近くADHDの分類表に付け加えようと思っているノビ太の一群があり、上記の命名とした。
もともとはこだわりが少なくノビ太型ADHDに違いないと思うけれども、特有の依存性と強迫性があり、時にジャイアンか?と思うような面を見せる。
ノビ太かジャイアンか診断に非常に困る一群があり、ケースをよくよく観察した結果、実は(多くはASD家族からの)過干渉で「放置」されることがなく育ったノビ太であると思い至った。
一つの例は高校生になってからの不登校で、明らかにノビ太型ADHDである。家族にはASDがいて、
養育環境は、「何をしてもいちいちASDからコメントされる」「ボーっとしているとASDから指図、指示をされる」という環境だった。
で、よく振り返ると、中学まではお節介な「お世話係」的な(もちろんASDの)クラスメートが必ずいて、課題の提出、移動教室から翌日の持ち物まで細かく世話を焼いてくれていた。
このケースの不登校は、高校では「お世話係」がおらず課題などの処理が滞り、蓄積してしまうと得意の「先延ばし」が起動して現実逃避するというパターンで説明ができた。
メカニズムはこうである。 ノビ太は「放置」環境で「自己責任」の状況が無いと学習できない。
それが、家族に支配的なASDがいるとこの「放置環境」が不可能となってしまう。
加えてもっと問題なのは、ノビ太得意のボーっとしていると、具体的な指示が飛んできてしまうので、自分で考えるよりも指示に従ったほうが楽な環境ができてしまう。
ここでジャイアンに見られるような(半ば受動的な)「丸投げ依存」が起こり、本来ノビ太には存在しないはずの依存性が形成される。
この依存性のために、別の環境でもお世話係のASDを探して共依存関係となり、依存的、受動的なパターンが固定してしまう。
で、自ら「いじくられ」に行き、支配されて、多くは病的となり表面上は難治性のうつ病になったり奇妙な不安障害や強迫性障害になったりする。
治療は、「もともとはノビ太である」というところがポイントで、発達障害支援の基本原則である「脳の基本に環境を戻す」ために、「放置環境での自己責任状況」が何よりも必要である。
一定期間放置環境で自己責任の状況に身を置き、いろいろなことを自分の力でマスターするプロセスを最初からやり直し、本来のノビ太の自立性を取り戻す。
「放り出される」状況が必要なのだ。
多くの場合は、治療のプロセス自体に共依存の相手が絡んでいるため、相手(のASD)にとっては本人の自立と回復は「不都合」となることが多く、そのせいで治療が中断するケースも私のケースの中では数例見られた。
ノビ太がノビ太らしく育つには、は「放置」環境が絶対に必要なのだ。
分類表楽しみにしています!
今では「自分はジャイアン型ではない」とは言い切れるものの、「ASDだろうか?」と考えることがたまにあり、モヤモヤした気持ちが残っていましたが…これではっきりしました。幼少期は全く人見知りが無く、母親(含む家族)が居ない場所でもおどけた態度を取ったり、知らない人についていってしまったことがあるので(ちなみに、幼少期は何れもおどけた写真ばかりです。全く覚えていませんが)。
何だかジャイアン型の再インストールよりも厄介ですね。正直「合理性はあるので、後は実行に移すのみ」と甘くみてました(汗)
AC的な強迫性もあり、ある程度丸投げを我慢することはできますが、やりたくないことを実行する際に過集中になりやすく、「自分の頭で考えていない」時も確かにありますね。一人暮らし、検討してみます。
>養育環境は、「何をしてもいちいちASDからコメントされる」「ボーっとしているとASDから指図、指示をされる」という環境だった。
別記事のブロックされたコメントについてですが、上記の様な環境に慣れきっていたからあんな発言が飛び出したんだなと思いました。きっとドライなのび太は「今後も同じことを言い続ける(し続ける)だろう」ということに気付かないでしょうから。なるほど、自ら弄くられに行き、依存地獄に陥るメカニズムが理解できました。
それと「弄くられたのび太の場合、(自立性を身に付ける等)根本的に自分を変えるためには環境調整が必要」ということがよく分かりました(再インストールは、こだわりや好き嫌いがある分ジャイアン型の方が上手くいきやすいだろうなと。のび太型は欲が無く、ボーッとしてるところを相手に漬け込まれたら終わりですし、自分一人の力では、ある程度強迫的に結果は出せても精神的負担が多いのも確かです)。誰も居ない・自分しかやる人が居ない状況では、すんなり自分から動き出せるのも事実ですから。
ちなみに、過去の対人恐怖症や奇妙な確認癖の強迫性障害は、思春期頃が一番酷かったですね。
では、失礼致します。
ハッカーの攻撃が影響しているということで、ブラックベリーで実験投稿してみます。でも自宅wifiだから関係無いかも。
生来の能力としては無くても、後天的に、自分の不利を補うための有利(な人)を学習するってことはありますねありますね。私の場合ジャイアン一人いてくれたらその方面の守りはだいじょぶかな、というのが一時ありました。ジャイアンには関係無いことですのでありがとうは無し。で、ただしそれは自分で手離していくものです。
うーん思い出したことが
私は最初にこの記事を読んで、このような状態は「怖い」と思った。これはほんとうのカオスだと。そして本人のために放り出さなきゃいけない周囲の人の、辛い立場も辛い気持ちも実際わかんないと想像。戦慄。ほんとうの迷惑。これは自分の延長で、想像に難くないです。
思い出したのは、ADHDの人で、WAISの配列がよくできるんだけど、でものび太に見える人がいて、マンガ描けるし、恋愛のゲームとかうまくやれるんです。これは、現実状況からは情報がとれなくてやれていないが、空想上はできるということかなと想像する。基本的能力としてはこういうのが関係あるのではないかとか思いました。
あと、以前会社に居たのび太的なパートの人で、きっとそうよと言う人がいた。あの人はこう思っているのよということを想像して語り、きっとそうよで締めくくる。これも配列ができるということかなーと考える。
>多くの場合は、治療のプロセス自体に共依存の相手が絡んでいるため、相手(のASD)にとっては本人の自立と回復は「不都合」となることが多く、そのせいで治療が中断するケースも私のケースの中では数例見られた。
この「共依存の相手」とは、親か配偶者だと思われますが、
ジャイアン親の場合、「本人(我が子)の自立は自分自身にとって不都合だから」
という自覚はできるように思えます。
(自覚があって治療中断するのは、よりたちが悪いとはいえると思います)
ASD親の場合は、そもそも能力的に「自覚自体」ができないのでしょうか?
(私には自覚自体ができないように見えます)
それとも「わかってはいるけれども恐ろしくて直視できない」
ということなのでしょうか?
周囲の親子関係を見回すと、ほんとに絶妙な関係性でバランスをとっている
という印象を受ける親子が少なくないです。
そういった中で発達障がい者の親子関係では、より不安定性が高いのだ
と、つくづく思います。
私は今、日々親子関係の再構築をしているところだと考えています。
過去の親子関係の困難は「私の、徹底的に自身の納得にこだわる性質」
によるところもあったと思っています。
最近では自分の「徹底的に納得にこだわる傾向」が出たときには、
*自責はせず、気を逸らす・前を向く
というパターンでしのぐように工夫しています。
しかし親子の問題に関してだけは、
自責の念から過剰な思いがあふれて過去を振り返ってしまうことがあり、
正直、なぜ自分ばかりがこんな思いをする必要があったのか
と悔しく空しく思うこともあります。
そんなときは、無理に気を逸らさず、うじうじ過ごしてみたりします。
自分のこういったネガティブな部分は、ほんとは親に受けとめてもらいたかったですが、
一部受けとめてもらいそびれたので、自分で自分をなぐさめていいのかな、と思っています。
そして、理解も共感もできないのが他人 ということを味わっています。
罪悪感で人をコントロールしようとする人の・・末路を見たんだ・・・たぶん・・・。
自己正当化でしょうが・・とにかく上記な結論なんです・・。
空港まで電車で3時間かかるところに住んでいる姑は、沖縄に旅行(団体活動?)にいくのに、空港まで1時間こ半かかる我が家のアパートに車を置きにきた。そこに車をおいて空港まで向かうらしい。早朝にでて深夜にかえるからちょっと置かせてっていう話だったのに、夜の10時半ごろアポなし訪問・・てかいきなりドアを開けられたのだっ!!!
夜の10時半にいきなり「すみませ~ん」と声が響き・・・私は凍りついてしまった。
二度目の「すみませ~ん」の声に玄関にでたら、そこには沖縄旅行から帰って、最寄駅から15分ほど歩いてきた疲れ果てた姑の姿。
私「・・・・無言・・・・・」
姑「玄関に靴がいっぱいあるけどお客さんでもいるのかしら?」
私「いません」
(・・・・間・・・・)
姑「今かえってきた・・車ありがと」
私「・・おつかれさまでした」
(終了)
お茶一杯も出さずに追い返してしまった・・・。
私にはできることとできないことがある。
特養で汚物にまみれて働くことはできる。
でも予定なき訪問客にお茶をだすことなんてできない。
絶対に。
いやあ、いじくられとは面白い分類名ですね。一見軽い、脱力するような名称が、場合によっては苦しむ当人たちの重い足かせを外し、あるいは心の負担を軽くすることにつながるかもしれません。そんなことを思いました。
>自ら「いじくられ」に行き、支配されて
私はのびたではないのですが、こういった行動パターンが自分にあることを
自覚しています。
もっとも気付いたのはここ何年かで、以前は無意識にそうしていました。
人にいじくられている、支配されている、と思っていたころは
自分の中に強い被害者意識がありました。
でも、自分からそうしむけているのだ、むしろ加害者の面もあるのだと
気付いてからは、ある意味少しラクになったと思います。
なんだ、自己責任だったんじゃないかと。
ただ自分の醜さに直面したショックはやはり大きかったです。
私は友達だと、対等だと思っていたけれど実はそうじゃなく、
相手は「親切で」私の面倒を見てくれていただけで
私はそんな相手を「利用」していただけでした。
先生に一年以上前にメールでのご相談で「弄られたのび太」としてご指摘をいただいた大学生です あの後今年の1月まではストラテラやエビリファイを大きな精神科で処方していただいていたのですが、効果が少なく(最大時40ミリしかなかったから??)、不全感やフラッシュバックか何かのような不快感に悩まされ、大学内で何度か喧嘩騒ぎを起こしたり、ネットの掲示板に物騒な書き込みをして大学を追い出されかけたりなど、のび太らしからぬ行動をしてました 現在は実家の近くの心療内科でadhdのおじいさんの先生から帰省のたびにコンサータ 27mgとデパケンを処方していただいて様々な症状がかなり劇的に改善されて生活しています よくよく思い出してみると、ASDではないかもしれませんが、教員の母からは小さい頃から勉強には結構うるさく口を出されたと思いますし、世話焼きの祖母からはかなり優しく身の回りの世話を焼かれていたので、大学で一人暮らしをするまで日常の雑務をちゃんと一人でこなした経験がなかったのだと思います そのため、日常の大半のことが先生の仰る通り周りからの指示がないと何をしたらいいかわからない、自分で動こうとすると体に力が入らない→先延ばしで部屋が散らかり単位も落として留年する ACからは一部脱却してはいるのでKYも全開で周りから避けられたり、時々温厚な見かけに合わずキレるので怖がられたり→自分はいつも100パーセント力を振り絞ってようやっと日常の事をこなしているのに周りの人たちの大半はは30パーセントくらいで楽しくやってるように見える、不全感・フラッシュバック・イライラそして問題行動暴発 といったプロセスだったと思います
現在は毎日コンサータで強制的にコントロールしており、心療内科の先生はずっと使うならそれでもいい、という方針の方ではあります やんばる先生はある程度の自己コントロールをお勧めされていますが、正直adhdとわかってからのこの2年間コンサータで自分をコントロールするまで、いろんな方法を調べたり考えたりしては実行してもことごとく成果が上がらなかったので、果たして自己コントロールと投薬によるコントロールの線引きをどこに引いたら良いか??がわからず時々悩んでしまいます
コンサータが切れてる状態では視線が3倍くらいの速度で色んな場所に移っていることに最近気がつきましたし、この注意欠陥の状態でかつ弄られたことによる能動的な経験値の低さをどう素の自分で学習していけばいいかわからないではあります もっと言えば、コンサータなしの状態では過集中の対象がネットサーフィン依存くらいしかなく、それ以外はことごとくすぐに逸れてしまいます これはおそらく生まれてから20年間日常生活で上手くいったことが少なすぎたことに起因してると思われます そのため空想の中に逃避してしまうパターンくらいしか存在しないのかと
のび太AC+弄られ2次障害の重さは深刻なものかもしれません 最近はのび太に関する記述が多いので、とても面白いと思って読んでます^_^どうもありがとうございます