私は発達障害のケアに本格的に取り組む前に、AC(アダルトチルドレン)のカウンセリングに取り組んでいた。その中で、非常に率直で、過去の振り返りによって劇的に回復するケースに出会い、回復した後の姿を見て結果としてADHDだったと分かる経験を何度もしてきた。
今思えば、そのうちの多くは「ノビ太」型のADHDのACであり、このケースは「あなたが悪かったのではなくてADHDの理解が不足していたせいであり、誰も悪くなかった」ということをイメージした瞬間に元気になり、本来のADHDらしく明るくなる。このタイプのほとんどは治療も終結となっていった。
その中で、なぜか自己評価が回復した後も治療の長引くケースや、ADHDの告知を否認するケースが出てきて、これは何だろうとずっと考えてきたが、この一群が「ジャイアン(自己正当化型ADHD)のACだった。
他方でACとはおよそ別物の、自己中心的で身体症状の激しいADHDっぽいけれど典型的ではないケースがあり、これは家族歴などから私は自己正当化型ADHDと名づけていた。
当初は同じ治療のやり方で、結局ACとしての自己評価をリセットするための認知の修正を試みた。その中身は、要は「あなたは悪くない」という自己評価のリセットだ。しかしいくつかのケースで、治療の後に、職場での不適応が顕著となったり、夫の負担が過大になったり、モラハラの被害者だった人が加害者に変わったり、再び人格障害様のパターンに舞い戻った。その結果を見ると出てきたのは「ジャイアン」だった。
ここに至って、私や一緒にカウンセリングを進めている心理師たちも、「大げさなAC」はかえってジャイアンであるということが大分分かってきたのだが、ノビ太型と同じ治療を進めていいのかどうか、今考え続けている。
ジャイアンACの人に、
<あなたは悪くない>ことを告げた場合、
理不尽な自己正当化が更に増強することは
ありますか?
生い立ちについては悪くないけれども
あなたの価値観は一般的に外れているので、
人に非難・誤解されることがあるかもしれないが
それはやはりあなたの責任であると認知させる、
ことはどうやって伝えるのでしょうか。
はじめてブログ読ませていただきました。
私自身、性格に問題があるという自覚はありましたが、それがなんであるか、どうしたらいいのかわかりません。
今まで自分と向き合うのも戦う事も出来ず、友達があまり出来ないことも、恋愛も職場での人間関係もすべて人のせいにして生きてきました。
周りがみんな気が利かない馬鹿だと思ったこともあります。それでも独りになるのは怖くて人とつながっていたいと思います。
私はどう進んでいったらいいのでしょうか。
YANBARU先生に質問です。
独学でACからの回復は可能ですか?
よく「自分は悪くない」と肯定する事が大切だと聞きますが
「自分は悪くない」とは全く思えません。
だって仕事は出来ないし、子供は苦手だし、何もできなかったし勉強も運動も出来なかったしetc・・・
となります。
もし、仮に悪くないと思えたとしても
「じゃあいったい何が、誰が悪かったんだ?!」と思ってしまいそう。
自己肯定ができないせいか、すぐに依存対象(私以外に、私を大切だと思ってくれる人→他人が自己肯定してくれる?)を探そうとしてしまいます。
しかもADHDとASは結びつきやすいということは、
また元夫との事を繰り返すのではという懸念もあります。。
独力で回復中です。
とは言っても旦那の手助けも多大ですが。
ずっとずっと、どうして自分はダメなんだろう、普通の人が普通に出来ることがどうして出来ないんだろうってすごく辛かったです。
人との距離も上手く測れず、好きならば近付きすぎて引かれ、そのほかの人とはどうして良いのかも分からない。周囲の人が何を思っているのか、自分を取り巻く状況がどうなっているのかよく分からず、言う事もやる事も見当外れだし、みんなが興味のあることには全然興味が無くて、話を合せる事も困難。女の子だったのに清潔には興味が薄かったという致命点まで。
すごく苦しかったけど何時だったか『結局人は一人なんだ』と思ったときから依存が少しずつ薄れていきました。まぁ、それ以上では無かったですけど。
ネットでADHDやASを知って、『ああ、私が悪いわけじゃなかったんだ。病気だったんなら仕方が無いよね』と思って、すごくほっとしました。
もちろん、だからと言って『ADHDやAS』だからしょうがない、と言うのではなく、病気だったんだから治せるよね、という方向で頑張っています。
旦那は所謂多数派ですが、とても心が広くて、私のダメな所を咎めず、なるべく褒めて伸ばそうと頑張ってくれています。以前付き合っていた人はやはりADHDやASっぽかったので、その時にはひたすら自分の至らなさを責めていたので、結婚してからはずいぶんと気持ちも楽になり、旦那の話を聞くにつれ、はぁ、世間というものはこんなものなのだなぁと思ったりもしています。
心の広い、多数派の旦那と結婚できたのは、多分僥倖だったのでしょう。病院にも行かず、多数派の中で何とかやっていける程度には回復致しました。
やはり、自分がどういう性格でどういう気質で、それがどう良くて悪いのか。それを理解する事が第一歩かと思います。理解した後に、『病気だからしょうがない』とか『俺は俺だからしょうがない』と諦めてしまうのか、『病気だから治せるんだ』と考えるかでも、違ってくるとは思いますが。
ただ、色々と辛くもあったけれど自分がADHDとかASであったことを不幸だとは思っていません。それによって得られた幸せというのも確かに有ると思うので。まぁ、他人にはただの迷惑だったかも知れませんけれどね。
リカさんへ
コメントに対するコメントを書き込むのは、
控えようと思っていたのですが、敢えて書いてみます。
私は、おそらくACだと思うのです(ASです)。
最近だいぶ自己肯定ができるようになってきました。
私も、依存対象(愛着)を1人に絞って、その相手に全てを
肯定してもらおうと努力(甘え?)しましたが、
そんな都合がいい相手はなかなかいません・・
相手に負担がかかりすぎて、必ず破綻が来ます(><) それならば、自分のパーツパーツを 少しずつでも肯定してくれる相手を 何人も見つけた方が現実的だと思います。 サポートしてくれる人が何人もいる、と思えば心強いですし。 私はどうしてもADHDの人に愛着を持ってしまいます。 それでも自分が変われば、今までの失敗を繰り返すことは 少しずつでも避けられる、うまくやっていけるのでは?と 希望を持つことにしました。どうですか。
私の主治医の目には、『私はACからの回復が認められ、自律に向け歩み出した』と言う風に映っていたのだろう。私自身も そんな気がしていた。
ある診察時に、身体症状だったか?スッキリしない旨を訴えたら『先延ばしは無いか』と問われた。その時には『思い当たらない』と答えたと思う。しかし、その日から いろいろ考えているうちに 私の『先延ばし』が何であるかが分かった。
それは『本当の意味でのAC的な認知の修正』だったのだ。
私は 『他人に弱さを見せられない』『本当の事を見ない』本当の事を言ってはいけない』『言ってやってもらっても意味がない』『自分と人との問題の区別がつかない』等の状態が続いていたのだ。(こと、自分の事に関して)
診察時も、息子2人の事から自分の事への切替えが出来ずに、自分の事を話しながらも頭の中では子供達の事を考えていたのだと思う。
しばらくの間、尋常では無い思考が続いていた。そして ある日、過去の振り返りを行いながら、以前に何度も読んだ事のあるYANBARU先生のHP『AC関連』の記載を読み進めて行くうちに、今までに感じた事の無い、表現しがたい程の凄まじい状況を経て、『夕暮れの幼稚園の校庭でポツンと一人鉄棒の前に立っている』シーンが浮かび上がった。これは実際に何度も経験した事であり、記憶にも残っている。そのシーンと共に『本当の事が言えずに(言ってはいけない、言うと悪い様な気がして)独り寂しい思いをしている自分』というものが見えた。記載を読み進めながら 嗚咽やら動悸やら本当に何が何だか分からぬ状態で「自分は本当の事を見ても良いんだ、本当の事を言っても良いんだ、何も我慢する必要は無いんだ…」と、心が導かれた。とても苦しかった。
これと言って叱られた記憶も無く、力で押さえ付けられた記憶も無いのに、なぜだろう?私の記憶に無い部分で何かあったのだろうか?ネグレストの状態にあったのは確かだけれど…
たぶん、これが最後の一皮なのだと思う。そして私は本当の意味でACから回復したのだとおもう。
…さて、私は自己正当化パワーを炸裂させるのだろうか?
りたさんへ
>人との距離も上手く測れず、好きならば近付きすぎて引かれ
私もそうです。
友人でもすごく好きになると、その人のNO1でいたくなります。
そこは、自分が一歩引いて「この人は他にも友達がいるんだ」と
自分に言い聞かせています。
>なるべく褒めて伸ばそうと頑張ってくれています
いい旦那さんですね!
私も誉めると伸びるタイプのようです。
以前「洗濯物の畳み方、上手だね」と言われたら
有頂天になってしまい、以来洗濯物だけはきちんと畳もうとします(笑)
りたさんは旦那さんと一緒に回復中なんですね。
すごく前向きでいいなと思います。
わたしもそこまで辿り着けるようにしていきたいです。
まーちんASさんへ
>自分のパーツパーツを
>少しずつでも肯定してくれる相手を
>何人も見つけた方が現実的だと思います。
なるほど、分散型ですね。
友達関係では有効かもしれません。
色々な人が自分を少しずつ認めてくれるのは
とてもプラスになる気がします。
ただ私の場合は異性でも同様に、
1人の人が受け入れてくれないと
他の人へ、さらに他の人へと足りない部分を補おうと
してしまいます。
そこがACの部分なのかなと自分では思うのですが。
今はそこまで自分をわかっているので、
そうならないようにしようとは思っています。
ただ自分が変わっていく実感がわきません。
まだ変わっていないのかな?
まーちんASさんは、少しずつポジティブに考えるように
したのでしょうか。
自己肯定…難しいなぁ。
肯定すべきものがないような気が、今はします。
リカさん
私の場合、全力で恋愛すると相手が必ず
逃げるように去っていくことに気づいたのが
考え直すきっかけでした。
自分を100%受け止めてくれる人は
今でもほしいと思ってますが、
現実的に無理と認め、分散型に切り替えました。
些細なことでも、誰かが自分を認めてくれる瞬間って
気づけばいっぱいあって、それが有り難く思えるように
なった頃から、気持ちが落ち着いてきた気がします。
自己評価が低い自分の時は、楽しいことが少なかったです。
でも、イマイチだと思っても、
他人から見たらすごいね!とか言ってくれた時は
素直に受け止めて、自己肯定すればいいんだと思ったら
結構気が楽になりました。
幸せに思える瞬間が多ければ多いほど幸せですから(^_^;
その繰り返しで、だんだんポジティブになってきた気がします。
うまく書けなかったけど、参考になれば嬉しいです。
ACから回復する時は みんな 同じ様な経験をするのだろうか?
私の場合は かなり苦しかった。
これまで、過去の振り返りを行うと、自分本位の生き方で振り回し続けた子供に対して申し訳無い思いが膨れ上がり、自責の念に駆られ 自分の過去には なかなか辿り付かなかったが、今回は その思いを抱えながら 自分の過去にも向き合う事が出来た。
その時点で既に思考回路はパンパンになっていたのだろうか?
片手に携帯を持ってAC関連の記事を読みながら自分の過去と向き合った時には 脳が破裂しそうになり両手で頭を押さえずにはいられなかった。…と同時に動悸が激しくなり、心臓が飛び出しそうで両手で押さえずにいられない。胃か どこか分からないが内臓がギュッと締め付けられ、これも両手で押さえずにはいられない。記事から目を逸らすと楽になりそうな気がしたけれど、過去の自分と向き合えない様な気がして 携帯を握り締めていた。押さえずにはいられないヵ所が いくつもあるが、手は二つしかない。
頭は床に押さえ付けてみたが他のヵ所が どうしようもなくなる。結局 泣きながら のたうち回っていた。
…そして見えたのが幼稚園の頃の後ろ姿だった。
ACからの回復には みんな、この様に壮絶な思いをするのだろうか?
最近知った話だが、友人で軽度発達障害の人と結婚しようとしている人がいる。
出産限界年齢が近づいているので、焦っているのだろうと思う。彼女は子どもが好きなのだ。
タイムリーな事に、近ごろ私の身辺で、軽度発達障害によるモラハラなどで離婚することが決まっている組が2組、私も「予定」として入れると3組あるので、嫌われるのを承知で思い切って「ちょっと待った」をかけた。
二人きりの時には彼女の「面倒見のよさ」でカバーできても
子どもが生まれると、場合によっては想像を絶する大変さだよ、と伝えた。また結婚すると突然豹変して威張り倒す種類もいるから安易に入籍をしないほうがいい、とも、、、。
彼女は今まで私と、重症依存型ジャイアンの夫との経緯をしっており、「別れた方がいい」と言い続けていたのだが、現在の彼との結婚を意識しはじめると「自分が変われば相手も変わる」「一緒に頑張りましょう」などと突如路線を変更しはじめた。
おいおい、、、。まあ、本人の人生だからいいんだけどね、、。彼女もまた、ジャイアンADHDのACかな。と思い始める今日この頃。とっても、面倒見の良いいい人なんだけどね。従っていれば、、、。