AC、人格障害関連

言葉とまやかし

 共依存を正当化する周囲の人や自分自身を誤魔化すための言い訳は多彩で、一見するともっともらしいように見える。

 特にジャイアンは一見もっともらしい言い方をされると言葉に騙されて真に受けたり、またこれ幸いと丸投げに乗ってしまったりする。

 例えば「無償の愛」とか、「恋愛」、「(親の面倒を見る)社会的な義務」「まともなコミュニケーション」等、多数派の世界ではある程度共通の理解を得られるあいまいな言葉が共依存を正当化するために使われることが多い。

 私はつとめてこういうあいまいな用語を使わないようにしている。何故なら誤魔化しの世界で議論しても意味が無いからだ。

 言い訳や自分を誤魔化すための用語は排除したほうが良い。

 特に、ジャイアンは「自己中で自分の欲だけに忠実な野良猫のような存在」であり、またASも「どんなに努力しても自分勝手な共依存的で支配的な愛し方しか出来ない」ことは明らかなので、われわれ発達障害が多数派の高尚な言葉を真似することは止めようではないか?

 最低限、例えば「親の責任」と、「人に迷惑をかけないで生きる責任」くらいで、ジャイアンにもASにも、多数派と同じような意味では愛情も恋愛も常識的な社会人となることも全部出来ないことをしっかり見つめて、同じようなことが出来るという幻想を潔く捨てよう。

 大事なことは、自分の脳の働きの現実をしっかり理解すること。だから私は、かなり注意して言葉を選び、「中心志向」とか「非言語的なフォロー」等の自分や人を迷わせない表現を考えてきた。

 逆に言えば、発達障害が多数派の真似事をして「愛情」などを語る場合は、ほとんど自分のエゴや「丸投げ」、「非言語的なフォローへのマタタビ的な依存感情」、「相手の人格を無視した勝手な支配的な決めつけ」を正当化しようとしているのではないかと疑ったほうが良いだろう。

 ASが「感謝」「持ちつ持たれつ」と言葉だけで言っても、「完全には知りえない他者」を前提としないで語られている限り、「そういう口実を用いて支配したい、共依存に引っ張り込みたい」という意味にしかならない。またASであるのに自分を多数派になぞらえるなど自分を理解していないこと甚だしい。 

 これだけ考えても、不用意に多数派の用語を借りるのが如何に危険で、如何に自分の脳の働きのより深い理解に向けて不毛なことであるか 分かるだろう。

 発達障害には高尚な言葉は使えないことを自覚することが大事だ。 


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コメント

    • さーこ(AS)
    • 2008年 10月 13日

    お久しぶりに書き込みします。積極奇異型ASのさーこです。
    今回の先生のエントリを読んで、個人的には、「あたかも自分が多数派の人であるように、多数派の言葉を借りて無意識に語ってしまう危険性」を「潔く自覚する」事が大事だと、改めて感じました。
    自分の事を繰り返し洞察し、考える日々です。
    先生。余談ですが、最近私は、私を発達障害と診断してくださった地元の精神科医師の紹介で、SST(生活技能訓練)の事で、同じ病院内にいる臨床心理士さんとお話をすることができました。
    (SSTの名称自体の知識は、私が独自に集めた情報のうちの、統合失調症に関する事柄から知っていたのです。)
    臨床心理士さんに、訓練に関するお話を聞いて相談した結果、「現在の私には抑うつ的症状が出ているので、まずは精神科医師にお話して薬を出してもらい、日常生活における身体状態の調整を図ってから訓練をした方が、効果は出るだろう」、とのお話でしたので、医師にも同じお話を伝えたところ、私が発達障害と診断される前に通院していたクリニックで処方されていた抗うつ剤と同じ薬(デプロメール50ml)を一日一錠処方されたので、現在はその薬を飲んで身体状態の調整を図っている最中です。
    久々の書き込みで、しかも脇にそれた話の内容で長くなってしまいましたが、自分がどういう順番で物事に対処していったらいいのかがようやく見えて来たので、この場を借りて先生にお礼申し上げます。
    ありがとうございます。

    • エイト
    • 2008年 10月 13日

    >発達障害には高尚な言葉は使えないことを自覚することが大事だ
    先生、「使えない」ことも納得ですが、「理解」することもできません。
    以前、多数派カウンセラーにお世話になったとき、多数派の言葉で説明されても、理解できませんでした。
    理解できないから、当然改善もしない。
    「ああ、とにかく私が悪いのね・・」と思い込んで、結果長男を甘やかし、身体症状をひきだしてしまいました。
    なので、私にとっては多数派の言葉は「怖い」です。
    これこそが、私の脳の働きの現実です。

    • あおがえる
    • 2008年 10月 14日

    同感且つ賛成。共依存には自分から引っ張り込まない様に気をつけています。
    健常者的社会人になれないことを理解しているつもりでも、それが周りの人々によって理解されず、言葉によってストレスを与えられるのには凹みます。
    それでもやはりできないことは出来ないのですが、それが本当に疑いなく出来ないものであることをどうやって知ったら、僕自身が納得するのでしょうか?

    • ネコ
    • 2008年 10月 14日

     確かに、多数派的高尚な言葉は曖昧で解釈できないですね。
     厳密に突き詰めて自己突っ込みを入れれば、必ず「利用」「共依存」「優位に立ちたい」などのジャイアン的醜い感情を発見します。美しい言葉で自分の気持ちや行動を誤魔化さないで、ギリギリで冷静な分析を続ける努力が、共依存を回避する方法かもしれないと、思いました。

    • むーん
    • 2008年 10月 15日

    エントリに全く反する内容に、なってしまって申し訳ないのですが・・・
    最近「ハイヤーパワー」なる高尚な言葉にはまっています・・・母方がクリスチャンで、日曜学校に幼児期から行っていたせいか、私にとっては割と自然なんです。
    しかし、多数派と同じように信じようとしても、「神様への丸投げ」になっちゃうみたいな危険性には、やっと気づいてきて・・・
    今の所、ジャイアンらしくとにかく何でも「利用」できればそれでいいか、というところに定着してます・・・< (_ _)>
    PS;本当は、自分の脳の働きで解決した方がよいのでしょうが・・・私はどうやら弱い人間のようです。
    (問題あったら削除してください)

    • Sakura
    • 2008年 10月 15日

    なるほど、先生のおっしゃる通りかもしれません。
    私も一時期高尚な言葉で、説得を試みたことがありました。
    けれども、相手から「人にはいろいろ注文をつけるけれど、
    じゃあ自分の行動はどうなの?」と言われ、ハッとしました。
    よくよく自分を振り返ると、要は自分の思い通りに相手を
    コントロールしたいだけ、それがうまく利用出来ないと
    腹を立て、高尚な言葉にすり替えて相手を説得し、再びコン
    トロール下におきたいという欲求にかられているだけだった
    のです。
    さらに悪いことに、飽きてしまえばまったく見向きもしない
    んですよね。
    冷静に考えると、私の脳は、高尚な文学で語られているよう
    な比喩に満ちた世界ではなく、電子的な0と1の信号しかない殺伐とした世界なのだと思います・・・。
    それをおぼろげながら知った後の私は、真に自分らしく
    いられる一方で、時にその荒涼・殺伐とした世界に震えます。
    今の旦那は、私と一定の距離を保つことで精神的に安定
    しているようです。
    (いわゆる情緒的に接すると痛い目にあうと学習したよう
    です。)
    気の毒だけど、最悪の事態をまぬがれるためには、
    私のために「がんばらないこと」が長くつきあう秘訣だと
    思っています。
    「お互いを理解する」とかいう言葉は、残念ながら存在せず、私が発する信号と、たまたま波長があった時、
    その部分だけうまくやっていく・・・にすぎません。

    • mmm
    • 2008年 10月 15日

    Sakuraさんのコメントに感じるところが多かったです。
    わたしはこの掲示板にコメントをしはじめた頃、高尚な言葉を使えているつもりになって、回りくどく書いてみたと思えば、ジャイアン語を使ってみたり。
    突っ込みにくいのをいいことに、得意になっていました。
    恥ずかしい。
    ASの元彼と共依存状態だったときは、自他の境界線があやふやになり、現実を通り越してメタファーや幻想にどっぷりうっとりうつつを抜かして、そっちの世界に命を奪われるところでした(笑)。
    再び0と1の世界に戻りつつある今、「うっとり」などという言葉を多用していた当時の自分が可笑しく思えます。本来の自分はそのような言葉は使わないので。
    このブログに散らばっている「ADHDへの帰り方」がなければ、わたしはもっと混乱し、共依存で身につけたものを引きずりながら途方にくれていただろうと思います。

    • you
    • 2008年 10月 15日

    >今の旦那は、私と一定の距離を保つことで精神的に安定
    しているようです。
    >(いわゆる情緒的に接すると痛い目にあうと学習したよう
    です。)
    >「お互いを理解する」とかいう言葉は、残念ながら存在せず、私が発する信号と、たまたま波長があった時、
    その部分だけうまくやっていく・・・にすぎません。
    sakuraさんご夫妻と、私(妻)とジャイアン夫は性が逆なわけですが、とても参考になります。ジャイアンの本音、を知りたいので。なぜだかジャイアン型女性は、ここに多く参加してくださいますが、男性ジャイアンはほとんどいない(読んではいてもコメントを書かないだけなのかどうか・・・)ので、女性の方々のコメントを置き換えて考えています。
    私も、夫がおそらく十中八九ジャイアンなのだと気付いてから、心理的にも物理的にも距離を置くことによって、バランスをとってきました。今後はできるだけ早いうちに別居状態にしたいと考えています。普通の多数派同士なら別居婚なんて、と非難されるのが常識でしょうが、多分夫は、私と金銭だけで繋がっている(子どもの養育をする人に必要経費を渡す=ほとんど実質的には丸投げか?)方が、身体的にも精神的にも安定する気がするので。私と同居していると、母親がするような世話を焼かれたいという彼の欲求不満が高じてうまくいかない気がしますし。
    夫と「いわゆる情緒的に接すると手痛い目に遭う」と、私も、学習しました。私自身も自己分析を行ってきたわけですが、例えば、私は情緒的な映画や行間を読むような余韻のある小説や感情の微妙な動きを表現するようなドラマが好きで、そういうことを語り合える人を求めているんだなと思っていても、夫は幼い頃から小説は読まない、面白さが全然わからない、ドラマも何が観てて楽しいのか意味不明・・・といわれ分かり合えないんだと悲しかった(ジャイアンだから当然なのだと今はわかる)。
    今は、否定的な意味ではなく、前向きに、理解しあおうとは全く考えていません。不必要だし、無駄です。
    彼はあの道を行き、私はこの道を行く、夫婦の体裁はお互いにとってのメリットである間は続ける。
    これしかないかな、と考え中です。

    • kei_
    • 2008年 10月 16日

    Sakuraさんとyouさんのコメントを読んで、フシギな気持ちになりました。
    丸投げするほう、されるほう、最後は同じスタンスが心地良い・・・という結論に達するのかと・・・。
    自分も、理解しあう・・は理想だけれど、その前段階としてでも、こういう距離間のある状態を目指していました。
    そして、この状態をキープできれば御の字・・・くらいに考えていました。
    人、人間、、、同じカテゴリーの同属として、求めるものは一緒なのかもしれません・・・。
    >行間を読むような余韻のある小説や感情の微妙な動きを表現するようなドラマが好きで、そういうことを語り合える人を求めているんだなと思っていても~
    ・・・自分もそのつもりでいましたが、ゼロと1の脳構造なら、かなり逆らった行為ですね。
    そういえば創作活動も、自立を目指した頃からパッタリと止まりました。
    >メタファーや幻想にどっぷりうっとりうつつを抜かして~
    ・・・私もそんな感じですね(笑)。
    現実に追い立てられ出すとこうも言ってられない・・・
    今は階段の踊り場のような感じなのかも??

    • むーん
    • 2008年 10月 17日

    世の中には・・・
    「親の責任」という言葉ですら、高尚で難解で理解が及ばなくて、”「そういう口実を用いて支配したい、共依存に引っ張り込みたい」という意味にしかならない”親もいるみたいで・・・
    本当に困る。
    子供の立場としては、一体どうしたらいいのだろうか。自分独りで、「人に迷惑をかけないで生きる」方法を模索するしかないのだろうか。

    • あおがえる
    • 2008年 10月 18日

    おっしゃる通りと思いました。
    他人を共依存に引き込まない様に、また自分が引っかからない様に努力しようと思います。

    • 黒すりごま
    • 2008年 10月 18日

    う~ん、深いですねえ。(と突然登場するおじゃま虫の黒すりごま)
    >ASも「どんなに努力しても自分勝手な共依存的で支配的な愛し方しか出来ない」ことは明らか
    だから私はそれが嫌で、結果的にこの何十年間かの間に「孤立型AS」への道を邁進してきたのかしら。
    20才までの私は今ほど変人ではありませんでしたが、どこか居心地が悪く、居心地がいい方へ、いい方へと貪欲に突き進んだ結果、現在の「孤立型AS」にポコッとおさまってしまいました。
    現在は「共依存」にはひどく敏感で、大嫌いで、明らかに「猫的な生き方」が好きですが、これはもともとの脳がうっかりすると共依存的になりやすいことの反動なのかもしれません。
    私は昔から「自分には恋愛というものはできない」と感じていました。異性を好きになるのは簡単で、どちらかというとかなり惚れっぽいのですが、恋愛の形になると自分も相手もわがままになり、結果的に共依存的になることがたまらなく嫌だったからです。
    恋愛小説や映画などで、美しく描かれているのを見ると感動しますが、「えらい人たちだなあ、私にはとてもできないなあ」とつくづく思います。
    だから結婚も「お見合い結婚」でした。あっさり淡々と結婚しました。
    先生の書かれた今回とその次の記事、本当に潔くて心に響きました。
    ※上記の文章全体はあくまでも私の場合に限ってのコメントです。

    • 2012年 1月 31日

    自分の汚さから逃げ出したい気持ちを感じる時、この記事を思い出します。そして読み返しています。
    生活に支障がない程度の片づけはなんとかできていますが、やはり整理整頓は苦手です。目に見えるものだけでなく、頭の中も本当に片付けられません。目に見えない分余計に散らかり放題です。
    この記事に会った時、頭の中に整理整頓のための枠組みができたような気がしてはっとしました。頭の中も片付けていいんだと思えました。それまでは頭の中をどうにかできると思っていませんでした。
    忘れてしまわないように、また何度でも読み返したいと思います。

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