AS(アスペルガー)関連

ASの「逆も真」

 ASの「可能性即必然性」の思考がどこから来るかをいろいろ考えていて、「逆も真」というところから来ているのかなと思いついた。

 記号で書くと「A→B」 → 「非A→非B」ということになる。高校の数学で習うのは、「逆」でなく「対偶」が真ということで、後半が「非B→非A」ということになる。(こういう表現のほうが分かりやすい人も居るので)。

 例えば、「相手を完全に理解することは可能性はゼロでは無い」と言うと、逆に、「相手を完全に理解できないことは可能性ゼロである」ということになり、ということは「相手を完全に理解できる」 ということになってしまう。

 本当は、「相手を完全に理解できることは可能性はゼロではない」 → 「相手を完全に理解できないことは、可能性ゼロの場合もあるし、可能性ゼロで無い場合もある」ということなのだが、直感的象徴的に論理が飛躍してしまうのだと思う。

 この言語表現の落とし穴に陥らないようにするためには、「否定の否定という考え方を出来るだけしない」ことが役に立つだろう。特に「無いことは無い」という言い方の否定は直感的に分かりにくい。

 「完全に理解することは少しでも可能性がある」ということから、「完全に理解することはずべての場合に可能である」という風にはさすがに考えにくいだろう。

 それを、「可能性はゼロではない」と考えるや否や、「だったら(理解できないことが可能性ゼロなのだから理解できるということになるから)」、「理解は必ず出来るということになる」という風な発想になっていると私は想像する。 


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コメント

    • HIKARI
    • 2007年 2月 11日

    とても数学的で、又、読解力を要する記事で、私がうまく解読できたか否か自信はありませんが『可能性即必然性』の思考について最近の夫から言われたことと似ているような気がしました。
    私は夫に「私にはこんな自覚症状があるから多分ASだょ」と言うと夫は「言いたいことはわかるが、Aという症状があるからといって必ずしも全員がBという病気ではないのだょ」と言って成人病を例に挙げて説明した。
    なんとなく説得された形になってしまったが、私には『可能性即必然性』の思考があると以前にも夫から指摘されたことがあります。
    ASが発覚した今も変わらぬ態度で接してくれる夫に「こんな私と結婚したくらいだから、あなたはきっとADHDょ」と言うと「困ったアスペルガーだなぁ」と苦笑しながら「だからね、Aという症状のあるからといって必ずしもBという病名ではないのだょ」と丸め込まれてしまいます。
    ここで完全な理解を求め、たとえわかってもらったとしても、その先私は何かプラスになるのだろうかと思ったりもします。

    • HIKARI
    • 2007年 2月 11日

    なんだかコメントを記しているうちに勝手に自己分析をしています。
    今、私が感じたことは「ASである私は、いつも『一人相撲』をしている。相手がいなくても、『一人相撲』をして結局、一人で消耗している」
    そんな仮説が生まれました。

    • yurin
    • 2007年 2月 11日

    対遇、ってどういう事だったかな、と記憶を辿るのですが思い出せないので、
    >「相手を完全に理解できることは可能性はゼロではない」 → 「相手を完全に理解できないことは、可能性ゼロの場合もあるし、可能性ゼロで無い場合もある
    ということから、可能性ゼロでもあるし10でもあるし、20でも30でもある、・・・というようにイメージすると、私はy=xという、一般的な正比例のグラフの直線を思い描きました。
    つまり単純に考えればx=100のときyの値は100になります。たとえば『毎月一万円づつ貯金をして100万円になる』のは100ヶ月後、と簡単に割り出せます。
    しかしこれが『相互理解』など、目で見て確認できないものになると、具体的に『ここまでが100の理解』というように、目標設定ができないのではないでしょうか?
    つまり『x=100となるのがどのような状態、或いはこれくらいの実感であればx=100になる』のかが明確でないと、当然yの値も、100の位置を決められないと思うのです。
    だからxの値は、お互い努力をすれば間違いなくプラス(+)方向に動くからyの値はゼロではない。必ずしもy=100ではないかわりに、1から5にも動くし、5から10、20にも動きます。逆に努力をしなければマイナス(-)方向にxは動き、当然yの値もマイナス(-)になります。
    yの値が常にプラス(+)なら良しとする、そしてその値の上限は『100に限りなく近い未知数』である。つまり『100を捨てる』、とはそういうことではないかと思います。

    • まーちん
    • 2007年 2月 12日

    子供の頃から、自分で変だな?と思っていました。
    <もしかしたらオリンピック選手になれるかもしれない>
    と大人に言われたことが飛躍・飛躍して
    <オリンピック選手になれないことはない>
    →<オリンピック選手になれる!>と勝手に思いこむ図式です。
    運動に限らずいろいろありますが
    どんなに努力してもそこに到達しないことで
    (前ブログの0か100かに繋がります)挫折しまくりました。
    周囲の友達だって同じなのに、ストレス感じないのか?
    不思議でした。
    どうして平気な顔してるのか?
    また前向きに練習に励めるのか?
    自分が精神的に弱いからいけないのか、とずっと思ってきたけど
    単に、元々の考え方がズレてるからストレスになるんですよね。
    最近やっとそのことに気づいて、ズレを見つけようとしているところです・・

    • りょう
    • 2007年 2月 12日

    初めまして。自分はアスペルガーです。
    精神科医の診断も受けています。
    定型発達の人とのやりとりで、
    私がよく食い違いを起こすことと、かなり似てるようなのでコメントします。
    私は「逆も真」という解釈も「論理飛躍」もしていないつもりです。
    ただ「アスペルガーは認知がゆがんでいる」ともし言われれば「何をー」とはなります。
    なぜこのようになるのかと自己分析すると、
    「ゆがみ」とは「何かと比べて」それよりもゆがみがある状態と理解してるからだと思います。
    このゆがみの理解では、
    全ての人にゆがみがある状態があり得ないんです。
    例えば、太ってると比べてみるとわかりやすいと思います。
    「あなたは太ってる」と言われたとき、
    「しかし太っていない人はいない」という注記がなければ、
    「太ってないぞ」との反論があり得ると思います。
    自分の中では「ゆがみ」という言葉でもこれと同じ状況になっています。
    「AはB」→「Aはある基準(例えば平均的・一般的なもの)との比較でB」
    と理解しています。

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