ASのことは「m2氏に聞いたほうが早い」と最近思うが、外から見た様子を私が記述して、本人の立場から解説をお願いするのが良いかと思う。
「ASの空気が読めない」ということに関連して、私が常々感じるのは、まず「ASの人は非常に感情的、情緒的な思考法をするにもかかわらず理屈っぽく表現する」という根本的な分かりにくさがある。
その上に、「言われた言葉は極端に文字通り受け取る」のに対し、「発する言葉は詩的象徴的表現で、文字通りではない」という非対称性があると私は思う。
外面上の印象として、他の人からの言葉をあれほど文字通りに受け取るのだから、本人の言っていることも文字通り受け取ればいいのかと思って対処すると失敗する。
実際には先の「ある意図に基づく行為」という風に深読みするので「本当は文字通りに受け取ってはいない」のだが、その深読みしていることは周囲のASで無い人の想像を超えており、また、周囲の多数派の期待通りの受け取り方(空気の読み方)と微妙にずれるので、表面上は文字通りにしか受け取っていないように見えるのだ。
その結果ADHDのように本当に状況理解が出来ないと思われ、逆にASから出てくる態度や言葉が非常に遠回しの深読みを要する複雑な表現であることは周囲からは想像しにくいことになる。
少なくともADHDには、「自分と同じように空気が読めない」ようにしか見えないので、当然ASの言葉もそのまま文字通りに受け取ると、またちゃんと伝わらない結果になる。
ADHDは発するときも受け取るときも文字通りである。ASは受け取るときだけ(多数派の解釈と一致しない意味で)「文字通り」で、逆に発するときは深読みを要する詩的象徴的表現であるという非常に難しい特徴がある。
ちなみに受動型ASはジャイアンに似た表面的な受け取り方をするので、以外に本当の意味で文字通りに受け取ることもあるのが不思議だ。
YANBARU先生にお褒めいただいて光栄です。
私は「受動型」ASであるため、こうやって決められたテーマに対して自分の体験や観察結果を述べることはできますが、自分のHPとかで公開するのは無理なので、このような形で述べさせていただくのが良いです。
「AS」ですから、過去の自分の発言を整理することはできるので、ある程度まとまった時点で整理する、ということになるでしょうか。
まず本題ですが、私はASというのは言語性IQ>動作性IQ、ADHDというのは言語性IQ<動作性IQ、という解釈をしています。
そう考えると、本題の現象はADHDのACと同じ理屈で説明できます。
ADHDが多数派とのずれを行動を変えることによって解消を目指すのと同様、ASが多数派とのずれを言語を変えることによって解消している、ということと考えられます。
どちらも多数派と同じになっているわけでは無いという点でも同様です。
ASは、IQに偏りにより、行動を変えることは難しいので、どうしても言語を先に変えようとします。(ADHDは私の見る限り真逆ですし、私がADHD女性しか愛せない最大の理由と考えます)
ASの本来の考え方は、「なんで1+1=2なの?」といういかなる規則にも理由付けが必要なものです。
子供の頃はこれを口に出しています。子供の頃は、文字通りの発言をしています。
これよりは、まだ、詩的抽象的な表現をした方が多数派には適応できる、ただそれだけのことでしょう。
それが、ADHDや他のASにとっては悲惨な結果をもたらすことになりますが、十分な理由はあると考えています。
>受動型ASはジャイアンに似た表面的な受け取り方をするので、以外に本当の意味で文字通りに受け取ることもある
この中心にあるのは、「YANBARU先生だから」ということだと思います。
受動型ASは、ADHD相手だと文字通り解釈しますし、AS相手、多数派相手、とそれなりの解釈をします。これがカウンセラーに向くと言われる所以でしょう。
よって、知らない人と話すことは恐怖以外の何者でも無く、そういう場合は「文字通りに解釈」をデフォルトにしていると思います。
普通(多数派相手)はそれではうまくいかないのですが、その場合後で多数派相手に修正するのはそんなにきつくありません。まず大きな問題になることはありません。
AS相手でも、後で問題になった場合でも、「文字通りに解釈した」と説明すれば何とかなります。
デフォルトで多数派解釈をした場合に、ADHDだった場合取り返しがつかなくなる、これが受動型ASがデフォルトでは文字通り解釈する、の理由と考えます。
よって、YANBARU先生にとっては、受動型ASは常に「文字通りに解釈する」ように見えることでしょう。
受動型ASは相手に対応して行動するのが生命線であり、過去はエニアグラム(典型的タイプ5)、エゴグラム(極端なAC低型)のパターン化で自分の考え、行動を整理していましたが、発達障害という考え方を知り、上記のパターン化と比較し自分の人間関係が格段に整理できるので驚いています。
本題とは離れますが、私の場合は視覚障害、運動障害、味覚障害、発達(肉体的)障害の方が極端なため、これらの原因がすべてASで説明できることの方が重要だったりします。
>ASのことは「m2氏に聞いたほうが早い」と最近思うが、外から見た様子を私が記述して、本人の立場から解説をお願いするのが良いかと思う
改めてコメント含め読ませて頂きました
>受動型ASは、ADHD相手だと文字通り解釈しますし、AS相手、多数派相手、とそれなりの解釈をします。これがカウンセラーに向くと言われる所以でしょう
私もカウンセラーの方の中には、受動型ASに近い感じの方をお見受けします。受動型AS的なカウンセラーを崇拝に近い感じになっている積極奇異ASの方や受動型ASの方も多くいられるよう個人的には感じます
>ASというのは言語性IQ>動作性IQ、ADHDというのは言語性IQ<動作性IQ、という解釈をしています
言語性IQや動作性IQは、子供の療育等で話題になることがあるんですが、
先生の「依存型ジャイアン」の考察で、ジャイアンがすぐに相手をだまらせる事が言えるのも、言語性の高さからもくることを思うと、言語性の強いジャイアン、言語性の強いAS。両者の似ている所となるのでしょうか。このWISCからの見立ても個人的に、なるほど・・と思う所です。
ふと思い出してしまったのは、初対面なのに「お子さんのIQいくつくらい?」とダイレクトに聞いてくる親御さんの多くはAS傾向の人が多いかもしれないです。初対面なんだけど、自分のこだわりやご本人の思考のポイントになると思う事は、本当にダイレクトに聞いて来られるんですよね。また、聞いてこられる内容が子供の内面的な事ではなく、そういった数値やわかりやすい表面的なことをまず聞いてこられるのが、AS的というか。
反射的に対応しがちな衝動性が自分にはあるので、反射的に答えてしまいそうになるんですが、「いや、こんな個人的なこと軽がると言っちゃ行けない」と自分にブレーキかけながらしどろもどろになります。
そうなんですよね、小さい時「何で?何で?」が口癖で、先生によって気に入る・入らないが、ぱっくり分かれていたような。
m2さんの分析もなるほどです。自分的には(まだその境地まで至っていないので)、外向きには「より正確に表現しよう、やりとりしよう」、という思いから来ていて、内的には、イメージで(けれど論理的に?)うぉややややーという風に考えているから、そもそも言葉に訳すとそれで精一杯、できればテレパシーで読んで!(無理。)という感じでした。
私はAS的男性も好きです。(女性ASだからかな。)仲間は(私以外は)全員男性で、見る限りどっちも混ざってますが頭のいい人ばかりです。そして私にとって、女性は永遠の謎です。。。
今日は「基本人格」で書きました。
こっちの方がきっと伝わりやすいですよね。
最近、二回ほど書き込んでいましたが、その時の「彼」は男性人格です。(わかってると思いますが私は女性です、念のため。。)
普通の人は、人格はひとつなんですよね。今となっては一粒で三度(もう一人いるので)美味しい、と思うけれど、やっぱりちょっとうらやましいです。
「事実」と「行為」をやっと理解したばかりの私にとって今回のテーマは難しいです。
例えば、まだあまり親しくない相手に「今度、お茶しよう」とか「今度、飲みに行きましょう」と日常的に言いますよね。
その裏にはそれぞれ違う意味があるのだと。
ADHDは発言する時は(あなたに興味があるからもっとお話してみたい)で、受け取る時は(自分と話したいのだろう、と思う)
多数派は発言する時も受け取る時も、あくまでも社交辞令、あいさつのセリフ(また今度、お元気で)
ASは発言する時は(あなたのことが大好きです)で受け取る時は(???ASの人はどう考えるのか私には想像がつかない)受動型・孤立型・積極奇異型で異なるのでしょうか?
私が相手のお誘いに快く応じて時間の約束をしようとすると、
多数派には(ドン引き、けげんな顔)され
ASには(かなり好意をもっていると勘違い、または横柄な態度)され
ADHDで気が合う人となら、もっと仲良くなれる。
そして長く生きてるうちに、いつのまにか自分からは絶対に誘わなくなりました。誘われた時は相手が本音で言っているのか社交辞令なのかストーカーなのか(今の私にはあり得ないけど)、深読みしても相手の本意がどこにあるのかわからないこともしばしばという状態になってしまいました。
ASも自分の「つもり」は相手の「つもり」と一致しない事に気が付く。
多数派から見ればASもADHDも変な人です。
YANBAREU先生やm2さんはもっと深いところを解説してくださっていると思うのですが、今のところ、この程度までしか理解が進みません。
なんだか書いてるうちに哀しくなりました。
こんばんは。
エイトさんが書いている例が具体的でわかりやすいろ思い、コメントさせていただきたいです。
あくまで自分の考えですが、いわゆる多数派がそいいう発言をした場合には、実際には具体的にお茶にいくつもりは無いが、私はあなたと関係を持とうとしているという意味だと推測します。そして、受ける方もそれを了解済みですから、実際にはお茶にはいかないが、あなたと今後関係を持ちましょうという意味で返事をしていると思います。それから、多数派的には人間と人間が関係を持たないとは思っていないように思われます。
次に、これも自分の考えですが、比較的純粋に近いADHDの方だと、本当にお茶に行ってもいいというつもりで話しかけていると思われ。また、受けるときも、自分に声をかけてくれているので当然実際にお茶にいくべきだと思っているのではないでしょうか。
3番目にASの場合ですが、まず、最初から興味をそそられる何かを持っていれば別ですが、そうでない限りはあまり知らない人に声をかけないはずです。。初めての相手ではなくて声をかける場合には、相手の事を分析してお茶にいきたいと考えているだろうと判断して声をかけると思います。だから、この場合には相手も多分行くと返答するだろうと思って声をかけていると思います。だから、断られた場合驚くでしょうけど、それはそれで受け入れると思いますが。相手への愛着の度合いによると思います。
さて、声をかけられた場合ですが、ASは基本的には相手となんらかの関係を持つべきだとは考えていないので、相手がなぜ自分に声をかけたのかを分析して、その上で自分の興味とすり合わせて、興味と会えば行くと返事し、興味が合わなければ行かないと答えるはずです。ただ、このあたりは、積極、受動、孤立のASで差があると思います。
以上が、あくまで、自分(自称積極AS)が考えるエイトさんが提示した例に対する考えです。
話しが少し、本題とずれますが、エイトさんはお子さんがASかも知れないということで、ASに興味が有るようですね。自分のコメントがいくらかでもエイトさんの参考になれば幸いです。
ASの言語の非対称性に関しての自分(自称積極AS)の考えを書かせていただきたいと思います。ASの考えていることを知っていただく一助になればと思います。
基本的に、同じレベルのAS同士であれば、お互いに会話は詩的表現になると思います。それと、文の構成はきちんと論理立てて話しているので、文字通りに関してはあまり目くじら立てないと思います。まあ、間違いはあるんで、その部分を指摘しあうとは思いますが、気にもかけないでしょうね。指摘されたことに関しては。お互いの意志の疎通のためには当然の行為です。
ASがADHDの方や、いわゆる多数派と会話する場合、AS的にはわかりにくいんだと思います。ADHDの方や、いわゆる多数派は用いる言葉の意味やニュアンスが違う意味で使っているように感じます。AS的にはADHDの方や、いわゆる多数派は言葉をきちんと使っていないように思えます。ただ、言語機能の高い合理的なADHDの方の文章は理路整然としてわかりやすいですね。言葉としての遊びには欠けますが。
そして、こちらから言葉を発する場合は、今自分がしているように詩的表現をあまり、交えずに出すことはACを経ている自分のような場合には可能だと思います。ただ、愛着をもった相手だと、まあ、甘えているというか、詩的表現がでてくると思います。
はっきり行って詩的表現を交えた方が読んだり、書いたり自分は楽しいです。いろいろと想像することができるというか、言葉が単に道具としてお互いの用事だけを伝えるだけのものと思ってないですからね。
「好きです。」もいいけど
「北極を向くコンパスのように、いつでも、どこでも君だけを想い続けている。」
の方が想いが伝わる気がします。どうでしょうね。
なんかすこしずれた気もする。この辺が変な奴と思われるところかな。
つまり、ASとしては受け取るときも発するときも基本的には同じだが、ADHDやいわゆる多数派サイドからはそうは見えていないと言う事と、ASによっては状況によって使い分けている。そういうことだと自分は考えます。
ADHDのAC(ジャイアン含む)と思われるマダコです。まだADHDと思っていない時の私の受け取り方はこうでした。
私は1のことを理解するのに、10ぐらいの情報が欲しい。100でも1000でもぜんぜん構わない。なのにダンナは私が欲しい情報の0.1ぐらいしかしゃべらない。でも私が1のことを10も20も使ってしゃべっても「ぜんぜん何のこと言ってるのかわからない」と言われました。理解する言語が違うのかな……とか、本気で思っていました。
今でも理解はできません。表面上うまくかわしているだけです。何か困って話し合いでも持ちかけようものなら、最悪の結論になりそうです。相談ぐらいなら、たぶん話を聞いて(いるふり?)「いいんじゃないの?」ぐらいの返事が帰ってきます。あ、相談も無意味だったかってカンジです。自分の意見を言うつもりはないのかな? ま、こっちが理解できないから……。しょうがないですね。
Whiskyさんの説明、とてもわかりやすかったです。
どなたか親切なASの方が私の??の部分を埋めてくれないかな、と思っていたのです。
ありがとうございます。
ASの人がどのように考えるのか、具体例で教えてもらえるとほんとうに助かります。よくわかりました。
Whiskyさんの
初めての相手ではなくて声を掛ける場合には、相手の事を分析してお茶に行きたいと考えているだろうと判断して声をかける
自分本位なジャイアンにはとても真似できない繊細な思考です。尊敬します。ASの人へのイメージが変わりました。
私が前回書いたのは間違いでした。
ASは発言する時は(相手がお茶に行きたいと分析して)で受け取る時は(なぜ自分が相手に誘われたのか分析したうえ自分の興味の度合で決める)が正解ですね。
私がお誘いを受けて時間の約束をしようとした場合は
ASにとっては予想どおり が正解ですね。
ということは、(かなり好意を持っていると勘違い、または横柄な態度)の人は、相手を「仕切ろう」として相手の反応をテストしたジャイアン、変な下心があるジャイアンですね。ASの方、大変失礼しました。
ASとADHDで気が合えばもっと仲良くなれる が正解ですね。
こんにちは。まだこさんの指摘が非常に的を得ている思い、多数派やADHDの方とASとの間でのコミュニケーションに重要なことがあると思ったのでコメントさせてください。
自分はASと思っていますが、自分の考えでも、ASとADHDの間では思考法が違うので、言語もちがうと思います。
AS的には1を聞いて10を知るというのが思考法ではないかと思います。AだからBの結論が出て、BだからCの結論がでて、CだからDの結論がとつながっていきます。
自分からみると、ADHDのほうは、要するにパターン認識のように、自分からは見えます。
A1 A2 A3 A4 A5 A6 A7 A8 A9 A10….
たくさんのAのパターンを覚えてAを認識する。
友人と話していて、感じました。あくまで、自分の感じた事なので、正しいかどうかはわかりません。
つまりAS的には世界は推論して考えるべきものです。将来なにが起こるか分からない世界です。何が起こるか分からないのが不安でもあり、何かあたらしいことを発見するのがまた喜びです。
おそらくADHD的には世界は過去を集積してそこから得た知識、教訓でできている世界で、固まっていないといけないんだろうと思います。足もとが崩れ去るのが不安で、安定が喜びなんだと思います。
脳の研究でもすすまないと確かなことは言えないことです。
でも、これは面白いです。自分としては。
なにか、最初のAを見つけたような気分。
実際にはわかりませんが。
ごめんなさい。また、話が脱線しました。
受動型ASの息子(中学生)は、かなりオクテなほうで、
今いろいろな知識や言葉をどんどん獲得しているところだと思いますが、感情面で抜け落ちている部分があるので、それがネックで会話が広がらずついていけなかったり、チグハグになってしまう気がします。
息子の抜け落ちてる(ように思われる)感情は、悲しい・腹立たしい・悔しい・不思議だ・感動的だ・・などマイナス面のものが多いです。言葉に感情の裏付けがないのです。
このように、何らかの感情を感じにくい状態にあるとして、ASの人の言葉を考えると、なんだか納得できる気がするのですが、いかがでしょうか?
マダコさんのコメントは日々実感しています。
私も1で理解できないことは毎度です。なぜ自分はこんなに理解力がないのかと。諦めるのも早いです。次男がもっとはっきり自分の気持ちを言ってくれたら、もっと彼を理解できるのですが。
今回の先生のテーマとみなさんのコメントで私がわかったことは、次男の言動の表面上とても不可思議な部分の裏には、彼にとってとても重要な思いや考えがある、それも私には予想もつかない何かが、ということです。それは私の尺度で測るからわからない。私の尺度の仕様を変えなければ彼を理解できない。
自分の友人、知人に典型的ASの人がいない理由もわかりました。出会って間もなく、私が、理解不能なことの理解(AS的な考えを理解しようとしなかった)からあっさり逃げ出したからだと思います。ASもADHDも基本的には悪意がないのにすれ違ってしまうのはほんとうに残念です。
もっとも理解に苦しむべきは、多数派の(ほんとうに行く気もないのに)「お茶しよう」という表現ですが。
初めまして、東京に住んでる21才男で13才の時ADHDとキレる脳波との診断をが出てそれ以来自分のADHDの研究をしてるんですが数年前から色々な本などでADHDやASやLDのタイプ等がありますがどのタイプわけもこれだというのはなくというかどのタイプにもほとんど当てはまっていてこれだと言うものが欲しいのと先生の参考になればと思い相談させてださい。
まず最初に診断のときDSMーlVで不注意と多動性,衝動性の全部に当てはまっていました。その他の検査はしていないんですが、まえに13才の時に診断してもらった医者の方が本勤めていた病院を引退して佐藤クリニックを開いていたので去年の10に行った時にASかもしれないといっていました。後は診断を貰っていないんですがLDと反抗挑戦性障害は親ははなしたりでこの2個は確実にあるだろうと実感しているんですが自分は今は全く困ってはないんですが外国に住みたいので暴れるのを少し良くしたいんですが自分では今が最善の方法で人は殴らないですが物の破壊が凄すぎて困るかもしれないと思っています。
それから、ADHDは空気を読めないとあるんですが自分のADHDの場合少し違い空気を読めるんですが嘘をつけないしつきたくも無いのでそのばで思った事を言います。ただジョークを真に受ける事もちょくちょくあります
後いうのが遅いですが、自分はADHDを障害だと思っていなくむしろ天才になれる可能性を凡人よりかなり大きい事だと思っていて悲壮感や治さなきゃとは今のとこ一切思わないんですが変わる事はやらなきゃならないし変わる事は必然だとも思っています。
それで、これは完全に自分の場合何ですが会話してる人の感情や何が言いたいのか、自分が今言った事への反応が感覚で分かります。心理学知識はほぼ0何ですが特に女性と話してるときは分かりやすいです。自分の感覚で殆ど同じようなスリルが有る事で格闘技をたま~にやるんですがカウタンーが決まる瞬間や野球で打つ瞬間や単車で公道100kオーバーのすり抜け等で共通してるのが緊張感と楽しさが混ざったスリルがあってそういうときは自分覚醒レベルが極端にひくく今にも寝そうな状態何ですがスリルがあるときはいわゆる過集中の状態になって覚醒しています。
>言葉に感情の裏付けがないのです
これは、ASでも積極奇異型と受動型ではだいぶ違うと認識しています。
ほかの人がASを見た場合にわかりずらいところですが、ASの人にも普通に感情はあります。(恐らく自閉症の人も同様)
私は今でもほとんど感情を外には出しません。ほかの人の感情をほぼ完璧に読めるので、それでも普通に暮らしていけます。
なぜ、感情を出さないか? 感情を出すのは疲れるんです。
強いてあげれば、笑うのだけはさほど疲れないので、いつも笑っているとは言われることもあります。
そして、自分が感情の必要性をあまり感じていないから、他人にとって感情が重要なものであることに理解が難しいのです。
自分に必要のないことを理解するのは、非常に難しいことですから。
一方、他人と一緒にいることも、また疲れます。
他人と離れて生きていこうとした場合、他の人の感情を理解し、相手に合わせることが一番です。これが、他人と接する時間を一番少なくする方法です。
学校生活でそういうやり方を磨いていきます。
積極奇異型は、もう少し体力(行動力)がありますから、そこまで極端に人と離れたいと思わないので、なかなか対人スキルが磨かれないのでしょう。世の中そういう皮肉なものになっていることを実感します。
受動型ASは極端に晩成だと思いますから、成長しているように見えるようなら、心配しなくていいと思いますよ。
スイマセン続きです。
会話の場合、相手の求めている事を言おうと思わないんですが上手い事というか相手の求めている事がでるもんです。
更に自分の経験ですが何らかの障害を抱えてる人は言うことが遠まわしだったり発した言葉が意味不明でもその人なりの筋が通ってる場合が殆どだと思うんであらゆる場面を想定し本人の様子などで大なり小なりはありますが会話を成立する事は凡人の社交辞令的なのを理解するより全然らくだと思いました。
遅くなりましたが失礼します
>受動型ASは極端に晩成だと思いますから、成長しているように見えるようなら、心配しなくていいと思いますよ。
m2さんのような方に、そう言って頂けるととても心強いです。私の夫も受動型ASなのですが、息子が愛着の対象のようで(自分の延長?)、ペットのようにしか接しません。
夫の愛着は、母親→私〈妻)→息子 とガラッと変わり、強い自己保存といい、受動型ASの目的は無意識下で遺伝子を後世に残す事ではないか、と思ってしまいます。そうでないと、受動型ASが他人と共存する必要性はない気がします。
共感していただいてありがとうございます。
最近わかったことがあります。
「私は正直にしゃべりすぎる」
「初めて会った人に全部をわかってもらおうとしすぎる」
です。
これも言い換えれば「最初から10(本当は1~9があるのに)を説明してしまう」ということかもしれません。
ADHDの頭では普通にやっていることなんでしょう。が、たぶんASにはわからないことなんだと思います。私が説明がヘタなのでいくら説明してもわからない結果になっているように思います。
でも、このブログを通して、ASもADHDも相互理解をしたいという気持ちをすごく感じます。なにかしらの方法があるように思います。
もっともっと意見を出し合いましょう! 失敗したことはそのままでは失敗ですが、再チャレンジして成功すればいいんです。うまくいく方法を考えればいいだけのことです。←これはADHDの人向けでした。ASの人を励ます方法はわかりません、すいません。
やっぱり!マダコさんもそうですか。
私も全く同じです。いや、同じでした。
主人に指摘されて、今は「正直すぎる自分」にセーブをかけています。
主人いわく、親友でもないのに自分のことをしゃべりすぎるのは自殺行為に近いことだそうです。なぜならもしその人となにかのはずみでケンカしたとき、その人が、「私について、私から聞いたことにあることないこと尾ひれまで付けて他の人にしゃべる」という可能性があるから、と。噂されてもはね返したり気にしない度胸があるなら全部しゃべってもかまわない、と。
確かにそうだな、と納得しました。
ADHD(AS)にとっては普通なことが違う種族の人にはとても不思議なことって、きっと他にもたくさんあるのでしょうね。
不思議でも本人にはちゃんと理由があるのですが、やっぱり相互理解が大事ですね。
ASは言語に限らず非対称性です。
自分から触れるのが平気でも触られるのは苦手だったり。
自己の欲求や自己防衛が絡まってる時はとくに。
そういう時は、誤解されないようにと思って饒舌に感情的、情緒的になって、他者には逆に意図が判りにくくなってしまうでしょう。(他者が判り易いかどうかの他者視点が考慮に入ってこ無い)
それに関係しない時は他の人からの言葉を深読みなんてしてないと思います。
投げかけられた言葉に対して考えても、その先にある発した人まで考える時に考慮に含めず処理してしまう。
自己と他者を同レベルで感じられない以上は非対称性は生じるような。ただ処理レベルの高い人なら言葉のみ以外も考慮できるかも。
エムさんの子供さんがどの程度自分を知覚できているかによりますが、実際にピンと来ない感情がある場合は、こういう場合のこの気持ちを定型はこう読んでると教える必要もあります。
感情を外に出すのも受動型は結構面倒なので内で考えている間に出すのをやめたりしますから、傍目には起伏が低いように見えますし、こだわり以外で感情も混ざって話をする(内から出す)事は少ないでしょうから、会話が広がらない続かないのはAS的に普通の応答をしているだけではないでしょうか。必要最低限の答えを返しているので、それ以上会話の必要性を感じてないか面倒くさい。
>他人と離れて生きていこうとした場合、他の人の感情を理解し、相手に合わせることが一番です。これが、他人と接する時間を一番少なくする方法
そうなの?そんな方法を自然に考えもつかなかった。受動型が誰でも思いつくとは限らない、思いつかずに離れるのを選択すると孤立型に近づくように思える。
○さん、アドバイス有難うございます。
私はもう少し息子の側にたってみる事が必要なようですね。
自己主張せず欲もなく、いい加減でお気楽な息子をみていると、将来どこで頑張れるのか心配なんです。あくまで受身な子なので、ある程度レールを敷いてあげなくてはと思っても、少しは本人の自発的意思も期待したいし。
とにかく私(ADHDのAC)からASをみると、せっかく能力があるのに、それを活かしきらないようでモッタイナク思うんですよ。
AS夫の発する言葉には、感情とかプライドとか、複雑な一言では表現できないような、感情などがその一言の中に表現されているようにわたしも感じています。先生がおっしゃる詩的象徴的表現というのと同じかはわかりませんが。
その時のバックグラウンドをよほど把握していなければ、想像もできないような事が隠されています。もちろん、それを知るために、毎日いろんな話をして、情報を得ておけば、ある程度想像はできますが、絶対に隠したい事は、そこまでしなくても誰も勘ぐりはしないよ、というところまで見せないようにしたりしますので、なんとも不可解な言動になる事もあります。極端ないわれもない言動(暴言もあります)があった場合は、「真にうけるな!この人のいいたい事はこのこと自体でなくて、なにか違う感情をいってるんだから!」と自分に言い聞かせます。真意はずっと後になってわかったり、永遠に分からない事もありますが、真に受けていた時期は、こののんきな私が、強迫症状やパニックに苦しみました。その場で真意は分からなくても、「何かあるんだな」といったん捉えておく事で、ずいぶんと自分の負担も少なくなったし、トラブルも減りました。
隠された感情というのは、確かに負の感情が多いような気がします。
「はげたら小説家になる」とよくいっていましたが、はげたら人前に出たくないというナルシストの自分の性格と、違う分野の仕事もみたいということをうまく表現した言葉だと思います。いるかはほ乳類と分かっていながら「いるかは魚だ」というのも面白い表現です。ほかにもおもしろい詩的表現はたくさんあります。それをいかしてそのまま詩人やミュージシャンになってる人もいますね。
彼の性格は、私の周りでは「人のデリカシーは非常に気にするが、自分の人に対する言動にはデリカシーがない」とよく表現されます。私はそうは思っていないのですが。