ADHD関連

愚痴と陰口

 前二つのスレッドは、結果としてADHDの自己突っ込みへの理解が深まればと思って書いたものだ。コメントの中で「愚痴」というキーワードを頂いたので、もう一歩突っ込んで書いておこう。

 ADHDの多くの人は、自分が「ある人への不満を、その人には直接伝えないで居て、なおかつ別の人の前で口に出した」ということをしたら、必ず「自分はなんて卑怯な奴なんだ」という自己突っ込みをする。ジャイアン、少なくとも私はこうなる。

 最初の相手に言えなかったことにどのような理由があろうと、この自己突っ込みは変わらない。「陰で言っている」ことに違いは無いからだ。そこまでADHDの自己突っ込みは厳密で徹底的であるということを理解する必要がある。

 ADHDは自分の目の前でASの人が他の人の不満を言っている時、ほとんど必ず、「この人は自分のことも知らない他の人の前で同じように悪く言っているのだろうな」と思いながら聞いている。

 ADHDは基本的に誰に対しても平等であり、人を差別しないので、相手が自分に対してすることは、当然他の人に対しても同じようにするに違いないという前提で受け取るのだ。

 ASの人は毎回そう思われていると知ったらどう感じるだろうか? 

 逆に言えば、ADHDは当の相手に直接言えなかったことを、他の人に言おうとは思わない。言うメリットが無い。言うと自分は陰口を聞いている、卑怯なまねをしているという自己突っ込みが生じるからだ。

 例えば自分が相手の居ない場所で口にした不満をこっそり全て録音されていて、密かに録音した人が不満の主に聞かせて、完全に「バレた」とする。その場合でもADHDは自己突っ込みのレベルではバラした人を責めることはできない。「自分が言ったことだから仕方が無い」のだ。

(もちろんジャイアンは表面上は責任逃れのためにバラした相手を必ず攻撃するのではあるが)

 こういう意味で、ADHDは愚痴を言えない。合理的なADHDは「愚痴を言う意味が無い」し、ジャイアンは「愚痴を言っている自分が情けない」という自己突っ込みが生じて言えない。

 逆に言えば人に愚痴を聞いてもらっても何も良いことが無い。だから自分に愚痴を言って聞かせる人の気持ちが理解できない。

 ほとんど全ての場合、聞く立場に立つ限りADHDにとっては愚痴と陰口は同じものなのだ。


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コメント

    • a
    • 2008年 4月 11日

    昔はそんなことなかったけど今は陰口は言ってはいけないじゃないけど自分が醜い人間に思えて自己突っ込みとやらをしてしますので不満は言えません(苦しくなりますが)家族が愚痴や不満ばかり聞いてるとそんなこと思ってたんだったら本人に言えばいいのにと思って聞いてます。確かに愚痴を言っても意味がないという考えはありますね。裏で不満や愚痴を言うなら本人に言える素直さが欲しいと思います(考えすぎて居場所失ったり居心地悪くなったら嫌なので言えませんが)ASは何で裏で不満を言うんですかね?立場が危うくなったり居心地悪くなるのが嫌だったりその場では言葉が浮かばないってことですかね?自分はそれもあるんですよね。何が正しいのか分からなくて自分は抱いた怒りが正当なものなのかどうか考えてしまってそして当てはまる言葉が浮かばなくてその場で言えませんね。

    • まーちんAS
    • 2008年 4月 11日

    今回のことで、少し謎が解けました。
    なぜADHDの人が、相手が傷ついたり不快に思うことでも平気で言うのかずっと不思議だったのです。言わないことが卑怯だと考えるからですね。
    私の中では、思ったことを言わずにいられない(我慢ができない、相手や状況判断してから発言することができない)と、批判的に感じていたのですが、少しその仕組みがわかった気がします★
    ADHDの方には不快な文章ですね、ごめんなさい。
    >ASの人は毎回そう思われていると知ったらどう感じるだろうか?
    私は、あまり気になりません。
    価値観や文化が違う(誤解を招く表現ならゴメンナサイ)のだから、そう思われても仕方がないです。
    ASの私には、相手に不平不満を<言うこと>が目的ではないです。<不平不満の問題解決・解消>が目的です。話をして問題の解決ができそうな相手になら、手っ取り早く直接不満を言います。ただし、効果的な言い方をしたいので、よくよく熟考して・・・やっぱり、その場では言わないと思いますが。

    • m2
    • 2008年 4月 11日

    AS側の立場で、同じように書いてみましょう。
    ADHDが愚痴や陰口に我慢できないのと同様に、ASは指摘や批判に我慢できません。
    ASの多くの人は、自分が「ある人への不満を、その人には直接伝える」ということは、自分がされたら、ひどく傷つくので、簡単にはできない。
    少なくとも私はそうです。
    もし、本人に伝えるとしたら、「行動がおかしい」とか「社会がおかしい」という言い方になります。
    ただ、本人への不満は残っているので、他の人に対して吐き出す、と言う形を取ります。
    受動型ASの場合は、他人に不満を持つことが少ないので、目立たないとは思いますが。
    ASは自分の目の前でADHDの人が自分の不満を言っている時、「この人とはとても付き合いきれない」と思いながら聞いている。(愛着対象の場合のみ別)
    事実であろうが、ASが自分のことを直接的に批判されるのは、非常に傷つくことであり、その反発の気持ちは、事実を反省する気持ちに優先する。
    ADHDの人は毎回そう思われていると知ったらどう感じるだろうか? 
    積極奇異型ASは自分のしたことを棚に上げて反撃し、受動型ASは力関係によって反撃するかひきこもる。
    こういう意味で、ASにとって愚痴や陰口は批判や指摘を避けるための必要悪となっている。

    • mmm
    • 2008年 4月 11日

    以前ADHDであるがASも疑っていると書いた者ですが、最近のエントリーと過去のエントリーをちゃんと見直してみると、やはりADHDジャイアンでした。紛らわしくなりすいません。
    そして、このエントリー、全くその通りです。
    愚痴も陰口も言っている自分が好きじゃないです。
    愚痴を言うならその問題解決に向けての助言をもらえるような会話にして、陰口をいうぐらいなら本人に言います。
    誰か一人の陰口を言い合って結束力が高まる感じ(女性によくある)がたまらなく嫌いです。
    あとお昼休みなどに飲食店の隣の席で見知らぬ人が愚痴ばかりで楽しそうに盛り上がっているのを見ると、何があんなに楽しいんだろうという気持ちと、愚痴で盛り上がれることを羨ましく感じたりします。
    わたしの妹はおそらく合理的ADHDで彼女も愚痴や陰口は苦手のようですが、「ふ~ん、そうなんだ~」と聞き流すという術を身につけています。
    ACが治ってきたところなので只今強烈なジャイアンのため、陰口や愚痴の現場に遭遇して意見を求められると、強く言い放ってしまいがちなのですが、妹を参考に人間関係も試行錯誤しているところです。

    • かぜ
    • 2008年 4月 11日

    私はASのようですが、陰口を言ったら「自分はなんて卑怯なやつなんだ」と自己突っ込みします。
    そして誰かが目の前で他の人の不満を言っているとき、「この人は、自分のことも他の知らない人の前で同じように悪く言っているのだろうな」と思います。
    例えば、こっそり録音されてバレたとします。
    でも、自分で言ったことは仕方がないから、「あれは、あれ」みたいに流します。
    『愚痴』は時々言いますが、何のプラスにもならないことも知っています。益々惨めになるだけです。言った後で、後悔します。

    • ぴよよ
    • 2008年 4月 12日

    >この人は自分のことも知らない他の人の前で同じように悪く言っているのだろうな」
    この思い、あります。
    成人していつからか、自分なりに徹底的に予防処置を取るようになり、前後を見てたぶん私の陰口は言われないであろう時期と面子のときも、(油断したら言われる!)と自分で自分に発破をかけることを心がけとしています。
    >ASの人が他の人の不満を言っている
    「オモテとウラ」の記事でも自覚したとおり、私は愚痴も言いたい根暗です・・・。ネットのような安全で隠れた場所で、思考の整理が必要です。
    そういう孤独な自問自答の時間に、愚痴の目的と効用、構成成分(どこかの遊びサイトみたいですが。)やきっかけを振り返り、陰口も同様に振り返ると私には何が必要で何が不必要かが見えてきました。
    他人の愚痴も、実は情報の取捨選択と整理、ときには根回し。
    これを手に入れるためには、聞き役はしなければならない。
    業務連絡は別で、話が整理されてから正式な結論が流されなくてはならないから、聞こえなくても良しとする。私も周りに合わせて陰口を言うと、後でいい目見ないし不安の元となるが、黙りすぎても不自然。なので標的は業務システムなど高いところにあるものにしなければならない・・・・etcの空気を、思い込みと独学で読んできました。
    しかし私も、損得の渦の中に置かれたら、私独自の愚痴も言いたいです。努力して空気を読んだ結果らしいフィードバックが来なかったら、そして選択肢が無かったら(大っ嫌いな抽象的な圧力とか、周囲が次々体調不良やノイローゼを起こし倒れて不可能なフォローを期待される空気とか。)どこかで言葉に出すことで、心身をリセットしなければ過集中が打ち切れません。次へ進めないのです。
    >受動型ASは力関係によって反撃するかひきこもる。
    m2さん、いつもながら見事な応用力ですね!そう・・・心当たりあります。

    • エム
    • 2008年 4月 12日

    m2さんの
    >ASは自分の目の前でADHDの人が自分の不満を言っている時、「この人とはとても付き合いきれない」と思いながら聞いている。(愛着対象の場合のみ別)
    >事実であろうが、ASが自分のことを直接的に批判されるのは、非常に傷つくことであり、その反発の気持ちは、事実を反省する気持ちに優先する
    この部分がASの身近な人(パートナーや親など)が苦労するところです。
    通常の感覚では、相手に直接伝えるという事はそれだけ真剣でどうにかして解決したい(せめて共感してほしい)事だからなのです。
    それに対するASの自己防衛はとても過剰すぎて、冷たい(非情な)人物像が浮彫りになってしまいます。
    心が通じ合えないのは本当に辛い事です。

    • まーちんAS
    • 2008年 4月 12日

    補足発言を。
    陰口も愚痴も、基本的に嫌いです。
    言いっぱなしは返ってストレスが溜まります。
    気分悪いから、自分で言いたくないし、他人のも聞きたくありません。
    それでも、第三者にこぼす時はあります。
    その中で私のルールがあって、行動は批判することはあっても、人格そのものを否定する発言はしてないつもりです。
    第三者にこぼすのには、思いつく限りでは二つ目的があり、
    1)自分の考えが、世間とかけ離れていないかを確認したい
        Aさんの行動は、私はおかしいと思うのだけど、
        あなたはどう思う?
    2)自分では解消できないので、アドバイスをほしい
        Aさんの行動は、私には理解しがたいのだけど、
        どうしたらうまくつきあっていけるかなぁ?
    みたいな感じです。
    長いこと生きてきて、自分は多数派とはちょっと違っている
    (天然ちゃん)ことはわかっています。しかし、どこがズレているのかわからない。だから、つい自分の判断がズレてないかどうか確認したり、他人の意見を求めたくなります。

    • エイト
    • 2008年 4月 12日

    私の今の状態はピュアなジャイアン(ACあり)だと思います。
    私は自分自身のことを常に、批判的、懐疑的に評価(自己突っ込み)して生きているので、それは同様に他者についても求めます。
    疑問に感じる部分ははっきり「あなたのこの考えかたはおかしい」と伝えます。相手がどんなに偉い方でも変わりません。
    私以外の人はおそらく「自分の立場を考えたらとてもそんなことはできない」と思える状況でも、伝えるべきだと思えば平気です。
    たぶん周囲からみたらそれは「とっても変(な人)」あるいは「自殺行為だ」いや「馬鹿だ」と思えるでしょう。
    でもおかしいことはおかしいと相手に言うべきだと常にそういう考えです。先生の仰る「裸の王様にでてくるこども」そのものです。
    私の周囲のジャイアンは愚痴や悪態を言いますが、「相手の前ではそういう面をださない」の全く逆で、愚痴で言う以上のバトルをその相手としているので、やはり裏と表がないところは共通しています。

    • ぴよよ
    • 2008年 4月 12日

    分からないことは聞くか読むか見本を見るかしないと分からない、ということが私の信条ですが、「井戸の中」から出てこない、分からないことも教わることも拒否してしまう相手には、どうしたものかな~と心底思わされるときがあります。そういう気持ちからもADHD部分の平等主義や正義感は、素敵だとさえ思います。しかし、井戸から出たASがスッキリするまで疑問を探求するところも今の日本に欠かせない職人技だと思っています。
    しかし、ADHDの欠点もASの欠点も両方持ち合わせて生まれてしまった私は、相性が悪いことがこうして証明されているASとADHD、どちらとも、障碍が無い人とも分かり合えないキャラとしての道を歩かされていくしかないのではと思わされています。
    こうして社会適応への不足点を探し、克服と補充と取り繕いの方法を調べ、何かに当たったとき対処可能と不可能に判断する訓練を根暗に、黙々と続けても、時々思います。
    処刑台への道を歩かされているみたいだなあと。
    だって、自分の能力を証明しても証明しても、そこに補いきれない欠点は残っているわけですから。
    障碍のない人は、いつか指ささなければならない。
    「でもあるでしょ。できないことが!」
    障碍のない人も自分突っ込みも、他人突っ込みもしています。その程度が目立たないくらいとても低いだけです。だからすぐには突っ込まれません。しかし、私が自分の欠点を隠そうとしなくなれば、いつかは指されます。
    独学した分は話が通じる分、井戸の中にいる人よりも私のほうが、陰口にせずに処刑台に向かって背中を押しやすいかもしれませんね。
    国が一般論さえ何かの方法で整備してくれれば、ADHDもASも一般企業の受け入れの道は開拓されるでしょう。しかしまだまだ、混合している私はリタリンもコーチも無く取り残される気がしています。まだまだ、仮面を被り、努力に値するご褒美を諦めて生きなければならないのでしょう。

    • エム
    • 2008年 4月 12日

    初めはASのオモテとウラと聞いても建前と本音に捉えてしまいピンときませんでしたが、ウラを「自閉的な世界」と捉えると納得できる気がします。
    オモテではとても理性的で理論家なのに、(時に追い詰められて?)ウラの世界にいかれると、独特の理論やら被害者意識満載になられたりしてとても話合いになりません。(あまりの落差・豹変に驚きます)
    ウラの世界にいるASと心を通わせる事は絶対に不可能な気がします。AS本人も表裏を特に意識している様子はないし、オモテの世界で一見平和に過ごすのが、ASとの共存の残された道なんでしょうかね。なんだか、とても寂しいです・・。

    • ひまわり
    • 2008年 4月 12日

    以前から読ませていただいていただいています。
    旦那があまりに謎で別居後ここにたどり着いたんですが、ずっと読んでいる間に、三女が不登校になり、三女も父親そっくりで、どうやらASの特徴をかなり持っていると感じさせられました。
    皆さんのやり取りの言葉が難しく、理解し辛いところもあったんですが、最近ふと気付くと、私自身が「ADHDのAC」なのか?と感じることが多くなり、コメントさせてもらいました。
    旦那と離れて4年、ADHDらしき次女が就職し、ASらしき三女も高校に行きなおし、ホッと穏やかな日々がやってきて思うことは、自分を冷めた目で見つめる自分がいること。
    これが、『自己突っ込み』というやつだろうか?
    昔から不思議だった。何かことが起こっても、素直に一喜一憂するのではなく、“ここは喜ぶところ?!でもきっと後には苦しいことがやって来るに違いない”など、ブツブツ心と頭が言い合って感じがあって、それがすっごく嫌というか不思議でたまりませんでした。
    多重人格なのか?それとも、なにかすごーい能力をもっているのか?霊能力でもあるのかな?とまたまた自問自答する毎日でした。
    また、
    >「この人は自分のことも知らない他の人の前で同じように悪く言っているのだろうな」と思いながら聞いている。
    私は、こうやって、当たり前のように思っていました。
    誰もがそう思うものだと思っていました。
    だんだん自分のことが分かるようになってきた気がしますが、自分ってどうなっているのか、先生と話して、分析してもらいたくて仕方ありません。
    ADHAとは・・・?というのを読んでも、当てはまるとは思わないんですが、このブログでの解説・説明を読む限りでは、自分自身に厳しかったり、同情されるのが嫌いだったり、二面性のある人が苦手だったり…と、自分を見透かされたようで、変に納得したりします。
    いつも
    >「何で自分はこんなパッとしない普通の状態にとどまっているんだ」
    と、思っている自分がいて、どんどん落ち込んでいく自分を自分で感じる私です。

    • まぁ
    • 2008年 4月 13日

    私はASですが。今回の記事のADHDさんと
    同じで陰口は一切言いません。
    なのでささいなことでも陰口言われてるとわかったりすると
    許せません!
    直接言えよ派ですし直接一対一で言います。
    ジャイアンって、何人かでいても
    遠くにいる人に(この人の文句)
    わざと聞こえるように陰口の大きい声バージョン(悪口)
    言いません?
    それは陰口じゃないからええやろって感じなんだろうけど
    なんかおかしいですよね。

    • さかい
    • 2008年 4月 13日

    まーちんさんと私も同意見。
    ただ、私は人の苦言には耳を傾けるように努力しています。
    そのとき理解して納得できるかはまた別問題ですが、とりあえず相手がそれだけの苦言を呈するということは相手にもそれなりの理由があると思うので、聞きます。
    自分と違う人間ですから自分と同じ考えでないのは当たり前ですので。
    個人の行動に関して批判することはありますが、その際でも必ず自分自身にも問題がある可能性がある、ということは考慮します。
    その上で相談する相手に助言を求めます。
    相手の性格に関する愚痴(全人格、人間性を否定する言葉)はないですね、そこまで人のことを批判できる立場でもないので。

    • かぜ
    • 2008年 4月 13日

    陰口のように本人の前で正々堂々と言えないのは、私の場合、ACからくる現象だったと思います。
    本当のことを言ってはいけないという空気が当たり前の中で育ったから、表では言わないのが通常の常識として身についてしまったように思えます。

    • あおがえる
    • 2008年 4月 14日

    僕の自己突っ込みはこれだったのか!
    ジャイアン的なところもあると気づきました。

    • yukizo
    • 2008年 4月 20日

    ASです
    ASの立場でいうと、
    本人に言わないことを他の人の前ではいう、
    ということにも(私の場合)法則があります。
    悪口を言う相手が上司など立場上上の場合です。
    理由はコンセンサスを作って改善してもらう機運を作るため、です。
    公的メリットがあると判断した場合のみ、いわゆる陰口&悪口を言います。
    大抵の場合本人に直接言います。
    ですがいえない場合もあります。
    それは相手が立場上いうなれば、『やらされ上司』(やらされ感を持っている上司)のような場合です。
    これは直接言っても責任のある返事は期待できません。
    そんな人を徹底的にたたくとかわいそうだから直接は言いません。
    それでもまず最初の苦情は直接本人に(口頭orメール等で)言います。
    ですから、なにげなく言っただけなのに、
    『社長にそこまでいえるとは!』
    と言うような驚かれかたをされることも多いです。
    自分の言葉の強さ(なぜ強く感じるのかは不思議ですが)を知っているから、
    やらされ上司にはかわいそうで仕方が無いので直接言うのは避けるようになります。

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