AC、人格障害関連

原点回帰

 3月中旬から休みも引越しがあり、5月の連休明けもいろいろバタバタして、メール相談の返事が滞っていた。やっと最近になって遅まきながら返事を書き始めた。

 毎回感じるが、「メール相談への回答が私の原点だった」と思う。県の支援センターに関係する仕事などをしていて、結局続けられなかったのであるが、またもや天狗になっていた。

 私の原点は、「メール相談に応じる一当事者で医師でもある人間」であり、それ以上の何かであるといつも勘違いをして失敗を繰り返している。

 この勘違いに気付かせてくれるのがメール相談である。

 そう言えば最近は「発達障害は子供だけと言われた」とか、「どこの医療機関でも診られないと言われる」といった以前は非常に多かった相談がめっきり減ってきた。

 やはり全国的に発達障害者支援センターが機能して、成人発達障害を診られる先生方が増えているということだろう。

 私の立ち位置は、「精神科医であると同時に当事者でもある」という特徴で、そこを原点に私に出来ることを細々とやって行く方法を考えよう。

 私の出発点は二次障害重症の情緒障害系ジャイアンACであり、もともと社会に少しでも居場所が与えられているだけ上等と考えるべきだ。これは非常に大事なことなのであるが、毎回忘れて尊大になってしまう。

 これは取りも直さず私のジャイアン的な中心志向の結果である。自分のことながらこの強すぎるエゴをコントロールし続けることの難しさを痛感する。


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コメント

    • 匿名
    • 2010年 5月 30日

     私のHPまでメール相談した方で、お返事が不着になった人がいます。4月13日に携帯から相談された方が見ておられましたら、再度返信用のメアドをお伝えください。
     (なお考えがあってお返事しないことにしている方もいます。そういう方に限って督促されますが、私は急ぎや重症のケースには対応できません。あせって返信の確認などはご遠慮ください)。

    • YK
    • 2010年 5月 30日

    「つながり」というところで頓挫しています。
    人間は一人では生きていけない、
    みんななんらかの関係性の中にいる、
    それはまるで蜘蛛の巣のように繋がりあっている、
    個別化している人間は、統合(ワンネス)に向って紆余曲折を経ながら進んでいる。
    そんな言葉を聞くと、
    息苦しさを感じる。
    糸を引きちぎって逃げ出したい衝動を感じる。
    それは発達障害だから?
    それとも怠惰だから?
    ものすごくがんばったら人の中にいられるけれど、
    続かない気がする。
    どこかで爆発しような気がする。
    あるいはウツ化しそう・・・。
    何十回繰り返してきたんだろう・・・。

    • nori
    • 2010年 5月 30日

    自分は死ぬまで
    「人と触れ合うこと」「成熟すること」「愛情を与えること」「自己中心性の消失」が
    できないと思うと自分の人生ってなんなんだろうと最近
    本当に虚しくなります。
    本当に消えたいって最近思う事あります。
    先生と同じように僕も二次障害重症のジャイアンでした。
    そうですね僕の原点もそこです。
    一回死んだと思って生きるしかないと思ってます。
    もがき苦しんで生き続けてもその先に幸せが待ってる可能性なんてないかもしれないって頭の中にあったとしても。
    今僕の支えになってる言葉です
    「人生は幸せになるためにあるのではなく、自分の運命を享受するためにある」 ロマンロラン

    • あまがえる
    • 2010年 5月 30日

    原点回帰は大切なことだと思います。
    天狗になってしまうのは致し方ないと思います。
    独りでも気づいた時点で天狗から元へ戻って来れますが、
    ”天狗?”と囁いていただければ、助かりますです。

    • のりまき
    • 2010年 6月 01日

    謙虚な気持ちというのは、傲慢な人だけに感じられるものではないかと思います。有頂天になったことのない人が、心から謙虚な気持ち(周りに恥じ入り、深く感謝する気持ち)になることがあるでしょうか。「感情」というのは「コントラスト」である、という説もあるようですが。
    先生の、3歩歩いて2歩下がる生き方は、ジャイアンの唯一、前向きに生産的に、そして健康的でいられるあり方なのではないでしょうか。(たいへん面倒くさい生き方ですが)周りの人の理解やフォロー、または先生のような強靭な一面のある人は、3歩あるいて3歩さがったり、4歩さがることにはならないと思います。
    以上のような点から、私は、先生の傲慢である一面こそが他の人にはない大切なものであり、同時にそれを見つめ続けている先生はとても謙虚な方であると思っています。
    原点も胸の中に置きながら、どうか先生の理論の独自性に自信をお持ちになり、何らかの形で学会に問うてみてください。まず全体のスケッチを「簡単に」「書きおこし」、小さなことからはじめればよいと思います。時々間違っていても、周りからのフィードバックを参考に修正しながらいけばよいと思います。完ぺき主義はほどほどがよいかと思われます。先生の理論の独自性は、他の理論が発達障害を「Obeject」としてとらえているのに比べ、発達障害者として内から「Reflection」を行っていることにあると思います。アプローチが違ういますし、とても哲学的な問題です。
    私も、自分はたいしたことは無いのではないか、わざわざ発表するまでもないことなのではと思いつつも、「まあ失敗したところで私が恥ずかしい思いをするだけの話で、周りには特に迷惑をかけない」というロジックで学会に挑戦し続けております。そこが、個人的な問題にとどまることができる学問のよいところです。
    こんなことを人生の大先輩であり、多くの結果を出してきた先生に書き送る私も傲慢だなあと思いつつ。。。

    • 匿名
    • 2010年 6月 02日

    小生は精神科以外の医師ですが、かつて精神科医を目指して多少の勉強をしたこともある当事者という立場で細々と活動しています。
    YANBARU先生とのりまきさんに敬意を覚えるとともに、自分のやっていることも間違いではない、と勇気付けられます。

    • nori
    • 2010年 6月 05日

    じゃあ みさん に逆に問いかけます。
    ADHDの人でもASの人でも特に診断されてまもない人は「普通でありたい」と思ってる人はたくさんいると思います。それは自分の中で色んな葛藤があるんです、もの凄い葛藤です。正直いま僕はもの凄くもがいてます。
    みさんの色んな経験を通して、adhdをどうやったら社会に
    貢献できる能力になるのかと考えれる境地までにいってる
    ことには尊敬できます。
    僕自身そこまで考えれるようになりたいとも思います。
    でも「思考の深度に敬意を示す」というのであれば、「普通に生きたい」と思ってる人の思考の深度にも敬意を示すというのはおかしいですけど、「わきまえたらよい」と頭ごなしに言うのではなく理解することはできませんか?

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 7月 05日

    「原点回帰」・・・今の自分に一番大事なことだと思いました。「更年期障害の症状」や「日々の忙しさ」でいつの間にか忘れていた「自分の原点」に戻りたいと強く感じています。ピントがずれても忘れても何度でもそこに戻ろうと思います。

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 7月 21日

    近いうちに親戚のお葬式があり出席することになりました。
    二者択一で「自分のスタイル」を選んだ私にとって、大勢の人が集まる場所に行くのはお葬式ぐらいになっています。
    葬式の連絡が来た時に一瞬、「おっくうだな、疲れそうだな」という考えが頭をよぎりましたが、
    「自分ノ原点ニシッカリト立チ 無理モセズ 嫌ガリモセズ
    淡々ト 葬式ニ出ル サウイフモノニワタシハナリタイ」
    という感じで行ってこようと思います。

    • ぴよよ
    • 2010年 7月 24日

    ここで扱われた原点回帰とは、具体的には、謙虚に地味な立ち位置、地味な行動に返り、その意味を再認識することだと読み取りました。
    自己決定が心身の健康の第一条件であり、そう生活できる環境を自然体として渇望しているジャイアンタイプのかたがたに対し、ASの頭は微妙に違います。
    自分を囲む環境、人一人残らずからの承認、“規則的に毎日、あなたはこれこれこのようにするのがいいよ。”と許されている設定を、自然体で生活するための条件として求めています。
    だから、ASが原点に返ろうとすると、自分を必要とする存在を探すことや自分の頭のプログラムのセットを、基本的な健康管理を忘れてでも過集中的に更新し続けることにこだわりがちです。
    私達AS達は、自分の障碍が発覚してからの長い、長い、長い間をかけ、ここのこれこれは普通の愛情関係じゃないよ、愛着行動と言って一方的な執着だから良くないんだよ、それから社会に出たら他人の顔色や立場に合わせて正しい外面を被るんだよ、これはいい悪いではなくて誰もがしていることなんだよ、等々等々と、真実や法則を知らされていきます。
    それにも過集中して、時には正解を求めての脳内シュミレーションと仮説の模索、あるいは独自の内面世界と、現実世界の区別が付かなくなる危険があります。
    当事者によっては入院とか転地療養等で、ASの原点に戻り違う環境、自分の都合に適した環境に頼らないと正気に回復しないケースもあります。こうなるとなかなか地味にも謙虚にもたどり着かなくなります。
    そうしても回復しないかもしれないリスクもあります。
    一度プログラムされた世界は絶対。
    正常な世界に戻ってこれない可能性があります。
    社会に出るとはそういうこと。
    だから過去に出会ってきたAS当事者の中には潜在的本能的に身の危険を感じてか、自分の内面世界を過剰に正当化するかたもいました。
    それでも、それでも、目指す最終目標は自活と自立でしかないのですよね。
    原点に帰れても返れなくても。
    それが健康なことであってもそうでなくても。

    • 黒すりごま(AS)
    • 2010年 7月 26日

    「原点に回帰する」と一口に言っても、その人その人で全く中身が違うのだなあと改めて実感しました。(当然といえば当然ですね。)
    私の場合の「原点」はずばり「瞑想」なのですが、以前はこの「瞑想」に「万能感」を抱いていました。人間には必要なものだと思っていました。
    でも最近は瞑想がマッチする人もいれば、全然合わない人もいること、また更年期障害などで、脳の状態が変化すると
    以前は瞑想で簡単に乗り切れた問題が全く乗り切れなくなり、薬のお世話になったりすること等を学習いたしました。
    自分の原点と位置づける瞑想の「万能感」が完全に崩れ去った状態で、改めて私の場合は瞑想の原点に戻ることに意味を感じています。
    このように多様な人間ですから、原点に「回帰する」必要が
    ある場合とない場合、回帰しない方がかえってよい場合などいろいろあるのかもしれないなと感じました。

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