ADHD関連

発達障害の適応の考え方②

 (前項に続く)

 別の言い方をすれば、「ただ多数派に合わせる、表面上同じになる」という考え方では、価値観の中で自分を裏切る部分が必ず出てきて、それが新たなストレスの原因となり、病的反応につながる。

 例えば長年の意識的理論的な推論の努力の積み重ねにより、状況がかなりの程度多数派と同じように理解できたとしても、行動として自分が建前と本音を使い分けることで「自分はウソをついている」と自分を責める結果になる。

 こういうわけで、最終的に多数派に合わせて「普通」と志向する場合でも、当たり前だが(不可能なので)「多数派と同じ意味での普通」に至る訳ではなく、「発達障害の脳のあり方を前提として多数派に合わせた普通」が可能なだけである。

 だから、診断がついた段階で、仮に「普通」を志向する場合であっても、表面的に多数派と同じになることを追及する努力は「自分を裏切る」ことになるだけで、結果として効果も少なく、逆にせっかくの良い所まで台無しにしてしまう「中途半端」な方向性であるということになる。

 大事なことは「自分の脳の働きに一度立ち返る」ということだ。発達障害として自分の脳の働きがどのような具体的な特徴を持っているかということについて細かく正確に理解し、多数派を観察することで自分と多数派の行動パターンとの違いを正確に理解し、どの点で多数派に合わせ、どの点は自分の良いところとして残すか、「自分で適応の形を考える」ということになる。

 まず自分の脳に合った生き方に立ち返り、その原点から、多数派と折り合いをつける共存のしかたについて自分で結論を出すという作業を行い、その結果が出てから本人の適応にしても周囲からのケアにしても方針が立つということになる。一般的には思春期に本人が考えるべきことだろう。

 これが「脳に合った生き方」と私が呼んでいることの中身である。


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コメント

    • みお
    • 2008年 5月 26日

    今回のやんばる先生の記事を共感しながら読みました。
    発達障害は、多数派とは根本的に脳の働きが違うということですよね。
    私はASですが、私が子供の頃はまだ発達障害が知られていなかった為、ずっと母親から「普通になりなさい」と言われて育ちました。(今思うと母親自身も明らかにジャイアンなので、多数派ではなかったのですが)
    その言葉を真に受けた私はずっと「普通にならなければ」と思い込み、必死に周りと同じ考え方、振舞い方を身につけようと努力しました。
    そして、「普通」になれない自分を責め続け、結果的に重度のACになりました。
    その上二次障害も重なってひどい鬱状態になり、現在は全く働けていません。つまり、社会に適応できていない状態です。
    >大事なことは「自分の脳の働きに一度立ち返る」ということだ。
    現在私が取り組んでいるACからの回復作業は、「本来の自分を取り戻す」という意味で、これにかなり近いものがあると思っています。
    重度のACだった頃の私は、周りからは「普通っぽく」見える部分も多かったと思いますが、本人は大きなストレスを感じていました。
    今の私はAC回復の為に、無理をすること、自分に嘘をつくことをやめ、周りから見るとASっぽさが増したと思います。
    しかし、それに比例して、自分自身の気持ちがすごく楽になってきたのです。
    自分が「普通っぽく」なる努力をすることで、いかにストレスを感じていたかを実感しました。

    • さーこ
    • 2008年 5月 26日

    >自分の脳の働きがどのような具体的な特徴を持っているかということについて細かく正確に理解し、
    >多数派を観察することで自分と多数派の行動パターンとの違いを正確に理解し、
    >「自分で適応の形を考える」
    >その原点から、多数派と折り合いをつける共存のしかたについて自分で結論を出す
    >一般的には思春期に本人が考えるべきことだろう。
    一般的には思春期に考えるべき事だったのですね。先生の話には驚かされるばかりです。
    要約すると、『自分で自分の適応の形を考え、自分で決定付ける』という事ですかね。
    自身へ向ける内省力と、多数派へ向ける観察眼と、その二つを踏まえた具体的かつ正確な思考が必要になる、非常にレベルの高い話だと思いました。
    『自分を裏切らない潔い方向』と『自分で自分の適応の形を考え、自分で決定付ける』事を両立させるのは、さすがに難しそうです。

    • みお
    • 2008年 5月 26日

    (続き)
    ちなみに私はASと診断されてもうすぐ1年になりますが、診断されたことによって一番変わったことは「変わり者の自分を受け入れられるようになった」ということです。
    それまでの私は、「普通」になれない自分が嫌いだったし、自分が変わり者であることを認めようとしませんでした。
    そして、周りの人たち全員に好かれたくて必死に「演技」をしていました。(いかにもAC的ですね)
    しかし、ASと診断されたことによって、自分が変わり者であることを認めざるをえなくなり、同時に全ての人に好かれるのは無理だということを悟りました。
    今は、変わり者の自分を受け入れてくれる人とだけ仲良くすればいい、と思っています。
    日本では「人と違うのは良くない」というような風潮がありますが、今の私は変わり者であることが悪いことだとは全く思っていません。
    正直なところや人に悪意を持たないところなどは自分の長所だと思っているし、変わり者であることにむしろ誇りを持ってさえいます。
    やんばる先生が書かれているように、一度思いっきりAS的な生き方に立ち戻り、そこから社会への適応の仕方を考えていこうと思っています。
    私は大人になってから診断されたし、社会適応にはまだまだ時間がかかりそうですが、焦らず地道に取り組んでいきます。
    やはり、「普通になれ」は発達障害の子供に一番言ってはいけない言葉だと思います。
    今は発達障害が広く知られるようになってきたので、そのようなことを言う親は少なくなってきているとは思いますが。
    私のように「普通になれ」と言われ続けて重度のACになる発達障害の子供がこれ以上増えないことを願うばかりです。

    • あおがえる
    • 2008年 5月 28日

    なるほど。
    経験的にやはりそれが自分にも良いのではと思いました。
    結局、会社で働く社会人では酷いストレスで1年半で思考する事さえ難しくなってきて脱落しました。
    今は自分の利点をグッと伸ばして社会との折り合いをどうつけるか模索中です。これはこれでストレスなのですが、自分の特徴を潰さず、活かした上で迷っているのでまだマシです。

    • ぴよよ
    • 2008年 5月 28日

    先生の病院は私のご近所ではなく、ン千キロの単位で遠くなので、講話をなさっていたことも知りませんでした。(皆さんそうかしら。)
    講話の内容もブログに載せて頂き、ありがとうございました。
    そうですよね。発達障害者は、もともと普通ではない。
    普通でないだけで、個人としての価値はあるのだから、その生かし方は最終責任は自分で持って考えることがベストなのですよね。とても理にかなっています。
    しかし私は寂しい・・・・という話にどうしても立ち戻りたい自分がいます。
    こういう欲求が湧いて来るにつれ、もしかして積極奇異型も隠れているのか?とさえ思います。
    親の事情はこう、弟のはこう、多数派の友達の事情はこう、同僚の事情はこう、私の地方の支援システムの実態はこうで、今までかかってきた医師のかたたちの反応はこう・・・と挙げていくと、全ての人の事情が、形だけ自立している私ときちんと向き合っている場合ではないことがよく分かります。
    でも、想念の循環は止まりません。疲れても、疲れても駆け足で頭の中を回り続け、勤務時間以外はその間を縫いながら運転や日常生活をしなければなりません。いつ寝たか記憶を無くして歯も磨けずに寝て、やっと回っている自立生活です。
    それでも止められません。止めても(仕事を辞めても)行くところがないからです。
    今の仕事に就く動機や希望を持った初心に立ち返れば、前向きな気持ちを思い出すきっかけになりませんかと私に勧めた医師もいましたが、発達障害が分かったことで初心の頃とは大きく自分の事情の捉え方が変わりました。
    私が思っていた私と、本当の私は、ほぼ別人だったからです。『今の仕事しかできない自分』は変わりませんが。問題は、それが自分で自分を誉める材料にはならなくなってしまったことです。この、誉められないことを耐える強迫を放置するとうつのきっかけになります。あと何年持つんだろうと心配です。
    うつにさえならなくて、私が一人で我慢とお詫びを続ければかなりの関係者の都合が丸く収まるわけですが・・・。

    • mario (AS)
    • 2008年 5月 28日

    日々、まさにこの作業をしています。
    どの部分で周囲に合わせるのか?
    どの部分で自分らしさを貫くのか?
    いや、幼い頃から普通にその作業をやってたように思います。それが成長に従って、段々と上手になっていたと思います。今はここで得た客観的視点も伴っているので、かなり分かった上で行動できています。(その分、悩みも多いですが…)
    私は思考方法はハッキリとASなのに、育ってくる過程で余り困らなかった理由をずっと考えているのですが、最近自己評価が非常に高いからではないか(親に肯定されて育って来たからだ)と思うようになりました。
    世の中の人は訳が分からない。でも訳が分からない人に合わせなければ、上手くやって行けないようだ。仕方がないから合わせてやる。以前、確かm2さんが言っていた「周りを見下したような」視点でもって上手くやっていたように思います。
    そして、パートナーは見下さない→高いレベルを要求してしまう→破綻する… 評価しているが故に相手は評価されてないと感じてしまう残念な状態になってしまいます。
    自己評価が高い方がASは周囲と上手くやって行ける、それは仮説に過ぎません。今、4歳の息子(多分、私と同じ積極奇異型AS)に何をどう教えるかって点で悩んでます。感情表現がストレートじゃなく伝えるべき事を上手く表現できてない。加えて、重要ではない事を口にしてしまう…それが相手の感情を逆撫でするような内容であっても。気分を害した事を指摘すると、それだけで彼は号泣する事になります。彼にはまだ、きっと指摘の意味が分からない… 分からないのだから、指摘は自己評価を下げるだけしか意味を持たないかも知れません。100%肯定して育てた方が良いか、人の気分を害するような表現を親の私からも指摘し続けた方が良いか、ずっと考え続けています。

    • Whisky
    • 2008年 5月 28日

    こんにちは。
    >ぴよよさん。
    ちょっと、ぴよよさんが、自分の体験から自分の現在付き合っている女性にやや似ているので少しコメントさせてください。
     自分が現在付き合っている女性は自分眼から見るとADHD的です。最初はAS的な印象を持っていたんですが、なんとなくACの除状態が取れてくるに従ってADHD的になってきた気がします。
     自分さえ我慢していれば、そういう感じでした。また、母親や父親をとても思いやるというか心配をかけたくないというのもとても似ています。出会った時は生活もできていました。
     でも、付き合い初めて話しを聞いているうちに、まあ、自分が好きになって、まあ、のろけるようだけど、めちゃくちゃ褒めた。実際心から想ってるんですけど、なんせこっちは惚れてますから。そうしたらみるみる変わっていっています。ますます魅力的だし、ますます褒めるんで。まあ、今後どうなるかはわかりませんが。
     ぴよよさんはACだと思います。自信がないし、おそらく両親との愛着の関係がうまくできなかったに違いないと思います。
     ADHDの人にとって難しいのは、過去を変える事が出来にくい事だと思います。親を責めれないのです。この辺ASは親を責める事ができます。だからACが改善に向かう。まあ、最終的にはASだって親と和解に向かうと思いますけど。
     ぴよよさんに必要なのは他者からの称賛です。それは男性のパートナーが最高だと思いますが、仕事上での称賛が得られればそれでもいいかもしれません。それによって自信を得るかですね。
     あとは、子供が得られればその子からの無償の愛情を感じる事が出来れば変わるかもです。
     そうでない場合は、あとは、ぴよよさんの持つエネルギー量次第ですね。それか、なにか芸術や芸能活動などの個人を表現する事とかも思います。
     勝手ながら、自分の経験と重なるのでコメントさせていただきました。あくまで個人的なものではありますが、参考になれば幸いです。

    • 匿名
    • 2008年 5月 28日

    [質問]
     私は多数派です。
    この内容、今は同感です。但しこれは日常生活においての話だと考えます。
    仕事上ではどう対応すればよいのでしょう?仕事の現場は多数派の世界です。合わせられなければ、仕事にならない。
    現在”疑い”のある医療事務の子が居ます。医療事務は時々刻々と状況が変化し、応対相手が変わる、環境変化の激しい仕事です。状況判断、気配りの連続業務で、一度に2~3の仕事をこなしていかなくてはいけません。例えば電話の応対しながら、レセプトコンピューターに入力、カルテ番号が確認できたらカルテを出す、など。障害者には向かない仕事です。本人に”疑い”がある自覚などあるはずもなく、単調作業をさせようとしても、何故か複雑作業をやりたがります。もちろん出来ません。
    「告知」しなくてはいけないのでしょうか?私には荷が重過ぎるのですが。

    • どらねこ
    • 2008年 5月 28日

    多数派の方に合わせる事はもちろん大切。
    でも、自分が一番。
    あんまり合わせすぎると一番大切な自分が無くなってしまうのです。
    自分はある種の独特な存在である事を周りの方に認めてもらうことで、合わせることの努力を軽減することが可能なのではないか?そんな仮説に基づいた振る舞いを行うようにしております。
    自分にとってこだわりのある部分については譲れないため、周囲と軋轢を生じることは未だ回避できない状態ですが、そうでない部分については道化を演じるようにしております。
    変な人だけど頼れる専門職という立ち位置に近づけているような気がします。
    それでも、専門職であることを拠り所とするにはADHDの特徴は不利に働きます。
    研究においてもルーチンワークや文献検索は必要不可欠であり、そのような作業を継続することが苦痛である脳の特徴に悩まされております。
    そんなときASの方に羨望を覚えてしまう自分がいるのです。

    • ぴよよ
    • 2008年 5月 29日

    Whiskyさん、こんばんは。
    ウイスキーさんとお呼びすればいいですか?
    くすくすくす・・・・いい人ですね。微笑みたくなるコメントをありがとうございました。
    でも、ぴよよオバサンはもういろいろ試して、疲れてます。
    親孝行もきちんとできません。そして、喧嘩の経験もありますが、なんせ虐げられたわけではないので、根拠は作らないとありません。
    根拠を文章化すると、発達障害者の一般社会への不適応の根拠とあるべきだった特別支援を挙げなければならないので、例えると講演会のような量になり、老衰した親には耐えられません。本十何冊の情報をPCのようにダウンロードするわけにもいきません。
    「インターネットの話が・・・」と出した日には「ネットを止めなさい」と言われて終わりです。ACを回復させる道としてはものすごく効率が悪いのです。
    他者からの賞賛、おっしゃるとおりです!
    私だって、血も肉も脳みそもある人間です。誉められればホルモンも活性し、免疫も神経バランスも薬無しで上がるでしょう。たぶん。
    しかし、誉められる前にはお洒落しなければなりませんが、お洒落には手間が掛かり、手間にはプレッシャーがかかります。プレッシャーを受け入れると見返りとかフィードバックを求め、それが満たされると依存心が生まれます。
    長くなるのではしょりますが、今の自分が支援無しの恋愛の賞賛だけで健康になれるとはどうしても思えないのです。
    趣味では、挫折しました。これはここまでで勘弁してもらいますね。
    仕事は、大半の同僚に水面下で「ぴよよは変だ」と噂が広まり、一部の同僚と管理職にだけ打ち明けている環境です。
    職場は誉められに行く場所ではありません。私の弱みは多すぎます。
    彼女を大切にしてあげてくださいね。できれば私のコメントは見せないように・・・。

    • ひまわり
    • 2008年 5月 29日

    今の職場は、障害者(児)施設です。
    ここに居ると俗世間とは違った空間であることをヒシヒシと感じます。
    職員のキャラがとても濃いんですが、
    私から見たら、本当に温かく優しい職場です。(時々甘すぎる!とも感じますが)
    みなさんは、仕事では『変だ』と言われることが多いように書かれていましが、
    福祉の現場には本当に『変な人』(気を悪くなさらないでください)が多いです。
    私は、『定型』より『合理的なADHD』よりだと感じていますが、
    職場には、ASな方やジャイアンな方が大勢居ます。
    しかも、その人達が大きな顔をして、堂々と自信を持って働いています。
    どうやらそれが許されるというか、認められる職場があるようです。
    私はここで働き、発達障害の子と関る中で、切に願うことがあります。
    社会には、色々な職業・職種・仕事内容があるかと思いますが、
    福祉関係でなくとも、その人その人のできる仕事の内容を作っていき、それをつなぎ合わせて、一つの仕事一つの会社として成り立たせていけるといいと願います。
    何も、医療事務だからって
    >電話の応対しながら、レセプトコンピューターに入力、カルテ番号が確認できたらカルテを出す・・・・・
    ができなくても・・・と思います。
    >単調作業をさせようとしても、何故か複雑作業をやりたがります・・・・・
    これだって、差別されてる気分、自分の能力の無さを指摘されてる気分で、きっと嫌なのでしょう。
    (小鹿さんに対する意見ではありません。一般的な社会の風潮の例として使わせていただきました。)
    同時に考えたり処理する事は苦手であっても、一つ一つが出来ない訳ではないので、本人は頑張りたいと思っているはずです。
    期待されたい、賞賛されたい、って気持ちだって、定型の人と同じように持っているはずです。
    周りは、「うーん、困ったなー」と感じていても、本人には伝わらないと思います。
    そして、そこで失敗を繰り返すことになると、自己評価が下がる場合と、周りが悪い!と責任転嫁的な発想になる場合があると思います。
    これは、もともとの特徴のせいではありません。明らかに周りの理解の無さと環境が整わなかったことによる、二次的な障害です。
    (続きます)

    • ひまわり
    • 2008年 5月 29日

    (続きです)
    私の職場は、定型の人が少数派で、発達障害(しかも軽度であり知的な遅れはなくむしろ高い)の人が多数派である、そんな勢いであるため、
    本当に、不思議な空間だと感じます。
    きっと、みなさんが普通になろうとして定型の人を真似たり、自分のここが『変』かもという所を隠そうとしているような苦労は、私の職場の発達障害の人達にはない気がします。
    本人は気付いているのか、いないのかは分かりませんが、それぞれの特徴をあからさまに発揮して、
    不思議なオーラを出しながら、職場の一員として活き活きと働いています。
    >まず自分の脳に合った生き方に立ち返り
    >その結果が出てから本人の適応にしても周囲からのケアに
     しても方針が立つ
    これは、
    少数派の人は自分の脳に合った生き方を自分で確認し、
    自分も適応能力を高め、その上で相手にも説明していけることが理想だ。
    と、いうことだと理解しました。
    ・・・でも思春期の娘にこれを考えさせることは、今の段階ではとても難しく思います。
    私の職場のような環境がどの職場でも可能になることを願います。

    • m2
    • 2008年 5月 29日

    「自分のやってもらいたいことをやりなさい」
    「自分がされたら嫌なことはやってはいけない」
    この人間の本能ともいうべきことを否定しなければならない。むちゃくちゃにきついことですよね。
    でも、発達障害者は、これを否定することによって、初めて人生が始まるんですよね。
    今でも、自分のやりたくないこと(他人にとってはうれしい)をやるのには、すごい抵抗感があります。

    • みお
    • 2008年 5月 29日

    そもそも、発達障害者が今の社会に適応することって可能なのでしょうか?
    コミュニケーション能力、複数のことを同時にこなす能力など発達障害者が苦手とする能力ばかりが重視され、正直さや自分の利害を顧みないなどの、発達障害者の長所はほとんど評価されないのが今の社会ではないかと思います。
    私も大学卒業後会社勤めをしていましたが、5年半で限界が来て(鬱が悪化して)辞めました。
    当時は自分が発達障害だとは知りませんでしたが、もしわかっていたとしても職場の人にカミングアウトはできなかっただろうなあと思います。
    今までの人生で、絶望を繰り返しつつも、その度になんとか立ち上がって前向きに生きようと頑張ってきました。(↑にえらく前向きな書き込みをしていることからもわかるように)
    でも、先が見えない毎日に、正直疲れてしまいました。
    頑張っても頑張っても光が見えない人生・・・。
    今は、心が折れてしまいそうです。

    • ぴよよ
    • 2008年 5月 30日

    私のような者が義務や権利の話をし出すと、あまりに理不尽も多いし反省してもし切れない話も多いので、収拾付かなくなるわけですが、そもそも自立支援法って、私達がどこまで満たされるための法律だったんでしょうね。(本気で考えたくないので過去形です)
    せっかくできたのに、支援センターにはまだお世話になったことがない私ですが、あの職員数で何を望めるのかいまだに疑問です。なので接近できません。
    私のような地方住まいの者は、『いつか支援してもらえるかもしれない』空想を持たされたまま、内情も知らされずに、不満も封じられてこのまま支援にも、手近な人の理解からも見放されていくのかなと思わされることもあります。
    でも見学だけでもいいいのでいつか見せて頂こうと思っています。不満を持つにも、内部も分からなかったら言葉にもできませんから。いつになるかは分かりません。
    難しいテーマですが、一般常識としては婚姻、出産、健康などになる権利は全ての人が持っている、と言われている権利です。
    その中から、私は健康だけ欲しいと望んでいるのです。
    私の条件がきついのだと世間様から言われればそれまでですが、共感や賞賛など元手が掛からない(カウンセラーの皆様こんな表現して申し訳ありません)支援でかなり健康がアップするのに、もっと言えばこれが決定打なのに、諦める理不尽だけが待っている人は多いです。そして、そういう対象者はこれからも増えるのです。
    欲しい物は何か分からされても、チャンスが無い人が増えていくのです。
    せっかく鬱や人格障害の危険行為の縁から這い上がってきても、そこには先へ進めない透明な壁。「立入禁止」の札すら無い壁の向こうには、理想の支援のビジョンだけが勝手に展開しています。外国の診療ではいまだ普通にリタリンが使われている情報も他人事のように往来します。
    先へ進めないことで真面目な者は自分を責めます。あれも無し、これも無し、無くてもちゃんと我慢できなくてすみませんと・・・。
    私も責めます。責めないと、ご飯が食べられませんから。

    • エム
    • 2008年 5月 30日

    受動型ASの息子(現在中3)の思春期はいつ頃やってくるのでしょう・・?身体的にも精神的にもかなり成長がゆっくりなので、やはり思春期も遅れてくるのでしょうね。
    うちは夫もそうだけど、自分と他者との違いを全く気にしない。何も悩まないし、考えていない(・・様にみえる)。
    うちの2人の場合、「鈍感力」と「いいかげんさ」が最大の武器かも知れない。生き辛さとは無縁に思える。

    • エイト
    • 2008年 5月 30日

    次男はほんとうに変わっています。はっきり言って変です。
    彼が学校に行く目的は、給食と友達(といってもトラブルのほうが多いようですが)と特別支援で彼のために来てくれた若い先生との交流?の為のように思います。
    授業を受けず、図書室で本と漫画を読み、絵を描くそうです。気が向くと教室の近くに来るそうです。野良猫小学生です。全く授業を受けないで給食を食べるのは気がひけるらしく4時間目は教室にいます。
    担任の先生が授業を強制しなくなって次男はとても機嫌が良く落ち着いています。
    最近若い先生とADHDの話をするそうです。自分から進んで障害を理解しようとしているようです。
    今彼は発達障害丸出しです。YANBARU先生が仰る「自分の脳に合った生き方」そのままです。変な子ですが、”それでいい”と思える私がいます。連絡帳には「しばらくは今の状態を受け止めてあげてください」と書きました。
    これからどの部分はみんなと合わせていくのか彼が自分で考れば良いです。みんなと合わせなかったことで損をするのも彼です。そして何よりも、納得したことしかできないのですから。
    教室にいられないのは「あらゆる束縛が嫌いな脳」「1対1の指導でないと耳に入らない脳」「自分が納得したこと以外できない脳」なのかな?と私は勝手に想像しますが、彼が言葉で説明できるのはもうすこし大きくなってからかもしれません。

    • 匿名
    • 2008年 6月 02日

    >>単調作業をさせようとしても、何故か複雑作業をやりたがります・・・・・
    >これだって、差別されてる気分、自分の能力の無さを指摘されてる気分で、きっと嫌なのでしょう。
    傍で見てると簡略化した作業は実に得意そうであり、良かれと思って得意な部分を活かし、苦手そうな部分は作業からはずして仕事を与えようとしても、「差別されてる」「能力がない」と感じてしまうのですね。
    大きな組織であれば分業して担当配置を考慮できるのでしょうが、小規模施設では色々兼任したりするので、ほんと難しいです。

    • たかこ
    • 2008年 6月 08日

    少し前に「B型 自分の説明書」という本を読みました。
    私の周りの同じ「B型」でもその本を読んで「よく当たっている」という人と、「あんまりあたってない」てという人がいました。
    私はそこに書かれていることは「B型」の特徴というより、「B型」の中に多くみられる「ある脳のタイプ」のことではないかと思いました。
    自分の能力や環境との兼ね合いがあるにしろ、「脳の働き」の説明がつくことは、自分の生きる「方向性」「路線」を決めるのには、限界を決めてしまうデメリットを含めたとしても、大きな意味では「よいこと」のように思います。

    • あおいよる。
    • 2013年 10月 13日

    今改めて生きる自分、正確に言えば『現在所属している組織の中で仕事し続ける』自分を考察中で、
    ネット検索で「発達障がい 自分らしさ 仕事 合わせる」をしたところ
    なんとまぁ貴サイトがありまして、立ち返るためにも拝読しに戻ってきた次第です。
    > 大事なことは「自分の脳の働きに一度立ち返る」ということだ。
    ここから以下の文節(段落)まるごと、今の自分が嵌まり込んでいる『自己考察』のテーマです。
    >発達障害として自分の脳の働きがどのような具体的な特徴を持っているか(中略)自分と多数派の行動パターンとの違いを正確に理解し、どの点で多数派に合わせ、どの点は自分の良いところとして残すか、
    ……最近言語化したことがあります、ここを読む前に浮かびました。(正確に言えば『一度読んだけれど記憶の底にしまわれていて、この記事内容を想起しなかった。)それは次のとおりです。
    →『よく、調子が悪いと皆の前で言ったり、先輩から指摘or「調子悪い?」と問われたりするけれど、それって本当は「私の脳のもともとの特徴が丸出しなだけ」であって、つまるに「それこそが自分」「自分らしさ」であって、状況によっては「調子が悪いんじゃなくて調子が良い」こともある。
    私は本当の自分、「自分らしい自分」を今まで殺して嘘をついて、押さえ込んで
    本当は調子が良いのに「そうなんです、調子が悪いんです」と自分を蔑んでいたっていうことになる。
    ソレこそが自分らしさなのに、組織で働く以上は私はこれからもずっと「調子が悪いんです、申し訳ありません」と言い続けねばならないということか。』
    …こんなことを考えていたところでのこの記事との再会でした。
    >「自分で適応の形を考える」
    適応とは何か。これ即ち「死ではなく生きる、ということを選択する」ことだ。
    自分らしさ、というキーワードが引っかかるようになったということは
    発達障がいの脳みそを有する我がの「存在」を、脳が肯定的に認識してきたということなのだろうか。

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