「言ってやってもらっても駄目、意味が無い」という感じ方はAC特有の発想であると言われているが、表面的にはACでないジャイアンにも受動型ASにも同じような発想と行動パターンがある。
①ACの場合
「自分がそんなことを口で言おうものならとんでもないわがままと思われて嫌われる、見捨てられるから言えない」。幼少期の家庭環境の中で「本当のことを言ったら見捨てられる」という不安が強かったことから来る認知と行動のパターンである。
②ジャイアンの場合
「人にお願いすると後で自己突っ込みがきついのでお願いはできない」「自分で責任を取りたくないのでつらくてもお願いはしない」。独立独歩の中心志向と責任を取りたくない志向が両方とも非常に強いので、自分からお願いするのは都合が悪い。
③受動型ASの場合
「そもそも自分から動く必要自体ありえない」「当然相手から動くべきだ」。依存させることを約束したわけだからその相手に対して自分から動く必要は感じない。結果自分のほうからは絶対に電話しなかったり、言葉では何も言わないで、聞きもしないで相手のことを断定することが多い。
「言ってやってもらっても駄目なのよね」「そうそう私もそう思う」と言っていてもお互いに全く違う意味で言っていることが頻繁にありそうに私は思う。。
>言葉では何も言わないで、聞きもしないで相手のことを断定することが多い。
これは事実ではありますが、動機は全然違います。
「聞く」という行為自体が面倒なんです。
出来る限り、人と接触する時間を減らしたいのです。
実際にそのように行動した場合、断定した内容が正しければ、そのまま流れます。
断定した内容が間違っていたなら、反論されます。
受動型ASからすれば、反論されたら修正すればいいんです。
反論される可能性まで込みで断定しているのです。
混乱を避けるために先に聞いておく、一見合理的な行動に見えますが、実際は平和な時間に単純に物事を聞かれた場合、頓珍漢な返事が返ってくる比率が非常に高いです。
一方、こちらが断定したことに対する反論は、その相手が本音で思っていることになります。
一発で相手の本音を知るための行動であります。
受動型ASにとっては、相手に誤解されたり非難されたりすることよりも、無駄な作業を繰り返すことの方が嫌なのです。
結局、受動型ASは、相手の本音を簡単に引き出すことが出来るので、
「空気は読めない非常識だが、大失敗は少ないし、極端に仕事が早い」
ということになります。
受動型ASから見ると、
「空気は読めるけど、そんなことしてたら効率悪くて仕事にならない」
というわけで、承知の上で行動している場合もよくあります。
m2さんの書き込みと同じく。全く同じです笑
それから他のこと。
>「言ってやってもらっても駄目、意味が無い」
先生にお願いがあります。
もうちょっと修飾つけた表現とか具体例をお願いしたいです。毎回ですがシンプルすぎた表現だと、なんとなくのニュアンスしか理解できません。
私の書き込みが見当違いでないといいのですが。
>「そもそも自分から動く必要自体ありえない」「当然相手から動くべきだ」
客観的にはそう見えるんだろうなとは納得できます。
でもAS側からの意見としては、ちょっと違います。
何か人にお願いしたい時は、頼みます。
ほんとに必要だと思う欲求の時は、強い表現します(それが突然だから周囲がびっくりすることが多いかも)
それを口にしない時ってのは、頼むほどのことじゃない程度の欲求だと思っている(感じているというべきかな?)から、それだけです。
意味がないとは思いません。
>聞きもしないで相手のことを断定することが多い。
そういう時はわかる気がするので、仕方がありません(^^;)経験則から推測していると思います。
リンゴを見てああリンゴだなと思う(だからそれ以上確かめようと思わない)、のと同じ感覚です。
きっと、ASはこの必要度合いが他のタイプとは違うんですね。
AC が強かった時は、自分には人に何か頼みごとをできるような価値がない、と思っていました。自己評価が低すぎて「頼む」という発想すらなかったです(もしかしたら人間じゃないと思い込んでいたかも)。
ACが回復して、気付いたときにはもうジャイアンでした。頼んでも相手に拒否されると腹がたつし(主に主人に頼んでいました)、こちらの望んでいたやり方と違うとまた腹が立ち喧嘩になるのくり返しで、結局自分でやるのが一番都合が良いとわかりました。だから人をあてにしなくて済むので気楽といえば気楽です。
逆に「頼む」とか「お願い」とかではなくて、家族に対して「命令」はよくします(あ~なんてジャイアン的表現なんだろう)。息子たちに「お風呂に入れ」とか「歯を磨け」とか。干渉というか支配なのでしょうか?でも放っておくと必ずサボるのでやはり「命令」なのでしょう。
>「言ってやってもらっても駄目なのよね」「そうそう私もそう思う」
この会話は主にどういう関係の人達がどういう関係を指してする会話なのだろう?と何回か読み返して考えました。
「駄目なのよね」が指す関係は、夫婦間や恋人間などの男女関係なのではないでしょうか?(たぶんここの想像も任されているのがヤンバル先生の意図なのでしょうが。)
夫に自分が具合悪い日の家事を言ってやってもらっても駄目、普段から自分を気に掛けて様子を見て察してくれないとパートナーとして許さない。
恋人に自分の誕生日祝いを言って祝ってもらっても嬉しくない、何も言わなくても普段から思い出せるくらい自分のことを気に掛けて、四方八方から機嫌を取る方法を考えてくれないと寂しいし愛されている気がしない。と、そういうシチュエーションで使う会話例なのではないでしょうか?
はずれですか?
>お互いに全く違う意味で
会話をしているのは、年頃の女性同士か、主婦同士がすぐ浮かびます。
「言ってやってもらっても」不満が残るほど、逆に言うと頼りにしたい相手というのは、配偶者や恋人ではないかと見たのですが?
母親が子どもにお手伝いの指示を出すのは、当たり前でしょうね。母親にしか分からない段取りがありますから、私は今でも母親の指示無しには一緒に台所なんて立てません。
姑とお嫁さんの関係…? 言わないで察してもらって当たり前になるかどうかは、もともと他人同士なのですからかなり無理難題な理想になります。
業者サービスでしょうか。黙ってサービス付けてくれるお店と言わないと付けてくれないお店があったら、付けてくれるお店に行きたいものでしょうね。美容院の肩もみとか、家電業者のテレビ設置とか、タイヤ交換の空気圧調整とか?
言わないで望む関係を、多数派の人達の暗黙の了解とばかり解釈してきた経験があるので、想像するバリエーションがあまり多くありません。
頭の体操としては、少しほぐされましたが。
先日来、注目して拝見しています。
他科の者です。
診断基準は基準として
個性の範囲からの逸脱がどの程度あれば
(もしくはどの程度本人、周囲が困っていれば)
精神科や心療内科にご相談をおすすめすればよいでしょうか。
分からぬモノにそれと名前をつければ安心はしますし
対処のしようも出来てきますが、逆に
名前をつけたことで現症が一人歩きすることもあり
非常に判断がつきかねています。
結婚してから言われた言葉に「顔見て分からんか?」というのがあります。
これは、『言わなくても、顔(俺)の表情を見たら分かるでしょ?』と言うことなんでしょうが、
>「言ってやってもらっても駄目、意味が無い」
ということに、つながるりますよね?!
あと、「○○してあげようか?」とか「○○してあげた」という表現に、酷く怒られたことがあります。
旦那いわく「『~してやる』なんて言われてまで、やってもらわなくてもいい!」と言うのです。
この時は、『言い方に気を付けなければならない、面倒な人』位にしか思いませんでしたが、
これってやっぱり、受動型ASの感じ方である、
>「そもそも自分から動く必要自体ありえない」「当然相手から動くべきだ」。
という、「恩着せがましく言ってないで、察してやりなさい!」ということだったんでしょうか?!
もし全然違ったら申し訳ないですが
この話はちょっと前の「腱鞘炎」の話から来てるんでしょうか?
そうだとしたら元々の話には共感できます。発達障害とか関係なく、
女性には普通のことじゃないかと。
「腱鞘炎なの~。大丈夫?って言って~。」とまで言うのは、
「もうすぐ誕生日だからお祝いして。」というのと同じで
厚かましいしとかちょっとさみしいという感じです。
(平気で言える人もいるんでしょうか。そういう人は
甘え上手なんでしょうかね~。でも、もし相手から
言ってくれたらものすごく嬉しいんじゃないでしょうか。)
→あー、自分はAS元夫に自分から言ってました。
言わないと永遠に通じないので。
という一方で、marioさんが書いてらした「「大丈夫?」っていうのは
嘘っぽい」というのも逆の立場で共感できます。
子供~学生時代、けがしたとき、特に仲良くない子や
別に好きじゃない子から「大丈夫?」って聞かれるのが
嘘っぽいからなのか分かりませんがすごくいやでした。
何でなんでしょう。理由は分かりません。
社会人になってから、周囲が誰も心配してくれないのも
寂しいものだなーとか別に本気で思ってるわけじゃなくても
気を使って言ってくれてるんだなー
と理解して、特にどうも思わなくなりました。
(と同時に自分でも心配してる演技して言えるようになってたと思います。)
先日3人(私とのび太さんともう一人)で話していたときのことですが・・・
その人は、病気でしんどいときに、夫に「○○(買い物・家事など)してやろうか?」と言われるとものすごく腹が立つそうです。「そこまで言うなら、してくれなくていい」レベルでの苛立ちを感じると。上から目線(手伝って<あげる>という態度)が気に入らないと言っていました。
話を聞いていた私とのび太さんは、「え?」「そこで腹が立つの?」という感じで、びっくりしました。
(私は「なにそれ、面倒くさい」と正直に感想を述べてしまいました)
私の場合、そもそも自分の都合で起きていること(自分が勝手に体調を崩したのが原因)なので、腹を立てたり文句を言う理由にはなりません。
相手がこちらの特別な事情を汲んで、特別にしてくれようとすることに対しては、「申し訳なさ(自分がやるべきことができていないから・相手の手を煩わせるから)」「意外さ(期待していないから)」それから「嬉しさ」を感じます。
逆に、私が相手の事情を汲んで何かをしないといけないときを思い起こしてみると・・・多分できていません。
例えば夫が飲み会に出かけていくとしたら、
私「そろそろ出かけるんよね?・・・そういえば、何(交通手段)で行くの?」
夫「駅まで自転車で行こうかな」
私「そうなんだ」
(しばらくして、はたと気が付く)
私「車出そうか?」
夫(嬉しそうに)「いいの?じゃあお願いしようかな」
という展開になります。
相手によっては、イライラさせてしまうんだろうなあと思いました。
私の場合、残念なことに相手がイライラしていることはわかります。(ただ、運よく相手のイライラの原因が理解できても、「して欲しいなら口で言えばいいのに」と思う)
その人は、周りの状況によく気が付く人なので、自分が困ったときにしてもらえないことが許せないのかなあと思ったんですが・・・私のこの解釈はどうも違うみたいですね。
こんにちは、やんばる先生。
このタイトルはよく分かりませんでした。
「(何かを他人に頼む意味で)言って(、そのことを)やってもらっても」という内容ですね?
ぼくは③です。頼りにはしたくないけどせざるを得ない対象の人間にヘルプを頼み、その人間が「俺にまかせとけ」と言ったとします。その時点からその人に丸投げするのでぼくは何もしません。数ヶ月後、不安になってその人の家へ行き「あれはどうなりましたか?」と聞きに行くのですがその時その人は無責任にも「あれは忘れて」と言ったとします。でもそのひとがぼくが頼んだ問題解決のために頑張ったけど出来なかったから「忘れて」と言ったのではなく、何もしないのに「忘れて」と言っただけなら「忘れる訳ありません」どちらかと言うと「忘れて」と言った方を忘れて、「俺に任せとけ」と言った方をいつまでも信じて待ちます。相手はぼくに「忘れて」と言ったから自分はもうなにもしなくてもいい、と思っているでしょうが、ぼくは一旦丸投げした相手に「忘れて」と言われてもそうそう簡単に丸投げをリセット出来ないので「任せた」意識をそのまま持ち続け、結果を待ち続けます。もうその人にとっての問題は他人のことで、自分のことではないから何も動いていないのに。
そのことを、漠然とは知っているのですが「何もしていませんね?」とは確認出来ないのです。確認すると、待ち続けた自分の時間が結局無意味だったことに気づかされてしまいます。そんな時間があればそのひとが無責任に「俺に任せとけ」と言わなければぼくがさっさと動けたかも知れないのに。そう考えただけで自分の「やってこなかった自分が許せない」感じで居ても立っても居られないほどの後悔と焦燥感にまた眠れないほどのストレスが生じると分かるからです。
私は言ってやってもらうのはOKなんです。必要な行動については頼める、でも言葉については誘導したくないので先に言いたくないというのはあります。こう言ってと頼んで言って貰うと、結局相手の本来の考えじゃないし。いっちゃなんだけど私にとっては嘘になっちゃう。
パートナーの場合会社用のエゴグラムで「褒めない人」とでて、褒めなさいというアドバイスがあって、そういえばそうだなということもあり、子供はいないからいいけどとりあえず会社でもっとやったらいいんじゃないのと話し合ったことも頭に残ってたので、私を褒めてみてと言ったのであります。私はごほうびシールは効果無いタイプだし思いつかなかった。そして自分のためであれば、頼むとつまらない。からいらない。でも、関係性というものに対しては、これはとても大切なことだったんだ・・・と思う。今まで褒めるということは、その相手と相手自身の主にスキルに対しての関係性の中の意味で言っていたけれど、相手と自分との関係性の中の意味のほうもたぶん重要なのだろうなと思う今日この頃です。そこがいまいちもやもや。知識としては知っているけど自分に対して実感をもって感じられないことは沢山ある。私は他に人がいるところで一人の人を褒めてASDぽい人に不公平と注意されることがある。なるほどASDぽい人や多数派ぽい人は一対一の場で褒めている。コーチングにもありましたが、これはいかんことです。褒める分には気が楽で、あまり重要でないことと思ってしまう。多数のやる気のある人に配慮・・・。