AS(アスペルガー)関連

カミングアウト

 私の関わっているASの方が二人、思い切って関係者にカミングアウトして、うまく理解されず、かえって本人が傷つくということがあった。

 ADHDはまだ「本当のことだから仕方が無い」という風に割り切って考えられるが、ASの人の理解を求める衝動はあまりに強く、中途半端な理解にはとても耐えられない。

 一件は主治医として本人のために徹底的に分からせるまで戦うつもりで居るが、もう一件は本人がもう受け入れられないほど辛くなってしまい、カミングアウトの持つ難しさを私自身もっと慎重に考える必要があることを痛感した。

 私のテレビ出演はカミングアウトという意味になる。一緒に働いているスタッフなどから、「面白かった」言われて、「へえそんなものか」と私は思う。あっけない感じもするし、不安になるほどのことも無いという感じもする。

 2件とも、「あなたがASであることが悪いのではない」とはっきり言った。実は誰も悪いわけではない。「理解が無いことが問題」なのだ。 http://www.geocities.jp/yanbaru5555/adaptation.htm


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コメント

    • yoccyan
    • 2006年 11月 02日

    >、「あなたがASであることが悪いのではない」とはっきり言った。実は誰も悪いわけではない。「理解が無いことが問題」なのだ。 
    とありますが、これだと、「周りに迷惑なのに理解だけ求めるんか?」という声も聞こえてきそうですね。
    犯罪になるようだったり、あきらかな行き過ぎは困るんですけど、要は『いろんなタイプの人がいるんだよ』ってことを世の中が受け入れるのがいいよ、ということですよね。
    そんで、どちらかが困る場合は、「あんたのタイプではこうなのかもしれんけど、そうでない人もいるから気をつけてみよう」ができるか、できにくい場合は対策を考えてみようってことになるのだと思うのですが・・・。
    人間としてとっても当たり前なことを言われているのですよね、先生は。ステレオタイプな○○像(○○は各自ちがうけど)にはまる必要はない、ということですよね。
    あとは、子供の養育やその他で、同様の生き難さを再生産しないように、生きていく上で、自分の生き難さを増やさないように、という問題が出てくるけど、どうするか、という問いかけ呼びかけでもあるのですよね?
    このスタイルでよいのであれば(過剰に相手のタイプに反応したり気にしすぎたりせず)、多数派も付き合っていけそうに思います。正確なカミングアウトが必要ないケースも出そうですね。
    丁度板ばさみになってて、無理解派にどう示そうかなぁと端的な指針を探していたのです。頭が悪いので理解不十分でしたら、ご指導下さいませ。

    • 匿名
    • 2006年 11月 02日

    yoccan様
     コメントありがとうございます。
     私は「周りに迷惑」という見方自体しません。多数か少数かの違いがあるだけで、異文化理解の問題ですから。「迷惑」というのは当然お互い様で、例えば少数民族が文化まで変える必要がないのと同じように、少数派が無条件に多数に従う必要は無いと思います。
     私はこういう議論をする時は、「まずこの生徒にも教育を受ける権利があるところから出発しましょう」と言うことにしています。たとえ多数派と比べて手間がかかっても、教育を受ける権利があるから学校に行き、法律に違反しない限り基本的人権を認められているから世間で生きているわけで、後は全てお互いの理解と妥協の問題と考えています。
     ある学校で生徒のミーティングに参加して、私は「それは文化の押し付けです」と反論したことがあります。それくらい言わないとマイノリティーへの理解は引き出せません。またそれくらい言わないと本人の二次障害が悪化するだけです。
     私はこう考えます。ことが異文化理解なので、穏便な方法だけでは出来ないこともあります。お役に立てましたか?
     http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/
     

    • yurin
    • 2006年 11月 02日

    カミングアウトの本来の目的は『理解するため』というところにあると思います。なのに、それが逆方向に向かってしまうとは悲しい限りですね。
    多数派にとって彼らが『困る行動』をするときは、
    精神的に不安になったとき、彼ら自身が困ってしまったときに起きる、ということをまず『理解』して欲しいです。決して困らせてやろうという意図はまったくない、ただパニックになってどうしてよいかわからなくなっているだけ。その原因を取り除いてあげれば殆どは落ち着く。ここらへんをきっちりわかって欲しいと思います。
    あと『脳の働きの違いがいかに、多数派と同じように行動するだけでも大変であるか』。
    なかなか分かり難いのかもしれないけれど、それがわかれば、たいそうなことをしなくても、ちょっとしたことで事態は変わる可能性はある。たとえば一人になれる居場所を作るだけでも、本人にとって随分助かって、多数派にとって困った行動も減ってくるんじゃないかと思います。
    発達障害児(者)は多数派が思ってる以上に、いろんな意味で疲れやすいものです。学校行事も、多数派なら2時間やって平気なところ、1時間くらいでダメだったりしますし、学校生活を普通に過ごすだけでもストレスが多い。これもそういう『体質』という理解で配慮できると良いと思います。

    • yoccyan
    • 2006年 11月 02日

    あ、失礼しました。モチロン少数派も多数派を迷惑だと思うこともあるのでお互い様、であります。
    ですので、そのうえで、お互いが「考えてみようか」になるわけで。
    うーむ、書き方や使用言語そのものもマジョリティ/マイノリティ構造になっているのって、わりと気づきませんね。ごめんなさいでした。強者>弱者、多数派>少数派という論調にならないように気をつけねば。
    ありがとうございました。

    • ALIVE
    • 2006年 11月 03日

    こんにちは。
    ここは、いろいろな立場の人からの、率直な意見が書き込まれていて参考になります。
    yurin様のコメントは、発達障害を持つ人をとてもよく観察しているなと思います。
    真剣に向き合って観察するという行為そのものが理解なのではないかなと、感じます。
    コメントを読ませていただくと、私はほっとします。
    yoccyan様のコメントは、多数派の意識そのもので、参考になります。
    以下、AS的思考の率直な感想です。
    >これだと、「周りに迷惑なのに理解だけ求めるんか?」という声も聞こえてきそうですね。
    基本的に、発達障害を理解しようという姿勢をもつ人からは、迷惑という表現を
    どのような形式であれ、聞いたことがありませんでした。おどろきました。
    私は、私に係わる人々を困惑させ、疲労させてしまう事実を知っています。
    それでも生きていかなければなりません。
    理解だけを求めないように注意したいと思います。
    >犯罪になるようだったり、あきらかな行き過ぎは困るんですけど、
    >要は『いろんなタイプの人がいるんだよ』ってことを世の中が受け入れるのがいいよ、
    >ということですよね。
    なぜいきなり犯罪という言葉まで飛躍するのかは理解できないのですが
    やはり発達障害に犯罪を無意識に関連つける表現が、多数派の方程式なのですね。
    多数派の理解できる範囲での行き過ぎはいいけど、その範囲を超えたら何らかの
    対策が必要というのは、現実的だと感じます。
    ですから私は、犯罪になるようだったり、あきらかな行き過ぎに対応するため
    自身の緊急入院ルートを構築しなくてはいけません。勉強になります。
    続く・・・

    • ALIVE
    • 2006年 11月 03日

    ・・・続き
    >このスタイルでよいのであれば(過剰に相手のタイプに反応したり気にしすぎたりせず)
    >多数派も付き合っていけそうに思います。
    やはり多数派の認めるスタイルに合わせない限り、少数派は付き合ってもらえないのだなと
    実感する表現です。実に現実的世界観だなと思います。勉強になります。
    >丁度板ばさみになってて、無理解派にどう示そうかなぁと端的な指針を探していたのです。
    この表現から読み取れるのは、yoccyan様は直接的に発達障害者に関わっていて、無理解派に
    対して理解を得ようと努力されている人なのですね。ぜひ理解の輪を広げてほしいです。
    YANBARUドクター様
    >穏便な方法だけでは出来ないこともあります。
    確かにそのとおりだと思います。

    • 匿名
    • 2006年 11月 03日

    コメントありがとうございます。
     
    yurin様
     一人ひとり地道に理解者を増やしていく努力をするしかないですね。
    yoccayan様
     一般的な「人はいろいろ」という表現は逆に発達障害と多数派の間の理解の困難さを分かりにくくすると私は感じています。発達障害の二次障害はそういう「人はいろいろ」という話のレベルではないというのが二次障害を経験してきた当事者としての私の印象です。
     むしろ「理解は不可能に近い大変なことだ」「それでも法律があるから、少数派の権利があるからやらざるを得ない」という話にしたほうが困難さが分かって良いと私は考えていますが、そのとおり伝わらなくて私も悩んでいます。
    ALIVE様
     カミングアウトは発達障害にとって「生きるか死ぬか」に
    直結する問題であり、担当主治医として私はそれを行うタイミングや準備について慎重であらねばならないという感を強くしました。
     このあたり楽観的な見方に偏るADHDの障害の部分かもしれません。
     
    コメントありがとうございました。
    http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/

    • yurin
    • 2006年 11月 03日

    ALIVE 様
    >コメントを読ませていただくと、私はほっとします
    なんだか恐縮です。だけどそう言ってくださることが嬉しいですね。
    >なぜいきなり犯罪という言葉まで飛躍するのかは
    >理解できないのですが
    >やはり発達障害に犯罪を無意識に関連つける表現が、
    >多数派の方程式なのですね
    私は、多数派をそれほど良く観察できてはいないと思います。
    何故なら、
    その多数派の中で私はずっと生きにくさを感じてきましたから。
    恐らく、多くのところを外していたのだと思います。
    そんな私の予測なので、あまり説得力はないかもしれませんが、
    多数派すべてがこのような見方をしてはいないと思います。
    多数派の人もいろいろです。
    中には、発達障害者の良き理解者は
    少数かもしれませんが、きっといるはずです。
    どうか、安心して、そして自信を持って生きてください。
    ・・・ということは、
    自己評価の低い私が言うと、
    あんまり説得力がないかもしれません。
    きちんとそう言えるように、
    もう少し自分に自信が持てるようになりたいです。

    • ALIVE
    • 2006年 11月 03日

    yurin様
    >多数派の人もいろいろです。中には、発達障害者の良き理解者は
    >少数かもしれませんが、きっといるはずです。
    >どうか、安心して、そして自信を持って生きてください。
    そうですね。確かに十人十色ですね。
    あきらめずに、一歩一歩、足元みながら、進むしかないですね。
    それに理解者は必ずいるはずですよね。
    どうもありがとうございます。
    YABNARUドクター様
    YANBARUドクター様が、決して権威をふりかざすことなく、発達障害者の立場最優先で
    行動し、最大限の配慮と、最大限の機動力を使ったのは、事実です。感謝しています。
    全力を出されたことを、私は知っています。
    カミングアウトに関していえば、YANBARUドクター様がひとりで全てを背負うことなく
    みんなで考えて、行動できるようなシステムがあるといいかなと思います。
    (このブログを使って、将来みんなで考えることもできますよね。)
    >タイミングや準備について慎重であらねばならないという感を強くしました。
    タイミングの判断は難しいです。結局、つねに相手次第ですから。
    ただ、カミングアウトが裏目に出たときの対策は、事前に検討しておくほうが
    いいかもしれませんし(難しい作業ですが)、事前準備に関しては、時間をかけて
    具体的にシュミレーションするぐらいの手間隙かける必要があると思います。
    (特に学校とかの閉鎖的場所でのカミングアウト)
    それもやはり、YANBARUドクター様が一人で背負ってしまい、悩むという形ではなく
    (個人で対応するのではなく)カミングアウト支援システムのようなものを構築して
    システムとして対応する必要があると思います。(ここでいうシステムとは学校や
    会社等の組織に対応するためのシステム。組織対個人という形式を避けるための
    方式)
    続く・・・

    • ALIVE
    • 2006年 11月 03日

    ・・・続き
    >カミングアウトは発達障害にとって「生きるか死ぬか」に直結する問題であり
    AS当事者の私に限っていえば、カミングアウト以前に、日々が「生きるか死ぬか」状態
    ですので、カミングアウト自体は苦痛ではありません。
    ただやはり、結果として排除の方向にベクトルが向くと、自身の怒りや困惑をおさえる
    事で精一杯になってしまいまし、途方にくれるのも事実です。
    >このあたり楽観的な見方に偏るADHDの障害の部分かもしれません。
    いえいえ、その楽観的な見方が、私のような人間には助けになります。
    (事実として、かなりの人が私と同意見だと思います。)
    そして、その楽観的見方が、例えば、「べテルの家」のようなシステムを
    生み出すのではないでしょうか。
    ですから、偏屈者宣言もされていることですし、全国に自身の生き様を表明された
    事ですし、このままあるがままないがままADHDドクターとして存在していてください。
    (私はテレビも見ないし新聞も読まないので、テレビの放送内容は知りませんが)
    失礼な表現かもしれませんが、ADHD独特の無防備さが、逆に、目の前の具体的
    課題に即座に全力対応できる要因なのかなと思いますし、その資質ゆえ、
    思いもよらなかった展開を、引き起こせる可能性があるのではないでしょうか。
    今回のことはあくまでも途中の経過であって、最終結果ではないです。
    (そもそも、患者側のこのような意見に耳や目を傾けるドクターは少ないですし、
    一対一の対等性をもって接してくれるドクターは皆無です。)
    YANBARUドクター様におきましては、日曜、月曜はしっかりと休養して
    いただけたらとも思います。

    • 匿名
    • 2006年 11月 06日

    コメントありがとうございます。
    ALIVE様
     「カミングアウト支援システム」の必要性は私も感じております。今後もこういった提案をよろしくお願いします。
    (なおこのスレッドに関して、いくつかのコメントを「削除」させていただきました。私が明らかに「発達障害に対する無理解に基づく」と判断した場合は、削除いたします)

    • ALIVE
    • 2006年 11月 09日

    AS独特のロックオンシステムが作動して、いまだにカミングアウトの事を
    思考しています。ようやく自分なりに整理できましたので、書き込みます。
    みなさんの意見を聞いてみたいです。
    カミングアウトは自分にとっての必要性を考えるだけではなく
    カミングアウトされる側(相手側)に、どのようなメリットがあるのかを
    同時に考えておかなければならない事に気がつきました。
    結局、多数派世界は損得勘定という概念があり、メリットがなければ
    即排除でしょう。厄介な事には関わりあいたくないし
    厄介な事になりそうな事にも、関わりあいたくないでしょう。
    当たり前のことなのかもしれませんが、ようやく気がつきました。
    要するに「周りに迷惑なのに理解だけ求めるんか?」に対する戦略が
    必要であるという事です。多数派世界の意識が集約されている見事な
    書き込みで、参考になりました。
    解析してみると簡単な数式でした。

    • ミリ
    • 2006年 11月 10日

    カミングアウトして、理解されるほどの土台が、社会的にまだまだ整備されていなくて、これから、その土台を作り上げていかなくてはならないのだろうと思います。
    その土台とは、先生のこのブログもその一つだし、当事者、ご家族、また、関係する医師、カウンセラー等の方々の個々の活動もそうだと思います。
    学校でのADHD、AS児童に対する理解も、まだ、十分とはいえない状況に思いますが、大人に対しては、もっとだと思います。
    私自身、このブログを拝見させていただくまで、「ADHDとは、教室でじっとしていられなかったり、集団行動できない子供のこと」位しか認識がなく、大人のADHDがあり、ましてや、自分自身にもその可能性があるとは、考えもしていなかったです。
    例えば、会社に勤めていて、カミングアウトして、受け入れてもらえるというのは、困難な場合が多いように思います。
    発達障害に対する社会的な認知、理解ある上司、そして、会社自体もある程度コスト的な余裕もないと、例えば、コスト的にギリギリでしたら、難しいのじゃないかと。

    • 匿名
    • 2006年 11月 19日

    コメントありがとうございます。
    ミリ様
     私のこの問題への見方を書いてみます。エジソンやモーツァルト、チャーチル等はADHDかと、またマイクロソフトのビルゲイツはASと言われています。他にも発明家やアーチスト、政治家などに発達障害はたくさん居るように私は考えています。
     自分の利益を省みず、一つのことに過集中して、人類のためにプラスになっている人は多いと思います。また「裸の大様の子供」のように、自分の立場を省みないで巨悪に対して内部告発する発達障害も多いと思います。
     だから私は「もしも発達障害が居なかったら世間は表面上平和かもしれないが、進歩も少なく、巨悪はチェックされないかも知れないですよ」と反論するつもりです。
     うまく適応できなかった人だけを責めるのはおかしい。天才と言われる発達障害の人もたまたま環境に恵まれただけで、私は発達障害はみんな同じであると思います。
     発達障害が居なかったら社会は発展しないのかもしれないのですから自信を持ちましょう。
     
    コメントありがとうございました。
     

    • yurin
    • 2006年 11月 20日

    >「周りに迷惑なのに理解だけ求めるんか?」
    この表現がずっと『心に引っ掛かって』いたので、
    『理解』(と、サポート)ということについて、少し書きます。
    私が考えるところの理解という言葉の本来の意味は『わかる』ということだと思います。つまり『発達障害』をわかり、
    『どういうところで困っているかということを』わかる。そしてそれこそが、発達障害の人の多くが望んでいることなのだと思います。
    具体的にどんな『援助(サポート)』が必要かという問題は
    『理解』の次に出る話で、理解なくしてサポートは有り得ないし、また理解もなくサポートを求めることは誰もしないはずです。
    多数派の多くの人達は『理解』という本来一つの言葉を『理解とサポート』というふうに、ワンセットで考えてしまうところも多々あるのかもしれないですが、
    発達障害者の言うところの『理解』はただ『わかってほしい』というそれだけではないかと私は考えます。
    単純に『理解』することにお金はかからないはずです・・・もっとも、サポートとなるとまた話は別かもしれませんが。
    こうしていちいち『言葉』にこだわるあたり、やっぱり偏屈な証拠なのかもしれないです。

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