AS(アスペルガー)関連

孤立型ASD

 最近孤立型ASDの診断がつくケースに数例出会い、どういう人なのか少しずつ私の中でイメージが出来てきた。

本来孤立型ASDの人は本人が困ることが少ないので医療機関には相談に来られない。以下に説明するが、「普通」で「発達障害っぽくない」という印象にすらなる。

ざっと説明してみよう。

1.対人関係は一見ADHDに似る 基本的に束縛を嫌い、人への愛着はあるにはあるが非常に薄い。

その意味で一見ADHDの「平等」に近いかと見えるが、よくよく見ると「個別の相手により行動が変わる」というASDの根本特徴は備えている。

ただし、積極奇異型や受動型のASDとの違いは、「大事な相手への愛着は自分のこだわりの中で最上位ではないことが多い」ということだ。

極端には、「相手が自分をどう思っているかはさほど重要でない」という形になることもある。

「3歳から一人で留守番していた」という超自立している子供時代のエピソードがあれば孤立型と私は診断する。

 

 

2.こだわりはあるが衝動性は少ない。

むしろ「欲が無い」という部類に入るだろう。こだわり以外のところでは極端に「怠惰」で、面倒なことや強制からはとっとと逃げる。

社会参加には基本的に関心が薄く、しいて言えば「経済的自立」にはややこだわる。

だからジャイアン型ADHDから見ると、「覇気が無い」と見える。この点はノビ太型ADHDにやや似ている。

 

3.ノビ太型ADHDとの違いは、「自分を全否定するような自己突っ込みが無い」点だ。

認知の特徴はASD特有の「自分の側から見た遠近法しかない」という特徴に当てはまり、自分を全否定する認知は無い。

ただ自分のこだわりを実現できなかった時にその分だけ自分に突っ込むことはある。その結果行動としては、「徹底して嫌な事はしない」というパターンになる。

従ってノビ太特有の「自分が明らかに損をする方向に自分から突っ込んで行く」というような不器用さは見られない。

まさにこの点が「発達障害っぽくない」という風に見える。

 

4.現実への適応は意外に無難にできる。

うまく行かない現実があると、「本人の中のこだわりの優先順位をいくつか入れ替えて自分の中で納得して処理する」という器用なことが出来るので、こだわりの優先順位の低いところでの妥協はさほど苦にならない。

 

5.多数派に一見似ている。実際不器用なノビ太や強すぎる衝動を持て余すジャイアン、人への愛着に命をかける積極奇異型や受動型ASDなどよりはずっとスムーズに世間を渡って行けるから医療機関には相談に来ない。

しかし「空気を読まない」点では多数派と正反対の位置にあると言える。言葉で言われると真に受けて拒否出来ないことがあるが、言葉以外の雰囲気を読もうとすることは滅多に無い。

結果として(こだわりの物に関係するところ以外では)「存在感が薄い」という印象を持たれる。

この人たちは自分からは医療機関に相談に来ることは少ない。しかし重要なことは、脳のタイプの中にこのタイプが存在することをこちらが頭に置くことである。

このタイプはプレッシャーをかければ逃げて行く。そういう世間にはこだわりの少ない人たちなのだということを理解し、社会参加を強制しないことが重要だと私は考える。


関連記事

  1. 自己紹介
  2. 境界例と受動型AS
  3. DVの加害者と発達障害
  4. 日本ADHD学会
  5. 「木から降りる」意味
  6. ASに似たADHD④先延ばし
  7. 精神疾患に見える発達障害シリーズ①
  8. ADHDが宿題を忘れない方法

コメント

    • r.
    • 2015年 9月 08日

    読ませていただき、やはりパートナーは孤立型なのだと思いました。

    地味で無口で感情の幅が狭く、覇気もなく、自責にさいなまされることもなく、空気も読まない。
    なのに社会には適応し評価を受けていて、ところがその点を彼自身が評価していない。
    そんなふうに見えるのが、ずっと不思議でした。

    先生のおっしゃる
    >このタイプはプレッシャーをかければ逃げて行く。

    彼の言動はその通りで、まさにそこがジャイアンな私の怒りの発火点となっていて、
    「無責任な人ではないのに、どうして逃げるのか?どうして逃げている自覚がないのか?」
     と不可解に思っていました。

    この数か月、人は(少なくとも私は)孤独なんだ という思いを強くしていました。
    私的にざっくり言うと
    誰も私を理解してくれない = 周囲からの賞賛・評価が得られていない = 被害者モード・不健康
    ということなのだと思いますが、一方で
    孤独を味わうのが人生だ と思ったりもしています。
    人とのつながり・共感などは、霞のようなものだと思えます。
    (実体がないから価値がない、と考えているわけではないです)

    孤立型との関係では、共に暮らす者が「より孤独をつよく感じる」ということはあり得ると思いました。
    娘は、人を必要とする積極奇異型に見えるので、父が孤立型、母がジャイアンという環境は
    生きづらいのだろうと想像しました。
    (こちらのブログで学ばせていただいたおかげで、最近の娘は逞しさが感じられるようになっています)

    これからの人生も、私は孤立型の彼と共に過ごすことになる予定(たぶん)です。
    ジャイアンが他者と暮らすことを選択したいのなら、「孤立型との共生」が
    もっとも実害が少なく、あんがい相性は悪くないのかな、という気がしてきました。
    (しょせん、人はみな孤独ですから!と、むしろ清々しく思います。)

      • r.
      • 2015年 10月 12日

      >このタイプはプレッシャーをかければ逃げて行く。そういう世間にはこだわりの少ない人たちなのだということを理解し、社会参加を強制しないことが重要だと私は考える。

      そうですね、強制しない方がいいのですね。と頭では理解しつつ
      夫婦の会話を強制してしまう私です。

      そういうときは
      わたしは孤立型にコミュニケーションを強制している!
      という自覚をもちつつ、今日を過ごしていきます。
      なにもかも、自己責任ですね。

      加えて、すこしだけ、
      わたしはよくやっている!
      と自分を励ましつつ、これからを生きていきます。

        • r.
        • 2015年 10月 25日

        「ジャイアンの最低限の適応」について考えたこと なのですが、
        パートナーが孤立型ということにも関わっていると思ったので
        こちらに書かせていただきます。

        最近のコメント投稿を読み、因果関係について考えました。
        一般的には因果関係が明確である、と感じることも多々ありますが、
        その精度は「多数派がそう思っている、そのように見える」というだけのことで
        その考えが正当とは言えないと思いました。

        多数派的な適度・ほどほどのおおざっぱさ で「あれが原因で、こうなった」
        と言っているだけ。個々の事実の捉え方の問題。
        掘り下げると、きりがない。とはいえ 短絡的な思考というのも危険だ。
        適度な思考と、中断。

        そんなことを考えているうちに、ふと、
        ジャイアン(少なくとも私)は、幻想の中で生きているな と感じました。
        「本来ならば、私はもっと評価されるはず」
        「ほんとだったら、もっとうまくいっているはず」
        って、つまり現状が不満だというだけのこと。

        一方、現状への不満は、向上心となり、努力へのエネルギーとなります。
        現状を現実として受け止めると、私はエネルギーもわきません。

        因果関係思考も 幻想も、要はバランスの問題かと思います。
        適切な程度に思考し、幻想する。バランスのとり方の問題。

        逆に言えば、この世はバランスさえ取れていれば何でもあり? 
        例えば関係のあり方が、共依存であってもいいのか?
        これについては、うまく回っていれば問題が顕在化しないので、問題になりえませんね。
        ・・・というか、私の考えはどうしてここで「関係」へと飛んだのだろう?

        私は「最低限の適応」に根ざしたバランスが、未だしっくりこないです。
        「世間川」という一級河川にもみくちゃにされているから なのかな。

        その点、孤立型は独自のバランス感覚で、生きていますね。
        ASDは孤立型に限らず、各自「自分川」をお持ちになっている という
        感じがしますね。実は世間川の中では生きていないから、もみくちゃにもされない。
        (ように見えます)

        それでも私は、当面「世間川」から上がらないと思います。
        川の中で評価されないと、ジャイアン的には意味がないから。

        けれども、あらためて考えてみると、
        世間で評価されても うれしさが続くのは2,3日。
        だとしたら、日々の幻想の中で ほんの少しうれしいことを見つけて
        ああ、よかった と思って生きていく方が幸せなのかもしれないです。
        これが、私なりの「合理的」ということかもしれませんね。

        書かせていただき、ありがとうございました。

          • r.
          • 2015年 10月 29日

          上に書いた「しっくりこない感じ」が続いています。

          (ジャイアンの)自分は「幼稚」で「飽き性」で「物欲・名声欲」にこだわる。
          「もっともっと症候群」にかかっているようなものです。
          ファンタジーの中の住人です。

          しかし「欲」を満たすためには、現実社会に関わり続ける必要がある。
          現実社会にも居続けるために、私はどうしたらいいのだろう?
          両方の世界を行き来すること(していたのか?)が疲れたのだろうか?
          「自分て、何者?」(←中2病?いや幼稚なのです)

          このところそれぞれ別の友人に
          「利他的とは、つまり利己的に生きるということでしょう?」と投げかけたら、
          「・・・」「ちがう」「スルー」といった反応でした。
          ・・・さびしい。
          あっさり「そうだね」と返してきたのがパートナーでした。

          仙人とか、出家して高僧になった人(一部は合理的ADHDかな )など、
          孤立型が多そうな気がします。
          たぶん最強の人々です。

          書きたいことを書かせていただきました。ありがとうございました。

    • Jenga
    • 2015年 10月 16日

    先生みなさまお久しぶりです。誰も気にしていないと思いますが近況報告です。

    とりあえず進もうとしたとき、私は目標とかなかったんです。なんとなく遠くに出口がみえて、先がわからないけど一歩出たというか・・。はたまた、自分なにがなんでも大切だと自分が血みどろになって握りしめていたのを、手放して流れてみたというか・・・。 
    その結果「パート主婦+PTA活動+ママさんクラブ」な私は破壊的不適応を起こしたのに「夜勤付きフルタイム介護職」な私は適応的に生きていれます。旦那とは同居し、子供達は学校に行ってます。

    結局、あれだけ考えたのに、うまくいかなかった原因がわからない。うまくいってる原因もわからないけど(;一_一)
    べつに戻るつもりはないのだけれど、絶望的不適応の原因を知りたい。でも誰も教えてくれないし・・聞くこともできないし・・。
    そしてそのまま引っ越しすることになりました。わからないままサヨナラです。
    ・・・それでいいのかな・・・いいんだろう・・・。
    私を苛める原因を相手(社会)に問い続けたのがいけなかったのかなああ。
    (ちひろ)

    • ほて
    • 2015年 11月 03日

    アスペルガーは承認されている薬はないのですが、
    http://hattatu-matome.ldblog.jp/archives/46642592.html

    大柴胡湯、抑肝散がいいという記事を見ました。
    試されたことはありますか?

    • F
    • 2015年 12月 22日

    「逃げる」っていう考え方自体が馴染まないんじゃなかろうか。(積極奇異は意見違うかも。私も、ちょっとざらっとはしますね)
    それ以上続ける意味が本人には見いだせないから撤退(損切り)するだけではなかろうか。「義理は果たした」「給料分の仕事はした」「言うべきことは言った」で、「妥協点がないなら続けるだけ無駄」みたいな感じで。で、相手が勝ち誇ってるのを放置したり。

    逃げるという発想自体が非常にジャイアン的に感じます。
    一般的に「逃げる=(かっこ)悪いこと」なので、ジャイアンは「途中で投げるなんて!砕け散っても最後までやれ!それが生き様だ!」って考え方なのかなと。
    私から見ると、ジャイアンって相対的な世界に生きる人に見える。生物って競争してナンボだと思うので、本当はそのほうが健全なんだろうな。
    ASの世界って絶対的なもの(自分が中心であり基準)だし、拘るのは善悪じゃなくて正誤だと思うんです。

      • F
      • 2015年 12月 22日

      しばし前にネットでシマウマとライオンだかの動画が話題になっていて。それはシマウマの赤ちゃんがライオンに食べられるのを手を出さずに撮ったもので、その動画の感想が「彼は正しいことをした」「これが自然の摂理だ」みたいな意見だらけだったのです。
      私は「どこが正しいのか」と夫(たぶんADHD)に尋ねました。夫が言うには「これが自然のあり方で、人間が自然に手を加えるのはよくない」。私はやはり理解できず「人間は散々自然に手を加えているし、人間だって自然の摂理の中にいるのだから、気に入った方の味方をしたっていいじゃないか」と述べたところ、「その結果ライオンが絶滅して、それが遠因でもしかしたら人間が滅ぶかもしれない」と。「人間が滅ぶのがまずいというのは人間の都合。知恵があるからそうしないだけで、正しいかどうかは別問題」「でもそれが人間で~」
      つまるところ私が引っかかっていたのは「何故人間を自然の摂理の外に置くのか」だったんですが、この件について30分以上議論しました。その後、「感想を述べている人たちは論理的に正しいかどうかではなく、正義(現代のネットと言う辺境での多数的意見)を述べているのか?」と尋ねたところ、夫は「そうそう!」と嬉しそうでした。
      こういうどうでもいい話題を真面目に議論してくれる夫が好きなんですけど、昨日私が集中しているときに膝を撫でたり顔を触ったりちょっかいかけてくるので「うるさい。邪魔しないで」とぴしゃっと言ったら、拗ねて寝てしまいました。朝はいつも通り上機嫌でしたが。

    • koma
    • 2016年 1月 09日

    この記事を読んで、私はまさにこれだなと思いました。
    このタイプはプレッシャーをかければ逃げていく
    面倒なことや強制からはとっとと逃げる
    という文章を読んで、「そうそう、その通り!」
    と思いました。
    本能的に逃げたいから逃げるだけで、たとえ
    人からどう思われようと構わないです。
    先生のこの記事もなんとなく温かさを感じ
    孤立型ASDをよく理解してくださっているなと
    有難く思いました。

    • koma
    • 2016年 1月 09日

    まだ今日書いたコメントが承認待ちのうちに追記をさせて頂きます。

    私は先生がこの記事で書かれた通り、「相手の気持を考えない」という
    悪いクセがあるなあと今回痛感いたしました。

    これは「人でなし」ということになります。

    大反省です。

    先生、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。

    前回の記事も今回の記事も両方を承認なさらないでください。

    ADHDのように場面場面が切り分けられていて、
    「この部分は賛同できる」「この部分は賛同できない」というのが
    はっきり分かれていて、私の中ではそれも矛盾していないのですが
    相手の方にとったら、味方なのか敵なのかわからないかもしれません
    よね。
    私は敵でも味方でもない中立なのですが、やっている行動は
    たぶん極端なのだと思います。

    今回は本当に失礼いたしました。今後はこういうことのないように
    極力気を付けます。

    どうぞお許しください。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP