ADHD関連

ともに考えること

 ASはプロセスを求める。ADHDは結果しか興味がない。

 特に積極奇異型AS-依存型ジャイアンカップルでは、AS側が辛い。AS的に愛着の対象に対して一貫した何かを求めるほど、依存型ジャイアンの場当たり的な「自分の無さ」に絶望的に苦しむだろう。

 ASは「愛着の対象が自分を理解できない」ことを想像も出来ない。第一感、「自分を100パーセント分かってくれていることは当たり前」 ということになる。だから少しでも「理解されていない」ことがあるとひどくショックを受けることになる。

 対して依存型ジャイアンは、場当たり的にその場その場の相手に合わせているだけで、一貫した自分の考えも無く、結局責任も負えない。ただ「非言語的な表面的なその場だけのフォロー」は得意なので、積極奇異型ASやジャイアンが引っかかる。

 依存型ジャイアンこそ、「究極の結果主義」だ。「相手が怒り出さなければ良い」 「利用できる関係を維持できれば良い」という結果だけが大事で、そのためには極端な話「手段を選ばない」。

 だから依存型ジャイアンをコントロールするには、「怒って見せたり喜んで見せたりしながら、表面的に非言語的な対応を引き出し続ける」というようなことになる。

 言語的に説得するとすれば、「話を聞いてもらうこと自体が目的だ」 と説明することになる。「結果」として話を聞くことに相手にとっての「意味がある」ことを認識すれば、依存型ジャイアンは巧みに合わせて、(実際は表面上でしかないのなだが)「話を聞く」ようにすることは出来るだろう。

 AS側には、私は「100パーセント理解した結果を求めると不幸な結果になるので、理解しようと相手が努力していることで妥協するように」と勧めている。

 「ともに考える」ことはプロセスと結果をギリギリ両立させる数少ない道であるのだ。


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コメント

    • ぴよよ
    • 2009年 2月 06日

    つまり『ジャイアン&AS』カップルを前提にした、ともに理解の上で折り合いながら関係を続けるための結論、ととらえていいでしょうか。
    最終的にこれができないと、どこまでも喧嘩か不健康な共依存しか道は無くなりますよね。
    カップル二人いるうちのどちらかが精神科医にかかる事態というのは、それだけでももう治療を要する異常事態といえると私は思います。
    治療しながら行なう喧嘩の仲裁は大変だと思います。先生のような所には、特に重症なこじれかたをしたかたが持ち込まれると思います。
    お互いに相手の“本性”が見えない特性持った同士で、特にASはそれに“賭けて”しまいますから、一筋縄ではいかないでしょうね。
    ASは理解して貰うことと引き替えに、命でも何でも差し出せますから。自分の存在理由でも、精神安定でも、身体的自由すらも・・・。
    それを諦めるということは、理解というご褒美抜きで何のために相手の側に居続けるのかを考えなければならなくなるわけです。特に発達障害の自覚のないAS傾向にとっては、絶望しなさいと突きつけられたように感じるかもしれませんね。
    私が、自分には結婚は無理だと判断した理由も、これらのリスクです。
    愛着対象として設定した相手は、おそらく私の頭に勝手に住み込み続けるような事態になると思いますので、自分は愚か相手も見えなくなって、何のための恋愛なのか解らない、非常に無意味で非生産的で破壊的な状態になるとしか思えないからです。
    私の選択は、人として正しいとは考えていません。おそらくリスクを考えても考え無しでも、恋愛や結婚に踏み切った人達は、私にはなし得ない人間的成長ができるのかもしれません。
    私はこれ以上自分がおかしくなることなく、安全に食べていくことを優先してしまいました。
    自分の結論は置いておいて、当事者の恋愛を考えるとき、これからは例えばカップルカウンセリングなどするとしたら、発達障害または障害と呼ぶまでもない傾向持ちの人も、双方の障害と特性の認知は必要になるケースは増えそうですね。認知と、あるいは診断も。
    そして個人的に思うに、人が合わせてくれたら、最後は互いに「ありがとう」が言えるかが人としての品や器を決めると思います。

    • 2009年 2月 06日

    私の望む事・・・私の自分の嫌いなところも相手に受け入れてほしい・・・
    と、心の奥底では思ってるくせに、表面的には、
    あなたの夢を叶えてほしい・・・あなたの好きな事だけをしていてほしい・・・
    等と思おうとしていて、そういうことも相手に言ってしまいます。
    相手にうそをつきたくない・・・
    ・・・等と思っているくせに、言ってるくせに・・・

    • mican
    • 2009年 2月 06日

    年末から、あるトラブルと対峙してきました。
    「自分が解っていない」ことを“知らない”とは、これ以上の怖い事(不利)は無いというのが実感です。
    私達はトラブル事態、なぜ起こっているのか、何がいけないのかを全く理解出来ませんでした。しかも、夫は全て私に丸投げ、相変わらず他人事です。
    いつものように動き回り、必死に打破に向けて考えるのは私。今回の夫は面倒がらず、行動を共にしてくれましたが、やっぱり代案は100%出ませんでした。
    夫は投出さないよう我慢している様子でしたし、私は不安(ヒステリー)を抑えるよう心がけましたが、最後の最後にとうとう喧嘩になってしまいました。
     最終局面で夫がサインをしました。家に帰ってから、私にはサッパリ解らなかったので、夫は何をどのように理解していて、いったい”何に”サインしたのか確認したんです。私も解らない訳で、夫にサインを丸投げしたのだから、責めているつもりではありませんでした。
    ところが、夫が「あなたが止めなかったから、サインして良いと思ったんだ」と怒り出したので、私はパニックになってしまいました。
    結局、二人とも何も解らないままサインしてしまった。夫は私が責めていると思い「裏切りだ」と言って泣いたんです。責めるつもりは今もありません。結果は二人で受け止める他に道が無いので。
    でも、解らないのにサインしちゃダメです。私には夫が解っているのか、解ってないのかも解らないし。私も解らなかったら人の目なんか気にしている場合ではなく、サインする前にもっと「解らない」と言い続けなければいけませんでした。
     私が自分を反省するのは夫の為だけではありません。
    先生の言うとおり「結果重視」だからです。苦境を乗り越えて、自分の住処を良い環境に保つ為には夫と協力(お互いできる範囲で)する他に術が無く、お互い抱えている不可能な部分は諦めるか、フォローし合うしかない。そうでなければ自分の良い環境を保つ事が出来ないから・・・つまるところ、自分の為です。
    でも、それは夫にも良い環境で、結果として「生き良さ」がセットで付いてくる筈と思うのですが・・
    -「ともに考える」ことはプロセスと結果をギリギリ両立させる数少ない道であるのだ-
    目指すところはこれです。でも道のりは険しく遠いです。

    • 2009年 2月 08日

    最近、私自身、とても過集中に陥ってしまい
    結婚以来考え続けていた事・・・夫と私の関係、母と私の関係等、今までとても悩んでいた事が、考えられなくなってしまい、又息子の事も全然気にならなくなってしまい・・・
    結果、自分と向き合うことも出来なくなってしまっています。
    やんばる先生のように公の人のためになるような過集中なら、良いのですが・・・
    私のその過集中のおかげで、ここ2ヶ月の間に、5kg痩せて・・・
    でもピアノを弾くときの感情が、とても入るようになってきました。まぁ、仕事的には良い事なのですが・・・
    こんな気持ちは、本当に20年ぶりです。
    こんな私は、やっぱり結婚にはむいていなかった・・・
    ACが取れて、本物の自分自身がようやく見え始めてきた今、
    このような自分をもてあましています。
    デモでも、どうして私ってこんなにも両極端なのだろう・・・

    • のりまき
    • 2009年 2月 12日

    先生のADHDやASについての分析には、大変お世話になっています。ADHDと思われる私も、先生の分類や分析をもとに、自分なりに色々と考えています。
    ASの人とADHDの人は、思考の形式に大きな違いがありますが、最も大きな違いは、ASの人は非常に演繹的にものを考え、ADHDの人は経験的、連想的にものを考えるという大きな違いがあるような気がします。この二つの思考形式は、人間ならば誰しも持っているもので、あくまで程度の問題だとお考えください。
    ASの人は演繹的にものを考えるので、結論の正当性を主張する為には、プロセス(すなわち、数学における計算の過程を明らかにすること)の正当性が要求されます。勿論世の中は数学的に存在しているわけではないので、この思考形式では大きな問題が起こりますが、ある特殊な領域、特に人工的な領域においては大きな力を発する。(論理学、物理、数学、情報工学など)
    逆にADHDというのは連想的にものを考えるので、悪い方向にいけばどうしようもないことになってしまうのですが、人生経験によっては、直観的であるにもかかわらず鋭い状況判断になる場合もある。
    また、ASの人の場合、自我と他我の境界があやふやだという弱点があると思いますが、彼らにとって「議論」というのは、自分の思惑とは外れて勝手なことを言い出す他我を、理論によって征服し、自我と統合する為の過程になってしまっていることが多い気がします。
    しかし、そもそもの議論の目的が自己中心的で盲目なので、一見演繹的な形式を装っていながらも、奇妙な論理を作り上げていることが多々あるような気がします。非依存的ジャイアンと合理的ADHDの中間(いったりきたりしてます)である私は、論理の奇妙性を指摘してしまうことが多かったのですが、それがASの人を一時的パニックに陥れてしまうことがわかりました。
    いずれにせよ、演繹的なものの考え方って、その時の感情の状態によっては、すごく悪魔的なものになりかねないと思います。
    先生の、ASはプロセスを重視する、というご観察を私なりに考えてみました。

    • ぴよよ
    • 2009年 3月 14日

    意見より愚痴になってすみません。
    職場で“メンタルヘルス自己管理ワンポイント”みたいな意味のパンフレットを配られました。
    配られただけでどうするというわけではありませんが。
    中身はイラッときました。
    私の経験と認識では病気になる程の不適応が起こるのは、もう誰とも話し合いが成立しなくなり、味方と理解者がいなくなり、事態を打開したいという本音を発言する場が全部塞がれて、そうしたいそぶりも見せないように自主的に気を付けるようになってから病状進行を始めるものだと思っています。
    だから重症なケースの根本解決の方法は、上司による慎重な移勤、環境をガラリと変える対処だと思います。
    それを話し合いや、共感的受けとめばっかり、こんなに対人トラブルが複雑化して重症化した今の時代に!
    それが基本なのは承知しているつもりですが。
    でも話し合いが可能な現場ばかりではないと、偉い人達はどの位認識しているのでしょうね。
    カップルは個人的繋がりですから、他者が監視できないからこそ“ともに考える”責任と義務があると思っています。
    しかし社会は、労働と報酬という契約がされる場所である以上、一度上下関係ができたら、その力関係をいつまでも強いほうが行使する可能性が出てきてしまいます。
    AS傾向にもジャイアン傾向にも多数派にも誰にでも加害者と被害者になる可能性はあります。
    本来の目的からどこまでも逸れ続ける事態を元に戻す方法は、立場や説得技術の弱い者がいつまでも我慢し続けることではないはずです。
    生命に危険な位正常な判断力を失っている場合を除いて、相談専用電話先に電話をしてどうなるのか、非常に疑問です。
    もう一回り厳しい内容で、偉い人達にこそ配っておいて欲しいです。

    • 道産娘
    • 2012年 9月 05日

    最近、私は依存型ジャイアンじゃないかと思うようになりました。
    >ただ「非言語的な表面的なその場だけのフォロー」は得意なので、積極奇異型ASやジャイアンが引っかかる。
    自分では合理的に考えてるつもりでしたが、結局本人を目の前にすると機嫌とってしまうんですよね。(後々考えた時腑に落ちなくて、メールで問い詰めてケンカになりますが…)
    >だから依存型ジャイアンをコントロールするには、「怒って見せたり喜んで見せたりしながら、表面的に非言語的な対応を引き出し続ける」というようなことになる。
    かなりコントロールされてました。
    そもそも依存的な人ばかり集まってきて、その人達に振り回されている時点で、自分も依存心が強いことに気付くべきでしたね…
    最近動悸やふらつき、ヒステリーに似た苛立ちがよく起こるので、もう限界かも…と思いますが、やはりマタタビから支配に持ち込まれて、相手の一方的な押し付けから一端は破綻しても、またマタタビに引っ掛かる…の繰り返しで、ASの人と上手く距離が取れずに困惑しています。
    >「ともに考える」ことはプロセスと結果をギリギリ両立させる数少ない道であるのだ。
    相手の愛着やこだわりを理屈では理解したつもりでも、自分の依存心が無くならない限り、きっと安定した関係は望めないでしょうね。
    迷惑なのは相手も同じか…

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