ASの人は基本的に発する言葉も受け取る言葉も「深読み」が必要だ。また、中心志向のある人も「縁の下の力持ち」「ナンバー2」という発言が多いのは何故だろうと考えた。
私にはASの人は特有のオモテとウラを使い分けているように見える。例えば道理では絶対に自分が悪いところでも、情緒的には救い(フォロー)を求めたりするのが当たり前になっている。
道理、理屈を主張する場面でも、よく見ると理屈と情緒的な訴えの両方がメッセージになっており、理屈は表面上のポーズで実は情緒的な部分が伝えたい本質的な内容だったりする。
ASの人は周囲の世界を「理解を求める一部の人」と、「その他の環境」に綺麗に分けるので、そのそれぞれに対する態度がウラとオモテになるのだろう。
例えば徹底的に合理的なADHDの親が、問答無用で合理的な基準だけで切り捨てる態度を取り続け、誰も情緒的にフォローする人が居なかったら、ASの子供はひねくれるだろう。「そこまで言わなくても」という感じで、厳しいではあるが、一部情緒的なフォローがあることがASの人には必要なように見える。
ジャイアンは表面、オモテがすべてなので、言葉で責めながら非言語的な態度でフォローしたら「どっちだ!」と追求することになる。責めるなら問答無用で徹底的に責めて貰ったほうがいい。なぜなら自分の中の自己突っ込みは当たり前にそこまで厳しいからだ。
当たり前に使っているので自覚はかえって難しいのかもしれないが、ASの人はオモテとウラの二つのチャンネルを使い分けている。対象とする世界がもともと二つに分かれていること自体が、ASで無い人から見ると理解が難しいのだ。
だから中心志向の場合でも、志向するのは「オモテの中心でなくウラの中心だ」というのが「縁の下の力持ち」の意味ではないだろうか?
「不満がある当の相手の前では何も言わないでおいて、話を聞いてくれる別の人に相手が居ないところで不満をぶちまける」という行動がAS本人には何の不思議も無いのだろうことが不思議に見える。
ASは人に裏表なくはっきり傷つけるとか傷つけないとか考えないで発言すると思ってたけど裏で不満を言うんですね。でも自分はそうです陰口言ってるみたいで嫌われても本人に言えるようになりたくてそんな自分が嫌でしたがいざ問題が直面すると言葉が浮かばなかったり多分根本にあるAC?無意識に嫌われるのが怖いって思いがあるんだと思います。そして帰って不満を言う。家に帰るとああ言えばよかったこう言えばよかった言えたらよかったって思ってました。ASの二つの世界っていうのは一つは自分の世界?空想のことを言うんですかね?自分の中ではその二つの世界は現実の世界と自分の殻の中のような世界な気がします。ナンバー2になりたいのはナンバー1になって孤独になるのを避けたいのかな?
aさんのコメントを読んで、気持ちがよく理解できました。
私の悩みは、何故人を傷つけることを恐れすぎて断れなかったり、或いは言い返すことができなかったり...と実に些細なことでした。
はっきり言われてビックリすることが多いので、人にもはっきり言ってはいけないと思ってる部分があると思います。
その結果、陰(安全な場所)で本心を言うしかなく、ものすごく遠回りしている気もしないでもないです。
(ASの人の事ではありません。私の身近にASはいません。)
私は2面性のある人、本音とたてまえがある人、裏と表がある人が苦手です。どちらが本当のその人なのかさっぱりわからないから。とても付き合えない。
それからジャイアンである私がいうのもおかしいですが、他ジャイアンの「慈悲深い良い人」(本人のほんとうの善意の気持ちであることは間違いないのですが)と「エゴイスト部分」も大嫌いです。だって結果的に私は騙されていることになると思うんです。慈悲の心でエゴをカバーしてるように思える。(本人はそのつもりは全くない、どちらもその人の素であることは間違いないのですが)
慈悲の心だけなら感謝できるし、エゴだけなら軽蔑すればいい。でも両面見えてしまうと憎悪の念さえ感じて、とてもじゃないけど付き合えない。
けれどそういう私も、身近な人や家族には両面だして不愉快な思いをさせていると自覚があります。だからやっぱり自分も許せない。
この項については、ちょっと違うな? と感じます。
積極奇異型ASの場合は、確かにこんなところはあるような気がします。
>志向するのは「オモテの中心でなくウラの中心だ」というのが「縁の下の力持ち」の意味ではないだろうか?
たぶん、もう一捻りあって、ジャイアンみたいに中心志向を公言してしまうと、実社会では、中心になりづらいので、「縁の下の力持ち」と言っておいて、裏の権力を持ってから、チャンスを待って表の権力を狙う、という思考回路になると思われます。
>「不満がある当の相手の前では何も言わないでおいて、話を聞いてくれる別の人に相手が居ないところで不満をぶちまける」
積極奇異型ASの気のある人達は、確かに夜の飲み屋で人の不満を言ってばっかりいるように思えます。
これも、正面から言うと、自分の地位が危なくなるから、その程度の理由でしょう。
どちらも受動型ASには全く該当しません。
そして、合理型ADHDは表と裏を使い分けているような感じがあります。
ここは、ADHD⇔ASのくくりではなくて、ジャイアン・受動型AS⇔積極奇異型AS・合理型ADHDのくくりで見ると、なるほど、と思うのですが、いかがでしょう?
かぜさん共感ありがとうございます。共感されるたびに自分だけじゃないんだ自分のような人間は他にも居るんだとホッとします。自分も悪気なく言ったことに対してひどいと言われたりすごく気を使ってるのに相手は別に気にしてなかったり空振りばかりしてきました。だから何を言えばいいのか分かりませんでした。それでACになったんだと思います。自分も裏で愚痴を言う遠回りが嫌でしたでもそれしか出来なかった。例えば嫌のことを言われてむかついても言葉が浮かばなくて怒る意味を見出せないと怒れないというかここは怒るべきなのか判断できません。でも裏で不満をこぼすとそれひどいねと共感してくれることがあるとこの出来事では怒ってよかったんだと認識します。でも自分の中で無意味に感情的にはキレることが出来ません。だから嫌われてもいいとか対等の立場だからこっちが大人にならなくてもぶつかりあえばいいと極端に開き直らないとACもあるのでなかなかキレることは出来ないなと思います。自分も些細なことですが結構深く悩んでます自然体で居れないことが嫌でそっちの方が自分の姿隠してるから大げさに言うと嘘をついてる気分?になって一人で勝手に罪悪感におそわれます。
こうしてコメントさせていただいている自分自身も、今は「オモテとウラ」を生きていると思っています。
オモテは、働く意志にこだわって全開にして、人に気を使って空気を読んで黙って、ときには状況判断をしておどけ役にもなる自分。
ウラは、こうして自分をひたすら客観視して、脇腹の体積が増えようが歯槽膿漏になろうが船を漕ごうが、車が一年近く洗われないままでいようが、ひたすら浮かぶことを書き、読み続ける自分です。
(自覚がありませんが)きっと自宅の空気は他の家よりよどみ、見えない埃もアレルゲンも多く、それでも片付けにたどりつくまでは処分しなければならないことが頭の中に山積し続ける自分です。
この想念の処分行動を疎かにすると、身体症状が即出ます。
だから24時間いっぱいいっぱいです。
睡眠も沢山とらないと体力も持ちません。
処分行動の舵取りは自分でしなければなりませんが、このブログのように、考えるテーマが日替わりで出てくると、問題がしぼられて、区切りがいくぶん楽になります。
舵取りも大変です。頭の中の大労働です。だから、情緒的なフォローが欲しくてたまらなくなる時期が発作的ともいえる感じであります。あふれんばかりに湧いて、言動の端々に出ていることはあるだろうと思います。
今、自分からSOSを発信するに値する(上から目線ですね!)人がいないため、ある程度合理的に事務的に冷静に聞いてくれるコーチが本当は欲しいです。
中心志向のある人達のように、いわゆる“究極のええかっこしい”と思える行動は、取りたくてもどうしても取れないんですよね。鈍感で、それこそ私の頭が悪くて・・・。
でも「あなたをサポートしたい」というネタでもなければ、そもそも人に接近する理由が無いですよね。サポートするにはサポート計画、プレゼンテーション、交渉、条件の調整、それこそ寝られないほどの面倒な手続きが山盛りに見えるので、私は手が出ないですが・・・。それとも相手からサポートの内容をお膳立てして欲しいという虫のいい要求をすればいいのでしょうか?できませんね。
個人的な体験からですが。
「裏で言う」ではなく
「その時本当に言葉としてまとめられない、思い当たらない=時間がたってようやく理解できる=後になって言う」
です。
言語を視覚=画像で処理しているので、それを文字に変換してあらためて理解するのでタイムラグが生じます。
ましてや複雑な意識の交差した内的感情、外的感情に関しては、画像解析して文字変換し、さらに出てきた選択肢を状況に照らし合わせ分析するので、言葉として発するのでえらく時間がかかります。
そうすると、意見として述べられるときは当の本人はもうそこにいない、いないどころか大概はすごく日数がたっている。
さて、今度は自分の中の分析結果をある程度照合する必要がある場合もあります。
そうなると、他の人に話して照合してもらう、整理という言い方があたっているかもしれません。
これをしておかないと、次に似たようなケースが来たときデータが分析された結果として保存されていないので、状況解析に時間がかかります。
わたしの場合人間関係に関することは全て、意識的にデータを入力して出力する、という形をとっています。
自動的に解する、という仕組みがないので、データ解析、収集は重要です。
でも、人間生活していくうえで完全に同じデータということはありえず、ほんのちょっとした差異があるのが当然なのですが、その「ほんのちょっと」が上記の過程で処理できないことが起こると、最初の画像解析の段階でものすごく時間がかかり、結果「裏で言う」というように見られる行動になってしまいます。
あと、もうひとついえるのは、弾丸のように相手に一方的にしゃべられる、2つ3つのことを同時に言われると、完全に脳がオーバードライブ状態になりフリーズします。
ので、その瞬間理解できず、結果後から確認しなければならない状況になり、でも本人に聞けないことも多いので他の人と話して整理確認します。
自分は完全なる内弁慶で表と裏を使い分けてしまいます。でも決してそのことで「要領よく外の世界(家族以外)の人間を騙せてる」と思ってるわけではないです、その反対です。
>「不満がある当の相手の前では何も言わないでおいて、話を聞いてくれる別の人に相手が居ないところで不満をぶちまける」という行動
これは私に関してはですが、臆病で怖いからです。人に嫌われたくないからうわべだけは取り繕ってる、必死の行動です。「本当は不満がある人間に文句をいいたい、だけどその人間に比べて確かに仕事も劣るし、友達もいない、そんな自分が反論したら自分がいじめを受けるかもしれない。それは絶えられない・・だからうなずいておこう。うなずいていれば好かれて中心になる事はないけど、嫌われてひどい仕打ちをされる事もないから。」学校や職場では常にこんな考えでした。
外の世界ではひたすら聞き流そうとする仮面をつけているけれど、本当は聞き流せない脳なので、そのはけ口として家では発狂したりします。だけど、そんなおかしい姿を見せると外では生活などしていけないのが分かっている、そしてコントロールできる自分がまだ救われている(本当に重症ならば外でこの姿が出るだろうから)とも思う。
でも、その姿こそが自分の中で矛盾に感じ、自分の姿を外でさらけ出して皆にダメな奴だと思われて、それで楽になりたいと思いますが、「又人を試す行動をするのか」と思い止めてます。
私がASと診断をされても、中途半端な立場で苦しむのはこの性質のせいだと思います。積極奇異の方たちのように正直すぎる性質とは程遠く、自分が痛めつけられたくないために、周りを伺い仮面ばかりつけてきて、まるでASの定義とは程遠いからです。(正直とか嘘をつけないとか・・)たぶん、多数派に近いと思います。外の姿は。
きゃらめるさんのコメントに同感です。自分も臆病かもしれない。今までの経験上自分の発言に対して予想外の反応されたりするからいつの間にか仮面をかぶるようになってた。それって受動型なんですかね?振り返れば小学生の頃から人に合わせてきてそれは居場所がなかったから孤独になるのを避けて必死で足場の不安定な居場所を確保してたんだと思います。自分もハードルを上げないため疲れないために本性を知ってもらいたいと思うけどなかなか出来ませんね。それで軽く対人恐怖症というかACからきてるのかな・・・。自分は家族とも上手くいってないので家で一人になったときに発狂とまではいくか分からないけど泣き叫んでました。あと毎日夜布団の中で声を潜めて泣いてます。
ASとADHDの違いについてのいくつかを読んでいくうちに、だいぶ元夫との過去が整理されてきたように感じています。ジャイアンにもみえる人ですが、ASだろうと思いはじめています。
「縁の下の力持ち」「ナンバー2」は彼がそういう理想像を掲げていたので、よく分かります。
私から見ると、自分が一番という志向はあるけれど一番にいる度胸はないしまわりもついてこないという彼は、実は裏で糸をひいているのが自分なのだという位置を好みました。
実際はそんなに影響力はないようなのですが、自分流に解釈して、『裏の事情をを知るものは少ない』から自分が認められないだけ、優れた者は裏にある真実を知っている、気づかないやつは愚かだからつきあわない、いう世界観を持っていました。
なので人づきあいにオモテウラがはっきりありました。
『影の主役』の自分に気がついた人(と彼がみなした人)には、とことん愛着で接します。よくぞ気がついてくれた優秀優秀いいやつだ、となります。
でも影の主役は、ナンバー2というより表の主役の後追いというか受け売りというか、オリジナルではないんです。そういったところに受動型ASを感じています。
発達障害を知らない時には、単に屈折しているとか淋しがりやのくせにいきがってとか思っていました。でも、そういうつっこみ、彼は自分にしていないように見えました。この感触も、ジャイアンではないと思った理由です。
さかいさんの仰るタイムラグ、私にもあります。相手の言葉に疑問を感じた場合、解釈するまでに時間がかかるので、本当に私が返すべき言葉を発するのは、結果的に違う相手(心許せる他者)になってしまうのです。
何故その場ですぐに返せないのか自分にイライラします。でも私の場合、また会える相手なら時間がたってしまったあとでも必ず自分の言いたいことは言うようにしています。わざわざ、前回言いたくても言えなかった言葉を返すために出向くこともあります。(おそらく多数派の人には驚愕されるでしょうが)
若い頃はほぼ自分の内側に吸収していましたので、この変わり様は単純に「おばさんジャイアン」に成長したためでしょうか。(怖!!)
この言い返す図々しさは、違う角度からみれば「譲れないこだわり」とも言えるかもしれません。相手にとって都合がいいように私も解釈したと、相手に誤解されたくないという気持ちが非常に強いのです。でも、その相手って、私と同じく、こだわり(エゴ)が強い発達障害らしき人っていうのもよくあるパターンなのですが。
結局、相手も強固に自分の考えを守り通す人が多いので話は平行線で、高い確率でそういう相手とは決別します。しかし稀に分かり合えたり、大好き!と思える人だった(相手はジャイアンが多い)というハッピーエンドに発展することもあって、とことん話しあって良かった!と、「これからも本音で言いたいことは言う」方針でいこうと実感する日々です。
私は旦那のことをジャイアンだと思っていましたが、今はASであるかもしれないと思っています。
中心志向があり、『縁の下の力持ち』であることを望んでいました。
とても仕事熱心なので、最初は「そういうところが真面目でいいな」と思っていたのですが、仕事振りにも度が過ぎて、傍から見てる私には異常としか映らなくなっていました。多分周りからもそのように見られていたと思います。
てっきりトップ狙いの志向があるのかと思って、聞いてみたところ『ナンバー2』であることを望んでおりました。
どうしてかなと私なりに考えたのは、トップはいつか落ちるときが来るけど、ナンバー2は、まだ上がる可能性があるからなのかな?と思いましたが。
仕事が一段落すると、酒のみで自分の位置を確認してるみたいです。
単に、「今日はどうだった?」と「楽しかったのか?」という意味で聞いても、返ってくる返事はズレていました。
酒飲みすらも楽しめてないようです。
登りつめることばかりに興味があり、楽しめない人のようです。
頑張った割りに飛ばされたりすると、急に弱気になったみたいで擦り寄ってくる感じが許せません。
私も病気なのでしょうか?
AS以外の人は、人の悪口をほかの人には言わないのでしょうか? ADHDの人も多数派の人も、言う時があるような気がするのですが・・・
意味がよくわかっていないのかも・・・謎です。
<あとで別の人に悪口を言う>
さかいさん、エイトさんのおっしゃるタイムラグ、これが一番の原因です。その場では、うまく言えないことが多いのです。
それからもう一つ。その場で考えがまとまって発言できたとしても、相手が私の発言を理解してくれそうにない時は、その場では黙っています。だいたい、悪口というか愚痴をこぼしたくなる相手って、興奮しやすいとか、とにかく他人の話を聞かない・聞き入れない人です。
ASの裏表は、PTSDの典型的な症状による身体的なものだと思います。
心理的に、意図的に裏表をつくるというよりも、そうなってしまうという面がまずあり、それが常態化していくことで、裏表の使い分けのような態度が身につくのだと思います。
特にジャイアンが好む恫喝的な態度によって被害を受けてきたASは、そのような人間に接したときに、もはや好むと好まざるとに関わらず、脳が萎縮しフリーズしてしまうのだとおもいます。
>>>
心理療法~インサイトカウンセリング・コーポレーション
http://www.insight-counseling.com/kizu/shousai/shousai_01_1.html
狹窄における無感覚反応の研究でヴァン・デア・コークはPET(陽電子放射撮影法)でPTSD患者に外傷体験を思い起こさせたときブローカ領域での酸素の消費が低下したことを観察した(van der Kolk, 1996)。
ブローカ領域は内的体験に触れるための言葉を生み出す部分であることから、
PTSD患者の外傷体験は「言葉にならない恐怖」を引き起こし、感情を言葉で表現する能力を阻害し、感情を身体の機能不全という形で無言のうちに表現させる現象を裏付けるのではないかとしている。
<<<
上のような、症状が起きている結果、暴力的な人間、本人に対しては何も言えなくなり、そのような恐怖がない場所でのみ、言語化することが可能になるのだろうと思います。
私は主人(おそらくAS)の言葉によるものは建て前に近く、行動の方が本音に近い気がしています。
感情の表現方法が、たぶん私とは違っていて、言葉に込められていたり、逆に言葉には全く表現されないで行動に現れたり、それは普通なら分かるはずのないやり方に思えます。あるときはそれが「ちら見せ」のような形で表されていることも感じます。「面と向かってはいえないだけど気づいてほしい。」などという感じのときかなあなどと想像します。
うまく表現できませんが、私であれば、漫画でいう「吹き出し(心の中でだけ思う本音)の部分の表現が、言葉や行動に加わったり、さししかれていたりするように感じられます。
微妙で繊細な感情の部分ではないでしょうか。
そのほか「わびさび」「奥ゆかしさ」「面子」「謙虚」「おもいやり」などうまくいえませんが、そういったあいまい感情と言うか表現方法がうまくいかず周りから見たとき不可解に思われたり、誤解を招いたりすることもあるように思います。逆に抽象的でアーティスティックに見えることもあります。
救いがどこかになければ、自分の罪を認め反省することができないという感じもします。自分のしたことが問答無用で悪いことであっても、悪かったと認めるためには、「情状酌量の余地あり」というどこか救いのようなものが必要で、そういう「許される」状況をを周りの人が作り出せない場合は、自分からそのような「余地」を作り出してきているよう感じもあります。そしてはじめて安心して悪かったことを認められるように感じます。だから彼のやったことはどんなにひどいことでも、最終的には「問答無用」とはならない「落としどころ」にあとあと持っていって、最終的には「なんとなくまるく治まる」という現象が彼の周りでは多いように感じます。
つづく
つづき
私の主人(おそらくAS)は、感情的に誰かに責め立てられたりしたことを、違うところにいって、いわゆる「八つ当たり」の形でそのままぶちまけることはよくあります。「誰から」の部分をいつもなぜか省くので、突然当たられた方は何のことが分かりませんが、最近では「怒りの方向が違うんだ」と私なりに解釈して、「何があったのか」「探る」ようにしています。ほんとうに隠したいことであれば、「次案を綿密に練られてしまい余計にややこしくなる」のでこちらも主人のまねをして「出方をうかがいながら」ですが。
最近、意味の分からない八つ当たりをされ、「八つ当たりってのはよっぽど意識しないと自分がほかのことを他の人に当たっていることに気づかないものだけど、何か私以外のことに苛立っているのかあるとしたら少し考えて話してみてほしい」といったら、落ち着いた後率直に話してくれて、簡単に解決したということがありました。わたしのどの言葉がストライクだったのかわからないけど、なぜかうまくいきました。「気を使う」「気兼ねする」と周りからすると分かりにくい表現になっていまうのかな?という感じもします。
「分けて」言葉にしてもらえばこちらとしては分かりやすいのですが。
先生がかいておられる>話を聞いてくれる別の人に相手が居ないところで不満をぶちまける こと私の書いたことが同じことをいっているのかわかりませんが。不可解な言動の一つでわたしが困っていることではあります。
私に対する八つ当たりの中には主人が「ジャイアンからの攻撃」を受けたときもかなりあったことも近頃は分かってきました。
またしても勝手な妄想や勘違いも一杯していると思いますがが、多数派のわたしの現実的な理解の手段としは、妄想や勘違いも含め、ああかも、いやこうかもといくつもの選択肢をいつももったまま断定せずに進むしかないのです。勾配のゆるい系の大きな螺旋階段でほんの少しずつ上に行っているイメージでしょうか。
あまり、中心志向の違いが書かれていないので・・
外からみていると、ジャイアンと積極奇異型ASの中心志向の違いは明らかです。
ジャイアンは、とにかく自分が1番である必要があります。
世界で一番なら一番いいけど、なかなかそうはいかないので、少なくともこの範囲では自分が一番という状況になると、いい状況になる、そんな気がします。
積極奇異型ASは一番を望んでいるようには本心から見えません。
まあ、二番より一番の方がいいのですが、十番より二番の方がいい、そんな感じに見えます。
なにより、自分が主流から外れることを非常に恐れるように見えます。
主流から外れると、いくら自分が正しい意見を持っていても反映されない、それがつらいように思えます。
一番を目指すと、集団のリーダーに警戒されて主流派から外される危険が増えるんですね。
だから、一番を目指さないのは、積極奇異型ASの合理にかなっています。
それで、多くの場合は、主流=多数、なので、積極奇異型AS的な人は多数派に見えることも多いでしょう。最初ASのことを知ったときは、自分と弟はストライクだったのですが、父は多数派だと思ってましたから。
実際、権力のありかが変わる時には、積極奇異型ASは簡単に寝返り、多数派は変化についていけない、そういう違いは出るというイメージがあります。
オモテとウラの話は若干理解が難しいです。自分なりに理解した言葉では、「自分」か「自分以外」かってところでしょうか?パートナーを自分の一部としてしまうところがあるので。ただ、書かれている内容の一つ一つは心当たりがあるものの、オモテとウラと言うまとめ方は余り納得できていません。
個別の内容に関しては、言いたい事は大体出揃ってる感じ…
「あとで別の人に悪口を言う」に関しては、タイムラグが原因だと思いますし、相手との関係を損ねないようにと言う気持ちもあります。ジャイアンが激昂すると、こちらのその場での発言を完全に封じられますし…
で、悪口と言うか愚痴だと思うんですけど…誰もが(多数派も)親しい友人には愚痴をこぼしますよね。愚痴との違いが何かありますか?
あと、かなり失礼な物言いになりますが、ジャイアンの被害妄想的な部分がありませんか?私の元妻は「あなたが皆に言って回るから友達も失った」とか言っています、元妻の友達には何も喋っていないのですが。
>はてなさん
書かれている内容、殆ど了解できません。私はそのようなストレスを受けておりません。それでもなお、ジャイアンに対してはその場での反論が上手く出来ません。こちらが言語化する前に、その勢いと言葉の量に畳み込まれてしまう。それだけだと感じます。
>m2さん
m2さんの書かれている積極奇異型ASの中心志向に関する解説も、余り了解できません。少なくとも私は、自分の価値が評価されれば順位など関係ありません。主流かどうかなども興味の対象外です。自分の思うところの仕事が出来れば、権力者は誰でも良い、そう言う意味で寝返る事も出来ますが、空気が読めないので変化について行けない(権力に上手く乗っかる事が出来ない)と思いますが。
私の場合ですが、仕事でいえば(自分の能力は差置いて)、自分の価値が十分に発揮できていないと感じるときに、先生の仰る「なんで自分はこんなにぱっとしない立場にいるのか」という気持ちになります。あと私からみて、あまり能力がないように思える上司の下に置かれたときも同じです。
だから、とってもわがままだと承知してはいるのですが、自分が納得できる職場環境でないと、働く意欲がわかない、という責任転嫁的発想になってしまいます。
経験から他者が増えれば増えるほど自分の納得からかけ離れてしまうので、結局私は自分ひとりでこなせる仕事で評価も自分ひとりのもの、という環境が1番向いているし、気楽です。
m2さんmarioさんがふれている、職場でありがちな権力争いや順位について思うのは、ほんとうにくだらない煩わしいこととしか思えなくて、私が「集団」というものについて、苦手というか価値をみいだせない最たる理由でもあります。いままで生きていて「集団」に属していて良かったと思ったことは皆無です。「集団」に属していないと不安という人がいますが、私は全く逆で「集団」に属していると不安です。私にとっての中心志向とは「自分の気持ちを1番尊重する(したい)こと」になります。
ほんとうに自分は「偏屈で自閉的でわがまま」だと思いますが、こうでないと生きられない、邪魔されたら病気になりそうです。
これは、あくまで外から見るとこう見えるという例です。
自分の価値が評価される・・積極奇異型AS
自分が干渉されない・・ジャイアン
端的にいえば、中心志向で重要なものはこれだけでしょう。
ただ、現実世界という制約があるので、周りから見た感じは、そう単純ではありません。
現実社会では「評価」というのは点数で行われますので、順位という表現よりは、ある程度以上の点数を取りたい、の方がわかりやすそうですね。
最低点さえクリアできれば、それ以上はそんなに違いはない・・積極奇異型AS
最高点でなければ意味がない・・ジャイアン
→最高点であれば、誰にも文句を言われませんから。
また、
>主流かどうかなども興味の対象外です。
とありますが、非主流では、誰も評価してくれないので、そんな状態は耐えられないと思いますが??
>自分の思うところの仕事が出来れば
窓際で、「好きな仕事をしていい」と言われてうれしいですか?
たぶん、積極奇異型ASは耐えられないと思います。
一方、ジャイアンは喜んで、大逆転での成功をすることもあるでしょうね。
また、ジャイアンが孤独を好むのは、一人だと絶対他人から干渉されないから、というだけであって、本当は複数人の組織(家庭も組織の一つでしょう)のTOPにいる方が生き生きしてくるはずです。
何人も、「自分はこの仕事では誰にも負けない」というジャイアンを見ていますし、そういう人はみな生き生きしています。
中には、配置転換されて意気消沈してしまった人もいます。
これも経験がないとわからないでしょう。
私自身もそうですが、いろいろ経験しないと、本当に自分のことというのはわからないものです。
自分自身のことをもっと良く理解するために、ここにいます。
それはあくまで相談するというかたちではないでしょうか?
その上でその問題の不満の当事者には既に文句を直接陰口じゃなく直接文句を言ってる上で相談してるんだと思います!
積極奇異はなんだかんだ、直接不満を相手に言います。
そしてその上で誰かに相談もします。
m2さん
> 窓際で、「好きな仕事をしていい」と言われてうれしいですか?
嬉しいです。そう言う仕事を選びました…が、社会情勢の変化で、いやおう無しに表舞台に晒されてます。
私は少なくとも、他人の評価は殆ど要りません。最も自信を持ってる(私の仕事である研究)成果は人に余り評価されてませんが、そんなに気にしていません。ある物事の背後にある真理を明らかにしたと言うだけで非常に満足しています。
自分の価値は自分で評価できる。そう言う積極奇異型ASもいるという実例ですので、m2さんがそれを否定する必要もないのでは?
私はずっと、自分が非言語的なやりとりが使えないのだと思い込んでいました。
けれど思い出してみると、時々それを使っている場面があって(教育実習での経験など)、「私も使えるんだな」と思い直しました。
何故使えないと思い込んでいたのか、何故使ったときに罪悪感を感じたのかを考えてみたのですが、多分家庭環境のせいだと思います。
父はよく私に「甘ったれた言い方するな」とか「ふくれっつらするな」と怒っていました。
(私にはまったく意味がわからず、自覚もないシーンで)
父の地雷がどこに埋まっているのかよくわからなかったので、怖かったです。これはロシアンルーレットのようなもので、その子供にだけ何時間かきつく当たります。(他の家族には普通に接する)
私は両親に情緒的に甘やかしてもらった覚えがありません。
ちなみに母は50過ぎても「だって母さん・・・わからんもん(ここで泣き真似)」とやるのですが、こちらはお咎めなしです。
「オモテとウラのどちらがメインチャンネルか?」はタイプで違う気がします。
ASもADHDも、非言語的に器用なタイプは、ウラがメインになるのかなあ。
自嘲気味に「嫌われても仕方ないよね」と言いながら、「許してくれるよね」というメッセージを送ってくるような。
個人的には、明らかにオモテとウラとで相反するメッセージを受信したとき、採用するのはオモテ(言語)のほうです。
言葉にしているということは、相手の意志を伴っていると思うので、オモテのほうが本心だと思っちゃうみたいです。
おまけに相手の言質も取れますし。
・・・で、よく失敗しました。
ASに囲まれた生育環境で育っていたら、もう少しウラも発達したのかなあ。家族にも親戚にも、「自分に近い」と感じる人は全くいません。
地域活動で知り合った統合失調症の男性の話ですが、どうも非言語アピールがエスカレートしてきている様子です…。
私の心理的に負担になっているので放置しておこうと思っています。
いつか対面した時、私の本心をストレートに伝える事になるかと思いますが、今から若干おそろしいですね…。しっかり気を持とうと思います。
私の場合、明らかにオモテとウラとで相反するメッセージを受信したとき、採用するのは「行動」のほうです。
どんなに言葉で言いつくろっても行動は誤魔化せないし、言質を取るというのは表面的なものなので、相手に巧妙に話をもっていかれてしまえばそれまでだからです。
私は、医療的なものの考え方や視点に切り替えてきているので、いかに自分の解釈を外せるか、というところを今は大事にしています。
少し思うところがあり、地域活動の職員さんに話を聞いてもらいました。
私の人生の課題の1つに、自分の問題と他人の問題を分ける事が難しい、自分の境界と相手の境界を分けづらい、というのがあるのですが、「自分にできる事をすればいい(無理はしなくていい)」という思考のヒントを頂くことができました。
「もしまた何かあれば、連絡をしてくださいね」とも言われましたし、さすが福祉医療関係者の職員、話が早くてありがたかったです。