さてここまでのローレンツの攻撃の考察から、ジャイアンの自己分析に戻ろう。
私は自分もその一人として、「ADHDは個体認識が出来ない」ということだろうと最近考えている。
私もそうだが「顔を覚えられない」「名前を覚えられない」というADHDの人は多いだろう。
これは 「漢字を覚えてもすぐに忘れる」とか「数字が頭に入らない」という「学習障害」の人の経験に非常に良く似ている。
これは「他者」を直感的な経験として感じられない、認知できないことの結果ではないか?
ジャイアンにとって「他者」(実は「自分」も)は、一種「抽象的」なものだ。
「そこに居る誰それさん」という名前を持った人間として経験するのとは違い、例えば 「社会的地位」や「経済的な豊かさ」「自分にとって有利な相手かどうか」などの「諸特徴、表面的なレッテルの寄せ集め」としてしか体験されず、ローレンツの記述にあるハイイロガンの「勝ちどきの関係」 のような人格的(情緒的といったほうが適切か)な他者との関係が形成できないと私は思う。
その何よりの証拠が、ジャイアンの発想の一大特徴である「表面的な認知」にある。
私の母は全ての社会現象を「学歴」で説明していた。私は中学時代から「そんな馬鹿な」 「あまりに表面的」とあきれながら聞いていたが、結局表面的な「学歴」や「公務員志向」などの ことしか考えないで子育てをしているジャイアンの親は多いのが悲しい現実である。
逆に「子供の細かい心の動き」や「親としての責任」を全く認識していないとしか言いようのない言動が多く、実際子供の多くはこの「心無い」発言によってACになる。
先日の書き込みM氏への私自身の反応も同じだ。 「行動を見る」、「責任にこだわる」のは相手自体が見えていないからに他ならない。ネット上で実際見えない のであるが、実はネット上でなくても我々ジャイアンは同じ発想で行動する。
ADHDは自分自身も相手も抽象的な「個人」と「個人」として認識するのだ。
同じように「中心志向の他者との比較」も説明できる。「一番になる」「優位に立つ」という表面的な 特徴でしか「個性」を認識できない。
ジャイアンの「自己愛性人格障害」的な部分、「表面的さ」は ここから来るのだろう。
私も実体験としては正直分からないのだが、「無条件に人はそれぞれ違う」とか「ただそばに居る」 ことの意味は感じられない。
一方でASは情緒的な人間「誰某氏」だけを見て、逆に「責任の主体」とか「自己決定権」などの抽象的な 意味との連関を認識できないと考えると説明できる。だから直接相手との二者関係の情緒的な関係に終始することになる。
多数派は基本は個体認識に基づいた非言語的な他者との関係の中で表情やジェスチャー、声の大きさ や言葉のトーンなどの動作を通じてお互いへの攻撃の意志は無いと表明し合いながら「空気」を形成している。
当然攻撃衝動は表に出すわけにはいかず、空気でコントロールされる。
ただ時として(あるいは頻繁に)ニシンの無名の群れの行動のような単なる集団追随の行動や、 ネズミのようにあるレッテルを持つ集団への激しい攻撃衝動などの行動が混じっているというのが一番考えられる説明だろう。
ある情緒障害型依存型ジャイアンの少年が、人とは? の質問に「いつ自分に襲い掛かってくるか分からない」ものと話していたことが印象深い。
我々には「空気」の和平は無縁なのだ。
鋭いです。
だから誰に対しても「平等」に接することができるんです。
自律した多数派の人が、人によって態度を変えないのは
「自律しているから」
ADHDの人が人によって態度を変えないのは、「他者を感じていないから」
ADHDにはできないけど、多数派の人ができる
「人の心の操作」「人をだます」「人によって態度を変える」「人を見抜く」というものは突き詰めて考えると人を感じているからなんでしょう。
あるadhdの子と、いわゆる八方美人な多数派の人のことに関して話していました。
そのadhdの子は、その表面的な姿をみて、それが、その子の性格だと言ってました。
僕も心理学を勉強する前までは、誰にでも笑顔ないい子だなという印象でした。
八方美人は単に自己不在なだけなんですけど、adhdには知識として勉強しない限りわからないことなんです。
多数派の人にこの八方美人の子のことについて喋ると
皆、「よくわからない子」「絶対何か裏がある」「本当の友達いなさそう」と言ってました。
他者を感じているんですね。
adhd,ASの人は人によく騙されます。人を感じていないからです。相手の心を見ていないからです。
先生も、精神科医として人を見るときは、おそらく「知識」
で見ているんでしょう。
僕も今は「知識」があるので、人を見抜くことは以前に比べてできるようになったけど、昔は絶望的に「見抜く」ことは
出来てなったです。
3つの記事、ひとまずザッと読ませていただきました。すごい力作論文を読んだような迫力を感じました。本質にぐいぐいと迫っている感じです。
これからまたじっくりと読ませていただきます。
いくつもうんうんとうなずいてしまいました。
私にとっては、自分が納得できるかどうか、そのことが腑に落ちるかどうかが、全てを握っています。
勉強は、
青春映画のような大学生活がしたいから最下位近辺から1番に、
休みの多い公務員になって漫画を描こうと決めたから、
圏外から人間捨てて猛勉強して合格。
それなら最初からしておけと言われそうですが、
納得していないとそんなこと、とてもできないです。
人間関係も、
他人が必要と思うと「みんな友達」状態になり、
疲れて嫌になったら引きこもり。
友達一杯からゼロまでを何度も繰り返してきました。
私には、空気なんて何の役にも立たないのです。
ひたすら納得できるか、腑に落ちるか、
それしかありません。
名前と顔は本当に覚えられません。
自分の親の顔も、実は写真の顔を思い出せるだけで、
リアル、動いている顔は思い出せません。
髪型、全体の雰囲気で識別していただけで、
顔自体は把握していないのです。
顔を覚えようとすると、
パーツが全部バラバラになって、
どこを見てどこをとらえて、どう覚えたらいいのか分かりません。
覚えようとよく見ると、よけいにバラバラになってきます。
また、「無条件に人はそれぞれ違う」といわれたら困ります。
バラバラになって人を把握できなくなります。
概念崩壊です。
つい最近まで自分以外は、みんななんでもできる完璧な人だと信じていました。
その完璧な人達が、私を怒ったり、間違ったことをしたり、言ったりするのは、それは全て悪意があるからだと思っていました。
そうでないと完璧な人がそんなことをするはずがない。
悪意に満ちてわざとそんなことをする、
そしてそれは永遠に続くと思い、
心底人が恐かったです。
まさかその人が苦しんでいるとか、
その時たまたまイライラしてただけなんて想像も付きませんでした。
「攻撃性」と「個体認識」がこんなに関係があるものだとは全く知りませんでした。
今まで「個体認識」ということを考えたこともありませんでしたが、人間を含む動物にとって、とても重要なキーワードだということを学びました。
>我々には「空気」の和平は無縁なのだ。
「せいぜい一時停戦が限界かもしれません」
と・・こんなコメントが思いついたのですが、それは私がやっぱりジャイアンだからでしょうか。
それはともかく、
「チームはひとつ」
この言葉の意味を、長い間感じることができませんでしたが、最後に約2年ほど在籍したチームのコーチが教えられた気がします。
大会で入賞した子供たちと私たちに、コピーした賞状を入れた手作りの楯をプレゼントしてくれました。
少年団でいつもおこなっているので、子供たちと、ついでに主婦チームにもと、軽い気持ちだったようですか、私は水に触ったヘレン・ケラー状態になり、楯を手にもったままフリーズしていました。
「これ、なに?」と考えに考えてようやく、ともに勝利を分かち合い、その喜びを表現するために手作りの楯を作ったのだと、人の心を感じたのです。
これは仕事や少年団で忙しい中、さらに時間をつくっておこなった和平メッセージの送信です。(今頃、受信終了かよっ!)
多数派はほんとうに平和を愛しています。平和を愛しているから平和のために戦うのです。
和平メッセージ送信の重要性を分からず、心を閉ざした私の外の世界は戦場でした。
「空気」の和平には無縁でも、「会話」が苦手でも、挨拶ぐらいはストックできます。
「大丈夫ですか?」「大丈夫よ。」こんなささいな会話だけでも、世界は平和になることに、今、ようやく気付きました。
先生の当事者ならではの深い洞察ですね。
ご自分も他者も一種抽象的な存在だとのことですが、その感覚でここまで人やご自分を鋭く洞察できることがすごいと思います。表面的な認知が一面の特徴だとしても、私は何か先生に鋭い直観があることを感じます。
あいかわらず私はあれこれ思考(妄想)すると、壇上に上がって「世界平和」とかいう始末です。
夜の学校の体育館の前で、たばこふかして悪口三昧とか、主婦グループの井戸端が汚らしいとは私目線。
子供も旦那もほったかしにして、午前様どうよって感じです。
確かに、「主婦」だからという理由で仲間に入ろうをしていました。
これは自己の表面的な認知のせいですか?
それより、「軽蔑」「嫌悪」しながら接近するなんて、まるでいじめっ子です。
・・・なんか混乱してきました。
>ある情緒障害型依存型ジャイアンの少年が、人とは? の質問に「いつ自分に襲い掛かってくるか分からない」ものと話していたことが印象深い。
この少年の気持ち、よくわかります。
複数の人と行動をともにすると、自分だけガラスケースの中に取り残されているような感覚です。
友達同士の話し声はちゃんと聞こえて、内容も理解できるのに、何故か会話についていけない。
口を挟んではいけないと思い、ただ相づちをうって愛想笑いするしかなく、いつも居心地の悪さを感じていました。
自己診断…多分情緒障害型ジャイアンですね。
ACと情緒障害(子供の頃、ハゲるまで髪の毛を抜いたり、白い部分が無くなるまで爪を噛む等の癖がありました)だけは確定しました。
ACの話をジャイアン母にしましたが、やはりジャイアンらしく、自分の優位を保とうと一生懸命自分を正当化してるなという印象です。
「子供の立場からは自分が悪いと思い込み、我慢するしかない。」と言っても、「子供が自分の立場を自覚できるわけがない、そもそも自覚できる余裕があるのに自己評価が下がる訳がない!」と返される感じで、あまりのジャイアンっぷりに笑うしかありませんでした。
ただ、口では自分は悪くなかったと言い放っても、心の中にACを認めたくない気持ちもありました。
「親や環境のせいにする自分が許せない。親に振り回されていただけで、本当は自分の意思など無かったことを認めたくない。」という気持ちが根強く残っていました。
母は母なりに一生懸命私を育ててくれたのだと思いますが、やはり自分には「話を聞いてもらう環境」が必要だったと、母と話してみて改めて感じました。
父からの性的いたずらを黙って受け入れた時、きっと何も考えずにフリーズしてたんでしょうね。
その時の自分の気持ちを全く覚えてなかったので、もしかして父を誘惑してたのではないかと、ずっと不安でした…
いまだジャイアンの攻撃性を自覚できず、自己突っ込みも微妙なので、回復までまだまだ時間がかかりそうですが、少しずつ自分の気持ちを言語化して伝えるよう頑張ります。
(この場をお借りして決意表明)