなかったので、また合わない薬を処方されるかもしれないという不安は残りますが、お医者さんとじっくり話し合ってみます。
ところで、アメジストさんは受動型AS(KYではない)ですか?
場の雰囲気を和ませるのが上手で、きっと和を重んじる方なんだろうなという印象があったもので…
周りから「鋭い」と言われることはありますが、受動型ASの人のように、上手に説明することができないんですよね。
結果的に思い付きで発言したことになり、いつも相手に丸め込まれてしまいます。
道産娘様
>「自分を知りたい!」一心でこのブログにすがり付き、自己診断を進めるにつれて、モヤモヤとした霧のようなものが徐々に晴れていくようでした。
この感じ、私にもありました。先生のHPの分類や特徴の区別などを拝見して、目からウロコが落ちる感覚になりました。
自分のアイデンティティーがわかることによって、こんなに日々の暮らしの質が変わるとは思っていませんでした。
私のASの型は何だか不明です。受動型も積極奇異型も孤立型も全部混じっているような気もしますし、基本はASですが、ADHD的な感覚になじみやすいところもありますし、謎です。
アメジストさんへ
そういえば、上記のコメントは「戒め」だったんですね。
私はてっきり、アメジストさんの最初のコメントを見た人が勘違いしないよう、「ここは自己洞察を深める場ですよ。」と、さりげなくアピール(フォロー)してるのかと思ってました。
(空気の読める)ASの人達は会話の中で相手の感情的な部分を敏感に察して、さりげなく非言語的なフォローを入れる…ということを反射的にやってのけますよね。
私は感知だけはするけど後はさっぱりなので、このブログに辿り着く前は、受動型ASの人に対して疑心暗鬼になり「何故遠回しに私を傷つけるような事を言うのか、そうまでして自分を悪者にしたくないのか。」等と思ってました。
このブログで、自分の事だけでなく、ASやジャイアンについても理解を深める事で、周囲の人に対してもある程度寛容になれました。「悪気があった訳じゃ無いんだな…」と。
いつも自分探しの最中、アメジストさんを含め、色々な人のコメントを拝見し参考にさせて貰ってましたよ。
(不思議と人の近さとか他者の有無等が、文面から感じ取れたりするので。もちろん素人判断ですが…)
確かに目から鱗ですね!
何より驚いたのは、自分だけではなく、周囲の人達も意味不明だったことです。
多数派の人達は、ASの素質とADHDの素質をバランスよく兼ね備えてるんでしょうね。
きっとASとADHDが惹かれ合いやすいのは、お互いに無いものを補い合えるからで、必然的な事なんだろうと思えました。
私は昔は基本的にほとんど横レスをしないタイプでした。
ブログ主(師匠)とコメント者の1対1の関係で、自己洞察を深めるのが理想的だと思っていました。
今も修行のやり方としては、それが一番効率良く、横道にそれないベストの方法だと思っています。
ただ横レスも2通りあって、単なる世間話レベルのおしゃべりになってしまったり、コメント者同士の依存関係になってしまう場合もあれば、もっと建設的に自己洞察や他人洞察の勉強に役立つ場合もあり得ますので、時々横レスがスパイスのように混ざるのは悪くないなと思い始めています。
そしてまた師匠と1対1の関係に戻るの繰り返し。
これが現在の私が考える「ブログとの関わり方」なのですが、他の皆さんに「こうあるべし!」と押し付けているわけではありませんのでご了解ください。
アメジストさん
お返事ありがとうございます。
その後のコメントを読んで、アメジストさんなりのお考えがあるのだということがわかりました。
個々それぞれですし、それぞれの発達特性があってのこと。ただ、おのおの発達特性に悩み、いかにどう生きるか、真剣に考えていますね。悩みながらも歩んでいく、勇気づけられる場面も多々あります。
アメジストさんへ
了解致しました。
ただ、「こうあるべし!」と押し付けてるとは思いませんでしたよ。
ASの方らしい気遣いかなと思っていました。
どうも他の方からちゃかしや冷やかしと思われていたようで、遠回しに嫌みや皮肉を言われている気がしてモヤモヤするのですが…
まだACの過剰反応が抜けないのかもしれません。
これも修行だと思って耐えますが、あまり軽々しく愚痴っぽいコメントを残すのは良くないですね。
今後は控えようと思います。
なるほど、フォローではなく、アメジストさんなりの理解の深め方から「戒め」ていたんですね。
はっきり言って下さって嬉しかったです。
ありがとうございます。
み 様
私は「師匠と1対1の関係」を基本にしていると書きましたし、他のコメント者さんへの横レスを頻繁にしまくることは避けるかもしれませんが、皆さんのコメントはすごく楽しみにしています。毎回、どなたかのコメントが新たに入っているかなあと思いながら、ブログにアクセスしています。皆さんの生き様はすごく力になります。
結局、「先生の記事」はもちろんのこと、「コメント者の皆さんの存在」や「コメントはなさらないけれど、いつもこのブログを読んでいらっしゃる方々の存在」も含めて全部で「意味不明な人々」ブログは成り立っているという実感があります。
道産娘様
み さんへのコメントにも書きましたが、道産娘さんのコメントもいつも楽しみにしています。ご一緒にYANBARU師匠についていきましょう。
追記
「意味不明な人々」ブログには確かにたくさんの人が集まっているのだけれど、「一致団結」とは正反対で、集まりながらもみんなバラバラというのがおもしろいです。
アメジストさんへ
そうですね。
正直、ジャイアンだったり積極奇異だったり…色々な方の意見を拝見してると、どのタイプにも共感できて当てはまってしまう部分があるので、完全にACが抜けるまでは自己洞察を続けようと思います。