ADHD関連

感知と察知と反応

 発達障害がKYである(空気が読めない)ことの意味として、細かく分析すると以下の3つの要素に分割することが出来る。

 A「主に非言語的な周囲の人の表情や言い方などの雰囲気を感じて直感的に感知する」こと。「感知」と呼ぼう。

 B「感じ取った空気(上記の非言語的な雰囲気等の)の情報から、多数派流の状況理解を(自覚するか否かはともかく)察知する」こと。「察知」と呼ぼう。

 C「上記の察知に基づいた多数派流に状況を正確に弁えた行動を取れる」こと。「反応」と呼ぼう。

 「無視されても気付かない」情緒障害や動作性IQの特定のタイプのADHDは、「感知」自体が出来ない。「天然」と呼ばれるあっけらかんとした一群だ。

 「ACに似た自己評価の低下が重症になるADHD」は、「感知は出来るが察知に失敗する」タイプで、結果の反応が外れたことは感知できるので、特に思春期以降に自己評価が低下することになる。

 「ジャイアン」群は特殊な形になる。「自分の立場が有利になるか否か」に関してはしばしば多数派よりも鋭い感知と察知が出来る反面、自分の反応の周囲からの結果に対する「予知ないし想像」がまったく出来ない。これを私は「状況理解の非対称性」と呼んでいる。

 「AS」は大きく「オタク的マイペース群」と「過剰反応群の二つに分けられると私は考える。

 ASでも「感知」しない一群は見られるが、実はよくよく見れば、愛着の対象に関してだけ感知できたりすることも多い。愛着の対称でない相手への無関心の結果感知もしないように見えることを能力的な問題と考えるべきではない部分がある。

 ASの場合は、感知は出来ても、「察知」は99パーセント「AS流」なので、表面上は「普通に」振舞えても、実は多数派的な尺度で言えば「過剰反応」になっていると私は考える。

 AS流の「察知」に基づき、AS流の「反応」をし、またASの人はAS流が普通であると確信していることが多いので、結果的に「KYに見える」ことになる。「多数派に合わせる必要性を認識しないで合わせない」ことを「空気が読めない」と表現されていることも実際多いだろう。

 「オタク的マイペース群」のASの人は、人以外の分野(例えば音楽等の芸術や技能、フィギュアや昆虫、恐竜、車など)に興味が偏り、ごく少数の愛着の対象以外には人間にほとんど関心を示さないので、結果的にKYに見えるが、「感知」も出来ないのとは違う可能性を想定するべきである。

 「過剰反応群」は、表面上はAC(アダルトチルドレン)に酷似する周囲の人の非言語的な表情、動作や言い方などへの過剰な反応が特徴的である。これは「ASのAC」なのではなくて、実はASのままでAC的なのだろうと私は考える。
 「空気を読みすぎる」という結果となり、表面上は「境界性人格障害」と呼ばれる一群に酷似する。私は「受動型AS」と呼んでいる。

旧「あおぞらクリニック」に通院しておられた方々へ

 あおぞらクリニックは閉院になりました。当面4月、5月本部町の「ノーブルメディカルセンター」まで来られる方は、ノーブルの事務の方で予約を取り直しています。ノーブルの事務まで電話で予約してください。
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コメント

    • あまがえる
    • 2010年 4月 18日

    「オタク的マイペース群」に分類されると思います。他人のことはどうでも良いですが、存在が気になって仕方ありません。電車に乗るととても疲れますし、横断歩道で人が集まって信号が変わるのを待つのもうざくてしかたありません。

    • YK
    • 2010年 4月 18日

    やっぱり「ジャイアン」ですねぇ。
    Aはできると思うんですが、
    たとえば・・・。
    先生が「自由に何でもしていい。」と言った。
    よーし、やってやれー!と、思いっきり走り回った。
    気がついたら、先生が笑顔で私の顔を覗き込んでいた。
    (夢中で走りすぎて、我を忘れて止まらなくなっていた。)
    授業の中で、自分のロアーセルフを表現する場があった。
    「先生に対するものでもいいですよ。」と説明があった。
    それで、「どうして落としたんだ。また落とすんだろう!」と恨み言を泣きながら言ったら、警告書がきた。
    (いいって言ったじゃないかぁ・・・涙)
    これって「状況理解の非対象性」なのでしょうか?
    ただ自分の都合のよいように誇張して受け取っただけ?

    • 忘れました
    • 2010年 4月 21日

    ジャイアンの場合ABCは、
    他のADHDよりも「オタク的マイペース群」よりなのではないかと感じました。
    つまりジャイアンはAもBもできてるけど
    自分にとって興味のあるもの(この場合「自分が利用でき人」)
    以外には関心を示さないので「KY」に見える、といった具合。
    ジャイアンにとっての他人はフィギュアや昆虫と変わらない「モノの一種」なので、
    だからこそ「自分にとって心地よい=使い勝手がいい(利用できる人)」か
    「使い勝手か悪い(どうでもいい人)」になるのではないでしょうか。
    つまり繰り返しますがジャイアンは
    「オタク的マイペース群」と似ていて「感知」「察知」はできてるけど、
    「興味のあること・もの(この場合自分にとって都合がよい=利用できること・もの)」にしか「関心」をもたないので結果「反応」が多数派と異なるのではないかと。

    • ぴよよ
    • 2010年 5月 03日

    以前、立ち読みしたことがある本に、ASが強く段取りに拘る特製のある、ある子は皿にフルーツを盛って出された時に、一目見て食べる順番がヴィジョンになって閃いた、だから大人が事前調整無く触ると怒ったという事例を見ました。
    これを応用するとしたら一部のASが、フルーツ=人類、の要領で反応してしまう特性を持ってしまったと思ってもいいのでしょうか。それなら察知から間違うしかない面もあるのかもしれません。
    この発達障碍の一面の認識が、医療的調査に基づいて出した結果であっても、耳を貸したら過剰な感情反応に付き合う責任が生じると分かったらゆくゆくは全員が逃げたくなるのが本音になっていくと思います。
    当事者ですら当事者から逃げたくなるのが現実です。
    話が逸れますがこのブログでも過去にそれを重視した空気になりました。執筆者のヤンバル先生が方針を決められることは当然としても、コメンター達がその空気すら過剰に読んで全てのコミュニケーションに過剰にドライに反応しなければ許されないかのような、強迫的な空気になった時は、正直些細な疑問を感じました。でもコメンターがこのように振り回されるのはこのブログだけではないのですよ。仕方ない特製でもあるのですが・・・。
    だからヤンバル先生がご多忙にも関わらずこの反応力の問題を完結させること無く考え続けてくださり、答えを引き出してくださったことをありがたく思っています。
    いずれ私達は自立を当てにされる一方で、全ての多数派の平穏な生活や職務に支障が出ない程度に『当事者達から自主的に心を閉じていてくれればいいのに。』と暗黙に望まれる時代が来るのかもしれません。
    すみません、続きます。

    • ぴよよ
    • 2010年 5月 03日

    すみません。
    過剰反応傾向がある者がトラブルを未然に防ぎ品格を保つ手段として、自制心は大切になっていくでしょう。
    しかし自制心を保っても保っても、足元を見られる現実も起きてくるかもしれません。それでも自制心を捨てないかどうか、揺らいで弱ったとしても捨てないでいられるかどうかも、善悪だけでは片付かず、いずれ選択の一つになっていくのかもしれません。
    私のような自覚済みの当事者も、自覚する所まで追いつめられない理由があって無自覚の当事者も、多数派に組み込まれている性格が偏った人も、純粋な多数派も、皆の存在がありそれは本来自然な現象なのに、問題はどこを切っても決して平和な状態で共存ができていないという実態。
    発達障害者の適応を考える時、ここから私はいつも目を離せないのです。
    自分の見ている現在、見てきた過去、インターネットと現実の空間で出会ってきた当事者の住む世界を見渡して、解決する足場や根源をどこに置いたらいいのか迷っていたら、足場が見えるどころか戦場が見えてきてしまった。
    そこは、誰かか誰かを恨んでいる、又は常に誰かに恨まれている状態に気付けていないと“空気”に付いていけていないと見なされる状態でもありました。
    『発達障碍は我が儘者だけでなく、感情的なだけて我が儘とは違う種類もいるのか?』仮にこういう質問が、将来一般庶民の間でされたとして。
    答えとして『感情的なのもいるけど、淡白なのもいる。』これだけの説明では多くの関係者が混乱して分かりませんね。
    どちらかがどちらになれる訳ではありません。
    しかし、両者は一緒ではありません。
    すみません、まだ続きます。

    • ぴよよ
    • 2010年 5月 03日

    いつもすみません。
    飽くまで『感情的なのも、淡白なのも両方いる。』であり、『感情的なのは調子に乗っているだけだから命じれば淡白になる。淡白なのも努力させれば感情を表に出せる。』訳では決してありません。
    根本は同じでも、両者には別物と言って良い程の違いがある支援や訓練が必要とされます。
    どちらにも別の物が必要とされるのだと思います。
    しかしこの国には両方用意するだけの財源は無い。
    それでも両方の用意がされないと、現実に私達が救われる日は来ません。
    最近は見飽きましたが、然るべきサイトを見てもどちらかの支援法が挙げられては、事情の違う者が自己都合で否定を入れてばかりです。
    違います。発達障碍と言う枠に括られても、中身には別物の生き物が何種類も入っているのです。一種類の救い方だけで全部が救われるはずがない。
    だから話を深めずに実質放置に入ったのが現在の政治ですが、本来は一種類一種類、研究されなければ私達は生きられないのです。
    私達発達障碍集団は背中を押されて押されて、子どもから青年、青年から中年に強引に差し掛かります。感情的、淡白どっちもいつかはどこかで戦力として使えなくなっていきます。なんだか下手な預言みたいですが、集団で将来、私達は余されます。
    だからヤンバル先生が苦境に立たされてることが間違っていると私は思うのです。ヤンバル先生はこの研究を国のオファーも無く無償でやってくださっています。
    それでも依存を招いたと言われ、反省までなさってる。
    ヤンバル先生の思い描いていることは正しいと思います。
    過剰なまま、淡白なまま、どうするのが正しい自立への道なのか? 分析だけでなくこれを考えてらっしゃいます。
    ごめんなさい。続きます。

    • ぴよよ
    • 2010年 5月 03日

    すみません・・・。
    未来に、発達障害の就労ガイドライン? が整備されたとして。
    ヤンバル先生も過去記事で考察してくださっていましたが。
    不注意、動作性想像力の遅滞、実行機能能力の不足、等に並んで他者の感情的状況の感知、察知も、生産力を妨げるものとして特定されたとしたら。
    私達の周囲の関係者が、ガイドラインが根付くまでは生産力の算出と情報の共有できない状態が続くと思います。
    私達は、自分の無能さすら自分で証明できない事態になりますね。準備がされないと、今よりも恐ろしいことになるかもしれません。
    両親の会話の速度が落ちるたび、遮ってもそれに気付かなくなるたび、私はそれがうわ言や遺言のように聞こえることがあります。嫌な言い方ですが、年配者という者はますます過去の夢で物を語る権利を行使できます。
    私の両親はしつこくはないですが結婚なんて「誰でも出来る。昔の人はきちんとしたんだよ。」と未だに言います。
    これに限らない、膨大な耳にカリカリカリカリ残る残響、それを言われた背景を分析して言った理由を理解して、再燃してももう一度言い聞かされてなだめられてゆっくりゆっくり神経のベクトルを他へ向けながら治めていく生活をさせてもらう権利はずっともらえないのでしょうかね。
    過去にインターネットで出会ってきた積極的に結論を求めるASのように、波長が合わない者を加害者と結論付けして片っ端から縁を切り、誰も自分の耳に痛いことを言わない、引き籠った人間関係の中でだけ暮らし、自分の都合が必要とする時だけいきなり一方的に用事を命ずるような、そんな態度が果たして模範的なASの生き方なのでしょうか。
    家庭に住む各々が、リビングの中心でこのまま自己都合を叫んでいれば新しい概念の理解なんてものから逃げられますし、当事者はインターネットの中心で自分の言い分を叫んでいれば、とりあえずは表面的な迷惑は人に掛けないでいられる訳ですけどね。
    日本人は、果たして私を含めて、進化する気があるのでしょうか。

    • 忘れました
    • 2010年 5月 12日

    ぴよよさんへ
    >これに限らない、膨大な耳にカリカリカリカリ残る残響、それを言われた背景を分析して言った理由を理解して、再燃してももう一度言い聞かされてなだめられてゆっくりゆっくり神経のベクトルを他へ向けながら治めていく生活をさせてもらう権利はずっともらえないのでしょうかね。
    そういう権利は多数派だってもらっていないと思います。
    そもそも誰かからもらうものなんでしょうか?
    話は変わりますが
    ぴよよさんが書かれている「模範的なAS」は単にネットで悪目立ちしている一群に過ぎないと思います
    (個人的には自称ASがかなり含まれているような気がする)。
    インターネットの中心で何を叫んでもネットの中の出来事に過ぎません。
    特に匿名が当たり前の日本のネット社会ではそれが顕著です。
    それがぴよよさんの
    >日本人は、果たして私を含めて、進化する気があるのでしょうか。
    とう感覚に繋がるんでしょうね。
    匿名の意見なんてしょせん愚痴と変わらないです。
    少なくとも多くの日本人はネットを通して進化する気はないみたいですね。そんな大層なことができるツールとは思っていない。
    かく言う自分も匿名に甘えているのでとやかく言う資格はないのですが。
    でも口下手で引きこもりな私が一方的にせよ誰かの意見に返事ができる、というだけでも
    ネットは素敵なツールだと思いますよ。
    現実社会ではこんな会話はできないですからね。
    (何ヘヴィな話題やってんの?って言われるのがオチですわ)。

    • hiro
    • 2013年 7月 03日

    高校に入学して最初の授業の前に、担任の先生が聞きました。
    「無理に仲良くしなくてもいいと思う人、手を挙げて」
    私は手を挙げました。
    すると他に誰も手を上げない。何故手を挙げない?聞き間違いか?
    次に「積極的に仲良くしたほうがいいと思う人」と聞きました。
    これに皆手を挙げました。皆何故手を挙げてるんだろう?
    長らくこれも疑問でありました。何かを感知したのか?何かルールがあったのか?
    ジャイアンに聞いてみると、最初の質問で手を挙げてはいけないという。なんでと聞くと答えない。
    担任はADHDだろうとか、今は色々な意味を見出せますがほんとの意味は今でも分からない。
    また保健の時間に先生が
    「授業がつまらない人は寝ていなさい」
    と言ったんですね。私は即寝ました。その後保健の時間に起きることはなかった。黒板が見えないので一番前の席に居たがいつも眠くて仕方がなかった。先生は夏休みまで我慢してブチ切れました。寝すぎだと言われて初めて私は寝ろと言われても寝てはいけないと衝撃を受けました。
    こういうことに反抗はしないのです。そうだったのかうんうんと脳に刻み込むだけで。ここに居てもどうにもならないのではないか?と、学校は辞める方向に・・
    今だってそうですよ。
    WAISの意味課題の相対的な低さやスピードの遅さを見てもやっぱり絶対感知してないだろうって思うんです。
    だけど行動パターンは身に着けると。なるほどです。。

    • F
    • 2013年 12月 19日

    「ジャイアンと積極奇異型AS」で私が書いたエピソードは、このエントリそのままだったかも。
    主に「反応」の部分の話ですが・・・
    > ASでも「感知」しない一群は見られるが、実はよくよく見れば、愛着の対象に関してだけ感知できたりすることも多い。愛着の対称でない相手への無関心の結果感知もしないように見えることを能力的な問題と考えるべきではない部分がある。
    「(自分にとって)どうでもいい人に嫌われたって痛くもかゆくもない」。
    相手からの共犯者めいた雰囲気を無視して浮いている子に接近し、「浮いている子と友達になる」罰ゲームつきのカードゲームからは降りました。
    1つ目の件は、相手の反応は完全に盲点でした。(これは感知の時点で失敗?)
    2つ目の件は、罰ゲームを提案した人に喧嘩を売ることになる(場の空気を悪くする)のをわかっていて、やりました。
    大学の講義は一番前の真ん中に座るんですが、面白くないとその席で寝てました。
    講義が面白くない、でも学生が講義を評価するシステムはなかったので、皆勤なのにいつも一番前で寝ていて、最後のテストを受けずに単位を落とす。
    そんなことを何回もやりました。嫌味な学生です。
    「あえて空気を読まない」です。

    • F
    • 2013年 12月 19日

    自覚していてやる分には、非言語的アピールそのものです。まったく異論ありません。
    問題は全部が「非言語的アピール」だと思われてしまうことですね。
    私がASを見ていても、しばらく観察しないとわからないです。
    そのASの性格や行動パターンを下敷きにして、さぐったときの反応を照らさないとわかりません。
    「あれはたぶん悪気ないと思うよ。気づいてないだけだと思う(非言語的アピールではないと思う)」と言っても、周囲の人にはまったくわかってもらえないです。
    それが「普通」なんですね。そもそも多数派やADHDにはそんな死角や盲点、前提されていない。
    私は「何でみんなわからないんだろう」と思っていました。
    逆に、自分が気になる人の反応はとても気になります。
    明らかに自分に非言語的なメッセージを向けられているときも、敢えて無視するのは、相当難しいです。(私の勘違いも交じっているんでしょうが)
    無視、つまり意地悪をしている気分になります。罪悪感があります。非言語的なメッセージが強烈な相手だと、私は窒息しそうになります。

    • るる
    • 2013年 12月 20日

    今の私(自己診ジャイアン)には、AS家族の態度や表情はほぼ100%非言語アピールに見えています。
    これはひょっとして、AC的な「悪く思われたくない」という見捨てられ不安による、自分への評価という部分だけを拡大した歪んだ認知なのではないか?
    だとしたら(私ってつくづく「だとしたら思考」が多いなと思います)家族の非言語アピールに振り回されることは、非常に馬鹿げているのではないか?
    昨日ふと、そんな疑問がわいてきたところでした。
    ・・・と考えると客観的に、ひとは意識的に非言語アピールする時もあるが、自覚がなくても態度に出る場合、さらには全くそのつもりがなくとも他者から非言語アピールに見えてしまう場合もありうるだろうと思えました。
    私は先生のおっしゃる「状況理解の非対称性」に該当すると思っていましたが、その前提として特にASとの関係において、ほんとに自分の立場の有利を察知できているのか微妙な気がしてきました・・・

    • るる
    • 2013年 12月 21日

    察知について一日置いて再度考えて。。。
    近視眼的には察知しているといえます。(と自分には思えました。)が、長期的視点からの有利を察知しているとはいえません。
    だったら今まで何のために過剰反応してきたのか・・・と悔やまれます・・・。(常に目先の有利に飛びついていれば、将来の大きな損失がある程度回避できているのかもしれませんが)
    自身の視点に独自の偏りがあることが徐々に明らかになり、自覚できるようになっています(と思っています)。
    近ごろ頭の中にあった「かけがえのなさ」「尊重」「ゆるす」また「他者の非言語メッセージ」についても、自分の中で独断的・一面的な捉え方をしていたように思えます。
    となると諸々、自分が「大した人間じゃない」と思えてきて、そこで「人から大したものだと言われ〈続け〉なければならない」という呪縛にとらわれていた自分がいたのだ、と感じました。
    大した人間じゃなかったんだと感じるこの状態、私には「自然に(熱がすっと下がったように)自己評価の目盛りが下りた」というふうに思えています。
    今日の新聞に「ミルフィーユ肩こり」という記事が載っていましたが、自分自身の心も「素の自分」の上に何層もの思いが重なって「特大ミルフィーユ」になっていたのだと思いました。(だから私はミルフィーユ、きらいだったんだ・・・?)
    肩こりといえば、ひどい凝りに何年も悩まされたいたのですが、この1カ月くらいでいつの間にか軽快しています。
    それは、こちらのブログのおかげだと思っています。

    • 道産娘
    • 2014年 3月 21日

    なるほど…この記事を読んで、やはり「ちゃんとご自身の特性を理解しているのだな」と思いました。
    以前は、記事の内容は理解できるのに、それをご自身の事と照らし合わせる(はしごを架ける)作業が難しいのだろうか?と思っていたのですが、誤解でしたね(汗)
    きっと「解っててわざと隠していた」のでしょう。(ややこしい!)
    そうとは知らずお節介な真似をして悪かったと、ちょっぴり反省しております。
    ちなみに私の場合、「察知に失敗して自己評価が下がる」ということはあまり無かったですね。
    (今は回復しましたが)情緒障害のKYで過ごした時間が長かったし、そもそも感知すらできていなかったような気もします。
    「パターン化している部分」のみ、周囲を観察することで把握して、察知・反応していましたが、感知…というより、「頭で考えながら行動していた」と表現した方が正しいかもしれません。

    • 182
    • 2014年 8月 19日

    連投スミマセン。
    さっき幼稚園の先生との関係を書き込んだ事で、またまた自己理解が深まりました。
    やっぱ書かないとダメですね。頭の中でイメージしているだけでは自己理解は深まりません。
    3人が通っている幼稚園は、0〜2歳の子どもを見られる特別な資格を持った先生が1人しかいないらしく(何の資格か知りません。市の保健師さんが言ってました。)3歳で正式に入園するまではその先生が見ます。
    なので、3人とも3歳までは同じ担任が見てくれてます。
    (若干横道にそれますが「幼稚園じゃなきゃヤだ。」は夫の希望。)
    また、その担任の先生以外に常時3名くらいの補助の方がいて、連絡帳などは交代で書かれていたのですが、どの先生も連絡事項のみでした。
    この状況は私には快適で、相手が事務連絡しか書かないのでこちらも余程特殊な事情でもない限り、殆ど毎日、何も書かずに白紙で連絡帳を持参させていました。
    また、こちらが挨拶をしても目を合せてくれない、口を開いても挨拶以外は何も言わない先生がいて、でもそれはその先生の個性と考えていました。
    若干の違和感を感知しながらも、察知に失敗してるんですよね。私が。
    (と言うか、察知を拒否してると言うか・・・この辺の考察はまた後日)
    多数派の次男が通い始めて、今まで目を合わせてくれなかった先生が、私の後ろからでも声を掛けてくれるようになりました。
    連絡帳には絵やマークが増え「お盆明けに、また遊べるのが楽しみ」とか「今日は鼻水でプールに入れなくて寂しそうだった。」とか「パクパクとおいしそうに」とか「キャッキャと嬉しそうに」とか情緒的な記述が増えました。
    先生たちが次男と過ごす時間を楽しく感じて下さっている事が伝わってきます。
    こういう事は、本当に上の二人の時は一切無かったのです。
    あいも変わらず私は白紙の連絡帳を持参させ、提出物は期限に間に合わない、借り物も請求されるまで返さない、約束事(女の子は髪を結ぶとか)も守らない・・・なのに、です。
    一番悪いのは私ですね。私が無視されるのは自業自得です。
    でも、私の問題、長女の問題、長男の問題を個々の問題として切り分けてくれた多数派次男。
    恐るべし、多数派。
    (ん〜。何か最後の一文のおかげで、また話が変な方に、、、な気がするが、今日はこれまで。)

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