AC、人格障害関連

AS同士は妥協できない

 AS、特に受動型ASの行動特徴を示す非常に重要な事実にたどり着いたのであるが、直感的に表現する以上の説明を探しきれないでいる。

 例えばAS同士、分かっている同士、通じている相手にはお互い「妥協は出来ない」という事実だ。

 この関係にADHDが入ると途端にASは容易に妥協できるというのが表面上の事実の不思議さだ。

 これが何故なのか? が今考え続けているテーマだ。

 
 別の角度から見てみよう。相手と自分は非言語的に、言葉で言わなくても通じているとしよう。だからと言って、「したがって相手が譲歩するべきだ」という論理にはならない。ここが私が説明に難渋しているポイントだ。

 これが多数派であれば、お互いの間で「非言語的な交渉」が行われ、結果はギブアンドテイクの現実的な妥協に落ち着くだろう。

 逆に言えば受動型ASの場合は、「理解」即「全面的な受け入れ」という論理になっているのだ。

 受動型ASにとって愛着の相手は、「受動型AS本人を必要としている」相手であり、その時点で「自分は何もしないで相手が全て動く」ことは(他の立場から見ると非常に不思議であるのだが)「当たり前」になっている。

 この論理を使えば説明は可能であるが、とすると上記のことはこの論理の言い換えという意味になる。


 では対ADHDであれば何故妥協できるのか? 何故あきらめられるのか?

 ひとつの想像はこうだ。受動型ASの本人は上記の「受動型AS独特の論理」にしがみついて生きて行くが、現実にこれが成り立たないことは当たり前に経験する。
 そのあきらめる口実が「分からないから仕方が無い」ということなのかもしれない。

 相手がASの場合、非言語的に通じるわけだから、「分かる」はずで、受動型AS的には「相手が自分のことを分かっているのだから自分が妥協するのはありえない」という論理になり、一切妥協できない著しい頑固な態度を帰結する、という風な説明は可能だ。

 
 ちなみに積極奇異型ASの場合は、「愛着の相手に対してなら自分のほうが合わせる」のだが、「だからこそ」「相手のほうから合わせるはず」と考えて妥協できないとも想像は出来る。

 したがって積極奇異型ASと受動型ASの二人の状況では積極奇異型ASが一方的に合わせ続ける結果となり、現実的に可能な範囲を超えて、積極奇異型ASのほうがつぶれてしまう。

 この組み合わせに、一人ADHDが加わると不思議に両ASともうまく妥協して、関係は現実的に永続可能なバランスに戻る。
 「分からないことに意味がある」ということだ。

 この意味では、「親が積極奇異型ASで子供が受動型AS」という組み合わせでは、小さい頃からASの診断をつけて、受動型AS独特の上記の異常な論理を修正する認知療法を早くから行う必要があるだろう。親がADHDの場合はそれが現実の中で自動的に行われているというわけだ。

 それにしても「分かる」即「全て受け入れる」という認知は不思議である。


関連記事

  1. 受動型ASDのカウンセリング
  2. 荒野をさまよう子ライオン
  3. ローレンツ「攻撃」より4.無名の群れ
  4. ジャイアンに救いがあるか?①
  5. 反抗挑戦性障害の合併
  6. 発達障害を疑う自覚症状
  7. 利他と尊厳②
  8. 一緒に仕事をしたい方求む

コメント

    • アメジスト
    • 2012年 9月 30日

    たびたびお邪魔します。
    興味深い記事でしたが、内容はなかなか難しいですね。
    「分かる」即「全て受け入れる」という認知は私にもよくわかりません。
    ただ一つ感じるのはAS同士だとよく通じ合えるが故にお互いに「過度の期待」をし過ぎて欲張りになってしまう結果、ぶつかったり、意地を張る、拗ねるということはあり得ます。
    ADHDの人はASにとって全く別タイプなので、「初めから過度の期待はしない」というスタンスで関わるとすれば、ASのこだわり度が薄まることは予想できます。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 9月 30日

    先生、お久しぶりです。発達障害診断済み、積極奇異型AS(自己判断)の さーこです。
    私も昔は「AS独特の論理」にしがみついて生きていました。
    小さい頃から、物事でぶつかった時は、相手があきらめてくれるか、相手が妥協してくれるか、
    (私にとっては)それほど重要ではない事を相手がいつまでもしつこく言っていて、その事により事態の収拾がつかないから仕方なく妥協していたりしました。
    (今だったら、自分は一体何様だ!と自分に突っ込むところですね。)
    その半面、自分の責任において事態を収拾しきれない事態が発生した時には、
    あっさりと年上の人に責任を丸投げし、誰か他人に責任を負ってもらうのをいつしか当たり前にしてしまっていました。
    今になって思うのは、自分の立ち位置を自分で冷静に確保することや、相手との境界線を明確にする事が、自分の力では出来ないから、
    自分の力ではもうどうしようもないからこのやり方しかないのだと、強迫的に頑なに強く思い込んでいる状態が普通で日常になっていたからだったような気がします。
    今、私は、2年間ほどメールで文通だけをしている遠方の人(私とは全く別タイプの人で分類は不明です)に対して愛着を持っているのですが、先生のおっしゃる通り、
    >「愛着の相手に対してなら自分のほうが合わせる」
    ところは、私の中では変わりません。
    しかし、
    >「だからこそ」「相手のほうから合わせるはず」
    という論理には成らないところが、改めてよくよく考えると不思議です。
    【私にはおそらく無いものを持って彼は生きているけれど、それが何なのか、私はよく分からない。】
    【その、「よく分からない」という事を、私は少しでも分かるようになりたい。】
    そう思って、彼とのやり取りを、今楽しんでいるところです。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 01日

    受動型ASについて。
    私はこの間まで、親とはぐれたか捨てられたかが不明な子猫(当時で推定生後2ヶ月位)の里親探しをしていまして、
    近所のコンビニや百円均一のお店、そして動物病院など、1箇所ずつ訪ねて回り、
    対応してくださった人や責任者の人と話をして、里親募集の貼り紙を貼らせていただけるかどうか、交渉をしました。
    組織の中で決めている規定は、それぞれでやはり違いましたが、
    私が訪ねたほとんどの組織では、
    「きちんと日にちを区切って、期限を設定した上で貼るのならば、うちで貼り紙を貼っても良いですよ。」
    という回答をいただけたので、自分を抑えて頭を下げ、ありがたくお願いしました。
    私がお願いして貼って頂いた複数箇所のうちの一つに貼ってあった里親募集の紙を見て、私の携帯に電話をしてきた女性が、
    受動型ASのような感じだったのですが、とても苦労しましたね。
    実際に会って対面し、少しお話もしたのですが、
    「うちで先に飼っている猫とうまく行くかどうかが知りたい。」
    「試しにうちの猫と会わせてみて、ダメだと感じたらお返ししたいのですが良いですか?」
    と、自分の都合による要望を100%押し通したいだけのように感じました。
    「難しいけれど、なんとかやってみよう」という事で、1泊か2泊という条件付きで試しに生活してもらう話の流れとなり、
    その後、電話で話したところ、「うちの猫とはまぁまぁうまくやれているけれど、子猫の性格がキツイから今迷っている。」
    (”子猫をお返しするという話は、あちらにもう100%通してあるし(「分かる」即「全て受け入れる」という認知)、こちらに責任はないから、自分の気持ちを思う存分聞いてもらおう”)」という
    個人的要望に、なぜかすり替わっていて、電話で長々と付き合わされそうになり、そこで初めて「おや…?」と本格的な疑問が浮かびました。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 01日

    (続きです)
    そこで、
    『責任を持って親として飼うのか飼わないのか』という視点での話として、
    「こちらの貼り紙の期限もありますから、明日までに決めて下さいね。」と提示し、「自分の取った行動には責任がついてくるのですよ」と諭したメールを送ったところ、
    翌日、私と会話もしないうちに「飼わない」という選択を自分の中で既に下していたようで、こちらが提案してもいないのに「子猫の幸せを考えて、新しい里親が見つかるまでうちで預かりましょうか」と
    こちらの現場の状況や事情を無視した、ムチャクチャな発言をしたので、非常に疲れました。
    結局、初めて話してから一週間後に、彼女の妹(妹も一緒のマンションの一室に同居していて、おそらく日頃から日常的に彼女の認知に振り回されていているようだという事が推測できました)が菓子折を持って、一緒に子猫を返しに来るという事態になりました。
    私としては、最初から(彼女の認知に問題があるという事について)想定内の事態だったので、
    事態に収拾をつけるという意味で菓子折を受け取り、「ありがとうございました」と言って、2人ともにお引き取り願いました。
    その際の彼女の反応(私から叱られるのではないかとビクビク → エッ!? という、とても驚いたような反応)を見て、
    「彼女一人だけは、後々において今日の事を自分の都合の良いように解釈しそうだな」と私は即思ったので、時間を置いた夕方に、こんなメールを送っておきました。
    【朝はありがとうございました。今後、他の里親さんのところでムチャなお願い(ダメだったら子猫をお返しする、という最初の話の事)をするのはお止め下さい。その現場が混乱しますよ。】
    【きちんとした大人になってくださいね。アロマセラピストの卵より。】
    と、最後に情緒的にフォローする意味で書いておきました。
    (実は、1年ほど前の職業訓練校で、非医療行為(リラックス目的)での アロマテラピーについての授業と、
    コンサルテーション(問診)についての実技、全身トリートメントの実技を受け、スクールを無事に卒業し、
    この間は AEAJアロマテラピーインストラクター試験(試験範囲に解剖生理学が入ってきます)を受けに行っていました。)
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 01日

    (続きです)
    彼女はおそらく、私の里親募集の貼り紙を見て、”受動型AS的に(無条件に)必要とされている”と感じたのかな、と思いました。
    今となっては確認する術もありませんが。
    その後の子猫はというと、私と一緒に同居している兄夫婦の希望もあり、皆それぞれが少しずつ折り合ったり、譲り合ったり、妥協し合ったりして、少しずつコミュニケーションと会話を重ねた結果、
    猫は我が家で一緒に生活する事になりました。
    もちろん、時間をかけて、同居中の私の親の了解と理解も得たので、今では円満に暮らしています。
    猫も、とても幸せそうですね。

    • 道産娘
    • 2012年 10月 02日

    私はおそらくADHDですが、コメント失礼します。
    (ASは)お互い通じ合っている者同士、「相手は自分の事を分かっているから、それを逆手にとられてコントロールされるかもしれない」という不安があるから、自分が相手をコントロールするしかなくなるのかな?って思ってました。
    基本的にADHDは非言語方法でコミュニケーションをとらない(あと、人に執着しない)ので、ASの人から見れば「相手から非言語的にコントロールされる心配がない」ですよね。
    私の周りの受動型ASの人達は、(ADHDに対して)分からないから妥協するというよりは、分からないから安心して口に出して言えるという印象がありました。
    (実際は仕方なく話してただけだったんですね…)

    • さかもと
    • 2012年 10月 02日

    書き込むたびに前回のニックネームを忘れてしまうものです、ごめんなさい。
    >それにしても「分かる」即「全て受け入れる」という認知は不思議である。
    についてですが、乳児or幼児頃の体験を引きずっている、もしくはそこから成長していないということではないでしょうか。
    乳幼児の欲求は単純なので
    子:泣く(腹減った!!)→周囲「?あら、おっぱいね」→子:満足
    と言った具合に「分かる」即「全てを受け入れる」(自分が満足した状態を「要求が通った=受け入れられた」とすればですが)になります。
    受動的ASの人は自分がもはや単純な乳幼児ではなくなったことを理解しておらず、自分の欲求に対して周囲に乳幼児を育てる母親並の認知力を期待しているのではないかと。
    それは自分が成長して欲求が複雑化したことを認識していないからではないでしょうか。
    ASは他人は認知できるけど、自分のことはわからない。
    ADHDは逆に自分のことは認知できるけど他人のことはわからない。
    (ADHDにとってはおっぱいはなんか知らんが自動的に出てくるもので、受け入れられたとか理解されたとかにはつながらない。
    成長して合理的に考えられるようになっても「子供が死ぬと親も困るから産んだ子に乳をやるのは当たり前な行為である」などと身も蓋もない…でもある意味真実な考え方をしたりする)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 02日

    私は、特にASから「非言語方法による要求」を持続してされ続けた場合、まるで自分までもが幼児か子どもに戻されてしまったような感覚に陥ります。
    相手と2人きり、という環境や状況が変わらなければ、認知がグニャグニャになり、論理性を保った思考もできなくなり、
    最終的には「非言語方法での交渉をしているつもりで、実は、収拾のつかない(互いに受け入れきれない)非言語方法での要求合戦」になってしまいます。
    その後、私の方は自分の気持ちが低迷し、抑うつ的に病むという事態になりますね。
    特に、ASの相手との物理的距離、精神的距離を取って、非言語要求が届かない環境に身を置き、時間の経過とともに心身状態が回復すると、
    相手に対する、イライラムカムカという、ものすごい怒りが突然沸き起こります。
    私の母はADHDのどれか(ジャイアン型?)と、おおよそのところ推測しているのですが、
    私の母の要求は、非常にあからさまで言語的に分かりやすく(非言語方法でコミュニケーションを取らない)、言う事を聞けばすぐ終わり、結果を重視し、人に執着しません。
    母との距離が近いと感じているのは私の側だけのようで、今になってようやく分かる事なのですが、私のAS的なクドイ執着について、母はいつも仕方ないと(アッサリした意味で)呆れていたようです。

    • 匿名
    • 2012年 10月 03日

    社会人になってすぐに電話してきたもと同級生の異性がいました。
    中高同じクラスに何度もなったのに、おそらく必要最低限の話以外はしたことがなかった。
    こちらも彼女がいなかったので一度だけ遊びに行きました。ゴルフの練習場と喫茶店だけ。男女の関係は全くなし。
    その後何度も電話してくるようになり。
    そのつど「いわゆる人生の墓場」に一緒に入ってほしいと。
    びっくりしました。(たしかもと社長令嬢)セレブのお嬢様ってこんなに一般社会では考えられない言動をするのかなって。
    今考えれば、ジャイアンADHDの小生に自分の言いたいことをストレートに言えた彼女は受動型ASだったのか?という気もします。悪気も何もなく、真剣に小生のような人種を必要としていたのかもと。
    もうこの世にはおられないので、確認のしようはないのですが…

    • アメジスト
    • 2012年 10月 03日

    私が以前「自然を味わう会」に参加した時、その責任者の人が、私を同類の人間だと認識したようなのです。そしてその会でバイブルのようにしているある本を私に貸してくれました。
    私はその本にザッと目を通しました。そこに書いてあることは私が自然の中で感じる感覚とそっくりでした。
    でも私はその本に浸る気分ではなく、「うん、確かにこんな感じよね」とサラッと思っただけで、すぐ次の日に責任者に本を返しました。
    するとあまりに早く本が戻ってきて、また私の反応も拍子抜けするくらいにあっさりしていたからか、責任者の人は拗ねてプイッと顔をそむけてしまいました。
    その責任者や仲間たちは同じ感覚の人たちで固い団結のグループを作ることにとても熱心でした。
    それと比較すると、この「意味不明な人々」ブログはそういう熱いグループ意識が全く感じられません。個々がバラバラで勝手に動いています。不思議な空間ですが、束縛されない自由さがあります。

    • アメジスト
    • 2012年 10月 03日

    記事のニュアンスとはちょっとずれますが、ASはこだわりが特徴なので、同じ主張を持つAS同士は強い絆で結ばれ、相反する主張を持つAS同士だと敵対関係になりやすいように感じます。
    私個人は強い絆の中には入りたくないし、敵対関係に関しては常に中立でいたいと思っています。

    • 匿名
    • 2012年 10月 04日

    >ASはこだわりが特徴なので、同じ主張を持つAS同士は強い絆で結ばれ、相反する主張を持つAS同士だと敵対関係になりやすいように感じます< アメジストさんの表現は今日もお見事です。なるほど。 部活(特に体育会系と一部の文科系)、各種サークル(○○スカウト、○○の会など)、地域の自治活動、PTA、そして多くの「宗教」も同じものを感じます。 ちなみに「砂漠の丘の上でひとり吼え続けるライオン」のジャイアンADHDは全部すぐにやめました。最後に残ったのは自分勝手にできるプチサークルと楽器外国語など個人レッスンくらいです。(もちろん先生と衝突してやめることしばしば)

    • KEI
    • 2012年 10月 05日

    あー、夫だぁ、、、。そして義理の父。二人とも配偶者が全部身の回りの世話をしてくれて当たり前だと思っている。義母は共依存なので、影武者のように義父の座るソファの後ろにたって世話を焼く、という信じられない献身をしています。夫もそれを求めているけど、私にやってもらえないので仕方なく自分で動く事が多いです。当たり前ですよね。自分で動かない義父は、食欲のリミッターが外れている事もあいまって、でっぷりと太ってますよ、、、。
    それらしきエピソードが一つありました。先日、義母が、ヨーグルトを食べるためのスプーンを、義父の分を出し忘れた所、義父、大騒ぎだったそうです。「俺に食うなってのか!!」と大声を上げたそう。いかにも、エピソードだと思います。
    それにしても、夫も義父も二人とも、ジャイアンかと思っていました。ワケの分からない所でパニックになってすぐに怒鳴ったり、体をゆすって威嚇したりするのは二人に共通なんです。
    自分が中心じゃないと、強引にでも中心になろうとしますしね、、、。ジャイアンと受動型ASはかぶる所が多いのかしら?

    • アメジスト
    • 2012年 10月 05日

    私も子供も生まれつき弱かったので、医療機関、相談機関、フリースクール、保健所等に今まで大変お世話になってきて、大きな成果を実感させていただき、お世話になった方々には心から感謝しています。
    ただ、その感謝はある意味で割り切った感謝であり、こちら側がそのお返しに相手に忠誠を尽くすというような種類のものではありません。
    ASの世界では、時に、お世話になった分だけ何かが期待されているような感覚になることがあり、感謝の念が大きい分だけその期待を重く感じることがあります。
    たぶん、その期待にこちらが応えてしまったら、「共依存」めいた関係になり、お互いにいい関係ではなくなってしまうかもしれません。
    こんなことを言う私はASの世界では「超・生意気者」なんだろうと思います。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 05日

    私は、ASの世界では「超・生意気者」どころか、「異端者」だと自分の事を思っています。
    でも、仕方がありません。
    たしかに、何も言わなくてもAS同士で通じているような、同胞めいた感覚(錯覚めいた共依存?かな?)に浸るのは心地良いでしょうけれど、
    私は心の底から自分を変えたい、自立したいと思っているのですから。
    先日、障害であることをオープンにした求職活動を始めたばかりですが、
    特に、ハローワークの障害者担当さん、コミュニケーションサポーターさん、障害者就労支援に関する方々、そして私の担当医、地域活動支援センター(I型)の職員スタッフの皆さんなどにはこれまでも長くお世話になり、本当にありがたく思っています。
    自分の気持ちや意思を、非言語方法にて主張するのではなく、きちんと言語化しながら出来る限りハッキリと言葉で説明をし、
    伝えた希望に沿って、どういうやり方や内容で活動を進めていくのかを、障害者担当さんとその都度確認したり、打ち合わせをしながら進めているところです。
    だいぶ清々しい、さわやかな気持ちですよ。

    • 2012年 10月 05日

    医療機関等の職員は、その職の職責を果たす代わりに賃金をいただいていますから、忠誠を尽くすといったことまで要求していません。合理的な考えでは、それはそれ、です。
    ただ、なかには対象となる人に過度の期待をする職員がいます。「やってあげている」自分に酔っている人もいます。
    私はアメジストさんの発言に、我に返る思いがしました。ジャイアンの習性としてのお節介、これをAS諸氏に行えば、AS諸氏への過度な要求となり得る。そのことをジャイアンは理解せねばならない。私はここにたどり着いてから反省いたしました。
    アメジストさんは、ご自身のASの特性を十分に理解し、かつ対人関係において非常に努力されているものと思います。わかっているのにできない「窮屈な思い」、強迫的なADHDとASとは違った形で違った場面で感じることだと思いますが、実は共通する「困難感」なのかもしれませんね。

    • アメジスト
    • 2012年 10月 06日

    さーこ(AS)様
    >私は心の底から自分を変えたい、自立したいと思っているのですから。
    >だいぶ清々しい、さわやかな気持ちですよ。
    充実していらして素晴らしいですね。
    み 様
    >私はアメジストさんの発言に、我に返る思いがしました。ジャイアンの習性としてのお節介、これをAS諸氏に行えば、AS諸氏への過度な要求となり得る。そのことをジャイアンは理解せねばならない。私はここにたどり着いてから反省いたしました。
    大変恐縮です。生意気を申しました。でもたぶん み さんには「サバサバ感」があるので、相手は重く感じていないのではないでしょうか。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 06日

    アメジスト様
    >充実していらして素晴らしいですね。
    そう、、これが、「充実」というものなのだと、私も薄々、勘づいていました。
    ですが、やはり自分以外の人から言葉で表現していただけると、違いますね。
    アメジストさん、ありがとうございます。
    さて、AS独特の論理で言えば、実は充実とは程遠いと思っています。
    制限はかかるし、自分が中心にはなれません。
    (コミュニケーション手法などの)こだわりを100%通すこともできません。
    でも代わりに、日常生活や対人関係を良好な状態で過ごすことが、かなりの場面で可能になっています。
    私の場合は、これが大きな成果ですね(^^)v

    • 2012年 10月 06日

    アメジストさん
    いえいえ、アメジストさんが非常に謙虚でいらっしゃいますので、私は学ばなければと思っています。
    ASの方の困難さが、アメジストさんのコメントを通じて少しずつわかりはじめています。
    これまで自分(ジャイアン)のことばかりに理解を求めていましたが、ASの方はASの方で自己コントロールの仕方を身に着けてきていること、困難を乗り越えようとしていることがわかるようになりました。
    今は冷静にASの方の困難さを捉えることができます。ジャイアンのお節介ではない関わり方を定着させることが、今の私の課題です (^O^)

    • ちいべこ
    • 2012年 10月 07日

    初めてコメントさせて頂きます。
    自分と娘の余りにも違いすぎる認知に悩み、
    色々調べていてここに出会いました。
    初回からさかのぼって読み進め、最近やっと読み終えました。
    (ほとんど先生の記事だけですが…)
    自己診断より私は典型的なのび太型ADHDで、娘は受動型ASと思われます。
    私と娘の違いについて言葉ではっきりと表現されていて、
    ここに出会った時は衝撃でした。
    そして娘について理解出来ないことにある意味諦めがついてスッキリしました。ありがとうございます。
    私が感じている娘と自分の認知の違いについて、
    皆さんの認識ややんばる先生の見解とも少しズレるかもしれませんが、
    率直に述べさせてください。
    続きます

    • ちいべこ
    • 2012年 10月 07日

    私(のび太)は何事においても物事のボーダー(境界線)の捉え方が薄い気がしています。
    その為他人との距離感もわからないし、
    自分の世界も遠くまで広がっていて境界線がはっきりとしない。
    この認知で全てを測るので、
    他人も同じように広い世界が広がっていて、
    私がその人と接するのはそのごく僅かであり、
    その人の全てを知り得る訳がなく、侵すなんてもっての他。
    自分の世界でさえも全てを知らないのに。
    というのが私の認知です。
    私にとっては他の存在を最大限に尊重しているつもりなのですが、
    周りからはクールに見られるようです。
    時間的認知の短さも
    境界線のはっきりしないあやふやな世界に住んでいるので
    逆に近視眼的になるのではないかと思います。
    全ての物事に対し(尊重しすぎて)自分なりの(勝手な)入れ物には入れられず、
    結果的に多数派の共通した入れ物の捉え方をつかめない。
    最初から全ては測れないという前提の中で生きているように思います。
    続きます

    • アメジスト
    • 2012年 10月 07日

    >部活(特に体育会系と一部の文科系)、各種サークル(○○スカウト、○○の会など)、地域の自治活動、PTA、そして多くの「宗教」も同じものを感じます。
    Paul Carpenterさんのコメントで過去の習い事を思い出したので、くだけた話題を少し。
    ・ピアノ・・・3才から15才まで惰性で習いましたが、全くモノにならず。ピアノの先生にある時「短い作曲をしてきなさい」と言われたのですが、自分にはできないので、小学校の音楽の先生が授業で紹介してくれた短い曲を自分が作ったかのように楽譜に書いて持って行ったら、ピアノの先生が「よくできてる!」とほめてくれました。しかし小学校の音楽の先生とピアノの先生は知り合いだったので、後で盗作とばれて赤っ恥を書いたというエピソードあり。
    ・お茶・・・静寂な雰囲気が好きでちょっとかじりましたが、お茶会に出ると、お客様をもてなす心で上品な会話をすることが最重要だと知り、社交性ゼロの私には全く向いていないと悟り、脱落。
    ・軟式テニス・・・高校で入ってみましたが、先輩の封建的な雰囲気が息苦しく、体力もなく3か月で脱落。何回か試合に出た時に心の中で思っていたこと⇒「早くおうちに帰りたい」
    勝負心が全くない根性なし。
    ・バドミントン・・・大学で入ってみましたが、社交がダメだし、体力がなく、数か月で脱落。
    結局、その種目には興味があっても、集団とか社交性とかいう部分でつまづいて、習い事は続かないことがわかりました。

    • ちいべこ
    • 2012年 10月 07日

    これに比べ娘は自分の入れ物の中しか見れないという認知で生きているように思います。
    世界は自分からのアクセスのみしか存在せず、それ以外の世界はわかりようもない。という感じです。
    表現も感情的で他を思いやろう、理解してもらおうとはせず、
    一方的で自分勝手でわがままです。
    私に対しては一方的な愛着の押し付け状態です。
    私は他人の感情がわからないくせに、
    (境界線がないせいか)他人の自分を見る目がいちいち気になりますが、
    娘は自分からの世界しか存在しないから(入れ物に入っているから)か、
    他人の評価は(自分の表の世界が侵されなければ)精神的にはどうでも良い
    といった感じです。
    これだけ違うので衝突は日々絶えませんが、
    先生のおかげで違いを楽しめるようにもなってきました。
    いちいち感情の起伏の激しい娘が、合理的思考しか出来ない私からすると
    ちょっと憧れるくらいで可愛いなと思う時もあります。
    (日常の7割は怒り狂ってますが…)
    長々と失礼しました。
    これからも勉強させて頂きます!
    やんばる先生がブログ内で悩みや苦しみや葛藤をさらけ出している姿には
    大変勇気をもらいました。
    先生は患者と共に悩み苦しむ貴重な並走型医師です。
    これからも迷える発達障害者の道を切り開いて行って下さいね。
    くれぐれもお体を大切に‼

    • ちいべこ
    • 2012年 10月 07日

    度々すみません。
    自分の世界の認識について
    広い世界が広がっていると書きましたが
    違っていました。
    雲の中にいるようで手の届く範囲しか見えない
    故に境界線が不鮮明
    といった状態でした。
    毎回雲の中に手を突っ込んで
    何が出てくるかなぁ~?
    そんな感じです。

    • アメジスト
    • 2012年 10月 07日

    先生、前回のコメント、内容がくだけすぎて、単なる世間話のレベルになってしまったかもしれませんね。このブログは自己洞察、発達障害研究の真面目なブログなので、趣旨に合わないとしたら、承認なさらないでくださいね。時たまふっと遊びたくなることがあるもので、つい書いてしまいました。失礼いたしました。

    • 匿名
    • 2012年 10月 09日

    ここにいると自分にジャイアンADHDだけではなく、ASの部分もかなりあるなあ、と感じます。
    こどものころ。何をするのも親や同級生の言うとおり、するとおり。しかも親や同級生がアクションを起こすまで自分では決してアクションを起こさない。そのあとはやりすぎてひんしゅくを買ったり。
    そして誰もいないところでは無茶苦茶なことばかりしてあとで必ず親や教師に怒られる。
    田舎から都会へ越してきたときには、ただでさえ口下手なのにしゃべることができなくなり(方言をからかわれるので)、虐めの対象に。小学生にして自殺を考えたり。
    ちなみに「非言語的な理解」はやってみるものの、たいてい自分の都合のいいように考えて、結果は惨めなものであることが多かったです。
    でも最終的には「砂漠の丘の上で吼え続けるライオン」です。これはどうしようもない。もちろん過集中のおかげで難局を何度も乗り切れて生きてこられた、という事実には感謝しています。
    アメジストさんへ。
    小生は中年からピアノをはじめ、今3人目の先生です。けっこう気が合っています。好きな曲だけ選んで練習して、弾き語りもやっています。大人になってからまた始めたら楽しいかもしれませんよ。

    • wish
    • 2012年 10月 09日

    アメジストさんに質問と確認です。
    >ASの世界では、時に、お世話になった分だけ何かが期待されているような感覚になることがあり、感謝の念が大きい分だけその期待を重く感じることがあります。
    この記載に関して、立場を置き換えた場合には「お世話した分だけ何かを期待する感覚になることがあり、(お世話した相手の)感謝の念が大きい(であろう)分だけ期待する。それ故、相手の期待を重く感じる」言葉を言い換えれば「見返りを求める」と、解釈してもよろしいでしょうか?
    また、そのように解釈可能な場合、対家族・対友人知人(プライベート)に関しても同様に感じていらっしゃるのでしょうか?
    >たぶん、その期待にこちらが応えてしまったら、「共依存」めいた関係になり、お互いにいい関係ではなくなってしまうかもしれません。
    に関しては、これまでは、その期待に応えていらっしゃったのでしょうか?
    また、上記のように考えるに至った きっかけや経緯などありましたら教えていただけないでしょうか?

    • wish
    • 2012年 10月 09日

    さーこ(AS)さんに質問です。
    >たしかに、何も言わなくてもAS同士で通じているような、同胞めいた感覚(錯覚めいた共依存?かな?)に浸るのは心地良いでしょうけれど、
    私は心の底から自分を変えたい、自立したいと思っているのですから。
    と、記載されていますが、
    これまでは「心の底から自分を変えたい、自立したい」などと考えたことはなかったのでしょうか?
    現在の「心の底から自分を変えたい、自立したい」と思うようになったきっかけや経緯など、差し支えなければ教えていただけないでしょうか?

    • アメジスト
    • 2012年 10月 09日

    wish様  (その1)
    直球のご質問、どうもありがとうございました。
    今回のご質問は、私の本能的な感覚で感じていたことを、じっくりと言葉にして整理することに役立ちますので、私にとってもプラスになると感じました。
    お答えできる範囲でお答えいたします。
    今回の私の記述はASの方、又は多数派の中のAS的な方(日本人はどちらかというと全体的にAS的な人が多いと感じていますので)について書きました。
    ①私もASですが、AS的な人はたぶんこの「相手に期待する、見返りを求める」ことにほとんど無意識的なのではないかと思います。
    私の人生の前半は典型的ASで、自分が相手に期待していることなどほとんど無意識だったと思います。途中でいろいろと壁にぶつかり、自分のAC(アダルトチルドレン)的な要素をはっきりと自覚するにつれ、依存や共依存、無意識的な相手への期待、相手からの期待などにひどく敏感になってしまいました。(ある意味、日本人の中では「変人」になったといえるくらいです。)
    ②私の家族・友人等のプライベートな関わりの人たちは「私の人生後半の変人ぶり」に慣れているので、私に一切の期待をかけないようになりました。
    ③「私がお世話になった方の期待に今まで応えてきたか」ですが、本能的に期待に応えることが無理になっているので、離れられる場合は時期を見て、離れさせていただきました。状況的に離れられない場合は、距離を置いてみたり、距離を縮めてみたり、お世話になっているし、こんなに助けてもらったんだからと思い、ある時は自発的に協力したりもして、だいぶ試行錯誤をしてきました。

    • アメジスト
    • 2012年 10月 09日

    wish様  (その2)
    ④「この考えに至った経緯」はいくつものケースを経験した結果ですが、ごく最近の例を一つご紹介します。
    私や私の子供がある治療法を受けています。その治療法のグループの構成員の方々は皆さんグレードの高い尊敬すべき方々ばかりです。その治療法は日本ではまだメジャーにはなっていませんが、とても効果の高い治療法で、私たち親子も奇跡的といっていいほど改善しました。(現代医学との併用ですが、現代医学だけではどうしても限界がありました。)
    その治療法を日本全国に広めることがそのグループの大きな目標です。それは大いに納得できるのですが、そのグループが「この治療法で良くなった患者さん全員が、広めるためのチームに加わってほしい」と期待しているのです。
    自分が良くなったからこの治療法を広めようと自主的に動いている患者さんたちがいます。それは自主的だから全く自由です。
    でも積極的に広めたいとかチームに加わりたいとかは思わない患者もいて、その人たちは「お世話になって良くして頂いたことには大変感謝している」けれども「期待が重たい」ということになってしまうわけです。
    これも近所を歩いてビラ配りをしろなどと言われているわけではありませんし、グループの方々はもっとごく軽く考えていらっしゃるんだと思いますが、そのグループの基盤に潜在的に患者もチームになってほしいという期待があることは「あるタイプの患者たち」には結構大きなプレッシャーになりえます。
    回答は以上です。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 10日

    wish 様
    >これまでは「心の底から自分を変えたい、自立したい」などと考えたことはなかったのでしょうか?
    >現在の「心の底から自分を変えたい、自立したい」と思うようになったきっかけや経緯など、差し支えなければ教えていただけないでしょうか?
    私は、これまではどのようなタイプの人に対しても、「少しの接点を見つけただけ」で、なぜか「自分と共通の部分があると思い込み」、
    共通があるというその思い込みが、自分の意識とは関係なく、世間的表面的な会話をするだけでも勝手にどんどん肥大化して、
    「私とあなたは同胞である、という認識になっていってしまう」という、AS的同胞めいた感覚で他人と接してしまう部分がありました。(極端ですねぇ本当に(汗))
    その、AS的同胞めいた感覚が前提にある状態でほとんどの人と接する以上、
    「自分を変えたい、自立したい、という発想自体が、まず湧いてこなかった」です。
    今現在は、AS的同胞的感覚で接する「衝動」がかなり薄れたものの、気をつけなければその衝動が強まってしまうので、日常的に注意が必要ですが、当時はかなり強かったです。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 10日

    (続きです)
    >「心の底から自分を変えたい、自立したい」と思うようになったきっかけ
    についてですが、私の中で強烈なエピソードがありましてね。
    長年、私と同じ「精神科に通っている障害者」という接点がありながらも、
    5年以上経っても、カウンセラーショッピング、ドクターショッピングを続けたり、
    目先の経済的保障を心配して、突発的に配偶者の権利を主張しに、配偶者の会社に行ったかと思えば、
    潰瘍ができてお医者様から食事制限が出ているのにも関わらず、自分の衝動を優先したり(”夏コミ”に自分のイラスト作品を出品するために、猛暑の中、浴衣でお洒落して外出し、帰宅後に倒れたそうです)、
    まぁ~、真剣に回復しようとしている私を煙に巻こうとして、内容の無い表面的付け焼き刃の屁理屈で、自分の立ち位置や振る舞いをコロコロと変えようとしたり、
    時間的継続性や一貫性が全く無い発言と行為で、私以外を含めた複数人の気持ちをネットで振り回すなど、
    自己主張が論理的に破綻しているのにも関わらず、本人は否認し無理やり押し通すという、刹那的、破滅的な人とのやり取りを、
    ネットの文字のみでしていたことがありまして。
    長い年月をかけて、その人の本当の姿を(ネット上のみですが)ハッキリ捉えきったと思った瞬間、心底、失意したものでしたね。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 10日

    (続きです)
    私は数年前まで、抑うつなどの身体症状がひどすぎて、(現在は改善し、処方薬無しです)、
    「もしも回復できるのならば、(そのために自分を変える事になったとしても、変えることと引き替えに)少しでも回復したい」と思いながら、当時はその人とも、やり取りをしていたのですが、
    その人は、自分の事を変えたいなどという事については、実は思っておらず、
    他人に対して、自分の人生観を語ったり助言したりするものの、「私の社会的立場を書き出して利用してでも、自分の立場(優位性?)を守り、自分の好き勝手に生活していたい」と思っていた事が、
    その人の言葉と、その人の取った行動を、長期的継続的に見ていてハッキリと知れたので、
    その人に対するあきらめが確実についた、というところでしょうか。
    最終的に、私の目が点になるような幼稚な事「私は聖人君子じゃない」を書き出して、ポカーン(゚д゚)でしたね。
    (何年障害者をやっているんだよ!もう! お医者様のところに通っていると自分で言っていたり、医療費がないから結婚すると言って結婚した割には自己洞察も習慣付けていないのか!) と、私の内心は、そんな感じでしたね。
    文字のみの関わりでありながら、その人の苦しみや辛さは今まで見てきて本当のものだとも思ったのですが、
    他人や自分を煙に巻いて、自己主張や思考すらも論理的に破綻しているという事実からいつまでも目を背けていたい、という、そんな、いつまでも付け焼き刃で浅いままの屁理屈屋人間と共に、
    障害者同士という枠の中で、言葉で どつき合っても、小さな小さな世界の中、回復のために得るものも少なく、
    私自身の本当の回復のためには、これ以上その人と関わっていても不毛であり、程遠いだけだと、あきらめるに至りました。
    私とは「障害者、という接点がある」という事実があるだけで、私との共通の部分など、本当は最初から一つもなかったのかもしれません。
    ちなみに論理思考についてですが、その人と知り合う前か、知り合ったとほぼ同時期に、私は「池田晶子著/残酷人生論」等を読むに至りましたが、
    その人は、「田口ランディ著」の本の方がお好きだったみたいですね。

    • PAY
    • 2012年 10月 10日

    AS同士で友人の付き合いは難しい。
    仲良くするがすぐに分かれます。意見の食い違いなどです。
    人間関係は厳しいね。 私は、特に感情が強いです。
    私もASで友人を作りたいですが長続きしません。逆に敵を作ってしまいます。
    理想と現実は厳しいね。
    ASの人がTwitter&ブログをやって現実から理想になってしまいます。パソコンなどで文章などで攻撃がしやすさがあります。
    若者の非行&暴走族はバイクと車で住民に爆音などを巻き散らかしても平気がありますが、実際は現実を見られない。
    深夜徘徊、喫煙、飲酒などが沖縄で改善しないです。
    成人・大人のAS、ADHDについて留意点です。
    YANBARU先生へ
    AS、ADHD、若者の非行、暴走族の違いを調べてほしい。
    いじめも冗談から大きくなります。
    沖縄県では大人・成人の発達障害者の支援が無い。方向が無い。

    • なつもか
    • 2012年 10月 10日

    今回の記事で、長年母親とソリが合わなかった糸口が見えました。
    私の場合はAS母とADHD子という関係であり、母は私に愛着を感じていたのだと思います。
    また私は他人を感じることが不得意で、母親からの一方的な押し付けを不満に感じていました。
    今回の”「理解」即「全面的な受け入れ」という論理”はまさに母に当てはまり
    ・(非言語的に伝えたつもり?)余暇のスケジュールが勝手に決められている
    ・発言してないのに私が母と同じ意見だと他者に向かって断言される
    といった所に見られます。
    本人は何かしら不便を感じているようですが、何が問題なのかはまったく気づいていないようです。
    今回はコメント等も読んでいますが、私にはAS思考回路の理解が難しいです。
    (理解がむずかしい…はADHDにしたら否定でも肯定でもありません。お気を悪くなさらないでください。)
    ただ、アメジストさんの
    “日本人はどちらかというと全体的にAS的な人が多い”は少し納得がいきました。
    たぶん、空気を読むこととも関係するのではないでしょうか。
    仕事をしていると時々あれ?と思うのですが
    質問はするけれどその先必ず発生する作業については言わない人がいます。
    例)A「この前の○○は、△△で合ってたっけ?」(=△△ではなく□□なので、間違い。やり直す必要がある。)
    この場合の回答は①B「合っていません。」ですが、一般的に①と答えた上で②B「やり直しましょうか?」と確認したり③やり直す手配を済ませてしまうこと までが空気の読める人ですよね。
    ②の時点でA「そうか、じゃあやり直してもらえる?」と伝えてもらえたら空気を読む必要もないんですが、なぜかそれは絶対に言わない人がいるんです。
    私のようなADHDにはとてもわかりにくい要求で、質問だけで③まで求められてしまうと理不尽に感じます。
    (※多数派の空気は自分の想いとかけ離れることもあるけれど、ASの空気は非言語的な個人の想いなので、結果同じくなる場合はあるけれどまったく違うものだと思いました。)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 11日

    私は成人後に、考える人 池田晶子さんの本を読むまで、考えるとはどういうことなのかを全く知りませんでした。
    それまでの私は、形式の側からではなく、情緒というこだわりを重視した内容の側から物事を捉えたり測ったりするのに必死で、
    他人の言葉尻を捉えては、分かったような気で物事を語ることが考えていることなのだと、根本的に思い込んでいたのです。
    その本は、読めばすぐに考えるということができるわけではなく、
    とにかく ”わからない!!!” という衝撃が待っている本でした。
    ”わからない、が、何かがありそうだ” ”もしかして、考えることにおいて本物の人がこの現代にいるのか…!?”
    と直観した私は、就労の焦りの時間以外は完全に引きこもって、他人とコミュニケーションなどほとんどせずに、
    同著者の別の本も図書館で読みあさりながら、物事について(多角的に)問いを持ち考えるとはどういうことか、少しずつ数年かけて獲得していきました。
    その後、就労相談などを経た後、発達障害者支援センターに相談しに行き、巡回医から発達障害と診断されましたが、当時の診断は、PDD-NOS でした。
    二次障害などの身体症状がかなり出ていました。
    その後、抗うつ薬(SSRI)を少しずつ減らして、現在は精神療法のみです。
     
    YANBARU先生のブログを読んでいるのは、ASについてどういう考え方があるのだろう?という事を知りたい、考えてみたいと思っているからです。
    文章を読んだり、こうしてコメントとして書くことで、私のAS的情緒部分がこちら側で再燃してしまう時もありますが、現在再燃はかなり減りました。
    日常生活も一定のリズムを保てているので、当時の7~8年前と比べれば雲泥の差であり、良好です。
    YANBARU先生が書く文章も、”わからない、が、何かがありそうだ” と、最初に見た時に感じました。
    ASという障害の観察、洞察において、出来る限り考えている、考えようとする、信用ができる文章だと思っています。

    • wish
    • 2012年 10月 11日

    アメジストさん、さーこ(AS)さん、ご回答ありがとうございます。
    自分自身にない感覚や発想に疑問や関心が生じ、また、お二人の考え方が変わるきっかけや経緯など具体的に知りたくなり、質問させていただきました。
    お二人とも分かりやすくエピソードを書き添えていただき、ありがとうございました。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 12日

    wish 様
    >自分自身にない感覚や発想に疑問や関心が生じ、また、お二人の考え方が変わるきっかけや経緯など具体的に知りたくなり、質問させていただきました。
    この一言で、どうして私に質問したのかの納得がいき、また安心いたしました。
    私の言葉を受けて、情緒的反発がなく、静かに話を聞いていただけたのは、私にとっておおよそ15年ぶりくらいの事でしたので、少し戸惑っておりました。
    こちらこそ、どうもありがとうございました。
    YANBARU先生にも、感謝申し上げます。
    特に、一つ前に書いた私の記事は、YANBARU先生がHPで書いている「AS的認知の世界」で言うところの、
    【 ③愛着の対象以外には知られてもいけない、自分の大事なこと 】に、該当します。
    ASの世界の中で、このような異端的事柄を書こうとする人、実際に書く人というのは、これからもあまり出てこないだろうと、個人的に少し思います。
    ”今書かなければ、いつ誰が書くのだろう。 自分にとっても他人にとってもこんなに大事なことなのに??”
    そんな私の中での直観の方がまさったので、勇気と決断を胸に書かせていただきました。
    皆様のコメントを少し読んでみて、私の中にも言葉にならない新たな風が吹いてきそうです。
    ありがとうございます。

    • 道産娘
    • 2012年 10月 15日

    「わからないことに意味がある」についてですが…
    AS同士は白黒はっきりつけるので、お互い「相手が自分を理解するorしない」という発想になると思うのですが、ADHDに対しては、「理解する・しない」の他に、「相手が自分を理解したかどうかわからない」という気持ちにもなりますよね。
    「わからない」イコール「まだ理解してもらえる余地がある(完全に否定された訳ではない)」という発想になり、白と黒の他に「グレー」という考え方が生じるのでは?
    あと、「分かる」即「全て受け入れる」という認知も、きっとAS同士だと「分からない」イコール「全て受け入れて貰えない(全否定)」という極端な発想になり、お互い過度に理解を要求せざるを得なくなるのかなと。
    (過去にジャイアンはASと一緒に居ると中心志向が強化されるという内容の記事がありましたが、ASはASと一緒に居るとゼロ百思考が強化されて、曖昧な部分が許せなくなるとか?)
    具体例が思い浮かばなくて、上手く説明できないのが残念です…

    • 匿名
    • 2012年 10月 15日

    >AS同士は白黒はっきりつけるので、お互い「相手が自分を理解するorしない」という発想になると思うのですが、ADHDに対しては、「理解する・しない」の他に、「相手が自分を理解したかどうかわからない」という気持ちにもなりますよね。
    「わからない」イコール「まだ理解してもらえる余地がある(完全に否定された訳ではない)」という発想になり、白と黒の他に「グレー」という考え方が生じるのでは?<
     なるほど!
     道産娘さんのコメントに思い当たるふしがたくさんあります。
     そうだったのか。
     ジャイアンADHDの立場としては鬱憤が蓄積する原因になると思いますね。小生にとっては他人は他人なので最終的にはどうでもいいのですが。でも付きまとわれ過ぎると破綻に至るのではないかと。
     「お互い思い違いのままうまくいく」ASとの大きな違いかもしれません。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 15日

    道産娘さん。ASについて、とても的確な説明ですね。
    たしかに私の場合だと、ADHDの人に対しては、
    >「相手が自分を理解したかどうかわからない」
    という気持ちを感じる状況に多々遭遇します。
    逆に、話をしている最中に、AS独特の論理同士である事が感じられる相手に対しては、
    話をしているうちに、なぜか、ゼロか100か以外の選択が無くなっていく感覚に陥ります。<ゼロ百思考の強化>
    たとえ交渉という場であっても、AS同士しか場に居ないと、
    妥協案や保留案、保留後に再検討案などが、いつの間にか消え失せてしまうかのごとく、最初から存在しないので、
    >「分からない」イコール「全て受け入れて貰えない(全否定)」という極端な発想になり、
    >お互い(に主張し合い、相手に対して100%受け入れてもらう意味での、要求的理解を、相手に対して)過度に要求
    せざるを得なくなります。
    AS同士で会話をしていると、相手の側にも強固な「ゼロ百思考」が前提にあるので、
    「分からない(…Why…?)ということ」を、なぜか、イコール「100%全否定した(No!)と認知するという情緒的な受け取り」が、
    当たり前のものとして無意識に成されてしまいます。(本当に困惑しますね(汗))
    話の内容のみに情緒的に終始するので、話に折り合い(妥協)がつかず、本当に弱ります。
    (私自身のことを棚上げしているというのは、重々承知ですが……)
    ついには私も、「曖昧な部分を日々受け入れて生きている、というあきらめの姿勢を思い返すことができなくなる」という事態になるので、
    まるで子どもに戻ってしまったかのように、情緒的な反発に終始する以外に他無くなってしまいます。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 15日

    (続きです)
    >ASはASと一緒に居るとゼロ百思考が強化されて、曖昧な部分が許せなくなるとか?
    当たりです。私の場合は「曖昧な部分を受け入れずに情緒的反発を続ける相手のASが許せなくなりますね。」(AS的情緒的反発)
    「曖昧な部分がある事を受け入れる姿勢(100%の要求は通らないのが当たり前であり当然の事)を忘れて、
    他人に対していつまでも執着し、100%の完全的理解を要求し続ける。」
    これが、以前の私の姿でした。
    今の私は、専門の相談員であるコミュニケーションサポーターさんと一緒に、
    定期的に対話の時間を確保しては、その間私が引っかかった事についての話をして、
    繰り返し状況をふり返り、逐一、妥協のポイントを探していくという事について、言葉による確認をこれでもかというくらいしています。
    (ある程度、論理的思考ができる事が前提条件かもしれません)
    対話の中で、状況を追跡して言葉として振り返り、言葉によってきちんと確認する、という手順と段階を繰り返し行うことによって、
    100%の完全を人に要求しないというやり方を模索する方向へ、自分が向かう事について、少しずつあきらめがついてきました。
    (相談員さんは、「行動療法的な事をしている」と表現していました。)
    今は、あきらめる姿勢を学んで良かったと思っていますよ。
    たしかに心に負荷はかかるけれど、苦しみながらも社会行動を学んでいるという事ですから。
    ****
    追伸。昨日付けで、アロマテラピーインストラクター試験に合格しました。
    特に、体のメカニズムを学ぶという解剖生理学(基礎医学)の分野では、
    自分の好き勝手に物事を解釈するということが完全にできない、特殊な分野なので、
    どのように捉えていいのか真剣に途方に暮れたりしました。
    勉強は泣きそうなくらい難しかったけれど、昨夜は年上の友人(多数派)数名と喜びを分かち合ったので、嬉しかったです^^

    • 道産娘
    • 2012年 10月 16日

    Paul Carpenterさん
    >ジャイアンADHDの立場としては鬱憤が蓄積する原因になると思いますね。
    ジャイアン同士は「どちらが優位に立つか」といった腹の探り合いに近い感情ですかね。
    私の場合は「遠回しに嫌味を言って、ダメージを増幅しているのか。それとも他の人に気付かれないためか」等と深読みして、被害妄想的になりますね(汗)
    さーこ(AS)さん
    資格試験の合格、おめでとうございます!
    私自身、身近に積極奇異は弟しか居なくて、ほとんどが受動型の人達を見た印象なんですが、積極奇異のさーこさんにも通じる部分があったんですね。
    私の知り合いの受動型ASの人達は、「親しい人とは全て同じでなければいけない」という考えの人が多く、AS同士だと「相手に反論してはいけない、(嘘でも)同調し続けなければならない」といった空気を自分達で作り出している印象がありました。
    (私に対してはあっけらかんとしていて、正直に何でも話す人も中にはいましたが…)
    そんな状況下で「私はあなたの考えとは違う」と言われることは、ASにとっては、自分が無くなってしまうほどの強い不安に駆られるのではないか?と思いました。
    知り合いは後から冷静になって愚痴を言えたりするので、当時は「自分がない」という印象はありませんでしたね。
    八方美人の内弁慶かと。
    実際はASの人の近さから振り回されていたのでしょうね。
    積極奇異の弟と受動の父は、「目と目で通じ合う」といった関係ですが、どうも弟の方は居心地が良いようには見えませんね。
    ADHDから見ると、言語を制限され、苦痛を強いられてるように見えます。
    (弟は父を尊敬しているそうですが…)

    • 匿名
    • 2012年 10月 16日

    >昨日付けで、アロマテラピーインストラクター試験に合格しました< >勉強は泣きそうなくらい難しかったけれど、昨夜は年上の友人(多数派)数名と喜びを分かち合ったので、嬉しかったです<  さーこさん、よかったですね。おめでとうございます。  学生のときから、社会人になった今でもしょっちゅう試験があり、しょっちゅう落ちて再試再々試を受ける小生には自分のことのように嬉しいです。  ちなみにジャイアンADHDは基本自分ひとりで嬉しさを噛みしめるしかないので、ちょっぴり羨ましいかも。 >対話の中で、状況を追跡して言葉として振り返り、言葉によってきちんと確認する、という手順と段階を繰り返し行う<  これはとても大事なことなんですよねえ。小生は「自分のアタマの中だけでやってしまう」からいつも嫁に怒られます。「言わなきゃわかなんないじゃないのよっ!」と....  >AS同士だと「相手に反論してはいけない、(嘘でも)同調し続けなければならない」といった空気を自分達で作り出している印象がありました<  なるほど。道産娘さんのお話は本当に参考になります。  てことは、逆に他人を感じられない、自分だけでオッケーのジャイアンADHDの好き勝手な言動はASの方たちにとっては迷惑千万、といったところでしょうか?そういえば行きつけの飲み屋であからさまに嫌な顔をする人が時々いるような。小生がべらべらくっちゃべってるときに。気をつけよう。でもきっとすぐ忘れるんだろう。 >積極奇異の弟と受動の父は、「目と目で通じ合う」といった関係ですが、どうも弟の方は居心地が良いようには見えませんね<  ....................  ジャイアンにはありえないですね。  特に男どうしでしょう?(失礼)  自立して家から飛び出すのが一番ですね。大変ですがそれしかないのでは。  ちなみに亡き母は小生があっちこち転勤してもしょっちゅう掃除洗濯などしに遠路はるばるやってきてくれました。  同棲していることを知ったときはこの世が終わったような状態でしたが...

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 17日

    道産娘様。 Paul Carpenter様。
    お祝いの言葉、ありがとうございます^^ 本当に嬉しいです^^
    しかし、資格を取った今からが、本当の始まりですね。
    これからも、勉強をしたことを自分で繰り返し振り返ったり、数年ごとに改定される最新箇所をチェックしたりと、勉強だらけです。
    これから、どのような場で、どのように自分の生計を立てていくのか、考えつつ行動しては振り返り、言葉での確認もかかせません。
    今回は私の他に、もう一人合格しているので、とりあえずは近い予定として、同じ職業訓練校で実技をし合った仲間の友人たち(多数派)とのランチ(お祝い会)を楽しみに、頑張ることとします^^
    我が家では、ジャイアン母(最近急にだいぶ丸くなった/看護師、病院管理職)、AS兄(理学療法士)、兄嫁(多数派/介護福祉士)、そして私(積極奇異型AS)という面々と、今年の春から同居しているので、(1つの家の中に、世帯主が2人いる状態)、
    自己評価が下がらず依存もしないという自分の立ち位置を、最近ようやく確保しつつあります。
    ASは、情緒的フォローが全く無い状態で家を出ても、自活するには厳しすぎるんですよね。
    私の場合は、依存関係にはならない情緒的フォロー、という意味で、
    現在同居したまま「コミュニケーションサポーターの相談員さん」や「地域活動支援センター(I型)の職員さん」などに、定期的に会いに行っては交流し、
    何とか、気分転換やモチベーション維持を行っていますよ。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 17日

    (続きです)
    道産娘様
    >私自身、身近に積極奇異は弟しか居なくて、ほとんどが受動型の人達を見た印象なんですが、積極奇異のさーこさんにも通じる部分があったんですね。
    ASは、こだわりの内容に違いはあるけれど、対人認識についてはある程度共通した感覚を持っていると思いますよ。
    私は、AS同士だけで接していると、感覚的に「ASという同胞の里の掟(造語ですよ)」に縛られてしまうみたいになってしまい、正直私は窮屈です。
    「ASという同胞の里の掟」として、「その時そこに居合わせたASの中で、波動が一番強い、長(おさ)に従わないと、長(おさ)から話や物事を進める「許可」が下りない」んですよ。
    でも。いちいち許可が要る会話って、それってコミュニケーションでは無いですよね。
    私が定期的に参加しに行っている「地域活動支援センター(I型)」でのコミュニケーションと、AS同士のコミュニケーションは、明らかに違います。
    皆、言葉を用いて、自分の状況を説明したり、どういう事を手伝えばいいのか、言葉を用いて実際に職員に確認したり、
    今手伝える状態にない人は休んでいるなど、皆さん自由にくつろぎながら物事を進めています。
    ****
    ASの人と接する時、対人距離が近すぎる感覚ゆえに、「意図せず、わたしに従うのか従わないのかというような強迫的感覚として伝わる」ことになってしまうのではないかと思います。
    それに、自分の状況を言葉で追跡して言葉で人に説明したり、自分の意図を言葉で人に説明したり、事態を具体的な言葉で確認し合う習慣が、お互い(の前提)に無い。
    となれば、沈黙とは、否定か威圧か拒否か…、などの意味として相手のASに伝わる事になり、
    沈黙、イコール、「ただ単に、思考している最中の状態であるだけ」とは、捉えないはずですね。
    ソクラテスとの対話を現代に復活させた「帰ってきたソクラテス」(池田晶子著)を、数年前に少し読んだ事がありましたが、
    人々の悩みを「では何故なのかね?」とひたすら返して、「それは考えることができるのだよ」と考えることに向かわせる姿を、
    全体の部分を通して大きな視点で捉えた時、私は痛快で面白かったですけどね。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 17日

    (続きです)
    >私の知り合いの受動型ASの人達は、「親しい人とは全て同じでなければいけない」という考えの人が多く、
    もしかして、「世界の全てがあなたと同化している」という状態でないと、不安でしょうがないのかな?
    >そんな状況下で「私はあなたの考えとは違う」と言われることは、ASにとっては、自分が無くなってしまうほどの強い不安に駆られるのではないか?と思いました。
    「世界の全てがあなたと同化している」事が受動型ASにとってとても安心することなのに、「違う」となると、とても強い不安でしょうね。
    同化が叶わないから(叶わないのが当たり前であり普通のことなのですが…)、吸い寄せた側、主に積極奇異型ASに対しての文句を、時間をかけて言葉として形作り、
    言葉でなければ受け付けない道産娘さんに、愚痴という形として言ったのかも…??
    拙い私の、ただの推測です。受動型ASについての想像は、積極奇異型ASの私の側から見ても難しいです。
    まあ、自己評価の下がっていない、状態の良い積極奇異型なら、むしろ生意気な、と、ムキになって上から目線で対抗し始めるのでは?
    場を仕切りたいし、自分のやり方を押し通したいですからね。
    強く不安を覚えるのは、むしろ受動型ASの人の場合だと思います。
    ****
    >積極奇異の弟と受動の父は、「目と目で通じ合う」といった関係ですが、どうも弟の方は居心地が良いようには見えませんね。
    >ADHDから見ると、言語を制限され、苦痛を強いられてるように見えます。
    >(弟は父を尊敬しているそうですが…)
    ……。
    積極奇異の弟さん、おそらく苦痛でしょうね。
    私は、アイコンタクトをする事が困難であり苦痛ですもの。
    私は、耐える、我慢する、というやり方しか知らなかったので、
    弟さんの、尊敬するという言葉、そのもう一つの意味は「服従するというやり方で耐えている」という可能性があります。
    積極奇異型ASの感覚を書くと、「私は、自分が認めた人間しか尊敬しません」ね。
    本当に尊敬した人間なら、私の方から積極的にコミュニケーションを取りに行きますよ。それもかなり奇異にね。

    • 道産娘
    • 2012年 10月 18日

    Paul Carpenterさん
    「目と目で通じ合う」という言い方は語弊がありましたね。恋人同士みたいだし…
    さーこさんの言うように「アイコンタクト」か、「目で躾る」という表現が的確ですね。
    そういえば、弟は友達とルームシェアするという話があるようです。
    彼女(おそらくジャイアン)もいますが、今は仕事が一番らしく、結婚も同棲も考えられないと言われたとか。
    飲み屋の話ですが、(話の内容に関わらず)聴覚過敏持ちのASの人は、話し声にイライラすることがあるかもしれませんね。
    ASの知り合いとよく飲みに行くのですが、居酒屋に小さい子供連れて来る客に「うるさい」と怒ってました。
    (よく店員さんにクレームつけてたので、居酒屋に子供を入れさせるな!という、雰囲気の悪さを指摘したのかもしれませんが)
    飲み屋ですし、他の客に絡んだりしなきゃ問題無いと思いますよ。

    • 道産娘
    • 2012年 10月 18日

    さーこ(AS)さん
    >となれば、沈黙とは、否定か威圧か拒否か…、などの意味として相手のASに伝わる事になり、
    沈黙、イコール、「ただ単に、思考している最中の状態であるだけ」とは、捉えないはずですね。
    これは思い当たります。
    私はよく、疲れや体調が悪いとき無口になるのですが、その時ASの人から「自分のせい?」と聞かれたり謝られたりすることがありました。
    >まあ、自己評価の下がっていない、状態の良い積極奇異型なら、むしろ生意気な、と、ムキになって上から目線で対抗し始めるのでは?
    場を仕切りたいし、自分のやり方を押し通したいですからね。
    弟の外の顔はこんな感じです。
    >「服従するというやり方で耐えている」
    父の前ではこうかもしれません。
    弟は父に尋ねたいことがあっても、母に「聞いてくれ」と頼み、父もまた母に尋ねるといった感じで…お互い母を通訳代わりにしながら、自分達は最低限の非言語的なやり取りしかしません。
    うーん、これがAS同士のコミュニケーションなんですかね。
    弟の方は、苦痛になったらその場から立ち去るので(主に車の中で喫煙)、大丈夫だと思いますが…
    >ASは、情緒的フォローが全く無い状態で家を出ても、自活するには厳しすぎるんですよね。
    「情緒的フォローの必要性」
    これはどのタイプのASにも共通してると思いました。
    「受け入れて欲しい」「必要とされたい」という気持ちが強く、その気持ちを原動力に日々頑張れる人が多いですね。
    知り合いは身体症状で苦しみながらも、愛着相手のために仕事を頑張ることを生き甲斐としているようです。
    まあ、愛着相手の愚痴を言うことも多いですが…仕事や病気の愚痴に比べると、なんだかいきいきして見えますよ。
    やはり「かけがえの無さ」があるからでしょうね。
    ドライで人に執着しないADHDには無い感覚だと思いました。
    積極奇異の方の意見、ほとんど伺う機会が無かったのでとても参考になりました。
    ありがとうございます。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 18日

    道産娘様
    特に、お母様の精神的苦労と疲労をお察しします。
    ASは互いに「非言語的なやり取りが自分のルーツであり、特に、自分と通じ合えるAS同士の人たちにとっての自然で当然のやり方なんだ、と、骨の髄まで思い込んでいる」ので、
    「とてつもなく狭くて小さい同胞同士の世界の中でこそ生きられる、と思い込める世界観の持ち主」だと、基本的には思っています。
    誰かを通訳代わりにするというのは、”もうこのやり方しか残っていないんだよ”、という、自分勝手なAS的発想による「最後の手段的やり方」なんですよね。
    しかし、このような通訳してもらうやり方になると、
    AS本来のやり方(非言語的やり方)の側から見ても、言葉に言い表せないような漠然とした不自然さを感じ、
    「でも、これでコミュニケーションが取れているんだから我慢する」という、倒錯した事態になります。
    (ADHDの側や多数派の側から見ても、理解しがたい不可思議な事態に見えるでしょうね。)
    そして、通訳してくださっている人が、もうこの関係は続けられないと拒否してその場から永遠に去ったとしたら、また非言語的情緒的な関係に戻ります。
    (ちなみに、通訳の人に対する感謝の労いの言葉や行動は無しです。(AS的本音は「やって(通訳して)当たり前」。)これは酷すぎるんじゃないのかな…(汗))
    積極奇異型ASは、人と一緒に共同生活を送るのが困難で苦手なので、
    弟さん、ルームシェアの現場でも対人トラブルを起こしそうですね。
    まぁ、自分が納得しないと変わらないので、
    「弟は、自分とタイプの違う人間と共同生活をするにあたっての分からなさを、今、生まれて初めて体験しているんだな」、位の目線で見てやってください。
    (続きます)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 10月 18日

    (続きです)
    >「受け入れて欲しい」「必要とされたい」という気持ちが強く、
    自分にとってうまく行かない体験が続くと、上記の気持ちがますます強くなるみたいですね。
    私は、様々なタイプの人たちに会う機会を、定期的に、あえて自分の予定に入れて参加し、言葉で自己紹介したり、言葉で励まし合ったりもしていますよ。
    今年の夏には、様々な人の協力によって、ハンドトリートメントのボランティア活動をすることも叶いましたし、
    一緒に勉強した仲間と連絡を取り合って、ランチに行ったりもしますね。
    また、協会のセミナーや、耳鼻咽喉科の先生のセミナーに行って、医療関係者、サロン経営者、スクール講師の人たちや、スクール卒業生、他協会の人たちなどと一緒に、真剣に勉強したり、言葉で自己紹介し合ったり、
    アロマテラピーを安全に実践する者としてがんばっていこうねと励まし合ったりもしています。
    愛着の存在だけではないというところが、他のASと違うところかもしれません。
    道産娘さん、こちらこそありがとうございます。
    受動型ASの感覚を、一度、本人以外の人に伺ってみたいと思っていたところだったので、とても参考になりました。

    • JET
    • 2012年 10月 31日

    >例えばAS同士、分かっている同士、通じている相手にはお互い「妥協は出来ない」という事実だ。
     この関係にADHDが入ると途端にASは容易に妥協できるというのが表面上の事実の不思議さだ。
     これが何故なのか? が今考え続けているテーマだ。
    ASは求めているけど本来求められるのは困ると。
    ADHDは本来出すのがメインで求めないと。
    そういうことですか?
    大雑把ですが・・

    • JET
    • 2012年 11月 02日

    >逆に言えば受動型ASの場合は、「理解」即「全面的な受け入れ」という論理になっているのだ。
    通じている相手はすでに自分と同じ?自分に譲歩はいらない。
    とも言えますか?

    • さーこ(AS)
    • 2012年 11月 02日

    JET様
    >通じている相手はすでに自分と同じ?自分に譲歩はいらない。
    >とも言えますか?
    積極奇異ASの私から見ると、受動型ASはそういう風に見えます。
    通じている相手、とは、つまり、自分(そのもの)である。
    のだから、「自分そのもの」に「譲歩」は「ない(不能)」。
    受動型ASは「自分そのもの(通じている相手)を求めている」のかもしれません。

    • JET
    • 2012年 11月 02日

     さーこさん
    そうでしたかー。なかなか難しいですね。
    私は見た目では人がよくわからないので、観察するにしても「言葉」と「動き(行動)」から考えていくしかないのでちょっと遅いんですけど、また考えてみます。
    ありがとうございました。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 11月 03日

    JET様
    私の説は、論理に直観を重ねたものとしてそのように考えられる、というだけのものなので、
    JETさんの言うように、「言葉」と「動き(行動)」から考える余地があります。
    しかしながら、一考の価値があるのではと思い、コメントさせて頂きました。
    私も、完全に分かっているわけではないのですよね。なかなか、難しいです。
    私もまた考えてみますね。

    • 道産娘
    • 2012年 11月 30日

    記事の内容と少しずれるかもしれません。
    受動弟も積極奇異弟も他のAS知り合いもそうなのですが、よくASの人が「なんか、こうこうこうでこんな感じなんだけど…」と細かく説明した後、ADHDの私が「もしかしてこう言いたいの?」とASの人の話の内容を要約して答えると、「そうそう!」とハイテンションになって、その後口数が増える…というパターンが多い気がします。
    私はジャイアンACで自分の事は分からなくても人の事は合理的に考えるため、ASの人とはこう言った会話が多いのですが、もしかして「言語的」に通じ合えた(分かり合えた)瞬間なのかも?と思いました。
    単純に「ASの細部にこだわる特性」と「ADHDの大雑把に全体像を捉える特性」からこう言った会話になるだけかもしれませんが、違う特性同士でも需要と供給の関係となり、お互いに「言語的に理解し合う」事が出来るのが面白いですね。
    ちなみに、AS知り合いのお母さんはADHDが多いので、元々非言語より言語でのやり取りに慣れていたのかもしれませんね。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 11月 30日

    >もしかして「言語的」に通じ合えた(分かり合えた)瞬間なのかも?と思いました。
    私の場合だと、細部にこだわりすぎるあまり、話しながら軽く混乱している状態、もしくは混乱しながら話している状態に高確率でなるため、ADHDの人と【「言語的」に通じ合えた(分かり合えた)瞬間】というのがハッキリと実感できます。
    (仕事中は少しでも混乱を抑えるために、緊張しながら「思考」しているため、とても疲れますね。)
    私の母はADHD傾向のため、「ADHDの人と、感情(もしくは非言語)のやり取りができないのはそういうものなんだ、と思っている(慣れている)」ので、私の中では言語のやり取りが日常ですが、ADHDの親と2人きりの状態になると疲れます。
    現在同居している、AS兄、多数派嫁、ADHD母全員が、私の障害とASの傾向を知識として知っている状態にはなります。
    時折、それぞれ自分自身の人生についての葛藤が見え隠れする時がありますが、ASの私としては、自己評価が下がらず依存もしないという関係を模索しているせいか、家族関係は、まぁまぁ円満ですね。

    • 道産娘
    • 2012年 12月 01日

    なるほど…基本的にKYで他者を感じないADHDの私は、「言語」のやり取りでお互い理解し合うのが自然なやり方なんですが、他者の感情を敏感に察してしまうASの方にとってそれは容易い事ではなく、慣れていてもかなり神経を使うのでしょうね。
    もしかしたら、私の「相手の言いたいことが分かった!」という(爽快感に近い)気持ちを、相手のASの人が感じ取りテンションが上がった…ということかもしれませんね。
    何となくASの人(特に受動型)には私の喜怒哀楽が伝染しやすく、「(表面的には)自分を映す鏡みたいだ」と思うときがあります。
    (これがASの人の近さなのかな?)
    ところで、ふと疑問に思ったのですが、「分からないのだから仕方がない」という感覚は、ASの内と外の「外」の感覚に近いのでしょうか?
    ちょっと乱暴な言い方になりますが、愛着相手に敵意を感じるという事なんですかね?(^_^;)

    • さーこ(AS)
    • 2012年 12月 01日

    私は積極奇異型なので、受動型とは感覚が異なるとは思いますが、愛着を持つ相手というのは、
    1.「分かる事ができる、と自分の中で決めつけることができる相手」(ASで言うところの、限りなく外側に近い「内側」)
    2.「分類不明の相手だけど、なぜか惹かれる相手」(初めから「外側」)
    両方のパターンになっています。
    1は、「盲信の場合(庇護をもらえる、など、なぜか最初から思い込んでいる場合)」と、
    「その盲信によって、(自分勝手な)相手への期待などのフィルターを重ねた状態での観察による、推測の積み重ね」によるパターンが多いかもしれません。
    (盲信=限りなく外側に近い「内側」)
    2は、単純に驚いている場合です。(=初めから「外側」)
    「おお! 私の理解を越えている!」
    (…少し脱線しますが、書いていてなぜ、私が私が、になってしまうのだろう…( ̄- ̄;;)超上から目線に見えてしまい、恥ずかしくなりますね…)
    ジャイアン母ADHDは、私の中で1のパターンです。
    乱暴な言い方をすると、
    >「【私の方はあなたの事を分かった(と私の中では思っている=実は盲信)のに、あなたの方は私の事を】分からないのだから仕方がない(=盲信による敵視から来るうらみ)」
    …という事でしょうかね…( ̄- ̄;;)
    まぁ今は、多数派嫁とAS兄も一緒に同居しているので、私も盲信の世界から正気の状態に返りやすい環境にある訳ですが、そうそう簡単に納得できるものではなく、
    自分と他人の境界を、自分で頑張って何とか意識的に切り分けている状態です。

    • さーこ(AS)
    • 2012年 12月 01日

    >基本的にKYで他者を感じないADHDの私は、「言語」のやり取りでお互い理解し合うのが自然なやり方なんですが、
    なるほど…。「言語」により他者を感じる、これがADHDの人には自然なやり方なんですね。
    しかし、その「言語」に、AS的に察してしまう盲信が入っていたら、当然意味不明になりますね。
    >もしかしたら、私の「相手の言いたいことが分かった!」という(爽快感に近い)気持ちを、相手のASの人が感じ取りテンションが上がった…ということかもしれませんね。
    これは、高校の時にやってしまった事があります。
    依存型ADHD情緒障害傾向の同級生が感じた、「さーこの言いたいことが分かった!」という(爽快感に近い)気持ちを私も感じ取ってしまい、一緒になって盛り上がったところ、
    後になって、実は私の方は事態をよく理解していなかったことが発覚し、相手に憤慨された事があります。
    喜怒哀楽が伝染しやすい、これがASの、人の近さなのかもしれません。

    • 道産娘
    • 2012年 12月 03日

    さーこ(AS)さん、この説明とても分かりやすかったです(^人^)
    >1.「分かる事ができる、と自分の中で決めつけることができる相手」(ASで言うところの、限りなく外側に近い「内側」)
    2.「分類不明の相手だけど、なぜか惹かれる相手」(初めから「外側」)
    これまで「愛着」イコール「味方・内」(逆に言うと「愛着以外」は「敵・外」)という思い込みがあったので、2番目のような意味の愛着があるとは知りませんでした。
    ASの人の中に、「愛着」と「無視」の他にもう一つ微妙な距離感(馴れ馴れしくて少々口うるさいけど、始終一緒にいる訳ではない)の計3パターンで接する人がいて、これは愛着と無視のどちらに当たるのだろうと不思議に思ったのですが、さーこさんの2番目の説明に当てはまるかもしれませんね。
    (中には、ただ単に「はっきり言わないと伝わらないから」という理由でこう言った接し方をするASの人もいると思いますが)
    コメントありがとうございます。

    • JET
    • 2012年 12月 24日

    >では対ADHDであれば何故妥協できるのか? 何故あきらめられるのか?
    私は時事動向を見たり発言実験のためにツイッターをやっとりますが、最近ASらしきフォロワーさんに「繭に入っている」と評されました。この方は繭が無いので欲しいのだそうです。また「世界観ができた」とも言っとりました。
    う~む

    • 道産娘
    • 2012年 12月 25日

    そういえば、このブログにコメントする方の中にも何人かいましたが、自分を合理的強迫的ジャイアン(とKYのび太)だと思い込む受動型ASが多い気がします。
    表面的な特徴が似てるからというのもありますが、幼少期から愛着のADHD母親の影響を受けて、母親の考え方と自分の考え方を混同してるのかなと思いました。
    私も未だに自分を「受動型ASかも?」と思うことがありますが、人を近くに感じられず、他者と交わったり自分と他者との境目が分からなくなるという感覚が分からないので、ADHDで間違いないかな(^_^;)
    「一見合理的でも、実は中身は矛盾だらけ」の理論でもなく、「知識の押し付けだけで、冷静に自分の頭で考えることをしない」理論でもない、本当の意味で合理的な思考を身に付けるには、まだまだ時間がかかりそうです。
    他人に厳しくできず、自信を無くしてますます自己評価を下げる…という悪循環に陥らないよう気を付けたいです。

    • JET
    • 2012年 12月 29日

    私も色々と考えましたが、自分はADHDだと思いますです。
    >では対ADHDであれば何故妥協できるのか? 何故あきらめられるのか?
    ↑↑シツコイ
    何故でしょうね・・。しかし周囲の人には聞けないです。
    怒られそうだなと思うのです。

    • JET
    • 2013年 1月 22日

    ASには自分がほしいという望みが
    ADHDには望みがほしいという自分が
    あるのではないか。。。

    • JET
    • 2013年 3月 05日

    よっつ上のJETのコメントのフォロワーさんはフックから展開する認知でADHDでした。経済学クラスタでADHDは経済学も多い印象ですね。(いとこののび太三人もそうである)私の周囲の人みんなADHDではないかと思います。現実にそれしか寄ってこない模様。情緒的にスーカスカですし。ASの方のお役に立てないようで申し訳ございません。

    • JET
    • 2013年 4月 11日

    最近孤立型さんとの違いが分ってきたんですが、上記フォロワーさんは機械学習の院生になって、もやっとしていたところ、
    全世界が敵でも居場所を作りたいと言うようになったのでこれは孤立型さんであろうと思いました。
    他の人のつぶやきをふぁぼる(=お気に入りに入れる)という行為は基本自由なルールなのですが、この人は怒るのです。心の中に、入ってこないで!という感じでリムーブしていってしまいました。ブロックはされていないので私はフォローしたままで見ています。ACから抜けそうな感じがするのです。繭が欲しい、ということは対人被影響性があるのだろうと。研究室に他の人がいると居るだけでうざいというかうるさいとかまぶしいとか注意(=主張)は出来る。そして完璧な繭に入っているように見える私はそういうKYなのだろうということですね。

    • JET
    • 2013年 4月 12日

    意味不明かな
    完璧な繭=対人被影響性が無い(に等しいKY)=のび太 です
    もしかしてジャイアンと付き合ってるのもいじめに気づかないということ?ちゃんとあれですよ。先生みたいに自己責任を担保してる人達だし。だから付き合えるのです。楽なのです。唯一私から守らなくてもいい人だと思ってる。
    私はまだ、相手を自分からは守ろうという気持ちは残ってる。
    守るといったらそれしか出来ないはずなんだ。でも結局自己満足に過ぎないかもしれないということで。傷つけるまでは分らないですから。
    母ジャイアンと外出すると、知らない人は「お姑さん?」と聞いてくる(母のいないところで)が・・。いじめのように見えるかもしれん・・。

    • あかり
    • 2013年 5月 26日

    後藤先生 初めましてね。挨拶をするの忘れてごめんなさいね。
    AS同士は妥協できないについて
    私の友人が以前、精神デイナイトケア職員兼看護をやってこの言葉を言っていました。「AS・ADHDだけでなく障がい者同士は、トラブルが多いね。難しい。」
    アルコール依存症、てんかん、うつ、躁うつ病、身体、老人などが居てどううまくいけるか困難です。
    障がい者同士も妥協は難しい。ASなども同じ気持ちです。
    今は、老人デイサービスで働いていますが辞めてから関わらないようにしている。残念です。もし、1~2年前にYANNBARU先生の事とブログを教えていたら早く気が付いた。
    ASなどの障がい者同士がジェラシーが強い。(一部です。)
    トラブルが多い。トラブルに巻き込まれやすい。デイナイトケアでもナイフ&傘を振り回した障がい者もいました。
    大人・成人の発達障害者について沖縄などの取り組みが進化しないとも言っていました。沖縄などの大人・成人の発達障害者について苦労は続きます。不安です。 

    • URURUN
    • 2015年 7月 10日

    こんばんは この前間違えて本名で弄られのび太症候群に投稿してしまったのび太です(・ω・)
    現在大学でおそらくこれに非常に近い状態になっていると思い、コメントさせていただきました まず、積極奇異の青年から 彼はいつも真っ黒なスーツとグラサンの強面で、周りから一目置かれております 感覚過敏があり、将来起業して金持ちになるという中心志向も存分にあり、さらにはヤクザ流心理術なる書籍などを読み漁っていて、本当に自己愛性人格障害らしき学生の嘘を目や体の動きで鋭く見抜き、「全部読めてんだよ つまらんやつだ 目が斜め上にばかり向いていた あいつの言ってることは大半が嘘または誇張 起業した時の古参メンバーには絶対加えたくないな 攻撃性は感じなかったがあれは仕事で犯した失敗を他人になすりつけるタイプだ」などと人格障害の知識など全くないのに、人格障害の本質らしきところを鋭く言い当てるなど、19歳とはとても思えない化け物じみた能力を有しています 不思議なのは、時間や予定変更があっても、パニックになったとかは見たことがないです かと言ってジャイアンにしては、服装や顔つきや雰囲気がそうは思えないので、積極奇異だと勝手に僕が思っています(次のコメントに続く)

    • URURUN
    • 2015年 7月 10日

    (続き)受動型ASDの青年 積極奇異の彼とはちがい、大人しめで視線恐怖あり 幼い頃に診断されてるようです 憧れのアニメキャラクターがいるらしく、そのキャラクターになりきったつもりらしいジャージを太っちょの体にいつもほぼ同じやつを着てくるのですが、あまりのダサさに僕と積極奇異の彼を絶句させております 独自にノートに古代語のような五十音を作ったり、絵が好きで黒板や消しゴムの後などの汚れを見るとそれに反応して恐竜や怪物らしき独特なセンスのイラストを描くなど、サヴァンの片鱗のような能力も見られます(普段彼が描いている漫画は汚れから都合よくそのシーンを生み出せないため、有効利用が今の所できない) それで、その彼はやりたい夢はあるけど、やはり道筋をちゃんと考えられないようで、研究室もここ絶対行きたいと言って聞かないのに、単位もギリギリです
    懐いた相手やメールなどでは省略語や独自の造語を作ったり、何より受動型らしく、他人が自分が言わなくても欲しいものをくれるのが当たり前、という思考を自分でも言っていたので、最近そこらへんのことで会話が成り立たん甘えるなクズと前述の積極奇異の怒りを買っております(さらに続く)

    • このみ
    • 2016年 9月 26日

    最近、公共施設に通い年下がADHDを持っている人が通っていてズバッと平気で傷をつけやすい人です。 15才以上で平気で態度の悪いカッコしたり、上から目線です。 年上に対するリスペクトが出来ないです。 変わった子です。
    特に、ASやADHDなどがネット依存症やアルコール依存症になると怖いです。
    凄く、AS同士でなくASやADHD同士がは妥協できない。難しい。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP