受動型ASのイメージがやっと明確になったことで、やっと発達障害全体の問題を考える段階に来た。
この段階で「発達障害の根本問題」をまとめておこう。
発達障害の根本問題(2012年3月)
ADHDの本質は衝動統制の障害、ASの本質は対人関係の愛着の障害である。
いずれも多数派に見られる様に「空気」で適度に制限・制御されることが無いため、ADHDは甘やかされれば(実は管理されすぎても)自分で衝動コントロールが出来ない大人に成長し、ASは甘やかされれば愛着対象に100%の要求をするようになり、いずれも思春期以降に深刻な不適応を来たす結果になる。
診断とケア上の最大の問題は、「ADHDで依存的になっている例とASを区別すること」である。
なぜなら、本来ADHDには依存は脳の働き上は極めて不自然なあり方で、完全に依存関係を取り去っても不健康になることは無いのに対し、ASにとっては依存はむしろ本来のあり方で、依存を完全に取り去ると病的な反応が予想されるからである。
ADHDは幼少期の経過から「衝動コントロールを他者に委ねる」意味での「丸投げ依存」を主なスタイルとすることがありうる。
しかしこの本来の脳のあり方に背くスタイルは思春期以降に社会的に破綻するのみならず、難治性のうつ状態をはじめとするさまざまな(身体を含む)疾患の根本原因となり、唯一の回復は依存から脱することにある。
ASは本来名前のある個人同士の一対一の対人関係を基本とするため、「対等」「平等」という形の一般化は根本的に困難である。
特定の相手が受け入れる限り要求は果てしなくエスカレートする。ただタイプの異なる(ADHDなどの)親との関係で思春期以前に「要求を部分的に諦めるしかない」ことを学習することは可能で、その場合のほうが予後(思春期以降の社会適応)が良い。
思春期以前の養育の方針としては、ADHDでもASでも、「甘やかす」(先回りして困難を解決したり失敗の現実的な尻拭いをする)ことが最も思春期以降の本人を苦しめることになる。
上記のようにADHDでは衝動統制を親に丸投げし、ASでは過度の依存を当たり前と思い込む結果になるからである。
「空気」で衝動や愛着をコントロール出来ない以上、発達障害のケアの基本方針は、「言語的な説明と納得、合理的な行動のコントロールを体得させる」こと以外に無い。
思春期以前に、「ダメなものは例外なくダメであり、その理由は合理的根拠があるから」という認知と行動のシステムを親を中心とする環境から体得させることで、思春期以降の不適応を最低限にすることが出来る。
ADHDの小生はおそらく同じADHDであった母親から
「うちは母子家庭で母親は病弱なため貧乏である。お前は公立学校にしかいけない。行きたかったら自分で勉強しろ。学費も遊ぶ金も自分で稼げ」
「体を壊しても、社会が不景気になっても生きていける特殊技能職につけ」
「嘘をつくな盗むな暴力をふるうな。全部あとで自分に跳ね返ってきて結局自分が一番損をする」
などなど、物心ついた、おそらく幼稚園児の頃から毎日のように、洗脳のごとく言われ続けて来ました。
YANBARU先生が仰っていることを、母親は本能的に感じ取っていたのではないか、とさえ思います。
私も発達障害の当事者として 何とかこの歳 40代 まで生きてきた者として 最近つくづく想うことは この人生の一大事には はるか昔 地球が誕生して以来 存在しているものである そして キリスト 釈迦 が 苦悩のすえに ささやかな未来 望みを 宗教として 宿業を引き受ける事で
あるいは あるがままの魂を 全うするという 祈りにも近い業である様な気がする。
娘に対して、自分のやり方が厳しいかもしれないと悩んでいた所でしたので、こちらの内容を読み大変安堵致しました。
思うに、昭和にの高度成長期と言われた時代には、ほとんどの家庭が「生きていく事に精一杯」であったため、「甘やかす」事自体がしたくてもできなかった時代ではなかったか。なので与えられた中で必死に適応していくしかなく、半強制的に療育されており、今の様に「発達障害」による不適応で社会生活が困難になる事が少なかったのではないでしょうか。
もちろん、上記の事だけでは無く「人と同じことを求める」学校教育の弊害などもあるとは思いますが。
論理的説明が有効だね ダメの理由がわかればいいもの
子供は、なぜ?を知ろうとするのに
そんなこともわからないのか?と 返されて 面子丸つぶれ ダメなものはダメ!じゃ
これが刑罰並の苦痛だねー
そばにどんなタイプの人がいて、いつもどんな対応をしているかで、依存の問題も大きく変わってきそうですね。
ADHDは完全に依存関係を取り去っても不健康になることはないのに対して、AS(特に受動型)から依存を完全に取り去ると病的な反応が予想されるという見解は素人にはわからない内容でしたので、大変参考になりました。だからASの場合、100%を断然して50~70%で納得するようにトレーニングするという提案はなるほどと思いました。
ここのところ、ずっとデリケートなやりとりが続いていますが、私達コメント者は皆素人で生徒なので、理想的にはプロのYANBARU先生に仕切って頂いて、それに従って各自が意見を出し合うという形だとピントがずれないという安心感があると思います。でも先生が大変お忙しいのを存じていますし、コメントに目を通して承認するかしないかだけでも大変なご苦労だと思いますので、現実的にはとても難しい状況ですね。
ただ皆さんが生きることに真剣なのと、先生を尊敬して集まっていることでは一致していると思います。
最近の気づきですが、どうも私は「人を見る事がこんなにも苦手なのに、人の気配だけとても近くに感じている」ようです。
>ASの本質は対人関係の愛着の障害である
とありますが、「私の愛着」という感覚を忘れて数年経つ私は、日ごろから常にぼんやりおっとりとしており、ADHDっぽい妹(県外在住)からは「まだ鬱が治っていないように見える」ようで、会うたびなぜかしきりに1人旅行を勧められています。
私生活では、地域活動を通して統合失調症の年下男性と友達になったりしましたが、どうも受動型ASに近い人のように個人的には思えました。
私は自分の事について、仕事帰りで疲れている事が多いよ、と伝えたはずなのに、「どうしても愚痴をきいてほしい」とある日突然待ち伏せされ、若干ストーカーをされたかのような感じになりかけましたが、よくよく見ると、「実際の私の様子(疲労困ぱい状態)を直に見て感じ、その様子と自分の行動を自分の中でつき合わせ、自分の中の体感として統合がなされなければ「自分の要求を部分的に諦めるしかない事には納得できない」」というような人でした。
ADHDさんの「納得ができない」とはまた少し違う感じがしますね。
それでは後藤先生、お体に気をつけて、よいお年を。