ADHD関連

意志と選択

 ジャイアンは人を必要としない。が、「尊敬」や「利用」、「相互利用」はある。これらは基本的に情緒的ではない。
 それ以外の情緒が関わる関係は、露骨な依存の他には、本質が「見下し」である「可愛そう」や、同じく「見下し」を含む「面倒を見てあげたい」など、基本的に有害な共依存関係につながるものしかないと今のところ私は考えている。

 ただこれらのいずれも、結局「特定の誰か」を志向することは無い。ブランドを失えば尊敬は出来ないし、見下せれば(自分の上に立とうとしなければ)相手は誰でも良い。

 ではジャイアンは孤独で寂しい人生を送るしかないのか? 否である。自分の意志で、自分の責任で特定の相手を「選択」すれば良い。私は「ADHDは恋愛は出来ないけれども結婚は出来る」と説明することにしているが、自分の責任で特定の人をパートナーにすると「選択」すれば、特定の相手との関係を作ることは可能だと私は思う。

 逆に、恋愛感情であれ何であれ、「自分で選択の余地のない何らかの感情」を前提としなければ特定の人と関われないということのほうがおかしいようにも思う。プロセスはどうあれ、選んだ自分の責任であることは何の違いも無いからだ。これがジャイアン的な責任を明確にした特定の相手との関係のとり方だ。極端な個人主義という表現も出来るだろう。

 「特定の人が必要」というと、その表現の時点で「どちらが選択しているのか」という責任の関係をあいまいにしている。自分は責任を負わないで、相手にとってかけがえの無い存在であるという安心感だけを得たいという非常に都合の良い自己中な共依存を覆い隠す働きをしているように見えて仕方が無い。

 確かにASの「愛着」はASの側から見れば自分で選べない側面はある。しかし一個人としては、「愛着」という形であれ何であれ、社会的にはその相手を選び、また別の相手を選ばなかった責任は負うべきなのだ。

 特定の人は「必要」でもなんでもない。人間は「選択」は出来るが、「意志」の以前に「必要」があるなどとんでもない話だ。これは選択することの「責任」を回避するためのまやかしにしか思えない。少なくともジャイアンとしての私には。


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コメント

    • むーん
    • 2008年 10月 03日

    >逆に、恋愛感情であれ何であれ、「自分で選択の余地のない何らかの感情」を前提としなければ特定の人と関われないということのほうがおかしいようにも思う。
    そうですね・・・
    私の場合、少女期に読んだ少女漫画の世界を、そのまま信じ込んで不惑の年齢に至ってしまった気がする。(どこも不惑じゃないんですが・・・)
    >ではジャイアンは孤独で寂しい人生を送るしかないのか? 否である。自分の意志で、自分の責任で特定の相手を「選択」すれば良い。私は「ADHDは恋愛は出来ないけれども結婚は出来る」と説明することにしている
    だと好いんですけど。一時期私は、「どうしようもなくなったら、多数派ヘルパーさんのネコになってでも何とか生きるか」と思っていました。
    PS;やっぱりジャイアンは恋愛すると「依存」しちゃうんですかね残念ながら。対等な相互恋愛というのは夢みるだけ無駄なのかなぁ。

    • むーん
    • 2008年 10月 03日

    >プロセスはどうあれ、選んだ自分の責任であることは何の違いも無いからだ。これがジャイアン的な責任を明確にした特定の相手との関係のとり方だ。極端な個人主義という表現も出来るだろう。
    多数派だと思っていた友人ですが。
    彼女の結婚の仕方は、これを実践した感じです。当時彼女の責任ではない借金があり、彼女は家事もどちらかというと苦手。だけど、大勢のBFの中から、もっとも暮らしやすく、借金を共に返してくれる無類なくいい人を選んだらしい。
    (恋愛をしたことない訳ではないが、玉砕したとか言ってましたね・・・)
    ひょっとしたらジャイアンなのかな。見習いたいです。

    • パパイヤ
    • 2008年 10月 05日

    非常に興味深いトピックです。
    私も、見合いとか、そうでなくても情緒がからまない形で結婚相手を選ぶべきだったと思ってます。
    何でジャイアンは恋愛ができないんでしょうか。自分のことしか考えてないから?
    まあこれから恋愛したいとは思ってないですが。(恋愛とか、意味がわからない)パートナーはほしいですが、恋愛は結構です。

    • ねね
    • 2008年 10月 06日

     ジャイアンの男友達に半端なく女好きな人がいますが、
    彼を見ていると相手に好きになってもらうためによく努力します。自分は不埒だとアピールしややこしいことにならないのを見究めてから手を出しているようです。関係を持たずに友達として付き合う人も確保しているようで、わたしもその一人なんですが・・・まぁ、ほとんど病気です。
     そんな人なのに 結婚もしてるんですよね。
     私も結婚はしてますが、まともな恋愛はしていないです。
    今の旦那は この人の良さは私にしかわからないと思って結婚しました。それまでに逢ったことのない人でした。
    彼を選んだ責任は今頑張って果たしているつもりです。
     ジャイアンのせいで恋愛ができなかったのであれば
    自分の過去も受け入れやすくなります。
     それでも 素敵な恋愛もしてみたかったと ときどき思います。

    • ぴよよ
    • 2008年 10月 06日

    >確かにASの「愛着」はASの側から見れば自分で選べない側面はある。しかし一個人としては、「愛着」という形であれ何であれ、社会的にはその相手を選び、また別の相手を選ばなかった責任は負うべきなのだ。
    特にこの部分を、今まで頭の中で反芻して、解釈しようとしていました。
    というのは、この記事は全文が私には“当たり前”でごもっとも過ぎて、何か言いたいけれど何も言いようが無かったからなのです。
    これは、ASはこう、ADHDはこう、という前に、人としての人間関係の取り方の筋道を、人生の先輩として、説いてくださってる部分も入っているのかなと感じました。
    残念ながら、“必要”で結婚する文化は、今でも日本に根強く意識が残っているので、“必要”を言い訳に使っても、何ら不自然はないのが現状でしょう。(実験したことはありませんが。)家の跡継ぎや、適性、体面の都合など、いくらでも相手の都合に自分が叶った、と、相手の“必要”を正当化して納得する事例はあると思います。
    戦前は、そういう結婚が当たり前であり、返って相手に何も望まない覚悟をして嫁ぐ人、貰う人が多かったと聞きます。
    しかし、私を含めた現代人には通用しないと思います。個人主義を覚え、我慢しすぎた反動というものを、感じることが当たり前ですから、どんなバラ色のドラマチックな“必要”がそこにあっても、反動も計算に含めて判断する責任が発生しているのだと思っています。
    子どもの頃の私は、それにうっすら気づいて結婚しない道を選んだようです。
    成長する中で、検証したらその通りであり、勘は当たっていたと思わされる結果だったのでした。
    しかし生物の結婚はあからさまなまでに“必要”そのものだと思います。結婚する生き物も、しない生き物も、一夫一婦ではない群れを作る生き物も、特性を生かしより安全に生き残るためにいい形態を選んでいます。
    “必要”の結婚は、人類がたどってきた道だと思うので(ASゆえの感じ方ならごめんなさい・・・)きっかけとしては悪いこととは思えないのです。
    今は結果が付いてこなくなったというだけで。
    なら結果が付いてくる結婚になるように心構えすることは何か。これを昔の人は解っていたのかもしれませんね。私は分かりません。

    • slummy
    • 2008年 10月 06日

    「恋に落ちることがない」ことを恥じていた時期が確かにありました。思春期の頃です。
    私は人間に必須な感情が欠落しているのか?とひそかに恥ずかしく思っていましたが、ADHDとしてはよくあること、と考えていいんですね。
    恋愛に関心がない訳ではなく、恋は人生の大事な要素だろうと思うんですが、天から不思議なエネルギーが降ってきて「恋に落ちる」なんてことは私の場合これまで一度もなかったし、この先も一生、ありえそうになくて。
    周囲の女友達が「好きなひと」のことで深刻になったり本気で泣いたりしているのが不思議でした。
    どうして恋愛している自分に陶酔できるんだろう、って。
    感情を礎にして人との関係を構築する恋愛は私には無理だとしか思えませんでした。
    恋愛至上主義者ならぬ、恋愛瑣末主義者、という自己認識です。
    恋愛感情が湧き上がってこない自分を感情欠陥者のように思って隠していましたが「特定の相手を意図的に決めて、その相手に恋をしているフリならできる」ということに気づき、友達への見得もあって「好きな人」を「つくり」ました。「好きな人がいない」という毎日を送るのはプライドが許さなかったというか。
    「特定の人が必要」というよりは「誰でもいいから(いや、よくない、それなりに適切な相手を選んで?)特定の人を決めさえすれば、その相手を対象に恋愛できる」という感覚です。でも、いわゆる恋愛体質の対極にあるような人間なので、複数の相手と恋愛関係を結んだりするのは私には無駄に労力のかかる、面倒なこととしか思えません。
    紆余曲折を経て今に至るまで結婚を維持しているのは、先生のつけられたタイトル通り、意志と選択の結果だと自分では思っています。結婚して「あー、これでもう恋に落ちない自分を気にしなくていいんだ」と嬉しかったです。
    感情的な恋愛はできなくても、行動の結果として、人生が終わった時に「この人一筋で通した」といえる、いわれるようになりたいというのが目標です。

    • むーん
    • 2008年 10月 07日

    >残念ながら、“必要”で結婚する文化は、今でも日本に根強く意識が残っているので、“必要”を言い訳に使っても、何ら不自然はないのが現状でしょう。(実験したことはありませんが。)家の跡継ぎや、適性、体面の都合など、いくらでも相手の都合に自分が叶った、と、相手の“必要”を正当化して納得する事例はあると思います。
    特に女性、計算高いジャイアンの場合、この傾向は強いですね・・・
    いくら幸せでも、「あたし結婚してるもん」と言われたら、そこでぐっとつまって言い返せないのが現状であったりする。(特に「適齢期」なるものを過ぎると。「適齢期」って何なのか、要するに「子供が生める年齢」ってことですけど。・・・「家のカミさん=神さん」つうことです。)
    まぁ飲んだくれの夫とかなると話は別かも知れないが・・・
    ”人生が終わった時に「この人一筋で通した」といえる、いわれるように”なれれば、女性の場合、総理大臣になるよりもっと偉い、という事ですね。

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