AS(アスペルガー症候群)は一般的には空気が読めないと言われているのが実は私は不思議だった。
私が接しているASの人は人を近く感じているがゆえに苦しんでいる人が多く、その意味で私には「ASは空気が読めすぎる」という風に見えていたからだ。
この意味ではADHDのほうがはるかに「自閉的」で、根本的には人を必要としない。また本当の意味でKYでもある。
だが確かによく見るとKYのASの人は居るには居る。この両者の関係について最近やっと整理できた。
先のジャイアンの最初の分類と同じく、「非言語的」に器用かどうか、動作性IQに相関する非言語的状況察知能力の個人差であるというのが最近の私の考え方だ。
もちろんASにも合理的、強迫的な環境で育てられるかどうかの同じような分類は可能だろう。
詳しくはASの専門の人に任せようと思うが、ぱっと思い浮かぶASの人をいろいろ当てはめてみるとイメージが出来る。
思うに、ASは非言語的な状況察知能力が乏しいKYのASの人のほうが安定して幸せそうに見える。受動型などの、状況察知能力だけ使って生きているタイプのASは周囲に流され続けるが、自分自身のこだわりとの矛盾で大変そうに見える。
「KYでないAS」は実は境界例(ボーダー)に酷似している。特に受動型ASの愛着の家族に対するときの態度はボーダーと呼びたくなる。
「KYのAS」はこだわりにのみ忠実で、非言語的に器用なタイプと比べて非言語的にイライラを振りまいたりして周囲を振り回すことも少ないので、多数派からも「こういう人」と認知されて、マイペースで生きられる。
研究職や、技術職など、(私は薬剤師は適職だと思うが)環境に恵まれれば、特に不適応にならないで幸せな人生を送るケースも多いだろう。
意外に「立派な校長先生」とか「立派な警察署長」などにも居そうな印象はある。
ご無沙汰しておりますが、いつも拝読しております。ここ最近のジャイアンの記事は参考になってます(ジャイアンな子供の上手い育て方に関して、もう少し書いて頂けると嬉しいです)。
さて、久しぶりにASの話なので顔を出しました。
自分について考えると、「空気読めない」ではなく「空気読まない」です。どの位読めるのは分かりませんが、多数派ほどは読めないのかも知れませんが、相手の発する違和感やわだかまりのようなものは読めるみたいです。ただ、「それに反応するのはおかしい、相手に失礼だ」「相手がちゃんと表現した時に対応すべきだ」という感覚が強く、あえて無視していると自分に関しては思います。相手の理解不能な言動に対して、自分で自分のシャッターを下ろす感覚もあります。その結果、問題が大きくなってしまう事が多かったようです。特にADHDは、無視された、存在を否定されたと感じるのではないかと思っています。
最近では、違和感に関して注意して反応し、原因がハッキリと分からなければ想像した原因に対する対応を小出しにして相手の反応を見、全く分からなければ相手なり周囲に聞くという行動を取ることで、以前より上手く対処できるように思っています。私にとっては、かなり精神的ストレスの大きな行動ですけど…問題は芽の内に摘んだ方が良い事は学習しましたから。
たぶん私は(一部のASは)、人を近くに感じる結果、空気を読むと精神的に辛いから、シャッターを下ろしてマイペースに生きる方法を、本人も知らないうちに選択しているのではないかと想像しています。
marioさん、お久しぶりです。大筋に共感します。
・・・進まないですからね。人生が。
読んだつもりの空気全部に誠実に反応したり、間違えないように仮説を幾つも立てて検証していたら、それだけで一日げっそり疲れますし、反応の仕方をウンウン考えていたらそれだけで苛つく人もいますしね。(適当な反応なら満足しないくせに贅沢言うな!と逆ギレしたくなることもありますが。)
家事も運転も仕事も、発生事象に対して仮説立てと検証をきちんとやっていたら、頭の中に反して現実のほうが崩壊しますからね。ダム決壊のように。
人と話したくないわけでは決してありません。
ただ、私が心からくつろいで雑談するためには相手の資質にも、状況にも、私に対する期待や感情にも、持っている情報にも条件がかさみすぎてしまっていると思っています。だから社会のマナーを守るために結果として距離ができているのだと捉えています。
なんだか犯罪者のようですが、医師には診断してもらえないボーダー資質を持っているのでしょう。
今、私は何の支援を欲しているのかと頭の中を時々探りますが、私の話を一方的に聞きたいわけでもなく、人の話をひたすら聞きたいわけでもありません。
人の話の中に私も入りたいのです。自分の発言を対等にしたいのです。普段は我慢しているから。
そういう場所が私にはありません。
私以外の人は、私の発言が困るからなのです。
多数派は私を上から許す立場です。くつろぐときに話す相手は多数派です。
性格の偏った人や変わった人は、私の“話したいサイン”に鈍感です。私が気付いてもらえないことを許すのを当てにします。または許さなくても忘れます。または傷つきます。または私に話させる以外の方法で埋め合わせをしようとします。それは仕事以外では我慢するのに飽きました。
貴重な多数派の友だちがいますが、自立していてかつ忙しく発達障害を知らない頃からの仲なので、自分を抑圧していない私を知りません。
続きます。
今、私は何の支援を欲しているのかと頭の中を時々探りますが、私の話を一方的に聞かせたいわけでもなく、人の話をひたすら聞きたいわけでもありません。
共通の目的が無い会話を、私は組み立てたり繋げたりするのが苦手です。
人の話の中に私も入りたいのです。私は創れないから人が創った会話に混ざりたいのです。そこで自分の発言を対等にしたいのです。普段は我慢しているから。
そういう場所が私にはありません。
私以外の人は私の発言が困るから、だから無いのです。
多数派は私を上から許す立場です。くつろぐときに話す相手は多数派です。
性格の偏った人や変わった人は、私の“話したいサイン”に鈍感です。私が気付いてもらえないことを許すのを当てにします。または許さなくても忘れます。または傷つきます。または私に話させる以外の方法で埋め合わせをしようとします。それは仕事以外で受け入れるのに飽きました。
貴重な多数派の友だちがいますが、自立していてかつ忙しく発達障害を知らない頃からの仲なので、自分を抑圧していない私を知りません。
他人も家族も、自分を抑圧していない私は迷惑なのです。
>「ASは空気が読めすぎる」
子供のころは「考えすぎるな。割り切れ。」と命じられました。考え過ぎも多数派には迷惑です。
就職した新任の時期に「家へ帰っても仕事を忘れるな。」と命じられたこともあります。それが正しくないことは今は分かりますが、印象的な言葉はずっと忘れません。
人と接するときは、責任があればあるほど、愛着があればあるほど、私の頭には拡大解釈も正解不正解の仮説も過去の経験のデータも存在します。疲れているときは、それらが勝手にゆらゆらと揺らいでいますしバチバチとかち合っていることもあります。
多くの場で判断を急がされてきましたが、既に想定外の事態が入る余地はなく、癒しは問題外でした。
続けてすみません。
>「KYのAS」はこだわりにのみ忠実、・・・マイペースで生きられる。
私がすごく可愛いと感じるのは、そういえばこの傾向ですね。
完結できて、幸せそうになれるのが羨ましいような・・・。
こういう子は人との接し方も一貫しているものですが、情緒的に安定してにこやかな形でさえ習慣付いたら、あとは福祉的就労などを目指せばもう怖い物無いのではと、個人的に思います。
・・・いえ、記事に書かれるような
>研究職、技術職、(薬剤師)
ももちろんありだと思いますが。その前の大学には、発達障害皆が通えるとは限らないかと・・・。その幸薄い凡人の中の「KYのAS」は、自己評価を落してうつなどにならないためには・・・と考えてつい福祉的就労を想像してしまいます。
難しいでしょうが、福祉的就労も知的に高いものなどバリエーションを揃えるとか、システムを一般就労との合体?混合?にするとか、お互いが近づいていく時代に変化していけばいいと思いますけどね・・・。でもますます複雑化して面倒になりそうですけどね。
ASの話題が上ったので、久しぶりに書きたいと思います。
私も空気が読めないASになりたかったな・・と思ってしまいます。周囲の人にはどう見えるか分からないけれど、自分の脳の中では物理的にも精神的にも「人の存在」を意識しすぎて、時々おかしくなりそうだからです・・。
おかしくなりそうなときは、今居る空間は「作り物の世界」とむりやり思い込むことで対処してました。目の前にいるものは血の通ってない機械位に思わないとダメな時があるので・・。
私が自分で空気を読んでると思うことは、職場の人達等、周囲の人の会話を聞きすぎてしまう(単なる聞こえすぎの問題?)から。A「これは◆ではないですか?(少し疑問系)」B「え?そうだった?◎の事じゃなかった?じゃあやり直すよ」A「いや、別に良いですよ。時間が無いし私が自分でやっておきますから」ここで終わってくれたら良いのですが、Bさんがおせっかいにも「いやあ、悪いから自分がやるよ」と又言い始めると全く関係のない私自身がどんどん緊張していきます。「Bさん、止めて下さい!この件はAさんが自分でやるからもう良いって言ったじゃないですか!」と勝手に頭の中で考え始め、Aさんの声色を敏感に感じ取り「ほら・・Bさんが余計な事を言うからAさん怒ってるじゃないですか・・どうしよう。どうしよう」とビクビクしてしまうからです(こうやってAさんの考えを勝手に決め付けるのも、被害妄想なのかもしれないですが)
こういう会話に反応しなくなれば、必要以上に萎縮しなくてすむのにって考えてしまいますね。
切り取りと貼り付けにミスしたみたいですね。無駄なボリュームが出てしまいすみませんでした。
2本目のコメントの12行目の二重カッコは“話したいサイン”です。
初めてのコメントです。
今までは読みつづける一方でしたが、自分の認知の特徴を整理するために、
コメントもしてみようと思い、出させて頂く次第です。
(とあるサイトのSNS系で自分についてつらつら書き連ねています、今は携帯しかないのでブログはまだですが)
KY。おそらくですが、自分の脳内の記憶から推測するに…
小さい頃は非常にほがらか・天真爛漫・にぎやか・声がでかい・調子のりで、
ひとりでも平気でしたが、幼稚園では対人は積極奇異タイプでした。
その時は、ほんっとに『空気があることすら知らない』むかつくほどの無垢なこどもでした。まさにKYだったと思います。
そして相手に思いっ切りはっきりと嫌な顔をされて、
『うるさい』『せやから嫌やねん!』『しつこい』『でしゃばり』『おせっかい』と言われて、やっと知るその空気の存在。
それ以降は(小学校4年頃から)他人の表情と目線と声の調子と陰口にアンテナ立ちまくりになって、
嫌われたくないというのもはたらいて(←はしょりますが、捨てられたくない等の生育歴も大いにまざっての反応です)
高校まではいわゆる相手の言いなりの、奴隷状態になりました。
この頃は私の脳内は『空気』ばっかりでした(苦笑)
そんな自分と今をあわせると…『自分の無さ』の強弱でKYなのかどうかが変わるのかなあと感じています。
これは自分で勝手に名付けた言葉、なのですが…自分の中の芯のような確固たるもの→『軸』と自分で呼んでいます、
これが、なくなるまたは希薄だと、私の場合、対人においては相手の全てが『自分を形作る情報』です。
なので意識しなくてもガンガン『空気』を脳内に入れますから、相手にしたらうざいと思うほどに(私にその自覚がなくても)読みまくるんだと思います。
これが自分の軸は持っていて、なおかつ人と関わろうとする(他人の軸なんて知ったこっちゃないくらいの自分を保てるものが既にある)のなら、
単なる私の推測の域を出ませんが、KYになれるのかなあ、と思いました。
これが、この記事内での『立派な校長先生』等、職においてうまくはまるケースにも通ずるのでは…と感じました。
世の中には、どれ程の発達障害者(児)がいるのでしょうか?
15万人程度の市内から、私の施設に通ってきている子(診断された子ばかりではありませんが)は、1歳~6歳までで170人程います。
先生の分析は、ウチの家族にはピッタリと来るので、ウチの場合5人が全員発達障害の疑いが濃いです。
>私が接しているASの人は人を近く感じているがゆえに苦しんでいる人が多く、その意味で私には「ASは空気が読めすぎる」という風に見えていたからだ。
・・・このことは、私が旦那や三女に強く感じていたことでした。
ことばでは、「人が嫌い」だとか、「独りが気楽」なんて言うんですが、
実際は、私の方が、人と関るのは平気な割りに、人がいなくたって平気だったりします。
しかし、旦那達は、かなりの良い人を演じ、クタクタになってしまし、その結果「人嫌い」と言わざる得ないように思えます。
marioさんのコメント通り、
>人を近くに感じる結果、空気を読むと精神的に辛いから、シャッターを下ろしてマイペースに生きる方法を、本人も知らないうちに選択しているのではないかと想像しています。
↑これは、ウチの旦那にも当てはまると思います。
※ウチの旦那は、marioさんのように、自分や人を知ろう!分かろう!としない点で、人生豊かになりそうにない。。。
はじめまして。アスペの兄を持つ者です。
兄は26歳になりますが、この歳になってもかんしゃくや八つ当たりが多いです。
小学生の頃は、学校で嫌な事があると嫌な顔をして帰ってきて暴言を吐いたり、家族に八つ当たりをしてきます。歳をとればましになると思ったんですが、ますます酷くなってきました。高校生の時は公共物の落書きや私との喧嘩も激しかったです。20代の時は、ベランダの近くで雑談をしている若者達にイライラし、そしてついに爆発し怒鳴り声をあげた事もありました。どうしてこの程度で怒鳴り声をあげるのかみっともない男だと思いました。
何故こんなに暴言を吐いたり幼稚な事をするのか理解出来ません。母も精神的に参っています。
去年、精神科に行って調べて診たらアスペルガー症候群の疑いがあると言われました。兄の特徴を見たら当てはまる事がいくつもあります。それには驚きました。兄はこの障害のせいでかなり苦労してきたんだなと思いました。ですが関係のない他人を傷つけるのはお門違いだと思います。
当人はもっと早く精神科に行っておけば良かったと激しく後悔しています。そんな兄に哀れみを感じています。
自分の欠点を整理しているうちに例えを思いついたのですが、私は『右脳が犬で左脳が少容量のPC』だと思いました。
犬のように人の指示を待ち、人が受け入れてくれる時を待ち(無意識でも)要求し続け、融通が利かず、一人であることに価値を見いだせず人間でも犬でもボスだと思うと付いていき、一方頭を使い続けるとオーバーヒートし、一人では冷やせず、プログラムを待ち、セットを待ち、操作を待ち、押すべきボタンを押さないと一晩でも次に進まないで止まっていることがあり・・・。
いや、ささやかな自虐の冗談です。
独り立ちしてからずっとでもありますが、最近特に実家との関係の整理されていない違和感を思い返していました。
書けそうなテーマの記事を待っていたら、忘れかけていました。
私の不満の主軸はASの基本である、『私のことの理解を伴った感情的な話を何時間もできないこと』であり、これはいわば不治の持病なのですが、きっかけがあると爆発しやすくなった私を、帰省中はいつの間にか母親が一人で引き受けようとしようとしているのではないかと気付きました。
きっかけは家族で団体行動や冠婚葬祭に参加するときに、私が理解可能な説明と指示を要求しても貰えかったことですが、それから私の頭には、家族全員に私の理解レベルを正確に知らせてどこまでどんな状況なら指示可能かの聞き取りと、それを感情的にする気があるかと私はする価値のある家族かと、将来起こりうる緊急事態には私はどういう扱いを受けるのかを、全部話し合って議論したい要求が、可能か不可能かに関わらず“住み着いて”しまいました。
母親はもう何年も前、私が発達障害を知って騒ぎ出した頃に短い特集番組みたいなテレビを見て幾らか知ってくれているそうです。
ただ、中途半端な初心者知識は誤解を生むことがあることも、私が分かってきたのが最近なのですが・・・。
何が不満なのか言え言えと催促した後、延々と先回りした答えと関連事項の説諭が来て時間が来たら終り、みたいな話し方が昨年はあり、(ん?)と違和感を感じていました。
「我慢して生きることは健常者も発達障害者も当たり前だけど、我慢するための消耗はやっぱり健常者より強くてそれも言えなくて辛いよね。」みたいな話が通じるのは今はパイプ(繋がり)無き当事者です。
母親は「辛さは誰も変わってくれないし守ってももらえないよ。」と初級コースの先回りを念押しして繰り返します。
脱線しますが思い起こせば、私が子どもに話す話し方もだんだん似てきた気がします・・・。
続けます。
続きます。
はたと、もしかしてアルコール依存等の病人に対する対応はこれに似ているのかしら? と感じました。
今日飲んでいいお酒はこれだけ、後は終り、のような。
(実際には一滴も飲ませないことは知っています。)
依存症者対応が近づいてきているということでしょうか。
私の場合には、これは正しいのか間違いなのかは分かりません。
私が病んでいることは忘れないようにするつもりです。
ある本で「アスペルガー症候群と高機能自閉症青年期の社会性のために」という本を見ましたが、C君の事例で彼には、禁句があり「違う」という言葉を使うとパニックになり暴れる事があります。禁句を言わなければいいのですが、人を不快にさせる言葉を平気で言ったりする事があります。
「その言い方は、言われた方はとても嫌な気分になるよ」と言っているのにC君は、「自分は嫌じゃない」と言い友達を怒らせたことがあります。他人が嫌な気分になるのは知ったことか、どうでも良い考え方です。これでは怒らせるのも無理はありません。
また校長先生の話がつまらないので大声で「つまらない話だなあ」と言い、校長先生に「その態度は小学生として違うでしょう」と禁句を言われパニックになりました。
「違う」という言葉だけで何故パニックになるのかというと過去にとても嫌な場面があり、「違う」という言葉が引き金となりその場面に戻ってしまう事があります。いわゆるフラッシュバックです。
障害の事が理解できていない人間が見れば、些細なことで情けない、自分勝手だと言われるのは必然です。
私は思ったのですが、C君は何故「自分の言い方は他人を不快にさせているのか」「自分の言い方はどうして友達を不快にさせたんだろう」と思わなかったのでしょうか?。
「自分の行動、言い方は正しいのか、場の空気は読めているのか?」と立ち止まり疑問に思うことが必要だと思います。
定型発達も発達障害も疑う事は必要です。
しかしアスペルガーの人に理解したい、考えられるようになりたいという思いを持たせるにはどうしたらいいのですか?。いまだ答えが見つかりません。
今井A作さん
あなたの書き込みを読むと正直言ってムカつきます。
書いている内容を読み替えると「定型発達である自分が、ASの兄をどうにかAS以外のものに変えてやることで、自分が楽になりたい」って事ですよね!
(ま、私が元妻を何とかしたいと思ってた頃に、同じムカつきをADHDの皆さんが私に感じていたと想像してます…)
ましてや、本に書いているASの人の例をここに書いて、どうしたいのでしょう?「ASはこんなに酷い」んだと訴えたい?
ASに限らず、現状をどうにかしたいって言う気持ちは本人が持たなければどうしようもありません。お兄様がご自分で「どうにかしたい」って思うしかないと思います。お兄様が「どうにかしたい」って思った時に“今井A作”さんがヒントを与える事はきっと出来るでしょう。
その時まで、ASについてもっと勉強されては如何ですか?今はASの表面しか見ていないように感じますし、「ASが異常なんだ」という意識のままでは、お兄様に必要なタイミングでヒントを出すことも出来ない。むしろ今の“今井A作”さんの気持ちのままでは状況は(お兄様との関係も)どんどんと悪くなると思いますよ。
先生のサイトのASに関する解説やここの過去ログに、しっかりと目を通される事を期待します。その上で、ASに関して疑問がありましたら、出来る限りお手伝い致しますよ。
私にとって(ASにとって)ASの(本人の持つ)世界観は正しい。その世界観ゆえに社会で上手く行かない面もある。意識して社会に合わせて上手く行動するのも、社会から孤立して自分らしく生きるのも本人の自由。お兄様がASであるならば、その事だけを知って欲しいと思います。
>状況察知能力だけ使って生きているタイプのASは周囲に流され続けるが、自分自身のこだわりとの矛盾で大変
私のこだわりは、雑談を私の評価と私の価値のバロメーターにすることです。
実際は、そんな大層なこだわり無しに考えを口にする人のほうが多いことは分かっています。しかしこだわる人も居る所には居るのです。特に職場では、外れを出してはなりません。
相手の気分で私の取るべき態度の正解は変わります。
申し訳なさそうな態度が正解の時。
淡々と話しに合わせているか顔は上げながら黙ることが正解の時。
相手が“誰にでも友好的ないい人”を周りにアピールしたくて私にも話を振っているときは応じるのが正解。
相手がアピール対象がいなくなって素に戻りたいときは無言の要求を読みとって自主的に黙ることが正解。
気配を消して正解の時。
身を乗り出して関心を寄せている態度で正解の時。
“自分の世界に引きこもっている”と思わせない程度に発言して正解の時。
あえて発言する意志を見せてから素早く黙って微笑むことが正解の時。
いずれも“今そこにいる相手の要求を今満たしているか。”と“将来来る気まずいピンチにどれだけ備えを積めるか。”が勝負所で。
社会は私に“統合失調症にでもなれと言いたいんだね?”と問いたくなることもあります。
二十代の昔、発達障害症状を知られてあからさまに雑談を打ち切られた相手に切れかかったことがあります。
その後、相手の婚約者から(どういうことだ?)と探られました。もの凄く不愉快でした。
インターネットを覚えてからも事あるごとに怒りは再燃し続け、荒れ続け、喧嘩を売られたら買って、違うきっかけでも再燃して、勝敗が付く前に飽きられたら覆してこだわり、逃げたら食って掛かり、スレッドストッパーという現象を起こし、薬では当然治まらず、生活が乱れ、相手と再会したら順番を待ってでも話しかけて固まらせても気が済みませんでした。
時には、インターネットで定型者が『もの凄く恐い。』とASに対して評する、吊り上がった三白眼もしました。
そのまま愛想笑いもしました。
引きつろうが目が座っていようが、笑わねばならないと状況判断をすればいつでも笑顔をしました。
私にとっては社会への先制攻撃でした。
私は人からどう思われているのでしょうね・・・?
ぴよよさん。書かれたということは、ご自分でもお気づきでしょうから、要らぬお世話とは思いますが、、
こりゃ、大変疲れるこだわりですね。
私は、自分のこだわりを商売に、生計の道にしているから、その点からブレーキがかかるけど、ぴよよさんのはブレーキがあるのかしら?
>社会は私に“統合失調症にでもなれと言いたいんだね?”と問いたくなることもあります。
私には、社会ではなくて、ぴよよさんのこだわりと見えます。
>引きつろうが目が座っていようが、笑わねばならないと状況判断をすればいつでも笑顔をしました。
私には、怖いと言うより、不気味です。
作り笑顔にくらべ遥かに”引きつり、据わった目”が強いことから、そちらがぴよよさんの本メッセージとは判る。
何が原因でそうなったのか判らないが、笑い顔ですから、そう見られたい、友好的ですと思われたいのはわかりますから、その場では、こちらも愛想笑いをして済ませますが。。
いつ何時、”引きつり、据わった目”をもたらす情動が爆発するかわからないから、できたら、ぴよよさんの攻撃範囲から外れていたい。職場やご近所にいたら、ワンクッションもツークッションも置くようにする。荒ぶる女神さまとして神棚に上げて奉っておく。
ヒゲ達磨さん、こんな“ふて腐れ”に、コメントありがとうございます。
とてもまっとうな見方であり、人の良い人ならごく当然な反応だと思います。
でも、これが私の少なくとも過去の姿であり、これからも転勤等で再び環境が変われば元に戻るのです。これからは加齢のハンディも加わるのです。
しかし仕事を辞めるわけにはいかない。
サラリーも病休も住まいも保証された場所を「きつい。」と言っても、もう誰も信じない。
第三者から見て仕事が出来ている状態と、損得を共にする同僚から見て仕事が出来ている状態とは違います。
私に逃げ場はありません。
セルフコントロールをやりすぎると仕事の落ち度に繋がります。
睡眠時に悪夢を見ている同僚もいます。
私だって例え再燃でも幻聴でも、白昼夢やミスを防ぐためなら避けていてはいけないのです。
距離を置いて欲しいときに都合良く、親切に距離なんて置いてくれません。
そして私に寂しさが何時間連続で再燃しても、気付いて歩み寄る人は今はいません。気付かせたら謝ります。
それが私の教わってきた、仕事です。
しかし、仕事のボリュームが減りました。特に女性同士のチームの仕事環境の中で、これがどう普段の空気に作用するか、ご想像できますか。(体調に差し障るようでしたらおやめ下さい。)
私にブレーキが存在しなくても、同僚も家族もインターネットで関わる人達も本来は私の実態をよく見ないで、適当な先入観で切り貼りしたイメージで片付け、私を放置する自由があるのです。
たまたま私に言語力があって書いて整理出来るだけであり、表現できない過敏なASの一部は、行く行くは世の悲しい事件の一部を仕方なく起こすしか方法が無くなっていくのかもしれません。
>インターネットで関わる人達も本来は私の実態をよく見ないで、適当な先入観で切り貼りしたイメージで片付け、私を放置する自由があるのです。
と暗に、知りもしないで勝手な事言わないでといわれても、幼き頃、口から先に生まれたと親にあきれられた積極特異ASのサガなのでしょうか、書き込まずには居られません。ご容赦ください。
私は、小・零細企業に務め主に現場系の仕事をしていました。一応、サラリーは保証されていたのですが、それでも、辛抱できないで、このままなら対人折衝を主にする立場に成らされ潰れるとおもって自営(超低所得)に逃げ出した者ですから、>サラリーも病休も住まいも保証< できる大組織の中で、逃げ場なしの覚悟を決めて踏みとどまっているぴよよさんに、何かいえる立場ではないのは重々承知なのですが、、、 >特に女性同士のチームの仕事環境の中で、これがどう普段の空気に作用するか、ご想像できますか。
真夏に、人身事故で線路に止まってクーラーも止まったいる、お局様専用の満員電車と解きます。
以前の仕事で、仕事がない時は、男だらけの現場系ですから、一番下っ端の若い衆を、今の言い方だと「いじくる」そうして時間をつぶしていました。余りに弄りが酷い時には何か作業を見繕うのも私の仕事のうちでした。体を動かさせて、気を紛らわすのです。
そうした仕事の種もない状況で、女性だけ、事務系、ムムム・・
そこにぴよよさんのこだわりですか、、更に >気付かせたら謝ります。それが私の教わってきた、仕事です。<ですか、、 適当な先入観で切り貼りしたイメージでしょうが、こりゃ確かに「きつい。」
>と暗に、知りもしないで勝手な事言わないでといわれても、・・・
まあ! ごめんなさい! ヒゲ達磨さんに向かって言ったと取られてもそういえば無理もない書き方ですね!
文面から察して・・・大らかで余裕のある受け取り方をしてくださったようで、ありがとうございます。
もっと余裕のないASのかたでしたら地雷になっても仕方がない所でした!
あの表現が指していた相手は主に、もう何年も前、私が発達障害を知り始めてから所属した当事者集団のことですよ。
当時は僻地に住んで・・・もっともっと仲良くなりたくて、教わりたくて、昼夜理想化し続けて・・・携帯もPCもそうして買って、覚えていきました。いわば障害者初心者の頃の、“師匠”のような集団でした。
どんな経緯で「いち抜けた」したかは省略します。
正直今でも消化?昇華?し切れてないですね。自己管理の課題の一つなのです。
>真夏に、人身事故で線路に止まってクーラーも止まったいる、お局様専用の満員電車と解きます。
上手いです。私はこういうユーモア返し、練習中ですがなかなか閃きませんネ。
>何かいえる立場ではないのは重々承知なのですが、、、
私だってそれは同じですよ。私は“決断”が出来ません。
(発達障害の代表的特徴の)物を捨てられない同様、人様に期待されてない状況で、何か新しい決断をすることが出来ないのです。
ASの特徴の急な予定変更が辛いことと同様、今居る環境を自分の決断で変えるなんてとてもとても考えられないだけなのです。昔、抑うつで体と思考がみるみる参っていった時もそれは変わりませんでした。何も決められないまま動けなくなった私を、最後に引っ張り起こしたのがリタリンと『友達が出来るかもしれない。』という希望でした。
ヒゲ達磨さんは、私が出来なかった“自主行動”で、生き方を変えた経験をした人だと思います。これも非常な勇気が要ることだっただろうなと思いました。
>この意味ではADHDのほうがはるかに「自閉的」で、根本的には人を必要としない。また本当の意味でKYでもある。
そうなんです。「これがASだ!」と最初気が付いた時そう思い込みました。
精神科でそう言ったら通じませんでした。
はい。
>私が接しているASの人は人を近く感じているがゆえに苦しんでいる人が多く、その意味で私には「ASは空気が読めすぎる」という風に見えていたからだ。
私はASの事を、「自分と他人の境界が曖昧な状態でありながらも、何事かを解釈し語りたい症候群」だと、ずっと思っています。
ADHDと話している時には、鏡に映ってはいるけれど、明らかに自分ではない人間と話しているような感覚になります。
(自分と同じ動きや思考はしないよなぁ…。分からない、一体何者なんだ? と思いながら話しています。)
もしかしたら、
人の存在を感じ、モノローグで語るのがAS。(多数派から見てKY)
人の存在を感じず、ダイアローグで語るのがADHD。(多数派から見て、自閉的?)
なのではないかな、と、ふと思いました。
私は、「非言語的な状況察知能力が乏しいKYのAS」かもしれません。
TVドラマに出てくるような「女のバトル(職業的だったり、恋愛的だったり)」は、自分なりに解釈を付けるというよりも、起こっている事自体の意味が全く分かりません。
考えようとすると頭がオーバーヒートしてしまうので、「(非言語的な状況察知能力を駆使するような)世の中のことは、全て分からなくていいや」と、ずいぶん前から放棄しています。
自分は(ADHDは)既に他者そのものなので、わざわざ他に他者は要らない。
というのが根底に基本的にあるように思います。
他者は我に向かって問いを発する。
これを一人でやっている・・
二項関係を一人でやってみせているというか・・
あとASの人の中には、何とも関係の無い、この世にしかない幸福がある気がします。
生きている実感が希薄なのかな…?
YANBARU先生が書かれた「非公式な文章、エッセイ」をずいぶん前に見ましたが、どうもADHDの人は、虚空の中に生きているという気がします。
私の想像すら及ばないものがあるのではないかと思うのです。
(文筆家の池田晶子さんは、ご自分の事について”命根性がない”と表現していましたね。)
ASは、こだわりの矛盾などにより大げさに騒ぐけれど(本人はとても真剣です)、生きている実感は充分すぎるほどに感じていると思います。(生きている実感が過剰すぎて辛い)
実は、道産娘さんのような方(依存型ADHD情緒障害型)と、高校時代3年間同じクラスになった事があるんです。
知り合った時にはすでに、私(KYのAS、積極奇異型)も、彼女(依存型ADHD情緒障害型)も、おそらくACの状態で、それで3年間一緒にすごして更にお互いボロボロになりました。
彼女のメールの本文に、私の事について「羨ましい」という印象的な言葉があった事を思い出します。
先生、障害オープンで就活していましたが採用になりました。「迷惑をかけても生きる」の記事を書いてくださって、本当にありがとうございます。
おお!さーこさんおめでとうございます!!
JET様
ありがとうございます(^^)嬉しいです。
なんだか、あれよあれよという間に採用が決まってしまいました。昨夜は今までにない経験の中で「そうか、障害をAS的に表明(強弁)しなくても良かったんだ…」と、今までの私自身の認知と行動の間違いに自分で気づいて唖然としていました。
面接の場では障害について、AS的な「表明(強弁)」はしませんでした。
ただ、人事採用の方への言語的説明に留めたのみで、相手方の反応と印象評価を受け止める事に努めました。
ASの特徴は人を近くに感じるという事なので、相手と距離を詰めすぎてしまうかもしれないと思い、話が終わりかける頃に雑談の話になったので、その時に、自分の失敗を自分で笑い飛ばしたエピソードを相手方に公開するように話して、和やかに話が終わりました。
面接現場では、その時その会社の状況により、何が起こるか分からないので、
とにかく先入観を持たないようにしよう、という事を思いました。
日頃から規則正しい生活を心がけているという事や、兄夫婦と同居しているという事(兄嫁との会話力、雑談力が少しある)という話を最後にしたところ、おそらくプラスの評価に繋がったと思います。
後は、運が良かったんでしょうね。
合理的な話ではないところの、「印象」「人間性」などの他の要因が加わり、「利益貢献(障害者雇用)」を考えた時の総合評価だろうか、と拙い頭で推測してみています。
YANBARU先生の言葉を始め、JETさんや皆さんの言葉があるから、自分を鼓舞してここまで行けたのだと思います。
ありがとうございます。
補足しますと、
>TVドラマに出てくるような「女のバトル(職業的だったり、恋愛的だったり)」は、自分なりに解釈を付けるというよりも、起こっている事自体の意味が全く分かりません。
私は意味は分かりますが参加しないです~。
>あとASの人の中には、何とも関係の無い、この世にしかない幸福がある気がします。
>生きている実感が過剰すぎて辛い
これは私には、最初にあった僅かなものを大切にしているという感じです。
羨ましいとか思わないです。その人と居れば言葉の端々に感じることが出来るもので、私のほうはそれでいいのですが。
ASの人は苦しんでいるんですね。(鈍い私でも感じられるほどに・・)
>生きている実感が希薄なのかな…?
命根性という言葉があるんですね、知りませんでした。
命根性、私もないですね。
他の人はあるんじゃないかな・・
先天的に情緒障害なんじゃないかな・・・
あっなんか、あっ
変なコメントがはさまってしまいました
さーこさん素晴らしく良かったですね!無理せずに、ご活躍を祈っております~!
JETさん、お気になさらず^^ インターネットを使っていると、生活状況のわからない複数の人間同士が、ほぼ同時刻に送信するという現象が起きたりするのですよ。
補足すると「命根性」という言葉は、池田晶子さんの造語です。(ご本人が、造語、と明記していましたよ)
>>生きている実感が過剰すぎて辛い
>これは私には、最初にあった僅かなものを大切にしているという感じです。
>ASの人の中には、何とも関係の無い、この世にしかない幸福がある気がします。
>その人と居れば言葉の端々に感じることが出来るもので、私のほうはそれでいいのですが。
訓練校の先生をしているADHDの人(おそらく、のび太AC)をよく見ていると、卒業生の私(AS)と会った時に、私の方を見てふと微笑む事があります。幸福、という気配を感じるのです。
これはそういう意味だったのですね。
今日は会社の方の休診日なので、気兼ねする事なくゆっくり休んでいます。
ありがとう。JETさんも、無理せずにね。
先日、改めて自閉症スペクトラム指数の自己診断をやってみましたが、閾値に近くはあるものの、正常の範囲内でした。
33点が閾値のところ、31点です。
しばらくの間コメントを控えて考えていました。過剰反応してしまうのは私の事情(勝手)です。
ACにしろASにしろ、他者との距離を近く感じてしまう特性があるのなら、なおのこと、原因は私にあります。
過剰反応してしまうのは自分の選択の結果であり、私には過剰反応しないという選択肢もあるはずです。誰かに守ってもらうのではなく。
YANBARU先生、私と他者を、守ってくださってありがとうございます。
またゆっくりと古い記事を読んでいたのですが、何年も前のコメント者の中に、自分にとても近いと感じる人がいます。その人の迷いや思考の軌跡が、私に力と視点を与えてくれます。
最後に自分のことを書いてみようと思います。自分の、他者から見てわかりにくいだろうなと思う部分について、ゆっくり書いていきます。
コメントが使えるものなら載せてくださればいいと思いますし、使えないなら捨て置いてください。
私は、自分が新しい視点を手に入れた瞬間をよく覚えています。
小学校4年の夏休みに、私は入院をしました。担任から「夏休みの宿題はしなくていいから、作文をひとつ書きなさい」と課題を出されて、入院した経験について作文を書きました。入院しているとき、仲の良かった友達が一人お見舞いに来てくれたので、私はそのことを作文に書きました。
「○○ちゃんだけが、お見舞いに来てくれました」
添削がてら読んでいた母が「この表現はよくないね」と私に指摘しました。私は何がまずいのかわからず、「どうして?」と母に尋ねました。
母は少し考えて、「もしかしたらお見舞いに行こうと思っていたけど、来れなかった友達がいるかもしれない。その子を責めることになるから、こういう書き方をしてはいけない」と説明してくれました。それを聞いて私はとても驚いて、深く納得しました。
母は私に、私が思いつかなかった「可能性」について、過不足なく指摘してくれました。
もしこれが「見舞いに来てもらうのが当然だと思っているのか」といった感情的な視点からの指摘だったら、私はとても混乱したと思います。
私が他人に悪意を持っていなくても、他人からそれを向けられることがあるのだと理解したのは、12歳のときでした。
「大変だ!世界中の人に教えてあげなくちゃ!これは大発見だ!!」と妙に興奮しました。さっきまで落ち込んでいたのに、奇妙にハイテンションになって。
私が初めて「妬み」を理解した瞬間です。
私はもともとはKYなタイプのASだと思います。
孤立型ASのコメント欄で「受動突っ込み(失敗体験)」が抑制的に働くという話題が出ていて、そのとき「私も多分これだなあ」と思いました。
他者からの視点(他人から自分はこう見えるだろうという視点)を自分に取り入れているので、外からは何となく空気が読めているように見えるだけだと思います。
たとえば、正確さやルールに拘っているASに対し「目立ちたがっている」とか「勝ちたがっている」といった批判は、ASにすれば的外れな突っ込み(非難)です。
この視点を使って自分で突っ込んでみたところで、意味もわからないし、病的になりようがありません。
そんな論点ではない、だからこの突っ込みは採用しない、となれば不適応のまま我が道を行き、その結果、他者からは「目立ちたがりで反省しない奴」という評価をもらうでしょう。
私はいろんな場面で、自分が不適切な言動をした(対人面で失敗した)ことを感じてきました。
それでも散々好きなように突っ走って来ましたが、多分、例の彼との関わりの中で自己評価が下がってACになったのだと思います。
「『私はこう思う』『私はこう思う』って言うな」「自分がバカだと言うことを自覚しろ」「自分はバカですって毎日唱えてろ」「何でお前は自分が普通だと思うんだ」
毎日何時間も罵倒されていましたから。
でもお互い様です。私がついにキレたときは、「あんた、本当に頭悪いよね」と言ってましたから。
(「好き」だの「お前、離れて行かないよな」だのと言いながら、嫌われる言動をする彼のことが全く理解できなかったので。対人はシミュレーションとか演算するものだと思っていた私には、彼の言動は頭の悪いようにしか見えませんでした)
私の言葉は、とても防衛的です。
「普通は、○○という見方をすると思います」
私は、自分が「規格外」であることを自覚した上でこう発言します。(「私個人はそうは思わないのだけど」というメッセージを込めて)
この文章を「私は普通の人です」という前提からの発言に読んでしまうと、反発を覚える人もいるのでしょう。
もう少し進んで「私は普通を理解しています」という前提が気に障るのかもしれませんが。「上から目線」という言葉もそうですね。
自分はそのつもりはなくても、他者からはそう理解されるであろうことを私は知っていますから、最初に「(私の意見は)上から目線と思われるかもしれませんが」という書き出しをします。
シンプルに読めば、他者の目を気にするACのように見えると思います。そしてこの多数派向けの配慮が、一部の人の感情を奇妙に刺激するらしいことがわかってきました。
私にとって難しい人(見たことないタイプの人)にうまく対応しようとして、奇妙に捻じれていったのかな。
「ASは悪意の有無にこだわる」話がちょくちょく出てきますが、私は「相手の意志を確認したがる」としたほうが正確に思えます。
ASは他者から誤解されがちです。(目立ちたがっているとか、わざとやっているとか、あてつけがましいとか)
日常的に誤解されるASが、相手を誤解する可能性を減らそうとすると、どうしても『意思確認』がしつこくなります。
防衛的な前置きと、意思確認。
自分が世間の人たちとズレている自覚があると、そうなると思います。
コメント欄を拝見していて、私の中に非常に近いエピソードをいくつかもっている事に気がついて、少々驚いています。
私が思いつかなかった「可能性」について過不足なく指摘してくれたのは、私が小学校高学年時に2年間教わった担任の先生でした。
その時の私は、教えられた事についてあまりよくわかってはいなかったけれど、先生には今でもありがたく思っております。
子どものころ、いくつかの人間のまとまった同級生グループ(複数)から得体のしれない目線で見られていた事があります。気味の悪い目で見られた事もあります。
私が、小学校6年の3学期という非常に半端な時期に転入してきたため、離婚して苗字が変わってしまったという以前からのクラスメイトもいる中で、私の存在と振る舞いは、おそらく奇妙なものに映ったと思われます。
高校では特に、教師から同級生を含めて半分以上が私にとって難しい人(見たことないタイプの人)のオンパレードでした。
一生懸命うまくやっていこうとしたけれど、私の本心は奇妙に捻じれにねじれて、最終的には成人後に身体と精神をほとんどこわしてしまいました。
私の多数派向けの振る舞いが、一部の人の感情を奇妙に刺激するらしいこと、私には覚えがあります。
おびえながら防衛的になっていた頃を、少し思い出します。
おそるおそる巣穴から出たかと思っていたら、即巣穴に逆戻り、みたいな。
私はKYのASのままですが、かなり若いうちから、自分が幸福に生きられるかどうかは他人との比較とは関係がない、という事を確信しているので、妬みといった他人と比較する感情を理解する重要性がわからず、別にわからないままでもいいか…、と思って生きています。
私はこの生まれ持った直感と、倫理観による思考力を大事に育ててきているので、あとは、自分の本心をゆっくり思い出していけばいいのかもと思っています。
中学のころ、私にとっての対人関係とは、話合わせのための演算計算と、それに伴う情報収集をするものだと思いかけた頃がありましたが、孤立型ASらしい弟に言わせると「それは違う」のだそうで、その頃からかなり苦しみましたね。
よくここまで生きてこれたものだと思っております。
非言語的にイライラを振りまいたりして周囲を振り回すこと
<<<<< 最近やっと自分が発信してる事に気付きました。 が、時既に遅し、隠語で悪口言われてるし(統合失調症ではない) 多動、衝動でチーム仕事かき乱し(KY全開) 1人仕事はやり切れず(依存、先延ばし) KYの方が安定していて良いと、、、、 <<<< との事ですが、上記の事に気付いた時のパニック感とかは半端ないですね。 堪えても、明らかに顔色に出てるし。 多数派のプラグインっぷりは凄いですから。。
私も文章がくどい、とはよく言われますよ。
くどくしないと誤解されることも多いです。
でもこのあたりの苦労はみんな同じですよ。苦労の中身が違うだけで。
多数派も発達障害の権力者に「中身が無い」とか罵倒されるのも良く見ますから。
ここをよく読んでいれば、「誰にでも通用するようなやり方なんてない」のは良くわかります。
難しい人に対応しようと思うより、どうしようもできないことがあると思ってあきらめる方がいいですよ。
こう割り切れるようになったのが、ここで学んで一番良かったことかもしれませんね。