ADHD関連

ジャイアンと積極奇異型AS

 ジャイアン型ADHDは「自己突っ込みが無い尊大な行動」に過剰反応して攻撃的になる。「同じことをもしも自分がしたら相当自分を責めることだろうに、お前はそんなことをして自己突っ込みすることが無いのか?」という怒りだ。

 積極奇異型ASには自己突っ込みは無い。(それらしいものを自覚すると大体病的な反応になって、継続して自己突っ込みの状態になることは少ない)。

 その結果「ジャイアンが積極奇異型ASを目の敵にして反応する」という現象がよく見られる。ジャイアンから見れば、「人は厳しく批判するくせに自分には甘い」「言っていることとやっていることが違う」という風にASが見えるというわけだ。

 積極奇異型ASは逆になぜジャイアンから攻撃されるか分からないことが多い。「一方的な攻撃をされる」と感じて言語的、非言語的にやり返すことが多く、トラブルが拡大する。

 最近私は別のパターンがあることに気がついた。「依存型ジャイアンの非言語的な八つ当たり」だ。積極奇異型ASの二刀流の非言語的なアピールに「ほぼ無自覚に」反応して、情緒的にやり返す。大体自分より弱い相手に当たることが多い。

 上記のパターンはいろいろな場面で起こるが、一番性質が悪いのは、「担任のジャイアン教師が生徒の積極奇異型ASに当たる」という事態だ。私が実際に聞いた話では、「机を倒してアピールした積極奇異型ASの児童に担任教師も机を倒してやり返した」ということがあった。

 無自覚なジャイアンがいかに罪深いかという一例である。


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コメント

    • あまがえる
    • 2009年 6月 12日

    なんたる悲劇。

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 6月 12日

    言語性優位の積極特異型ASの私、ヒゲ達磨は「無自覚な積極奇異型ASも、罪深い」とおもますけど。
    「自己突っ込み」というものが、よくわからない。きっと「他者の目に自分がどう写っているか?」「○○をしたら他者からの評価は?」という考え・思考回路が働かないASの特質からなのでしょう。
    誤信念課題の内の2次というものは、「被験者は,メアリーがアイスクリーム屋さんは公園にいると考えているとジョンは思っているのを知っている」というように入れ子の認知構造になっています。A-(知)→{J-(思う)→(M-(考える)→I)}。この2次の課題を、ASは直感的に解けません。
    他者からの評価の予想は「ヒゲ達磨は、『○○というヒゲ達磨』を相方は××と思うと考える」、ヒゲ-(考える)→{相方-(××と思う)→(ヒゲ-(言う)→○○)}という入れ子の構造です。2次の誤信念課題のようにASは直感的にはできません。2次課題を知識や思考で解くように、考えなければ、相方の考え方や似たような状況下での気持ちの知識と推測によって、つまり認知的共感性を作動させなければできません。それは常に働いているわけではないのです。
    それと、私自身としては「自分には甘い」と思うことは多々ありますが、「言っていることとやっていることが違う」と自己評価することはまずありません。状況Aでは、私の判断基準・考えでは適切な言動(あ)であり、それとちがう状況Bでは言動(い)が適切だというだけです。状況が違うのだから、言動が違うのは当たり前という思いがあります。私の判断基準・考えは一貫していますから、「違う」というのは不当な非難に感じられます。
    この状況の違いを共通のものにする、例えば「今回はここがちがうから、」と前置きするとトラブルが少なくなるようです。

    • iruha
    • 2009年 6月 12日

    今現在とあるコールセンターに勤務していますが、ジャイアンらしき人がいます(上司)。自分の気に入っている人にはすごいくやさしいですが、周りより少し遅れている人に対してはすごく冷たく当たってきます。
    自分の思い通りにならないとかなり激怒しています。
    昨日その方が普段私との全く関わりもないのですが、私の勤務態度に対して周りに聞こえるくらい声激怒していました。
    またこの人にきつく言われて何人もの人が立ち直れなく辞めています。今日普通に出勤しましたが冷たいまなざしでした。また、他の人には絶対に言わないことを私に平気で言ってくるので、ジャイアンの可能性が高いと思います。
    今日きいた話ですが分の思い通りにならないと、ヘッドセットを床に投げたりしていたそうです。

    • kcotan
    • 2009年 6月 13日

    非言語的というのは動作的ということだったのですね。
    なんとなく、冷たい態度とか遠まわしな嫌がらせとか、そういうことだとばかり思ってました。
    机を倒した児童と同じことをした教師の話で思い出したのですが、診断済みADHDの夫は、相手を年頃で区別して認識してないみたいです。
    小学生を見ても、対等に感じてる様子です。(「あの人」って言います)
    老人とかでもそうで、普通に対抗意識燃やしたりします。
    更に犬なんかでも同じ目線の高さ(?)で敵として怖がってます。
    とっても面白いです。

    • グッピー
    • 2009年 6月 20日

    >その結果「ジャイアンが積極奇異型ASを目の敵にして反応する」という現象がよく見られる。ジャイアンから見れば、「人は厳しく批判するくせに自分には甘い」「言っていることとやっていることが違う」という風にASが見えるというわけだ。
    ジャイアン義理祖父がAS孫とのトラブルが絶えません。
    AS孫にも原因がありますが、6歳の子供にこれでもかと本気になって怒ります。
     それを見ていた、2歳の孫が[じいじ馬鹿]と言ったら本気になって逆上してましたので年齢発達段階は分からず、対等に感じているようです。祖母が[あきれて、話にならん。]と助けてくれるのでいいですが、あまりにもAS長男孫に攻撃が激しい場合はこちらも距離を置こうという気持ちになります。

    • いさお
    • 2012年 6月 05日

    「同じことをもしも自分がしたら相当自分を責めることだろうに、お前はそんなことをして自己突っ込みすることが無いのか?」という怒りだ。
    ↑↑↑
    まさに、自分が普段考えてる事、いろいろな事に閉塞感の様な事を感じてる事、その全ての根っこにあるのはまさにこの自己ツッコミであります。
    留守番電話の自分の声、カラオケ等をしてる自分を客観的に見た時のあの恥ずかしい、むず痒い感覚みたいのが、普段からある気がします。自分に対してだけでなく、上から目線の相手には特に感じています。
    その自信は何処からくるのか と。
    きっと多数派は怖い反面、優しい人だと最近痛感しております。
    きっと、少数派は凸凹が大きい反面、過集中に頼りすぎ、抜くとこが手抜きすぎなのでしょう。
    自分に厳しく、人に優しくなりたいものです。

    • るる
    • 2013年 8月 23日

    ADHDである自分(自己診断)と、積極奇異型ASである子ども(私診断)。今まさに、当エントリーの問題に直面です。
    >「同じことをもしも自分がしたら相当自分を責めることだろうに、お前はそんなことをして自己突っ込みすることが無いのか?」という怒りだ。
    はい、まさに。
    >積極奇異型ASには自己突っ込みは無い。(それらしいものを自覚すると大体病的な反応になって、継続して自己突っ込みの状態になることは少ない)。
    はい(泣)。そのように見えます。私的には意味不明ですが、子どもには意味があるのでしょう。
    >その結果「ジャイアンが積極奇異型ASを目の敵にして反応する」という現象がよく見られる。ジャイアンから見れば、「人は厳しく批判するくせに自分には甘い」「言っていることとやっていることが違う」という風にASが見えるというわけだ。
    まさにそのように見えます。
    >積極奇異型ASは逆になぜジャイアンから攻撃されるか分からないことが多い。「一方的な攻撃をされる」と感じて言語的、非言語的にやり返すことが多く、トラブルが拡大する。
    “この点を忘れてはいけない”ですね。過去に苦い経験があります。わかっているのだから、早めに外出して気をそらし、同じ過ちを繰り返さないようにします。

    • F
    • 2013年 8月 27日

    「自己ツッコミ」が未だにぴんと来ないのです。
    働いているときと働いてないときがあるようにも思うし、(他者からは)働いているように見えないだけじゃないかと思うこともあります。
    高校の修学旅行でカードゲームをしているとき、罰ゲームを何にするかという話になりました。
    一人が「6組の○○さんと友達になる」罰ゲームを提案してきました。
    他の女子は「あ~」「知ってる」と、くすくす笑い。
    話題の人は、私の中学時代からの友人で、とてもおっとりしたいい人でした。
    私はなかなかに不愉快な気分になって、この雰囲気をどう穏やかに叩き壊してやろうかと考え、
    「降りるわ。すでに友達だから」
    と全員の顔を見渡してから、ゲームを抜けました。
    昔から「私は癖のある人に好かれるなあ」と思っていたのですが、考えてみれば、私には自分から近寄っていく習性がありました。
    私は、見た目もスポーツも相当にぱっとしない子供でしたが、勉強は比較的出来たので、露骨に馬鹿にされるということはあまりありませんでした。
    総合的に見て、クラスのヒエラルキーでは、真ん中あたりだったと思います。
    そしてどの学年でも、クラスに一人ほど、スポーツも勉強も自己主張もはっきりしない子供がいて、そういう『浮いている子』は何となく遠巻きにされます。
    「あの子、友達いないよね」と。
    私はそれにイラッとし、その『浮いている子』に近づいていきます。
    (続く)

    • F
    • 2013年 8月 27日

    (続き)
    このときの私の行動理由は「その子の気持ちを慮って」でも「『いい子』という評価(報酬)が欲しくて」でもなく、「私の目の届く範囲で気分の悪いことを言う級友を黙らせたいから」です。
    私という友人(もどき)が一人できることで、級友の言葉は嘘(事実ではない)になります。次からその台詞(攻撃)は使えません。
    その人のそばに私がいることで、他の人がだんだんと寄って来ることもあります。(友人の輪が広がる)
    もともと、あまり気が合う人でなければ、徐々に私は離れます。
    私の目的(気分の悪いことを言う級友を黙らせる)は達せられたので。その子の「友人」は私じゃなくても構わないので。
    その当時から、自分で自分の行動に違和感があって、「私の行為は偽善というやつじゃないか?」と考えました。
    そのときの結論は「偽善とは言いきれない。だから行動する」でした。
    その人に結果的に「友人ができた」、それを「嬉しい」と思うのなら偽善ではない。
    その人が「友人なんかいらない」と思っているのなら、私は引っ込めばよい話なので。
    偽善ではないかもしれないが、間違いなく独善です。
    しかし、絶対的な善なんて、この世界のどこにもないのではないかとも思うのです。
    誰からも謗られない善を求めては、何も行動できない。
    誰かのために自分のやることは独善なのだということを頭におくこと、それが私の思う「人と関わる流儀」です。
    (念頭に置いておけば、何してもよいというわけじゃありませんが・・・)

    • 道産娘
    • 2013年 9月 01日

    (一応「他者のコメントを読んで、自分を振り返ったコメント」のつもりで書いていますが、投稿して良いものか正直迷いました…先生、まずかったら掲載しないでくださいね)
    自己突っ込みについてです。
    「あの子、友達いないよね」と言った友達に「非言語的な嫌がらせ」をするために、その浮いている友達に声をかけたということなら、私には真似できません。
    私なら、以下↓のように自己突っ込みが入ります。
    「わざわざ関係無い人を巻き添えにせず、(気に入らない発言をした友達に)直接文句を言えば良いのに、それをしない自分は卑怯ではないだろうか?あと、言われた方の友達は、何も知らないまま『純粋に自分と友達になりたいと思って話しかけてきたんだな』と思っているかもしれない。私はその友達を騙していることにならないだろうか?」
    この自己突っ込みを押しきってその友達に声をかけてしまうと、後で物凄い自己嫌悪に陥ることになり「卑怯な自分と、その友達に対する申し訳なさ」で自己評価が下がりかねないので、私なら(面倒ということもあり)その友達の心無い発言を適当に受け流しますね。
    ASさんのような「正義感」…は私には無いんですよね(苦笑)

    • 道産娘
    • 2013年 9月 02日

    …おっと、ここはジャイアンと積極奇異型ASの記事でしたね。
    私自身、のび太だと自覚していますが「同じことをもしも自分がしたら相当自分を責めるだろうに」という部分はジャイアンと同じかなと思っています。
    私はのんびりとした性格なので、余程その友達が「悪意のある言い方」をしない限り、気付かないまま「あ〜確かに、あの人誰かと一緒にいるところ見ないよね。一人で過ごすのが好きなんじゃないかな?」等と返すと思います。
    きっとADHDの自己突っ込みは「自分の言動に責任がとれるか?」という考え方が基盤となっているのでしょうね。
    ASは「正義感や価値観」等が行動の判断基準となっているのかなと想像しています。

    • さーこ
    • 2013年 9月 02日

    ある問題についてかなり長い事苦しみました。
    特に中学生の頃の話ですが、「この人、純粋に私と友達になりたいとは思っていないんだな。」と見抜ける場面があったのです。同じクラスの女子だったのですが、「ねえ、(クラスの中で私という存在がどういう認識と立場でいるのか)教えてあげようか?」と言ってきた女子に、正直私は落胆しました。
    部活動の場面では、1年半ほど在籍して辞めた直後の私に対して、初期に辞めた子が寄ってきて、当時の女子グループの愚痴を共有しようとした事もありました。
    両方のケースとも私は断って、(私にとってはそれほど深くもよく知らない相手なので、どうして私にそのように言うのか私には意味がわからない)、その結果、同じクラス内での友人がいなくなって孤立したり、その後不登校になったりしたのですが、当時から学校内の同級生間における力関係(ヒエラルキー?といわれる感覚というものが存在する事)について、かなりの違和感と疑問、苦悩、苦痛などを抱え続けました。(立場関係が違うという事であれば、かろうじて納得できたかもしれないのですが…。)
    私が断って、それでたぶん、お互い、とても傷ついた。
    私には意味が理解できなくても、相手が何かしら思ったから私に言ったのだ、という事だけは、当時の私にも理解ができました。
    まだ中学生だったから、子供だったから、と、今なら大事に思うことができそうです。
    私が当時から大事に思っているのは、「ほんとうの友達」「友達に値する人」「私が、なんだかこの人いいな、悪い気はしないな、と思った人を友達として関わる」、そういった私にとっての無理のない大切さ、自由さですね。

    • さーこ
    • 2013年 9月 02日

    今、私は、「純粋に私と友達になりたいと思う人だけに固執はしなくなりました。」
    確かに私が中学生だった頃のように、純粋に私と友達になりたいと思ってくれたなら、それはとてもうれしい。
    だけど、私と生きてきた時代が違う私よりも歳若い人、私の知らない時代を生きてきている私よりも歳が上の人と話す時、私が中学生だった頃のような固執を持ち続けていると、かえって清々しい思い(新たな発見や新たな関係)が広がっていかないのです。私はその事に、ある日自分で気がつきました。
    たまたま席が隣り合わせたお姉様と接するうちに、お姉様がとても気にしているある事に気づいた。でもそれを「ふつうですよ」と言って私は「忘れる事にした」。
    たまたま話す機会のあった、心がかわいらしい(そしてモデルでもやっているんじゃないかなと思ってしまうようなファッションセンスのある)年若い子が、ゆとり世代と言われて傷ついた事を知った。だから私のお気に入りの曲、アラジンの「A Whole New World」をそっと教えた。いたわりと復活の気持ちを込めて。
    私がしたのはそのくらいの事で、私は日々を淡々とすごしています。でもいつの間にか2人は私の友人になっていました。今は他の皆も含めて年に1度くらいしか会えなくなってしまったし、人生観や価値観も私とはかなり違う、100%はわかりあえない事が確実にわかる。だけど、「あ、いいな、この感じ」ですね^^

    • るる
    • 2013年 9月 03日

    昨日来、家族に怒りを感じました。整理させてください。
    孤立型AS(のように私からは見える)パートナーに対しては
    「そんなことにも気づけないのか」
    「筋が通っていない=“自分”がないなら、私に従え」
    積極奇異型ASのこどもに対しては
    「私の生活リズムを乱すような言動はするな」
    「好き勝手をしてもよいが、私に(だけ)は従順であれ」
    子どもの行動に対してはその後、
    「こどもが自分自身で決められた点は、よかった」
    と思えました。しかしパートナーの態度には、未だ落とし所が見つかりません!!その点がパートナーに過剰な反応をし、怒りを引きずる一因です、多分。。。
    学生時代を思い出しました・・・
    当時はもちろん自覚できていませんでしたが、7~8才以降は明確に、まずは自分のクラス内の立場の安全を図ったうえで、友人関係は利害で捉えていたんだなと思いました。それで自分は安全圏にいたつもりだったと思いますし、実際なんとか過ごせていました。今思えばかなりKYな言動があったし、表現力も拙かったので、周囲からは少々ひかれていたのでしょう。当時の自分も「うまく主張が通らない、わかってもらえていない」という一抹の寂しさを抱えていましたね・・・あんずの砂糖漬けみたいな、甘酸っぱい思いになりました(遠い目)。
    私は(先生がブログ上でお書きの通り)今も情緒的には小5くらいのままなので、現在の仕事関係の人たちにも、当時と同じ印象を持たれているだろうと思います。専門職だから何とか続けられているのだと思います。専門職だから何とかなっているという点は、パートナーも同様だと思います。

    • F
    • 2013年 9月 03日

    ADHD的自己突っ込みの例を挙げていただき、ありがとうございます。
    実は、前半がまったく意味がわかりませんでした。
    『非言語的嫌がらせ』になる理由、そして『関係ない人』が誰を指すのか、『巻き添え』の意味もわかりませんでした。
    しばらく考えて、『関係ない人』は、私の真似をして寄って行った人のことを指すのかな・・・?と思ったのですが。
    そして一日考えたのですが、これは、自分の言動が周りに影響を与えることを知っている人の発想なのかなと。
    だから自制的に振る舞うことを自分に課している。
    私には、自分の言動で周りがついてくるという発想自体がありませんでした。とても地味な生徒でしたから。
    (私が自分の友人に声をかけて、みんなで寄っていくのなら、この突っ込みもわかります)
    私の行動(一人で寄って行った)の結果、私の後に続く人がいたとして、それはその人の自由意思だと考えます。
    私には、他人の行動にまで責任を感じなければならない理由が見当たりません。
    「浮いている子がどう思うか」の部分はわかります。
    「相手の気持ちを考えていない」「偽善かも」と思った理由なので。
    ADHD的自己突っ込みを読ませてもらって、他にも不思議に感じるものがあり、
    結局何もしないのは、卑怯じゃないの?
    こちらから声をかけたら、友達であり続けることは義務になるの?
    「きっかけ」なんて、黙っていればわからなくないだろうか?(私は『言わなきゃ通じない』『秘密は墓まで~』と思うからだけども、ADHD的には「できない」と感じるのかなあ)
    こんな感じでした。
    きっと私は自己突っ込みで病的にはならないのだろうと思います。
    私にはいろいろ考え付かなかった、がんじがらめで、不思議な世界でした。
    卑怯という単語で思い出したのだけど、よくADHDの人から「アピール」とか「卑怯」と言われるのがつらいです(笑)。
    残念なことに、私には何が「アピール」や「卑怯」なのかがわからない。(とても主観的な言葉だと思います)
    でも、相手が私を見て、「アピール」や「卑怯」だと思うことは自由だと思う。(私が「確信」するように)
    ただ、見ている世界が違うことだけはわかる。それが悲しい。

    • るる
    • 2013年 9月 03日

    朝、甘酸っぱい思い出にひたっているうちに忘れてしまいましたが、午後になって、そうだ私怒ってたんだと思い出し(汗)
    ・彼には「そんなことにも気づかない自由」がある
    という当たり前なことにようやく辿りつきました。
    1対1の人間関係は、並走する2本の曲線に例えられるような気がします。通常の人間関係は、近づいたり、ちょっとぶつかったら離れたりしながら、適切な距離感を探りながら続いていく。
    私たちパートナー関係に関しては、厳格に並行曲線でないと共存は困難に思えます。少し距離が開くと、それは埋めようもない溝となり、少し近づくと、激しくぶつかり火花が散る・・・そんなイメージです。
    すみませんm(_ _)m。彼は(私からみて)積極奇異型とは思えず、コメントが本エントリから外れてしまっているのに書かせていただいてしまいました。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 04日

    分かりにくかったですか…失礼致しましたm(__)m
    まず、私は「自分の目の届く範囲で気分の悪いことを言う級友を黙らせたい」という理由から、浮いている子に声をかけたのだなと、コメントから判断しました。
    もし別の理由なら「自己突っ込みが入らない」こともあるので、上記↑の理由を前提に話を進めますね。
    私の言う「関係の無い人」とは浮いている子のことです。
    それと「何が非言語表現にあたるのか?」ですが、まず、私が考える「言語表現」とは、「気分の悪いことを言う級友に対し、直接『気分が悪いから止めて』と言葉で伝えること」です。
    なのでそれ以外の方法で何かしら伝えようとすることが、非言語表現にあたると考えています。
    浮いている子に近付いた理由が「その子と仲良くなりたい」だったり、「好奇心や興味・関心があるから」なら大丈夫なのですが、「級友を黙らせるため」となると、「その級友に遠回しに攻撃してダメージを与えるために、浮いている子を利用した」という発想になり、自分は卑怯であるという考えになってしまうのですね。
    あと、この「遠回し」っていうのがちょっと曲者なんです。
    (続きます)

    • 道産娘
    • 2013年 9月 04日

    (続き)
    遠回しに攻撃することで「自分の責任を回避できる」ので、例えばその級友から「私への当て付けであの子に声かけたの?」と訊かれても、「違うよ」と言い逃れできてしまいますよね。
    「結局何もしないのは卑怯なのでは?」「何故嫌がらせになるのか分からない」と返されるのは、実は想定内でした。
    「なるほど、やっぱり正義感の強さからそういった行動に出たのだな」と納得してしまいました。
    ただ、級友に直接文句を言うのが手っ取り早いかなと考えています。(ちなみに、依存系のび太の私なら嫌になったらその級友と距離をとるかな)
    見ている世界が違うとは私も思います。
    最初「えっ!?偽善・独善以前に、何故善いことをしたという発想になるのかすら分からないのに…」と思い、何度もコメントを読み直してました。
    KYのADHDには、ASや多数派のようにお互い空気を読み合いながら調和することが難しいので、責任を自覚しながら、合理的な自己突っ込みで行動を自制するのが望ましいのかなと思います。
    ASの場合、現実的に問題が無ければそこまで自己責任云々言わなくても良いのかも…と、今はそう思いますね。

    • さーこ
    • 2013年 9月 04日

    中学の頃一年半在籍した部活動を辞めた理由は、父が死に、私たち家族を養うため母が仕事漬けになり、応援してくれる人がいなくなった中で友達のいない部活動をがんばる気が失せたから。顧問は男子部と兼任していたため、毎日女子部の方には顔を出さず、女子部のグループ関係なんぞ私以上にわかるわけもなく。そんな中で私の家庭の事情も知らない、初期に部活を辞めたクラスの違うよく知らない女子に私の事情を話せるはずもなかった。
    私と女子グループの愚痴を共有しようとしたり、クラスの中での私の状況(力関係)を教えてあげようかと言われたりするのを一度断った後、実は私は、今の自分の気持ちや相手に対する興味関心のことをその相手に話そうと思っていた。私はいつも、「ここから友人関係が始まるのに」と思っていた。でも、とても傷つかれて、突然始まろうとした関係は突然終わってしまった。
    私はいつも、クラスをリードする複数の女子たちのグループから見て浮いている子だった。しかし、私の知らないやり取りをする女子たちの中で、私の印象や評価などがどうなっていたのか今も全く知らないし、聞いたとしても過ぎ去った事なので、おそらくはうまく理解できないとも思われる。今や私の人生には「あまり関係のない事になった」ので、私は今もよく知らない。私はいつも、浮いた立場の中で、自分の気持ちをどう訴えればいいのかもわからず、ただ一生懸命生きてきただけだ。
    ただ単純に、好きな漫画やアニメの話で盛り上がるのは楽しかった。父が亡くなる前、中学の初めの方で純朴な子たちと知り合えたのは私にとって幸運な事だった。

    • さーこ
    • 2013年 9月 04日

    私は、自分の行動(お姉様の気にしている事を”ふつう”だと言ったり、傷ついた若い子を励ましたり、といった事)が「自己満足」だという事をよく把握しています。
    私は、相手の状態や状況をできる限り大きなズレなく思い図る努力をしたり、祈りのような念を込めながら自分の言葉と行動を注意深く選んでいます。
    もし、相手が自分の解釈に固執せずに、こんな人もいるのか、と、私の存在と行動、そして言葉を信用してくれたなら、それはとてもうれしいですね。

    • F
    • 2013年 9月 05日

    ようやくすっきりわかりました。
    ADHDから見て「利用」である理由と、「偽善」「独善」以前に自分を「善」だと思えない謙虚さが。
    私の自己突っ込みは一部かすってはいるものの、ADHDから見ると全然足りないですね。
    うーん・・・私にはとてもKYに見えないですけれど。
    「関係ない人」とは、浮いている子のことかな?と一瞬考えたけど、次の瞬間には「いや、違うだろう」と判断してしまいました。何故だか自分でもわかりません。
    (その子はその場にいないにもかかわらず、私の中で勝手に『当事者』として認識された?)
    「その級友に遠回しに攻撃してダメージを与えるために」の部分ですが、「自分の行動が級友にダメージを与える」という発想がなかったです。
    離婚届の一件といい、私は自分の言動が相手にどう受け止められるかが、わからないみたいです。
    遠回しに攻撃することで、言い逃れできてしまう件について。
    可能ですね。
    ただし、私は「私への当て付けで」の部分で「???(意味がわからない)」となってしまうと思います。
    「最近、あの子と仲良くしてるの?」と事実だけを聞かれたら「うん、そう」って答えると思います。
    (続く)

    • F
    • 2013年 9月 05日

    (続き)
    もし運よくその場で「当て付け」の意味が理解できたとしたら・・・
    本当は「うん、そう」と答えたい。(その意図はなかったにしても事実だから。そしてここでは「空気を読まない」選択をする)
    でも「浮いている子」の耳に入るかもしれない可能性があるなら、ぼかして答えるしかないですね。
    私の無意識な「非言語的嫌がらせ」の結果、級友が気分を害して私に何らかの攻撃をしてきたとして、私にはダメージになりません。
    級友は最初の発言の時点で、私の中ですでに「どうでもいい人(=相手にする必要なし)」になっちゃっているので。
    (「級友を黙らせたい」というのが最初の動機だったにもかかわらず、その後、級友の存在は眼中にないのだと思います)
    きっと「自己中すぎる!」「話全然通じない~!」とイライラさせてしまっただろうに、丁寧に説明していただいて、ありがとうございました。
    素の自分ってどうだっただろうかと思い出しながら中学時代の話を書いたのですが、甘酸っぱくなったり、思い出してしまった人もすみません。
    もし今、似た場面に遭遇したとしたら、おそらく私も適当に相槌を打ちます。

    • さーこ
    • 2013年 9月 05日

    「最近の当ブログのコメントについて」の記事からの本文引用になります。
    >これを読んだ当事者が自分自身の発達障害について考える機会を用意すること
    >「他者のコメントを読んで感じた自分を振り返っての感想」はあっても良い
    先生。私の、これまでの目を覆いたくなるような悲しみが、「自分を振り返っての感想」になりました。
    これで、何とか歩いていけそうです。
    コメントの掲載を許可してくださって、本当にありがとうございました。

    • さーこ
    • 2013年 9月 06日

    振り返りを終わってみて。
    今、私の過去にいたような人に遭遇したら、私は内心こう思うと思いました。
    なんだか自分一人の解釈でから回っていそうだし、何というか、人生たいへんそうな人だなぁ(苦笑 + 遠い目)
    そして。それは、下手をすれば問題が重度にこじれまくるという傍迷惑な行為を、あなたは「私が自分で選択したように見せかけている(私にも、そして周囲にも)」、というだけの関係なわけだけど、この人は果たして、自分でその事に気づいているんだろうか…?
    ****
    まぁ、私には、関係ないか。気づく人は気づく。気づかない人は気づかない。あなたと私の人生は違う。当たり前。当たり前の事。ただそれだけの事なのだから。
    私は私の人生をきちんと生きよう。お姉様方の中に、数人ほど私の危なさを察知している人がいる。ゆっくりいこうねと言ってくれる。それは、自我の輪郭を保ちながら社会に立ち続けた私に、もう一度人を信じる心が蘇りつつあるからかもしれない。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 07日

    もう一つだけ。
    おそらく私は(やんばる先生のブログ内の定義では)KYだと思います。
    ASの方は「想像力の欠如から、相手の立場になって考えられない」ため、善いと思ってこだわりを押し通した結果、KYになってしまうのだろうと考えています。
    自分の学生時代を振り返ってみると、確かに休み時間も一人で過ごす子は居ました。
    でも、皆それぞれ絵を描いたり、読書等をしていたので「自ら一人の時間を過ごすことを選択している」と捉えていました。
    私自身、そういう子達を「凛としていて芯が強いのだな」と思い、憧れてはいても、声をかけるのは「迷惑かも」と思い、中々できませんでした。
    結局その子と友達になり、後になって「あの時友達が居なくて、ずっと一人でウジウジしてたから、話しかけて貰って嬉しかった」と言われ、とても驚きました。
    私にも相手の気持ちが分からず、思い込みで判断してしまう部分があるようですね。
    ただ、例えその浮いている子に「目を覆いたくなるような悲しい」背景があったとしても、口にして貰わない限り、気付かないまま通り過ぎてしまうことがほとんどです。(これが「他者を感じないKY」ってことなのかな)

    • るる
    • 2013年 9月 07日

    積極奇異型こどもとのやりとりで、今朝もイラつく事がありました。数時間を経て再考すると、このエントリに書かれている危惧とおんなじことを辿ったとわかりました。
    奇異子が発言 →ジャイ母反応* →奇異子も反応、言い返しつつ微妙な表情になる →双方、少し気まずい雰囲気で「いってきます」「いってらっしゃい」をする
    *この母反応について・・・本ブログで学ばせていただいたおかげで、子どもの言葉が自分の価値観には合わないことを伝えつつ
    「あなたはこうしたいのね、それはわかった」
    という言葉をかけることができたのです。自画自賛になっているかもしれませんが、自分としては大きな進歩です。
    私(自称ジャイアン)は、自分の決めた価値観に縛られているという自覚はあります。そこから強烈な自己突っ込みが生まれるともいえます。
    しかし一方で「価値観を貫こうとする自分自身」が、私は好きなんですね。そういう自分が、そういう一面を持つ自分が、きらいではないのです。
    そして、価値観そのものを変えること、それは事と次第にもよりますが、“変えうる”と思われます(私の場合ですが)。
    ASの方も、何かに縛られている感じを受けるのですが、それは、「自分の価値観そのものへのこだわり」「一度手にした価値観を手放さないことへのこだわり」なのかしら。
    コメント欄を読み、そのように感じました。。。

    • さーこ
    • 2013年 9月 07日

    数瞬後に、自分に対する突っ込みがあまり入らなかった事に気づきました。
    おそらくターニングポイントだろうと思われます。一度目は診断後、二度目が今、かもしれません。
    「自分と価値観が同化している。」よく覚えておこうと思います。
    たしかに私の苦しみは私以上にわかる人はいないだろう。でもだからといって誰一人にも口にしない事とはまた別の話だろう。
    私は自分の価値観を流儀だと思った事はないので、時間はかかるけれども”おそらく変えうる”と思われます。
    …まさかここでターニングポイントにかち合うとは思わなかったな(^-^)

    • 道産娘
    • 2013年 9月 08日

    もう一つ、非言語的アピールについて。
    私は「面倒臭いから」という理由もあり、他人を動かしたり、この記事にあるように机を倒すということはしません。(どうせ倒しても自分で直さなければならないし、自分で倒したものを他の人に直して貰うという発想すら浮かばないので…)
    「(一刀流の単純なADHDから見て)わざわざそんな芝居がかった面倒臭いことをして意思表示する」ということが「アピール」に繋がるのかなと思いました。
    ちなみに「当たり散らす」というのは、相手に何か伝えるという目的から外れているため「アピール」とは違うのかなと考えています。(結果的に「相手を威圧してしまう」と微妙ですが)
    ただ、本当にここまで考えてアピールしてるわけではなさそうですね。
    身近なASの人を見ているとそう思います。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 13日

    過去に、明らかに合理的ADHDなのに非言語的?な方法で勉強を教えていた先生が居たのを思い出したので、コメントさせていただきます。
    小学校高学年の時の先生なのですが、テスト用紙を返す際「今からテスト用紙を返しますが、60点以下の人は、呼び捨てで名前を呼びます」と言ってから、一人ずつ名前を呼んで返していきました。
    おそらく「皆の前で(名前を呼ばれて)恥をかきたくなければ、一生懸命勉強して良い点をとりなさい」と、「向上心」を身に付けさせたいという理由からだと思います。(他にも思い当たる部分があるし、よく授業中に「自分の教え子の何人かが東大に合格した」と自慢していたので)
    私自身、その先生は「どの生徒に対しても平等・公平」だったので、そういう意味ではとても安心できました。
    ただ、「認めて貰えるライン」が厳しかったので、少しでも気を抜くとすぐに居残りや補習になり、大変だったなぁという記憶はありますが。
    ちなみに、積極奇異弟はこの先生が苦手だった様なので、案外ジャイアンかもしれませんね。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 14日

    (上記↑コメントの続きです)
    >「依存型ジャイアンの非言語的な八つ当たり」だ。積極奇異型ASの二刀流の非言語的なアピールに「ほぼ無自覚に」反応して、情緒的にやり返す。
    もしかしたら、その先生は合理的ADHDではなく「中心志向型」かもしれません。
    相手からの非言語には全く反応しないのですが、例えば悪いことをした生徒に対しては呼び捨てや男口調になったり、(おそらく嘘や言い逃れができないように)クラスの皆の前で自分から白状させたり…
    やんばる先生のおっしゃる非言語表現とはちょっと違うかもしれませんが、「何故そんなことを?」と考えた時、あっさり答えが出てしまう分かりやすいアピール方法だったので、KYのび太の私でもストレスを感じませんでした。

    • F
    • 2013年 9月 14日

    高校までの学校生活で、尊敬できると思った先生は一人もいませんでした。
    (むしろ残念な印象の先生が多かった・・・生徒のくせに生意気な評価)
    尊敬って難しいです。
    唯一、大学の担当教官(クラリネット専門の先生)はとても好きでしたが、それを尊敬と言うのかはよくわかりません。
    (この教官は練習しない学生は容赦なく留年させるので、とても怖がられていました)
    教育実習でお世話になった音楽の先生には「すごい(プロフェッショナルだ)」「自分が子供の時に、こういう先生に出会いたかった」と思いました。
    どちらも大学時代に出会った先生です。
    今思えば、ジャイアンっぽい先生が多かったようにも思います。
    60点以下の児童を呼び捨てにする先生・・・私には露骨にジャイアンに見えます。
    「教え子の何人かが東大に合格した」という自慢は、私には嫌味に聞こえます。教え子が優秀だったと言いたいのではなく、教えた自分が優秀であると言いたいのだなと。
    自分の評価を上げるために教え子のエピソードを利用しているように見えます。(私にはこの「利用」はわかりやすいです)
    さらに、「お前たちもそうなれ(私はそういう人間を評価する)」という圧力を感じます。
    公平・平等と言い切れるかなあ・・・限定的な公平・平等に思えます。
    能力に対して、公平・平等。
    人に対して公平・平等とは思えません。
    60点以下の子に対して、呼び捨てという行動で差別しているように感じます。
    もし私がこの先生の教え子だったとして・・・
    61点以上を取ろうと努力はすると思います(そうしないと認めてもらえないから)。
    でも、もし取れなかったとしたら、もう学校に行きたくないと思います。
    人として扱ってもらえていないから、そして1回でも失敗したら終わりと感じる(こっちは多分私の性格によるもの)から、です。
    まあ、私の家は不登校を許してもらえる家じゃないので、放り出されると思いますけど。
    例えば、90点以上取った子に一言付け加える(「よく頑張ったね」など。無理に全員の前である必要はない)なら、もっと頑張ると思います。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 16日

    (追記です)
    私自身、その先生は「60点以下しか取れなかった生徒は、相手が誰であろうと呼び捨てで返す」という意味で公平・平等だったと捉えています。
    もう一つ「悪いことをした生徒をクラスの皆の前で白状させること」について。
    中にはすんなり白状せずに、一度嘘をついてから白状した生徒が何人かいたのですが、その生徒が白状すると「皆さん、聞いてましたか?最初(この生徒は)嘘をついて言い逃れようとしていましたね」とクラスメート達に振っていました。
    これは非言語アピールかなと思いました。
    「嘘や言い逃れは、かえって恥ずかしい思いをするだけですよ」
    きっとそう言いたかったのでしょう。
    「問答無用の自業自得の精神」が(自己突っ込みのある)ADHDっぽくて、とても印象に残っています。
    ちなみに、生徒に対する心情配慮には欠けるかもしれませんが、基本的に言語でのやり取りしかしないので、比較的コミュニケーションはとりやすかったですね。

    • F
    • 2013年 9月 21日

    ああ、ますます苦手です。
    「言い逃れしようとしていました<ね>」という語尾からは、『他の子供たちに同意を求める』意思が感じられます。
    私は、NOを言わせない雰囲気を強く感じます。
    もし・・・
    「先生、白状したということは、その子は反省しているのでは?」などといった反論が許されるのであれば「アリ」ですけど・・・
    おそらくそういった反論は許されていないと思います。
    (その友達を援護すると、逆に自分が責められる可能性が高いと予測します)
    ところで、これは<利用>じゃないんですね。
    私は、クラスの他の子供を「NOと言わない大衆」として利用していると感じます。
    でもこれは私の予測なので、本当は反論の自由が担保されているのかもしれません。
    そうなると<利用>ではなくなります。
    そんな感じで、この場面では私はもやもやとします。
    私の感想は「苦手なタイプ」になりますが、この先生が「間違っている」とか「悪い」とは思いません。
    「平等」の対象が能力にしろ罪にしろ、一貫性があれば、私はついていけると思います。
    言うことがコロコロ変わって一貫性がない人が一番困ります。
    ところで、私が「当然(自然)だ」と思っていることが、世間とずれてるのだとしたら、ここからずれているのかも。
    私はこの世には正義や善しかないのだと思っています。
    悪なんて、小説やゲームのようなフィクションの中にしか存在しない。現実の世界では、人の数だけ正義があって、だから争いが起こるのだと。
    正義という大仰な言葉を使わず、主義や主張と言った言葉を使うのが適切なのかもしれません。
    相手と自分の違いを認めることと、正しいと認めることは全然違うはずなのに。
    でも考え直してみると、私自身の中でも、定義が混じっているように思います。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 22日

    この先生は、クラスメートに振ってはいたけれど、同意を求めていた訳ではないと思います。
    ただ、結果的に「クラスメートを証人として利用していた」ことになると言えるでしょう。
    私自身は、生徒に正直に白状させるための上手いやり方だなと思っていましたが、「卑怯」とは捉えていませんでした。
    「もし(一度嘘をついた上で白状した生徒が)本当に無実ならば、皆の前で堂々と無実を証明しなさい。皆の前で私のことを『この先生こそ嘘つきだ!』と責めれば良い。自分にやましい部分が無いならそれができるはずだ。」と考えていたのかなと。
    「相手に嘘や言い逃れをさせないため・自己責任を突き付けるための非言語的威圧」ってところでしょうか。
    これはこの生徒に対してもそうだし、他のクラスメートに対してもそうだろうと思います。
    ただ、個人的に「毎回授業時間潰してまでやることかしら?」という疑問はありましたね。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 23日

    基本的に私は、非言語表現はするのもされるのも苦手なのですが、それは「責任を曖昧にすること」が目的だからです。(例えば、イジメを「弄り」と称して、イジメっ子に責任を追求できないようにする等…KYの私は未だに怖いです)
    この先生の非言語は「責任を明確にすること」が目的だったので、同じ非言語表現でもこの場合は「別物(あれはあれ、それはそれと言った具合に)」と捉えています。
    あと、この先生は他の生徒に同意を求めていた訳ではなく、ただ「事実確認のため(テープレコーダーのように)この生徒とのやり取りを聞いていて欲しかった」だけかなと。(利用にはなるでしょう)
    ちなみに、私もこの先生に「(クラスメートの前で)自白させられた」ことがありますが、(KYということもあり)非言語的威圧は感じませんでした。
    もしこの先生が私に無実の罪を着せようとしているなら、逆に皆の前でこの先生を責めることができるので、ある意味、先生にとってもリスクが大きいやり方かなと思います。

    • さーこ
    • 2013年 9月 23日

    小学校5、6年生の時の担任の先生(女性)は、ASの私にとっては情緒的には物足りないし、いつも冷静でこわいけれど、今から考えれば合理的ADHDのような感じだったと思います。
    非言語は全く使わず、叱る時も、短い時間でいつも終わる。
    放課後のドッジボールでクラスメートの服が破れた事件が起きた時も、給食に出る牛乳瓶の紙蓋を集めて賭け事をするゲーム大会がクラスメートたちの間で流行った時も、私はその場にいて参加していた一人だったのだけど、皆の前でクラスメートを自白させただの証人としただの、そういう事は全く一切無かったです。(最終的にはその遊び自体は禁止になってしまったけれど。)
    その先生は、それぞれ生徒本人に「考える言葉」をかけていたと思います。
    児童の今現在の姿だけではなく、中学、高校、そして成人し大人になった時の児童の未来と将来の姿を考える事のできる、冷静で謙虚でとても素敵な先生でした。

    • 道産娘
    • 2013年 9月 24日

    ちなみに、もし私がその先生の立場なら…「わざわざ非言語を使うのは(私がやると)時間も喰うし、やっぱり面倒だな」と思い、同じ方法はとらないでしょうね。
    自分にはできないということもあり、なおさら「凄いなぁ」という眼差しで見ていたのかもしれません。(砂漠のライオンのイメージにピッタリです。のび太型ではなさそうですね…)
    あと「コロコロ変わり一貫性がない」というのは、ASとADHDでは見ている部分…と言うか、捉え方が違うのだなと感じました。
    個人的に「相手によってコロコロ態度を変えることは、ASの首尾一貫した考え方に反しないのだろうか?」と不思議に思います。
    私の場合も「(注意欠陥や、後から思い出したり、相手に的確に伝わるよう何度も言い直す性格から)言うことがコロコロ変わる」という自覚があるのですが、相手によって態度をコロコロ変えることはできないので、ここは大きな違いだなと思いました。

    • F
    • 2013年 9月 24日

    白状したあとで指摘しているのに、「白状させるためのうまいやり方」というのは、意味がわかりませんでした。
    (因果関係が逆なのでは?と感じました)
    罪を白状させるのが目的ならそれはすでに達せられているので、罰(公開処刑的な?)としての要素が強いのではないかと思いました。
    私が「先生は同意を求めている」と受け取るのは、おそらく「深読み」「被害妄想」に当たる部分かと思います。
    ずっとその場の流れを見ていた他の子供には、「言い逃れをしようとしていましたね」と指摘せずとも、わかっているはずです。
    それをわざわざ指摘するのは「くどい」と感じ、「何か意味があって言っている」と考えます。
    私の思考の癖でしょう。
    同意の要求まででなくとも、テープレコーダーに意思はありませんから、やはり「クラスの他の子供」に発言権はないものと思います。(少なくとも想定はされていない)
    でも、この先生の中では想定されていないだけで、もし他の子供からそういう発言が出たら、発言を取り上げて再考するのかもしれない。その可能性は残っていると思います。
    実際どうなのか(他の子供に発言権があるのかないのか)は、この先生以外の誰にもわかりません。
    (だから私の感想は、もやもや・苦手止まりです)
    それから、立場の違うときの話が出ていたので・・・ああ、それもあるなあ、と思いました。
    私は言い逃れをすること自体あまり考えないので、ぴんと来なかったです。
    言い逃れをする子供を相手にしたときに、罪に罪を重ねたのだということを自覚させるためには、指摘自体は確かに必要です。
    (続く)

    • F
    • 2013年 9月 24日

    (続き)
    ASの方が相手によってコロコロ変わるという話ですが、まさにそれについて考えていました。
    私には相手によって態度をコロコロ変えているという自覚はありません。
    そもそも非言語的アピールをしているという自覚がないので。
    一部の相手に至っては眼中にすらない。(まさに「あ、いたの?」という感じ)
    だからその相手には何も配慮しない。(相手には軽視とか悪意があると受け取られる)
    その相手のことを、人扱いしてないとも言える(路傍の石レベル・・・)と思います。
    一次障害とでも言えばいいのか、ADHDにしろASにしろそれぞれに死角があって、お互いその部分が気になってしまう(ADHDから見れば「ASは自己ツッコミがない」「非言語アピールをしている」、ASから見れば「意味がわからないけど責められる」「ADHDは配慮が足りない」など)のだと思います。
    念のため書きますが、私はこの先生に一貫性がないとは思っていません。
    すべてのADHDに一貫性がないとも思っていません。
    伝えるために言葉を選び直すのだって、相手の言葉を聞いて考えが変わるのだって、自由だと思います。
    (そういう意味の一貫性なら、私にもありません。それが人間であって、成長だと思います)

    • さーこ
    • 2013年 9月 25日

    私の場合、相手によって態度を変えることについての自覚がありますが、「自分でもかなりどうしようもできない」です。
    そこから(相手から)、焦点が離せなくなり、自分でもどうしようもできないような、ねじ曲がりかた(態度の変えかた)をしますね。
    自分の中の首尾一貫した捉え方(と自分の中では思っている…)に反するので、自分の軸が維持できなくなり、選択しなかった相手の事は、(これでも努力したのですが…)相手は存在はしたが私は選ばなかったという形にし、その選択はしなかったという事実が私の中に残るようにしました。
    私には、自分が持てる荷物が少ない(自分が大事にできる範囲が少ない)事を自分で自覚しているので、「もし■だったら、自分は▲だろうか」という思考は、私にとっては意味のわからない話になります。(高校の時に同級生だった子が、もしも話+独り相撲思考+自己完結話をしていた事がありました…。この人は、何をつじつま合わせの話を自分の中だけでしているのだろう…?と不可思議に思ってしまいました…。そして、その子に向かって「もしもなんかないよ」と伝えたところ、キレられ憤慨されましたね…(遠い思い出…))

    • 道産娘
    • 2013年 9月 30日

    確かに発言権は無いでしょうね。(おそらく、クラスメートが何か言えば「黙って聞いていろ」と言うでしょう)
    「正直に白状させる上手いやり方」について。
    そういえばあの時、KYのび太の私は(状況を読まず)バカ正直に罪を認めましたが、一緒にクラスメート達の前に立たされた友達は一度嘘をつきました。
    よくよく思い返せば「嘘をついて言い逃れようとした自分を恥じろ」という「罰」の意味もあり、わざとそう言ったのかもしれません。
    ちなみに、多数派の生徒は「このままだと、いつまで経っても先生の尋問が終わらない」と空気を察して白状するだけで、自己責任云々は考えていないのだろうと想像しますが、おそらくジャイアンADHDのこの先生は、そのことに気付いていなかったでしょうね。

    • F
    • 2013年 10月 02日

    おお・・・違うなあ・・・と思いました。
    私は人によって態度をコロコロ変えているという自覚はなく、自分に一貫性があると思ったこともないです。
    元同僚ののび太さんは「(Fさんは)自分がある・揺るがない」と言い、ジャイアンぽい看護師さんは「我が強い・頑固」だと言うのです。
    後者(我が強い・頑固)の自覚はあるんですけども。
    私は最後のやり取りでずっともやもやとしているのだけど、それが何故なのか考え中です。
    私は
    言うことがコロコロ変わって一貫性がない人が一番困ります。
    と以前書きました。
    私は「件の先生に一貫性がない」とは書いていない。
    また、「一貫性がない人」がADHDであると書いていないし、ASがあてはまらないとも書いていない。
    ・・・のだけど、そこへ「相手によって態度を変えるASは、一貫性がないのでは?」という反応があって、「なぜそういう反応が返ってきたのかわからない」です。
    ・・・もしかして私はエントリの内容を、コメント欄でそのまま再現してるのかな。
    ADHDから見て、「(Fは)一貫性がないにもかかわらず、自分にはさも一貫性があるかのように言うのが許せない」のかな。
    しかし、私は自分に一貫性があるとは思っていない。
    そうすると、今度は「(Fは)一貫性がないという自覚があるのに、他者には一貫性を求める態度が許せない」となるのかな。
    そして私がコメントを続けるのは、私の言葉が足りなくて傷つけたのかと心配になってきたからなのか、それとも誤解されたくない(100%の理解・あるいは見ようによっては自己保身)からなのか、考えています。

    • F
    • 2013年 10月 02日

    小学2年のときの担任の女性教師が「何か変だなあ」と思った最初の先生です。
    漢字のテストが戻ってきたとき、「昼」という字をはねられていました(×をつけられていた)。
    私は教科書と見比べたけど、どこが間違っているのかわからず、授業の最初に先生に聞きに行きました。
    先生は私のテストを取り上げてそれを見ながら、大きく黒板に「(多分どこかが間違っている)昼」という字を書きました。
    そしてクラス全員に向き直り、「Fさんはこれが「昼」と言う字だそうです」と言いました。
    クラス中に笑われました。
    私はそのまま黒板の前で待っていました。
    笑い終わったら、答え(どこが間違っているのか)を教えてもらえると思ったので。
    でも結局教えてもらえなくて、そのまま終わってしまいました。
    私は別に笑いものにされても構わないんですけど、答えは教えてほしかったです。
    しょうがないので席に戻ってまた教科書と見比べたけど、わかりませんでした。
    今でもどこが間違っていたのか、わかりません。
    おそらく、一画目と二画目の間に、一本余計な線が入っていたとかじゃないかと思うんですが。
    子供心に「教師としてどうなんだこの先生」「何かよくわからないけど、私、先生に嫌われてるみたいだ」と思いました。
    もう一度聞きに行こうかとも考えたのですが、また笑われるだけだろうと思い、やめました。
    今考えると、私の聞き方が悪かった(「どこが間違ってるかわからない」主旨の発言を、先生は反発や挑発とかの意味で受け取った?)とか、そんなところかなあと思ったりもします。
    孤立型ASのコメントでも書いたのですけど、私は「えこひいきなんぞ、誰でも(ADHDでもASでも多数派でも)する」と思っています。
    気に入った子供だけかわいがる人もいるでしょう。
    気に入った行動を取った時だけかわいがる人もいるでしょう。
    私としては、法則が読めればアリです。
    法則さえ読めれば(表面上は)合わせられるし、変にやきもきしたり傷つかずにすむのです。
    私の言う「一貫性」は、かなり緩いと思います。

    • F
    • 2013年 10月 03日

    言葉には感情が乗る(仮に発した方が乗せていなくても、受け手は乗っていると感じ取る)からややこしいのか。
    「一貫性がない」とか「意味がわからない」は状態を表す言葉ではなく、受け手にとって挑発的な言葉になり得るからか。
    ガス無しライターのコメント欄でややこしくなったのも、私が「意味不明」という言葉を使ったからだった。
    孤立型ASのコメント欄でやり取りされていた内容が今頃わかってきた気がします。「言葉は記号ではない」んでしたね。
    問題集を解いていて、私はどうして勉強にやたら時間がかかるのかわかってきました。
    私は問題の答えをAだと思ったが、解答を見るとBだった。
    このとき、解説を読んで「あ、なるほど~。Bだわ(終了)」が普通なんでしょう。
    私はいつも「Aじゃない理由」を考えてしまいます。(解説に納得して、なお考える)
    学問は答えはひとつだからそれでもいいのですが、この考え方を対人に持ってくると不幸なことになります。
    (続く)

    • F
    • 2013年 10月 03日

    (続き)
    元彼は、私が時間通りに現れないと、自分のことを嫌いになったんじゃないかとか、他の男といちゃついてるんじゃないかとか、毎回疑っていました。
    そして私に「潔白を証明しろ」と言うのです。
    何時間も続く「説教」を聞きながら、私はぼんやり考えていました。
    無実を証明するのはとても難しい。だから一般的にも「疑わしきは罰せず」で通っているのに、と。
    「『私のことが好きならそういう行動は取らないはず』という台詞は、絶対に言わないでほしい」とも言っていました。
    彼はことあるごとに彼自身のトラウマについて話していたので、大事な人から言われてつらかった台詞なのだろうと推測していましたが、この台詞(『私のことが好きならそういう行動は取らないはず』)自体も、私には無実の証明を要求している言葉に思えます。
    彼と私が苦しみ、お互いの傷を広げてしまった原因がここにあると思います。
    自分には決して悪気はない。
    しかし自分は疑われている。(グレーの評価から脱することはできない)
    自分は白であることを証明しなければならない。
    消極的事実の証明に固執してしまうのがASの生真面目さであり、悲哀を生むのかなと。
    そう考えれば、100%の理解へのこだわりも、自分に不利な事実を説明してしまう変な正直さも、他者からの「ASはしつこい」という評価も、わかります。

    • 道産娘
    • 2013年 10月 04日

    私が「受動型ASの人が、相手によって言動をコロコロ変えるのは、自身の首尾一貫性に反しないのか?」とコメントしたのは、以前から素朴な疑問だったからです。
    こだわりや予定調和と言った「急な変化がストレス」という特性があるのに、対人面において「一人一人、相手によって場当たり的に態度を変える」ことはストレスにならないのだろうか?と不思議でした。(私の首尾一貫性の無い性格とどう違うのか?自身を振り返りながらコメントしました)
    それ以上の意味はありませんが、私は「メールやコメントといった文字だけの情報だと、ASは相手の表情や口振り等の『非言語的な情報』を読み取ることができず、深読みして過剰反応するのではないか?」と考えています。(ちなみに、ジャイアンも過剰反応すると思いますが)
    よく受動型ASの知り合いとメールで喧嘩になり、「直接会話する時は喧嘩にならないのに、メールだと何がいけないのだろう?」と疑問だったのですが、多分私のはっきりとした物言いを「(AS側が)攻撃的に感じる」ことから誤解が生じるのかなと思います。(かと言って腫れ物に触るような言い方だと、今度は的確に伝わらず揉めることになるので中々難しいです)

    • F
    • 2013年 10月 04日

    上記の私と同じじゃないでしょうか。
    「自覚してないから、問題にならない」。
    私は自分のことをAS寄りかなと考えますが、未だにどの型なのかはっきりした確証を得られないでいます。
    *(さまざまなコメント者は私のことを受動型だと言ってましたが、私は外でも人当たりがあまりよくないです)
    ただ、積極奇異の院長のことは、何となく人として好ましく(鉄拳で分かり合うような・・・似た雰囲気を感じる)思うのです。
    (あれだけドンパチやったにも拘らず!)
    それで、私は今このエントリにいます。*
    なので、あくまで推測ですけど・・・
    元彼は非常に人当たりがよかったですが(対私を除く)、元彼の幼馴染に対する態度は「えっ・・・」と思うときがありました。
    時々、「上から目線」が露呈していました。
    私の友人(元彼とはあまり親しくない)と話しているときは、「・・・躁ですか?」と言いたくなるほど低姿勢かつハイテンション。
    安心している相手とそうじゃない相手では応対が絶対的に違いますが、あれは本人は自覚もしてないと思います。
    自覚してなければ、一貫性云々の問題にすら、ならないです。(本人のルールに抵触しない)
    「ASは本当の意味で自分を客体視することが出来ない」というのは、そういう意味かなあと思います。
    元彼は、私には一貫性を「強く要求」していました。
    「お前が言い出したのに辞めるとかあり得ない!」「覚悟が足りない!」と。
    「あんたには関係ないでしょ(迷惑もかけてないし)」ということでも、
    「いいからやれ!」
    「イライラする!」
    「イライラさせるな!ストレスが!」
    「このストレスをどうしてくれる!お前責任取れ!」
    怒鳴る、喚く。・・・オオゴトでした。
    私たちは話をしていても揉めましたが、確かにメールの方が、よりこじれやすかったです。
    「メールの返事が遅い!」とうるさいし・・・。
    受動型は動作性IQが高いのでしたっけ・・・それなら顔を合わせたほうがいいのかもしれません。
    あと、「受動型AS」と限定して知りたいのであれば、受動型に関するエントリでコメントを書くとよいと思います。

    • F
    • 2013年 10月 04日

    ・・・と切ったのに、もうひとつ書いてしまいます。
    「愛着」という言葉を使ったほうがいいのかな。
    私が推測するのは、ASの愛着と呼ばれているものは、ASにとって「例外」なのだと思います。
    最初からルールの外にある。だから基本的に抵触しないと思います。
    上の例でいくと、元彼の幼馴染や私は愛着対象(元彼は自分と一心同体と思い込んでいる)。
    したがって、(きちんと相手を見て合わせるという)元彼のルールからは除外。
    その結果、幼馴染や私には自分本位に振る舞う。
    本当は、元彼のルールはすべての人に適用されていないです。
    でもこのこと(ルールの適用除外、すなわち例外の人間がいること)に元彼本人は無自覚。
    よって問題ない。(本人から見て一貫性が保たれている)
    ただ、少なくとも私にとっては、「愛着は絶対的なものとは言えない」と思います。
    元彼といるとき、私は自分がどんどんおかしくなっている(本来の自分からどんどん逸脱していく)、崩壊の自覚が強烈にありました。
    元彼という人物のために、私のルールをどんどん変えていかなければならない(元彼に合わせ続けなければならない)、それに拒否反応を起こしたと言えばいいでしょうか。
    でも、私が拒否反応を起こしたということは、元彼は私のルールによって、「はじかれた」ことになります。
    元彼は私のルールの適用除外を受けなかった。
    元彼は私のいくつかのルールを捻じ曲げることに成功したけれど(それを承認したのは私だから、一方的に被害者面するつもりはありません)、完全に塗り替えて君臨するには至らなかった。
    それでも私は「元彼の支配から自力で脱した」とは言い難いです。
    私のルールを完全に塗り替えることは拒否できたけど、追い払うことはできませんでしたから。
    これ以上元彼を苦しめるのが怖くて、元彼が私に悪態をついて去っていくのを、ずっと待っていました。
    多分私の方が精神的に強いと思ったから、それは私が引き受けようと思って。
    それが私の限界です。

    • 道産娘
    • 2013年 10月 05日

    それもそうだなと思いました。
    最初の方のコメントで「ASは相手によって態度を変える」と書きましたが、「受動型AS」と限定して書いていませんでした。
    その後、積極奇異型ASの方が真面目に「コロコロ変える自覚はあるが自分ではどうしようも無い」と、自身を振り返ったコメントをして下さったのに、訂正しないままでしたね。
    誤解させてしまって申し訳なかったです。
    あと先生、「他者の問題に足を踏み入れてしまっているであろうコメント」を載せ続けてくださって、感謝しています。
    おかげで「言い逃れ」すること無く、自分の失敗に気付くことができました。
    以後、気を付けます。

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