AS(アスペルガー)関連

ASのデジタル的認知

 ASの「逆も真」の認知のことを考えていて、「結局可能性ということ自体が伝わりにくい」ことに気がついた。

 「線で切り分けていく」というイメージも教えていただいたが、私のイメージでは、「徹底的にデジタルの認知」なのかなと思う。

 今私の前にあるパソコンのモニタは、たぶん1600万色の、「小さく区分されたはっきり区切られた色のついた点の集まり」だ。(本当は小さいながら面積があるので「点」ではないのだが)

 だからこの画面自体には「はっきりしたところとあいまいなところ」という区別は無い。どの「点」も同じようにはっきりして、色の名前も明記できる。これをデジタル的認知と呼ぶことにしよう。

 AS以外の人の感じている現実の世界のイメージは、この表現を使うと、「画面自体がはっきりしているところとぼやけているところがある」という感じだ。これがアナログ的な認知で、「あり得る」とか、「可能だ」という表現は、実はこのぼやけたところのことを言う。

 この「ぼやけた」ところは、「色自体が確定していない」。

「赤にも見えるし、黄色にも見えるし、よく見えないから分かりにくい」というぼやけた状態であるのだ。「中間色」というはっきり決まった色とは違う。

 ASの人には、「他のほとんどの人には、画面がクリアに見えていないところがたくさんある」、「極端には画面全体に霧がかかったようになっていて、100パーセント明確な点は一つも無いように見えている」という想像をしてみることを勧めたい。

 逆に周囲の人はASの人に対しては、いちいち「これははっきりしていない、明確には分かっていないことだが」ということを注記するのことが誤解を避けるために必要だろう。  

 ASの人以外の世界では、「100パーセントは分からないので、ぼんやり自分に見えている像から想像してみると」という前文が全ての言葉に本当はついていて、当たり前すぎていちいち語られずに省略されていると考えるとすっきりすると思う。

 はじめからASの人に「可能性がある」という表現をすること自体をやめるのが一番かもしれない。   


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コメント

    • まーちんAS
    • 2007年 2月 13日

    >はじめからASの人に「可能性がある」という表現をすること自体をやめるのが一番かもしれない。  
    そうです!
    世の中の人達には
    ほんとうに、これを一番に検討してほしいです(^_^;

    • wakaba
    • 2007年 2月 13日

    「可能性がある」という言葉をかけてもらっても理解できず、自分でもその言葉の意味を認知できないのなら・・・「うつ」になって当然ですね。
    じぶんは「できない」か「できる」の両極端のどこかにしかいないから。
    私は言葉の意味を頭では捉えていても、実際自分がなにかするときは、「できる」「できない」のどちらかにしか考えず、喜んだり、落ち込んだり、落差が激しいです。
    やんばる先生の書かれることが、ぼんやりとわかってきました。
    子供に、なにかを教える時、目標を小さく、「できる積み重ね」の経験をさせると言うのは、あいまいな状況を、できるだけ最小限にすると、ASの子供はストレスに耐えやすい・・ということでしょうね。
    可能性があると言うよりも、目標を細分化して、これはできる。あれはできないが、細かくステップを踏めば、短期間に可能である・・・と見通しをつけさせるほうがいいんでしょうね。
    色を塗る時に、色を塗る範囲を限定して、ここを塗りつぶせばいい・・・という感じでしょうか・・・・。
    実生活に応用してみます。

    • wakaba
    • 2007年 2月 13日

    色をとにかく、はっきりさせずにはいられない・・・と強迫的になるのがAS的認知ということでしょうか?
    ASだからと言って、世界の全てがはっきりと、見えるわけでもないのに、あいまいな部分は不安をあおり、恐怖だから、なにか色付けしなくては、いられないのかもしれません。

    • localtrain470
    • 2007年 2月 14日

    可能性、というのが、何に対する可能性なのか、よくわからないので、自分なりの場合わけで、お話させてください。
    将来の目標に対する可能性、自身の人生の目標であれば、100%を夢に見ながら、20%、40%…と低い目標を設定して、それに向かって前進する、という感じですが、私自身はかなりアバウトなので、過程の段階でかなりあいまいなところはありますし、また途中の目標に到達したところで、問題点がはっきり浮き彫りになることもあり、フィードバックして、次の目標を若干変更したり、100%の目標さえも、夢のようなぼんやりしたもの、と思っているので、デジタル的に全部見えて、というのとは、ちょっと違うような気がします。ただ前進したいがための(不安を解消するための)考え方、という感じです。
    対人面においては、全か無、的な極端な判断をよくしていました。しかし、
    YANBARU先生のブログ、他いろんなサイトを読み進んでいくうちに、それが間違いだと気づき、自分が他人に100%の理解を求めてもそれは無理で、ところどころ共感してくれる部分があれば、それで十分だと思うことにしよう、と考えを改めることが出来ました。すれ違いが起こっても、今日と明日では状況も違えば、気持ちも変わる、流動的なものなので、今日理解しあえなくても、明日はわからない、出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。可能性がないわけではない、いい意味に考えれば、可能性はある、と思うようになりました。
    しかし、実生活で、精神科医の先生には、申し訳ないのですが、他の他人よりも、高いパーセンテージの理解を求めているかもしれません。自分の認知、価値判断に自信がなく(霧の中や夜道を歩くような感じです)、なぜそうなのか?なぜ上手くいかないのか?自分はいったい何者なのか?わからないから、夜道を照らすライトのようなものを求めて、クリニックを訪ねていきます。
    自分のすべてを話して、私はいったいどういう人間なのか、教えて欲しい、という願いが、あったりします。
    先生サイドからみれば、私は、依存的にみえるだろうなぁ、ふと思いました。
    (私は受動型ASの特徴を持っていますが、確定診断はいただいてません。多数派でASの特徴を多く持っているものかもしれないし、スペクトラムのどの位置にいるのか、わかりません。)

    • yurin
    • 2007年 2月 14日

    『可能性』という表現自体をしないとなると、そのようなことを伝えたいときに、今後どうやってASの人に言ったらいいんだろう?』と正直、途方に暮れてしまいました。世の中のことがらの殆どは実は『可能性』で語られることが多いからです。
    しかしlocaltrainさんの書き込みに私は僅かな『可能性』を見出しました。これを『できないことはない』という表現にすると『(-)×(-)=+』という、ともすれば強い肯定になってしまうから避けないといけないんですけど、でもこの場合の『+』は、『伝えようとすれば時間はかかるし、可能性も低いかもしれないし、ゼロかもしれないけれど、だからといって伝えようとする努力な意思までをも諦めることはない』と。
    私の文章は、ASの人には分かり難い表現になってしまったかもしれませんが、やはり諦めないで私は伝える努力をしたいです。

    • HIKARI
    • 2007年 2月 14日

    私の場合は、「ぼんやりした部分」の不快感はおそらく、人間関係に生じやすいように思います。
    目の前にいる人は自分にとっての「敵」か「味方」か、というところに先に意識が行ってしまいます。
    本当は「敵」でも「味方」でもないだろうに、ただの人間だろうに、初対面で表情や言葉、態度から「敵・味方」のどちらかの振り分けようとしているところがあります。
    でも、「敵」だと思った人でも時間の経過や、別の顔を見たとき、「敵ではなかった」に変わることもあります。
    「敵ではなかった」=「味方」という訳でもなく、「中間色の存在も有り」にできるようになってきたと思います。
    「厳しいこと」を言う人は「敵」に分類されていましたが、「厳しいこと」を言ってくれる人の有難みもわかってきました。「厳しいこと」を言ってもらえなくなったら、寂しいと思うかもしれません。

    • 月の草
    • 2007年 2月 14日

    WAKABAさん:
    > 目標を細分化して、これはできる。あれはできないが、細かくステップを
    > 踏めば、短期間に可能である・・・と見通しをつけさせる
    それうちの日常です!うちの子もASのようです。間違えることを恐れる___子供なのに。ほんとにこれは不思議な感じがします。
    夫の母も、まるで石を積むみたいに「次々とステップアップさせることが大事」と、常日ごろから言っています(これは私的にはうんざりします)。学歴偏重・上昇志向が強すぎるのだと思っていましたが、そうするのがこの子たちにはベストだということを、無意識に学んだのかもしれないな、ともこの頃思います。

    • 月の草
    • 2007年 2月 14日

    localtrain470さん:
    > 100%を夢に見ながら、20%、40%…と低い目標を設定して、それに向かっ
    > て前進する、という感じですが、私自身はかなりアバウトなので、過程の
    夫(AS)もそんな感じで一歩一歩確実に歩むスタイルを好むようなので、それはとてもよくわかる感じです。私は「いっぺんにやろうとするな!!」といつも言われてしまうので、とても危なっかしく見えているのだな、とよく思います。これが夫と知り合った頃、互いの見え方の違いや、取り組み方の違いについてはじめて認識した事柄でした。
    ところで、夫は仕事柄なのか「常にあらゆる可能性を考えている」という風です。そして、全ての可能性が見えているつもりで、断定的な物言いをするのも常です。ただし、彼の想像範囲は狭いのか残念ながら見落としもあります。自分が思いつかなかった状況を相手に指摘された時には「ふむ、それはあり得るな!」とか「ふむ、その可能性はあるな!」と妙に感心していうのが口癖です(こんな時はひじょうに素直だし、嬉しそうでさえあります)。
    そして、ぼやけた部分はぼやけた部分として認知して「わからない」とします。稀に気が乗ると自分の気持ちとして「恐らくこういうことじゃないか?」などということもありますが、お酒でも飲んでない限り、自分の見解を述べることはありません(お酒を飲んでると、けっこう普通の人みたいに話します)。わからないことと、わかることを明確にし、曖昧なもの、情報がきわめて少ないものに対して、想像でモノを言うことを極端に嫌います(とてもフェアな印象です)。
    また、夫の場合は「問題が起こる可能性」を想像するのはとても得意です。なにか一つのテーマを与えられると、それについて危険なことが起こる可能性とか、トラブルが発生する可能性を考えるのはずば抜けています。
    (特殊能力?)
    これは、先の見通しをたてるために不安要因をあらかじめ探っておいて、回避するための心の準備をしておくってことと関係してるんでしょうか?_____

    • HIKARI
    • 2007年 2月 15日

    自分のコメントを読み返して、ちょっと大袈裟な表現だったと思い、訂正の必要があると思いました。
    「敵」「味方」というよりは「好き」「嫌い」の方が正確だと思いました。
    >目の前にいる人は自分のことを「好感」を持って接してくれる人か、それとも「敵意」「悪意」を抱かれて、これから一緒に仕事をしていく上で障害にならないだろうか?というところに先に意識が行ってしまいます。
    本当は、ありのままの人間だろうに、「好意」も「悪意」もまだ生じていないだろうに、初対面で表情や言葉、態度から「好きなタイプ・うまくやっていけそうなタイプ」と「苦手なタイプ・うまくやっていく自信が持てそうも無いタイプ」のどちらかに振り分けようとしているところがあります。
    でも「苦手なタイプ」だと思った人でも時間の経過や、別の顔を見たとき、「悪意は無い人みたい」に変わることもあります。
    「悪意は無い人」イコール「好きなタイプ」という訳でもなく、「中間色の存在もあり」にできるようになってきたと思います。
    「厳しいこと」を言うひとは「苦手なタイプ・嫌いなタイプ」(悪意があるかもしれない)に分類されていましたが、「厳しいこと」を言ってくれる人の有難みもわかってきました(自分の利害関係無しで本当のことを言ってくれる人の有難み)。
    そういう意味では、「厳しいこと」を言ってもらえなくなったら寂しいと思うかもしれません。
    こちらの表現の方が近いと思います。

    • ハナ
    • 2018年 1月 26日

    息子の場合、planA、B、C
    のようにパターンだし(場合分け)をしてやると頭で理解できるようです。

    デジタル認知なのなら、システムのプログラムを模した話しかけが有効かもしれません。
    こうなったらこうなるよ、の昔の手続き方のように。

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