ADHD関連

ジャイアンの回復の道

 ジャイアンの現実直視と直面化の問題を考えてきて、ようやく私の頭の中を整理できたので、簡単に書いておこう。

 ジャイアンは「誰か」から直面化されると、自分の問題でなくその「直面化を促した誰か」の問題と認識して(これはごまかしのための意図的な逆ギレの場合と依存性から来るACに似た認知の障害の場合があるが)、相手の機嫌を取りに行ったり、とにかく「指摘された事実をもみ消しに」かかっているようにしか見えないことが多い。

 それでも強く直面化を迫ると、病気になるか、その相手との関係をぶち切るか、自暴自棄になって滅茶苦茶なことをするか、結局望ましい展開は難しい。

 もうひとつの展開として、表面上反省したような行動を取って、「怒られなければいい」という形になっていつまでたっても治らないという経過も多いと思う。

 だから「誰かに指摘された形」では直面化は非常に困難である。現実の経過の中で、「自業自得の形で」何か不都合なことが起こったときに、本人が自分ひとりで問題に向かわなければならない状況が「再インストール」の唯一のチャンスである。

 「本人が自業自得で追い詰められる」→「自分の問題としてどうにかしないと行けないと思う」→「たまたま手近に望ましいスタイルがあり、インストールする」、またはここから、「ジャイアンについて書いたものを読んで理解する」→「コーチングの相談に行く」というプロセスは現実的に可能だと思う。

 大事なことは、自業自得で追い詰められ、誰のせいにも出来ない状態で無いと、出口にならないということだ。そういう意味では、ジャイアンは自分自身でしか変わることは出来ない。ジャイアンの回復の作業は孤独な作業である。


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コメント

    • ckw
    • 2007年 12月 22日

    ここ最近は、自分に重ねて読むことが多いです。
    さて、毎日考えながら過ごすこと、問題と向き合うことは大切だと思いますが、私の中で「理想的な生き方をしているジャイアン」が明確にイメージできません。
    思考より行動が得意なADHDとしては、お手本さえあれば同じように描けるので、お手本が欲しいと思います。今までお手本無しで描こうとした絵は、すべて描きかけだったり、真っ黒に塗りつぶされたりしています。
    もちろん、細かな指示が欲しいというわけではありません。ただ、課題として「空を描こう」など大まかなイメージが欲しい。
    現実問題に置き換えると「その人とは距離をとった方が良い」「今は愛想笑いしておくのが良い」などのコミュニケーションスキルになります。
    こういうちょっとした場面での行動が上手な人のイメージをつかみたい。(現在は「トリック」の仲間由紀恵さんのような行動モデルで行動しています。感情を出さない、同調しない、一歩引いた行動で、たまに笑いを取る)
    ジャイアンとして堂々と生きている人を知っていたら、その人についてのお話を聞いてみたいです。

    • パパイヤ
    • 2007年 12月 22日

    そうですねー。ここや他の本を読んだり、周りの好ましい人や反面教師を見ながら再インストールしてる最中ですが、病院やカウンセリングに行ってみてもいいかなとも思ってます。確かに八方ふさがりになって追い詰められないと自分を変える必然性は出てこないですからね。ピンチに感謝です。

    • ぴよよ
    • 2007年 12月 23日

    これから研究されていけば、この「自業自得」の段階へ持っていく周囲の支援方法も確立されていくかもしれませんよね。
    何年かかるか分かりませんが、そういう方向へ持っていかないと、ジャイアンタイプや、ジャイアンタイプの素養を何割か持っているADHDは、犯罪を犯していなくても罰されるかのように周囲から孤立させられなければならなくなります。それが非人道的行為なのかどうかは、卵と鶏の理論でしか説明付かなくなります。
    いじめや、モラルハラスメントも『ADHDが周りにそうさせた』と責任転嫁が出来る可能性もあります。
    いじめは、学校が小さければ、兄弟にも被害は及びます。
    「自業自得」療法は、医師や研修を受けた人間しか使えない規定を定める必要が出てくるかもしれません。
    人は、どんな人間でも、孤立させすぎると“人間”でいられなくなります。
    例え、こだわりを進化させて努力家という長所にしようとしても、やる気のスペクトラムの中を、ちゃんと“長所”へ向かっているかは、コーチの評価がないと分かりません。渦中にいる本人には、分からないものです。
    決して『自己責任だから一人で努力してね。さよなら』と、周囲で一斉に言えばいいわけではないですよね。
    私もずっと以前、必要に迫られてADDを職場に公開せざる得なかった後、『不注意があるなら口きいてやらない』の宣言も説明もなく、雑談からはぶかれ、無視された経験があります。
    ASがもっと強かったら、暗黙の了解の意味も読めず、大パニックになるところでした。危なかった…。
    万一、私が解離になっても、現状では労災は利きません。
    訳が分かっていない者には、使って欲しくないですね。
    支援の仕方は、面倒でも勉強して欲しい。
    先生達、ADHDに真摯に取り組んでいる医師達に、正しい支援方法を確立していただきたいです。
    正しい、と言っても難しいですが、あえて、正しい、と言ってお願いしたいのです。
    私達は障碍は背負っているが、罪は背負っていない。
    だから、正しい方法で、ゆがみは治療されたいのです。

    • エイト
    • 2007年 12月 24日

    私も長男も医師からの問診や観察や知能検査のようなペーパーテストを受けていませんがジャイアンであることは確信しています。次男はADD(一ヶ所の病院で一人の医師に)と診断されています。
    私が望むのは発達障害がもっと科学的に分析され、糖尿病や高血圧や癌のようにきちんと医科学的検査の数値でその結果病気だと認識できるようにしてほしいということ。
    肉体的な病気は本人だけでなく多くの人に症状や辛さをわかってもらえるのに、発達障害は医科学的根拠も示されないまま「脳の問題」として片付けられる。さらに嫌なことに「障害」という名称までついている。
    いまここで不満を言ってもなにも進展しないのは重々承知です。
    発達障害をもつ人は生まれながらに非常に理解しがたいハンデを背負って生きているということは事実。公的援助、支援が確立していないのも事実。食べるためには自助努力で仕事をこなし自立するほかないことも事実。
    自分の欠点は欠点として受け止め、自分の良いところも自分で評価し認めてあげないと生きていけません。
    発達障害者が充実した気持ちで生きるために、「自己肯定感を高める」ことも大切な要素だと思います。

    • むーん
    • 2008年 7月 29日

    >大事なことは、自業自得で追い詰められ、誰のせいにも出来ない状態で無いと、出口にならないということだ。そういう意味では、ジャイアンは自分自身でしか変わることは出来ない。ジャイアンの回復の作業は孤独な作業である。
    これ、強いて言うなら一種の「自殺」ですよね・・・
    私も、最近「変わった」と友人には言われますが、まだまだ道は遠いです・・・
    困った時他人に「助けてくれ」と言えるようになったのは一つの進歩でしょうか。(?)

    • 182
    • 2014年 7月 15日

    少し落ち着いてきて、また少しだけ分かりました。
    私は夫の人間性を批判する書き込みをする時、「だから、私も許される」と思っているようです。
    私は救い様もなく醜い脳を持っているから、同じ様に醜く、そのせいで後ろ指をさされる「孤高の天才」を探した。
    醜い脳を持った者同士、許しあえると思った。
    共依存のぬるま湯にどっぷり浸かっていたかった。
    でも今の私はまだ彼を「切る」という決断はできない。
    まだ何が「正しい」か分からない。どうすれば良いか。
    あ、そうだ。以前コメントで「ジャイアンは正しさに拘ると思っていたのに違うのか」と書かれてあったケド、私の考えではジャイアンにとっての「正しさ」って自分の外にあります。
    で、「そこ」に一番最初に辿り着きたいと思ってる。中心志向ですね。
    に対してASさんの場合の「正しさ」って自分の中にある様に見えます。
    だから「犬も歩けば棒に当たる」的に「ADHDが正しさを求めたらASに当たる」なんちゃって(^^;;
    問答無用の自己責任ですね。

    • ちひろ
    • 2014年 7月 20日

    ああ。なんかわたし・・やってはいけないことをやったよう~な↑↑ (ー_ー)!!
    これがASのよけいな茶々ってやつなのか?・・。自分の心に何かが触れると他者との境界線があいまいになって相手を勝手に自分の分身認定して、分身に説教してるような気分だったことに気づきました。
    上のコメントは私に対してのコメントなんだと思う。自分の経験がベースだし。
    暴力を(振るう人間を)理想化して生きると、理想が崩壊すると、魂とか人格や人生が崩壊するようなダメージがある。なにせ暴力は愛の証(あるいは知性の証)であり、それ土台に人生を積み上げたから。
    土台を壊すというのは、よくできたもの、大切なものも、失いたくないものすべて一緒に壊れるんだから。
    ああ・・そうだった。
    直面化して本当に大切なものまで壊れた。
    絶対に失いたくなかったものがスクラップになった。
    そして道はその上に一から自分でつくっていったんだ。
    あっ!ちがう!
    残ったものがあったんだ。
    全部壊れたと思ったのに残ったものがあった。
    それを育てて生きている・・今。

    • 182
    • 2014年 7月 20日

    んっ?
    何か茶々入れてたんですか?
    とりあえず、私の方にはその自覚はありません。
    別記事のコメントも一通り読み直してみましたが、何か茶々を入れられているとは思えないんだケド・・・。
    そもそも私自身は茶々入れられるの全然嫌いじゃなかったりします。
    って言うか気の利いた茶々は大好物だったりして( ̄ー+ ̄)フッ
    ちなみに私が「茶々だなぁ」と感じるコメントは
    「世界征服目指して幼稚園バス乗っ取りするショッカー(中略)チャーミングな男性なのですね。」とか、
    「自分の解決できない問題についての回答はパートナーが持っている、そういう相手を選ぶのが本能」
    とか、ですね。
    せっかく、せっかく、本来の中心志向の醜くく滑稽な「砂漠のライオン」に戻ろうとしているのに、上記のような言葉を言われたら、心がホロホロときて、「砂漠のオアシスで一休み」なんて幻想を抱くのですよ。
    ええ、もう、本当に。懲りない女です。
    あ、ちなみに上記のコメントを書かれた方を批判してるわけではありません。
    コメント自体は心地良いのです。
    ただ、その心地良いコメントが、砂漠の厳しい砂嵐に向かって立つ決意をしようとする心をホロホロとさせてしまう・・・って意味です。
    どこかで先生が「またたび」と言っとりましたなぁ。

    • ちひろ
    • 2014年 7月 21日

    ・・・あ・・先生に検閲されたから大丈夫です。

    • 道産娘
    • 2014年 7月 21日

    二つ上のAS?の方のコメントを読み、自身を振り返ります。
    個人的に「他者のコメント内容を引用して書かれたコメント」について、引用されてしまった方が責任を感じる必要は無いと考えます。
    「同じ言葉を用いたからと言って、内容まで同じであるとは限らない」ですから(もちろん別記事のコメントも「一見同じ言葉を用いていても、内容は違うだろう」と思ってました)。
    以前私も「傲慢・卑怯」の下りで同じ失敗をしましたが、あの時私は「自分と他者の問題の区別が付かず、『自分のコメントのせいだ』と思い込んでいたのだろう」と、今となっては思います。
    その人が好き勝手に他者のコメントを引用して書いているのだから、引用されてしまった側が責任を感じる必要は無いし、放っておけば良いだろうと思います。
    ネットでは、いくら注意したところで、逃げてHNを変えてまた同じことを繰り返すことがいくらでも可能であり、自分達にできることと言えば「そのコメント者を無視し続けて、その人と同じことをしないように気を付けること」ぐらいかなと、私自身は考えています。
    暴力については、また考えがまとまり次第コメントさせていただくかもしれません。

    • あきら
    • 2014年 7月 22日

    ああ、それが茶々(だと受け取られる)なんですね…
    すごくよく判りました。ありがとうございます。
    そしてマタタビでもあると。ううむ。
    こういう発言は普段、発言してしまってると思いますが、それに「引っかかる」人は確かにたまーに居ます。受け取る個人によっては心地よい場合もあり、腹が立つ場合もあり、なのかも知れないんですね。

    • 道産娘
    • 2014年 7月 23日

    訂正です。
    「傲慢・卑怯の下り」は、この方が私のコメントを引用して書いていた訳ではありませんでしたね。
    その時は、私の(AC的な)思い込み&過剰反応が原因でした。
    ついでに書くと、このASの方の別記事のコメントを茶々だとは思いませんでした(私自身はそのコメントを参考に、自分の過去を振り返っていたので)。
    そうそう、もう少し書かせてください。
    これも今になって気付きましたが、おそらく「(AC故)言語的に理解して欲しかっただけで、相手を納得させ、自分の主張を受け入れて貰う気等無かった」のだろうと思いました。
    実際は「自分の言いたいこと(話の内容)さえきちんと理解して貰えれば良かった」ので、何度も訂正・捕捉して言い直してましたが…途中で「そもそも理解しよう等とは考えず、他者の気を引いたり、言い負かし・攻撃する為の材料としてコメント内容を利用している人が居るかも」と気付いたので、まぁ…止めた方が良いかなと(そもそも、私がそこまで細かく説明する必要無いし。あと、勝手に他者のコメント内容を自分の都合の良いように書き換えたのはその人自身だから、引用元の人が「自分のことだ」と感じる必要は無いと思いました)。

    • 道産娘
    • 2014年 7月 23日

    (最後です)
    よくAS知人とメールでやり取りする際に揉めるので分かります。
    その時は「私の言い方が悪い」と思い込んでいましたが、実際は「相手の過剰反応&被害的発言も原因」で、それに振り回されて自分の問題と相手の問題の区別が付かなかったのでしょう(不思議と面と向かって話す時は揉めないです。きっと私の方が過剰反応して腫れ物に触るように接していたからだと思いますが)。
    「自分と他者との境界線が曖昧になる」という感覚は、実感としてよく分かりませんが、思い込みに近い関連付け思考ならまだ残っているかな。
    暴力を理想化…は微妙ですが、私にもあったかもしれません。
    実際は理想化ではなく「『自分が悪い』と思い込ませる為の合理化(言い訳)」に近く、始めはAC関連の資料を読んでもピンと来なかったし「自分には関係無い」と思ってましたが、「事実」だけを見据えれば充分当てはまります。
    直面化した直後は「これまでの自分の生き方・考え方を否定されたような気持ち」になりましたが、また一つ一つ経験を積み重ね「データを上塗り」していけば良いのだと、今は思います。
    ※先生へ
    何ならコメント履歴から流していただいても構いません。

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