AC、人格障害関連

コーカサスの白墨の輪

 積極奇異型ASDの人が自分でカウンセリングを希望して来られることは少ない。なぜならこの人たちは「努力すればほとんどのことは解決出来る」と考えていることが多く、実際強迫的な努力を実行している。

 身体症状でボロボロになっていても病的であると考えない。(だから愛着の対象でない周囲の人にもある意味非常に冷酷になりうる。ジャイアンとは違う意味で自業自得というわけだ)。

 この人たちが相談に来られるのは、ほとんどと言って「愛着の対象との間の関係」に絡む問題である。本人はこれ以上できないほどに、(実際人間ワザでないほどまで)努力して尽くしているのに、相手はただ利用するだけで気持ちに応えてくれない。便利に利用されているだけになる。裏目に出る。あるいは逃げ出そうとさえする。

 子供が愛着の対象の場合には、子供の不適応で相談するというパターンが多い。
 ジャイアン的には、「関係を断ち切って割り切れば簡単なのに」という問題なので「突き放したら?」 と助言することになるが、いろいろな言い訳をしてそれは出来ないという。  

 話をよくよく聞くと、非常にシビアーに言えば、「結局あなたが相手を支配し続けたい」「所有したい」ということをあなたは求めているのでは? という風に見えてくる。

 話は簡単ではない。なんせ積極奇異型ASDのご本人は自他ともに認める立派な人で、責任感も強く人一倍努力もされている。親の場合でもきちんと子供を管理して面倒を見て、子供への思いも熱く愛情も深い。
 そういう人が「子供のため」と言って来られているわけで、(大体子供はダメな状態でもあり)本当によくよく話を聞かないと実は「支配」であることは見抜くことは容易では無いだろう。

 私は最初は普通のAC的な問題であると考えて普通にACとして認知の修正を試みたが、何か違う、過剰に尽くすことに本人の中では納得していて不全感をまったく感じていない。自己評価の低下は逆に少ない。精神的に距離を置く、突き放すことにほとんど不可能なくらいに抵抗する。

 結局「子供を自立させる」「子供を自己責任状況で成長させる」ことが絶対に必要な場面でそれが出来ないという形でしか、愛着の問題点は表面化しないことが多い。  

 子育ては特に思春期のある時期は、管理を一部諦めて本人の自己責任状況を作らざるを得ない。 仮に全部管理し続けて親に不安が無い状態で子供の側が抵抗しなければ、子供は成人後も自立できず全部パーフェクトな親に全てのコントロールと責任を丸投げして万事いちいち指示を仰ぐパターンを変え無いだろう。

 特に子供がジャイアン型ADHDの場合は病的な丸投げ依存となり、「この親を怒らせさえしなければ良い」という超刹那的なスタイルが出来上がって14歳以降に深刻な問題を引き起こす結果になる。(私はその状態を依存型ジャイアンと呼んでいる)。

 この合理的な助言を積極奇異型ASDの親は理解できる。ここではじめて矛盾が表面化することになる。行動としては、情緒的には自閉症スペクトラムの「愛着」であるから厳しく出来ないのだ。

 相手が子供の場合の他は、「非常に下らない最低のダメ男に未練たらたらになっているサムライ女子」にも同じようなことは言える。本来のサムライとしてのスタイルと男への行動は明らかに矛盾するのだ。(ちなみにこのダメ男は甘やかされた依存型ジャイアンのことが多いのだが)。

 ブレヒトの戯曲に、表題の作品があり、その中に「子供の所属を争って生みの母と育ての母が輪の両側から子供の手を引っ張り合う」という場面が出てくる。

 おおこれはまさに積極奇異型ASDの愛着の問題をそのまま現している。

 この矛盾の解決は、「身を切られるまでの苦痛の中で自分から手を離す」という方法しかない。

 甘やかすことは、子供自身、ダメ男自身を無間地獄の中に突き落とすこと、苦しめ続けることに他ならないことを自分自身につぶれる寸前まで言い聞かせ続ける以外にない。


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コメント

    • 道産娘
    • 2014年 8月 05日

    ACについてはその通りです。
    以前「現実的必要の再インストール」を試みた際、むしろ苦痛で「我慢を強いられている」ように感じました。
    思春期に情緒が回復してからは、「被害的な認知」が蘇ってきて人間不審に陥り、対人恐怖気味でしたが、そんな自分を何処かもの扱いし「世間の人間はお前一人に構っていられる程暇じゃない。自惚れるな」と常に言い聞かせてました。
    隣の記事のコメントも、そんな気持ちで書いてました。
    「未練タラタラのサムライ女子」については、自分の言動を振り返ってみると…微妙です。
    過去に付き合った男性とは、いずれも自分から別れを切り出して別れました。
    一緒に居るときは分からないけど、離れた時にメールでの喧嘩に発展→何かがおかしいと気付く…の繰り返しで、相手の「言葉で責任を取らない態度」に腹が立って、自分から別れを切り出しました(なので「何でもするから許して」とすがり付いたことは無いです)。
    「身を切られる程の苦痛」は感じていましたが、それ以上に、何度も同じことを繰り返す自分が許せなかったので、「ある程度我慢して、ダメだったら手放す」というパターンが(恋愛以外でも)多かったです。
    孤立型??

    • ちひろ
    • 2014年 8月 05日

    この戯曲のあらすじと解説をお読んでの感想です ←怠け者だっ(ー_ー)!!
    どうも演出方法が2種類あるみたいで、典型的な大岡裁きになる場合と、悪徳裁判官による審判になる場合があるみたいですが、
    大岡さまは治安の良い時代の世俗受けの良い裁判をやる人だし、悪徳裁判官は、混乱時代に支配者に媚び、賄賂は受け取り、そうやって逞しく生き残った人物で、結局どちらもザ多数派ってかんじ。
    私は、法に基いても、子供のその後の養育環境を考えても、育ての母が産みの母に子供を返すべきだと考えますが、この裁判官は(手を放した)育ての母に返す。
    大岡裁き編でではハッピーエンドとして終幕みたいだけれど
    悪徳裁判官編のラストは延々と人々は解体した木材を右左に引っ張り合って終わるらしい・・。
    その人の解説文を読んでいるとぶっちゃけ「右か左か選択して新しい未来をつくろう」と書いて終わっているけれど・・選択するためにはその状況ではど~かんがえたってどちらかが手放さなければならない・・。
    莫大なエネルギーをつかって欲しい欲しいと引っ張り合って、その場に静止して動かなくなった世界から抜け出して、未知の世界に進むためにはそうするしかないんだろうな。

    • Kyoko
    • 2014年 8月 05日

    こんにちは。
    そんな感じがありますね。
    積極奇異型の方は、相手とつながっていたい気持ちが強いのだと思いますが、相手の気持ちを読むことが苦手なため、行動を起こし続けざるを得ないのかもしれないなと思います。
    自分自身の内面を見つめることも苦手そうですよね。
    なにかしてくれたり、お金をかけてくれたり・・・と言う感じでしょうか。
    おつきあいしていた積極奇異型の方、家庭内でのこころを通じ合わせる時間を取ろうとしていないので(あまり重要性も感じていない風に見える)、
    つまり一日一度も、ともに食事をする必然性を感じていなかったので、それも家庭観の違いを感じたのですが
    バリバリ働いて、お金を稼いで、養って・・・っていうことが、その人にとっての愛情表現みたいな感じだったんでしょうかね。
    「キミに楽をさせてあげられるんだ」「会社の福利厚生だってすごく充実してるんだ」「朝から晩まで働かないと、そこまでお金は入らないんだ」という話で何度も愛情表現?をしてきたのですが、
    私が訴えているのは、一日一度くらい、少しでも一緒に食事をして、家庭内の事を一緒に考えてほしいということだったのです。

    • Kyoko
    • 2014年 8月 05日

    でも、彼は愛情いっぱいのつもりだったようで、いくら話しても、私とはかみ合わなかったというか・・・。「無理だよ」と鬼のように冷徹~に却下されました。
    そこを冷たいね、と言うと「俺は冷たい人間じゃない!(>”<;)」「ショックだ」と何度も訴えてきました(マジです)。 実際、会社では部下を甘やかし、マリア様みたいな上司だと言われていたそうなのです。「誰も首にならないように、調整してるんだ」と言ってました。 自分の事を、ものすごく慈悲深い人間だと思っていたと思います(じっさい、涙が出るほど慈悲深いこともありました)。 ちょっと話ずれましたかね。 これ、私の父もそういう感じで、多分積極奇異型だと思います。全体的に同じような事を言うので・・・。 子供は甘やかし、責任を取らせないのと、財力があるので、もひとつ私も背筋が延びません。 しかし、親子と夫婦は異なっているもので、こういう夫だと、妻の負担は増えていきます。 父から元カレへ・・・私も人生の丸投げができそうで心地よかったのかもしれませんが、最初はべたべたに甘やかされても、私がこういう男性の妻役を務めきれないと気づいて挫折、かもしれません。似てました。 母が里帰りなどをして、数日疑似夫婦を父とすると、「優しそうに見えて、冷たい人だな」と気づくことがあります。 まさに一緒にいてもひとり。(母と三人でいるときは、温かい父だと思えるのですが) 父親も元カレも、とても仕事熱心で出世しており、強迫的でにこやかな人たちです。いると場が盛り上がる好人物、って感じですが、身内にはキレやすく自分勝手なところがあると思います。

    • さーこ
    • 2014年 8月 06日

    「私はあなたのお医者さまではありません」と、積極奇異疑いの女性からメールにて言われた後、一方的にシャットアウトされ、私はあきれ果てて絶句するに至りました。
    まあ、彼女の目には、「真実」に見えていたのでしょうね。
    おそらく私に対して「甘ったれるな」とでも言いたかったのでしょう。
    私にはどういう事態になっているのか、理解しております。
    でもやっぱり、馬鹿げているし、空々しい。
    昨年12月に、医師に書いていただいた、手帳更新用の診断書の内容の一部です。
    ****
    「PARS 幼児期回顧得点17(≧9) 思春期成人期得点49(≧20)」(H20年試行)
    6-(6) 身体の安全保持・危機対応「2 おおむねできるが援助が必要」
    7 6の具体的程度 状態等
    従順で社会ではトラブルに巻き込まれる危険性もあり、社会的に自立するまでにはサポートの継続が必要である
    ****

    • さーこ
    • 2014年 8月 06日

    一部追記、訂正です
    ****(昨年12月に、医師に書いて頂きました)****
    診断書(精神障害者保健福祉手帳用)
    1 病名 「(1)主たる精神障害「広汎性発達障害」」「ICDコード(F84.9)」
    4 現在の病状、状態像等
    「(11)広汎性発達障害関連症状」
     「1 相互的な社会関係の質的障害」「2 コミュニケーションのパターンにおける質的障害」
    5 4の病状・状態像等の具体的程度、症状、検査所見 等
    「PARS 幼児期回顧得点17(≧9) 思春期成人期得点49(≧20)」(H20年試行)
    6 生活能力の状態 (保護的環境ではない場合を想定して判断してください。児童では年齢相応の能力と比較の上で判断してください)
     2 日常生活能力の判定
    (1) 適切な食事摂取 「1 自発的にできる」
    (2) 身辺の清潔保持、規則正しい生活 「2 おおむねできるが援助が必要」
    (3) 金銭管理と買物 「2 おおむねできるが援助が必要」
    (4) 通院と服薬(要・不要) 「2 おおむねできるが援助が必要」
    (5) 他人との意思伝達・対人関係 「3 援助があればできる」
    (6) 身辺の安全保持・危機対応 「2 おおむねできるが援助が必要」
    (7) 社会的手続や公共施設の利用 「3 援助があればできる」
    (8) 趣味・娯楽への関心、文化的社会的活動への参加 「2 おおむねできるが援助が必要」
     3 日常生活能力の程度 「(3)精神障害を認め、日常生活に著しい制限を受けており、時に応じて援助を必要とする。」
    9 備考 「現在投薬なし。」
    ****
    積極奇異疑いの彼女は、愛着という名の執着という感情に身を任せてしまい、誰も立ち入ることの出来ない領域があるという「事実」について、身をもって真に知る体験をした事がなかったようです。

    • さーこ
    • 2014年 8月 06日

    後藤先生、何度もすみません。
    6 生活能力の状態は、 (2)~(8)まで「2 おおむねできるが援助が必要」でした。
    2年前の診断書と間違えて見ていました…。
    後は間違いありません。
    診断書の控えを取っておくと、数年前の自分はどうだったのかが比較できて、自分に対する理解が深まりますね。
    何度も失礼いたしました。

    • さーこ
    • 2014年 8月 07日

    昔私が読んでいたギャグ漫画に「コーカサスの白墨の輪」の話も載っていましたね。
    戯曲の登場人物に扮したキャラクターたちが手を引っ張り合うという場面で、その漫画の中では、あまりに勢いをつけたまま育ての親が手を離した反動で、子ども役と生みの親役のキャラクターが大ケガを負い、冷や汗が流れる空気の中、「打ち首!」「えぇっ!?」と、育ての親に不条理な判定が言い渡されるシーンのオチで終わるという、なんとも尖っている漫画でした。
    文字で伝えてしまうと味気ないですが、デフォルメの強いコミカルな不条理ギャグ漫画は、子ども心に思わず吹き出してしまい、悲劇のような喜劇がふんだんに詰まっていて良かったです。

    • 道産娘
    • 2014年 8月 08日

    孤立型…では無いですね。
    確かに「結果が伴わないのは己の努力が足らないせい」と、自業自得の考え方になりやすいです。
    ちなみに、基本的に「人は人」なので他者に「努力しろ」と押し付けることはありません。
    (以下はコーカサスの白墨の輪について)
    「何度も同じことを繰り返す」か、「身を切られるような苦痛を味わう」か、選択するためには、まず手放してみた方が良い…一旦その場から離れることで、冷静になれることは多いです。
    私もネットで調べただけの怠け者ですが、育ての親の台詞が「詩的象徴的な表現」で興味深かったので、本屋で探してみようかなと思ってます。
    「私が育ての親の立場なら、やはり子供の将来を考えてお金持ちの産みの親に譲ると思います!」と、今は自信を持って言えますが…実際は分かりません(苦笑)
    一つ言えるのは「痛がる我が子を目の前にして、引っ張り続けることができず、反射的に手を離してしまうだろう」とは思います。
    この辺りの「情緒的に厳しくできない」性格は自覚できます(逆に、ジャイアンなら引っ張り続けることができるのだろうか?)。
    先生へ
    いつも以上に具体的に細かく説明して頂き、感謝しております。

    • 道産娘
    • 2014年 8月 09日

    (続きです)
    ダメだ、やっぱり「愛着」が分からないや(^_^;)
    コーカサスの白墨の輪の粗筋を読んで「育ての母親が子供を所有(支配?)したい、また、子供の気持ちが自分から離れていくことに強い不安を感じる」ということは分かるのですが…自分はどうか?と考えると、やはりピンときません。
    ただ、自分に「人の近さ」や「想像力の欠如」がみられることはよく分かったので、積極奇異か孤立のどちらかであることは間違いないですね。
    >身体症状でボロボロになっていても病的であると考えない。(だから愛着の対象でない周囲の人にもある意味非常に冷酷になりうる。ジャイアンとは違う意味で自業自得というわけだ)。
    自分自身をもの扱いしてるからと言って、他者までもの扱いして良いとは思いませんので、他の人には病院に行くよう勧めますが、これが「管理」や「支配」にあたるなら、もう余計なことは言わず、相手に対しても「自業自得」の方が良いですね。
    「相手が自分に対し、一々指示を仰いでいる」ように思える時は多いですが、これも、すぐに答えず「自分で考えたら?」と突き放す。
    なるほど、(フォロー等の)現行不一致以外にも改善すべき点がありますね。

    • 道産娘
    • 2014年 8月 11日

    私の考える「自業自得」とは、「後悔するなら始めからするな」というゼロ百思考に基づくものだと考えます。
    「後々被害者面して相手を責めるぐらいなら、始めから毅然とした態度で断わるべきだろう」と考えますし、「曖昧(優柔不断)な態度をとることで相手の気を持たせるようなことはしたくない」ので、例え冷酷と言われようと、余計な責任を背負わぬよう出来る限りその場で断わるようにしています(ちなみに、断わりきれずに引き受けてしまった時は、即日中に電話でお断りしています。相手に期待を持たせるような対応をした自分が悪いので)。
    なので「私はあなたのお医者様ではありません」と、きっぱりできないことを断わるという対応自体は、(個人間の依存を断ち切るという点でも)とても素晴らしいと思いましたし、「人の近さ」故流されやすい自分は「見習いたい」と思いました。
    基本的に誰に対してもこういった対応をしていますし、相手の言語的な了解を得ずに、自分から相手に尽くすことはまず無いです。
    おそらくこのような考え方で行動できるうちは、「その相手は愛着ではない」ので大丈夫でしょう。
    もう少し自分と他者とのやり取りを観察してみます。

    • さーこ
    • 2014年 8月 11日

    私の場合、「自分についての説明を試みている」のに、他人からはその様子が「何がしか感情的に訴えているんだな、と捉えられる(受けとめられる)」という現象が起きます。
    「私は距離が取りたい(心理的距離、対人的距離が近すぎるから離れてくれ)」という私からの訴えについてですが、第三者はその様子を見て、「少しの間わたしが盾になって、対人的距離を取らせてあげたい」と余計な心情を上乗せする人種がいることは確かです。
    「あなたに代わってわたしが対人的距離を取らせてあげよう」という事になった上、私に対して「~になってほしい」という勝手な「希望の灯、扱い」したり、「自分の力量もわからず、勝手に盾になって傷つきすぎたあげく、自分の勝手な希望を一方的に私に託したりする」事には辟易しています。
    私はずいぶん昔からこの問題について感じてきましたが、人生がしんどすぎます。
    私は「コーカサスの白墨の輪」でいうところの、「子ども」の立場しか想像できません。
    正直なところ、育ての親と産みの親が「子ども」の手を引っ張り合うシーンは、「とんだ茶番」だとさえ思っています。
    有名な戯曲ですが、昔からあまり好きではない作品ですね。

    • 道産娘
    • 2014年 8月 12日

    「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」
    「自分のこだわりの中での優先順位で我慢も出来る」
    「よりこだわることのために我慢する」
    上記は孤立型ASの特徴ですが、今現在はこちらの方がよく当てはまります(「相手は都合良く利用するだけで、自分の気持ちに応えてくれない」といった悩みは無いので。基本的に誰に対しても「役に立てればそれで良い」と考え、「相手に見返りを求めるぐらいなら始めから引き受けなければ良い」というサムライ的な発想になります。あと、自分から頼み事をするのが苦手ですね)。
    ただ、これまで愛着と呼べる人が居らず、問題が表面化していないだけという可能性も視野に入れた方が良さそうですね。
    「(愛着への)思いが熱く、愛情深い」というのは全く自覚がありません(苦笑)
    多分「責任」とか「管理」といった考えの延長だと思いますが、「将来女の子が産まれたら、自分と同じ目に合わせたくない」とは思っていたので、この気持ちが裏目に出て管理し過ぎないよう気を付けたいです(逆に男の子だと全く想像できず、ある意味怖いですね)。
    今現在は「六割で我慢する」感覚に早く慣れることが目標です。

    • 道産娘
    • 2014年 8月 12日

    そうか、トラウマではなくシンクロ二シティと言った方が良いかもしれない。
    私の場合、「ある出来事」がきっかけで、過去の嫌な出来事を思い出して気分が凹むことがあります(テレビを観てる時もしょっちゅう。これを感情移入と間違えていたかもしれない)。
    子供の立場からすれば、育ての母親、産みの母親、どちらも「エゴ」じゃないかと思います。
    「産みの母親は産まれてすぐに自分を見捨てて逃げたくせに、今頃になって引き取りたいと言っている」し、「育ての母親は(自分の将来等と言った)現実的な事は考えず、ただ自分を手離したくないと言っている」
    「事実」のみを語れば、産みの母親と育ての母親が子供の親権争いをし、育ての母親が親権を勝ち取った…ということになるが「真実」は見方を変えれば幾つも存在する。
    子供が育ての母親を好きなら「優しくて愛情深い母親」になり、嫌いなら「自分の将来を奪った支配的で独善的な母親」になるかもしれない。
    誰かの主観によって「事実」は幾らでもねじ曲げられる。
    それは私もそう。
    私が誰かを庇い続けた結果、本来背負わなくて良いものまで背負ってしまっている。
    それが「事実」なら認めるしかないです。

    • 182
    • 2014年 8月 12日

    ジャイアンだったら・・・
    そもそも置き去りにされてる子ども拾うかな?
    意識決定の大原則が「自分にとって有利か不利か」ですからね。
    子どもを拾う事が自分にとって有利と判断すれば拾うか。
    で、次。
    生みの親が現れて子どもを返せと言ったら。
    返すでしょうね。手なんか引っ張りあっこせずに、とっとと。
    でね、散々恩に着せてそれまでの養育費を請求する事でしょう。
    ついでに、今後の私の生活の面倒も見ろ、とか、お宅のお屋敷で高待遇で雇えとか。
    自分で言うのもナンですが、私はそれほど反社会的ではないので脅迫まではしない、、、してないつもりだけど、受け取る人にとっては上記の要求は脅迫に聞こえるかな?
    警察につかまらない程度に、美味い汁が吸えるように、物腰やわらかく依存する事でしょう。
    ただまあ、依存するのも結構疲れるから、もし自分の生活が困窮してなかったら謝金だけもらって「ハイさよなら」かな。
    私は今「親」の立場だから「子ども」の気持ちはあまり想像できないケド、もしすんごいお金持ちの家ならやっぱりそっちに行きたいかな。
    「とんだ茶番」というより「シュールコメディ」という感じですね。
    手を引っ張り合うシーンは「ココ笑うところだよね」っ感じます。

    • さーこ
    • 2014年 8月 12日

    「不条理な喜劇」と「シュールコメディ」ってどう違うのか…。
    手を引っ張り合うシーンで笑い飛ばされると、私の場合、あっけにとられるかもしれませんね。
    孤立型っぽい弟は、私の「監督」をしすぎて、自分自身の過去の思い出と記憶をほぼ見失ってしまいました。
    私は私で、たとえ、特定の人物(たとえば弟)との物理的距離が離れても、連続的なフラッシュバックが、今この瞬間を体験しているかのようにかなり長いあいだ頭の中に回り続けるので、日常的にPTSDに合っているかのような感覚が抜けません。
    こうした状態で、特定の人物(たとえば弟)の思い出話など、穏やかにできるわけがないし、自分の自我の輪郭を保つだけで息も絶え絶えだった事を先に思い出すので、正直、県外で生活している弟と会うと、私はいまだにビクビクしています。
    私に対して何がしかの執着をする人(必ずしも私自身が目的ではない)で、私から見て、大ざっぱに分けると、
    日頃から躁鬱っぽい人は積極奇異型疑い、抑鬱っぽい人は孤立型疑い、という「私の中の仮説」が出来あがりつつあります。(いずれも、自分の事をひどく害された経験のない人限定です。人生で決定的なダメージを負っていない人、が、私から見たらそのように見えるという意味です。)
    ちなみに受動型は、日頃から情緒不安定に見えています。
    非常に大ざっぱに記しますが、
    積極奇異型疑いの人は、「(強烈に)庇護して託したい」。(私の内心:誰があなたに頼んだんだ。庇護という名目で、本当は自分の言う事をきかせたい、の間違いでしょ)
    孤立型疑いの人は、「(強烈に)修正したい」。(私の内心:なぜダメ出しばかりするのか、私の人格を無視しているのか)
    ちなみに受動型の人は、「(強烈に)矯正したい」。(私の内心:あなたの為、お前の為、だなんて、絶対ウソだろ)
    という風に、私からは見えます。
    (いずれも、私にとっては、「距離が取れずに、(強固に)押しつけられ続ける」という感じです)
    (思い出すだけで早死したくなりますね…)

    • 道産娘
    • 2014年 8月 13日

    少し訂正。
    「私が誰かを庇い続けた結果、本来背負わなくて良いものまで背負ってしまった」
    これは「事実」ではなく「真実」かな。
    「庇い続けた」というのは私の主観だから。
    「(自分が悪いからと相手を)庇い続ける」のも、「(一方的に相手に強要されたと)被害的になる」のも、どちらもその人の「主観」であり、事実からかけ離れた見方であると捉えます。
    「借金で困ったら弁護士に相談」は、まさにその通りで私もそう助言すると思いますが、「実際に困っている訳ではなく、愚痴を言いたかっただけ」という可能性は考えた方が良いかも。
    そうか、「鬼婆が清楚に見える」のも、その人の「主観」によるものかもしれない。
    自身の私生活が充実していれば、相手を恨む気持ちも吹き飛んでしまい、いじめられた過去なんてどうでも良くなってしまう。
    服装や髪型はさほど重要ではなく、内面から滲み出る「自信」の影響で、相手に対する見方が変わってしまうことはあるかもしれない(もちろん、実際に見た目に影響してくることもあるでしょう)。
    さて、私もそろそろ失礼しようかな。
    長々とすみませんでしたm(__)m

    • さーこ
    • 2014年 8月 14日

    私の場合、「周囲が評する私の像、に、私自身が負けてしまう事」に問題があります。
    外見と雰囲気から「従順」に見え、何か自分の意思を示せば、「拙い、と、仕方なくヤレヤレとなだめられ」、激昂すれば「物事を勘違いしている」と叱責され、最後には「教育される」というハメになります。
    だから私は黙る。黙って、私の事を勘違いした人の時間が過ぎ去るまで耐え抜いて、私の事を向こうがシャットアウトしたところでようやく私は自由になれる。
    「自信の問題」で言いきれるほど、この話は簡単ではありません。
    私は昔からこの問題について一人で苦悩してきました。
    お医者さまでも解決しえないこの難題を、通常、人は理解しません。
    だから、これまで通り、たった一人でやるしかない。
    でも、それでも話を聞いてくださって、後藤先生、ありがとうございました。

    • さーこ
    • 2014年 8月 14日

    >私の場合、「自分についての説明を試みている」のに、他人からはその様子が「何がしか感情的に(主観的に)訴えているんだな、と捉えられる(受けとめられる)」という現象が起きます。
    上記は私自身のコメントの引用になりますが、この現象は私にとって日常的に起こっています。
    人生に疲れすぎて早死したくなるのに、「私生活の充実さ」や「自信」という言葉を目にすると、「どんな茶番だ」とつぶやきたくなりますね。

    • 182
    • 2014年 8月 14日

    弁護士に相談って・・・。
    年収300万の人に900万借金があれば法律の救済対象でしょうが、
    年収1000万の人に3000の万借金があっても法律は見向きもしません。
    どちらも年収の3倍の借金なのに、不公平ですよね!
    とは言え、弁護士に相談したら借金がチャラになるなんてこんな美味い話にジャイアンが飛びつかないワケないです。
    無理だろうな、と思いつつ、法テラスの事前審査に申し込んだら、あっさりハネられました。
    問題の本質は「多重債務」じゃなくて人並み外れた「浪費」の方、そこは法科の範疇ではなく精神科の範疇って事なんでしょう。
    ところで私はバリバリ中心志向のジャイアンなんですが、他人に助言するのは好きではありません。
    たまにうっかり助言してしまうと、後から自己突っ込みで苦しむ事になるからです。
    これは元々そういう脳と言うより社会適応の中で、他人に偉そうに助言して中心志向をほんの一瞬満たす事が出来ても、その後にくる自己突っ込みの方が遙かに苦しい事を何度か経験してそうなりました。
    なので通常は「相手は自分より詳しいかも知れない」と言い聞かせ、名指しで助言を求められない限り決して話に加わらない事にしています。
    ウチの旦那はたぶん受動型ASDだと思いますが、中心志向が無いせいか助言、忠告が大好きですね。
    その意味で、
    > 「(強烈に)矯正したい」。(私の内心:あなたの為、お前の為、だなんて、絶対ウソだろ)
    は全く同感です。

    • 182
    • 2014年 8月 14日

    ↑若干、不親切な説明だった気がするので追加します。
    年収1000万で3000万の借金に対応してくれないのは、あくまで法テラスや、行政の無料法律相談。
    それなりのお金を払えば、弁護士は仕事受けてくれます。当たり前ですが。
    言うまでもないですが、買い物依存症の方を治療せずに債務整理だけしてしまっても意味がありません。
    破産にも時効があるので、結局同じ事を繰り返すだけですからね。
    特に受動型の夫に対しては最悪の対応だったと思います。
    (実行しなくて良かった。)
    だから、「もうお金がないから贅沢品、嗜好品は買えない。」という状況でペンディングにしておくのが結局一番効果的だろうと思います。
    と言うか、このコメント書きながら結果オーライだったなと思っている所です。

    • ちひろ
    • 2014年 8月 15日

    申し訳ない。私は身の程知らずにも他人に助言をするのが大好きなんですっ!
    で、的をはずしたり、完膚なきまで論破され玉砕する・・いつも(ーー゛)ウウウ
    でも、法テラスからあっさりはねられたということは、そこまで悲惨な状態じゃないってことですよね。
    心配して損した(ー_ー)!
    考えてみれば、182さんは大学教員の奥様、それも大卒の専業主婦の奥様だった。
    私が住んでいるアパートには子供4人の母子家庭とか、障害児+子供2人の母子家庭とかいるからさ・・そんな人と同じように困難を抱えているんだと勘違いしたよ。
    ごめんなさい。
    ・・・ほんとうに恥ずかしいバカなことをしたな。
    私はいつも井戸の中から語ってしまう。
    これを182さんにむけての最後のコメントにします。
    (またこれ・・(T_T)ハア)
    では(-_-)/~~~
    ・・って・・いつもこのパターンだから・・どっかのだれかに笑われそうだ。

    • ちひろ
    • 2014年 8月 15日

    ↑のコメント・・・書いて後悔してます。
    (実は書いた内容はおぼえていないのだけど・・なんかろくなことを書いた気がしなくて・・まだ承認されてないけど・・どうなるんだろ・・(>_<)) 夜勤明けのボケボケ状態だったのもあるけど・・・いろいろ反省だらけです。ストーカーごめんなさい。m(__;)m 何も知らず、なんの知識もないのに出過ぎたコメントをしました(数日前にUPされたやつ) 主治医の先生と良い関係がきずけて、旦那さんの治療と借金返済がうまくいくことを願ってます。

    • 182
    • 2014年 8月 16日

    他者から見て、明らかに困難を抱えている様に見え、実際に想像通りの困難を抱えている人々を「意味不明な人々」とは言わないでしょう。
    (・ω・)ノ

    • m2
    • 2014年 8月 17日

    いや、困難を脱出する方法が明らかに存在するのに、想像通りの困難を抱えざるを得ない人は、多数派から見た場合「意味不明」ではないかもしれませんが「理解不能」でしょう。
     わかっているけど、自分ではどうすることもできない脳、というのはこのサイトの重要なテーマだと思います。
     浪費癖は絶対に自分じゃどうすることもできないのでしょうね。
     私は全く浪費癖はありませんが、受動型ASでそういう傾向を持った場合、何か一つに集中させるのがいいのかなと思います。
     なんでもかんでも買ってしまうと際限ありませんが、何か一つテーマを決めてそのこだわり分には最高級品をコレクターする形なら、我慢は利くと思います。受動型ASは「何を買うために我慢する」ならできるはずです。
     まあ、依存先が無くなるのが一番即効なんでしょうけど。

    • 182
    • 2014年 8月 18日

    > まあ、依存先が無くなるのが一番即効なんでしょうけど。
    その答えがハッキリ見えていて、それを実行できない。
    衝動コントロール出来ないハズのジャイアンでありながら、なぜかこの点だけは抑制的なんですよね。
    愛着と呼べそうですが、ここの記事に出てくる積極奇異の愛着とは違いますね。明らかに。
    私の場合は結局「責任」と「自己ツッコミ」の関係で行動を抑制している。
    3人の子供の寝顔を見ていると「愛情」と呼べそうな感情が湧きますが、もしも目の前に自分よりも子供達を幸せにしてくれそうな人が現れたら、アッサリ引き渡せると思います。
    ただし、その時に「本当にこの人は私より子供達を幸せにできるのか?」とは、当然悩みますが。
    悩んでる姿を外からみたら「それが愛着じゃないの?」と見えるかもしれないけど、やっぱ、それはチョット違うと思う。
    だって、何の自己ツッコミも生じない状況であれば子供を引き渡せるもの。
    夫に対しても「離婚してくれ」と言われれば、「了解しました。」で別れられるケド、現状、こんなロクデナシに付き合えるのは私しかいないだろう、という気持ちが共依存の原点になってます。

    • あきら
    • 2014年 8月 24日

    ううむ(笑)
    ここのコメント欄には自分をはじめ複数の受動型が書き込んでいると思うのですが、「された!された!」と被害的に発言する人はいないと思うのですよ。
    認知が被害的である→発言が被害的になる わけではないと思うのです。被害的に受け取っている自分をさらけ出せるのは余程心を許した相手のみです。信用している担当の医師であるとか、愛着であるとか、です。後藤先生が受動の心を分析できたのは、受動が素を見せても良さそうだと思うまでの信頼関係を築かれた後の話でしょう。
    そして、受動型の「された」は全てが被害的な受け取りというわけではないです。実際に「された」場合の「された」も当然混じっています。特定の傾向のある人には、受動の在りようは無視できないものですし、実際に「される」事も多いのですよ。された、と口にした途端「ほらこれだから受動は!!」と言われる事が想像できるので、余計に「された」は言わなくなっているとも思います。
    孤立・積極奇異・受動、確かにそういう区別はあると思いますが、このところ、どうも魔女狩り的というか、血液型占いのように、「はじめに定義ありき」で無理にでもそれに当てはめる、酷い場合には自らが当てはまろうとする(これはもう病的ではないかと思う)、そういう妙な空気を感じます。
    後藤先生の分類・分析は、後藤先生に診断してもらった場合にのみ完全一致するもので、対処法も同じだと思っています。
    ですから、自分は受動だと思っていても、自分の全てが先生の受動の定義に当てはまるわけではなく、ああこれは違う、そう思う事も多々あります。
    他のサイトによくある自己診断用の質問集なども、100問中100問当てはまらなければASDではない、ではなく●●%以上当てはまったら可能性が高い、というものだと思います。これの意味するところは、ASDにも個性があり、定義にない傾向を持っている場合も、逆の場合もあるのだと思います。

    • さーこ
    • 2014年 8月 25日

    自分が何であるか、を見破るのまでの道のりは、容易ではありません。
    現実世界では、お医者さまでさえ苦心しているのがよく分かります。
    私は「本当のこと」が知りたくて、診断を受けました。
    「私は世界をこのように見ているけれど、本当はどうなっているのか」「私はいつも人から都合のいいように粗末に扱われてしまうけれど、本当はどうなっているのか」
    受動型や孤立型は、自分の診断の際にこのような動機を持たないでしょう。
    若い頃は「(私は)相手に~された!」という、「被害的に何かにつけて託けた発言」という評価をされる事が多く、相当つらい思いをしてきました。
    孤立型が「現実でのリアルタイムの変化を想像できず」、受動型が「あなたのため」と言うのと同じ程度の「困難さ」で、私には「何かにつけて託けた発言」という「困難さ」があるようです。
    私は、回復した途端に「他のタイプの人の、人生の困難さを忘れる人にはなりたくない」です。
    まぁ、一気に考えようとすると無理が来ますので、無理せずあせらず、今は自分のことを「保留」という形で留めおくのがよいのではないかと思いました。

    • 吉野
    • 2014年 8月 25日

    >ここのコメント欄には自分をはじめ複数の受動型が書き込んでいると思うのですが、「された!された!」と被害的に発言する人はいないと思うのですよ。
    あきらさんありがとうございます。コメントは消されてしまったようで自分がどういう文面で書いたのかは覚えていないのですが
    私自身の認知が歪んでいて、自分に向けられていると認知してしまっていたせいかもしれませんね。
    (先生、お手数お掛けし申し訳ございませんでした)
    >現実世界では、お医者さまでさえ苦心しているのがよく分かります。
    さーこさんありがとうございます。
    私も未だに人格障害や発達障害の診断をいただけなくて困っているので、すごくよくわかります。
    発達障害といっても、あきらさんの仰る通り本当に色んな方が居ますよね。
    努力されている方がおられるということはとても心強く感じます。
    今ようやく気付いたのですが、積極奇異型の方の場合「(自分が)~された!」という認知が愛着につながっていて、
    そこが本人にとって死角になっているのかな?と思いました。
    「自分が~されたから、(自分はこう動くのが)当然のことである」という認識になっているために、「自分が行動している」という自覚が難しいというか。
    ひとつ前のトピックのコメントで指摘されていた
    “ジャイアン様って言葉で勝つためには結果を選ばないってところがあるので、「結果のおかしさ」を指摘しても絶対に認めないきがする。”
    これも「(自分が)~された!」という認知による結果なのかな?と思いました。
    もしそうであれば、自分のタイプがわからなくても「『(自分が)~された!』という認知があるな」ということに気付くことができれば改善していくことはできるのでしょうか。

    • さーこ
    • 2014年 8月 28日

    >積極奇異型の方の場合「(自分が)~された!」という認知が愛着につながっていて、
    >そこが本人にとって死角になっているのかな?と思いました。
    おお、まさしく、そこが「死角」ですね。
    ただし、私の内観としては、「…ええーっと……自分が~されたから、(…もしや、自分はこう動かなくちゃいけないのかな…??(リアルタイムの状況把握がとてつもなく困難))」という認識です。
    「自分が行動している」という自覚が難しいと言うよりかは、それ以前の問題です。
    だから、事態の後から「キレる」んですよ。そして周囲の人からの人間的評価が下がる、と。
    相手が私の現在の状況を、「逐一言葉で説明して確認を取り」、私の意思を、「要所要所で、言葉で確認し、了承を取ってくだされば」、かなりトラブルが減ると思われるんですけどね。
    単純に改善していくことは、むずかしいことだと思われます。
    私の側からは「リアルタイムにおける認知の限界」が事実としてありますし、なにせ自分だけの問題ではなく、相手がいることによる問題だからです。

    • さーこ
    • 2014年 8月 28日

    >私も未だに人格障害や発達障害の診断をいただけなくて困っているので、すごくよくわかります。
    うーん…たぶん、その「すごくよくわかります」は、少し違うと思います。
    というのも、私の場合は「特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS)」だったので、現実で診断をいただいても、逆に途方にくれてしまったのです。「診断後に、私の診療方針について苦心しているお医者さま」を見ていると、「発達障害と言えども、何も答えなんかない、むしろ謎が増えている」と毎回思いますから。
    私は、「私の診療方針について苦心しているお医者さま」を見て、「信用することにしている」のです。
    私も、自分のことを考え、苦心して生きているところです。

    • あきら
    • 2014年 8月 28日

    ~された、という認知は、受動しか抱かないものなのですかね…もっと一般的な事かと思っていました。(←これが普通にこだわるというアレでしょうかね)何か目から鱗です。頻度が高い、普通はそう受け取らないところまで「された」と感じてしまうのがASDの特性なのかと思っていました。
    被害的に発言することが良くない事だというのは十分に判っているので、とにかくされたという発言は避けています。が、「思わない」「感じない」ようにするのは非常に難しく「思ったとしても表現しない」に徹しています。被害的に受け取った時は、後から意識的に修正します。修正することは出来るようになりましたが、何かが起きたときに瞬時に浮かぶ考えは「~された」です。意識的に「起きた」なのだと変換する以外に、「いやいやわざとじゃないだろう」「多分善意なんだろうな」「そういうキャラの人なんだろう」「自分が先に何かしたのかも知れない」など色々ですが。
    しかしこれが行き過ぎて、いじめを呼ぶこともありますし、本物の悪意を見逃して吊るし上げにあう事もありましたし、責任を誰かに押し付けたい人間に粘着された事もあります。(ここらへんが実際に『された』事柄です)いまだに解決していませんが、人間関係を出来る限り広く浅くする事でトラブルは激減しました。主治医に伝える時でさえ、されたという言葉を使っていいのかどうか戸惑います。
    吉野様
    こちらこそすみません。そしてありがとうございます。
    ですが、「最近の当ブログのコメントについて」というエントリーを読んでみて下さい。コメント者に直接話しかけることは禁じられています。コメントの引用(丸写し)も禁止です。誰かのコメントを読んで自分の思うところを書くことは良いようです。
    (先生、ルール違反失礼しました)

    • るる
    • 2014年 8月 30日

    少々過剰に「~された」という認知は、依存型ジャイアンにも
    利害に敏感な合理的ADHDにもあると思います。
    私の場合は状況が呑み込めていないうちから直感的に「被害を受けた!」と感じているようです。そういう時は、
    ・ただひたすら自分の認知に偏りがある可能性を意識して
    ・認知の偏り自体は、自分のせいではないと言い聞かせ
    ・行動に出るタイミングを後に持っていく努力をして
    やり過ごす、というのが現状です。
    あと、そういう思いをさせられそうな人には近づかない。
    思い返すと、この認知によって、いやな思いもしてきたなぁ。
    一方で、自分の身を守れるという利点があったようにも。
    おかれた立場で、自分なりのやり過ごし方を身につけることが「生きる」ってことなのかなぁと思う今日この頃です。

    • あきら
    • 2014年 8月 30日

    ああ、また目から鱗です。ありがとうございます。
    この認知の歪みは敵でもあるけど味方でもあり、色々と欠けている自分を随分守ってくれました。これがなかったら、もっと酷い目に遭っていたかも知れません。
    転ばぬ先の杖を大量に用意できるのも、「されたらどうしよう」「起きたらどうしよう」と常に先の先を考えるからであり、それがなければ今の仕事は続きません。
    被害的な認知は、うまく生きていけるようになるにつれ、発達して行くのかも知れませんね。

    • ちひろ
    • 2014年 9月 01日

    私が生きた時間は親と暮らした子供の日々よりも、夫と暮らし、母である期ほがし長い。だから当然この物語を自然に母の立場で読んでしまいます。
    でも、親になったことのない若い人は、子供の立場で読む。当然だと思います。
    「周りの人に対して、そんな馬鹿げた要求が通るはずはないだろおまえは赤ん坊かっ!!!!」と、言いたいコメントがありますが、それは自分の成人まじかの子供にも言いたいセリフ。今の時代、体だけでかくなったガキだらけだと、自分の子供を見て思います(T_T)
    ママ友いじめ時代に、一緒に乗っかって参加した20代後半の親と同居する未婚女性がいて、わたしの名前を呼び捨てにして、命令しまくりだったのですが、チームのビブスの洗濯をいつも引き受けることにかんして彼女の親か苦情がくるという珍事件がありました。
    自分がやるといって自分で持って帰って、その洗濯を親に押し付けて、そして手柄は自分のものにしていたことがみんなにバレたわけです。
    対等な立場なら彼女の姿は醜態以外のなにものでもないけれど・・成人した子供をもつ親として、彼女を自分の子供と比べると、十分ありえると思うのです。残念ですが(ーー゛)
    そういや私は学校を卒業したと同時に家を出て、すぐに結婚、出産ってきたから、昔でいう結婚適齢期の未婚女性の複雑な心理を全く理解せずにおきらくでいいねって本気思っている節があります。
    ピチピチ20代を3人の子育てで過ごした私の立場からすれば、身の回りの世話を親にやってもらい、給料も時間も全部自分のもの、それが当たり前、それはうらやましく、贅沢で以外のなにものでもない。
    でも、思うにそのお年頃の女性は、思春期の男子のごとく光り輝いていると同時にややこしい。
    私は彼女にずいぶん絡まれたけれど、私自身が、彼女の地雷を踏んでいたかもしれないと・・なんか気づきました。

    • さーこ
    • 2014年 9月 02日

    私の人生とは、他人の地雷を踏み続ける連続です。
    医者や相談員、果てはADHD親や妹に至るまで、私になぜ事態の説明をしたりするのかと言えば、「思考の柔軟さをもてる可能性がある」と思っているのだろうかと思ったりしているところです。訊ねてみた事は、ないのですけれども。
    私の診断時は、今のようにインターネットで障害を検索できる時代ではありませんでした。細々とした文献やブログなどは全て手探りのものばかりで、苦心の跡が見える言葉の数々でした。
    その代わり、店頭にて書籍が出ていました。先人たちの恩恵によって障害のことについて話す事ができる、という事実に、私は、言葉にできないほどの有難みを感じています。

    • b
    • 2014年 9月 02日

    二回目の投稿です。
    「身を切られるまでの苦痛の中で自分から手を離す」
    この言葉に救われました。自分の苦しみを代弁してくれていたから。
    お陰様で、今はだいぶ楽になりまして、重しの外れた風船のようです。
    仕事をするのも遊ぶのも楽しくなりました。
    結婚以来、自分の為にお金や時間をあまり使ってきませんでしたが、今後はそうしよう!と考えるようになりました。
    そうすることで非難されることがあっても、「身を切られるまでの苦痛」の方が辛いので、我儘に生きられそうです♪( ´▽`)

    • 182
    • 2014年 9月 02日

    みんな基本、自分の立場でしか物を見ることはできませんね。
    それは多数派だって同じなんだって最近気が付きました。
    それでも多数派が発達障害者と違う所は(と私が思うのは)「こっちの立場から見たらこう見えます。」と丁寧に説明すれば理解してくれる所。
    説明をする時に効果的だなと感じるのは「Aの立場から見ればaだけれど、Bの立場から見たらbになりませんか?」と言う事です。
    ここでウッカリ「Bの立場から見たらbです。」とだけ言ってしまうと「Bの立場の事なんか知らん!」となる(事が多い)。
    これが「立派な人」だと「あなた、Aの立場の人の事を考えればaに決まってるじゃないの。自分の都合ばかり言わないの。本当に配慮が足りないんだから、、、」と説教モードに入ってしまって議論になりません。
    ちなみに、今まで私はこの様な「立派な人」の説教がとかく苦手で、自分が自己中心的で他者への配慮に欠ける自覚が中途半端にあるせいで、「配慮が足りない」現実の自分の欠点を指摘されると「ごめんなさーい。」とスゴスゴ引っ込んでいました。
    でも、ここのブログで認知の修正が進んで、やっと分かりました。
    「Bの立場からみればb」という事実はどこへ消えた?
    って事。
    3歩ぐらい下がって冷静に観察してみると、「立派な人」はaのバリエーションが豊富で、a1,a2,a3,,,,,,,,とキメ細かく配慮のできる人です。
    だからAの立場にいる人にとってこんな心強いパートナーはいないだろうなって確かに思います。
    でも、bのバリエーションを持ってない。
    そしてBの立場にいる人を「間違っている」「配慮が足りない」と言う。
    な~るほど、だな~。と。
    なんだか、最近は自分自身の問題については適応スタイルが見えてきた感じです。
    あれだけ、難しい難しい、と言っていたジャイアン娘に対しても「基本放置」のスタイルで安定飛行に入りつつあります。
    今現在、最も悩ましいのが知的に軽度の遅れのある受動型ASD長男への対応で、まずい方向に行きつつある気がして、、、なので、今後ともしばしばこちらのブログにお邪魔させて頂きたいと思ってます。

    • るる
    • 2014年 9月 03日

    このところ、被害者的な認知について考えていました。
    非常にざっくり言うと、その認知のもととなる欲は
    わかってもらいたい か
    評価されたい か
    上に立ちたい
    ではないかと思いました。
    ひとの個性(意味不明さ)については(私見です)
    わかっているけれど変え(られ)ないのがASD
    わかっているから変えようとあがくのがADHD
    どちらにせよ何とかならない(と思う)ので、現実的な対処法を考えることと、ジャイアン(少なくとも私)の場合は言葉の選択に気をつけることが必要だと思いました。
    エントリの内容から外れてしまいましたし、よけいなこと書きましたが、書きたかったから投稿します。
    こういうことはリアルでは(私は)言えないし、こういうことをいちいち考えずに生きていける多数派が、この点に関してはうらやましいと思います。

    • さーこ
    • 2014年 9月 03日

    そう言えば、マルチ商法の彼女も、親と同居する未婚女性でしたねえ…。
    私が見るに、そのお年頃の女性は、鈍く暗い光が見えますねえ。リアルで対面した時に目を見ればだいたいわかります。ややこしいわけではないのだけれど。
    そんなわけで、私は他人を正面きって「うらやましい」と言った事はないです。たとえ思うだけでも阿保らしいと思っていますから。
    私の場合、身の回りの世話と言えば、せいぜいヒートショックで風呂場で倒れた時に親に脈を取ってもらったり、青汁を作ってもらったりするという、生命に関わる危機ぐらいしか覚えないです。
    ピチピチ20代を、私は全て通院と寝たきり、途切れ途切れのアルバイトに使いきり、1人でどんなに頑張っても自分で自分の体をぶっ壊すような生活でした。
    ちなみにリスカはしませんでしたが。
    私は老いることについて、「あーあ」とは思うけれど、むしろ今、すこし楽しいです。これまで経てきた、自分や他人の体調変動や、体のメカニズム自体の理解について、実践的に、生きた経験として蓄積されているからです。
    そうとは知らずに蓄積したきたものを活かす場が複数もあるという事、年代は違うけれど人生の友がいるという事、そして、どんなに不恰好で稚拙な私の話でも他意なく聞いてくれて気兼ねせずに話せる人がいるという事。
    なんだ、私って結構しあわせだったのか、という事に気づく日々ですね。

    • 182
    • 2014年 9月 03日

    今日は健康診断だったのですが、なんとビックリ婦人科の医師が医療事故で有罪になって廃院した病院の院長先生でした。
    ジャイアン長女を出産する時、この先生の病院に行っていたのだケド、臨月に入ったところで、急遽、弟さんの病院に転院させられた、という経緯があります。
    あまりに急な話で、事務員も看護師も理由については説明せず、ジャイアン的に何か聞いてはいけないという空気だけは感知できるので、深く聞きませんでした。
    そこでネットで調べてみたら、被害者の夫がブログを立ち上げ、実名で執拗に院長を糾弾してました。(病院名も住所もズバリ書かれてありました。自宅住所も番地まで。)正義の名のもとに。
    「医療事故被害者の叫び」とか、なんか、すごい正義の御旗を掲げて。。。
    法人訴訟でちゃんと勝訴してるのに、それだけでは飽き足らず、個人訴訟もおこして、執拗に粘着してるブログを読むと、ジャイアン的にはとても共感できないです。
    「二度とこの地で医療に携わらせない!」と息巻いてるけど、めっちゃお膝元やんっ!
    「木の葉を隠すなら森の中」ってことか?
    なんか、すごい、見てはいけないものを見てしまった気分で、すごいドギマギしてたんだけど、このコメント書きながら落ち着いてきました。
    よく考えたら「見た」のは私だけじゃないんだから、私がドギマギする必要ないよね。
    実際に長女を取り上げてくれた弟さんも良い先生だったんだけど、その後1年くらいで廃院されたんですよね~。
    兄弟にはありがちな、一文字違いの名前だったから、しかも同じ産婦人科医だし、、、同じ土地で続けるのは難しかったんだろうな~。
    今別の土地で元気に頑張って赤ちゃん取り上げてるのかなぁ?
    案外、小洒落た名前の病院名でご近所でやってたりして・・・。
    と思って今ネットで調べたら、ドクターヘリを飛ばす大病院の産婦人科部長になっとるわ(笑)
    (ちゃんと顔写真もHPに載ってるので人違いじゃありません。)

    • 182
    • 2014年 9月 05日

    新着コメントつながりで「ASの認知と「クレーマー」」の記事を読んで、、
    妻を失った夫も、いつまでも粘着してるのは本人としてもツライのかも、と思いました。
    きっと、多分、多数派的にも「気持ちは分かるケド、何もそこまでやらなくても・・・。」って所だろうから、
    きっとそういう空気は感じ取れて、それでも「正義」のための戦いをやめる事ができないのかな?
    弁護士も自分の要求通りには動いてくれなくて、「もう契約解消したい」と言われてるらしく、そんな弁護士を「仕事をする気がない」と嫌悪し、自分の望み通りに強制執行されない(深夜に自宅に踏み込めと要求)事を「司法の怠慢」と呼び、「日本の司法は間違っている」と国家を憂いてる。
    妻の実家とは遺された子どもの養育問題でモメて裁判沙汰で絶縁。
    出発点は間違ってなかったハズなのに、哀しいですね。
    > 何でもかんでもクレームをつければ、自分の社会的立場が悪化するだけであるし、100パーセント世間の全ての窓口を変えることは出来ない以上、自分のエネルギーをどこまでその問題に費やすかのバランスを考えないといけない。(ASの認知と「クレーマー」より)
    若干スレ違いですが、自分のコメントへのコメントなので、こちらに書かせてもらいました。

    • 聡子
    • 2014年 9月 07日

    「出発点は間違ってなかったハズなのに、」
    …それは、たぶん、ちがうと思いました。
    彼らの中で、そもそもの「出発点(最初の大前提)」からして「違ったまま」だから、こんなにも情緒的にこじれるのだと私は思いました。
    そして彼らは「矯正されることを嫌う」。
    (実はとっても情緒的な)論を使って、現実の人間を置き去りにして、自分だけの中でのみ通用する考えを「自分の人格構築のように」積み重ねていく彼らの中では、「最初の大前提」が矯正される(現実とのギャップにより論が崩れる)ことは、おそらく、世界が壊れるかもしれない(死に直結するかもしれない)ぐらいのダメージだと、私は勝手に想像しています。
    だから、抵抗するんですね。異常なほどに。
    そして。
    「自分目線(たとえ”他者の感じたこと”であっても、強引に自分の感じたことのみ使って話を通用させる事)」でしか、言葉を言わない、という事を考えるだに、自閉的なレベルは高いのでしょう。あくまでも想像ですが。
    私は、高校時代の彼女から「人格の尊重」という御大層な言葉を言われたことがあります。ですが、フタを開けてみれば、彼女の言いたかった事は最終的には「情緒的な不平不満」でした。
    現在文通しているADHDさんの話になりますが、私が積もり積もったあまりの悲しみによりシニカルに笑い出した言葉を送ったところ、「残酷だし、悲しい」と言われました。私は正直「しまった」と思いました。それ以来、私は自分の心に負担なことがあれば、正直に端的に言うだけの私になりました。
    今は、心に平穏だけがあります。
    ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

    • 聡子
    • 2014年 9月 07日

    弁護士へのクレームと、裁判沙汰の話には、正直ドン引きですね…。
    私の頭には、「本末転倒」という言葉が浮かびます。
    私の母は、(仕事中の)事故により自分の夫を失いましたが、「お父さんが”子どもたちを頼む”と言っている」といつも言っています。
    ジャイアンADHDのなせるわざです。ふつうの多数派の女性だったらこうはいかなかったでしょう。生活が苦しすぎて一家離散になったり、違う男性に走ったり、子の親権を放棄するなり、もしかしたらそういう運命だって私にはあったのかもしれません。
    でもそうはならなかった。
    私はあるタイプの人から「最終的に拒否される」ので、「時間が私の傷をいやすのを待つしかないなら、そういう生き方で良いだろう」と思ってます。
    重症の人に難癖つけておいて、”結局周囲(や社会)が変わるのを望んで待ち続ける事しかできないなら、それで良いだろうにと思ってます。”とわざわざ表明する人を見ると、「ゴチャゴチャゴチャゴチャうるさいんだよ」と思ってしまいますね。
    私が気に入っているのは、文筆家の池田晶子の言葉です。明瞭で整理整頓されていくような思考のうえ、孟子のような事を言うところが気に入っていますが、あるタイプの人たちはそろいもそろって「拒否するところ」がおもしろいですね。

    • 182
    • 2014年 9月 09日

    ふむふむ。なるほど。
    「出発点は間違ってない」と感じるか
    「出発前から間違っている」と感じるか
    って所で、ADHDとASDの大きな違いがあるみたいですね。
    「表面的・刹那的な認知」と揶揄されそうですが、私(ジャイアン)的にはやっぱり、「いやいや、出発点は間違ってないでしょ。」って思いますね〜。
    医療事故により妻を失った時点で夫には医療訴訟する権利が法的に認められてるし、実際その訴えは正当で勝訴している。
    そこで止めておけば誰からも後ろ指さされずに済んだのに・・・。
    が、私の感想です。
    それでも「ジャイアン的に共感できない」と書いたのは、その「後」の「粘着的」な他罰感情の方。
    「後」と「粘着的」に「」したのは、まさにソコがジャイアンにとって理解に苦しむ所だから。
    ASDさん的には「裁判を起こす「前」から他罰的で大前提が間違ってる人」認定なんですね。
    う〜ん。まぁ、確かにその後の親族とのトラブルまで見たらその通りかもしれないが・・・。
    ところで、実は私も裁判で勝訴したことあります。その時の感情は「こてんぱんにやっつけたる!」です。
    でも実際、勝訴した「後」にそれまで傍観者だった夫が「裁判に巻き込まれた精神的な苦痛に対して慰謝料を請求しよう。」と言い出した時は「はぁ!?」でした。
    「いやいや、もう勝った(終わった)し。こっちの要求は全部通ったし。正直この裁判はすんごい楽しくて(最初から絶対勝てる自信があったから)全然苦痛じゃなかったんデスけど・・・。」
    と思ったけど、依存相手の夫には「ヤだ」って言えずにフリーズしてしまいました。
    ま、結局、私が動かなければ夫は自分からは動けないので、慰謝料請求の裁判はしませんでしたが。
    (体調が悪いとか言って有耶無耶にした。←でもこの逃げ方がジャイアン的に「自己ツッコミ」だったりして、結局本当に体調不良になったんだケド。)
    要するに私は自分の主張が認められ「勝ち」さえすればそれで良くて、その「後」敗者を罰する事には興味が無いんです。

    • 聡子
    • 2014年 9月 09日

    「ASDさん的には「裁判を起こす「前」から他罰的で大前提が間違ってる人」認定なんですね。」
    「間違っている」のではなくて、「私とは違っている」という感じです。
    要するに、本人の中で、本人の情緒的な不平不満を、わざわざ「論」という、大層な「建前」の言葉にしてしまう事について、「おかしいな?」とは本人は思わない。そこについて「自分の中にも現実にもムリがある」という不全感を感じる余地がない。
    本人の中では「(現実にはムリがあるのに、自分の中では自然なスタイルになっている)”自分の意思の選択と表明”」という結果になっているところがまた謎です。
    その領域で起こっていることについて、自分で”考えた事”、あるのかな?って感じですね。まあまともに考えようとすれば「矛盾以外の何物でもない」ので、さぞかし悶絶するでしょうねえ。
    ちなみに、私の遭遇した本人は、「建前」ではなくて「それこそが本音(本人風に言うなら、”私は意思を表明した、それこそが私の本音だ”)」とでも本気で思っていそうです。
    「その「後」の「粘着的」な他罰感情の方。」
    ここら辺は私にもよくわからないところなのですが、1つには「思い込みの力」がありそうな気がしますけどねえ…。
    先生の記事に、のび太ADHDの思い込みの話がありましたが、そのASDバージョンが孤立型だったりとかして…。あくまでも想像です。
    私自身は、裁判で決着をつける事自体に興味がないし(もし裁判をする必要が訪れるとしたら、「作業的」に任務遂行しそうです)、裁判といういろいろな手続きが必要な制度に対して、精神的に苦痛という風にしかイメージが湧かないので、裁判が楽しいという感覚もわかりません。
    私だったら、「この裁判に巻き込んだ自分の配偶者に対して、自分の精神的な苦痛を、ストレートな言葉で情緒的に訴えよう」という感じにはなるでしょうね。「自分の配偶者ではなくて、敗訴した方に、しかも慰謝料を請求しよう、という風にはならない」んですけどね。謎だ。

    • 182
    • 2014年 9月 10日

    私は子供の頃の記憶が曖昧なのですが、ふと思い出した「勝利」の記憶。
    多分、小学校の1年生か2年生。
    私は体育の授業に「ブルマ―」を忘れて行きました。
    (ブルマーって今の若い子は知らないのかな?)
    で、担任に「ブルマーが無いならパンツでやりなさい。」
    と言われ、パンツ(下着姿)で体育の授業を受ける事になりました。
    その日は鉄棒の日で、鉄棒は4~5台しかないので必然的に他の生徒が見守る中、4~5人が前に出て鉄棒を披露することになります。
    で、案の定、私が鉄棒をやり始めると、目の前に座っていた男子が「ああっ!パンツだーっ!」と大声で叫び、囃し立てました。
    それでも私は動じることなく、毅然と彼を睥睨すると、彼は気圧されて黙ってしまいました。
    そんで私は「勝った!」と思ったのです。彼にも、先生にも。
    ところで、私はこの時の男子の顔が思い出せません。実を言うと先生の顔も。
    アルバムがあるので確認はできるのですが、ピンときません。
    その時の記憶の映像は、まるでたった一人で舞台に立って「裸の大様」でも演じてる役者の様で・・・。
    観客席は真っ暗なので明るい舞台の方からはお客さんの顔が見えない。そこにいる事は漠然と感じられる・・・。
    という光景として思い出されます。
    どうも夫の話を聞いていると、夫は視覚優位のASなのか、思い出の映像はかなり鮮烈の様です。
    まるで写真で撮ってあるかの様に覚えています。
    でも、私の場合はそもそも記憶がなく、あっても上記の様にぼんやりと、自分以外は単なる環境(状況)という感じです。
    ほとんど記事の内容に関係のない書き込みスミマセン。

    • 聡子
    • 2014年 9月 10日

    私の感情は、「こてんぱんにやっつけたる!」というよりも、「何も知らないのに、偉そうに言いやがって」です。
    ただし、以前「孤立型AS」の記事のコメント欄に書き込んでいらっしゃった、嶺往無識さんのコメントは、私には無視できませんでした。
    なぜかというと、私の弟(孤立型)をひどくしたのがあのような感じかもしれないと、リアルに思ってしまったからです。
    (ご本人のコメントによると、自分は孤立型ASの中でも特に極端なほうだと思います、との事でしたね。)
    ****
    私から見ると、孤立型というのは大体こんな感じですね。
    「思索の波間に漂って、移りゆくままにしていたい」
    「ACになると、他者に対しての不機嫌さがあらわになる(一見すると他罰的に見えるけれど、何か違う感じです)」
    (…。自我に影響を与える事象が形而下において存在しない事になる、という事は、形而上なら影響があるという事なんだろうか…? 私なんかは形而上(心、というような、形のないものを考えてみる事)の方が、考えるに際して、とっつきやすいのだけど。ここら辺が孤立型さんにとっての「こだわりの相手」になってしまう理由なのかなぁ…。)

    • 聡子
    • 2014年 9月 12日

    「どうも夫の話を聞いていると、夫は視覚優位のASなのか、思い出の映像はかなり鮮烈の様です。」
    「まるで写真で撮ってあるかの様に覚えています。」
    私の場合、現場の保存と保管を最優先にした為に、当時の自分の強烈な解釈(感情)は、とうとう二の次にしてしまいました。
    ASの思い出しには、大体において「自分の解釈」が入るものなんですよね。「ASD(自閉症スペクトラム)」なので。

    • 182
    • 2014年 9月 12日

    ああ、やっぱり。
    あれは私への「非言語的な威圧」だったんですね。
    元々こっちが原告なのに、負けた被告にさらに慰謝料請求ってあり得んやろっていう絶句的な要求は、最初から私をフリーズさせる事が目的だったわけだ。
    そして教科書通りフリーズした私。
    受動型AS恐るべし。
    (中心志向組はASであれADHDであれ、こういうやり方は出来ない気がする・・・。)
    ちなみに現在現実の私はこのブログで学んだ種がしっかり実って、収穫の秋だぁぁって感じに良く物が見えてる気がします。
    職場でボトルネックになっている積極奇異さんへの対応は多分ハズれてないと思います。
    私が雇われた理由が私の「無神経」と「機動力」にあることがハッキリわかり、私は「無神経」と「機動力」を武器にボトルネックを破壊する様、ビックリするほど冷静に、まるで受動型の様に二刀流を駆使して戦ってます。
    おそらく積極奇異さんは私がスパイであることに気付いていません。
    いえ、気付けないんです。どうしても自分の世界から出て来れないから。どうやっても。
    彼女に「呆れた」「もう面倒見きれない」「勝手にすれば良い」と言わしめることが私に与えられた任務です。
    当初、水面下で私の動きを静観していた司令部から適宜フォローが入り始めました。
    ホント、収穫の秋です。

    • 聡子
    • 2014年 9月 13日

    私は高校の時の彼女について、「呆れた」「勝手にすれば良い」とは思いましたが、「もう面倒見きれない」とは思わなかったです。
    だって私は、最初から「面倒を見ていたわけではなかった」のですから。
    私はいつだって、フィフティー・フィフティー(五分五分)という対等な間柄で、彼女の事を友人だと思っていたのに、そう思っていなかったのは彼女の方だったからです。
    どうやっても自分の世界から出て来れない彼女には、私の心は、とうとうわからなかったのでしょうね。

    • m2
    • 2014年 9月 13日

    >最初から私をフリーズさせる事が目的
    ってさすがに深読みしすぎ。
     受動型ASは行動=面倒なことが嫌いなので、例え自分が傍観者でも「面倒だなあ」とは思ったはずです。
     だから、発言の主旨は理解できます。
     面倒なことをされたから、慰謝料請求したい。ただこれだけだと思います。
     客観的に見れば、慰謝料請求の裁判はもっと面倒だと思うのですが・・・
     もちろん、自分でやったら面倒だから、絶対自分ではやりません。
     私なら、ジャイアン側が闘争そのものを楽しんでいるのは見ていてわかりますから、完全に傍観してます。
     ジャイアン嫁が生き生きしているのを見るのは楽しいですから。
     ジャイアンと受動型ASのカップルって、かけひきは一切ないと思うのです。
     なので、お互いが自然に対応した時に心地よくなるのか? フリーズしてしまうのか?
     の相性が普通のカップルと比較した場合に本当に重要だと思います。

    • 182
    • 2014年 9月 13日

    あ、しまった。またつまずいた。〃´・ω・`〃
    「最初から私をフリーズさせる事が目的。」って発想に堕ちると、そのままズルズル頭がおかしくなっていくんだった。
    こういう発想は私にとって何のメリットもないので止めます。
    ご指摘ありがとうございます。
    本来、こういう思考スタイルは馴染まないはずなのに、何のきっかけでか堕ちちゃうんですよね。
    う~ん。何でだろう。
    よく分からん。何かパターンがありそうなんだが・・・。
    今後の課題にします。

    • 182
    • 2014年 9月 15日

    ちょっとだけ考えてみて、今思う事。
    「私は一人で裁判していたつもりなのに、夫は面倒なことに巻き込まれた、と感じてたのね、やっぱり。」です。
    もし逆の場合、夫が裁判の原告or被告であれば、私はまず間違いなく「共闘」を選ぶでしょう。
    好きなんです。争うのが。
    そこで、夫が「自分一人でやりたいから、口出しするな。」と言えば、残念だけど指をくわえて大人しく見ているでしょう。
    「自分の好きにしたいから口出ししないで」って気持ちだったらよく分かるからです。
    でも「巻き込まれた」って感覚だけは分からない。。。
    その分からない感覚を前提とした発言だったからフリーズしたんだな。と今は思います。
    そして、「最初から私を・・・」という発想に堕ちたのは、情緒的な問題では今でも夫に対する丸投げ依存から抜けていないからだなと思いました。
    早い話「情緒的には常に夫が正しい」と丸投げすることで自分の情緒的な問題から逃げ続けているいう事です。
    私は遊撃のために空に上がった戦闘機パイロットの様で、もちろん好きでやってるし、それ以外の生き方は出来ないのだケド、それでも時々は疲れて陸に降りたくなる。
    陸(多数派)の世界で温かく迎え入れられるためには、情緒的なリハビリが必要で、AS夫は私にとっては最高の教官でした。
    それで、丸投げした。
    人と人との間の面倒なことは全部夫の考えに頼り(依存し)ました。
    多分、勝訴後の「慰謝料」発言でのフリーズは、教官の許可なくスクランブル発進して、敵を撃墜して気分よく戻ってきたところで、「いつ発進して良いと許可したか」と責められている気分になったんですね。
    一応、許可くらいはもらっとくべきだった、、、とも思うが、反面、夫は情緒問題のリハビリ担当であって、遊撃隊の隊長じゃない。
    だからまぁ、許可と言うか「行って来ます」くらい言っても良かったかも。あと「ただいま」も。
    何か文章が変ですね。ごめんなさい。書きながら考えているので。。。
    私にはどうしても「個」としての「人」が見えないのだケド、この問題から逃げ続ける事は不可能で。。。どの辺で適応するかを自分で考えないと、ですね。

    • 聡子
    • 2014年 9月 15日

    ジャイアンと受動型ASのカップルって、かけひきは一切ないと思うのです。
    ウソつけ、って感じですね。
    受動型のこだわりに触れたり、互いの関係におけるメリットが不一致の状態になったりすると「かけひき」になる場面があります。
    この間テレビで見た、人間観察モニ○リングという番組では、受動型嫁が、可哀想なくらい縮こまっている依存型夫に対して、ハサミを向けて「刺してやる」と言い放った場面を見て、受動型兄は「ままごと(の夫婦生活)だ」と言い、孤立型弟は「(見ている分には)おもしろいな」と言っていました…。
    そして、私の感想は「(受動型嫁は)怖ええええ(ドン引き)」でした。
    夫はただ、嫁を喜ばせようとだけ思って番組に応募したのに…私には明らかにそのことがよく分かったのに…非常に気の毒なシーンでした。

    • hot
    • 2014年 9月 16日

    はじめて書き込みます。hotと申します。
    私はもともと、のび太ACで積極奇異型AS嫁との間のトラブルで悩んでいたところ、
    後藤先生のホームページを読んで救われました。
    今では合理的ADHDに移行でき、嫁と悪戦苦闘しますがなんとかやってます。
    >う~ん。何でだろう。
    >よく分からん。何かパターンがありそうなんだが・・・。
    文面からのみでの推測となりますが、恐らく、ADHD特有の中心志向の影響ではないでしょうか。
    私自身も中心志向的な言葉を発しながら途中で気づくことがよくあります。
    そして、その状況を分析すると、必ずその前に衝動統制のリミッターがはずれている(はずれかけている)事が
    原因だと気づきました。
    私の場合、非AS環境で育った影響か、のび太AC時は「ADHD流普通であるから納得する」が主な衝動統制で、
    AS傾向の方と意見が食い違う時や、納得のいかない時などは特にリミッターが外れやすかったです。。
    衝動統制の改善は後藤先生のおっしゃられている事につきると思います。
    同じADHDでもタイプが違うと思いますが参考になれば幸いです。

    • 182
    • 2014年 9月 16日

    上の方で私の記憶について「観客の顔が見えない一人芝居の役者」という様な表現をしましたが、もう一つ、気が付いたのは私の記憶には「音」が無いという事です。
    今まで、一度も意識したことは無かったのですが、よくよく考えてみると音声情報が記憶されていないのです。
    つまり、「パンツでやれ」と言った先生の声も「パンツだぁ」と囃し立てた男子の声も「音」としては全く記憶されてないのです。
    上では「顔が思い出せない」と表現しましたが、音に関して言うなら、思い出せないというレベルを超えて、全く「無音」なのです。
    先生や男子のセリフはストーリーの一部・・・無声映画の字幕の様な感じで。。。
    だから、私の記憶は「薄暗い暗室の中で見るピントのボケた無声映画」と言った方が良いでしょうか。
    で、ここからは私の仮説。
    もしかして多数派の記憶は視覚領域と聴覚領域と言語領域…etc.のそれぞれに分散・調整されて記憶されているのではないか。
    それに引きかえ私の記憶は言語のみ。(のみとは言い切れないかもだけど。)
    だからっつって、全然情緒的でないのは、言語野のメモリを記憶のために使い果たしてるからじゃないのか?
    さらに面白いのは、私はWAIS-III検査では「動作性IQ > 言語性IQ」の発達障害者だってこと。
    つまり、記憶するより先に、考えるより先に、行動することでしか生きられないんじゃないか?
    などと、つらつら考えております。
    あ、そうだ。
    だから、書かないと考えられないのよ。うん。

    • 聡子
    • 2014年 9月 16日

    私の母は、落合恵子さんの講演に行った帰りに本を購入し、眠りの際に読んでいるようです。
    「自分を抱きしめてあげたい日に」という本なのですが、ちらっと読んでみたところ、「…これは、女性のADHDさんの物語なのでは…?」と思ったりしています。
    まあ私の物語と言えば、高楼方子さんの本「ルチアさん」と「わたしたちの帽子」だったりするので、母とはちょっと合わないのだけど、母は、小泉八雲のような文学を知っていたりするので、その点すこし尊敬しておりますね。

    • 聡子
    • 2014年 9月 17日

    『その「後」の「粘着的」な他罰感情の方(人)』というのは、「言葉によって表明した”自分”というものについて、他者の承認が得られるところまで、他者に向けて強要すること自体にこだわる」、といったところでしょうか、私が見たところ。
    このブログでは、あたかも、「他者の承認」とはすなわち「後藤先生の承認である」、という風に、ムリヤリ解釈しようと思えば、デジタル現象として分かりやすく結果が現れている事は現れているので、どうも「粘着的」な他罰感情の人の認識そのものが直結してしまいやすい環境にあるかと、個人的には思っています。
    「まさにソコがジャイアンにとって理解に苦しむ所だから」、という事でしたが、私が分かっているのは、ここまでですね。
    私は現実にて、「他者の承認を得ること」について苦しんだ事がありましたが、医師や相談員さんに丁寧に話を聞いてもらって、少しずつ自分自身の気付きを得ていくしかないように思えましたね。
    そこには、辛坊と、忍耐と、継続性と、実際の行動力に、ある程度の思考段階にまで到達していることが鍵となります。
    そして、「面倒だなあ、面倒くさい(自分、あるいは、他者に向けて)」と思っている人は、当たり前ですが「そこまでの段階しか気付きを得ることができません」。
    「自己満足をして自己完結していたい」人は、結局のところ「他者に文句を言いながら、本当はラクをして生きていたい」人なんだと私は思っています。

    • b
    • 2014年 9月 19日

    先日、新中学生一年生の保護者向け学校説明会にて、生活指導の先生から「中学生の親になる心構え」を教えて頂きました。それは、
    口うるさく注意せず、一歩下がって見守る姿勢を貫くことが、子供の自立に繋がる。
    見守るというのはどういうことかというと、
    許せない行動→厳しく指導
    減らして欲しい行動→相手にしない
    増やして欲しい行動→注目する
    といった内容でした。
    ヤンバル先生が言っておられた「子育ては特に思春期のある時期は、管理を一部を諦めて、本人の自己責任状況を作る」と同じことですよね?

    • 182
    • 2014年 9月 20日

    ADHD児の親向けの本にも同じ事が書いてあったケド、とりあえず試してみて難しいなと思ったのは、
    「許せない行動」と「減らして欲しい行動」の線引きは?って事。
    例えば中学生だったら「煙草を吸う」ってのは「許せない行動」なのか?って所は結局、親次第。
    友達を殴るのは「許せない」のか「減らして欲しい」のか・・・。
    とりあえず、私(ADHD)的にはどちらも別に「許せない」ってほどの事じゃないでしょ、となる。
    大抵の事は「許せない」って事は無い。
    ああ、そうだ私の仕事の邪魔されるのは「許せない」です。
    それで、どうもこの「許せない」かどうかの線引きってどうなのよ?と思うんですよね。
    それで発達障害児のペアレントトレーニング系の本はそこそこ出ていても、親自身が発達障害者だった場合の本ではないなぁと感じるのです。
    だから、こちらのブログの子育て系の記事は本当に貴重な情報源です。

    • るる
    • 2014年 9月 21日

    思春期の親の心構えは、どちらで聞いてもほぼ同内容ですし、
    私も至極ごもっともと思いましたし、
    自分はそのように接しているつもりでしたが。
    「行動」という部分に、具体的にどういう行動をあてはめるかという、親の価値観による偏りが当然あるわけです。
    意味不明な人同士の親子関係では、偏りが大きな問題になるということだと思います。

    • 182
    • 2014年 9月 22日

    読み返してみて、やはり私の認知は歪んでいると、今更ながら改めて感じました。
    「煙草を吸う」も「友達を殴る」も「許せない事では無い」と感じるのは、早い話、私には関係がないと思うからですね。
    私がもし「許せない」と言う時、それは私に直結している出来事で文字通り許さない事であり「謝罪しても許しませんから、謝罪の必要はありません。」となります。
    子供の散らかしたブロックを踏んで「痛い!」と叫んだ時、子供はすかさず「ごめんね。」と言ったのですが、私はその「ごめんね。」にイラッときて「謝らんで良いから片付けろ!(この場合の「片付けろ」は教育的意味ではなく「石が悪い」の発想です。)」と怒鳴ってました。
    「謝罪されたら許さんといかんじゃないか。許されようと思って気安く謝るんじゃないっ!」って感じです。
    大体「許さない」とは、「恨み」や「憎しみ」という様な感情ではなく「怒り」として認知されます。
    と、ここまで書いて、前者の部首が偏で後者の部首が脚なのには何か意味があるんだろうかと思って調べたら、、、
    立心偏は感情と行動が並列なのに対して(「等位接続詞の順接接続みたいな。」←原文のまま)、下に書いた心は文字通り「下心」で結果の行動に明確な「意志」(←下心 m9。゚(゚^Д^゚)゚。)があるのでは(「意思を持ってもしくは言い訳に下心あり」←原文のまま)、と推論するブログを発見しました。
    いずれにしても、「許せない行動→厳しく指導」などと言われると、とにかく果てしなく斜め上になってしまいます。
    あえて言語化すると、
    「許せない行動(自分がイラッとしたら)→厳しく指導(怒鳴ったり殴ったりして良い)」
    ってな感じでしょうか。
    言うまでもなく、それは違うんじゃ、、、と思いますね。

    • あきら
    • 2014年 9月 23日

    ちょっと感情的な指導方法ですね。
    定型親には良いのかも知れないですが…自分的には指導内容もそこそこ具体的に知りたいです。
    厳しく禁止(指導の意味が広すぎるので)…自他の命(健康)に危険を及ぼす行為と犯罪行為
    これだけでいい気がする…
    増やして欲しい減らして欲しいというのは、親の好みがものすごく反映されるので、親の気が済めばいい、という事になりそうです。

    • m2
    • 2014年 9月 23日

    ジャイアン母だと、それでいいんじゃないですか?
    受動型AS父は子供に甘いでしょうから、そういう母親じゃないと躾にならないと思います。

    • 182
    • 2014年 9月 24日

    どこで混乱しているのかチョットだけ分かった気が・・・。
    「許せない」と言うからおかしくなるんですね。
    「許されない」と言えば、分かるような気がします。
    私にとっては「許せない」=「許されない」じゃないんです。
    喫煙は20才以上と法律に定められてるからダメ。
    他人を傷つけたら傷害罪で捕まるからダメ。
    だと、スッキリ分かるんです。
    だから、
    ブロックを放置していて母親が踏んで怪我しても法律に触れないからOK。→怒っちゃダメ。
    つまり、部屋が散らかってるのは「減らして欲しい行動」に該当するワケだ。だから「相手にしない(叱らない)」んだな。
    それでもって尻拭いもしない(代わりに片付けたりしない)、となると、永久に部屋は片付かない。
    積極奇異さんの場合は、その状況にどれだけ耐えられるかってのがツラいのかな?
    ジャイアンの私は平気でゴミ屋敷にできる。
    でも受動型AS夫の情緒攻撃で結局疲弊する。
    あいつときたら自分では絶対に部屋を片付けないくせに「片付けろ」「片付けろ」と煩いんだよ。
    そんなに片付けて欲しいなら「お願いします」くらい言えよ!ざます。
    何で、自分は何にもしないくせに上から目線で命令するんだよ。
    って愚痴です。スルーしてください。

    • m2
    • 2014年 9月 27日

    受動型ASの立場からすると、言わないで溜められているのが一番嫌だなあ。
     愚痴るくらいだとストレスたまっているわけで、全然関係ないところで爆発されて理解不能になるのが嫌。
     「自分で片付けもしないのに片付けろ」って言われるのが嫌なのは理解できるけど、関係ないところでいきなり怒りを増幅されても全く理解できないです。
     相手が受動型ASなら、不満は口にしたほうがいいと思いますよ。
     口にしないから、従ってくれていると思って言っているだけだと思うので。

    • b
    • 2014年 9月 29日

    まず、申し上げたいのは、自分が学校で聞いてきたことを
    深く掘り下げて論じて頂いたことに感謝しています。
    最近になって、子供の行動が変わらなくても、私の捉え方が
    「許せない行動」→「減らしたい行動」
    に変わってきていて、放っておけるようになりました。
    「線引き」がずれた、「価値観」が変化した、とも言えるのでしょうか。
    子離れとは、こうした自分自身の変化だと思うようになりました。

    • 聡子
    • 2014年 9月 29日

    私には、あなたの知らないところで、知らないことを経験し、のびのびと成長してゆく「理解不能になる自由」があるという事を、ようやく思い出せました。
    嫌と言われたところで、何それって感じですね。

    • 聡子
    • 2014年 9月 30日

    私の場合の、長続きする関係。
    ■過去から現在に至り、相手の状態や環境が変わっても、最初に知り合った時に抱いた大切な気持ちを今でも忘れずに持っている。
    ■ある程度落ち着いた環境にいて、継続した生活を送れる段階にいる。
    ■謙虚さがあり、思考に厚みがあるかどうか。そしてそのレベルが、互いに釣り合っているか、大きな差があまりない時。
    ■大局のを目を持ち、回復する事を待てるようになれるか、性急すぎる反応を期待しないようになれるかどうか。(ただし、急性期のまっただ中にいる時には除外)
    ■良い関係を築いていたいと、互いに思えるようになれるかどうか。忘れそうな時も、相手に心を配り、丁寧な気持ちで接することを心がける事ができるかどうか。

    • 聡子
    • 2014年 9月 30日

    追加。
    ■「相手の自由、として手放す」事ができるかどうか。そこで、「自分の自由と、自分の意思」を味わうことができるかどうか。

    • chikako
    • 2014年 10月 02日

    私は後の人生は、自然とのバランスをとるということにしよう。

    • 182
    • 2014年 10月 06日

    連投スミマセン。
    なんかいきなり突然気が付いたのですが、
    私は動作性IQ優性のADHDで、聴覚記憶に問題がある事を↑の方に書いたのですが、良く考えてみたら、本家本元のジャイアンもスポーツが得意な音痴なんでしたね。
    そう。私も音痴です。
    楽譜に書かれてあるものを読み上げるように歌うのはできるので、音楽の成績は悪くはなかったのですが(楽器演奏でも、大抵どの楽器もソツなくこなせるので。)、所謂「耳コピ」ってヤツができません。「耳コピ」で歌うと確実に本家本元のジャイアンと同じことになります。
    藤子・F・不二雄の洞察力、恐るべし。

    • tukatantikatan
    • 2015年 1月 15日

    これは自分をふりかえった話ではないです。
    >特に子供がジャイアン型ADHDの場合は病的な丸投げ依存となり、「この親を怒らせさえしなければ良い」という超刹那的なスタイルが出来上がって14歳以降に深刻な問題を引き起こす結果になる。(私はその状態を依存型ジャイアンと呼んでいる)。
    このことについて私はひとつ知っているから書いておく。
    ASDの人はわからないかもしれないが、それ以外の人はすぐ気がつくんだよ。世の中の人は、ASDじゃない人のほうが、多いんだよ。ASDの人にばれなくても大多数の人にはばれてるからね。だから、ASDの親御さんにばれないスタイルを身に着けても、汎用性は無いので、気をつけてね。

    • nobigappa
    • 2015年 1月 18日

    ※念のため書きますが、以下のコメントは「上記の方のコメントを読み、自身を振り返ったコメント」であり、上記の方に絡むつもりもなければ、依存するつもりもありません。私自身はルールを守って書いていますが、念のためm(__)m

    「ASDの人にはばれていないが、大多数の人にはばれている」についてですが、私自身は「ASDと多数派ではどちらがばれやすいか?等は関係無い」です。例えば、「目上の人の前では真面目ぶってルールを守り、他の人の前ではルールを破って茶化したり非難したりする」という「表面的」な行為も、私にとっては無意味ですからやろうと思いません。また「ばれなければ良い」という発想も「表面的」であり、私は上記の方のように考えることはできません。私が上記の方のような言動を取れば「お前は卑怯な人間だ」と自己突っ込みを入れることになります。
    また、「汎用性の有無」に関しては、のび太型の私が汎用性を求め、多数派の普通に強迫的に合わせたところで、かえって不適応をおこしてACに逆戻りするだけなので、合わせようとは思いません(上記の方のように合わせられる人は合わせれば良いと思いますが)。

      • nobigappa
      • 2015年 1月 19日

      ※以下も自分自身を振り返ったコメントです。

      先程の例え話で思い出しましたが、私は(基本的に)相手の態度によって出方を変えることはできません。つまり「言語」でしかコミュニケーションが取れないので、相手が友好的に接してこようが、高圧的になろうが「言葉の内容」が同じなら、同じことを言い返すと思います(言葉を濁されたり、曖昧な言い方をされれば聞き返すことはありますが)。

      私にとって、自己突っ込みを誤魔化し続けて「相手の態度や言い方等によって出方を変える」ことは高度な技術であり、頭で考える(想像する)程簡単ではないです。まぁ、色々と経験して失敗を重ね、後で反省して軌道修正するのが精一杯です。

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