今回もASについて言及しますが、(これも当たり前ですが)特定の誰かを批判する目的はなく、十人十色のASの一部にこういう人も居るという意味で述べていると理解してください。
近い関係者が理解しやすいように私の理解を書いてみます。ジャイアンの場合には、「責任の観念はあるが表面的な認知しかできない(究極のKY)ので自分の責任であることが分からない」という説明になる。
「自分が躓いたのはこんな所に石があった」からであって、これは自分の責任を自覚しながら誤魔化して居るのではなく、「自分の行動と関連付けて考えること自体できていない」ということだ。
他方(私の想定する)受動型ASの人の場合には、「責任の観念自体が希薄」というような言い方になる。「初めから相手の望みで相手の意図を読みながら相手に合わせて行動する」ので、自分の行動はASが分かっている(と思い込んでいる)相手の意図と別々のこととは認識されない。
例えば発言の意味も、発言したほうが想像も出来ないような「深読み」をしたり、態度や表情にある意味を勝手に見出したりした結果が本人には「事実」と認識される。
正確には相手の意図が100パーセント読めると思い込んで居るので、本人は「分かっている」と断定する。本人から見ると、「間違いない」ということになるので、別の意図があることを想像も出来ない。
本人からは「事実」に見えているのだ。それ以外の可能性を想像すら出来ない。だから相手が「そういう意図は無かった」といくら主張しても、相手の言っている意味を理解することが非常に難しい。
受動型ASはある意味積極奇異型ASよりもはるかに想像力が乏しいと言える様に思う。
>相手の意図が100パーセント読めると思い込んで居るので、本人は「分かっている」と断定する
今まさに、毎日息子(受動型)と衝突しています。
本当に些細な会話がスムースに成り立たず、だからと言って
私に受動型ASの子(子供でもスゴイです。自己防衛なんでしょう・・)を納得させる術もなく、お互いにストレスがたまります。親子ですら、意思疎通(理解・共感)は難しいのでとても辛いです。でも他人なら、責任がないなら、受動型ASは植物的(人畜無害)なので、人としては安心できると思います。でも深入りは禁物です。(親としては辛いけど)
書いてあることは事実ですが、認知のゆがみを持つ人のみが対象です。
認知のゆがみが無い人は、「発言の意味が、態度や表情にある意味を勝手に見出したりした結果と違う」なんてことはよほどの緊急事態を除いてありません。
あなたの言っていることとやっていることが違うでしょ!
って認知になるので、相手の言っていることが信じられない。
理解できない、想像できない、ではなく、信じられないとすればあっているでしょう。
言っている側からすれば、やっていることとの矛盾があるなんてことは想像もできないので、そういう疑問を持たれること自体が理解されていないと感じるのかもしれませんけど。
(多くのASの方の事ではなく、私が個人的に知ってる自己愛の強いAS傾向の方との事です)
>正確には相手の意図が100パーセント読めると思い込んで居るので、本人は「分かっている」と断定する。
勝手な断定で思い込まれても・・とよく感じました。
そういう意味じゃない、そういう意図ではないんだよ、と話しても全くわかってくれなくて・・
ASの方は淡々としてる方が多いので、断定的にスバッと言う時って、すごく冷たい印象があります。
だからかなぁ・・その冷ややかさを感じて更に話が通じないと感じてしまうのかな・・
(ADHDは感情が強い印象です。ジャイアンが断定的に言う時は、怒って言ってるようにも見える)
>他方(私の想定する)受動型ASの人の場合には、「責任の観念自体が希薄」というような言い方になる。「初めから相手の望みで相手の意図を読みながら相手に合わせて行動する」ので、自分の行動はASが分かっている(と思い込んでいる)相手の意図と別々のこととは認識されない。
「初めから相手の望みで相手の意図を読みながら相手に合わせて行動する」
私の個人的な印象では、実際は本人(AS)の望みなんだけど、あたかも相手の望みであるかのように、
私が頼んでもないのに、そのASの方は「○○しますね」と言いながら、こちらが承諾を得ない前に、強引に勝手にやろうとするので、そんなこと言ってないのに、頼んでいないのに・・と困る時あります。いくら説明してもわかってくれないどころか、本人は善意?のつもりでやってるようなので・・。
私がそもそも考えていない事を、私が考えた事として、勝手にされてしまうと、その考えでうまく行かなかった時の責任は、私?となるでしょうし。。こういうやり方で、責任回避しながら自分の思い通りにしようとしてる・・とそういう行為に私には感じてしまうんです・・。
はじめまして。よろしくお願いします。コメントのまえに自己紹介をしますね。
DV・モラハラが原因で離婚したあと再婚して一緒に暮らすようになった継子の言動が、それはもう元夫とよく似ていました。大人と子どもを比べるなんておかしいとはじめは思ったものの、子どもへの違和感は(元夫とシンクロしながら)増すばかり。
それで受診しADHD、その後ASと診断されたことから、発達障害についての理解が生活そのものになっています。
まだ癒されていない過去の振り返りをしつつ、いまの生活でも皆が余計な傷を負わないように仲良くしたいと思っています。
>ASについて言及しますが、(これも当たり前ですが)特定の誰かを批判する目的はなく、
>十人十色のASの一部にこういう人も居るという意味で述べていると理解してください。
このYANBARU先生の但し書きは、ここの主催者である先生とROMを含めた参加者をつなぐ、たいせつな架け橋だと思います。どんなおもいで先生がこの橋を架けて維持されているのか、もういちど立ちどまって考えてみませんか。
この前提で書かれている元記事にたいして、そうじゃないと例外について断定口調で述べると、すれ違うだけで、但し書きの意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
すばるさんのはじめにつけられた括弧書きは、YANBARU先生に応えていて、とてもわかりやすくていいなと感じました。
うちの受動型AS旦那とテレビドラマなどを見ていると
しばしばストーリーの先を当てる事があります。
ドラマにどっぷり嵌るタイプのADHDの私には
到底できない事です。おそらく今までのドラマのパターンから推測しているのでしょう。人間関係でも蓄積されたパターンで対応している様に思えます。
例えば、以前私が台所でうわーっと声を上げても
反応が無いことがありました。
軽いやけどだったのですが、普通こういう時は
どうしたの?とか声を掛けるもんだと言うと、
次からは声をかける様になりました。
こうやってパターンを増やしてきたんですね。うちの旦那は。
なので初めての事への対応にはとても弱いです。
見ているとその場では黙って周りを見て、状況をインプットしている感じです。
ただ、過去のパターンからの推測は複雑な心理状況では時に的外れです。
その的外れな部分を理解してもらうのは非常に骨が折れます。
私からすればなぜ推測から断定できるのか不思議でしたが、
いままで推測で生きてきて、それが割りとうまくいった(と自分では思っている)ので自信があるようです。適当に合わせてもらっていたかも知れないのに。
ADHDの私に自己突っ込みさせたら、
(推測はあくまで推測でしょ、事実でない可能性があるのにどうして断定できるのか?)になるでしょう。
うちの旦那に関しては想像力は乏しいと思います。
だからこそパターンを収集するのでしょうね。
なんだか不思議ですね。少数派の受動型ASでも実際に向き合っている人の意見(分析や戸惑い)はすごくよくわかるので、「悩んでいるのは自分だけでないんだ」と勇気づけられます。
その上で、m2さんにひとつ突っ込ませて(?)ください。
うちの息子はよく、少し先のこと(未来)や他人(母親など)の考えに対して、絶対とか100%的な表現を使い断言します。同じ言葉をジャイアンや多数派などが使う分には聞き流せるのですが、ASが言うとなんだか違うんです。そこが誤解を招き易い所だと思うんですが、こちらの心境としては「おまえは神か? おまえは私か? 勝手に私の脳に進入しないでよ~」と、ついつい感情的になってしまいます。
ASとして断言している時は、実際にはまさか文字通り100%ではないんですよね(うちの息子なら、98.3%かも?とか言いそうですが)。また、確かに受動型ASは現在にのみ生きているように見え、想像力など普通には身につかなそうです。どのように訓練なされたのか知りたいです。
あと、m2さんもブログを作られたら如何ですか?素の先生のコメントも読んでみたいし。
なにせ理解力と語彙が不足しているので、同じことを何度もおききするような事になっていて申し訳ないのですが、
>ジャイアンの場合には、「責任の観念はあるが表面的な認知しかできない(究極のKY)ので自分の責任であることが分からない」という説明になる。
>「自分が躓いたのはこんな所に石があった」からであって、これは自分の責任を自覚しながら誤魔化して居るのではなく、「自分の行動と関連付けて考えること自体できていない」ということだ。
ジャイアンの「認知」というのは、そのときそう認識したら、ずっと変わらないのか、それとも誰かほかのひとから指摘されて、「あ、そうか」と後で思い直したり、よくよく考えてみるとそうじゃなかったな、と変わっていく可能性のあるものなのものなのですか?
>他方(私の想定する)受動型ASの人の場合には、
>本人からは「事実」に見えているのだ。それ以外の可能性を想像すら出来ない。だから相手が「そういう意図は無かった」といくら主張しても、相手の言っている意味を理解することが非常に難しい。
「本人から見えている事実」が「事実」なのでしょうか。
一部のASの方の事で「責任転嫁様に見える反応」と受け取れる言動は、「何か傷つく事を避けるための防衛反応」や「その場で反射的に出た言い訳」ではなく「本人にとっては明かにそう見えているまぎれもない事実」ということでしょうか。
>受動型ASはある意味積極奇異型ASよりもはるかに想像力が乏しいと言える様に思う
積極奇異型ASの場合は責任のありかの認識(認知?)はどういった風になる事が考えられますか?
私自身と主人の関係では、私が主人の言動に勝手に心理的な意味付けをしてわたしが主人を誤解しているところがたくさんあるように感じています。気づいたところから修正していかねば、と思っています。
少しづつ勉強させてください。
例によって、受動型云々は分かりませんが…
「何か傷つく事を避けるための防衛反応」=「その場で反射的に出た言い訳」=「本人にとっては明かにそう見えているまぎれもない事実」
ではないでしょうか?逆に事実と見えてなければ、そう言えないと思います。嘘をついて言い訳をするってのはASには困難だと想像します。
合理的な判断ができる人ならば、言っている事の矛盾を指摘すれば修正できそうな気がします。それでも「それは言っている通りだが、これについては自分が正しい」的な言い訳がましい発言になるかも知れません。自分が間違えている=自分の価値が全て地に落ちる 印象ですから。
実は最近、「受動型ASの基本原則」の記事にあるような「周囲からの働きかけで受動型AS本人の引きこもりを治した」という事例を目の当たりにしたのですが、この人のお姉さんが自分と似たタイプで、妹の引きこもりを容認していました。(ちなみに、お姉さんが彼氏を家に連れてきたのがきっかけで、その彼氏に促されて、お姉さんと同じ職場で働くようになりました。)
それで私も、このお姉さんと同じように「本人がその気になるまで待つ」というスタンスで元カレを放置していたのだろうと気付きましたが…
>本人からは「事実」に見えているのだ。それ以外の可能性を想像すら出来ない。だから相手が「そういう意図は無かった」といくら主張しても、相手の言っている意味を理解することが非常に難しい。
もしかしたら、私が「働こう」と相手に言うことで、「お前が働けと言ったから」と責任を押し付けられ、その後支配的になるのでは?という不安も放置してしまった原因かもしれないと思いました。
経済的に問題が無ければ(例え相手が家族でも)野放しにして成長を妨げていたと思います。
家族の側も(本人の為に)強制的に追い出す等、責任を認識しなければなりませんね。
あと、この記事と「郭公の雛」の記事を読んでの感想ですが、身近な受動型ASの人達のことを言い当ててるなと思いました。
「石が悪い」という発想は、正直私には想像を絶する世界です。(かと言って、直ぐ様「自分が悪い」と言った発想になるのも納得できませんが)
よく受動型ASの知人から「偽善者」「裏切られた」といった言葉を耳にしますが、その理由もこの記事の通りだと思いました。
個人的に「偽善者」と言われるのは良い迷惑ですね。
私には「自分は一切悪くないので、全て相手のせいにして自分は被害者面していたい」という風に見えますが、そう指摘すると泣かれそうなので言えません。
ここが私の悪い「依存」のクセだと思います。
これまで先生に掲載を止められたコメントは、全て「読み手を想定しながら書いていた」ものでした。
途中で気付いて「自分ならこう考える」というコメントに変えましたが、それと「最近の当ブログのコメントについて」記事以前のコメントと比べてみると、以前のコメントは「気を遣い過ぎている」というのが一目瞭然で「そうか、これが依存か!」と思わず笑みがこぼれました。
実生活でも自分を見失わないよう精進します。
以前他の記事でコメントのやり取りをしていた方に「自分に対し突っ込みを入れるなんて、私にはできない」「認知が歪んでいる」「もう一つのHNの方が本当のあなた(道産娘)です」と言われ、はい??と思っていたのですが、きっとその方は、私が自己突っ込みで自分を責めている(または「自分の問題」と言っている)コメントを見て「ACで依存性が出せない」と勘違いしていたのだろうなと気付きました。
(身内や知り合いがそうですが)最低限「自分と特性の違う相手とは考え方が異なる」と割り切って欲しいと思ってましたが、これが一番難しいのだろうと感じます。
「自分が躓いたのはこんなところに石があったから」について、私なら「自分の不注意」と捉えます。
何故なら「事前に石に気付いていれば、避けて通ることもできた」はずで、石のせいにするということは、その可能性を否定することに繋がり、「次は気を付けながら歩こう」と失敗から学ぶことができないからですが…まぁ、子供の頃はここまで考えて行動していた訳ではなく「何故躓いたのか?」原因が知りたかったと言った方が正しいかもしれません。
ちなみに、よく自分の不注意で車にひかれたことがありました。