例えば「のび太AC」の人は、ADHDの診断をつけた瞬間に回復する。なぜならば、自己評価が低下していた一次障害の数々(忘れ物、空気が読めないなどなど)がADHDのせいと説明がつき、「自分が悪いのではなかった」と納得できるからである。
のび太AC、ジャイアンACの人(ADHDのACの人)は、現実的に不適応を感じ、多数派に表面上でもとにかく合わせようと努力し、その結果として特に対人関係ではさらに多数派から見て不可解な行動を取る結果になるため、不適応がさらにひどくなる悪循環に陥っている。
同時に、ADHDとしての「自分の好きなこと」なども後回しにするため、本来の実力を出し切れない状況になる。
だから、ケアとしては、「まず二次障害の自己評価の低下の部分を治す」、「次にもともとのADHDに戻って最低限の適応を工夫する」という二段階作戦を考えることになる。
ADHDのACの人は、まずACのほうを治す、という戦略だ。 実際の経過では、「ADHDの診断がついてから注意欠陥などのADHDらしい行動が目立ってきて、かえって悪くなりました」と周囲の人から言われることもある。
しかしACから脱して「好きなことへの集中力」を取り戻した発達障害の人は、うまく行けば本来の実力を取り戻し、見るからに生き生きと元気になる。自己免疫疾患を含む多彩な身体症状も一網打尽に治ってしまうことが多い。
(ちなみにジャイアンACの場合は、「ただACを外す」だけだととんでもない暴君ジャイアンになってしまうことも少なくないので、最近は合理的ADHDへの受け皿を先に準備するようにしているが)。
一次障害と二次障害の関係はこんな形になっている。「むやみに普通に合わせる」ことは結果的に不適応を悪化させ、発達障害らしい良さを発揮できなくなり、奇妙な身体症状(ジャイアン女性はこれで自己免疫疾患になることが多い)の原因にもなるので、「いったんは普通に合わせることを止める」というプロセスが必要になる。
以上が「発達障害の二次障害」の総論である。
問題は受動型ASの各論はどうなるのか? ということだ。 受動型ASのテーマは「諦め」であると私は考えている。「愛着の対象への100パーセントの依存を当たり前に求める」というのが一次障害であるが、二次障害としてACになるかならないかに関わらず、人生のどこかの段階では100パーセントは無理であると諦めることが必要となってくる。
親子関係であれ結婚であれ、他者と共存する生活はこの100パーセント要求がある限り維持出来ないからである。
この「根本的に必要な諦め」と、「表面上の二次障害としてのAC」の関係が微妙で複雑な問題となる。
まず受動型ASは世間には普通に合わせるのでADHDのACのようにはなりようが無い。受動型ASの二次障害は、親がひどい暴君型ジャイアンで虐待されたり、ひどい依存型ジャイアンで突然居なくなったりする不安の中で育つなどした場合に、「依存を100パーセント諦めて完全にACになる」という形でACが形成される。
この場合はASらしい「興味があるものへの集中」も出来ず、思春期以降に重症のうつ状態になり、自殺企図を繰り返すケースもある。
幸運にのび太パートナーと出会えて「ちょっとダメなADHDの面倒を見る」感じで家族が出来るとなんとなく安定する可能性はあるが、問題は「ACを抜くと100パーセント依存が突如表面化する」ということにある。 (これは重要だがジャイアンでは共依存になるか大喧嘩になるかして破綻するのでパートナーにはなれない)。
非常にややこしいのであるが、「あなたは自閉症の仲間のアスペルガー症候群の脳を持っているので、多数派の人とは違います」「まずはアスペルガーらしく戻りましょう」とACのカウンセリングをして、その後ACが抜けて100パーセント依存が表面化した段階で「それは(100パーセントは)無理なので諦めましょう」(100パーセントは生きた人間には無理だから相手が努力していれば結果は60パーセントくらいでも手を打ちましょう)ということになる。
そもそも「100とゼロしかない」という極端さがASの一次障害の根本であるのだが、ADHDの場合の「最低限」というのが、ASの場合は「ほどほどに」という考え方になるのだろうと私は考える。
おそらく、今の私は「移行期」だろうと思っています。
私の二次障害で大きなものは、フラッシュバックによる急激な血圧降下だけだと、実は思っています。
他の小さなものは、家族の行事に合わせすぎたり、仕事の事で気にしすぎたりとその程度のものなので、私の話をどなたかに丹念に聞いてもらえれば大体おさまる傾向にあります。
私の二次障害のうち、およそ85%程度までが回復し、残り15%程度の二次障害がある状態で、「それは(100パーセントは)無理なので諦めましょう」(ほどほどに、がんばりましょう)という事をやっているわけですが、実際、現実的に、体力・気力がついていかないので、本当にほどほどにやるしかなくなります。
私のお医者様と私が相談している専門相談員さんは、互いに会った事もないはずなのに、私の様子を見て、移行しても大丈夫だと思ったようですよ。
人の命に関わる看護師の業務を強迫的に遂行しようとしてきたのだなぁ。自分のことなど後回しで、ボロボロになるまで必死に適応しようとし、責任を負おうとしてきたのだよなぁ。
医療現場から教育現場に移し、業務量が圧倒的に減って時間の流れがゆっくりとなり、「注意欠陥などのADHDらしい行動が目立ってきて、かえって悪くなりました」状態に。無理にそれをカバーしようとしなくなり、まぁいっか~、と自分にOKを出すようになったのだよなぁ。
どれだけ自分を「普通」の看護師に近づけようとしてきたか、あの頃は人から見て「ADHD」の看護師とは見られなかっただろうな。もうすでにあの頃の自分を懐かしく思うくらいだ。
私は理屈、屁理屈が好きだ。思考がすっ飛ぶことも好きだ。複雑な事象を理解するために思考することが好きだ。あの頃、このような「自分の好きなこと」など気づきもしなかった。「自分の好きなこと」を後回しにし、本来の実力など知らずにいたのだ。
しばらくは自分の能力を活かせる場所の探究だ。経済の事情を考慮しつつ。(強迫的に努力していたときは無駄遣いが多かった。突き動かされるように無駄遣いしていた。悪循環だったのだよなぁ。)
娘が受動型ASで、私がのび太型ADHDです。
先生のブログのおかげで
私と娘の特質に対する理解が深まり
日々、正反対の世界観におかしさを感じたり
何故か似ているKYやのんびり加減を不思議に思ったり…
離れた目線でお互いの関係を観察できるようになりました。
特に私が自身をおっちょこちょいの鈍感ADHDと認めてから
娘との関係性が良くなった気がします。
外出先では娘の方がなんとなく
ママの面倒を見てやらなければ…と
思っているのが感じられ
頼もしくも思います。
娘もその関係が心地よい様子です。
13歳になり、なんとなくママを100%振り向かせるのは無理だということにも
あきらめがついているようですし、
今でもたまにそのことで衝突はしますが、
前程深刻化することもなく、
お互いの関係性、立ち位置みたいなものが理解されてきた感じです。
これからもお互い絶対に共感は出来ない間柄ですが、
異質性を認めて、
違いを楽しみながら良い関係性を作って行きたいです。
これからも先生の分析を楽しみにしています!
みさん
>私は理屈、屁理屈が好きだ。思考がすっ飛ぶことも好きだ。複雑な事象を理解するために思考することが好きだ。
大共感です‼
これはAS的なのですか?ADHD的なのですか?
娘は私のこういう部分に大変冷ややかなのですが…
ちいぺこさん
ちいぺこさんも同じですか?
思考を巡らすのはADHDの傾向ですね。
ADHDは、たとえば光合成の授業で、窓の外を見て「曇りでも光合成できるのだろうか」と思考を巡らしている人達で、授業のテーマから時々離れて思考しているのよね。人から見たらぼけ~としているように見える。
理屈、屁理屈は、たとえば叱られているときでも自分の中で自分を正当化する理屈を考えている。「だって前にこれこれこう言ったじゃん。それと今言っていることと違うじゃん。私はこれこれだからこうしたのよ」などと思考している。自分の中で理屈で納得したり、屁理屈で反発しているのよね。
複雑な事象を思考するようになるのは、空気が読めないため、状況を理解するのにあれこれ考えて自分で納得できる理屈を見つけようとするからでしょうね。興味関心に基づいて知的探求することもありますし、これまでの経験から結び付けたりして、頭の中であれやこれやと考えています。そうしているうちに神経回路ができあがって、常にそのような思考をするようになるのだと思います。
ASは想像が飛びにくく独特な世界観をもっていて、分析する能力があるから表面上は理屈っぽいけれども、非常に情緒的ですね。ADHDが思考するのとは全く異なります。娘さんが冷やかなのは思考パターンが違うからでしょうね。依存させられないのは思考パターンの違いもあるのかな?
ひぃぃぇぇええぇぁあああ試験つかれました
と、まだ何度でも言えます。
最低限の適応はクリアしていますのでもういいですね。
注意欠陥などの行動が目立ってくるということですが私の場合
自爆で怪我することも多いです。家庭・学校・会社はもちろんなんですが、四輪で仮免中に横転・二輪で高速道の側壁に衝突・急いで転んで骨折・火傷・etc・・えんぴつは自分で2回刺さりました。運転はしませんので大丈夫ですよ。人に怪我を負わすのではないからいいですね。
兄夫婦は兄のび太・義姉受動型ASだと思うんですが、兄が全面的に世話していました。今は別居して養っています。私もようやく分ってきました・・・
ジャイアン友人の元旦那さんも話によると受動型ASの特徴がかなりあるのですが、こちらは2年で破綻しました。受動型ASさんは大変ですね。
二度と書き込まないといっておきながら申し訳ないですm(_ _)m。先生も自分のコメントを参考にしたところもあるかな、と思ったので、現時点での自己分析が大幅に修正されたので再度掲載します。
現在、自分に自信があるのは、ただ単に高い実力を身に付けただけかもしれません。自分の場合、ACが抜けるまでの人生を振り返った時、時間さえあれば内省を繰り返す反省の人生だったと思う。常に何かに頭を使っていないと、脳みそが勝手に内省を繰り返してしまうのが受動型の本質だろうと、今、5歳でフラッシュバックに苦しんでいる自分の子どもを見ていて思いました。
子どもの症状で最近多いのは、保育園に行く前におなかが痛いといって苦しみ出すこと。非常に演技がうまいんですが、隠れて見ていると1人で踊ったりして遊んでいるので、仮病なのは間違いないです。気に入った友達や先生にしつこく付きまとって独占する行動があるため、保育園で毎日のようにジャイアンにいじめられていることが不登校の原因でしょう。ぼーっとしている時間が増えて、「今、夢を見ていた」とよく言います。
内容は自分や妻が怒っている場面の映像で、「何もしていない時に、いつも思い出している」と話していました。ついでに記憶している場面について聞いたところ、失敗したことや怒られていることばかりで、楽しい記憶は最近行ったばかりの遊園地の思い出だけだと言っていました。いろいろ連れて行っているのになぁ。本当にネガティブ思考で困ったもんだ。
自分と妻が怒っていると言っても、常識的な範囲のことを注意しているだけで、「ご飯はいらないからお菓子をちょうだい」と言ったり、声をかけてきた知らない人の後についていって、しつこく付きまとい、親子連れを見ると連れていた子どもをどかして母親の方にしつこく話し掛けたり、人の家に勝手に上がりこんだりした時、何度注意してもやめないので、しつけのために叱るわけで、その怒られた時の映像を「テレビのように頭の中で何度も繰り返し再生している」と、本人が言っていました。
多動が見られるのでADHDを疑っていたんですが、この行動はまぎれもなく自分の幼少期と一緒で、そんなことを毎日していたら確実にACになるでしょう。自分の子を見ていると「受動型は絶対にACになる」で間違いないと思います。
自分の記憶では、フラッシュバックは積極奇異型の母親のいつまでも続く小言でした。ジャイアン父の怒鳴り声は実は気にしてなかったようです。ADHDの怒り方はさっぱりしてるので今でも嫌ではないです。自分は小学校に入るころにはACだったので、自分の子どもを見た限りでは、受動型がACにならないことは、一度も叱られずに成長しない限りありえないことだと思いました。
自分の場合、ACを抜ける少し前は暇な時間に趣味や興味のあることについて考え、または暇な時間をつくらないように精力的に活動し、休日も積極的に仕事をすることで結果的に内省する時間をなくしたことで、ACを抜けたように思います。ACの時期は常にAC的な考え方に支配されていたかといえばそうでもなく、特にやることがない時に内省を始めて勝手に落ち込むということを繰り返していた気がします。今は10年ほどそういうことがないので、完全に抜けたと言えるでしょう。
意識して内省をやめること、自分の内面について一切考えないことでACを抜けそうな気がするんですけど、どうでしょう。考えなくても、抜けそうになると脳みそがフラッシュバックで無理やり考えさせようとしますが、これさえクリアできれば抜けられるような気がします。これは自分に限ったことかどうか分からないですが、ACを抜けた経験がある人の体験談を聴いてみたいです。
JETさん、試験おつかれさまでした(^^)
私はこちらのブログをそろそろ後にしようと思います。
積極奇異の私が自分の二次障害から抜けるには、おそらく受動型ASさんとは逆(?)というか、表面的な方法としては全く異なる方法を取るしかないと思っています。
受動型ASさんの場合のACの話は、その受動性という特性上から来ている事による、「むやみやたらに自分が悪かったと反省し落ち込む事を、やめる事ができるような状況や状態を、自分で意識して用意する」という事なのでしょうねおそらくは。ぬまおさんのコメントを読んでふと思いました。
つまるところ、積極奇異の私の場合は、一度、あらゆる言葉をシャットアウトし、自分の趣味や興味のあることについても意識的には考えない。(なぜなら私の場合、趣味や興味のある事とは、理由などなく本来無意識に熱中するものだから。)むしろ私は日頃から緊張しすぎているので、暇で体が弛緩するようなラクな時間をつくる事を意識してする。体力や余暇の時間があるからといって、休日も精力的に活動したりしない。休日は体の力を抜いてゆったりと休息し、私は一体誰だったかという、ゆらりとした思索を自分の頭の周りに漂わす事を自分で許す事をする。
ようやく思い出しました。
私は自分で、自分の本来に沿わない全く逆の事ばかりやっていたんだ。それにしても、一体いつからだろう。
そして、お医者様からは「緊張しやすく、落ち込みやすい」とは言われていたけど、その本当の意味、なぜそういう事になったのかは、私には全くわかっちゃいなかったんだ。とても驚愕しています。
>(ちなみにジャイアンACの場合は、「ただACを外す」だけだととんでもない暴君ジャイアンになってしまうことも少なくないので、最近は合理的ADHDへの受け皿を先に準備するようにしているが)。
なるほど。
以前から、情緒障害だったからと言って、イコール「情緒障害型依存型ジャイアン」になるとは限らないだろうし、また、「暴君型」はACや情緒障害にならないのかな?と疑問に思ってたので、納得できて良かったです。
この記事の内容から考えると、ACは大分抜けたような気がしますが、中心志向の高い理想を理性で抑えるのに苦戦してると言った感じでしょうか。
なので幼少期は中心志向型かなと思ってますが…まぁ、ひっそりと自己分析し直すこととします。
さーこ(AS)さん
さーこさんのお話は、積極奇異弟の内面を知る上で、とても参考になりました。
さーこさんの夢が叶うように、私も陰ながら応援しています。
「焦らずゆっくり」ね♪(^-^)v
ぬまおさん。
>意識して内省をやめること、自分の内面について一切考えないことでACを抜けそうな気がするんですけど、どうでしょう。考えなくても、抜けそうになると脳みそがフラッシュバックで無理やり考えさせようとしますが、これさえクリアできれば抜けられるような気がします。<
ジャイアンないし暴君型ADHDのACだったと思う小生は大学に入ったとき、小さな運動サークルの幹部をいきなり任せられました。それも一人で。当時は小生の学年はわたくし一人でしたので。
練習場の確保、携帯もメールもなかったので自宅の電話で何十人にも電話、会費集め、合宿の手配、練習合宿のプラン作成、必要物品の購入補充、忘年会、新歓コンパなどの手配、などなど。
最初は不手際だらけでしたが、少しずつ手伝ってくれる人もでき、学習してうまくできるようになりました。
大学の講義はさぼりまくって追試追試でしたが、サークルのお世話、多くの他者のお世話を一気に引き受けさせられ、崖っぷちに立たされたことはACから脱する大きな転機になったのではないか、と今になって思います。
自分を内省する暇が大幅に減らされましたからね。あと自活のためにバイトもやっていましたし。
ただ家庭教師のバイトでは相手のこどもをきつくしかって泣かせ、やめさせられることが多かったですね。まことに申し訳ないことですが。
さーこさん。
>積極奇異の私が自分の二次障害から抜けるには、おそらく受動型ASさんとは逆(?)というか、表面的な方法としては全く異なる方法を取るしかないと思っています。<
長年生活をともにした受動型ASと考えられるかつての伴侶と別居し、一見多数派ないしのび太、実は積極奇異型ASとおぼしき生き霊と共に生きる、彼女を人生最後の伴侶と決めたADHDの小生としては、感慨深いお言葉です。ふたりの娘と離れ、彼女の息子たちにも敬遠されておりますが。
>つまるところ、積極奇異の私の場合は、一度、あらゆる言葉をシャットアウトし、自分の趣味や興味のあることについても意識的には考えない。むしろ私は日頃から緊張しすぎているので、暇で体が弛緩するようなラクな時間をつくる事を意識してする。休日は体の力を抜いてゆったりと休息し、私は一体誰だったかという、ゆらりとした思索を自分の頭の周りに漂わす事を自分で許す事をする。<
>ようやく思い出しました。
私は自分で、自分の本来に沿わない全く逆の事ばかりやっていたんだ。それにしても、一体いつからだろう。
<
小生は生き霊にいつもいいます。自分の身の回りのことから始めなさい。お皿洗いや洗濯物、書類仕事など面倒くさいと放置してきた日常生活のこまかなことからきちんとするようにしなさい。自分のことがきちんとできないのに、学級委員長的なこと、自分を置き去りにして他者の面倒をみるようなことはやめなさい。まず自分のことをきちんとしてから、家族や他者のことを考えるようにしなさい、と。ちなみに現在ひとり住まいの小生は皿洗い洗濯自炊なんでもふつーにやっております。
そして小生にはこう言います。小生は彼女にとっての鏡であると。
彼女の自己を確立させるため、彼女が楽に幸せに生きることができるよう、鏡は常に磨いておかねばならないと自覚をあらたにしました。自己突っ込みと努力精進はADHDの得意とするところですからね。しかも努力の目標目的ははっきりしていますし。
毎日のように喧嘩しながら、お互いを高めあっております。
さーこさんにも素敵な鏡と巡りあえることを心から祈っております。
人間は生まれ変われる。それはこのブログと彼女に出会えたおかげであると信じています。
道産娘さん
いつも、本当にありがとう。
私は何も知らない積極奇異に戻りたくないです。
辛かった日々の事を忘れたくない、二次障害だったからこそ、たくさんの人と語り合えた事を忘れたくはないです。
私が自分を思い出しても、現実やネットで受けてきたたくさんの人の恩を忘れず、謙虚に周りの人間と絆をつないでいけますように。
そしておそらく受動型ASさんのACの話は、私の言葉を反転(?)したものになるかもしれません。
ACだからこそ高い実力を身に付けられたが、むやみやたらに自分が悪いと思い込んでは落ち込むという辛い日々の事(現実やネットで受けてきたたくさんの傷)を忘れて、何も知らない受動型に戻りたい、のではないかな。
戻った後、謙虚に周りの人間と絆をもてるかもしれないという鍵が、自分の受動性(または積極奇異性)を抱えながらも「(苦労して)ほどほどの程度に自分で自分を調整する(受動型の場合はほどほどの程度にあきらめる、積極奇異型の場合はほどほどの程度にがんばる)」という事なのかもしれませんね。
自分の本来のやり方のほとんどを曲げざるを得ない事(主義に反する、という事かな)を長年せざるを得ない事になるほどの酷い二次障害から脱した直後なら、「ほどほどの程度に(あきらめる、がんばる)」という事について、「他人と絆をもてるかもしれないから」という事で、「この方法しかない」と心底納得できるかもしれませんね。(私の場合はこれらの事を納得済みです)
まぁわかったところですぐに現実に実行できるわけでもないので、ぼちぼち行きますかね。あわてて極端な行動に走るのが私の悪い癖です。
>さーこさんの夢が叶うように、私も陰ながら応援しています。
>「焦らずゆっくり」ね♪(^-^)v
ありがとう、道産娘さん。「焦らずゆっくり」、ですね(^-^)v
Paul Carpenter さん
私は、「最低限できれば」いいと思うのですけどね。
自己完結するにはまだ少し早いのでは、と思いましたよ。
このタイミングで、私がこういう事を言っていいのかはわかりませんがね。
私の場合、家事は家族の都合に合わせてやってきましたから、もしも一人暮らしになるとしたら出来るかどうかちょっと不安ですね。でも、これからは「自分のために、最低限(ASの言葉で言えば、ほどほどに)する事にしよう」と思っています。しかしあまり家事を放置しすぎると敷金から引かれてしまうかもしれないのもまた現実だと思うので、適度な緊張感を維持する事を忘れずにいようとは思っていますけどね。天気に合わせて洗濯物を干すというのは私の中に確実に習慣づいていると思うので、そこに加え「自分自身が生活しているんだ」という事を何度も唱えて忘れずに行こうと思っていますよ。
>さーこさん
自分の場合、自分に発達障害があり、しかもACであることすら何も知らず、「今まで自分がダメだと思っていたのは勘違いだったかな?」と疑問を持ち始めた直後、突然、変化がはじまったのでかなり焦りました。それまで内省することは趣味に近く、気持ちが落ち着くので実は大好きだったんだけど、やろうとすると考えがまとまらなくなり、血圧が上がるような焦燥感を感じて、いてもたってもいられないような状態になってしまい、「ついに頭がおかしくなった」と本気で思って、精神病院に行こうか迷ったくらいでした。
とにかく、元々、内省ばかりしていたのに、考えれば考えるほど混乱するようになって「これ以上、内省したら危険だ」と感じて考える時間を無くそうと、精力的に活動して気を紛らわせた結果、ACから抜け出せた感じです。非常に短期間に大きな変化が起きたので、移行期のことを思い出そうとすると、わけもなく焦燥感を感じるため、これ以上は思い出せません。今は反省はするけど、フラッシュバックが怖いので内省と呼べるほどのことはやらなくなりました。
さーこさんもフラッシュバックがつらいことと思いますが、頑張ってください。実は積極奇異型の友達が仕事を頑張りすぎて重い心の病になって、一時期、寝たきりになっていたんだけど、アロマテラピーとレイキで完全復活し、今では人を健康にしたいと言って、鍼灸マッサージの国家資格を取って活躍しているので、さーこさんとちょっとダブらせて見ていました。オレンジオイルやラベンダーオイルを分けてもらったのを思い出したよ。ラベンダーは風呂に数滴入れたりすると心が落ち着くよね。
>Paul Carpenterさん
>崖っぷちに立たされたことはACから脱する大きな転機になったのではないか、と今になって思います。
内省するのが発達障害の特徴でしょうけど、時にはやめてみるのもいいかもしれないですね。
>小生は彼女にとっての鏡であると。彼女の自己を確立させるため、彼女が楽に幸せに生きることができるよう、鏡は常に磨いておかねばならないと自覚をあらたにしました。
自分は妻が孤立型だと分かって、ようやく家事ができないことなどを理解できたところです。娘が受動型であることも分かったので、まさに自分の分身です。この言葉は身につまされる思いがします。
携帯からです。
さーこさん。
そうおっしゃると思ってましたよ。
でも違いますよ。
自己完結なんかしてませんよ。
今を生きています。
小生も彼女も。
昨日を生きているわけではなく、明日を生きようとしているわけでもありません。
いまこの時を、この瞬間を生きています。
自分なりに精一杯。
それだけはさーこさんに伝えたかったです。
さーこさん
>私はこちらのブログをそろそろ後にしようと思います。
その通りにすればよいと思います。
>このタイミングで、私がこういう事を言っていいのかはわかりませんがね。
だったら言うな、でしょう。
Paul Carpenter さん
下記の言葉は、私自身に向けたものでした。
>>自己完結するにはまだ少し早いのでは、
訂正し、お詫び申し上げます。すみませんでした。
>いまこの時を、この瞬間を生きています。
>自分なりに精一杯。
そうですね…。そうでした。
自分なりにがんばっていた時を思い出します。
>小生は彼女にとっての鏡であると。
実はね、私は以前、私の文通相手の事をそう思っていたんですよ。
私は、自分がくるうと相手がくるうのを知っていました。だから、最初は常に鏡である自分を磨いていた。でももう、そういう事をしなくて良い時が来たんですよ。それはどういう事かというと、自分の努力により相手の自己を確立させられたからではなくて、相手に寄らずに私自身が自分の自己を確立できたからです。信じられない事にね。こういう日がまさか来るとは、正直私の想像を越えていたけど、ASである以上、私には愛着という衝動はあるものの、その衝動と共に生きていけそうな気がします。これは、ささやかな幸せ、ささやかな喜び、ですね。
いつか、Paul Carpenter さんにも、ささやかな幸せと喜びを感じる瞬間が訪れますように。ひそりとお祈りしております。
追伸
私は、自分の自己を確立できたからと言って、文通相手がいらなくなった訳ではないです。
私は、自分の自己を確立し、自分の選択で大事な人を大事にしたい。
これがかねてよりの私の夢の一つでしたから。
さーこさんありがとうね(*^^*)/またね
さーこさん
さーこさんの以下の言葉、ありがたくいただきました。
>「あなた自身の選択と行為の責任」と「あなたの負った傷の責任」を延々と他人に丸投げし続けるのは、やめていただきたく思います。厳しい現実ですが、医療機関を受診した方がよろしいと思いましたよ。正直なところ、あなたの訴えは他人にはどうしようもない事だし、あなたのこれまでの人生について何の責任もない他人を巻き添えにしてしまいます。あなたの行為や発言に、迷い戸惑うと書いて、迷惑、と言えるでしょう。
ですから、貴方もまた、発言に責任を負っていただきたいと思います。私に言っているのだからご自身はできるのでしょう。
JETさん、ありがとう(*^^*)
みなさん、またいつか会う日まで。
YANBARU先生、本当にありがとうございました。どうぞお元気で。
(^ _ ^)/~~
みさん、こんばんは。
前にも言いましたが、私はみさんが好きです。
ですから、みさんの「すぐに周りを敵にしやすい言葉づかい」が、とても悲しいのです。
私は以前から、実はみさんのことを「女ヤンバル」と思っていました。激しくて、正直過ぎて、すごくエネルギーと迫力があって、洞察力も深く、よく似ていらっしゃるからです。
骨があって、すごい人だなあといつも思っていました。
ただ、ちょっとこのブログとの精神的距離が近過ぎるためか、他のコメント者の方と喧嘩になりやすいですよね。
みさんは「依存」にすごく敏感なところも尊敬しています。
でもこのブログに対しての依存は意外と盲点になっているのではないでしょうか。
「このブログがなくても生きていける!」くらいの気概でいらっしゃれば、やたらめったら人につっかかっていく必要はないように思います。
気に入らない文章はスルーするだけで、つっかからないという距離感を保てないとしたら、少しこのブログから離れて実生活を送られてみた方がいいかもしれません。
みさんの底力を信じているからあえてこんなことを言っているのです。生意気でごめんなさいね。
さーこさんとみさん。おふたりにどうしてもお伝えしたいことがあります。
決め付けはやめませんか。
このブログを去るとか云々。
小生は前から思っています。
YANBARU先生の膨大な、貴重なご経験と深い思慮にもとづく分類はたしかに多くの人が生きていくうえで大変参考になるけど。やはり完全ではないと思っています。
なぜなら、人間は弱い存在で常に不完全だから。
小生にはASぽいところもあれば、彼女にも多数派ぽいところやのび太ぽいところもあります。
そして一番言いたいことは。
YANBARU先生は「ジャイアンには愛は無縁だ」と仰いました。小生もその通り、自分には肉欲的な愛はあっても、愛情というものに欠けるとずっと思っていました。
でも違った。ひとりの人が自分の前で突然理由も言わずにさめざめと泣いた時、小生の心ははっきりとしました。
この人を守ろう、自分のすべてをかけて、すべてをなげうってもこの人の幸せと笑顔を守ろう、それが自分の後半の人生最大の仕事であると。
人は不完全です。
だからこそ人は変わることができると信じています。
何事も決め付けるのはやめませんか。
みんな幸せになりたい。ただそれだけが願いのはずです。
幸せの邪魔になるもの、障害になるものにこだわる、取り付かれるのはもうそろそろやめましょう。
アメジストさんの言う事、いつもスルッと入ってきます。理解するのに変換の必要が無い!相手の気持ちにも配慮して自分のことが言えていて素晴らしいですね。
みさんへ
さーこさんに対するコメント、どういう意図があったんでしょうか。ただの感想ですか?
もし意図も感情も含んでいないとすると、とても誤解されやすい表現だと思います。少なくとも私には不必要にさーこさんを否定したうえ、自分の考えを押し付けているように見えました。(私はADHDですので、ASとの感じ方の違いではありません)
みさんはそれぞれの型をとてもよくご存知です。それぞれの人がどう考えどう行動するかご存知です。それなのに「自分の発言の責任を負う」というご自分の得意なルールを他人にも求めているようです。
私も良く他人の無責任に驚きはしますが「責任をとったほうが見栄えがいいだけ」(もしとらなければその苦しみは相手のものであって自分には関係無い)と考えています。つまり、どちらも選択肢にあっていいものとしています。
そんな風に考える者にとっては、みさんの今回の対応は窮屈に感じます。
さて、みさんはさーこさんのことを考え彼女の立場に立って自己ツッコミしているともいえますね。ADHDにとって自己ツッコミは苦しいものです。
ですが立場が違えば、自己ツッコミなど起きることもなく済んでいるかもしれません。自己ツッコミが起きたとしても苦しくないかもしれません。(私には想像もつきません)
立場の違いで同じことも全く違うように感じられる可能性がありますね。みさんは自分の発言がどのように受け止められるか思いを巡らせたことはありますか?誰かを幸せにする発言か、不幸にする発言か、想像してみたことはありますか?
もし不幸にしてしまいそうだとしたら、私は伝え方を変えてみます。
アメジストさんの「生意気でごめんなさいね」も、みさんを不幸にしないテクニックかしらと思っています。(ぜひ、生意気だと思うなら言うなと思わないでくださいね)
不幸にするとわかって発言することは攻撃です。みさんの発言が攻撃では無いのだと、私は信じています。いかがでしょうか。
Paul Carpenterさん
>決め付けはやめませんか。
>このブログを去るとか云々。
というお言葉がありましたが、
人には「けじめ」をつけたり、「今までにない覚悟」をしたりする必要がある場合があります。大きな「認知の修正」はそういう時に起きやすいです。
ブログで言えば、「ブログ依存」、「コメント投稿依存」という状態は明らかに存在すると思います。だから、ブログとの付き合い方を見直すことも認知の修正には大きく役立つことがあるように思います。
さーこさん、おめでとう&ありがとう。
俺もそろそろ、またROMに戻ろうと思っています。ただこれは、あくまでも自分の気分を変える表明で、とらわれちゃいかんなとも思っています。
俺の場合、決意表明すると、それにとらわれることがよくあるんです。そのため状況変化についていけなくなるのが欠点です。そのため、決意表明をあえて回避して自己防衛したり。
で、決意表明してもそれにこだわらないことを決めてしまいました。こうすると楽だし、周りの人(特にいわゆる多数派)も状況に応じて変化してるんですよね。こだわっているのが馬鹿みたいと思えてきます(苦笑)。これがやんばる先生のおっしゃる「諦め」の一形態なのかもしれません。
さーこさん、自分で決めたことにとらわれ過ぎないようにしてくださいね。いっそ、とらわれ過ぎないと決めてしまうと、ラクチンかも。さーこさんならとっくの昔にやっているとも思っているので、蛇足だったかな。
>Paul Carpenterさん
え~と。なんというか・・・。
別居中と書いてあるので、離婚していないのですよね。
私には暗澹とした未来しか見えないのですが・・。
(ちなみに我が家の経過)
浮気する→別居する→すぐに女と別れる→そのまま放置される→妻男友だとと飲んで朝がえり→妻男友達に手作りのチョコくばって、ホワイトデーにお返したっぷり貰う→たまに家に帰ってきた夫「え~と下着・・洗濯機に入れてもいい?」きくような下僕とかす。
・・になっておりますが・・。
振り返ってみると、よくある経過だと気づきます。
夫に愛されていないちょっと時間の余った主婦が夜の街で遊ぶ姿。私も愛されていると信じていられた時は、そんな人は哀れだと軽蔑していました。でもやってみると・・そうですねビターチョコレートのように苦く・・そして楽しい。
将来裏切られるとわかっていたのならあんなことも、こんなこともしなかったのに。あれがどれだけ苦痛だったか、屈辱だったか。嫌だった。吐くほど嫌だった。ただ愛しているという言葉だけを信じて蓋をしていた。
一回目の中絶手術に失敗した二度目の手術は麻酔なしになった。看護婦さんに両手両足抑えつけらrて、金属の棒を直接子宮のなかにいれガチャガチャと掻き出した。熱いものが流れていくことが分かり、ボタボタと血液が容器に落ちる音が聞こえた。終わったあと直ぐに子供のお迎えに行き、家いついたら大きなナプキンが真っ赤に膨らんで、漏れ出していてすでに下着を汚していた。
・・誰も・・誰も守ってくれなかった。
そのことも蓋をした・・。
・・それなのに裏切られた。
ちなみに・・某悪徳掲示板の不倫版ではそのことを「ラリ期」と呼んでいます。
それはベテランプリが舞い上がっている初心者プリに向かって忠告するときに使ったり、ベテランサレ妻が、現在、夫はラキ期中みたいに書いてあったりします。
とりあえず奥様には極秘にして(まあ、バレてると思うが)・・未来を考えるのはラリ期が終了したからがよいかと・・。
エントリーのテーマについても、コメントを少ししてみます。
俺は、かつてうつ病でした。正確には、多分うつ病でした。医者に原因を打ち明けるのは恥ずかしいし、自分で直してやると拘ってしまっていたので、症状は明らかでしたがお恥ずかしながら自己診断です。
うつ病になる前から自分はASのようだという認識はあったのですが、うつ病の真っ最中はASかどうかなんてどうでもいいことでした。今日を生きるのに精いっぱいでしたから。
他人の目や評価が気になって仕方なく、他人は自分のことをさほど気にしてないものだと思うようにしながら、やはり気になる日々が続いていたものです。やがて、他人は気にしていないものだという思いが馴染んできて、他人の目や評価が気にならなくなった頃に、うつを脱しました。これは、諦めよりは理解に近いように思っています。
そうしてうつを脱してからは、ASとして自分の認知の歪みなどにどう対応していくのかを考えられるようになりました。今はこの状態です。
先生、ごめんなさい。キータッチミスで送信されてしまいました。
すみませんっ!!!先のコメントのせないでくださいっ!!!
最初っから投稿するつもりじゃなくて・・ただザクザク書いていたらいってしまいました。
すみません・・よろしくお願いします。
ちひろさん、お久しぶりです。
私がPaul Carpenterさんの“生き霊”です。
彼とつきあうようになってから、このブログの存在を知り見続けてきました。
時にはブログから離れ、別の方法で内省することもありましたが、数年間別れと再会をくり返し、今に至っています。
私はこのブログの最初のコメントで自分が多数派と名乗り、ジャイアンの彼とのやりとりを語ってきました。みさんを含むいろいろな方のコメントをはげましとしてこの数年間を生きてきました。
私はコメントで申し上げました。もし、当事者の彼とは隔壁のようなもので遮られ、ノックをしても届かないと。それでも諦めきれなかった私は自己研鑽にはげみ、なんとか自分を高めようと必死でした。
彼には時にはストーカー扱いされたり、愛は洗脳用語だと言われたりして散々な目に遭いました。私はそんな彼の中に人間としての弱さを感じながらもどこか希望を持ち続けていたのかもしれません。
今年に入って、彼はとうとう私を選んでくれました。本当に嬉しく幸せなことですが、正直いろんな事がおこりすぎて大変です(笑)それでも、彼がコメントしてくれていたように、私たちは「今」を生きています。
どうやら私は多数派ではなく、のび太やASの部分も持ち合わせているようで…。それは今後の私の課題として乗り越えていこうと思っています。発達障害である自分の部分にとらわれることなく、彼と一緒に生きていこうと決めています。
個人的な話で申し訳ありません。
このブログと皆さんには感謝しております。
>意識して内省をやめること、自分の内面について一切考えないことでACを抜けそうな気がするんですけど、どうでしょう。
これは私も少し思いました。
単に『逃げてる』気がして、なかなかできないんですよね・・・。
このブログにコメントを書き始めてから半年程経ちますが、非常に間をあけないと書けないときがあります。
どういう(否定的な)レスがついているか予想がつくだけに、まず、読むのが苦痛なんです。
でも読んでない間もずっと気になってますし、相手が時間を割いて書いてくれているわけだから読まないわけにもいかない。
結局おそるおそる読んで、またコメントを書く、その繰り返しになります。
私も発達障害を自覚しないほうが楽だったなあと思います。
今は、何か小さな失敗を1個するたびに、「あの特徴かも」と考えてしまいます。
フラッシュバックというのはわからないのですが、小さい頃に体験した理不尽な事件はよく覚えています。
さーこさん
お元気で。
たくさんのコメントをありがとうございました。
考えに考え抜いて書いたのであろう、それだけに重い一撃(コメント)。とても好きでした。
新しい環境が、さーこさんにとって楽しいものでありますように。
おや
私はみさんのコメントは「このタイミングで何のことだろう?」と思っただけでしたが・・
何故引っかかっている人がいるのか分りません。
さーこさんには、『受動型ASの受験生が勉強しない理由』で、横から口出しをされました。私としてはとても印象の悪い人になりました。
今回さーこさんはPaul Carpenterさんに口出しをした(と思った)。AS側から見たADHDへのお節介、お節介もいい加減にしてほしい、そう思い、ADHDに対するお節介を続けるなら、ご自身が「私はこちらのブログをそろそろ後にしようと思います」といった通りにしてほしいと思いました。
どうやら自己完結に関してはご自身のことだったようで訂正されました。今回はお節介ではなく、自分自身について語りたかっただけですね。人宛に書いているのだから聞いてもらいたくて仕方がないのだろうと思いました。
ASのお節介は尊厳を重視するADHDにとっては不快です。依存型ジャイアンにとっては依存の対象になるでしょうが、依存型ジャイアンでない場合は尊厳を無視していると感じます。ASはよかれと思ってやっているのでしょうが大迷惑な場合もあります。
そして、さーこさんの「正直なところ、あなたの訴えは他人にはどうしようもない事だし、あなたのこれまでの人生について何の責任もない他人を巻き添えにしてしまいます」といった私への言葉、さーこさんに考えていただきたかった。
自己完結というのはご自身のことでしょう。それはあなたの人生におけることでしょう。なぜ人に訴える? 文通相手にしてもご自身のことでしょう。他人に聞かせてどうにでもなるものではないでしょう。ご自身はOKで、人には他人にはどうしようもないこととして払いのけようとする。言っていることとやっていることが矛盾しています。しばらくは我慢していたのだけれど、我慢が限界でした。
はすのはなさん
なるほど、そうだったのね。しばらくコメントをみないなと思っていました。
しかしまぁ、インターネット上なのでコメント者同士が知り合うことがあるとは思っていませんでした。びっくりです。
>はすのはなさん
まじで・・・・( ̄◇ ̄;)
まさか、相手の女性が読んでいるとは夢にも思いませんでした。負け犬の遠吠えのようなコメントをかいてすみません。
あなたの気持ちは女性としてとても良くわかります。
けれど、あなたの言葉で私の心は痛みます。
もう忘れたいので、放っておいてくださいませm(_ _)m
゚ヽ( ゚`Д´゚)ノ。゚(゚ `Д)ノ。゚ヽ( )ノ゚。ヽ(Д´ ゚)ノ゚。。゚ヽ(゚`Д´゚ )ノ゚センセイノバカーーッ!!!
おお、paulさんとはすのはなさん!!!!!
そういうことだったんですか!!!!!!
なんということでしょうか!!万難を排してお幸せに!!!!!!!!!!
生きててよかった!!!!!
JETさんへ
そうですよね、私もよく「あら?今のどこが気になったのかな?」と思うんですよ。それか「あら?これは別に気にならないのねぇ…」とか(笑)
不思議ですよね。どうも私はジャッジされる事や思考を制限されるのが苦手のようです(; ̄ェ ̄)
みさんへ
そうですか。今回については元々不快に思っていた感情が時間差で表面化したんですね。表現した理由が少し前に起こったことで、場所も違うため分かりにくかったですね。もし一言、前からあんたの言い分に怒ってたんだけど!とあったら誤解が少なかったのではと思います。じゃあそんな風に言うよねって納得したと思います(さーこさんは別でしょうけど(^^;))。
私はみさんに我慢を強要するつもりはありません。ですが、私が不快になりそうであればそれは解消したいと思っています!
私の性質なのかのび太の性質なのかはっきりしませんが、誰かと誰かが喧嘩したりいがみ合っている状況は心の負担が大きいです(自分が怒られている気分になります)。そう言った場合、どちらが正しいという結果より早く終わらないかなと思います。なにせ、どちらが正しかろうが私には関係がないからです。
もし自分が当事者であれば自分が正しいともちろん主張するでしょう。これは少し矛盾していますね。でもそのうち「あーみんなこんなの聞きたくないだろうな(私だってそうだし)」と、最低限の尊厳を守るだけにします。
そして、後は勝手にしろ!その代わり私の中で最低ランクにランクインだからな!と心の中で悪態をつきます。
以上を踏まえまして、私はみさんに一つだけお願いしたいことがあります。
言い合いが続くとつられて不快に思う私のような人がいることを覚えておいていただけませんか?きっとそれは、みさんの意図するところではないと思うので。
別にそれでどうして欲しいとは思っていません。一度お伝えしたら、心置きなく「もうそんなの聞きたくないよ!」と言えるかなあって思ってます。
先生の書いてる自己責任
自分以外の人にはさわれない
これは同時に他人の自己責任に自分はさわれない
唯一さわれる他人の自己責任は子供の自己責任
子供が自分で自己責任をとれるまでの間さわれる
そして自分の責任を全うするということは子を生すということでしょうと思う
それにしても人生が足りない
これは諦めよう
自分が子を生せなくても(とても無理だと思った)親の無い子はいっぱいいるではないかとか
その子らに寄り添えばいいではないかとか
高校生ぐらいの頃から考えていた
そんな自己評価でありましたぞ
自分は悪くなかったなどとは思えない、そんな素直ではない
自分に対して悪かったではないか?
それはつまり自分の子に対して悪いではないか
しかしこれは諦めよう
>その子らに寄り添えばいいではないかとか
これは諦めなくてもよいね
精神科は元気な人は来なくてもいいんだよ
それぐらいの社会性はあるもんね
なつもかさん、その他の人へ
>私も良く他人の無責任に驚きはしますが「責任をとったほうが見栄えがいいだけ」(もしとらなければその苦しみは相手のものであって自分には関係無い)と考えています。つまり、どちらも選択肢にあっていいものとしています。
私は「責任をとったほうが見栄えがいいだけ」とは思っていません。責任を引き受けること、そのこと自体が自分の「生」への対し方だと思っているからです。
自分の責任を負わないことは他人に責任を擦り付けることでもあります。私は、道産娘さんに読み間違いをした私に対しての非難を含む訂正をされました。責任を擦り付けられた相手に対して何とも思わない自己中心的な心性はいかがなものでしょうか。
>誰かを幸せにする発言か、不幸にする発言か、想像してみたことはありますか?
自分の責任を負わず他人に責任を擦り付けることが、誰にとって幸せであるのか想像してみてください。責任を擦り付けられた者は幸せなのでしょうか。他者を幸せにすることができる人間はきちんとそのことが理解できる人間です。
JETさん。
まいどおおきに。
トップの表題にも関することですが。
昨日もはすのはなとファミレスで大喧嘩しました。
まわりの客とお店の人が気を遣うくらい。
そのうち気づきました。
この人は小生に話をしながら、自分が抱える多くの諸問題を解決しようとしている。
それは決して依存ではなく、自分のアタマで考え、自己を確立しながらたくさんの困難な問題を小生と一緒に解決しようとしていると。
「俺はあなたの頭の整理を手伝ってるわけね」
何十年間も気づかなかったことにようやく小生という鏡を通じて気づくことができ、堅い殻を少しずつ破りながら、その殻の破片で自分の身体と心を傷つけながら、文字通り成長を始めたのだと思います。本人にも伝えました。
一次障害と二次障害。その線引きはあいまいで難しいこともあるように思います。小生は障害自体が複雑に絡み合っているものだと思っていますし。
ただYANBARU先生の仰るように、ひとつの障害を取り除く過程で、本人が脱皮して目覚めて進化していく上で、一時的にせよさらに大きな困難にぶつかり、もがきながら進むことは大いにありうると、小生は彼女を毎日のように自分の目で見ながら、話を聴きながら、まさにその通りだと感じています。
もうひとつ言いたいのは。
このブログを去ります、と多くの人が言いますが。
本当はそう言ってしまう、言わざるを得ないときこそ、他の誰かの、このブログの支えが必要なときではないか、そんなことも考えております。今まで何度も別れようとしてきた私たちのことを振り返って。
もう一つ。私がさーこさんを快く思っていない理由です。
道産娘さんが幾人かに「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と暴言を投げたこと。これは相手を幸せにする言葉ですか。揚げ足取りなどしていない人に「揚げ足取り」という。これは相手を幸せにする言葉ですか。
人に当たり散らして、人のせいにして、謝らないでいることに、誰が幸せなのですか。
さーこさんは私に対してこのように言いました。
>み さんは、皆さまに対しては配慮が欠けていた部分があると謝っていましたが、早朝4時ごろのコメントの時点では道産娘さん本人には謝っていません。
道産娘さん、あなたの気持ちはもっともな事だと、個人的には思っていますよ。
さーこさんがもっともだと思ったのは、「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と暴言を投げた道産娘さんの気持ち、指摘されて人のせいにする道産娘さんの気持ち。
「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と暴言を投げられた相手の気持ちなど無視し、暴言を投げられた側である私に暴言を投げた人に対して謝っていないと指摘しました。
私の中で、この人は自分が心地よく話ができればそれでよく、「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と暴言を投げられた相手の気持ちなど理解しないだろう、と思いました。
だから私はさーこさんを快く思ってはいないのです。
みさん。
>自分の責任を負わず他人に責任を擦り付けることが、誰にとって幸せであるのか想像してみてください。責任を擦り付けられた者は幸せなのでしょうか。他者を幸せにすることができる人間はきちんとそのことが理解できる人間です。<
男は女と15年間暮らしている間じゅう、後悔して耐え忍んでいました。子どもたちのため、とひたすら我慢して。
だから少し前に知り合った生き霊と共に生きる決意を固めたとき、男は女に生き霊のことは伏せて別居離婚の話を切り出しました。そして女は、悪いのは自分だ、自分が家を出て行く、自分は死にたい、と言いました。
翌日。
そのことを男から聞いた生き霊は。
すぐに自分のことを話しなさい。そうすれば敵の姿が見え、彼女は死のうなんて考えは捨てるはずです。
と言い張り、男は悩んだ挙句、女に生き霊のことを打ち明けました。
あとは推して図るべし。
社会的王道と人間的王道。
生き霊は常に人間的王道を歩いております。
ホンマにややこしくてかないませんが。
勝てるわけがありません。
これから少し、みさんとゆっくり話したいなと思っています。この場を使う事が相応しいとは思いませんし、もしかしたら同じような事を繰り返し見るのが嫌だなと思われる方もいるかもしれません。
おっしゃっていただければ、すぐやめます。(メールとかできたらいいんですけどね。)
みさんへ
さーこさんとの関係で嫌な気持ちになっていたこと、お察しします。最近よく同じ事で不快になっていたようですね。道産娘さんとのことと同様、みさんの中で解消されていない事のようです。
みさんがお二人との関係で不幸になっていた事はわかりました。ですが、どんな理由があったかを説明していただく必要はありません。
みさんとさーこさん、みさんと道産娘さんとの間でおこった事であり、仲が悪いとわかれば私には十分です。
もちろん、どなたにもしあわせになって欲しいと思っていますので、それぞれの間で解決できることを祈っています。私にとってはどなたも肩入れするほど関係の深くない方々ですので、詳細に興味はないです。
長々と”仕返し”を見るのは嫌だな、一度言っておこうと思ったのが前回のコメントです。(つまり、さーこさんに肩入れしている訳ではなく、みさんとお話がしたいだけです。)
責任について、私と考え方が違ったようですね。ここでみさんのコメントを見ると、同じADHDでも考え方が全く違う事によく驚かされます。
自分の生への対し方。美しい言葉ですね。生きる美学のある人は好きです。私も自分が行動する際には責任をよく意識しています。
ただ私がみさんのコメントを見て時々「みさんの責任はみさんの生への対し方」以上の意味を感じます。みさんは無意識に「誰もが必ず責任をもって生きる」事を求めてはいませんか?
>どういう(否定的な)レスがついているか予想がつくだけに、まず、読むのが苦痛なんです。
Fさん、これは受動型ASに特有では無いですかね?
受動型ASは、多数派の空気を読めるようになると、多数派にもジャイアンにも合わせられるのですよね。
ただ、両方にあわせることはできないんですよ。
コメントを向けた相手からの批判は全く気にならないのですけど、外野からの批判は私も苦痛です。
だいたいは、ジャイアンに向けて書いたコメントを多数派から批判される、ということになるのですけど、多数派や受動型AS向けに書いたコメントをジャイアンに批判されることもちょくちょくあります。
ジャイアンから見ると、多数派はどうせ理解できないのだから仕方ないとあきらめられるけど、受動型ASに自分を無視した言い方をされると我慢できないのでしょうか?
若い頃から、本当に伝えたい相手に文句を言われることはないのに、外野から批判されることは多く、ずっと疑問に思ってました。
たぶん、なつもかさんのコメントと連動していて、ジャイアン向けの場合、お互いの心と心をぶつけてお互いが納得するのを目指すのですが、外野から見ると大喧嘩に見えて苦痛、ということなのだろうと思います。
多数派向けは、それなりにごまかす書き方をしますので、ジャイアンは納得しない、と。
なつもかさん
中心志向の無い、ADHDが女性の多数派と考えています。
なので、のび太の女性は、多数派だけど、忘れ物とかが目立って障害が出ている、という認識です。
女性の多数派は、「平和」を求めるイメージがあります。
なので、喧嘩を見ている状況は、女性の多数派として負担が大きいだろうと思います。
男性の多数派は「秩序」を求めるので、同様に混乱は嫌います。
つまり、現状維持を求める多数派と、正しさを求めるジャイアン・受動型ASの間に利害関係が成立します。
リアルの世界では、多数派の力があるので、我々は行動を抑制しないとやっていけません。
具体的に言えば、今のやり方では問題があるとわかっていても、1回しか指摘はできません。1回なら、空気を乱すとはみなされないようです。2回やると、嫌われます。これを受動型ASとジャイアンは理解しないといけません。
現実としては、問題があるので、いつか破綻します。
結局、早く対応すれば楽なのに、多数派の空気を乱さないために、破綻するまで待つ、というのが抑制行動になります。
なつもかさんの言っていることは理解できるのですが、いつも挟み撃ちになってしまうんですよ。
どちらの言っていることもわかる。でも、両方を立てる手段は無い。
だから、どちらかを犠牲にしないといけない、それは苦しい。
ここでは、みさんが納得行くまで議論させてもらいました。
多数派の方が気を悪くされているのは理解しています。
この空気を選択できるのは、受動型ASの方なんです。
私が逃げるではなく、戦う道を選んだからこうなったんです。
リアルの世界では多数派を立てる形での我慢していますので、ここの世界では納得行くまで議論させていただけませんか?
Paul Carpenterさん
「私は責任を引き受けること、そのこと自体が自分の「生」への対し方だと思っているからです。」
これはPaul Carpenterさんのいう社会的王道とは異なることです。不倫に関しては他人がどうこう言うことでもないでしょう。個人の選択は個人の選択です。
ただ、その選択による周囲への影響に対して責任を負う。つまり、たとえば不倫の場合、妻から彼女にも慰謝料を請求できること。法的な問題も出てきます。同時に、子どもへの影響です。娘さんの家出、多感な時期の子には親の不倫がわかります。夫婦の問題だけではなく、夫の彼女にさえも振り回されている子どもの存在。つまり、不倫関係にある二人の問題だけではありません。
責任を負うとは、そういったすべてのことに正対することです。
私は初めての結婚で一生連れ添うことを誓うという、そもそも移り変わっていく人間の存在からしてそれに反していることだろうと思っています。ただ、何やってもいいのではなく、その選択に常に責任が付きまとう、縛りはあるのです。無人島でどこの国にも所属せず暮らしているのなら縛りはないでしょう。ですが、社会に生きている以上、必要な縛りがあります。
勝つ、負ける、の話ではありません。社会生活をするうえで個人の自由の裏には責任をともなう、当たり前のことを当たり前にする、そういうことです。
( Д ) ゚ ゚
坊やはおうちに帰りなさい。今なら、まだ、間に合うよ。
「悪いのは自分だ、自分が家を出て行く、自分は死にたい」って
「ごめんなさい。私が悪かった。出て行かないで、あなたを愛してる」
って意味じゃん・・・。
バカ
追加
ついでに、このコメント欄で公表した事について。
ここには不倫をされて苦しんだ妻、読んでいるだけの人のなかにも不倫されて苦しんだ人がいるでしょう。そのなかでの公表です。
コメントを読んでいる人たちのなかに不快を示す人もいるでしょう。そのことを今一度考えていただきたいものです。
みさん、ちひろさん。
お二人の仰るとおりですよ。公表するかどうかは悩みました。
不倫と一生蔑まれるのは覚悟の上です。
そして。
お二人がいつも真摯にコメントしてくださるので、それもありがたいと思っています。
何が言いたいのかよくわかりませんが。
少なくとも、今回のお二人のコメントがみさんとちひろさんの誠実さを現していると思います。
最近のコメントはみさんとちひろさんに向けたものかもしれません。断定はしませんが。でもおふたりのことが気になっていたのは嘘ではありませんよ。
それこそ余計なお世話というものですよね。
生意気ばかり言ってごめんなさい。
m2さんへ
コメントいただいたこととても驚いています!m2さんに当てはまることを書いたつもりは全くありませんでしたよ。
少し、誤解もありそうですがm2さんのお言葉に私が感じたことを書きます。
まず、女のび太が多数派女性と似て見えるというのは間違っていないと思います。似ているからこそ、問題視されないですからね。そして、平和は求めます。
ただ、似て見える事と同じである事とは違います。あなたが中心志向の無い、ADHDが女性の多数派と考えることは私にとって悲しいことです。
私もみなさん同様、多数派の中に存在することに違和感を感じてここにいるからです。あなたが人間関係において「女のび太は多数派女性と同じ」と言う事は、私が感じてきた苦しみを否定されるように感じます。
次に、誤解だと思っていることをお伝えします。
私は議論を止めるつもりはないんです。たとえば、ちょうどみさんが「コメントを読んでいる人たちのなかに不快を示す人もいるでしょう。そのことを今一度考えていただきたいものです。」とおっしゃっていますね。それと同じ意味です。
(不倫と言い合いを一緒にするなって言われそうですけどね。)
これをわざわざ言ったのは、みさんが”ここで言い合うのは先生の実験に必要なことで、みんなそれを求めている”と感じているのかなと思ったからです。(m2さんは気が悪くなっている人を理解しているようですね。ただ私は、みさんとm2さんの関係において現時点で問題があると思っていません。)
さて。議論することと攻撃することは違いますよね。思っていることを伝え合うことで理解するスタイルは、のび太にも実はしっくり来るスタイルです。
議論するなら議論するで、むやみに感情的な表現や意図は控えた方がいいと思います。それが私にとっての「平和」です。
なつもかさん
私はさーこさんへの自分の思っていることを、読み手を考えず書き込んでしまいました。すみませんでした。
たしかに、なつもかさんから「どんな理由があったかを説明していただく必要はありません。」といわれることはもっともなことですね。
私はこれまでの抑えていた気持ちを吐き出したかったのだと思います。ご迷惑をおかけしました。
さて、責任についての私の考え、Paul Carpenterさん宛の中に具体的なことを表現しました。「選択」とその「結果」について、ADHDには目先の「選択」に注力するところがあり、「結果」に無頓着なところがあります。結果を悔やむことがあります。それは「スイッチ切れ」だったり、「結果予測」の検討が難しかったりするからです。
それを人のせいにしてしまうことがあります。「自己正当化」です。何故それが起こるか、それは身体的に目に見える障害ではないからです。まして脳のある部分が活動していなくても、部分が正常にかつ亢進している状態であるからです。複雑なのですね。
ADHDの脳は「スイッチ切れ」だったり、「結果予測」の検討が難しかったりするけれども、社会は自分中心には動いてはいないということです。社会に生きている以上、どうであっても現実に即して検討していく必要があります。その意味での責任をともないます。
m2さん
>リアルの世界では多数派を立てる形での我慢していますので、ここの世界では納得行くまで議論させていただけませんか?
ありがとうございます。ただ、なつもかさんは私を攻撃しているわけではなく、話を聴いてくださる姿勢があり、私としてはありがたい存在です。
意見は食い違うけれども、おそらくm2さんと同じく、お話すれば違いをお互いに認められるのだと思います。
ここが社会適応している、あるいは頑張っている発達障害者のコメントの場、率直に話せる場としてあります。ありがたい場です。
m2さん、今はこれまでにしますが、少々考えをまとめてコメントしたく思います。
私は、さーこさんは個性に戻っていくところだと思いましたので手を振りまたねと書きました。このブログにいる人は自己責任(=個性?)はまだとれない人は多いと思うのです。それ自体はまた責められることでもないと。
paulさんの派手すぎる目標で思い出したのですが、昔私の幼なじみが、両親が仮面夫婦であることに悩み統合失調様になってしまいました。そして仮面を続行しようとした母親に心を開くことなく自死してしまいました。
他の離婚家庭の子らは新しい親に慣れることは出来にくくても離婚後はずっと健康でありましたよ。一番苦しいのは両親の喧嘩の場面だと言ってましたよ。
離れていても理解が成立していることが重要で、また理解は振り回されないために必要なのであって、あと娘にとって男性の信用度は父に依存するところがおおきいと思いますのでそのへんは上手くいきますように願っております。(ここから先は芦田先生か)
それにしても理解とは理解する側に負担がありますので意欲がいるし、理解される側は説明はいっぱいしなくちゃなりませんね。私は理解されたいという気持ちは元々殆ど無いんですよね。いつもただ理解したいだけで。
コメントが掲載されるのが早いということはそこに先生がいらっしゃる・・お世話になっております。感謝しております。
今度沖縄行きます。ジャイアン友人と・・
お会いするツアーでないので残念ですが・・
旅行費が学費を食いましたので悩んでいるところです。
いや、ええとですね。受動型ASのかたがのび太ADHDを理解しなくても私は全く悲しくもがっかりもしませんよ。コメント者様のなかで、一番少ない孤立型ASさんの次に少ないのがのび太ですし。何しろ人を必要としておりませんので・・
というわけでまだデータベースにのってないだけですので、なつもかさん始めのび太の皆さん、よろしくお願いします。
私は遠慮しときます
みさんへ
私の視点を汲んでいただけて、とてもうれしいです。ありがとうございます。いま、少ししあわせです(^^)
責任についてみさんは、paulさんに対して「不倫に関しては他人がどうこう言うことでもないでしょう。個人の選択は個人の選択です。」とおっしゃっていますね。私、これはとてもよく理解できるんです。
時にのび太派ADHDの自己突っ込みは、中心志向でないがために自分に対してとても鋭利です。ジャイアンのように一つ一つの問題は大きくなりませんが、全ての事に対して衝動や感情を理由に出来ません。のび太に「自己正当化」はできないと思うんです。
たとえ自己責任を取ったとしても、満たされる事なく容赦なく自己突っ込みが来ます。責任を取り他の視点から悔やみ、力及ばず責任を取れなかった事を悔やみといった具合です(まあでも半分くらい悔やみ忘れているでしょうけど)。
どうせ悔やむけれど、その中で自分のポジションをどこかに置かなければいけません。なので常に「個人の選択」を感じています。
さて、JETさんが「このブログにいる人は自己責任はまだとれない人は多いと思うのです。それ自体はまた責められることでもないと。」と書いておられます。(別にこれ「責任」に対するただの感想で、みさんに宛てているわけじゃないと思うんですけどね。)
私がみさんの「責任」という言葉に対して感じているものも同じようなもので「責任を取るのが下手(実際何をすれば責任を取ったと言えるのかわからない)」あるいは「責任を取る意味が分からない」という状態がありえると思うんです。理解は出来ないんですけど、存在すると思うんですよ。
そういう状態の人たちに対して責任を求めるというのは、ジャイアンから尊厳を取り上げるのとそう違わないんじゃないかな?って思うんです。
もちろん社会的に存在する上で責任という概念は必要だと思うんですけど、人によっては
・責任の必要性を感じる
・責任を取るということの具体的ふるまいを知る
・実践する
みたいなステップを踏まずに責任を取れと言われても、よくわからない気がします。
そう考えると「誰もが必ず責任をもって生きる」事を他人に求めるのは結構ハードルの高い事なんじゃないかなって思うんです。いかがでしょうか。
JETさんへ
そうなんですよね。孤立型ASさんとかのび太さん達にとって、ここでコメントする事ってそんなに必要性を感じられないと思うんですよ。主張したいこともないし。
あったとしても感想をぼそっと言うくらい。
ただちょっとADHD固有の事とジャイアン固有の事と一緒にされちゃうと、全然違うのになーなんて思ったりもして。
私にとって一連のコメントはのび太を代表しているわけでもなく(そもそもそんな集団を認識できないし)「私は違うよ」というぼやきと、ちょっと他人に関わってみるという、よく言えば挑戦、悪く言えば遊び心です。
私は別に誠実な人間ではありません。
夫とは別に好きな男がいました・・だから・・です。
人生の深く暗い闇の底で、私の傷んだ体を優しく包み込んでくれた人だと思った。私の体は大切のものだと思い出させてくれた。ソウルメイトに出会ったのだと思った。隣にいれば、空気の揺れさえ感じるようで、手が触れ合えば全身が痺れるようだった。苦しかった。たくさんたくさん泣いていた。
たくさんたくさん神様に問いかけた。
でも神様は沈黙したまま応えてはくれなかった。
だから私は、はすのはなさんがしたように、裏切られて傷ついた妻にたいして勝利宣言するような、傲慢で自己中心的な気持ちがうんざりするほどよくわかります。
夫のプリも自分の使用済みの白のレースの下着を、夫のカバンに忍ばせたりして・・と、イカレタことをしていました。そんな風にラリ中ってのはど~しょう~もない。もちろん自分も含めてです。
でも、必ず終わる。恋は人を乞う心、結ばれんとする心、結ばれたら終わるもの。そして「現実」と「生活」が覆いかぶさって季節が移り変わるように色あせた「かつて捨てたもの」が再び必ず立ち現れる。・・必ず。
・・・19、20じゃあるまいし、それがわからないほどのねんねなのか?バカ女。
・・・分別をつけろ・・・誰が一番傷つくんだ。
・・・なにが「俺が守ってやらなきゃ」だ・・泣いているのは、すえた匂いのする女じゃね~よ。バ~カ。
すみません・・・余計なおせっかいでした。
これはPaul Carpenterさんを利用した。私のひとりがたりです。
m2さん
>>どういう(否定的な)レスがついているか予想がつくだけに、まず、読むのが苦痛なんです。
>コメントを向けた相手からの批判は全く気にならないのですけど、外野からの批判は私も苦痛です。
私は逆です・・・
私は特定の相手に強く主張するとき、周りのことは気になりません。
周りから理解されないのはいつものことだし、どう判断するかは外野の勝手です。外野が眼中にないこともあります。
強く主張した結果、相手に受け入れてもらえることは、かなりあります。
>ジャイアンから見ると、多数派はどうせ理解できないのだから仕方ないとあきらめられるけど、受動型ASに自分を無視した言い方をされると我慢できないのでしょうか?
『出る杭』に見えるからではないでしょうか?
私はジャイアンってとにかく上下(優劣)にこだわる人じゃないかと感じてます。
(受動型ASに限らず、)相手が優秀すぎても劣等すぎても、癇に障るんじゃないかと。
(仕事や勉強の能力に限らず、立ち回りでも)
傍観者ベースののび太型ちいぺこです。
基本に
「皆バラバラゆえに全てはあり」だと思っているけど
空気は読めないので合理的な議論は大好き
というスタンスがあります。
傍観者の一意見ですが、
先程のみさんのコメントに爽快感を感じました!
分析にもすごく納得ができたし
誠意ある皆さんの冷静なコメントで
みさん自身が冷静さを取り戻し
それを自身を見つめ開示してくれた。
この変化をリアルに見せて頂けたことは
多くのこのサイトの傍観者にも
自分とバーチャルした時に
良いイメージが出来たと思います。
なんだかとりとめなく書きましたが
感動を素直に言いたくて…
ただの傍観者として勝手にこの有意義な感覚を頂いてしまうことに
ズルさを感じてしまって…
ひとこと
コメント者の皆さんありがとう‼
まずは多くの方々の心を傷つけ、ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。
>コメントをみて不快に思われた方、傷ついた方に改めてお詫び申し上げます。不倫は不倫。弁明はいたしません。ただ一つ言いたいのは、私達は親として四人の子供たちに出来る限りのことを精一杯やろうと決めています。
お伝えしたいのはそれだけだと。コメント欄は公けの場です。やはりある適度のマナーは必要だと感じています。
特に大切に感じてることについては。私は私達の関係を誰にでもわかってもらおうとは思いません。<
上ははすのはなからの伝言です。小生も同じ気持ちです。
本当に申し訳ありませんでした。
深くお詫びした上で。
JETさん。
>昔私の幼なじみが、両親が仮面夫婦であることに悩み統合失調様になってしまいました。そして仮面を続行しようとした母親に心を開くことなく自死してしまいました。<
小生は10年以上我慢しました。娘たちのために。この世から消えてしまいたい、死にたいと思ったこともあります。それができなかったのもひとつは娘たちのためでもあります。しかし自分を殺して生きていることが結果的に娘たちにも悪影響を及ぼしているとはっきりわかったとき、そばにはその人がいました。それだけのことです。
ちひろさん。
>これはPaul Carpenterさんを利用した。私のひとりがたりです。<
あなたを誠実な方だと評したのを全面撤回します。小生がお人よしの馬鹿でした。
言いたいことを言い放っておいて、最後に逃げるのはおやめなさい。それはあなたの人生そのものですか?
このブログは理解を超えた他者を理解し、自分も他者も幸せに近づくための貴重な場であるといつも思っています。
不倫という結果だけに目を奪われ、その過程、なぜそうなったのかを考えられない方々のお祭りの場所ではないとはっきり申し上げておきます。
小生もはすのはなも、自分のことをさらけ出してこのブログに集まる方々の何らかの参考になれば、と思っただけです。
もちろん今の苦しみから逃れたい、という甘えもあったでしょうが。それだけでは決してありません。
大切なものを平気で汚す人間は絶対に赦しません。それだけは言っておきます。
YANBARU先生ごめんなさい。
ちひろさん。
>・・・19、20じゃあるまいし、それがわからないほどのねんねなのか?バカ女。
・・・分別をつけろ・・・誰が一番傷つくんだ。
・・・なにが「俺が守ってやらなきゃ」だ・・泣いているのは、すえた匂いのする女じゃね~よ。バ~カ。<
わざわざありがとうございます。便利ですよこれ。
そのまんまあなたにお返ししますね。ご笑納くださいませ。
自分の言ったことにとことん責任とってくださいね。よろしくお願いいたします。
JETさん。
離婚もできず、苦しんだ上にこどもを残して自死を選んだ男の人たちを何人か知っております。
駅のホームで電車に飛び込んだ人、自宅の部屋で首をつった人、などなど。
そのうちのひとりは小生の同級生でした。
かつて同じ職場で働いたことがあり、「こいつはできる奴だ」といつも感心していました。
同じ人を好きになり、小生はもちろん完敗。でもこいつに負けたらしゃあない、彼女も幸せになれるだろうし、と思っていました。病棟の看護師さんでした。若いのに自分をしっかりともった素敵な方でした。
不倫という結果だけ見る人と。
その過程に目を向けたり、文字通り自分や家族を殺してしまうかもしれないと考えられる人と。
どちらも同じ人間のはずなのに。
自分の責任は棚上げしませんよ。丸投げもしません。
でもなんだかなあ。という気持ちにはなりますね。
まあ自分が一番悪いんでしょうけど。そんな後悔するような人生を選んでしまったこと自体がそもそもの始まりなのですからね。
ちなみに娘とは連絡を取り合い、もうすぐ移るちゃんとしたワンルームに招待するつもりです。
Paul Carpenter 様
大変申し訳ありませんが、「この人を守る」という行動に一切合理的な自己突っ込みが入らないという時点で私は完全に「別の依存先を見つけた」と見なします。
「依存先を守る取り巻き」の行動です。
「依存である、依存でしかない」と私は考えます。
私はこう考えていることをここでコメントする場合には
毎回わきまえて下さい。
3月30日 YANBARU
ちいぺこさん。
そうですね。小生とはすのはなのコメントがきっかけになったかどうかはわかりませんが、同じ気持ちです。
久しぶりにジャイアンの完全戦闘モードに入り、かえってみさんの少し前のコメント内容もさらに共感したりもしていますが。ただこのままで実社会生活に適応させることがよくないのは重々承知です。
>「選択」とその「結果」について、ADHDには目先の「選択」に注力するところがあり、「結果」に無頓着なところがあります。結果を悔やむことがあります。それは「スイッチ切れ」だったり、「結果予測」の検討が難しかったりするからです。<
>ここが社会適応している、あるいは頑張っている発達障害者のコメントの場、率直に話せる場としてあります。ありがたい場です。<
小生はみさんのこのあたりが好きです。
結果を悔やんではいませんが、選択に注力するあまり焦りすぎて、本来なら作らないですんだかもしれない余計な傷までつくってしまうことがあると思います。他者にも自分にも。
ただ。
自分以外は皆敵と感じていた人間が。
ただひとり、そうでない人間を見つけたとき。
その人を汚されたら自分のすべてをかけて反撃する。
そういうところです。
自己弁護でごめんなさい。
私が現実でお世話になっているお医者様は、当時の私の恋愛段階について、非常に慎重かつゆっくりと、一般的な論理と段階の踏み方だけど、と前置きしてお話してくださいました。診療の場でその一言があり、どうしても目をそらせなかった私は、考えあぐねて結果的に自分の行動にブレーキをかける事ができました。私は自分をこれ以上傷つける事無く、現実での家族や周囲の友人、関係者などからの援助と信頼を失う事無く生きてこれました。私は私のお医者様に、今でもとても感謝しております。
m2さん
コメントが遅くなり、すみませんでした。
気持ちの切り替えが苦手でして・・・。若干ハンター入っていました。ネコ科の動物みたいに仕留めるまでやるという傾向があるなぁと、今思います。人間に戻らなきゃ。皆さん、お騒がせしました。
>コメントを向けた相手からの批判は全く気にならないのですけど、外野からの批判は私も苦痛です。
私も外野からの批判は苦痛です。ADHDの場合、注意がそれてしまい、それまで思考していたことからそれて、違うことを考えるようになるからだと思います。
>多数派向けは、それなりにごまかす書き方をしますので、ジャイアンは納得しない、と。
私はごまかされると非常にはがゆくなります。はっきり言ってよ!となってしまいます。空気が読めない分、ごまかされると何をどうしていいのか混乱するのですね。
>結局、早く対応すれば楽なのに、多数派の空気を乱さないために、破綻するまで待つ、というのが抑制行動になります。
この空気を乱すのがジャイアン。待つことができずにイライラしてしまうのですね。多数派優位の中では変化を嫌い、「和」を大事にしますから、現状維持が続き、周囲の変化から取り残されてしまう結果になります。
こうして話していると、受動型ASさんたちは、普通に合わせながらもそれぞれに意見をもっていることがわかります。率直に話せる環境であると、それにもまた合わせることができる、というのは不思議ですね。
なつもかさん
>時にのび太派ADHDの自己突っ込みは、中心志向でないがために自分に対してとても鋭利です。
なるほど、たしかに注意欠陥の部分への鋭い突っ込みはあるのでしょうね。自己正当化するのはジャイアンですね。「個人の選択」を感じるのも、自分で突っ込み、自分で何とかしなければならないという宿命的なところがあるからといえますね。
>私がみさんの「責任」という言葉に対して感じているものも同じようなもので「責任を取るのが下手(実際何をすれば責任を取ったと言えるのかわからない)」あるいは「責任を取る意味が分からない」という状態がありえると思うんです。理解は出来ないんですけど、存在すると思うんですよ。
たしかにそうですね。養育環境において自分の失敗を親がフォローしてしまうケースであると、「責任を取る意味が分からない」という状態になるでしょうね。子どもの頃はよく失敗するのだけれども、自分で失敗を取り返すことを積み上げていくことで、責任を取ることができるようになるのだろうと思います。
私は子どもの頃、自分の失敗を自分で取り返すことを要求されました。よく母に「自分がやったことでしょ! 屁理屈を言うな!」と叱られましてね。泣きながらその失敗を取り返すことをしていました。尻拭いはされなかった。強迫的なのもそのように育ってきたからであると思っています。なつもかさんも尻拭いされなかったために、しっかりと責任が意識できるのだと思います。
ちいぺこさん
少々冷静さを欠いていましたね。過集中に入ってしまうと自己突っ込みが停止します。精進いたします。
あ、paulさん、仮面はよくないねという話だったんですよ。
お幸せに、は変わりありません。そして私の家で同じような事が起きたら私は父の(母の)ほんとの話を聞きたいと思うでしょうな。父の母の幸せを願っているゆえ・・。
ご家族様も新しい人生をお幸せに歩いてゆけますように、祈っておりまする。
なつもかさんに同意。ADHD固有のこととは何か。状況察知能力もスペクトラムではあるでしょうが、過去記事に探すことは出来ますね。YANBARU先生は分けて書いていますし。
合理型移行中、のび太、特にのび太ACさんにも同意。
長く書けない~
私と父との関係は最悪なところまではいってませんでしたから・・そう、わたしはねんねだったんです。夫と出会ったのは19才、男の人と付き合うのすら初めてでした。結婚したのは21、出産は22、そのまま専業主婦になりました。
夫は父の延長であり、無邪気に心の底から夫を信じていました。
夫の浮気が分かった時に私の世界の何かが外れたのでしょう。あっさりとほかの男を好きになり、そこで初めて男を好きになるということがどういう事かわかってしまったのです。それはもうすでに4番目の子供を中絶した後でした。
うまく整理して書けないので、結論だけですが、私は人を巻き込んで、「再現」させてしまいました。それがわかりました。申し訳ありませんでした。Paul Carpenter さん、そしてはすのはなさん。
・・・やんばる先生。すみませんでした。ご迷惑をかけました。そしてありがとうございました。
はじめまして。
広汎性発達障害と診断されて、一年半が過ぎました。
病院で検査はしてくれたもののサポートしてくれず
私は自己判断でいいか悪いかもわからず、精神分析をはじめました。
初めてから一年三ヶ月ほど過ぎました。
この間いろいろあり、10ヶ月を過ぎたあたりから依存が強く出てくるようになりました。
分析の際に、はっきりと私がACを抱えているのがわかりましたし
母親は当てにならないことも、はっきりわかりました。
依存は分析家にしていて、分析家はコントロールすべく
分析の約束の日以外は、重要な連絡以外のときは電話等に出てくれません。
「100%の甘えは子供のやること、大人なのだから甘えを頼るに変化させていこう」と言われます。
しかし、それでも電話したりメールしたりしてしまいます。
挙げ句の果てには、暴言まではいてしまいます。
100%の依存ではなく60%の依存にするにはどうしたらいいのでしょう。
皆様のお知恵を借りたいのです。
本気で困っています。
シングルマザーで、3人の子どもを見なきゃならないのに、それすらできなくなってしまう日もあります。
ラカンの「子ども時代は終った」を何度も繰り返し唱えて頑張っても
唱えるだけになってしまいます。
依存が生活基盤を壊しかねないものなんだと知り、自らを最近は恐ろしく感じています
携帯からです。
やんばる先生の貴重なご意見を噛み締めて、この二日間引っ越しの作業をしながら、はすのはなさんとも話し合いながら、いろいろと考えていました。
そう言えば、以前どなたかが小生の母親の問題はどうなったのか、というようなコメントをされていたのを思い出しました。
小生が母親に依存していたことは思い当たるふしがいくらでもあります。
そして別居した嫁とも。
さらにははすのはなさんとも。
彼女にはよく言われていました。何か違和感がある、何かしんどい時があると。
予定どおりしばらく一人暮らしをします。
このタイミングで、やんばる先生にあのご意見をいただいたことは、小生にとっても、彼女にとっても大きな意義があると信じています。
しかし同日に、小生も彼女も大好きなみさんがレッドカードを出されたのは残念でなりません。
やんばる先生は何千何万人ものみさんファンを敵に回してもああいうことができる。
さすがです。ライオンの調教師はそうでなくてはなりません。
いつかぎゃふんと言わせてやる、なんて思っても口には出しません。
ありがとうございました。
日向恵さん。
>100%の依存ではなく60%の依存にするにはどうしたらいいのでしょう。<
つい最近依存先を替えただけとYANBARU先生に指摘されたばかりのジャイアンADHD、ついでに依存型ジャイアンACとなってしまった者です。
よく知人に言われました「Paul Carpenterさんはゼロ百だからねえ」と。
本当に困ったものですよねえ。自分ではなかなか気づけないし。軌道修正も簡単ではないし。
小生は生き霊や皆さん方、先生に適宜アドバイスをいただきながら、ぼちぼちやっていくしかないんだろうなあ、と思っています。
別れた家族に感謝し、生き霊に感謝し、それぞれを支援しながらこれからひとりで生きていくことは前もって考えていたとおりなのですが、依存していないか、依存の程度は赦される範囲内なのかを常に考えながら、あえて自分に問いかけながら生きていくことは大切なんだろうなあ、と感じております。
とりとめのない文章であまりお役に立てそうにはありませんが……
>日向恵さん
私は草野球のおやじ程度のことしか書けないのですが・・。
広汎性発達障害と正式診断されているのなら、診断書もって、役所の福祉課にいって「子供3人抱えてシングルマザーになってしまい、途方に暮れている」と言えば、何かしらの支援が得れるのではないでしょうか。
そうすれば児童福祉課あたりは待ってましたとばかりに迎え入れてもらえるかも。日向恵さんご自身も、手帳もらえたり、年金もらえたり、ナマホゲットとか、障害者枠での就職とか、支援組織を紹介してもらえるとか・・と、いろいろ道が開けるかもしれないです。
ダメもとで行ってみたらどうでしょうか。
あ、でも暴言はダメですけどね( ̄▽ ̄;)
もし既にやられていたらすみませんm(_ _)m
(つづき)
そもそも私の夫は何者だったか。
これは付き合う前か後かわからないころの話です。
車で迎えにいくから駅で待っててと言われ、1時間ほど駅で待たされて、迎えに来た車で夫の自宅にいくと部屋に女性がいました。で、私の目の前でその女性にマッサージを頼み、その女性は夫の腰にまたがりマッサージをし始めました。
「・・・・・」←私
はい。すみません。夫は最初っからそんな人でした。
7またかけたことを自慢していた男の、その学校で3番目の彼女でした。夫の男友達に「かわいそ」って言われたり、
この間友達に誘われてイヤイヤお店に入ったけど、病気移されてないからねっ!ってなんか病院の検査の紙見せられたり。
そして・・バスの中で〇ェ〇を要求されて、無理やり頭押さえつけられてやらされたり・・それから・・・。
それでも夫を心の底から一点の曇りもなく「信頼」していました。浮気の発覚でヒビがはいっても「信頼」していました。
・・・そして愛人から送りつけられたパイププカット領収書を手にとったとき初めて自分に問いかけました。
「あれはDVだったのか?あれも、これも、・・すべて・・・?」
私の体は好きな男を思って熱くなっていた。同時にすべてを裏切っていた夫を憎悪していた。夫は背を向けて寝息を立てていた・・・夜。
(つづく・・よてい・・)
桜が散り始めています。
季節はずれの強風に晒されて。
桜はただ咲いている。
いい言葉だと思います。
人はただ生きている。
桜のように、たとえ短い生命であっても、短い生命だからこそ、毎日ただただ必死て、幸せになろうともがきながら生きていきたい。
ふとそんなことを感じました。
桜のように、凛として毅然として生命を全うすべく。
Paul Carpenterさんへ>
分析をはじめるまでは、自分が依存をしていて、しかも度が激しいということを知りませんでした。
分析家に「先生がいなきゃ困る」と口に出して、分析家から「それが依存というもので、あなたは100%と依存しようとしているんだよ」と教えてもらいました。
「中には100%の依存がなければ生きていけない人もいるけれど、あなたは違う。大丈夫わかるようになるよ」と言われてもひとつもわからず、
月曜日から3日間旅行に行っている先生に「私のこと嫌いになったのね!」と妄想を繰り広げました。
今日それが止まったのは、唯一依存できる友達と連絡が取れたからです。
でも、その友人には100%頼れません。
友達っていうのは、相手を潰しかねると何度も別の友達で失敗してきているため、完全には信頼できないんです。
それでも唯一の友人だし、親友だと思っています。
今、こうやって書いていてわかりました。
もしかすると、相手の立場を理解することはできないけれど、こんなふうにされたら辛いんだ、困るんだよと伝えてもらったりすると、ここから先は線を引いたほうがいいんだなって思えるかもしれません。
伝えてくれる相手なら、ですけど。
ちひろさんへ>
精神障害者手帳は、小学校2年生になる息子の不登校が終わって学校に行けるようになったら取得しようって話になっています。
私にとって手帳は、障害者枠で働くため以外に利用価値がないからです。
子ども家庭支援センターは、毎週子供の療育のために使わせてもらっています。
医師と学校や教育委員会との架け橋をしてくれていて、上手に説明できなくて、相手の言ってることも理解できない私に(口頭で言われると真っ白になってしまいます。特に学校)わかるように説明をしてもらっています。
それ以上の支援はありません。
満たされたい気持ちが満たされずにパニックを起こしたときに頼れるものは、一切ないのが現状です。
自分で気持ちを満たせるようにならなければ、今後もこのように困ることは目に見えてよくわかっています。
文字数が多すぎて・・・。
Paul Carpenterさん、ちひろさん、ありがとうございました。
他者の語らいによって引き出された私自身の他者によって、また新たな答えを導き出すことができたような気がします。
お二方がいなければ、線引きをしてもらえばいいとか、満たされていない気持ちよってパニックが起きているだとか、理解することは難しかったように思います。
助けていただき、ありがとうございました。
わかりやすく極論を言いますと。
小生の場合、一次障害が依存。自分ひとりでは何もできなかった。
二次障害が依存できないときに起こる甘え、悲しみ、怒り。
一次障害の依存は親や他者がこういうときにはこうしなさい、と何度も何度も繰り返し教えて自分ひとりの力で生きていけるように支援する。ただしここで本人がどの程度理解して自分の力にできるかは個人差がある。
でも一次障害が少しずつクリアできるようになると、それに伴う二次障害も減ってくる。要するに一次障害の依存をどこまで押さえ込めるかということになります。
人間というものは日常生活でも実は依存だらけ。蛇口をひねればお水が出る、ガスや電気でお湯も出る、お店に行けば食べるものや着るものが買える、遠いところに行くときは電車などに乗ればいい。それは他者に依存していることに他ならないことを意識していないだけ。顔の見えない多くの人たちのおかげ、その人たちに依存しているということに。
多数派は依存の仕方がうまいだけではないか。離婚したくてもできない知人が「子はかずがいだから」と言うが、それは配偶者やこどもに要領よく依存しているだけの話ではないのか。
「自分は変えられる。自分が変えたいと思うものに」好きな言葉です。かつて小生は周りの人たちが笑ったり喜んだりしているのを不思議な気持ちで眺めていました。しかし先ほどの言葉に触れて以来、努めて無理矢理にでも笑ったり、楽しむようにしてみました。するとどういうことか。最初のうち周りの人たちは「あんたなんでそんなにおもろいねん」というKY扱いでしたが、そのうち小生も程度がわかるようになり、今度は「あんたが楽しいとわたしたちももっと楽しくなる」と言ってくれるようになり、それがまた自分も楽しませ、自分の幸せに繋がるということを発見しました。
「自分自身に依存する」これが究極の生き方ではないか、と今思っています。自分が思いっきり依存できる、安心して依存できる自分自身に変えていけばいいのだと。
言うは易く行うは難し。でもこれが基本原則のような気がします。ひとりで生きて行かねばならない人間が、生きやすくするためには。
携帯からです。
日向恵さん。
〉もしかすると、相手の立場を理解することはできないけれど、こんなふうにされたら辛いんだ、困るんだよと伝えてもらったりすると、ここから先は線を引いたほうがいいんだなって思えるかもしれません。
伝えてくれる相手なら、ですけど。〈
伝えてくれる人がきっといますよ。小生は何十年もかけてやっと巡り会えましたが。
大事なことは。
日向恵さんもご自身がどういう時に辛くなるのか、しんどいのかをはっきりと相手に伝えましょう。
まあたいていの場合、喧嘩になりますけどね。
喧嘩したあとすぐに仲直りすればいいだけのこと。
そんなことができる人がきっとみつかると思います。
そのためにも、ご自身に安心して依存できるよう、日向恵さんご自身を変えていかねばならないと思います。
何でもいいですから、できることから少しずつ変えていけばいいんじゃないですか。
こどもさんにおはよう、おかえり、おやすみ、と必ずきちんと言うとか、一緒にいただきます、ごちそうさま、ときちんと言うとか。簡単なことから始めましょう。そんなこと当たり前にできとるわ、ならごめんなさい、
はじめまして。ADHDです。
依存の関して色々議論されてますね。
正直見ていて面白いです。
僕が思うADHDの世界は本当に一人で生きてる
世界なんだと思うんです。
定型の人格的におかしくない人達は相手の中に人格を
見出すことができてますよね。自分はどうか?と振り返った
時、相手のことなど何一つ理解できていない。
そんな自分にぶちあたるんです。
ADHDも本当に成長すれば、相手のなかに人格を見出すことができる
んだろうか。そんな疑問を持ちます。
例えば黒柳徹子さん。ADHDだと思われる彼女はあれだけいろんな人
と出会ってる。家庭環境も良くもう70近い彼女は相手の中に人格を見出せてるんだろうか。
相手の中に人格を見出せないのに例えば家族をもっても恋人をもっても
それは自分にとっての必要性のための家族であり恋人にしかならないんじゃないかとふと思うんです。愛の前提条件はその対象の理解っていいますよね。
Paul Carpenterさんのおっしゃる自分に依存する生き方。
これは自律的な生き方ですよね。本来ADHDは自律的な人間だといわれますよね。それは結局他人を理解できなく、本当の意味で仲間っていう存在を得ることが感覚的にできないから結果的に自律的になるんじゃないかとそんな気がするんです。僕の知っているADHDの人達は皆確かに自律的です。彼らの共通項は(たぶん)家庭環境が良かったということです。
もう一つ。
ADHDが例えば恋人や子供を守ることができるのか。
僕は無理だと思うんです。ADHDが何かを守ろうとしたとき
そのなかには何か恣意的なものエゴイスティックなものが隠され
てると思うんです。
母なる証明という韓国映画を最近みました。
この映画にでてくる母親は子供を溺愛します。
子供が何かされると、その相手にくってかかったりします。
そんな関係の母子が最後どうなったか。子が人を殺してしまうんです。
それを知ったこの子供を保護し溺愛した母親はどうしたと思いますか?
子供の殺人を知った人を殺すんです。
本当に子供を愛する母親はこんなことはしません。
きっと罪を償いなさいっていうでしょうね。
これは何を示唆してるのか。僕はこう思うんです。
この母親は子供を守ってるんでなく、自分のナルシシズムのための子供を
守ってるだけだと。結局何がいいたいかというと、この母親は子供を守ってるんでなくて自分を守ってるんです。
守るっていうのは相手の心を守ることですよね。
だからADHDに他人を守ることは不可能だと思うんです。
もと(つ?)さん>
見解すごくおもしろかったです。私もADHDです。
恋人という概念については私も思考ともに試行錯誤中です。
恋人という存在を一つの概念として考えている自体、ずれてるんだろうなぁと痛感します。
親という立場で子供を守れるかと考えたところ守るという概念も難しくてよくわかりませんでしたが、子供に対して思うことは[尊重したい] と、強く思います。
はじめまして、ADHD(自己診断)で子育て中の母親です。
「ADHDが他人を守れるか」という話題、なんとも興味深いです。
私自身、子育て中(乳幼児期)に何度か「子供を守らなければならない場面」に遭遇していますが、母親的な「本能で守る」という芸当は私にはできませんでした。特に瞬間的に身体が動いて子供を守る、というのは一度も出来たためしがありません。。
(….これってのび太でトロいからかもしれませんが…。)
子供な危険に遭遇したとき、心のどこかで「この状況を招いた行動の結果を自分自身で体験するがいいよ」と、子供に過剰な責任を押し付けようとしていたという感覚があります。
「それで怪我をしても自分(子供)の責任だし、それで心が折れたとしても自分の責任ですよ」と。
この理論ってその瞬間はまっとうな考えだと思っちゃうんですが、あとできちんと考えると完全に親の責任の放棄ですよね。
「子供が傷つくと私も痛い」というような他人との同化感覚(もつさんのおっしゃる人格の理解)が全くないことが根本的な原因かな、と思っています。
そういえば、いつだったか夫に「子供が大怪我してもそれってその子の責任だともうから。」と言って「なにそれ怖い」と引かれました。。
たしかに文字にして客観的に見ると、怖いというか責任感なさすぎな発言ですね。。
「心を守る」という守り方は、今の子供の能力を把握して、負える責任の範囲と親が負うべき責任の範囲を把握して、そのなかで子供の成長に必要な「少し高いハードルのみ残す」。しかし致命的な傷は避けるようにする、と 私の場合は頭で考えてからでないと実行に移せないので、あらかじめ想定しておく、などしていないとうまくいきません。とっさの判断では、守り方が0(子供に責任丸投げ)か100(危ないことはやらせない)になってしまいがちです。
ちなみに ちょっとずれますが 夫や子供に依存先としての愛着を感じることはあっても、「愛」をかんじることはあまりないです。
ただ、それでも毎日幸せではあります。
のび太のACと合理的ADHDの間くらいのちいぺこです。
私も依存についてのコメントを読んでいて
わが娘の受動型ASとADHDの依存型の違いがよくわからなくなってきました。
私ももとさんと同じで人付き合いは超ドライなようです。
これも真逆の娘と付き合うことでそう認識するようになりました。
基本みんなバラバラの世界を生きているので100%理解するなんてありえない。
わからなくて当然。
だからこそ全ては自分と同じように尊重されるべきだ
と思っています。
受動型ASの娘は、超ドライな私を相手に
私を取り込もうと日々私の気を引くことをしたり
ベタベタ甘えてきたり…
正直うんざりだし、娘にもそういうのは嫌いだ、理解出来ないと
はっきり言ってしまいますが、その度に娘は納得出来ず少々荒れつつ、
でも全くこりもせず、すぐに自分はこうなのだといつも通り甘えてきます。
もう中学2年になりますが、やっと最近になりやんばる先生のおかげで娘のことを頭で理解出来るようになり、また年齢のおかげもあり互いが冷静に話せるようになって今までで1番平穏な関係になれていると思います。
娘はドライな私に不安を感じるようで、よく「好き?」と聞いてきますが
「正直すごい好きな時と怒らされたりした時は嫌いと思うわ」
「でも大切だけは変わらない」
と言っています。全ては正直に。
娘とは世界観も真逆なくらい違いますし、全てはちぐはぐですし、
イライラもしますが、
世界中で自分の命にかえられるのは娘だけだと思います。
これはやっぱり本能、遺伝子の成せる技なんだと思います。
先ほど、分析家に自ら枠を決めると言ってきました。
「分析の日以外は、先生とは連絡を取らない。分析日は十分に依存してOK」
こういう枠に自分でしました。
先生は自分からは言いません、私から線を引くしかないんです。
今、ものすごく苦しいかというとそうではないです。
先生から「よく言った」というメッセージをもらったので、むしろ清々しいぐらいです。
実際に出来るのかどうかはわかりませんが・・・。
子供を守る、ですが、そもそも子供は守るべき存在ですか?
実際問題、やっぱり守りきれません。
だから、話を聞くでしか対応できないんですよね。
話を聞いても共感できない、でも、子供は話を聞いてもらっただけで共感を得てたりすると思います。
言葉=他者です。
他者にすることによって、それだけで次への道が開けると考えれば、子供はあえて守るべきものではないと思います。
転んだことは、痛いということを知るということだし
人間関係で辛いことがあった、その辛さは次へのステップです。
私はそれでいいと思います。
人間関係は守りに入ったら、ダメなんじゃないのかなぁ・・・と、勝手に想像していますが。
言葉が理解できる、言葉が使える相手なら
子供も大人も言葉にすることで、わかるようになったり、わかってもらえたりします。
どんな言葉を使ったら理解してもらえるかは、人によって違いすぎるので何とも言えませんが、言葉にしない限り心の問題は終わりません。
だから、話すことがとにかく大事なんだと思っています。
(我が家の真ん中の子は、言葉がありません。通じる言葉が少なすぎて、言語での表現は難しくできていません。それでも、抱くとか、遊ぶとかで気持ちを伝えることはできてます。もう少し大きくなると言葉が通じるんだけど・・・な)
日向さん
子供を守るということですが、僕自身子供が出来たら
たぶん日向さんと同じように実際守ってあげることなんて
できないでしょうね。
そんな子供の細かな感情まで察知できないであろう自分がいます。
僕は定型の優しい母親を持っていました。だから守られるという
感覚はわかります。母子一体感てやつでしょうか。やっぱり小さな子供
は母親に守ってもらいたいんじゃないでしょうか。
例えば転んで怪我をして痛い思いをしている、そんな時痛かったねと
母に心を守られると元気になるもんだと僕なんかは思います。
僕は人の優しさを感じれる環境がそこにあったので尚更自分を
振り返ったとき、よきパパにはなれんだろなと思うんです。
たぶん僕自身結婚して子供を産む条件はパートナーに優しい定型の人で
なければ子供はしんどいだろなって気がします。
ADHDが親としてできることは、子供の金銭的な援助と子供の人生の
邪魔をしないことぐらいな気がするんです。
でも本当は子供は親の愛と理解と信頼を求めるもんだと僕は思うんです。
記事の内容から逸れるかもしれませんm(__)m
>そもそも「100とゼロしかない」という極端さがASの一次障害の根本であるのだが、ADHDの場合の「最低限」というのが、ASの場合は「ほどほどに」という考え方になるのだろうと私は考える。
以前、強迫性障害が酷かった頃M田療法の本を読み漁っていたのですが、やはり「ほどほど・6割という考え」が良いとのことでした。
自分の場合は(限界が無いからか)「100%」の概念すら曖昧で、一体どの辺りが60%(6割)か分からず、当時理屈っぽく考え過ぎていたことを思い出しました(汗)
「最低限」って抽象的な言い方だけど、妙に納得できますね。(そこまで長時間手を洗わなくても生きていけるでしょ!みたいな)
ASの人は「100%が何なのか」明確なイメージがあるので、「60%を目指す」という言い方になるのかなと思いました。
以上、感想でした。
記事に関係無い話ですみません。
(つづき)
事務所用ワンルームマンション購入は私から提案したことです。別居も私から「でていけ」といいました。でもそれはそうメールで一回送っただけなんですけど( ̄▽ ̄;)
さらによくよく考えると、この件で夫に直接問い詰めたのは一回だけ、
私「浮気してるでしょ」
夫「してないよっ!」
・・・・おわり。
それから4~5回一方的にメールを送りつけただけだということ。
家庭のなかの夫の立場は仕事が超いそがしくて家に帰って来れないで100%通用してること。子供達にとって、おとうさんは誕生日には父主催のゲーム大会を必ず開いてくれる人、クリスマスはオープンでチキンを焼いてくれたり、家に返ってきたらいつも手の込んだおいしい夕食をつくってくれてる人であるということ・・それから・・。
結局一番の問題は7また男の浮気じゃなくて、私の不倫だったんだ。プラどころか、ろくに話しかけることもできなかったけど←(断固主張)
ようやくそれを受け入れることができそうです。
ある偶然がきっかけになって、離れた。これを逃したら、一生離れられないと思ったから無理やり離れた。(それは「依存先を変えようとした」ということだと思います)
そして、期待した場所で「拒絶」され(←むろん私の心の中だけの動きですが・・)ヒステリーを起こしてしまった・・・。
・・・私の空白のページが、やっと埋まりした。
もつさんへ>
適切な言葉で返すことが母子信頼感なんです。
だから、その場その場に応じた言葉を返すということが、そう言う意味では護なのでは?
ただ、普段接していてその場その場に応じた適切な言葉がわかりません。
叫ばれた時点でパニックになります。
末っ子の4歳の子供が転んで痛かったねっていうのはできます。
でも、10歳の長女の「私が頑張ってるのにどうしてほかの兄弟は頑張らないのよ!」に、適切な言葉はわかりません。
人が人に対して感じる感情に対する対処の仕方がまるきりわかりません。
人と人とが関わる時に生まれる諍いが、彼らの心をたくさん傷つけていることはよくわかります。
そこに寄り添うことができないんです。
家庭内のいざこざなら特に余計にです。
もし、これが一人っ子だったら、3人も兄弟がいなければ何とかなっていたかもしれないけど
3人もいるので、みんなそれぞれの感情があり、それが渦巻いていてどれをとったら一番平和に収まるかとか、わかりません。
今も、親の仕事を勝手にやり、兄弟が手伝ってくれないという長女の不満が起きました。
私はその不満の原因は親の仕事を勝手にやった長女にあると思いました。
でも、それを(約束を破ってしまったので恥ずかしいですが)先生に聞いたら、先生は「長女にはお母さんは手伝うけど兄弟には強制できない」という言い方で返してきました。
もっともですよね。
この先生の一言の盲点は、私はどうしても手伝って欲しくなかったという気持ちには一切触れてないことです。
絶対に不満が起きるし、私の親としてやるべきことをやってない事を受け止めなければならないから、どうしてもやって欲しくなかったのです。
しかし、親ならば親としてやるべきことをやってない事を受け止め、子供のやったことを褒めようということなので
先生が言うことは、私自身の気持ちなんかまるきり無視した言葉で、親になったら自分の気持ちは一番最後にしなさいっていうふうに言われています。
親はそれだけしんどいものなのだそうです。
日向さん
適切な言葉を選択するのはADHDには難しいですよね。
コミュニケーションてなんぞや?ってよく考えるんですが、
たぶん言葉の奥にある相手の感情とか心をとかそういったものを
察知した上で言葉を選ぶことなんだろなってなんとなく理解してます。
でもADHDには(僕だけかもしらんけど)それが難しい。
僕の定型とADHDのディスコミュニケーションは言葉に対する捉え方なんやと思ってます。言葉そのままを捉えるADHDと言葉に内包される諸要素を含めた全体で捉える定型という感じでしょうか。
だから子供からADHDの親を見たとき、もっとこの言葉の奥にある動機や心を見てよ!っていう不満を抱くんじゃないかと…
子供にとっては寂しさを抱くんだろうなという気 がします。
日向さん、はじめまして。
ひょっとすると、親として完璧でなくてはならない、あるいは、親はこうあるべき、と自分をどこかで縛っていませんか。
>私の親としてやるべきことをやってない事を受け止めなければならないから
この発想は、「完璧であるべき」または「こうあるべき」という考え方が根っこにあって、はじめて出てくるものです。自縛するから苦しくなっているのかもしれません。
柔らかく生きている人は、自縛していません。俺も、自縛する縄を少しずつ解きほぐせるようになってから、固さがとれ、苦しさが薄れるようになってきました。
「あるべき」と自縛する考え方がどこからきているのか、そこを解きほぐしてはいかがでしょうか。
もうひとつ。
>適切な言葉で返すことが母子信頼感なんです。
これは、日向さんご自身が言葉にとても重きを置いているからこその発想です。
言葉を出さなくても、適切な態度で返すことでも、また信頼関係が構築されるものですよ。母子間でいれば、例えば何も言わずに子を抱きしめるだけでも、信頼感が生まれるものです。
ありきたりの言葉かもしれませんが、何かあったら、言葉に頼らず、いちどお子さんを抱きしめてあげると、何かが変わってくるかもしれません。
日向 恵 さん
いい娘さんですよね。
まず、お母さんが娘さんを肯定してあげてくださいよ。
一般論で考えて、娘さんには全く問題は無いじゃないですか。
あなたの言動から、ジャイアンであると仮定すると、今究極の選択をしなければいけない時期のような気がします。
①自分が超人のように頑張るなり、再婚(結婚)するなりして、親が子育てに責任を持つ
②自分一人では子育てに限界がある、と割り切って、お子さんに自立を求める
どちらもありだと思いますが、今の中途半端な状況では、娘さんに悪影響を与えそうで気になります。
①を選ぶなら、態度で見せれば娘さんは理解すると思われます。
お母さんが処理しきれないのであれば、自分達が生き残るために娘さんが仕事をするのは当然のことです。
これを否定されたいのであれば、具体的に行動で示すしかありません。
今の状態ですと、②を選ぶ方が自然と思います。
ご自身はお父さんの役割に専念し、娘さんにお母さんの役割をしてもらうのが自然かと。
この場合は、下のお子さんに自分の事情を話して、自分のことは自分でやってもらうことにする、という形になるでしょう。
たぶん、娘さんは過酷な環境におかれているわけで、もう精神的には立派な大人になっていると思います。
相手を大人とみなして、相談してみるのもいいかもしれません。
下のお子さん2人の面倒は自分で見る、くらいのことはいいそうに思います。そこまでの覚悟は持てず、再婚(結婚)してって言うかもしれませんね。
>日向 恵さん
分析の先生も、一番大切に思っているのは子供たちのことなのでしょう。ですから、子供たちに不適切な関わりをしたと判断したら、注意を促すのだと思います。それを受け止めるのが母親の責任・・・依存できない40%の部分です。
分析の先生が、手帳の取得はお子さんの不登校が治ってからだと言っているのもそのためたと思われます。先生は、お子さんが健全な状態でなければ、就労許可を出さず、たとえば生活保護の受給もありえると考えているのではないのでしょうか。それほど育児を重要としているのです。
「親になったら自分の気持ちは一番最後にしなさい」という言葉は、先生も一定の責任を引き受けた上での「重い」言葉だと思います。
もしかしたら「『どうしても手伝って欲しくなかったという気持』がコントロールできなくて、ツライ」と相談すれば、先生も受けて止めて、なにか良いアイディアをだしてくれたかもしれません(^^;)
書き忘れました。
我が家の子供たちは、とても穏やかです。
私が不適切な対応をした時のみ、トラブルが起きます。
明星大学の星山麻木先生によくお会いしますが
受容されて育った子は、大概穏やかでとても可愛いと言っています。
同じ自閉症のお子さんでも、受容が足りなかった子は手を焼いて困るのだそうです。
活発で、よくお喋りをして困らせることが多くても
「とても可愛らしいお子さんですよね」って、星山先生に言われるほど
我が家の子どもたちは、周囲から「人懐こく、お手伝いも良くするお子さん」と見られています。
子どもは鏡です。
子どもが穏やかでうまくいっているということは、親もそういうふうにうまく対処できているという事を指します。
みなさまがどう取るかは知りませんが、
時折起こすパニックと、上手な対処法を知らないということと
でも、それをきちんとサポートしてもらえれば、発達障害者でも子育ては可能だと思っています。
>日向 恵さん
明星大学・・・あのモノレールに乗っていく山の上にある学校は知ってます。新校舎ができたばかりで、綺麗ですよね。社会の喧騒から離れ、自然に囲まれた学びの庭の教育学部教授、その先生に優しい言葉をかけてもらえるなんて、羨ましいかぎりです。
きっとそれは日向 恵さんが自身の力で呼び寄せたものだと感じるので、きっとすてきなお母さんなんだろうなと思ってます。
五歳の娘はACになりました。話す内容は2カ月ほど前までは自信に満ちあふれていて「私はかわいいから、みんながかわいがってくれる」と言ってたのに、今は「どうせ私はダメだから、みんな私のことが嫌いなんだ」と、一転してネガティブなことばかり言っています。フラッシュバックが見えると言っていたのは移行期だったようです。
「母親が笑顔でない時は全て怒っている」と勘違いしていて、けがをしたり、失敗したりすると「お母さんにしかられるから」と、自分だけに話し、妻には秘密にするようになってしまいました。妻の顔はもともと眉毛がつり上がって怒っているような形をしているだけで、いつも怒っているわけじゃないんだけどなー。まー自分から見ても、いつも怒っているような顔に見えるので仕方がないか。同じように見えているんだろうな。二次障害による認識の歪みが影響していると思います。自分と妻に対する態度を変えるようになりました。
それを知った妻が大きなショックを受けて、また少しおかしくなり始めているので、ちょっと目が離せない状態です。寝言で暴言を吐くようになりました。前におかしくなった時は、暴言だけでなく寝ながら壁を殴ったりして暴れるので、隣で寝ている子どもが危険でよく避難させました。多分、子どもは好きではないけれど、必要とはされたいんじゃないかな、と思う。孤立する時間だけでなく、愛着とのトラブルがパニックの引き金になりそうです。
子どもの方は逆に扱いやすくなり、寝る時は一人では寝られないんだけど風呂も一人で入って、着替えも自分で用意するようになり、飛躍的に自立しました。やり方に口を出すと怒ります。複雑な心境です(^^;)
保育園では、いじめっ子に一切反撃できないので、毎日、仲間はずれ、嫌がらせを受けているようで、当園拒否を繰り返しています。反撃の仕方を教えても、恥ずかしくてできないそうです。受動的な自己ツッコミのようなものがあるか、分かりやすく尋ねたところ、あるそうで、「恥ずかしい」という表現は、ツッコミによって行動を抑制された時に感じた気持ちを表現しているようです。先天的なものみたいです。
結局、自分と同じ道をたどるのか。受動型の子をどうやって育てればACにならないのか、さっぱり分からないです。
ぬまおさん
ぬまおさん、ちょっとナーバスになりすぎてませんか?
>受動型ASの二次障害は、親がひどい暴君型ジャイアンで虐待されたり、ひどい依存型ジャイアンで突然居なくなったりする不安の中で育つなどした場合
確かに奥様は感情的になるところはあるでしょうが、上記のような環境ではないですよね?
ぬまおさんはお子さんに対してきちんと目をかけているようだし、「自立」を促しながら「(気にすることはないよと)フォロー」してあげれば大丈夫じゃないかな?
奥様がお子さんを虐待するようなら、別居も考えた方が良いかもしれませんが。
あと、保育園でのことは保育士さんに相談するのも良いかもしれませんね。(あまりに一次障害の症状が激しい時は、保育士さんから受診を勧められることもあるそうです)
ちなみに、受動弟はやっぱりACじゃないみたいですね。(私や母がADHDということもあり、情緒面でのフォローが足らずに情緒障害にはなってしまったのでしょうけど)
一次障害の「ゼロ百思考」がほとんど見られません。
道産子さん
ちょっと孤立型がうらやましくなってナーバスになってたかも(笑)受動型と孤立型は似ているけど、真似できない。
受動弟は高校を中退して彼女と同棲した後、就職して結婚したんですよね。それで現在は、ACを抜けて仕事を頑張っているんでしたっけ?
ACが親によって日々作り続けられるものだとしたら、もしかしたら、受動型のACは親と離れるだけでACから抜けられるかもしれないです。自分の場合は特異なケースかもしれないと、今、思いました。
ぬまおさん
うちの受動弟はACではないですね。
大丈夫そうです。
虐待したり、突然居なくなるような親ではなかったし、このエントリーの説明にほとんど当てはまらないので。(ちなみに、受動弟は高卒&未婚です)
確かに幼い頃から家に居ることは少なかったのですが、私に対して(イタズラしたりちょっかいかけたりと)しつこいところもあったので「全く依存心をさらけ出せない環境」ではなかったですね。(不満はあったでしょうけど)
ところで少し気になったのですが…
>五歳の娘はACになりました。話す内容は2カ月ほど前までは自信に満ちあふれていて「私はかわいいから、みんながかわいがってくれる」と言ってたのに、今は「どうせ私はダメだから、みんな私のことが嫌いなんだ」と、一転してネガティブなことばかり言っています。
「私は可愛いから皆可愛がってくれる(自信に満ち溢れている)」と、「どうせ私はダメだから皆から嫌われる(ネガティブ)」という考え方は、ACというより「ASの一次障害からくる両極端な(ゼロ百・白黒)思考」であるような気がするんですが…
受動型ASは多少ACがある方が社会生活に適応出来るというようなことを以前やんばる先生が書かれていたような気がします。
うちの娘は私への愛着が凄くて、ADHDの私には正直付き合いきれません。
やはり既にちょっとAC気味だと思いますが、やんばる先生の見解を信じてあくまでADHDの私らしく愛情表現することで、自分の中でACに対する整合性を持たせている感じです。
自分は子供に育ててもらっている。
共に成長している。
これでいいと思っています。
(続きです)
一見すると自己評価が下がってますが、元々の「基準が高過ぎる」ため、ささいなことでも評価が「極端に下がりやすい」のではないかと思います。
まだ五歳ということもあり、特性が強く出やすいのでしょうね。(人見知りも多いです)
あと個人的な意見なのですが、「自信に満ち溢れている状態が当たり前」っていうのは、ASにとって「100%の満足感(を得ることで安心する状態)が当たり前」ということになりますよね?
私としては、お子さんが自信に満ち溢れたまま成長すると、「(ADHDで言う)傲慢な暴君ジャイアン」のようになるのでは?と不安になってしまいますね。
(隣のエントリーの黒たまごさんの知人の話を読んで思ったのですが)100%の依存が表面化した受動型ASって、(依存相手の前で)全く衝動を我慢しない暴君ジャイアンに似てるのでは?と思いました。
まぁ、私の考えすぎなら良いのですが(^_^;)
どうやらASの場合は、ADHDと違って「自己評価が下がるイコールAC」という訳ではないみたいです。
「とても複雑で微妙なんだな」というのが正直な気持ちですね。
ちいぺこさん
僕も前受動型ASの恋人がいたので執着性のしんどさはわかります・・・恋人だと切れるけど子供だと切るわけにもいかないので、どうしてるんだろ。笑
なんとなく僕自身おもうんですが、ADHD親が子供に依存しなければ子供はそれほどACにはならないような。
というのも僕のおばさんが普通のADHDで子供は上からADHD定型定型なんですが僕の知る限り皆元気です。あ・・・でも一番上のADHDの子は受験の時理Ⅲに入るために死にも狂いで勉強した挙げ句精神的に病んだらしいんですが、それが親との関係性もあるのかどうかは謎ですが。
旦那さんが定型でフォローがあったから皆それほど精神的に逸脱せずにすんだのかもとか今思い返しみて思います。
私の妹がADHDのACだと思います。父親が死んですぐ20年以上治らなかった自己免疫疾患が一気に治り、自分の体との付き合い方が分かった、もう病気にはならないと豪語していました。好きなことをして生き生きしています。旅行に行こうとよく誘われます。。。私は最近父が人格障害を伴うアスペルガーとわかり、つきものがとれたようです。。母は解離障害を起こしているようなのですが、いい年ですので、このままでいいのかなと・・様子を見ています。私以外の3人は家の中のことをどのように考えていたのか・・・・よく集団ヒステリー状態になっいました。他人事のようですが、思い出すとゾーとします。
上記コメントに自死した幼なじみの話を書きましたが、この子は孤立型ASがベースにあったように思います。多数派でなくADHDでもない。中心志向は無いし待ち受けでもない。ジブリのアニメなど好きでした。住宅街を歩くのが好きで、安定感が良い、などと言っていました。「JETちゃんは心の中に入ってこないからいい・・」とか。(たぶん入れないだけ)「JETちゃんは独りで楽しめていいね・・」とか。実家が嫌で20歳になると自ら一人暮らしを始めたのですが、その頃はまだ大丈夫でした。その後彼氏が出来て、バランスを崩したのはそれからです。この子とは高校から進路が別れ、たまにしか会わなくなったのだけど、服薬しているのを彼氏に聞くまで私は気付かなかった。何で気付かないの、と不思議がられたけど、彼氏が出来て明るくなったのだろうと思ってたのです。実にKY。
多数派っぽい彼氏であったが別れてしまいました。薬がきれた時一晩一緒にいたことがあったが、実家や彼氏のことを、仲良く暮らしたいだけなのだと訴えて悶え暴れながら朝まで言っていました。JETの目がこわいとか・・。だが実家に戻るしかなかったのです。入院もしてたようだけど思い出せません。外でトラブルになったりすると警察が実家でなく私や私の母に保護を求めてきたりしました。私の母は、この子の家族を差し置いては何も出来ないという考えでしたが・・私もこの子との接触はやめて欲しいと言われれば引き下がるしかなく・・
(続き)
この子が元気な頃言っていた「JETちゃんとはいつ会っても(何年会わなくても)続きが出来るね」というのは、私の記憶とか時間認知がおかしいことを言っていたのだろうと思うんですが、
もう続きは出来ないと分ってはいるが出来るような気がしてしまう不思議。
道産子さん
>「私は可愛いから皆可愛がってくれる(自信に満ち溢れている)」と、「どうせ私はダメだから皆から嫌われる(ネガティブ)」という考え方は、ACというより「ASの一次障害からくる両極端な(ゼロ百・白黒)思考」であるような気がするんですが…
そういうことなのかな?あんまり気にしないようにするか。
>自信に満ち溢れたまま成長すると、「(ADHDで言う)傲慢な暴君ジャイアン」のようになるのでは?
人を暴力で制圧する方法を身につけたら、なるかもしれないです。だけど、それを身につける前に、ボコボコにいじめられるような気もします(笑)
ちいぺこさん
>受動型ASは多少ACがある方が社会生活に適応出来るというようなことを以前やんばる先生が書かれていたような気がします。
自分もそうだったし、そうかもしれないですね。気にせずに育児をがんばります。
>自分は子供に育ててもらっている。
共に成長している。
これでいいと思っています。
なかなか、そうは思えないところが悲しい。まだ、そのレベルに達する日は遠そうです(^^;)
携帯からです。
>自分は子供に育ててもらっている。
共に成長している。
これでいいと思っています。
共に成長していく貴重な機会を自ら捨てた者にとっては大変重い、一生背負うベキ十字架のような言葉です。
でも後悔はしておりません。
考えに考えた挙句、選んだ道ですからね。
もちろん子どもたちの幸せも考えた上です。
またイエローカード来るかな〜
職場にいた女性は、女性全員の名前をそんなに仲良くなくても愛称で呼び、話し方や雰囲気は参考になりそうな女性のものを吸収しちゃんと使いこなしていて、とても板に付いているというか付きすぎていたぐらいでした。・・が・・たまに本当の自分を出してしまい、周りの人がパニックになっている状況を何度も見かけました。。。なんであの人に説教されないといけないのか・・と怒っている姿でした。
(最大データ越えたのでこちらに)
ぬまおさん
そうですね、ハッキリ言って貰った方が分かりやすいです。(自分で嫌味等の非言語表現用いても、人から言われた時は分からないことが多いです。時間が経ってから気付くことはありますが)
「塗り絵」の話なのですが、私の場合(少なくとも幼稚園の時は)完璧に塗れなかったから破り捨てるということはしなかったですね。
例えば、上手く塗れないことを友達にからかわれて腹が立ってその場で破り捨てるということならあり得ますが。(人に見られなければのびのびお絵描きしてたので)
あとは「ジャイアン」とも「受動型」ともとれますね。
ぬまおさんの奥様は「外では完璧」で自己評価も下がってなさそうなので、ジャイアンACではなさそうです。
ただ「内と外の違い」はありそう。
ちなみに、受動型同士だったら非言語的なやり取り(スキンシップやアイコンタクト等)が多くなると思うけど、どうかな?
対ジャイアンだと相手が一方的に使うことはあっても、ASからの非言語表現には気付かないでスルーしたり、逆に真に受けて答えてしまうことが多いです。(ただ、KYジャイアンとKY受動型は似てるので判別が難しいですね)
ぬまおさん
あとお子さまの話ですが、「ゼロ百が強く、ほどほど加減を身に付けないまま大人になると、愛着との間で問題を起こしやすい」ということなのでしょうね。
何でもかんでも要求を通すのは考え物ですが、構ってあげるのは良いことだと思いますよ♪(^-^)
道産子さん
最近会った受動型っぽい二人の友達に確認したところ、二人共、受動型で間違いなかったみたいです。だけど、自分に発達障害があるなんて全く思っていないです。自分もそうでしたが(笑)受動型同士は一切、気を遣いません。受動突っ込みも働かないです。どういうわけか、初めて会った時から波長が合って喧嘩にもなりません。依存型ジャイアンと見られる人も、あんまり気を遣わないんだけど、言い争いになるケースが結構あります。受動型とは、ちょっと考え方が違うみたいです。
非言語的なやり取り(スキンシップやアイコンタクト等)は妻とはできません。通じないです。スキンシップは子どもが出来てから嫌がります。
妻は注意欠陥と多動がない依存型ジャイアン(情緒障害型)で、後輩は注意欠陥があるKYの受動型という感じで、わけがわからないです(^^;)
依存型ジャイアンとKY受動型の一部が孤立型じゃないかと、最近、思いはじめているところです。
>何でもかんでも要求を通すのは考え物ですが、構ってあげるのは良いことだと思いますよ
ものすごい構ってます。家でパソコンができないのは、子どもがパソコンの電源を切って、遊ぼうと大騒ぎするためです(笑)
>「いったんは普通に合わせることを止める」というプロセスが必要になる。
そうなんですよね。
外に出る機会が多いとどうしても普通に合わせてしまおうとしてしまうことも...
今は体調を崩して家にいることが増えたので精神的には良好です。
外に出てもマイペースでいられるようにですね。
それと合わせ技で「天然のフリ」
でも「天然」だと人に馬鹿にされるんですよね
馬鹿にされても怒らないという境地にまで達しないと...
>受動型ASのテーマは「諦め」
ホント諦めてほしいです。
「私に何も期待しないでくれ~」と何度も言っています。
私も変な人だけど身近なASは自分が変だと思ってなくてメジャーだと思っているから難しい。
テレビ番組でやっている一般の人への質問で一番多い答えを当てるクイズ
自信満々でこれに決まってると答えを断言
私の意見をこき下ろしたりする
そして結構間違う
私はその度に「でしょ~あなたの考え変なのに~」とあなたは普通じゃないのよとチクチク言ったりしています。
「俺は完全なメジャーではないなぁ...」と気がついてくれたらいいなぁ
ぬまおさん
難しいですね…塗り絵のお話ではASっぽいと思ったんですが、ジャイアンでも当てはまりそう。
ASかADHDかだけでも分かれば、ある程度対処の仕方が見えてくるのに…(でもぬまおさん、奥様に対して場当たり的に対処されるそうなので、必要なかったかな。また私のお節介だったかも)
ただ、「内と外の違い」があることや、ぬまおさんに完璧を求めており「自分から人を必要としない」訳ではないので、孤立型はやっぱり違うようですね。
きっと孤立型なら「人は人、自分は自分」と割り切り、相手に完璧を求めることはないと思います。(こだわりの範囲内で我慢できるという特徴も見られないかな?)
ゼロ百も強そうです。
それと、受動突っ込み(AS流の衝動統制?)のお話、とても面白かったです!
受動型も依存型ジャイアンも、依存的な部分が似ているため、お互いに相手を「コントロール」しようとして衝突するのかもしれませんね。
それで依存型ジャイアンはASと間違われやすいんだ…理解が深まりました、納得です♪
道産子さん
道産子さんのコメントに、お節介だとか思ったことはないんで、言ってくれるとありがたいです。道産子さんは勘違いも多いけど、それ以上に鋭い視点を持っていると思います。
妻が自分に完璧を求めるのは、「自分ルール(こだわり)」を愛着である自分に対しても適用していて、妻自身も「自分ルール」を完璧に守るために我慢もしているため、自分を完璧な人間であると感じているのではないかな、と考えていました。
自分に対して依存しているのかどうかもよく分からないです。単純に家事と育児の分担を自分ルールに従って強制しているだけのような感じもします。ゼロ百は強そうですね。本格的に嫌われたら、即、離婚することになりそうだ。損得で行動しないだけにやっかいです。
依存型ジャイアンと受動型が同じ空間にいたら、ほとんど見分けがつかないと思います。受動型が仲間だと思って近づいてくることも多いでしょ(笑)
道産子さん
妻の「自分が好きな相手からは必要とされたい」に該当することがありました。自分は一人暮らしが長かったので料理はある程度できるんだけど、今はやらないようにしています。
自分が料理をすると、「私はこの家に必要ないね」ということを必ず言い出して、せっかく作っても食べなかったりする。自分の方が料理がうまいので、子どもにせがまれてチャーハンとか作る時もあるけど、「お母さんのよりうまい」とか言うので、冷や冷やします(^^;)
ぬまおさん。
小生は同居期間中、料理や家事のことについつい口出しをして、あるいは自分でやってしまって、嫁と気まずくなったことが何度もあります。
亡くなった母親ならこうだったのに、ということを無意識に口走っていた感はあります。
これも依存の一形態だったのか、と今になって思います。
母親に対しても、嫁に対しても。
ぬまおさん
ぬまおさんのご説明や奥様の言動を一つ一つ追っていくと、おそらく受動型(KYかな)かジャイアンだと思います。
以前、他のエントリーでも話しましたが、受動型はKYでも「ボロを出さない抜け目なさ」があり、基本的に受け身で相手の出方を伺うところはぬまおさんと同じです。
対してジャイアンは他者を感じないので「周囲のことなどお構い無し」のKYな部分がすぐに出ます。(分からないだけで本人に悪気は無いんですが、顰蹙は買い易いかも)
あと、隣のエントリーから…
>②意味の説明がAS的な一義的なものだけとなり、他の意味はあり得ないという頑なさ
二人共、自分が理解しているルールを社会一般のルールとして人に適用する
これはもしかしたら「普通へのこだわり」かも。
奥様にはどう言ったものがありますか?
>③愛着の対象に対する支配的な考え方(相手の意思や偶然・突発的変化を想定できない)
後輩は人妻へのストーカー。妻は自分に対して完璧な夫を求める。仕事の影響による予定変更などお構いなし。付き合っている時は一方的な行動が目立ちました。
「完璧な夫(彼)」というのは、例えばどう言ったことを奥様に要求されますか?
(続きです)
>妻が自分に完璧を求めるのは、「自分ルール(こだわり)」を愛着である自分に対しても適用していて、妻自身も「自分ルール」を完璧に守るために我慢もしているため、自分を完璧な人間であると感じているのではないかな、と考えていました。
「ASのこだわり」っぽいですね。
ジャイアンも身内に対して支配的になることがあるけど、奥様の場合は「首尾一貫したこだわり」かもしれませんね。
嶺往無識さん
自分では「卑怯な人間」だと思っていたため、嶺往無識さんに「ミス」と受け取って貰えたことは、ある意味「運が良かったから」かもしれません(笑)
卑怯だと思いつつ嶺往無識さんの方を止めたのは「あなたなら分かってくれるはず」と思ったからで、決してミスでは無かったのですが…
いずれにせよ、お騒がせして申し訳ありませんでしたm(__)m
道産子さん
情報が増えれば依存型ジャイアンか、KYの受動型か分かるかもしれないですね。判別お願いします。
>奥様にはどう言ったものがありますか?
自分は友達と会うために月に1、2回、夜、子どもを寝かしつけてから出掛けることがあるんだけど、「何で、そんなに友達と会う必要があるの?友達なんて年に1回も会えば十分でしょ」と言って、毎回、不機嫌になる。
妻の友達が「近くを通り掛ったから」と言ってお土産を持って家に立ち寄ると、「調子が悪いから」と言って顔も出さない。近くに住んでいる従兄弟が、ふらっと家に立ち寄った時も「いつ来るか必ず電話をしてから来て」と追い返した。帰った後、「連絡もしないで家に来るのは常識がない」と怒っていた。
家に帰る前に毎日必ず「帰るコール」をしないと激怒する。電話をしたからといって食事の支度をしているわけでもなく、帰ってから支度を始める。
妻はパートの給料を全部小遣いにしていて、生活費は全て自分の給料から出しているんだけど、いつでも同じ仕事を持つ立場として自分と対等な主張をして、子どもの調子が悪いから会社を休んでくれと頼んだりすると「私の仕事はどうでもいいってわけ?」と怒り出すことも。
時間や予定の直前の変更については、どんな理由があってもダメです。だけど、数日前に言うとOKです。経験上、二日前までは許容範囲みたいです。
帰宅時間は早くても遅くてもダメです。毎日同じ時間に帰ってくると問題が起きません。調整してます。
子供と遊ぶのはダメです。遊んでいると見られて不機嫌になります。家事をやった後に子どもと遊ぶのはOKです。
食事は40分以内に食べ終わらないと片付け始めます。子どもに対しても例外はないです。
ほかにも細かいものも含めると、たくさんのルールというかこだわりがあります。本当に細かいです。何でそんなところにこだわるの?と感じることがいっぱいあります。自分が得するようなこだわりが一つもないところが分かりにくくしています。
つづき
>「完璧な夫(彼)」というのは、例えばどう言ったことを奥様に要求されますか?
口で言ってくれれば簡単に分かるんだけど、「分かっているはず」と思っているらしく、絶対に要求してきません。聞いても「何も要求することはない」と言って教えてくれないし。対応を失敗すると不適応行動が出るだけです。不適応行動が出たら、それをやめるという対応をしていったところ、子どもの世話(朝は全部、夜は帰ってから寝るまで)、家事(洗い流し、洗濯)を自分が担当することになりました。これで落ち着いているので、これがルールだったみたいです。
やってほしいことを紙に書き出してくれれば対応も楽なんだけどねー
以前の不適応行動はひどかったけど、最近の不適応行動は部屋にこもって出て来ない、一言も口をきかない程度です。
Paul Carpenterさん
妻にはかなり気を使っています。一度、狂ったところを見ると怖くて何も言えないな。どっちが依存してるんでしょう?
ぬまおさん
判りましたよ(^-^)/
これだけ詳しく奥様の特徴を挙げて下されば、もう間違い無いですね。
「KYの受動型AS」です。
全く非言語表現が伝わらず、ジャイアンのような荒っぽさがありますよね。(「KYの受動型」参照)
でも損得利益優先のジャイアンは、そこまで細かくこだわりません。
奥様がご自身のこだわりをぬまおさんに強要するのは、ぬまおさんに「愛着」があるからですよ。
>「自分が人を必要とする度合」と「人が自分を必要とする度合」がイコールだと一番気が楽な感じがあります。(隣のアメジストさんのコメントより)
きっと奥様もこんな気持ちなのでしょうが「求めすぎる」のかな。
ぬまおさんがお友達に会いに行ったり、お子さんと遊ぶ時に奥様の機嫌が悪くなるのは「嫉妬(焼きもち)」が理由でしょうね。(ちなみに、奥様がお子さんに愛着が無い場合、激しいぬまおさん争奪戦に発展しそうで先が恐いですが…)
>口で言ってくれれば簡単に分かるんだけど、「分かっているはず」と思っているらしく、絶対に要求してきません。聞いても「何も要求することはない」と言って教えてくれないし。
知り合いのKY受動型もこんな感じです。
(続きです)
近い相手に対して「言わなくても分かって欲しい」という甘え?のような気持ちなんですかね…知り合いも突然怒り出すことがあるのですが、私には通じないせいか、すぐに機嫌直して話し掛けて来ますよ。
ただ、AS同士だとそうはいかないのかもしれませんねf(^_^;
ちなみに、KYの受動型ASについて。
KYだからか「首尾一貫したこだわり」や「臨機応変な対応ができない」といったASらしい特徴が結構分かりやすいです。
仲間意識が強く友達思い(といっても積極奇異のように愛着に尽くさず、むしろ高圧的)なのですが、嫌いな相手には露骨に敵意を剥き出しにし、喜怒哀楽が激しいという印象がありますね。(最初はジャイアンだと思ってました)
ぬまおさんも受動型なので「100%奥様の言いなり」ということはないでしょうが、あまり奥様の要求を飲み続けると、かえってエスカレートしてぬまおさんの負担が増す一方かもしれません。
(友達と遊びに行くなど)適度にストレス発散して下さいね♪
しかし、受動型AS同士のカップルっているんですね〜
(内で)衝突しやすいイメージがあるので、あり得ないだろうと思ってました。
携帯からです。
ぬまおさん。
同居中に小生が嫁に手を上げたことはありませんでしたが、嫁に小生が突き飛ばされたことはありました。こどもの態度に腹を立てた小生の暴言に対して。
受動型ASでACがかった、外ヅラは大変よい人でした。
小生と共依存できないことを悟り、こどもと共依存を始めたのは見るに耐えなかったです。
まあそこでいきなり家を出て行く旦那もどうよ、ということはありますけどね。
ぬまおさんの奥さまと私が似てる気がする・・。ちょっと自分のこと書いてみます。
①200キロほど離れた場所から車で義母がおみやげたっぷりもって家に来たのに居留守つかった。
「この日は不在である」と伝えたのに「家の前におみやげおいて事務所に泊まるから~」と、義母が訪問してきたためです。電話があった日から当日まで家に入れるか否か悩むはめになり、3日前からパートを休んだのに、家事ができなくなり、一時間前から部屋の隅で固まって((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルしていました。義母は荷物を家の前に置いた後、鍵をかけたドアを開けようとガシャガシャとし、いなくなったのかなと思ったら15分ほどしてまたドアを開けようとしてガシャガシャ・・。
ちなみに、この件に関して夫はかなり理解をしてくれてます。あの時も、義母と買い物をしたりして訪問時間をできるだけ遅くしたりしてくれました。
以前は義母つれて家に着く10分前にメールするから脱出してと言われ、メール貰ってベランダから外にでたことさえあります・・m( __ __ ;;)m
②不審者だと思ってインターフォンに出なかったら、、学校に行くと言って無断欠席を続けていた息子の担任の先生だった。(* ̄□ ̄*;
③夫が帰るコールしない日はありません「いま最寄り駅だけどビールいる?」って電話があります。・・・なぜかな?( ̄▽ ̄;)
④息子の彼女が家に遊びにくるのだけれど・・あ、それよりこの前、息子の彼女が家に泊まったのだけど、私が出した条件は「(いつものように)私と顔を合わせないなら良い」
ちなにみこの件で娘からうちはラブホじゃね~っ!!!とクレームがきました。
⑤リア医との会話
ちひろ
「(夫が免許をもっているのに車を所有してない理由は)めずらしく車で出かけようとした時に、バッテリーが切れていたっ!!こんな役に立たないものはいらなっい!!と思って売り払いました(`Δ´)!ゼッタイゼッタイユルセナイ!!!」
リア医
「・・それいつの話?」
ちひろ
「え~と。15年以上前です。」
・・いまさらだけど・・私ってやっぱASだったんだ(T^T)
道産子さん
ありがとうございます。おかげで、正しいかどうか分からないけど自分なりに納得のいく答えが出ました。妻が依存型ジャイアンでないことが分かれば、後輩と妻は同じ型であると一括りにした考え方ができます。自分が受動型で間違いない場合、KYの受動型=孤立型と考えれば違いを説明できるような気がします。とりあえずの結論です。
まず、自分と妻は見た目の行動がほとんど変わりません。外に出ている時は表面的には受動型にしか見えないんですけど、内面では全く違う状況になっています。自分は「普通に合わせる」なんてことは、実は一度もやったことがありません。それはできないからです。親に対して普通に見せていたのは、親に合わせていただけの話です。自分は人に合わせ続けているので、どこへ行ってもその場にいる人達には普通っぽく見られているだけだと思います。
不良仲間といても、よさこいやサッカーの仲間といても、特に目立たない存在になります。その場に集まる人に応じた形での普通の状態に見えているからだと思います。書き込みでは分からないと思うけど、人と対面した時には声の高低や話すスピードも相手によって少しずつ変えています。
自分も、親への反抗的な態度はACだった子どもの頃にはありましたが、高校時代には親と問題なく対応していたし、今は全くありません。今になっては、なんで親に反抗していたかもよく分からないので、親への反抗というのは一次障害ではなく、ACによる認知と行動のゆがみによるものか、ただの反抗期かもしれません。自分の子どもが最近激しく反抗するのでそう思いました。普段おとなしいだけに反抗的な態度が目立つだけかもしれません。
普通に合わせるということは、まずは自分の中に普通の基準がなければ、できることではありません。どこへ行っても人に合わせる自分には、普通という基準はなく、集団によって価値観が違うので、そもそも何を基準に皆が普通と言っているのかすら、実はよく分かっていない状態です。
人に「普通と違う」と言われても、「そうかもね」と思うだけで、反論する理由にもなりません。その場にいる人に合わせているわけだから、当然、ある程度の空気は読めていると思います。
つづき
後輩と妻には頭の中に明確な普通の基準があるため、人の考えや空気を読まなくても、自分の中にある普通の基準に沿って動くことで、普通っぽく見えているんじゃないかと思います。だから、突発的な変化に対応できないんだと思う。だけど、完全な普通の基準を持っている人などいるわけがないので、周囲の空気と微妙にずれていきます。
妻の場合、基準が一般のルールに近いものがあるため、天然とか言われるだけで済んでいるけど、後輩の場合は基準が一般とはかなり違うため、ACを抜けてからは誰もが認める「変人」になってしまいました。
それまでは自分と比べてもほとんど見分けがつかない感じで、たまに切れるのが気になるくらい。自分で考えたおかしな教義を基準に取り入れてしまったことが失敗の原因かもしれません。普通じゃないと言われたら、自分の基準にある全てを否定されたと感じて反応するのではないでしょうか。
妻は「外では我慢しているけど、家では我慢できない」と言っています。「普通に合わせたことはない」とハッキリ言っていますが、我慢することで普通に見えるレベルまで、こだわりが抑えられていると言えます。
妻は自分のことを完璧で、自分以外の全ての人が自分より能力が低く見えるというけど、表面的にしか物事を見ていないように感じます。妻は常識だと信じている世界観を自分以外の人にも当てはめ、「常識がない行動ばかりする」と捉えて怒っているんじゃないでしょうか。
自分は妻が出産後、産後うつだと単純に思って特に対応をしていなかった時期は、日増しに衝動が激しくなり、三カ月で狂ってしまいました。その後も、家の壁を殴って穴をあけたり、包丁を振り回して流し台を切りつけたり(かなり深い傷が残ってます)、携帯電話を真っ二つに折り、毎日、悲鳴や唸り声をあげ、「クソやろう」「死んじまえ」と叫ぶ。壁に頭を打ち付けたり、自分の頭を思いっきり殴ってこぶだらけになり、いなくなったと思うと風呂場やトイレにうずくまっていたりと大変なことになってしまいました。なるべく自分が見ていないところでやっていたけど、非言語アピールだったのかな。
つづき
色々な対応をしたけど、一番効果的だったのが孤立する時間を作ることで、本人も「外界と遮断すれば怒りが収まる」と言っており、「子どもが生まれるまで一人の時間がとれないことはなかったので、特に必要だと感じたことはなかったけど、ないとおかしくなる」と言っています。KYの受動型=孤立型じゃなかったとしても、KYの受動型の精神が不安定になったら外界と遮断する時間を作ってあげることは効果があると思います。
妻と後輩にもう一つ、自分とは違う大きな特徴があります。自分は基本的に人に聞く時は自分の情報も出すべきだと考えているので、自分のことなら何でもぺらぺらと話してしまうんだけど、この二人は、とにかく秘密が多いです。愛着以外には絶対に、人格をうかがえるような核心に触れる内容、本当の気持ちなどを隠します。
かなり工夫して遠回しに聞かないと、警戒されて質問には「分からない」「忘れた」と言って答えないです。後輩とプライベートの昔話ができるようになるまで友達になって5年かかりました。妻は元彼との破局原因や複雑な家庭環境など秘密の話を、4年近く付き合って結婚が決まるまで一切話しませんでした。今でも隠していることがあるかもしれません。そこら辺は隙のなさを感じるところです。
ちひろさん
妻とちょっと違う感じはするけど、似ているところもありますねー。妻に「帰るコール」をしろと言われたことは一度もありません。ただ、「帰ってくる時間が分からない」といってブチ切れることが何度もあったので、自発的に始めました(^^;)
Paul Carqenterさん
状況によっては自分でも突き飛ばすぐらいのことはするかもしれませんねー。妻も外面はとてもいいです。自分は妻に「どこへ行っても変わらないね」とよく言われます。基本的には、どこへ行っても人に合わせています。
ぬまおさん
ぬまおさんの場合は、「場当たり的に対応すること」が「普通へのこだわり」なのかもしれませんね。
一つのスタイルとして身に付いてるのかなって気がします。
あと、KYの受動型ASは間違いなさそうですが、どうも奥様は「ASのAC」じゃないかって気もしますね。
ぬまおさんに対し「100%の依存」が表面化してるように思えますが…ちょっとそこまでは断定できないですm(__)m
まあ、今は落ち着いてるとのことなので、結婚や妊娠等の変化が重なってストレスから問題行動を起こしてたのかもしれません。
>やってほしいことを紙に書き出してくれれば対応も楽なんだけどねー
お互い「受け身」な者同士、意外と奥様も同じことを考えてるかもしれませんね。
ぬまおさんに仕切って欲しかったのかも。
非言語についてですが、KY受動型知り合いも使いますよ。
ただ、読み間違えておかしなフォローを入れたり、(ジャイアンのように)露骨に睨み付けたりといった感じです。(相手からの非言語アピールは気付かないか、気付いても分からないみたいです)
奥様の方は、このまま「予定調和」な日々さえ続けば問題なさそうですね(^-^)
ぬまおさんほんとのび太みたいですねぇ!
おっどろきー。
ぬまおさん、一ヶ所訂正です。
>ぬまおさんの場合は、「場当たり的に対応すること」が「普通へのこだわり」なのかもしれませんね。
これは普通へのこだわりではなく、一人ひとりの相手ごとに行動が異なるなど、「個別的で細部を重視する」受動型ASの特徴からでした。
あと、ぬまおさんに対して真面目に答えるのはこれで最後にしま〜す(^-^)/
m2さん
私は利用するのもされるのも平気ですよ。
以前、みさんに対し「利用されたくない」と言ったのは、「彼女が私をコントロールすることで衝動を達成しようとしてる」と判断したためです。
ADHDが他者をコントロールして自分の欲求を満たすのは「依存」であり、そのための「利用」は勘弁ですね。
私と悠々とさんの違いもそこじゃないかな?
「自分自身で衝動をコントロールできるか否か」
これに尽きるかと思います。
私は子供の頃から我慢強い性格でしたが、「AC的」に必要以上に我慢し過ぎて自分が分からなくなり、自己評価も下がる一方でした。
実は今でも、ジャイアンが妬み・嫉みを感じる場面で「死にたい・消えたい」という気持ちになることがあるので、まだACが残ってるのかもしれませんね…f(^_^;
道産子さん
なんだか、いろいろと助言してもらってありがとう。途中から質問の答えが総括みたいな形になってしまって会話になってなかったですね。ごめんなさいm(_ _)m。道産子さんを利用しようとは考えてないんで、勘違いしないでね!道産子さんには感謝しかないですよ。
途中から考えるのも書くのも疲れてしまって、終わりに急いでしまった感じがします。とりあえず、妻や後輩のことについて考えるのはここで終わりにしたいな、と思っているところです。昨日はネットに10分くらいしかアクセスできなかったので、道産子さんへの返事が後になってしまいました。
>KYの受動型ASは間違いなさそうですが、どうも奥様は「ASのAC」じゃないかって気もしますね。
ぬまおさんに対し「100%の依存」が表面化してるように思えますが…ちょっとそこまでは断定できないですm(__)m
まあ、今は落ち着いてるとのことなので、結婚や妊娠等の変化が重なってストレスから問題行動を起こしてたのかもしれません。
ACはないと思います。いつでも自分に自信を持った発言をしています。やっぱり、結婚、引越し、妊娠、同居が同時に起きたので、環境の変化による影響は大きかったと思います。「100%の依存」が表面化は、あるかもしれないですねー。自分に対して我慢できないということは、甘えや依存でしかないと思います。
ただ、狂って寝込んでしまった場合の自分の負担を考えると、現状の合わせ続ける対応しか選択肢がないと思う。何も言わないので言いなりにもなれないんだけど、言いなりになってた方が楽だなー。妻のこだわりに適応する範囲内で、どれだけ楽しいことが出来るか挑戦しているところです!
>お互い「受け身」な者同士、意外と奥様も同じことを考えてるかもしれませんね。
ぬまおさんに仕切って欲しかったのかも。
基本的に家族の行動は妻が自分の都合で決めます。たまに自分がなんかやろうとすると、「私はやりたくない」と言って断ってくるので、妻はあまり受け身ではないです。一言で言えばわがままです。自分が子供や友達と遊んでいることに対する嫉妬心もあると思います。一緒に遊んでくれれば一番いいんだけど、自分の友達と会うのは嫌みたいなんで困ります。
つづき
>非言語についてですが、KY受動型知り合いも使いますよ。
ただ、読み間違えておかしなフォローを入れたり、(ジャイアンのように)露骨に睨み付けたりといった感じです。(相手からの非言語アピールは気付かないか、気付いても分からないみたいです)
表情がものすごく怖い時が妻にも後輩にもたまにあります。子どもも怖がってて、あれは獲物を狙う肉食動物の目だな。自分からは非言語が通じないからやらないんだけど、たまに全く意図しないところで非言語メッセージを勘違いして受け取り、急に怒り出したり、謝ってきたりするので困惑してます。
>奥様の方は、このまま「予定調和」な日々さえ続けば問題なさそうですね(^-^)
子どもが少なくとも中学生になるまでは、現状を維持していくしかないと思っています。子どもが虐待される心配がなくなったら何かしらの対策を考えていく予定です。今は余計なことをすると危険な感じがします。
なんだか、ADHDの三分類を見ていると、孤立型=依存型ジャイアン、受動型=のび太、積極異奇型=中心志向型ジャイアンと、特徴が対になっているような気がしてきます。
道産子さんが「死にたい・消えたい」という気持ちになるのは、たぶんACのせいでしょうね。自分もAC時代にはよく、そんな気持ちになりました。行動力がなかったから良かったけど(笑)。コメントを見る限りでは、社会に溶け込んでそれほど対人関係に問題なく生活できるタイプのように感じるので、早くACが抜けるといいですね。
>「自分自身で衝動をコントロールできるか否か」
これに尽きるかと思います。
確かにそうなんでしょうけど、ジャイアンが自分自身でこの域に達するのは不可能なように思えます。
みさんの時の話に戻りますけど、受動型ASがADHDの演技をするのはできるのですが、ADHDがASの演技をするのは無理だと思うのですよ。
ただ、ネイティブの性格とACの性格を使いわけることだけはできるように思えます。
だいたい、この2つを使い分けられれば、大半の場合はうまく行くとは思うのです。
ジャイアンがAC→回復の道を歩むことが多いのは、意味があると思うのです。ACの経験を積むことに意味があるのではないか?
>利用するのもされるのも平気ですよ
受動型ASは別スレに詳細は書きますが、利用されるのは平気だけど、見返りは求めると思います。
道産娘さんは、昔から利用されるのは平気でしたか?
ジャイアンはもともとは利用される事は我慢できないように思えるのです。ただ、現実適応する方法として、受動型AS風の見返りがあれば利用されても平気、と妥協できる、のではないかと思ってます。
何人か、人間関係が急にうまくいくようになった女性ジャイアンを見ていますが、ある一瞬を見ると、私のやり方をコピーしているようにしか見えないのですよね。
>まだACが残ってるのかもしれませんね
だから、適度にACが残るくらいが一番良いのではないか? と考えています。完全になくなっちゃうと使い分けできなくなっちゃうから。
道産娘さんは適度にACが残っているように思えます。
ただ、私がACにならなかったのと同様に、頭抜けた才能を持つジャイアンはACにならなくても適応できますね。
大将にしかなれませんけど。
ぬまおさん
誤解されてるようですが、別に怒ってる訳じゃないんですよ。
「また空気読まずに真面目に答えちゃったな…」って後悔してたんです。
すみません、不器用な性格なので聞かれたことには真面目に考えて答えちゃうんですよね(汗)
ちなみに、のび太ADHDのことは私もよく知らないので、「自称のび太」の方々に聞いてくださいねm(__)m
ぬまおさん、ご心配ありがとうございます(^人^)
私は「褒められて調子に乗るどころか、全力で謙遜する(苦笑)」タイプの中心志向型で、まだ「迷惑をかけても平気でいられる」境地には達しておりませんが、少しずつ改善して行ければ良いなと思います。
ぬまおさんも、(育児や家事を)頑張りすぎて身体壊さないよう気を付けてね(^-^)
(改めて自己分析してみようと思います)
「のび太と依存」のエントリーを読んで思ったのですが、「人を見る」のはジャイアン軍の特徴であって、これはもちろん「合理的強迫的ジャイアン」にも当てはまりますよね。
無理してのび太型のように「人は人、自分は自分」と気にしないよう振る舞ったところで、気になってしまうのは仕方の無いことなんですよね。
…と言うことは、みさんに楯突いたのはジャイアンの攻撃性が原因ではなく、ただ単に「人を見ていた」からだったのかΣ(-∀-;)
中心志向型にしては、以前のように妬みや嫉みの感情が強くないし、ACにしては、自己主張し過ぎる気がするので、やっぱり「合理的強迫的ジャイアン」だったのかなと思いました。
どうやら難しく考えすぎていたようですね。
今現在自己評価が下がっているのは、「先延ばし」が原因のようです。
大袈裟に「死にたい」とか言ってしまって恥ずかしいですが、今でも「つい他人と比べてしまい、自分が劣っていると感じる」ことがあるので、完全回復ではありませんね。
まずは先延ばしの部分を改善させないと…
m2さん
ADHDがASの演技をしたところで、すぐにボロが出てしまうでしょうね。
自分ではきちんとしていたつもりですが、周囲には全然違うように見られていたかもしれません。
利用についてですが、「頼み事」なら自分ができる(責任の取れる)範囲でされるのは構いません。
ただ、一方的に利用され続けるのは抵抗がありますね。(断れば良いだけの話ですが)
残念ながら「ネイティブの性格とACの性格を使い分ける」という芸当はできないですね。
せいぜい「(素の部分を)ACで覆い隠す」ことぐらいですかね。
もしくは依存型ジャイアンのように「自己評価が下がっているように見せる(いや、演じる?)」か。
ADHDの場合、完全にACを治してジャイアンの部分を出してから、合理的に衝動統制することが必要になりますが、m2さんの言う「ACの性格」とは、この「合理的な衝動統制」のことを指すのかなと思います。
ASの方は多少自己評価が下がっても病的と捉える必要がないのかもしれませんが、ADHDは単純で思い込みの激しい生き物なのか、私の場合は一度自己評価が下がると「自分はダメな人間だから周囲に合わせなければならない」という気持ちになりやすいですね。
(続・自己分析)
幼少期は「石が悪い」発想や「中心志向」があり、ジャイアンの基本性格そのものでした。
中学の頃に情緒障害から回復し「ジャイアン的な誇大(被害)妄想」に悩まされてACになりましたが、「適応に強迫的」という感じではなく、褒められても全力で謙遜して他人からの注目を避けたり、妬みや嫉みを感じる場面で(相手に対し心から喜べない)自分をダメな人間だと感じたり、また「表面的な評価」にもこだわっていたので、これは中心志向型由来のACかな?と思いました。(自己評価は低下してました)
二十歳を過ぎた辺りから少しずつ自信を取り戻し、ACからは回復しつつあったのですが、再び「ジャイアンの攻撃性」の部分が表面化して先延ばしの鬱・無気力状態で悩んでいたところ、このブログに出会いました。
「合理的思考」についてはまだ基準が高すぎるような気がするし、攻撃性も若干残ってますが、「最低限の適応」を目指して頑張ろうと思います。
ただ、「言い訳のスキル」だけは思春期の頃から磨いてきた気がします。
頭の中で「低い自己評価」を言い聞かせたり、言い訳ばかりしてたから。
「普通」の概念は私にもよく分かりませんが、AC当時、見た目はかなり珍妙だっただろうなぁ(^_^;)
服装もさることながら、立ち振舞いも…
体脂肪率10%台を目指して頑張った美容目的のダイエットも、今では運動不足解消が理由になってるし…知らぬ間に中心志向が抜けたのか?等と考えてます。
道産娘さん。
>「合理的思考」についてはまだ基準が高すぎるような気がするし<
そもそも合理的思考ってなんでしょうかね。
多数派?が勝手に決めたものじゃないですか。
押し付けられて困るのは間違ってるのでしょうか?
本音で勝負のジャイアン女子は、頭がよく、外見も悪くなく、笑顔が可愛い・・・育ちの良いAS男子と仲良くなり、結婚との流れになったのだけれど、ジャイアン女子の口からでは、DVとの形で破たんとの流れになってしまったとのことです。相手AS男子は、バツ一年上女子と結婚して、子供までできて・・・との結末でした。付き合っているときに、ジャイアン女子は、AS男子のASッポイ所を随所に感じていたのにもかかわらず、離婚後に・・実は・・といつもと全然違うかわいそうモードで言われても・・・でもな・・・このAS男子に何を言ったら・・DVさせるくらいどんなヒドイ事を言ったんだろう。。。AS男子案外悪くなかったよ。。。
私の知っている黒髪のフランス人形のようなジャイアンACは、ACから復活していく中で、一番世話になった2人に対して、かわいそう目線で友達を続け、目の上のたんこぶの見るからにジャイアン友?に対しては、まだはっきりとした意思表示はできず、未だ上から目線を見抜いている2人対して、あの人は本当にジャイアンだから・・・・と苦情か悪口か・・を言ってくる。一人は離脱。。私です。
多数派ってそこまで「合理的」ですかね?
多数派にはジャイアンのような「衝動性」はありませんから、合理的に考えて衝動統制する必要ないと思いますけど。
別に押し付けてるつもりはありません。
Paul Carpenterさんが「合理的思考が必要ない」とお思いなら、私のコメントを無視して下されば済む話だと思いますよ。
道産娘さん。
またやっちゃってますよ。
道産娘さんが押し付けられてるように感じたからちょっと申し上げただけです。
まあ仕方がないですけどね、私も正反対誤解は毎日のようにやりますから….
Paul Carpenterさん
そうですか。
「合理的思考を押し付けられては困る」
言葉通り真に受けてしまったので、Paul Carpenterさんは「ADHDに合理的思考は必要ない」とお考えなのかと思いました。
まぁ、それならそれで別に構わないのですが。
失礼致しました。
道産子さん
>ぬまおさんも、(育児や家事を)頑張りすぎて身体壊さないよう気を付けてね(^-^)
ありがとう。気をつけます。道産子さんも最低限の適応目指してがんばってね!自分もほどほどにしておきます(^^;)
>体脂肪率10%台を目指して頑張った美容目的のダイエット
すごいことに挑戦してるね。自分は運動不足で体がなまりまくりだよ。子どもに追いつけなくなってきた。
ぬまおさん
一時期19%まで落ちたんだけど、慣れてきて負荷が軽くなったら20%に戻っちゃった(^_^;)
以前は焦って負荷を上げようとしてたけど、今は「別にここまで一生懸命やらなくても良いよね」って、楽な気持ちで毎日続けてます。(あまり負荷をかけると、食欲増すからダイエットの意味ないってのもあるけど)
飽き性の私が「毎日続けられる」ことが自信にも繋がるので。
どうもこういうところ↑がASの「ストイックな首尾一貫したこだわり」に見えるようで、特に依存型ジャイアン母からはASっぽく見られます。
あと、隣←のぬまおさんのコメントからですが…
確かに発達障害について色々な本や資料を見ると、ここの情報とは異なる内容だったりしますよね。
私が一番驚いたのは「ASの人への愛着」だった。
他の資料には大抵「ASは人に関心が無い」とあるので、初めてYANBARU先生のブログを見たときにビックリしたのを覚えています。
もちろん「どの情報を信じるか」は個人の判断に委ねられますが、私はこのブログの内容が一番しっくりきますね。
道産娘さんのダイエット、って運動ですよね?
受動型ASから見た場合、食欲の赴くままに食べて運動で絞った女性が一番魅力的に見えると思います。
ところで、このダイエット、いつから始められました?
「ダイエット」行為が、ACの脱出につながっているような気がするのですよ。
「毎日続けられる」のも、別に理由があるから(返答後に書きます)だと考えてます。
多数派女性がダイエットするのは、多数派男性に好まれるため、という生物学的な意味がありますが、ジャイアン女性にとっては、そもそも多数派男性に好まれることは無いので、生物学的にはマイナス行為なんですよね。
でも、中心志向男性からの誹謗中傷を避けられるのと、女性コミュニティの話題にできるから、ダイエットしたがるのだよなあ。
運動で絞るだけなら、いいのだけど。
>ASは人に関心が無い
確かに、愛着対象以外の人(≒自分を理解しようと思わない人)への関心は薄いと思います。
でも、その分だけ、自分を理解しようと努力してくれている人や、同類に対してへの関心は普通の人より強くなると思います。
私もここの情報が、一番現実モデルに近いと思ってます。
ただ、ここに書いてあることが全部正しい、とは思いません。
発達障害は、まだ仮説・検証を続けていかなければいけない時期だと思ってます。
道産娘さん、ASとしての俺が考えるに、「ASの人への愛着」と「ASは人に関心が無い」とは、矛盾してないんですよ。一見矛盾してるように見えるんですけどね。
ASが関心を向けるのは、他人との関係性なんです。相手の人そのものには関心が向かないか、少なくとも関心が薄い。だから、「人に関心が無い」けども「愛着」という関係性にはこだわるんです。
なーんて断言して、他のASの皆さんからそうは思わないなぁと否定されたりして。(汗)
m2さん
ダイエットについて自己分析を兼ねてお答えします。(くどい程やってますが、また少し過去の記憶が蘇ったので)
幼少期(小1頃)から痩せたいという気持ちが強く、ダイエットに関心がありました。
小学校中学年頃に情緒障害(この時は「責められないために」が衝動統制でした)になってからは痩せたいと思わなくなり、中2頃に情緒障害から回復すると、ジャイアンの攻撃性と共に「見た目に対する異常なこだわり」が出てきました。
その時に、対人関係で自信が持てなかったり、物事が上手くいかない原因を「太ってるせい」と思い込み、強迫的に食事制限のみでダイエットをして6㎏減量したのですが、その後も「何もかも見た目のせいにする」考え方は変えられず、思春期は強い被害妄想と対人恐怖の中、「負けず嫌いな中心志向」と「自己評価の低いAC」を行ったり来たりしながら過ごしました。
当時は「痩せて自分に自信が持てるようになりたいから」が理由で、決して女同士の話のネタ…ではありませんでしたよ。(恥ずかしくて誰にも言えなかったし)
(続きです)
20歳過ぎてからは体重は落ち着いたのですが、これまでの不健康なダイエットが祟ったのか、体脂肪率が30%まで増えました。
それで「健康的に痩せる方法」を徹底的に調べて、筋トレしながらジョギングして19%まで落としました。
m2さんのご指摘通り、この時は食事の量を減らさずに運動中心のダイエットでしたよ。
食べ過ぎたら多目に走る…みたいな。
今では短期間で痩せる食事制限のみのダイエット(○○だけダイエットとか)は怖くてできないですね。
毎日続けられるのは強迫的な性格だからかもしれません。
1日でもサボったら筋肉が落ちて体脂肪が増えるかもしれない…っていう不安があるんですよ(汗)
こんな考え方だから中々「中心志向の攻撃性」が抜けないのかもしれませんね。(それ以外のことはわりと合理的なのですが)
ちなみに、m2さんの隣←のコメントですが…
私はやせ形ですが、痩せてもスレンダーにならないタイプです。
骨格がしっかりしてます。(女子ソフトボール選手を思い浮かべると分かりやすいかも)
>「痩せて自分に自信が持てるようになりたいから」
そうなんだよねえ。
ジャイアン女性は、瘦せてもモテるようにはならないんだけどね。
モテるかモテないか? なら、おそらく瘦せない方がモテる。
でも、骨格がそうだと、普通体形でも中心志向組から誹謗中傷を浴びるから、自己評価が下がってしまうよね。
正確に言えば、瘦せることにより、自己評価が下がる機会がなくなるから、結果として自信が持てるということなのだと思う。
我々からすると悲しいことだが、それが現実なのも間違いない。
草食系男子(≒受動型AS)は恋愛に臆病なのもあるけど、そもそも恋愛の難易度が高いんですよ。
骨格が立派なのも、中心志向の攻撃性があるのも好きなんだけど、草食性男子が好む女性は、それらがコンプレックスなわけですよ。
その状態でどうやって口説けばいいってわけ?
恋愛はできても結婚までたどり着かないのが大きな悩みだったけど、受動型AS男性は異性関係の難易度が高い、というのが理論的に納得えできた。発達障害の考え方は、社会的な不具合の大半を理論的に説明することができるんだ。
>毎日続けられるのは強迫的な性格だからかもしれません。
これはたぶん、全く別の理由があります。
ジャイアンの人は、運動すると頭が冴える傾向が見られます。
単に余計なことを考えなくて済むからなのか、余分なエネルギーが消費されて安定するのか、だと思いますが、運動しないと余計なことを考えすぎて頭が混乱するように思えます。
かつての私の恋人は、走るようになって簡単にAC抜けましたから。
だから、単に運動しないと調子が悪くなるから、だと思いますよ。
それなら、飽きっぽい性格だろうが続くでしょう。
>「中心志向の攻撃性」が抜けないのかもしれませんね
抜けなくて当然だと思います。あることが個性ですから。
どう折り合いをつけるか? だと思います。
道産娘さんはうまくつけていると思いますよ。これ以上攻撃性を抜いたら、魅力までなくなってしまいます。
(そうか、毎日続けられるのは強迫観念からではなく、止めたらますます鬱になるからか…)
以下、ASの方が読まれると気分を害するかもしれません。
>自分を理解しようと努力してくれている人や、同類に対してへの関心は普通の人より強くなると思います。
>ASが関心を向けるのは、他人との関係性なんです。相手の人そのものには関心が向かないか、少なくとも関心が薄い。だから、「人に関心が無い」けども「愛着」という関係性にはこだわるんです。
m2さんとzzzさんのコメントを何度か読み返して考えてましたが、zzzさんの場合「(相手そのものより)相手とのコミュニケーションを重視」してる感じがしますね。
実は以前から、ASの人への愛着は「物や動物への愛着・こだわりの延長」かもしれないと思うことがあります。
例えば、「スイッチを押せば動くおもちゃ」や「名前を呼べば駆け寄ってくる犬」のように、「自分が○○すれば、相手は△△する」という関係性?を重視し、それを人にも求めているのかなと。
(相手が人の場合)愛着の感情を引き出したり、愛着に何かをさせる(動かす)ことが重要で、その「方法」を見出だすのが好きなのかもしれませんね。
>zzzさんの場合「(相手そのものより)相手とのコミュニケーションを重視」してる感じがしますね。
道産娘さん、これは自分自身もそのとおりだと思っています。そして、コミュニケーションを重視しているのも(より正確には重視するようになったのも)、自分のASとしての癖ゆえなんです。
愛着に対してやっちまう問題行動は、自分のこだわりに抵触するかどうかで決まります。愛着ある相手だからこそ、自己のこだわりに抵触するのはより許せない。
相手が自分のイメージする人間ではない側面を見せるから、許せないわけです。これって、人へのこだわりというよりは、自分の幻想に対するこだわりであり、関係へのこだわりではないか。ふとそう思えたんです。真に人へのこだわりなら、幻想と異なっていても何ら問題ないはずです。
それ以来、幻想を持ち過ぎないよう、関係へのこだわりをし過ぎないよう、気を付けるようになりました。その自戒がやがて、コミュニケーション重視へと移っていったんです。
ASの人への愛着は、「物や動物への愛着・こだわりの延長」というよりもむしろ、「物や動物への愛着・こだわりと同質」といえそうです。
zzzさんの場合「自分と愛着は一心同体だから、相手の人格を想定する必要がない」というだけで、「人に全く関心がない」訳ではないような気がしますね。
少しずつ「自分と相手は違う」ことを受け入れられるようになって、愛着相手との共通点を見出だすことで「妥協」できるようになったのかな?と思っています。
>愛着ある相手だからこそ、自己のこだわりに抵触するのはより許せない。
だから、受動型ASのパートナー選びは難しいのだろうな。
妥協はできても、どうしても妥協したって態度に出てしまう。
ぬまおさんみたいに全て相手に従うというのは一つの方法だが、これはAC経験者にしかできないな。
自分の子供だったら、また話は違うのだろうけど。
結局は、一切妥協せずに、自己のこだわりに抵触しないような相手を見つけるしかない、ということなのだろう。
道産娘さん、もしかすると、俺の言う「人への関心」と道産娘さんの言う「人への関心」とが、少し違っているのかもしれません。
俺の思う「人への関心」は、矢印の頭が相手に向いている状態です。対して、ASの他人への関心は(少なくとも昔の俺のそれは)、矢印がいったん相手に向かって自分に戻ってくる状態です。
一心同体ではあるけども、肉体は別だから、一心同体であることをチェックして自分自身に納得感を与える。いわば、自己愛的な他人への関心、とでも言いますか。
それを差して、ASは人に関心が無い、と言われるのだろうと俺は思っています。
ただ、矢印の線がいったん相手を通っているので、その意味では人への関心があるといえそうですね。
m2さん、パートナー選びにはもうひとつ道がありますよ。妥協したって態度をこちらが出しても、あまりそれを感じないか、または感じてもスルーしてしまう相手を選ぶんです。
やがてこちらが妥協に慣れます。こだわりに全部抵触する相手をパートナーに選ぶはずもありませんから、一から十まで妥協するわけではなく、一かせいぜい二を妥協するだけで済みます。その程度だから、妥協もそのうち負担に感じなくなります。
この説に真実味を感じてもらえたとしたら、俺の経験談だからという可能性もありますが、本当に経験談なのかどうかはご想像にお任せします(苦笑)
zzzさん、それ私の失敗するパターン(笑
今まで、十のうち、一くらいの妥協で済む相手は選んでいるんですよ。
で、最初はある程度は気を使っているので、問題はないのですけど、慣れてくると気が緩んでしまうんです。
どこかで妥協していることが態度に出ちゃうんですよね、きっと。
そのことで直接別れる原因になるわけじゃないんだけど、どうも向こうの溜まっている不満に火をつけてしまうっぽい。
どうも、妥協を負担に感じなくなる時が別れの始まりになる、という気がする。
自分のこだわりを十受け入れてくれる相手なら、相手も不満を感じることが無いので、二重の意味で長く続く。
私の場合、最初の相手が偶然自分のこだわりを全て受け入れてくれる相手だった。ただ、ジャイアンとしては苦労不足で出会うのが早すぎた。
今は、ジャイアンとして相応の苦労をして、自分のこだわりの全てを受け入れてくれる相手がいる。
最初の相手以来、久しぶりに自分のこだわりを受け入れてくれる相手なのだが、やはり付き合いに無理が無い。
ここで勉強したことを考えると、こだわりの部分で妥協しなければいけない相手は無理だと思う。
(先生、最新エントリーが「軽めの内容」で少し安心しました。最近私が、他のコメント者さん達に対して攻撃的になり、気軽にコメントできない雰囲気を作ってしまっていたので…本読んでみます♪)
>一心同体ではあるけども、肉体は別だから、一心同体であることをチェックして自分自身に納得感を与える。いわば、自己愛的な他人への関心、とでも言いますか。
「想像力の欠如」から相手の人格を想定できない、だから一方的に自分の理想や価値観を押し付けてしまいがち…ということなのかもしれませんね。
他者が近いと言われているASの人が、一方で「孤独」を感じるのはそんな理由からだったりして。
zzzさんの言う「人に関心が無い」とは、「人を感情や意志の無い人形のように捉えていて、そこに自分の人格を投影している」ような感じもしますね。
m2さん、zzzさん、コメントありがとうございます。
m2さん、そうでしたか。参りました。(笑)
一部妥協パターンで20年近く続いている例もあるので、自分の妥協と相手の妥協とが程よく折り合うと、こだわりのうち七か八くらい受け入れてくれる程度でも続くのかもしれませんね。
いまだに不満をぶつけ合うときがあって、まる一日口を聞かないなんてこともありますが、少しは譲ってやるか、と。で、お互いに自分のほうが妥協したと自慢し合ってみたり。
おっと、俺の経験談なのかどうかはご想像にお任せします。
道産娘さん、そうなのかもしれません。
ASも全く想像力を欠くわけではなく、他人が感情や意志を持っていることを多少なりとも理解はしています。ただ、その理解は自分の想像力の及ぶ範囲でしかなく、その範囲は狭いったらありゃしない。しかも範囲がずれていることだってある。
その範囲で自分の行動を決めるから、妙なタイミングで妙なことをやりだすことがある。加えて、その範囲から外れたら問題行動をやらかしたりする。
これじゃあ傍からは、他人の感情や意志を想像できてないと見えてしまうだろう。そう思っています。
そして、根っこで邪魔をしているのは認知の歪みであり、これを矯正すれば想像力が育つだろうな、とも思っています。認知に歪みがあるという事実と矯正の仕方とは、ASなりに理解できるはずですから。
道産娘さん。
>「想像力の欠如」から相手の人格を想定できない、だから一方的に自分の理想や価値観を押し付けてしまいがち…ということなのかもしれませんね。
他者が近いと言われているASの人が、一方で「孤独」を感じるのはそんな理由からだったりして。
zzzさんの言う「人に関心が無い」とは、「人を感情や意志の無い人形のように捉えていて、そこに自分の人格を投影している」ような感じもしますね。<
別居前がまさにそんな状態でしたね。ジャイアンADHDの小生にとっては。
これからどう対峙していくのか考える上で参考になります。
Paul Carpenter 様
私はこのブログやコメントに書かれた事しか感じ取れませんが、「これからどう対峙していくのか考える」、だって? 積極奇異型のみならず、受動型とも同じことを繰り返すつもりですか。
「生きているだけで丸儲け」、これは、貴方の言葉ですよ。
相手とどう対峙するかよりも、自分の事の方が先だと、私は思っています。
Paul Carpenterさん
参考にして貰うのはいっこうに構いませんが、受動型ASさんへの攻撃材料にするのはやめて下さいねぇ。
最も、積極奇異の方と違って愛着相手の言いなりになることはないので、相手もそれなりに「反撃」してくるでしょうけど( ・_・)ノΞ●~*
さーこさん、道産娘さん。
なるほど。たしかに。
蒸し返すようで申し訳ないのですが、あえてKYになって、ちょっとだけ。
Paul Carpenterさんの引用する道産娘さんのコメントは、世間一般から見た受動型ASのありようだと思います。若干のジャイアン的な表現があるかもしれませんが(道産娘さん、ごめん)、受動型AS(ないしAS)に対するごく一般的な見え方だと感じます。それを受け継ぐ俺のコメントが、受動型ASの心の中で起こっている事柄です。
本当に参考になさりたいのであれば、この両方を程よく取り入れなければ意味がない。俺はそのように思います。
自省するケースも含めて発達障害者と対峙する際には、発達障害者自身から見たときのものの見方と、外から見たときのものの見方との、両方の視点が必要なのではないでしょうか。
zzzさん
自分では「世間一般」かどうかも分からないです(汗)
あくまで私の「個人的な印象」ですね。
ただ、ジャイアン的に「人を見て」語っているので、ASの方からすれば「それは違う」と思うことがほとんどかもしれません。(指摘して貰えるとありがたいですね)
お互いジャイアンADHD同士であり、ジャイアン的に人を見ているからこそ、Paul Carpenterさんも私の話に理解を示して?下さったのかもしれませんし…
>本当に参考になさりたいのであれば、この両方を程よく取り入れなければ意味がない。
これはその通りなのですが、「AS本人から見た物の見方」と「外から見た物の見方」をリンクさせるまでの作業が結構大変で…言語優先の私からすると「(コナンのような)謎解き」に近いものがありますf(^_^;
「相手(AS)が何を伝えようとしているのか?」
「相手は自分に何を求めているのか?」
リンクというより「翻訳」といった方が正しいかな。
(続きです)
単純なADHD(いや、私だけ?)にも分かるように、ASさんの内面を分かりやすくYANBARU先生が「翻訳」してこのブログに載せて下さるので、とても参考になってます。
もちろんそれは、先生の実際のAS患者さんやこのブログの参加者の皆さんのお陰でもありますから、zzzさんのおっしゃる通り「AS本人から見た物の見方」は必要不可欠ですね。
相手が本当は何を伝えようとしてるのか「理解」できた時は本当に嬉しいですよ(*^_^*)
あと、m2さんの…
>自分のこだわりを十受け入れてくれる相手なら、相手も不満を感じることが無いので、二重の意味で長く続く。
これは不思議でたまらないです。
「100%受け入れて貰える相手」なんて、生身の人間ではあり得ないと思うのですが…(ちなみに、他の方のように100%愛着の言いなりという受動型ASも信じ難いです。それこそ身体症状や態度に出てしまうと思いますが)
何となく私がm2さんの言葉を間違って捉えてるような気もするので、まだまだ理解の余地はありそうですが…そう簡単にはいかないですね。
zzzさん。
>ASも全く想像力を欠くわけではなく、他人が感情や意志を持っていることを多少なりとも理解はしています。ただ、その理解は自分の想像力の及ぶ範囲でしかなく、その範囲は狭いったらありゃしない。しかも範囲がずれていることだってある。
その範囲で自分の行動を決めるから、妙なタイミングで妙なことをやりだすことがある。加えて、その範囲から外れたら問題行動をやらかしたりする。
これじゃあ傍からは、他人の感情や意志を想像できてないと見えてしまうだろう。そう思っています。<
わかっていますが辛すぎるのですよ。zzzさんの書かれた内容は。
理解したうえで対峙はするつもりですけど。
>そして、根っこで邪魔をしているのは認知の歪みであり、これを矯正すれば想像力が育つだろうな、とも思っています。認知に歪みがあるという事実と矯正の仕方とは、ASなりに理解できるはずですから。<
たぶん小生には矯正させてやることはできないんだろうなと…..
「ASなりの理解、であっても、相手が辛すぎる事のないような人間関係」って築けるのかな。
とてつもない苦心を重ねてきたらしいADHDっぽい文通相手とは、共通項だと分かっていた事以外は、最初は全て「unknown」であり、こちらのAS的な予測やイメージをする事すらできずに常に手探り状態でした。相手は、PCを通したやり取りをするうちに、反応が返ってくるのが面白い、楽しい、という事に自分で気がついたらしいです(現在はちょっと違うかも)。しかし、私の側の体調がしょっちゅう崩れたりするので、反応や返答にすぐに応じる事ができなかったりして、私の側では毎回時間が空いたりしていました。私はなぜか、自分の事を毎回報告する羽目になったりしていましたが、今ではそれで良かったのだと思っています。
相手を辛くさせすぎず、自分も辛すぎたりしない、夜はきちんと眠って朝ちゃんと起きる…。やり取りは面白いし、興味深いです。
そういえば…ASとADHDでは「理解」の意味が異なるんですよね。
良い例えがありますが、以前受動型ASの方達が揃って、ある依存型ジャイアンさんを「ASに似ている」とおっしゃり、中には本当に彼女をASだと思ってた方もおり、私は「(情報がコメントしかない中)彼女の何処を見てASっぽいと思ったのだろうか?」と、とても不思議でした。
その後、ある受動型ASさんが「対依存型ジャイアンだと、仲間(AS)だと思って一切気を遣わない」とコメントされたのがきっかけで「そうか、受動型ASと依存型ジャイアンはお互い依存的な部分が似てるから、AS側が妥協出来ずに口論になるんだ!」と私は「理解」しました。
これがADHD流?の理解で、こうして「納得すること」を積み重ねながらASの人を理解しています。
そしておそらく、AS(と依存型ジャイアン)の「理解」とは「自分の主張を受け入れて貰うこと」だと、私は理解しています。
同じ「理解」という単語でも、ASとADHDでは意味合いが異なる。
「(1つの言葉を)相手はどう捉えてるのか、自分の捉え方とどう違うのか」考えて紐解いていく作業が「謎解き」のようで大変だけど、このやり取りが結構楽しかったりもします♪
道産娘さん
「自分のこだわりを全て受け入れてくれる相手などいない」
「妥協すると、その関係は長続きしない」
という現実に長いこと悩まされていました。
現実の経験と、ここでいろいろ学習した結果から導き出した結論めいたものが、
「自分のこだわりを全て受け入れてくれる相手を探すしかない」
です。
結局、自分の相手はジャイアン女性以外に考えられませんので、「嫌なものは嫌」なんです。
結局、相手が生理的に嫌なものを妥協してくれる可能性は無いんです。
こちらが妥協しても、その瞬間は収まりますが、一つ生理的に嫌なことがあれば、一つに収まらずにいつか別の騒動が起きるんです。
結局、自分のこだわりが相手の生理的に嫌に一つでも合致してしまうと、うまくいかないだろう、と思ってます。
半永久的に相手に合わせればいいのでしょうが、それは私には無理(笑
となるともう一つの道を探るしかないわけです。
自分のこだわりも、いろいろあると思っていましたが、実はこだわりにはかなりの相関関係があるんです。
先日体形の話はしましたが、他にもアルト声とか大きめの瞳とか、マシンガントーク、表情の豊かさ、とか一見相関関係は無いように思えるのですが、ジャイアン女性の多くはこの条件を全て満たしているのです。他にも長く続く相手はB型とか、こだわりのどれか一つを満たすと別の要件も満たす確率が非常に高いんです。
そういう風に考えると、自分のこだわりって、本質的にはたぶん数個しかないんです。
それらの全部が「生理的に嫌」に当てはまらない相手と言うのは、想像以上には多いように思えます。
ただ、いい関係にはなりやすいのですが、現時点で結婚・恋愛する意思のある確率が低い、というもう一つの大問題がありますね。
ちょっと違うか…私の場合は「理解」ではなく、「飽くなき探求心」とも言えますね。
「自分と他人は違っていて当たり前、分からなくて当たり前」ですから、相手と共感できる部分を見つけた途端、(理由等)深い所まで掘り下げて聞きたくなるんですよね。
昔は面倒臭がってたのに…
m2さん、さてはAKBのO島とかタイプですか?
彼女B型ですよ〜( ´艸`)
(…と、冗談はここまでにしておいて)
m2さんの言う「こだわり」って「統計やデータ」のことですよね。
例えば…積極奇異弟がそうなのですが、どうも好きになる女性にある共通点があるのですが、その共通点が「ネコ顔」みたいで、これまで付き合ってた人は全てネコ顔ですね。(先程のO島もタイプだそうです)
ただ、たまたま「可愛い」と思った人がネコ顔だっただけの話で、ネコ顔にこだわりがある訳ではないです。
m2さんも「自分と気が合う女性は、過去にこんな容姿・血液型が多かった」という統計に基づいてお話されてるだけで、こだわりとは違うのかなって気もします。
もしくは「ASはこの容姿に惹かれやすい」っていう「普通へのこだわり」かも。
「普通へのこだわり」は世間や一般論等、周囲に合わせたものが多いので「移り変わりやすい」印象があるのですが、「本人だけのこだわり」はそれこそ「嫌なものは嫌!」という感じで、誰が何と言おうと変えられないものだろうと捉えています。
(続きです)
「m2さんご自身のこだわり」だけに絞り込んで考えれば、相手の女性への負担も減るので、喧嘩も少なくなるだろうと想像してます。
あと、個人的な意見で大変申し訳ないのですが…
受動型AS男性は「釣った魚に餌をやらない」ところがあり、付き合う前はとても優しかったのに、付き合い始めると束縛したり態度が冷たくなることがありますよね。
私も経験ありますが、ここに不満を持って喧嘩に発展することがよくありました。(私の精神状態が不安定だったことも喧嘩の理由の一つですが…)
どうも周囲の受動型AS知人も、そこが原因で恋人と破局することが多い気がしますね(^_^;)
以前、受動型AS彼と付き合ってたジャイアン知人が、別の男性と浮気したあげく受動型AS彼を捨てたことがあったのですが、その理由が「(受動型AS彼とは)とっくに別れたと思ってたから」でした。(彼もかなり意気消沈していたので、そりゃあんまりだろうに…と思いましたが)
「気が緩み始めた時」は要注意かもしれません。
でもADHD側が自立して精神面を安定させ、受動型ASに依存し過ぎなければ、クリアできる問題かも?と考えてます。
甘いかな…(汗)
>m2さんの言う「こだわり」って「統計やデータ」のことですよね
ここに出した例はそうですね。
もちろん、普通の誰が何と言おうと変えられないものもありますが、こちらは表に出しづらいものも多いので・・・
ただ、嗜好はやっぱり変えられないですよ。
最初は「ネコ顔」にこだわりは無いと思っていても、結局そうでない相手とは長くは付き合えないと思います。
ただ、「ネコ顔」はかなりジャイアン女性との相関はあると思いますので、自然に自分と合う相手を絞っているにすぎない、とは今ではそう考えます。
>「m2さんご自身のこだわり」だけに絞り込んで考えれば
そういうことですね。
そういうところの相性がしっかり合う相手を選ばないといけないのは良くわかりました。
今の相手は、そういうところを理解してくれるので、やっぱりいいですね。
>受動型AS男性は「釣った魚に餌をやらない」
私は最初から、自分であげられる範囲の餌しかあげないので、長く付き合ってもその意味ではあまり変わらないはず、と思ってます。
ただ、以前は最初のうちは自分と合わないところは妥協していましたので、その妥協が我慢できなくなって妥協しない態度が出てくると、「態度が冷たい」と感じることはあるだろうなあ、とは思ってます。
だから、妥協する必要の無い相手で無いとダメ、なんだと。
>甘いかな…(汗)
うん、甘いです(笑
私が唯一納得できている別れはこのパターンです。
最初は本当に精神不安定(リタリン飲んでました)だったのに、完璧に安定したのは良いのですが、今まで自分の足で人生を歩んでこなかったせいでしょうね。そうなったら、誰にも頼らずに自分の足で自分の人生を切り開きたい、という強い意志を感じましたよ。
受動型ASにうまく依存して、精神が安定したのですが、自立が完了すると「一緒にいると、絶対頼ってしまうから」という感じでフェードアウトされました。
まあ、でも、そういう女は好きなので、これは仕方ないです。
彼女とは多少価値感が違ったので、それも一つの原因かなとは思ってます。
結局は、ジャイアンとの相性に加えて+@の部分の相性が大切なのだと。
>受動型ASにうまく依存して、精神が安定したのですが、自立が完了すると「一緒にいると、絶対頼ってしまうから」という感じでフェードアウトされました。
これはm2さんが悪いわけではないので、お気の毒としか言えないのですが…このADHD女性にとっては、これが「良い兆候」なんですよね。(自分の場合は、優しくして貰っても返すことができず、相手に対して申し訳ない気持ちが強かったので別れを告げました。言い訳になりますが、その事で劣等感を募らせてますます自己評価が下がるんですよね…)
ただ、m2さんが「パートナー選びにこだわる」理由は分かる気がします。
どこかで自分を見つめ直さないと、同じような人を好きになって同じような別れを繰り返すことになりますから。
ジャイアン知人は違いますが、私の場合は「相手の非言語フォロー」も不安材料の一つでした。
当時は「優しさから嘘をついているのだろう」と思っていたのですが、(場当たり的にコロコロ変わる言動で)相手の本心が分からなくなるのが結構辛かったですね。
私もそうですが、ADHDはネコ顔多いですね。
あんまり顔自体に興味を持っていないんですが、「ネコ顔」という単語が出てきているのでざっと検索してみました。自分で思うに私はむしろ「小イヌ顔」といった感じでしょうか。
以前は私も「自分を見つめ直す」というような事にこだわっていた気がします。今は、日々の労苦の他に、楽しみや面白さの瞬間も加わるようになりました。私の中に少しずつ時間が流れている…そう思いますよ。
おっと間違った。「子犬顔」でしたね。
おそらくゴールデンレトリバー系だろうと思われますが、私は精神性が顔に現れると思っている人間なので、顔のタイプについてはさして興味がないですね。
あれ?違うな…ネコ顔ではなくタヌキ顔かもしれないです。
目だけはネコっぽいんですが。
ASさんはイヌ顔・キツネ顔が多いですよね。(積極奇異弟はキツネ、受動弟はイヌです)
弟達はジャイアン女がタイプのようですが、顔で選ぶというより「はつらつとした性格」に惹かれるみたいですね。
少し違うのは、積極奇異弟はどうみても「ジャイアン女の尻に敷かれたい」ように見えるのに対し、受動弟は家の中で「お前が仕切れ」的な態度を取り、喧嘩に発展しやすいところかな。
ちなみに、積極奇異弟は「中心志向」があるので自分の見た目には結構こだわりますね。
とんでもない髪型にしたりとか…
あとは「最上級・最高級へのこだわり」かな。
(草食男子の逆を行く感じ)
あと、ここは男女関係無いような気がしますが「年功序列や礼儀礼節を重んじる」ところは積極奇異の人に共通して見られますね。
>これが「良い兆候」なんですよね
それがわかるだけに辛い。
まあ、20代までに人生で必要な苦労をしてきたわけだから、強いよ。 彼女にとっては、これからの苦労などたいしたことはないだろう。
今や従業員十人以上抱える社長さんですからね。
平社員を目指してうまくいかなかったけど、社長としては成功する重度ジャイアンのケース。
>相手に対して申し訳ない気持ちが強かったので
このケースもあった。
どうみても、好意を持っているのは明らかなのに、とんでもない理由で拒絶するんだな。
正直、これは困る(笑
こっちとしては、今はこちらからしか愛情を注げないかもしれないけど、いずれ回収できるともくろんでいるわけでそんなアホなこと考えて欲しくないのだが・・・
これって、いい人だと思うとダメなんですよね?
どうでもいいと思える人だと付き合える・・・ と。
ダメ男の方が結婚できる、というとんでもない現実が・・・
受動型AS男性のDV、という記述があるけど、DVを受ける女性側がそのような男性を選ぶという現実もあるんです。
こういう常識では考えられない事実を、発達障害の考え方はきれいに説明できるんです。
つまり、受動型AS男性の場合は、社会でうまく行っているほうが恋愛・結婚では苦労する、ということになるのでしょう。
それがわかっても、今からダメ男になったり、演じたりするわけにもいかないので、簡単では無いのですよ。
※確かに、ADHDはネコ・タヌキ顔、ASはイヌ・キツネ顔が多いですよね。絶対相関ありますよ。
もしかして私は、同性集団の中で1人だけ悪目立ちするのを避けるために、(自分側から見ただけの手前勝手な)こだわりで自分を縛った…?
他にも自分を縛っている事はあるな。認知が「~しなければならない」となるわけだ。
なるほど、そういう事か…。これで二次障害以前のACは、回復完了ですね。
これから私はどんな風に生きられるんだろうか。いや、どんな風にも生きられる。自分の望むように。
m2さん
>どうみても、好意を持っているのは明らかなのに、とんでもない理由で拒絶するんだな。
時々分からなくなるんですよねぇ。
例えば、以前「愛着を切り離すのは自分の体の一部を切り落とすようなもの」と表現された方がいましたが、このような発言をした後に一方的に相手を責めるようなことを言ったりして…
相手が依存型ジャイアンの場合は、損得からそういった発言をすることが分かるので「ちゃっかりしてる」と思いながら適当に受け流せば良いのですが、相手がASの場合「本気で言ってるのか、(茶化して)冗談で言ってるのか分からない」時があるので、どう返して良いのか悩みました。(というより、返さないで我慢して爆発…というパターンが多いですね)
(相手がASであると知らなかった当時)まさか「こちらの言動に合わせている」とは思いもしなかったので、真に受けて捉えてたんです…f(^_^;
「ダメ男?が結婚できる」かどうかは分かりませんが、私の周りの受動型さんは「自分、もしくは相手が子連れの場合、付き合いが長く続く」ようです。
間に子供が入ると関係性が変わるのかしら?等と考えてますが、皆結婚にはかなり慎重ですね。
好みの顔で思い出したのは自分がストーカーに近い状態に陥ってた頃だな
個人的には一重のキリッとした目つきの女性がタイプなのか(一番近いのは本上まなみ→吉高なんとか)
後輩の行く先々に無意識に現れてた時期がありました
後から気づいたのは気を惹きたかったのかと思いますが、
当時の自分は自分がどうしたいのかすら理解も意識も出来てなかったので
偶然を装って近づくという作戦なんて考える知恵も無かったです(今も無い)
孤立してる人間として他者とのつながりを持つきっかけはそういう強烈な印象だったりするのかな
理由はわかりませんが本能的に好きな顔ってのは有る気がします
打算で動くのとはまた別の話でね
だから困るんですが^^;
>(ちなみにジャイアンACの場合は、「ただACを外す」だけだととんでもない暴君ジャイアンになってしまうことも少なくないので、最近は合理的ADHDへの受け皿を先に準備するようにしているが)。
自分がADHDであり「悪くなかったのだ」と気付いたところで、結局何も変わらなかったので「ACじゃない」ということは薄々気付いてました。(あと、のび太とジャイアンの図の「病的な経過」で一番多く当てはまっていたのが「合理的強迫的ジャイアン」だったので、そうだと思い込んでました)
中学になって情緒が回復し、自分の中の「攻撃性」を自覚するようになった時、周囲が皆敵に見え、被害妄想と人間不信を行ったり来たりしてましたが、これは幼少期にもありました。
以前、どうして暴君型の病的な経過の中に「自殺」が含まれるのか考えた時、単純に「依存先である周囲から見放されるから」と思っていたのですが、私の場合は幼少期から不適応を起こし、学童期は「周囲への不信感」から依存もままならない状態だったようです。
「衝動を我慢すること」と「心を閉ざし、意気がること」は違いますよね。
最近の先生の記事から、私は勝手にそう感じ取りましたm(__)m
訂正。
「意気がる」は正しくは「粋がる」でしたね。(「虚勢を張る」という意味で使いました。決して粋だとは思ってません)
「(依存への)衝動を我慢すること」と「他人を警戒すること」が、ごっちゃになっている気がします。
一次障害と二次障害。
自分にとっての一次障害とは。
自分の認知(情報入力またはインプット)、
それによる思考(処理)、
それによってなされる反応(出力またはアウトプット)、
『それら全て』を指す。
つまるに、この『自分の脳』のこと。
ASDのこと。
主治医からは
「純粋な(当時の診断名)アスペルガー症候群じゃないが、いわゆるスペクトラムだね、障がいの範疇だよ」。
(診断に関しては、現在「診断書」という形ではもらっていない。しかし何やかやあって、何やかや考えて考えて、次回受診時に作成を申し出る予定。
今更になって作ってもらおうとなった理由には、DMS上ASDに変更されたことだとか、何らかの障がいを持っているという「それが自分であるという自分の証明書」が「自己アイデンティティ」としてほしい欲求があること…などなどから。(『良くない?健全(?)じゃない?思考』なのかもしれないけれど))
でももし、今まで受診もせずに過ごしていたとして
今の部署で働いているとして
そしてもし、私自身がASDという名前を知らなかったとしても。
自分のこの脳の認知は、特徴は、まさしく「障害」。
過去も今も間違いなく「私というモノこそが丸々、障害」だ。
無論、自分が自分のことをそうやって断言している以上
「自意識」の枠を超えないので「正しい」という確証はないのだけれど。
確かに「誰が見ても障害」だとは確証できないのだけれど。
でも。
改めて言えることはひとつ。
自分のこの「脳の障害」が一次障害、である。
そして、自分にとっての二次障害とは。
過去であれば、幼少期の近隣の子たちとの遊びでのトラブルや、
小中高生時代と現在の職につく前に通っていた学校(医療従事者関連の資格取得の専門学校)での、それぞれの友達という輪やクラスという集団や先生、先輩という異年齢or立場の違いでのトラブル。
就職してからは、組織に既に存在している部署部署ごとのルールや複数人でのやり取りでのトラブル。
一対一であっても、その他者(ただし管理職は除く)とコミュニケートする時の、その人の認知特性と価値観との摩擦。
そして
組織内または組織において一対一で他者と関わる中で起こる、以下のサインまたは事象。
…周囲が私の言動に対してする嫌な顔、不機嫌な顔、無反応、相手からの叱責、苛立ち、話し合いに呼ばれない、輪に入れない、集中していたら行き過ぎだという指摘、ホウレンソウがなってないという注意、etcetc。
もちろん、真正面からの怒濤の叱責も。別室に呼ばれての問い詰めも。
(組織の阻害にならないように怒られないように自己コントロールしようとはしたものの、結果的にうまくいかなかった時にこれらを言われた瞬間、
または
指摘されて初めて「自分が原因だったんだ、今までみんなはイラッときてたりしてたのに見逃したり許容してくれていただけなんだ」とわかった瞬間の、
衝撃と悲哀と自己否定と自分を消去削除したい衝動は、学生のころのそれとは比較にならない。)
このすべて、
…つまるに
周辺に迷惑や阻害や『周囲にとって障害になること』、
そしてそれを知った自分が「でもどうもしようがない…でもどうにかしないといけない」と自分を責めて追い詰めたり
周囲から問い詰められた結果「これ以上工夫のしようがないのに!死ぬしかないじゃないか!もう殺してくれ!」となること。
…このすべてが自分の二次障害だと私は考えている。
(無論、「これが周囲にとっては迷惑なんだ」と感じるのは自分の脳な訳だから、それ自体歪んでいるのに何を言う、なんだけれども。ええいくそう、にわとりたまご……)
そしてもう一つ。
周囲にとっての『私の言動による障害』。
仕事してからはほぼ毎日いろんな場面で感じ取る。
知らず知らずに障害を起こしていることもあるし
自分の脳の状態が悪くて(疲弊していて)いつもなら我慢できることをすぐに反応してドン引きさせることもある。
けれど時には自分が自分で『好きだなぁ、良いよなぁ、得意だよなぁ』とプラスに感じ取っている、ある種の自己像としてようやく受容できつつあ脳の特徴が目立って出てしまい、
結果的に障害になることもある。
その時はたいてい私が謝る。
「調子悪かったんです…すみません」「私がやり過ぎました」etcetc、たとえ自分の得意な部分が『秀でた結果』だったとしても謝る。
その都度正直哀しくなる。
どうもしようがない、脳をまるごと入れ替えないと無理な話で。
一生ものだ。
現時点では『それでも生きることをどうするか』でグルグル考えている。
…以上、(自分で勝手に宣言していた)「いつかはコメントしたい」の結論です。
(直後にこんなことを書くと、フォローや心情的な配慮と思われて載せて貰えないかも…と躊躇いましたが、正直に書きます)
上記のコメントを拝見しての感想なのですが、正直「悲しい気持ち」になりました。
私には「元々の(極端な)ゼロ百思考から、相手を責めることができないので自分を責めるしかなくなる」という風に思えました。
よく受動型AS知人と喧嘩になる際、相手もよく自分を責めてましたが、あれは私が自己突っ込みで自分を責めているのを「おうむ返し」しているだけだったのだと、今頃になって気付きました。
本当に何処までも「相手目線」で、ADHDの視点から受動型ASを語ると、誤解だらけであることを痛感させられました。(身内だけに限って言えば、ここまで自己分析して自分を責めることはなく、直ぐ様「相手」や「社会」のせいにする人がほとんどですが…だからストレスが身体症状になって出やすいのでしょうね)
また一つ理解が深まりました。
私は「同情」や「共感(共鳴)」が苦手な障害なので、気休めの言葉をかける等の配慮はできませんが、「相手の受動型ASがこういう気持ちである」ことを常に考えながら接していこうと思います。
訂正します!
「同情」はできないけど、「共感」はできますね。
「同情」は「立場の違う人に対して思いやる」という意味ですが、これだけは昔から苦手でした。
凄く失礼なことをしてるようで。
「実際に同じ経験をしたわけでは無いのに、相手の苦しい気持ちを気安く『分かるよ』なんて言えないから」という理由からですね。
以前M田療法の本を読んだ時、「『同情』は立場の違う人間が、相手を見下す時に使う言葉である」と書いてあって(それこそ)「確かにそうだ!」と、とても「共感」したのを思い出しました。
それと、「そこまでご自分を責めなくても良いですよ」と思いました。
何だか受動型ASの方って、自分を責めれば責めるほど「お前達(周囲)が私をここまで苦しめているのだ」と訴えているように感じられる時が多く、だったら始めから自分を責めずに「相手が悪い」と言って貰った方が、こちらとしても気が楽だなとも思っています。
(感情移入だけはできるからか)コメントからでも「苦しい」「辛い」という気持ちは充分伝わってくるので…
※ただ、最新エントリーにもコメントしましたが、「人の為にという考え方を善とする」という価値観を押し付けたいだけのように見えるコメントは、「自分を見詰め直す意志がない」ように感じられ、(このブログを荒らさない為にも)やはり無視した方が良いなと思いました。
もちろん「(広い世の中)そういう考え方の人もいる」程度の理解はするつもりですが、「自分にはできないし、関係無い」と、賛同はせずにドライに割り切って考えていこうと思います。
以下↓は私自身の「一次障害と二次障害」です。
【一次障害】
まず、「謝る」ということに関して、私は「その場の空気や雰囲気を察して謝ること」が苦手です。
理由が分からないまま「ただ相手の機嫌を取るために謝ってしまう」と、「本当に自分が悪かったのか?」納得できない気持ちを引きずり、また、謝らなければならなかった失敗の原因が明確にならないと「次はどこを気を付ければ良いか分からず、また同じ失敗を繰り返すかも」と不安になります。(別記事にコメントした「口約束」の話にも通じます。「約束を破る」行為より、そのせいで「謝る」行為の方が重く感じられるので。「だったら始めからするなよ、約束守る気無いでしょ?」という突っ込みが入ります)
前置きが長くなりましたが…私の場合、基本的に嘘が付けない正直な性格であることに変わりはなく、この記事の説明のように「空気が読めない」ことと「注意欠陥」が一次障害であると考えています。
多動や衝動はほとんど見られなかったのでそれほど気になりませんでしたが、二次障害の影響もあり、出せなかっただけかもしれません。(思春期以降は脳の多動が自覚できるようになりました)
(続きです)
【二次障害】
二次障害について、情緒障害(AC)は小3の時と記憶していますが、依存の方はいつ頃始まったか覚えがありません。
幼稚園の時は既に「常に受け身の依存系のび太スタイル」でした。
情緒障害(AC)になってからは注意欠陥の部分が目立たなくなったため、表面上は「大人しくて真面目ないい子」でした。
KYであることには変わりませんでしたが、(常に受け身の)依存の部分も残っていたため、対人関係も特に問題無く過ごせたのだろうと思っています。
中2の時の不登校をきっかけに情緒障害から回復し、注意欠陥や脳の多動が感じられるようになったのですが…どうやらここでまた「のび太AC」になってしまい、適応に強迫的となったあげく、自己評価が下がって対人恐怖気味になったのだろうと思います。
このブログに辿り着き「自分は悪くなかったのだ」とACを自覚しても、「そうなんだ〜」と言った感じで気持ちはさほど変わらなかったので、今はもうACから回復し、依存によるストレスや先延ばしによる鬱状態だけが残っているのでしょう。
最近、身の回りの人達に「KYで偏屈な性格」をさらけ出せるようになったからか、調子が良いですね。
すみません、訂正と捕捉です。
上記↑のコメントに「嘘が付けない正直な性格」とありますが、違いました。
情緒障害(AC)になるまでは平気で嘘を付いていたのですが、母に叱られACになったことをきっかけに、嘘を付くことに罪悪感を感じるようになり、それ以降は強迫的に正直者であり続けました。
…ただ、相手の過剰反応を恐れて必要以上に謙遜する事もあれば、逆に大袈裟に喜んだり共感する「フリ」をする部分は変わりませんでした。(「人からの要請」によるものですね。ちなみに、情緒障害が回復して自己突っ込みが現れるまでは「フリをする(○○ぶっている?)・嘘を付いている」という感覚に乏しく、「これが正直である」と思い込んでいただけかもしれません)
情緒障害から回復した思春期以降も「自分からは何も言わない受け身のスタイル」は続きましたが、直後に入る自己突っ込みから自分が情けなくなり、それに対し言い訳をし続けるのが「面倒」になったためか、今は嘘を付くことはほとんどなくなりました。
先生のこのブログのおかげで「本来の自分の性格」と「AS環境の影響を受けた依存的な部分の性格」を大分理解できるようになり、本当感謝しております♪
この記事に直接関連のないことも含まれるだろうと考えつつもこちらに追加投稿いたします。
最近のわたくしの脳内キーワードは
各記事における受動型ASについて説明(考察)されている中で使用されている、『愛着』『依存』。
そして
愛着対象に対して見せる(または受け取る愛着相手にとってそうとられる、)言動を、「自分なりに再定義して」名付けた『傍若無人』。
(記事やコメントでは『暴言暴力』『要求』などなど)
……………
実は(?)
未だにわたくしは『愛着』の定義が定まっていません。
以前からも自分の語彙定義上未確定な単語だったのですが
ここになって今、
…改めて、本当に改めて今、再思考中です。
なぜなら今の自分のコンディションの『職場の人からすれば絶不調』、
または
インプットとアウトプットのバランスの崩壊が起きている、
ためです。
……具体的には
場面によって(職場でもスーパーでも)
他者に向かって叫んだり憤りが爆発したり
他者を人とはとらえられずに沸き出るモノをストレートに出すことが増えてきています。
明らかに社会人として逸脱していることは認識していますが
どうにもコントロールできずにいます。
コレッテナンダロウ???
と悶々と考えている中で
こちらでのたくさんのまたはさまざまな情報、考察、コメントから
長い間愛着探しをしているとも言えるかもしれないし
すぐに怒りをぶつけられる相手が愛着だったかもしれない、
どうだったっけ???
と記憶を辿って再分析しています。
(続きます)
ひとつの仮定として。
↓
前の部署での叱責の嵐(そしてその責められたポイントはまさに自分の脳の特徴そのものだったため言い分すらありえない、)が
今の職場では一切無くなり、自分らしい脳みその言動が許される(無論、周囲はオトナな対応で流してくださっている可能性も含め。)ことが増えてきたからこそ
ACが抜けてきているかもしれないこと、
それによって
この憤りの出やすさ、攻撃性発現の閾値の低さかもしれないこと。
そんな風に今逡巡しています。
いずれにせよほんっとーーーに0か100思考な脳です、ああイヤンなる。
他の記事「受動型AS養育の基本原則」へコメントさせていただいたとおり
タッグを組む相手によっては最大級の能力は発揮できる気がしてならないし
ロボットが最適だということも少なくとも現時点の自分には事実の感覚(思考結果)でもあります。
時間をあけての、結果的には連投コメントで失礼いたします。
『愛着』の自分における語彙の再定義はまだ進行中(思考、思索中)ですが
とある2つのサイトの記事を読んだことがきっかけで
以下のような数式が浮かびました。
キーワード→単純な業績評価ではなく能力評価主義/感情労働の拡がり。
(【能力評価】+【感情労働】)*【発達障がい(ASD、ADHD等)】=二次障害
増幅因子は環境(人的、物的)です。ああ、ASだと愛着も、か。
(さらなる追記の投稿になりますこと、お許しいただけますと幸いに存じます。)
ひとつは事後報告、ひとつは語彙の定義の経過について。
事後報告、『あなたはASDだよ』という口頭での再診断告知はいただけました。(主治医の確固たる理由で(わたくしは承諾、)今回は診断書は作成不可。)
語彙の定義、『愛着』、……過去には確かに存在していた、それは紛れもない自分の「記憶上の事実」。
『どういう人』がそうなっちゃう人なんだろう?と
自分なりに定義化(一般化)しようとして
顔だとか声だとかシチュエーションだとかでカテゴライズしようと試みている自分の脳を客観視して。
待て、相手の顔かたちなんかのパターンなんてないんじゃないか?
…惚れ込んで独占欲丸出しになって近寄る他者に殺意抱くだとか
相手の一挙手一投足に反応しすぎて場合によっては振り回すなよとその人に怒りを抱くだとか
そこまでになったらそりゃあもう立派な『愛着』だと嫌でもわかるけど
今はそこまでの人がいない、
けれど『一次障害としての、自分自身のこだわりやその他ASDならではの言動を禁止させられた時に、それが知らない相手でも怒りを爆発させる』ことと
『職場で、時に我儘のような自己中のような、傍若無人な自分を強くぶつける』ことは分けないといけないだろう?
同じ怒りだけれど、後者は職場の数名に限られている、その相手がそうなんじゃないか??
……と現在考察中です。
改めて。
わたしは、ASDでした、ASDです。
再度の告知でしたがきちんと新診断基準での告知がありがたかったです。
久しぶりに閲覧させていただいたら興味深いコメントがありましたので、私自身の事もコメントさせて下さい。(個人的に、ASの方でここまで細かくご自身を分析できる人がいるんだなぁと、勝手に感心しております)
私の身内や知り合いは「内モードに愛着が存在する」人しか居らず、「外モードでは多数派と何ら変わらず普通」ですので、内モードに愛着が居ない方のお話はとても参考になりますね。(また、忘れた頃にコッソリ読みに来ます♪)
以下↓は私自身の二次障害について、補足です。
どうも私には「首尾一貫性やプロセスを重視する」ASDのような性質があり、「のび太と依存2」記事の非言語表現より、その性質の方が厄介であるような気がします。
「一度相手の頼みを引き受けたら、その後も要求され続けるかもしれない」
「自分が感情的になると、(関係無い)相手にもその感情が伝わるかもしれない」
「細かいミスを指摘されるかもしれない」
これらが理由となり、常に監視カメラで見張られているような感覚から、本来のADHDらしい言動が取れなかったのだろうと考えています。
(続きです)
「常に首尾一貫性や完璧を求められている」という思い込みから、手をつけるのが億劫になり「面倒臭い」という発想になりがちだったのでしょう。
話は変わりますが、以前別記事で数名のコメント者さんから「感情的な読み取りをしている」と指摘され、その時は「私の深読みか?」等と考えてましたが、これは違いました。
基本的に合理主義に違いありませんが、その「理由」が細か過ぎたのでしょうね。(相手が自分の問題を自覚できず、浅はかで表面的な考え方だからという理由もありそうですが)
もちろん「自分の問題を自覚しないまま、ただ雰囲気や空気を察して謝る場当たり的な行為は、結局相手の信用を失うことになる」という考え方は以前と変わりません。(どうもこの考え方も、AS環境の影響を受けたからではないか?という気がします)
まぁ、それで「薄っぺらい人間」というレッテルを貼られても、本人が「自分の問題である」と受け止めて(納得して)他人に責任転嫁しなければそれで良いですよね。
それでは、また忘れた頃に覗きに来ますm(__)m
訂正です!
「感情的な読み取り」についてですが、「(理由が)細か過ぎるから」ではなく「何故そんな発言をするのか?(要は何が言いたいのか?)考えてしまうから」が正しいです。
合理的に考えない方達からすれば、私の考えが「深読みでAC的」に見えてしまうのは当然ですよね。
ただ、仕事や対人面でよく人から「細部にこだわり過ぎる」「神経質」と指摘されることが(未だに)あり、うっかりすると「現実的なものの見方」や「効率重視の考え」からかけ離れてるなぁと気付かされます。
ジャイアンの再インストールと同じで中々一筋縄ではいきませんが、言語でのやり取りを省いて空気を読もうとすることは少なくなり、おかげで他の人から見て「偏屈度&子供っぽさ」は増しましたし、私も「言語的なやり取りを我慢していたことによるストレス」が軽減されたと感じています。
相手がASの場合、こちらが言語的に説明すれば相手も「非言語が分からないから」と言語的に説明してくれるので、これで良いのだろうなと思っています。(こちらが配慮して非言語に反応してしまうと、依存関係になってしまうので)