私は私が出会う当事者の人一人ひとりについて考えながら私の発達障害の分類を作り続けてきた。これまでの分類に無い人が現れれば分類自体を作り、また説明できない人が来られれば分類自体を組み替えることもある。
HPのASの分類に関しては、自閉症の3分類(積極奇異、受動、孤立)をそのまま書いていたが、実は「孤立型」という人にはこれまで会ったことが無かった。
それが、最近やっと「家族」の中に孤立型ASと呼べるような人が現れた。もちろん本人にもその診断を告げた。
積極奇異型ASとの違いは、「愛着の対象に尽くす」「全体を仕切ったり注目を浴びたがる」という「愛着」と「中心志向」が見られない。
受動型ASとの違いは、外でも自分のこだわりを強く主張し、周囲に「合わせる」形での妥協が見られない。基本的に内と外の違いが無く、「生活の全てにおいて自分の興味関心、こだわりに忠実」というスタイルになる。
その結果、「普通へのこだわり」が無い。あくまでも「自分は自分」で、特徴的なのは、「感情移入」が見られないところだ。映画やドラマなどの作中人物の気持ちになることが無く、あくまでも「鑑賞者」として自分は外に居るということだ。
私が出会った孤立型ASの人は、非常に興味深かったが、「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」とはっきり言い切っていたことだった。
衝動統制は、これも興味深かったが、「自分のこだわりの中での優先順位で我慢も出来る」ということだった。
「よりこだわることのために我慢する」というわけだ。
私はASの特徴を、
1.興味関心の著しい偏り
2.対人関係の被影響性と個別性 「人が非常に近い」、「相手によって個別に関係や行動が変わる」。
3.連合の学習障害 「想像力の飛ぶ範囲が非常に狭い」
と理解している。これの1が際立っているのが孤立型ASということになる。
ADHDののび太型とちょっと似ているが、「自分のこだわりの相手からは必要とされたい」ということと、「相手の立場に立つ想像が出来ない」ことで区別できる。
要は「自分の好きなことに非常に忠実で人とはあまり深くは関わらない」というキャラクターになるが、のび太と同様に、依存傾向を持つジャイアンや受動型ASのパートナーにはなりうるだろうと考える。
先生の大問題はどうなったんでしょうか
私はつかれました
孤立型AS、先生もほとんど見たことが無いですよね。
私も今までこれに相当する人は一人しか知りません。
それは、自分の弟です。
彼はASなのは間違いないのですが、長年付き合っている相手なのにもかかわらず、中心志向があるのかないのかわからないのです。
受動型か能動型か? はスペクトラムだと思っていますので、弟を見ているとその中間というのはあってもおかしくないとは思っていました。
表面上は、ここに書かれている方と結構近いと思います。
「絶対に女性と付き合ったり結婚することは無い」という言い方ですね。
後、親戚とかが来ても、受動型ASの私でさえ挨拶程度はするのに、引きこもったりします。(問題なく仕事はしています)
大変興味深いエントリーですね。
孤高の人?変人?
「人は一人で生きていけるか」という曖昧なテーマに通じる何かがあるような気がします。
孤立型ASの記事がないなぁと思っていましたが、先生が診ているASさんのなかでは孤立型ASさんがいなかったのですね。
孤立型ASさんは、内と外の違いがなく、人を必要とせず、こだわりに忠実、なるほどなぁ。だから、ご本人は受診の必要を感じることがほとんどない、困ってはいないということでしょうかね。。。
相手を理解すると生活しやすいですね。変に期待もしませんし。
この記事を読んだら、また自己分析したい衝動に駆られましたが…
1.興味関心の著しい偏り
2.対人関係の被影響性と個別性 「人が非常に近い」、「相手によって個別に関係や行動が変わる」。
3.連合の学習障害 「想像力の飛ぶ範囲が非常に狭い
やっぱり違いますね。
特に2の「人が非常に近い」は(実感として)理解不能です。
団体行動だとすぐ自分の世界に入ってしまいがちですので…
「孤立型AS」一人思い当たる知り合いがいます。
一見KYで天然のび太だと思ったのですが、「非言語表現」が分かるらしく、AS家族同士ではアイコンタクトや一言二言話すだけで通じ合っていたので、不思議に思ってました。
ちなみに職業は床屋さんですが、家族と客でさほど態度は変わりません。
「技術職」や「自宅が仕事場」という人に多そうですね。
かつての職場の後輩にいました。
ヒトの言うことには耳を貸さず、自分の思うようになんでも運んでいました。
大きなミスはなかったものの、周りが何かしでかさないかといつも心配して気を遣っていた、ということはあります。
ただ。
これはあくまで噂ですが。
いつからか休憩室におばさま熟女主演あちら系ビデオや同様の本が多数あり。
彼が持ち込んだという話でした。
真偽のほどは不明ですが、誰一人としてその話を否定しませんでした。
あるコメントにあった言葉がヒントになって、
「想像力の飛ぶ範囲が非常に狭い」の意味がやっと分かりました。
大量の想像力を発揮しても、飛ぶ範囲が狭いので、地下(妄想)に降りていってしまうのかな・・と。
ママ友に「ビンボー」と揶揄されたと何度も書いたことがあるのですが、そもそも「揶揄」と判断したのも、人との距離がとれてないし、「ビンボー」と、言葉どおりに生活が貧乏であると侮辱されたという判断は誤りで、黒ゴムで髪を結うだけでシュシュもなにもつけないのは「貧乏臭くてダサい」っていいたかったのかもと・・思い至りました。
あれから、3年以上も過ぎた今になって(|||▽||| )ゴメンナサイ
道産娘さんのコメントを見て思い出していました。
>「技術職」や「自宅が仕事場」という人に多そうですね。
以前、建物の一階部分を仕事場にした場所で、伝統工芸の機械織りを仕事で織っていた事がありましたが、そこの夫人が孤立型ASかもしれません。社長はADHDの傾向があり、かつ依存傾向のような気がしました。
夫人は、社長以上に織物という生産業にだけ固いこだわりをもっており、経理もしている人でした。社長を含め、周りの年上の織子さん(40代主婦層)たちなどは、夫人が身内(親族)だからか、腫れ物のように接していながらもうまくかわしていましたね…。糸染めや機械調整の高年の男性たちは、夫人の事だから仕方がないと諦めるのが普通の日常の様でした。
生産が遅く、失敗の処理が下手な私はよく夫人に目をつけられ、私はよく、夫人の抑圧された攻撃性を感じていました。夫人の中で、織物生産、という、よりこだわるものがあるから私の事も我慢する、という衝動統制だったと思っています。しかし、無意識のうちにでも発せられたAS的な非言語表現は、互いに通じてしまっていたと思います。
そして、ある日突然キレた夫人の采配一つで、突然私の立場は時給制から徹底的な自己責任と請負産業の扱いへと変わり果て、出勤直前に「今日から一か月くらい来なくて良い」と、直接電話で言い渡されました。合理的な理由の説明は皆無。夫人の中で、私の事にもう我慢がならなかったから、という感じでした。私の存在は、夫人の中からAS的シャットアウトをされてしまったようでしたね。
社長に至っては、「夫人の事だから仕方がない(あなたの現状は変えられない)」という姿勢で、私の側の通勤事情など一切考慮されず、交渉して仕事を続けようとする気持ちは打ちのめされました。
夫人は一見、AS的情緒的な姿に見えるのに、実は自分のこだわりにだけこだわる、積極奇異の私から見て冷たい人だという事がわかり、驚きとショックが隠せませんでした。私の、対人的能力と技術的能力から言って、「向いていない仕事だった」とハッキリ自覚せざるをえませんでしたね。
今でもトラウマです。
さーこ(AS)さん
嫌な事を思い出させてしまいましたね…f(^_^;
私の孤立型AS知り合いは、こだわりの家族に対しては(家族サービスをする等)それなりに合わせる印象があるのですが、それ以外の人に対しては「こだわりを主張し、マイペース」でしたね。
「人を必要としない」ので、確かにさーこさんの仰るように「冷たい」印象もあるかもしれません。
しかし、(一見ジャイアン風の)ワガママな奥さんの尻に敷かれて、随分頼りない社長さんですねぇ。
さーこさん。
>私の存在は、夫人の中からAS的シャットアウトをされてしまったようでしたね。<
ふだんは無視するくせに無視しきれなくなったら突然攻撃し始めるんですよねえ。
まったく困ったものです。
さーこ(AS)さん
「非言語表現」についてですが、通じない(分からない)私ですら苦痛に感じる時があるのですから、通じているさーこさんはもっと苦痛でしょうね。
できるだけ前向きに…楽しい・嬉しい感情を積極的に感じ取るよう気持ちを持っていきましょう♪o(^o^)o
道産娘さん。Paul Carpenter さん。
今はもう過ぎた事だから良いのですけどね。
私はどんな職場であれ、段階を踏んでからきちんと辞める、嫌味を含ませない挨拶などの礼儀をきちんとする、個人の荷物を回収し、職場の備品や制服などを(制服はクリーニングするのかどうかを職場の人に聞いてから)お返しする、などそういった事を、自分で考えた末、自分で徹底してきているので、あれからそこの職場とは何の関係もありません。
道産娘さんはなんか責任を感じているようですが、大丈夫ですよ^^
ただあれ以来、私の中には「本当の事(自分の体調の事など)を言ったら即クビにされる」という過剰な二次障害が残ってしまいました。
ここ数日、体調不良で謎の高熱が続いていて、今はもうだいぶ落ち着いたのですが(看護師である親の見立てではインフルではないらしい)、職場の方には私の代わりに親に電話してもらい(情けない状態だが、障害者雇用なので親に電話してもらうのもまぁいいかと思い直しました)、ハローワークの方には自分で電話しましたが、いきなり情緒不安定になったので担当さんにはご迷惑をかけてしまいましたね。
まぁ最近は、兄夫婦の代わりに一日だけ夕飯を作ったり(食事を作りながら拒食の記憶を思い出して正直つらかった(汗))、遠い土地から兄夫婦の来客が来て(以前から予定が決まっていたから変更は不可)、数日家に泊って行ったりしたから、私のストレス耐性が振りきってしまったのかも…もう少し対処を考えないといけませんねぇ。。
>できるだけ前向きに…楽しい・嬉しい感情を積極的に感じ取るよう気持ちを持っていきましょう♪o(^o^)o
そうだね。そうしよう…^^ 道産娘さん、ありがとうね (^-^)v
さーこ(AS)さん
体調が悪い時ぐらいは、家族に素直に甘えた(対ADHDなら利用した)方が良いですよ。
さーこさん、お大事にね(^-^)
さーこさんに小生の図太さを少し分けてあげたいです。
まあでも。
次から次へと難題を自ら持ち込む、引き入れる小生の人生は分けないほうがいいと思いますけど。
YANBARU先生、こんにちは。珍しく「孤立型AS」のテーマが出てきたので、顔を出しました。
私は「孤立型AS」という言葉に郷愁を感じるのです。「心のふるさと」という感じがするのです。
先生のおっしゃる定義には、あまりあてはまらないかもしれませんが、私の何%かは、きっとこのタイプが入っていると思います。
〈私の傾向〉
・人に対する「愛着」はある⇒孤立型ではない
・中心志向がない。世の片隅に埋もれていたい。⇒孤立型系
・基本的に内と外の違いがなく、生活のすべてにおいて自分の 興味関心・こだわりに忠実というスタイルはあてはまる
⇒孤立型系
・感情移入はある⇒孤立型ではない
・興味・関心の著しい偏りがある⇒孤立型系
・期間限定で人におせっかいをする⇒孤立型ではない
・専業主婦で子育ても一段落しているので、社会に出る機会が うんと少ないため、ひきこもりに近い生活を満喫している
⇒孤立型系
私は現在、社会との関わりがすごく少ない環境にいるので、居心地が良いですが、もっと社会との関わりが増えると、すごくストレスが強まると思われます。私の自閉度はかなり強いと思います。
訂正があります。
・基本的に内と外の違いがないではなく「大あり」でした。
社会と関わることが少ないので、うっかりしていましたが
外ではかなり妥協して何事も丸く収めようとします。
家族内では「性格きつ~いボス的存在」でした(汗)
⇒この点は孤立型ではないことになりますね。
やはり私は「意味不明な人々」だなあ・・・
孤高の芸術家や某コメディアンの様な変人や
映画の小説家を思い出します。
発達障害とは本当に奥深いです。
みさんへ
少し間が空いたので、こちらでお話させていただきます。
『ガス無しライター』のスレッドでは大変お世話になりました。
「何事も、言わなきゃ伝わらない」と痛烈に感じていたにもかかわらず、あの体たらくでした。
反省しております。
道産娘さんへ
あのときの道産娘さんのコメントは、自己診断への足がかりになりました。
(当時はぴんと来なかったけど、ずっと記憶にあったので、確実に下地になったと思います)
ありがとうございました。
『ADHDは人を必要としない』そうなので、「私はADHDかな?」と思っていたのだけど・・・こっちでしょうか・・・。
周りの人がおろおろ(ひやひや)しているのに押し通すときは、「空気が読めない」のじゃなくて、「敢えて読んでない」です。その結果、場の雰囲気や自分の立場が悪くなるかもしれない可能性は理解していますが、やめません。
一対一のほうがきつくて、目の前の人の考え(戸惑っている様子、いっぱいいっぱいな様子、正当化に走っている様子、阿っている様子など)が嫌と言うほど伝わってくるので、特に不器用なAS相手だと窒息しそうになります。
何だか気の毒で、通じないふりをするのが難しい。
(通じないふりをする=自分は意地悪をしていると感じる)
それに加え、自分の(情緒的フォローが足りない)やり方で話すと、ときどき大失敗するので、「人付き合いが面倒くさい」と感じます。
私の対人距離は凧糸のイメージです。(自分が凧、自分のペースで好きに飛びたい)
積極奇異型・受動型AS相手だと凧糸が短すぎて苦しい。
合理的・天然ADHDだと凧糸が長すぎて「あれ?もしかしてこれ、切れてる?!(私の片思いだった?!)」って焦ることがあります。不安になるけど、近寄る努力はしません。
そもそも切れてるか確認しないですし、おそるおそる確認した結果切れてたら、「そっか、ガッカリ・・・」で終わりです。
凧糸は切れちゃうと戻りません。
よりどころがなくなります。遠い人になってしまって。
物理的にそばにいても、もう遠いです。
逆に物理的に遠くても、相手の存在は忘れられないのです。
でも、近いよりは遠い方が楽です。ほっとします。
強烈に惹かれるのは、ASっぽい人なんですが・・・。
まれに、凧(私)が飛んで行くすんでで気付いて、繋ぎに来る人がいます。(ASっぽい人)
相手を自分に近づけすぎてしまうと、追い出せなくなって苦しいので、できれば近づきたくないです。
「この人なら大丈夫だろうか・・・?」と思った人にだけ、「よっこいしょ」と自分の境界を開いて招き入れる感じですが、私が30数年のうちで開いたのは2回だけ、です。
『内側』で大暴れされると、本当にあの世が見えます。
書き込むのは初めて、のような気がするのではじめまして。
自分は孤立型ASの中でも特に極端なほうだと思います。
サンプルの一つとして頂ければ幸いと思い、書き込ませてもらいます。
孤立型で特筆すべき点はやはり大きく2つでしょうか。
・自分自身に対する興味の無さ。
・他者の認証や、アイデンティティの確立を必要としない圧倒的強固さの自我。
「自分自身のことを考えろ」と言われても自身は「ヒト、或いはASについて等などを考察する際の最も手近なサンプル」以上の価値を持ちません。
自分がどうなろうが最終的に取る行動は、ただの観察と分析です。
自身に対する評価がそうである以上、周囲に合わせるという行為は価値がない、どころか不利益な行動となります。
サンプルに手をつけるのは、あくまで実験観察を目的としてです。
そして、自身すら客観の対象、つまりは「感情移入の対象とならない作中の人物」として見ている以上、自我に影響を与える事象が形而下において存在しないことになります。
結局、世の中との関わりはロールプレイ以外の何物でもなかったりします。
Fさん
(あくまで私の印象です)
Fさんと絡んでた当時、私はFさんのことを「KYの受動型」だと思ってました。
Fさんの「人と混じるのが苦手」という言葉が、「人を近くに感じ過ぎて、人に振り回されるのが辛い」という「ASらしさ」からくるものだと思ったからです。
KYなのは「情緒障害で相手の感情を感じられない時期があったから」かなと思ったのですが、お母様がADHDということなので、お母様に合わせて「わざと読まない」習慣を身に付けてきたのかもしれませんね。(もしかしたらさーこさんもそうかな?)
うーん、孤立型かなぁ…
確かに以前から「精神的に自立してそうだな」という印象はあったのですが、Fさんとみさんとのやり取りを見てたら、「私の主張を受け入れて欲しい(その為にあなたが必要)」という気持ちが強かったのかな?とも思いました。(違ってたらごめんなさい)
>『内側』で大暴れされると、本当にあの世が見えます。
アイタタタ…(^_^;)
きっと私と母が喧嘩してた時、積極奇異弟もこんな気持ちだったんだろうなぁ。
気を付けよっと!
道産娘さん
積極奇異の私の場合、「あまりに傷を負いすぎて、自分の内側と外側の境界自体が保てない(自分の内側と外側の両方から傷を負っている状態)」→ 「KYの受動型」の様な状態になる(それでも世間的表面的に適応しなければより傷を負ってしまうから)→ 「(結局、家族全員から理解を得られず)情緒障害の様な状態になる」という経過だったと思います。でも、無意識でやってきたであろう事は、本当にはどうやってきたのか私自身にもよく分からないというのが本音ですね。
Fさんのコメント、 >一対一のほうがきつくて、目の前の人の考え(戸惑っている様子、いっぱいいっぱいな様子、正当化に走っている様子、阿っている様子など)が嫌と言うほど伝わってくるので、特に不器用なAS相手だと窒息しそうになります。何だか気の毒で、通じないふりをするのが難しい。(通じないふりをする=自分は意地悪をしていると感じる)<
ここまでは、私が遭遇した夫人の感性と同じですよ。ちょっとびっくりしています。
>相手を自分に近づけすぎてしまうと、追い出せなくなって苦しいので、できれば近づきたくないです。<
これもおそらく夫人の内観だろうと思われますが、しかし、「自分の内側から追い出すためだけに」、「うちは製造業だからね(製造業だから、製造の遅いあなたは来なくていい)」と、そんなに私に強固に強弁しなくたって良かっただろうよ…と少し思います。まぁ、夫人を仕事人としてではなくただの人間として見れば、「夫人は私に適切な対処ができなかったし、私も夫人に適切な対処ができなかった。そしてその事は、ただ仕方がない事だった」と諦めがつくのですけれどね。
(つづき)
Fさんの対人距離の話に出てきた、凧と凧糸の話ですが、私は実は「凧糸なんてものが存在する事を初めて知りました」。「そういう事だったのか!」と新たな発見をした気持ちになりましたよ。
Fさんは以前、「同じものを返す」と言っていましたが、凧糸というものが存在する事すら知らない私がいる以上、実は、同じものを返すという事は、愛着、もしくはこだわりなどといったAS的特性から来ている事なのではないのかな、と思いますがどうでしょうか。
まだこちらの記事のコメントが少ないので、どうにも言うのが難しいのですが、どうも孤立型ASさんは、自分で自分を認識している姿と、他人から見た自分の姿に解離というか、何らか異なる違い(差?)のようなものがあるように私には見えてくるのですが…どうなのかな。
私は、自分の境界を開きはしますが招き入れる感じは無いです。「ただそこにいるだけで」他人を引きつけてしまうみたいですね。特定の個人相手に自分の境界を開いた後に傷を負ってAS的シャットアウトに至った場合、私は同じ相手に再び内側に通じる境界を開ける事はほとんど無くなります。自我の崩壊に近くなるような傷を負う以前は、「私の気持ちを言って通じそうな相手だと、(相手の気持ちは関係なく)私の中で判断した場合、境界を開けていた」のですけどね。今では一律、開けなくなりました。そして、「私の外側で」ただ世間的な話をするだけでも、少なくとも3年以上の時間はかかるようです。
今の私の境界の開け方は、私の足元からほんの少しの隙間風が入ってくる程度の開け方です。他の時には完全に閉まっているか、閉まっていながらにして曇り硝子のようにぼんやりと外の射光を感じる程度、ですかね。
一度、私の境界が 曇りガラス状態の時に、アロマ仲間の一人に遭遇してしまい、油断していたので意味不明な挙動不審状態になってしまいました。こうしたアクシデント時にはとても驚いたりしてしまいますね(笑)
さーこ(AS)さん
積極奇異の方も受動の方も「私が○○するなら相手も○○するべき」という「首尾一貫」した考え(こだわり)があると思うのですが、孤立型は「他人に必要とされたいけど、自分は他人を必要としない」という、どこか「一方通行」な感じがしますね。
なるほど、やっぱりASのさーこさんの方が、Fさんの気持ちを理解できるみたいですね♪
ASには3つの型が挙げられていますが、自分にはどれも混じっている気はするのです。
私は同僚の変わった彼女のことを、今でも受動型ASじゃないかと思っているのですが、あの省エネモード(とにかく指示待ちな態度)も、自分の身に覚えがないわけじゃないのです。
入職した当時は、自分もどう動いていいやらどこまでやってもいいのかわからず、動きにくかった覚えがあります。
院長は積極奇異型のように思いますが、やはり相手に合わせている雰囲気を感じることがあります(特にジャイアンの印象を受ける人に合わせていると思います)。
なので、型はあくまで大ざっぱな分類であって、すぱっときれいに分かれるわけじゃなさそうだ、と言うのが私の感想です。
道産娘さん
「受け入れてほしかったのでは?」という見方は、みさんの書いてた「承認欲求」と同じことかな?と思いながら読みました。
相手に承認してもらうことで、自分を証明するってことでしょうか?
私は最初の頃に書いたように「何事も言わなきゃ伝わらない」という思いは強くあります。
その思いがあるにもかかわらず、「私はわかる」という態度を示されたとき、自分と同じレベル(厳密さ)で「わかってくれている」と思い込んでしまったのが私の失敗でした。
そして食い違ったときに「わかっていると言ったのに、わかってないじゃないか(同じじゃないじゃないか)』という理由で怒りがわくようです。
仕事のことでもそうですが、相手が「わかりました」という返事をしたもののわかってなかったとき、失望と徒労感を感じます。
私としては、くどいくらい言語的に順序立てて説明し、誤解される余地がないと思っているだけに、裏切られた気分がするのかもしれない。
だから、件の彼女の「わかりました」という言葉は「多分わかってないだろうな」と4割くらいで受け止めています。
(道産娘さんへの続き)
「我を通す」ことについてなのですが、いつもいつもキレキャラなわけではないです。(笑)
大抵の場合は後処理が面倒くさいので相手に合わせる(妥協する)のですが、相手が許せない一線を踏み越えたときには火が付きます。
自分の立場が苦しくなったときより、他の誰かの立場が苦しくなったとき(不当に侵害されていると感じるとき)に、「・・・面倒くさいな」と思いながらも黙っていられなくなります。(もしかして『同族意識』によるスイッチ?)
自分が窮地のときは、反応は鈍いです。(セクハラされてもわかんないレベルですから)
あとになって「・・・あの場面は怒ってもよかった気がする」と気付くことがあります。
『内側で大暴れ』は、自分が大事に思っている人が自分に対して傍若無人にふるまってきたとき、です。
道産娘さんの言葉を借りるなら、『人を人とも思わない』態度で接してきたとき、ですね。
「この人はどうしてこうなんだろう?」「どうしてこの人の行動を理解できないのだろう?」「自分の何が足りない(悪い)のだろう?」と悩み、どうしても答えが出なくて、でも無理矢理嚥下(100%譲歩して我慢)するしかない状況のときです。
このときは短期記憶を相当やられました。信号のない道路が渡れなくなりました。
(①右を見て車が来てないのを確認する②左を見て車が来てないと思う③その瞬間、右から車が来てたかどうかを忘れてしまう→①に戻る)
私の場合は、家族が衝突してても大丈夫でしたよ。(どこか他人事、です)
さーこさんのようにセンシティブすぎる人は、きついかもしれないですね。
さーこさん
>これもおそらく夫人の内観だろうと思われますが、しかし、「自分の内側から追い出すためだけに」、「うちは製造業だからね(製造業だから、製造の遅いあなたは来なくていい)」と、そんなに私に強固に強弁しなくたって良かっただろうよ…と少し思います。
この使われ方は違う・・・気がします。
どこかのエントリに『ASは愛着対象をべたべたに甘やかす』という表現があったと思うのですが、私の場合はそれだと思います。
近づきすぎる(親密になりすぎる)と、ばっさり切れなくなるのです。
だから最初から近づきたくないのです。後が辛いから。
>特定の個人相手に自分の境界を開いた後に傷を負ってAS的シャットアウトに至った場合、私は同じ相手に再び内側に通じる境界を開ける事はほとんど無くなります。
これは、まったく同じだと思います。
凧で表現するなら『凧糸切れちゃった状態』。
たまたまその人の近くを飛ぶことはあっても、もう繋がることはありません。繋げようとも思いません。
そうですね・・・ほとんどない、ですね。悲しいことに『ほとんど』。『100%』と言えないところが苦しい。
>Fさんは以前、「同じものを返す」と言っていましたが、凧糸というものが存在する事すら知らない私がいる以上、実は、同じものを返すという事は、愛着、もしくはこだわりなどといったAS的特性から来ている事なのではないのかな、と思いますがどうでしょうか。
どうでしょうね・・・。
相手に一生懸命伝えても返ってこないという慢性的不全感によるものかもしれないし、何とも言えません・・・。
特性かどうかはわかりませんが、私はバランスが取れているものにはとても惹かれます。
中学生のときは判例集を読むのが好きでした。
「この事件だと、これとこの罪になるから、たぶん何年くらいの刑罰になるだろうな」と当たりをつけてから、判決を読むというのを繰り返していました。
罪と罰のバランスを求めていた気もします。
今は趣味で簿記の勉強をしてるのですが、これも左右でバランスが取れるので何となく親しみを感じます。
>Fさんは以前、「同じものを返す」と言っていましたが、凧糸というものが存在する事すら知らない私がいる以上、実は、同じものを返すという事は、愛着、もしくはこだわりなどといったAS的特性から来ている事なのではないのかな、と思いますがどうでしょうか。
もしかしたら「愛着」かもしれませんね。
孤立型は「自分は自分」と割り切れるそうなので、こだわりを押し通すことはあっても「相手と同じものを返す」ことはしないのかな。
「同じものを返す」って、ASさんの「おうむ返し」かなって気もします。
例えば受動型なら外では「相手に合わせる形」で返し、内では「こだわりを主張する形」で返す。
積極奇異のさーこさんは逆になるでしょうね。
アクシデントですか…
逆のパターンなのですが、積極奇異弟は(仕事中は特に)私と道ですれ違っても気付かないことが多いですね。
そういう時は話しかけない方が良さそうですね(笑)
こちらのエントリーで、ASかADHDであるか、中心思考があるかないかが他人と関わる上で非常に重要な観点なのだと感じました。
前者は思考回路の別、後者は他人との関わり方の別というか…。元々そういう理由で分類されているんでしょうけれど、自分の中にない考えだったのでやっと腑に落ちた思いです。
孤立型ASは外観がのび太と似ていますが中身やそこに至るアプローチは全く違うんでしょうね。ロールプレイと表現されたこと、少しだけわかる気がします。私の場合は、伝えたい内容を正確に伝えるためにロールプレイをしてみます。対峙する人に伝わりそうな手段を考えます。孤立型ASさんとは利用箇所が違いそうですね。(とはいえ私自身のび太を足半分出た感じなので他ののび太と感覚が違ったらすみません。私はのび太そのものである時、概ね不全感はあっても幸せでした。)
似ているからこそ、知りたいことがあります。孤立型の方に回答がいただけると嬉しいです。
孤独は感じますか?
私は、圧倒的な自我と同じような感覚で圧倒的な孤独を感じます。
一人で存在することと、それ以上でいる空間は全く別のものです。他者を必要としないという思考を実感として持ちながら、孤独を感じることに戸惑いながら生きています。(よく誤解されるので少し補足です。孤独である事自体は不幸ではありません。他者が存在することで孤独を評価されることが私にとっての不幸です。また、他者との交流自体はどちらかというと好きです。)
Fさん
すみません。私の過去の記憶とFさんのコメントを一部混同してしまったようです。
>>これもおそらく夫人の内観だろうと思われますが、
>この使われ方は違う・・・気がします。
混同してしまい、お詫び申し上げます。
>どこかのエントリに『ASは愛着対象をべたべたに甘やかす』という表現があったと思うのですが、
私にもあるかもしれません、「愛着対象の甘やかし」。どの程度なのかがつかみづらいですが。
>近づきすぎる(親密になりすぎる)と、ばっさり切れなくなるのです。
>だから最初から近づきたくないのです。後が辛いから。
私も後が辛いけど、積極奇異的に覚悟を決めていますよ。だからと言って、つらくないわけがないのだけど。
Fさんのコメントを読んでいて、私も、積極奇異、受動、孤立の色々が混じっているのかな、と思いました。
混じっている比率まではわからないけれど、ただどの特徴も程度が薄まっていると思います。「愛着はあるが、中心志向が弱い」「内と外の両方において、こだわりの主張の程度が、薄い ~ 少し薄い ~ ほんの一瞬主張、を行ったり来たり」「自我はあるけど「自分は自分」という感じが薄い」という感じかもしれません。
私の場合、映画やドラマの放つパワー自体に負けるのを怖れてしまい普段からあまり見ないので、YANBARU先生の感情移入の話はよくわかりませんでした。(映画館で見たレミゼラブルは、最初から最後まで涙流しっぱなしでした…良い映画だったけど、正直苦しかったです( ̄- ̄;))
(Fさんへ続き)
>>Fさんは以前、「同じものを返す」と言っていましたが、
>どうでしょうね・・・。
>相手に一生懸命伝えても返ってこないという慢性的不全感によるものかもしれないし、何とも言えません・・・。
>特性かどうかはわかりませんが、私はバランスが取れているものにはとても惹かれます。
今の私は、複数の専門相談員さんに複数の場所で私の話を定期的に聞いていただいているので、私の中では慢性的不全感というものは感じないのですが、AS的な中心志向性が弱まった状態ではあります。私もバランスが取れているものには惹かれる傾向がありますが、とても惹かれるという程ではない様です。
以下は私の内観です。
【『凧糸切れちゃった状態』でも、無理して繋げなくたっていいじゃん。仕事なら仕事でがんばれば良い訳じゃん。今まで私、仕事以外でも一杯がんばってきたじゃん。いくら自分が望んだところで相手の気持ちもなければ良い関係にはならないのだから、私だけが悪い訳でも相手だけが悪い訳でもなく、ただどうしようもなかっただけじゃん。「100%完全に繋がり合えなくったって」いいじゃん。自分にできる事をやってどうしようもないなら仕方がないじゃん、むしろ自分よく耐えているじゃん。私はよくがんばっているじゃん。今日も一日よくがんばったじゃん。】
…と、まぁ、私の内観はこんな感じで、本当に極たまに自分に突っ込みを入れていますね^^普段はこうした気持ちを忘れているのですが、私の愛着の人が言っている言葉でふと思い出す事ができるようです。
道産娘さん
>Fさんの気持ちを理解できるみたいですね♪
私はFさんと対話している、ただそれだけですよ(苦笑)
誰かと対話をするという事は、私の場合ですが、自分自身を振り返るという事にもなるのです。
>アクシデントですか…
>逆のパターンなのですが、積極奇異弟は(仕事中は特に)私と道ですれ違っても気付かないことが多いですね。
>そういう時は話しかけない方が良さそうですね(笑)
私はいつか、アクシデントなどと言わずに、そのまま話せる日がくればいいかもしれない、と、うっすら思っていますよ。
アロマの仲間は皆どこかしら傷ついているのが私にはうっすらわかりますから、私を面白がられてもそんなに悪い気はしないのですよ。
自分のパニックを収める事ができれば、自閉状態でもわかってくれる人が私にはいるような気がしています。
Fさんへ
こちらの記事とコメントを何度か読んでみました。ADHDとASでお悩みのようですが、まず中心志向があるかないかで考えてみてはいかがでしょう?
私には無いように感じられました(*^▽^*)そして、のび太に近いような気もしました。(誘導する気はないので、ご自分の感覚を信じてくださいね)
こちらに集うADHDさんはジャイアンが起点の方が多いので、中心志向のない状態を想像するのが難しいのではないかなと思います。凧糸のイメージは、ASであれADHDであれ、中心志向があるとわかりにくい関係性なのではないかな。
こちらの記事にあるように、のび太は感情移入ができます。私は映画でも本でも、よく感情移入をします。対人関係でも、感情移入を使う事で他人を理解している外観を創り上げます。
私も目の前にいる人の感情が流れ込んでくるように感じる事があります。これがあまりにも自然に起こるので他人の感情を受け取っているように見えますが、よくよく考えると他人がそんな風に思う状況を自分に置き換えて想像し、自分の感情が現れているだけです。(相手の感情に対しての答えではない)
もしFさんがこれに共感できるなら、きっとADHDなのではないかなと思います。ASの方にとって感情はメッセージであり、こんな思考はしていないと思うので。
Fさんがご自身を理解するのにお役に立てますように。
>積極奇異弟は(仕事中は特に)私と道ですれ違っても気付かないことが多いですね。
ここでは、あまり視覚優位と聴覚優位の話が出ていないが、ASだけなのだろうか?
私は聴覚優位(視覚障害)であり、人の顔の区別が余りつかない。
子供の頃は、結構知らない大人についていったりしていた(親と勘違いしている)
知っている人とすれ違ってもわからないので、「挨拶くらい・・・」と不満に思われることも少なくない。
でも、本当に区別がつかない。
道産娘弟さんも、聴覚優位ではないかな。
ただ、(仕事中は特に) はおそらく過集中が原因です。
最近のAS相手のトラブルは、ここに原因を持つことが多い。
視覚優位の上司は、パワーポイントを駆使した見栄えの良い資料を作るように要求します。
視覚優位の場合、そうしないとわからないのでしょう。
一方、聴覚優位の場合は、図形や絵とかになっていても、全くわかりやすくなりません。
却って、1枚あたりの情報量が少なくなってしまいわかりにくくなります。
文字だけのパワーポイントの方がずーっとわかりやすいです。
聴覚優位の上司で視覚優位の部下の場合、全く要求が変わります。
内部資料に時間をかけなくていいから、要点だけ先に持ってきて
でも、たぶん、視覚優位の部下の場合、図解化しないと、要点を自分じゃわからないのですよね、きっと。
ここは本当にもめます。
発達障害を知る前は、へたくそなパワーポイントを作りましたが、すごくストレスが溜まりました。
今は強行に「できない」と主張します。
パワーポイントを作るだけなら、他の人でもできます。
中身は私にしか作れないので、一見誰でもできそうな仕事ができない、と言えば基本通ります。
結果としては、私一人で資料を作るより、ずっといいものができます。
道産娘さん
『同じものを返す』と言うのが『おうむ返し』ではないか?という視点は面白いですね。
私は、自分が「嬉しい」と感じるものをもらったら、相手が「嬉しい」と思ってくれるであろうものを返します。
最初から『同じもの』を期待してないわけじゃないのです。
でも自分の差し出したものと、相手の返してきたものが同じじゃないとき、「しょうがない」と諦めることはできます。
心の中で「この人と敵対する(攻撃する)」と決めたときは、最初の一発(攻撃)は相手に譲ります。
必ず『カウンターアタック』を狙います。
それは美学(こだわり)のようにも思えるが、反撃するための正当な理由を求めているような気もするし、自分を追い込む(この人は敵だと確認する)作業のようにも思えます。
さーこさん
>>近づきすぎる(親密になりすぎる)と、ばっさり切れなくなるのです。
>>だから最初から近づきたくないのです。後が辛いから。
>私も後が辛いけど、積極奇異的に覚悟を決めていますよ。だからと言って、つらくないわけがないのだけど。
そっか、これがやっぱり『覚悟』なんですね。
結果を予測した上でやる(選択した)のだから、そうなります。
理不尽をぶつけられても合わせ続けなければならない苦しさは、私にもたぶん、わかると思います。
>どうも孤立型ASさんは、自分で自分を認識している姿と、他人から見た自分の姿に解離というか、何らか異なる違い(差?)のようなものがあるように私には見えてくるのですが…どうなのかな。
自分で思っている自分と、外から見た自分に差があるのは、ある程度仕方ないとは思います。
自分で自分のことをわかってないというのはあるかもしれません。
別エントリのコメントで、『自分の感情を確認するように』という話題が出てましたが、これは多分ASもそうでしょう。
ASの印象を受ける人と話しているとき、「感情を(屁)理屈でごまかしているな」と感じることはあります。
私も自覚なくやっているかもしれません。
>今の私は、複数の専門相談員さんに複数の場所で私の話を定期的に聞いていただいているので、私の中では慢性的不全感というものは感じないのですが、AS的な中心志向性が弱まった状態ではあります。
このお話を聞くと、理解してもらえないことがASの中心志向の原因になっているようにも読めますね。
なつもかさん
「みんなの注目を集めたい」「自分が仕切りたい」という中心志向なら、私にはたぶん、ない・・・かな・・・?
適任者(議事進行役など)がいなければやります。(そうすることで『早く終わる』というメリットが見えるから)
が、面倒なのでできればしたくないです。
自分が凧だという例えは、そうですね・・・人によってはわかりにくいかも。
引っ張る側じゃないですものね。引っ張られる側だから、いかにも受動的。
ロールプレイかあ・・・私の感覚ではシミュレーションです。
ここでこう行動すると多分こうなる、こう持って行くとこうなるから・・・と計算すること。
自分も他人も『駒』です。
正確に伝えるためではなく、自分が狙う結果を得るため予測する作業です。
このままいくと崖から転落するのがわかっていて、「でも、やる」と突き通すとき、「我ながらアホだな(不器用だな)」と思います。
私はわかっていてやっているのだけど、外から見ると、KYなのび太に見えるかもしれません。
同僚からは最初「天然」と言われてましたが、最近は「理論派」「実は怖い人」「一番負けん気が強い」と言われます。
(なつもかさんへの続き)
映画をそもそもあまり見ないのですが、(用意された)状況の理不尽さに対してやりきれなさを感じることはあります。
(人物のすれ違い・運命のいたずら的なものに嘆息する。『ここで、もしこうだったら、こういう結果にはならなかったのになあ・・・』という感想)
これは感情移入とは言わないですね、きっと。
他人が何かに怒っているとき、怒るに足る理由かどうかを考えてしまっています。(怒りを理解しようとしてしまう)
だから同調するにしても「そうよねー!」という『共感』ではなく、「その怒り、もっともだ!」と言う『承認』になります。
自分にもよく似た経験があったなら、共感・・・らしきものになる・・・かもしれません。
孤独を感じるか?ということですが、一人だと言う寂しさを感じるか?ということでしょうか?
一人でいること(おひとりさま)は、自由だと感じ、むしろ好きで、孤独は感じません。
たくさんの人といるとき(例えば女子会)も、面倒くささは感じますが、孤独は感じません。
私が孤独を感じるとしたら、それは環境ではなく、誰か特定の個人を思うときです。
目の前に大事な人がいるが言いたいことを言えないときだったり、もう関係していない誰かを思い出したとき、です。
なつもかさんが感じる孤独は、他人とのかすかな『ずれ』を感じたときかな?と読み取りました。
私はやっぱり、のび太ではなさそうです。
たくさんのヒントをありがとうございます。
Fさん
「受け入れて欲しかった」というのは、Fさんの「主張やこだわり」かなと思ってたんですが、狼的同族意識から相手に対して自分と同じであることを望むってことでしょうか…
確かに受動型の人は、職場で面倒見のいい人が多いですね。
件の彼女ですが、以前JETさんも指摘されてましたが、依存型ジャイアンかしら?って思ってました。
Fさんの「4割位で諦められる」というのは、「相手がADHDで、わからないから妥協できる」という意味かもしれません。(ただ、彼女の方は面倒見の良いFさんにおんぶに抱っこって気もしますが…)
以前、大学のサークルの費用のことで抗議したという話を聞いた時、積極奇異かな?と思ったんですが、これは「本人だけのこだわり」というより、「一般的か・公平か」等を基準に考えた「普通へのこだわり」だったのかもしれませんね。
普通の定義は範囲が広すぎて、私にはちょっと難しいですf(^_^;
さーこ(AS)さん
>私はいつか、アクシデントなどと言わずに、そのまま話せる日がくればいいかもしれない、と、うっすら思っていますよ。
そうですね、少しずつお互いの理解を深めながら、アロマ仲間さん達と距離を縮められると良いですね♪
私も「その日」が来ることを陰ながら祈ってます(^-^)
m2さん
確かに仕事中なので過集中はあるかもしれませんね。
私の周りのASはほとんどが聴覚過敏だと思います。(ちなみに私も多少あり)
図書室の話し声や飲食店の店員同士の会話等、一見すると「マナー」か「話し声」、どちらにイラついてるのか分からない時もありますね。
「視覚優位」と聞いて、刺激を求める派手好みのADHDを連想してしまいました。
カラフルな図やグラフを用いた方が、記憶に残りやすいのかもしれませんが…ASは派手好みの人ってほとんどいない気がしますね。
きっと私の周りは「聴覚優位」がほとんどですね。
Fさん
>「みんなの注目を集めたい」「自分が仕切りたい」という中心志向なら、私にはたぶん、ない・・・かな・・・?
適任者(議事進行役など)がいなければやります。(そうすることで『早く終わる』というメリットが見えるから)
が、面倒なのでできればしたくないです。
>最初「天然」と言われてましたが、最近は「理論派」「実は怖い人」「一番負けん気が強い」
>(例えば女子会)も、面倒くささは感じますが、孤独は感じません
これだけ抜き出すと、受動型ASに見えます。
同じようなにおい、がしますね。
私は子供の頃、ショッカーに感情移入していました。
なぜ、「世界平和を守るため」なんて曖昧な理由でショッカーの戦闘員がなぎ倒されるのが許されるのだろうか?
せっかくのチャンスにトドメをささずに負けたときに、何でトドメをささないんだ、って怒ったりしてました。
映画やドラマに感情移入ができない、ということですが、だいたい
・多数派男性と多数派女性の組み合わせ
・受動型AS男性とジャイアン女性の組み合わせ
・ジャイアン男性が他の人を引っ張っていく
形のものしかほとんどありません。
最近は時々、ジャイアン女性が引っ張っていくパターンが見られるくらいです。
なので、私は結構感情移入できることは多いんです。
結構、受動型AS男性とジャイアン女性のラブロマンスは多いので。(今の朝ドラとか)
受動型ASの女性が出てくるドラマとかほとんど無いので、感情移入は難しいだろうと思います。
Fさんがおかしいのではなく、ただそれだけのことかと。
私は見たことはほとんどないのですが、「家政婦のミタ」は主人公受動型AS女性っぽい設定に見えます。ただ、脚本家は受動型AS男性なので、受動型AS男性の設定をそのまま女性にあてはめているだけで、少し違うのかもしれませんね。
Fさんへ
考えてみてくれてありがとうございました( ´ ▽ `* )
…孤独について
説明するの、なかなか難しいですね。うーんうーん。
一人ではあまり感じないです。さみしさそのものとも少し違う気がします。
他人が遠いんです。仲良くしようと近寄って、拒絶されるような気持ち。ただ、拒絶される理由自体は「あまりにも違いすぎるから」理解できる。幼い頃は空気読めてないので拒絶とは思いませんでしたが、なぜ自分が他の人と同じ人間なのかよくわかりませんでした。
(実際具体的に拒絶されているわけではないです(; ̄ェ ̄)なのでこの気持ちを人に説明しても、「考え過ぎ」もしくは逆に私が拒絶していると捉えて「何もしていない私をそんな風に批判するなんて!」となるので言わない。)
私の場合孤独の一部分はADHDらしい「理解されたい」想いのせいかなと思うんですよね。他には共同体が認識できないせいとか、多少のACのせいとか。
たぶん、結果的に1人でいるんですけど少しの痛みは伴っているんですよ。私が他人を感じられるのはその痛みだけです。世界に1人だけなら、痛くないから。
そんな私の状態を踏まえまして、孤立型ASさんにとって積極的に1人でいる状態がどういう想いからくる行動なのか気になってしまうんです。
もし全く孤独を感じないなら、羨ましいなーと思って。
でも、ASさんがご自分を説明されるのって大変な思いを伴う事もあるようなので…あんまりお願いするのもよくないんですかね。もう遅いかー。
いつも読みやすく簡潔に書きたいんだけどできないです…(。-_-。)
なつもかさん
>孤独は感じますか?
感じます。
感じますがそれ以上に他人との距離の取り方に不安があるので、それほど苦にならないという感じです。
人の輪に入りたいけど入れないのをわかってるので、最初から諦めてるという感じでしょうか。
だからネットにハマるのかもしれませんね、ネットは顔が見えませんから。
でも記名だと実名じゃなくても苦痛に感じるときがあります、匿名だともっと書き込む辺りで判ります。
ココですら輪に入れなくて独りごちるしかできないのは、いつものことですし。
信頼してる対象にしか本心を見せないので、そうなってしまうのかもしれませんね。
しかもそういう対象は自分が興味を持った物事であり、それはこの世の全ての事象が対象です。
人だったり物だったり出来事だったり風景だったり匂いだったり、そして書き込みだったりします。
だからコミュニケーションを取ろうにも自分の扉が開かないと無理なんですよw
Fさん
Fさんの映画の話を読んでいて、2008年に放送されたドラマで深夜帯に近い時間にあった「ロス:タイム:ライフ」を思いました。
様々な理由や状況で死にかけているある個人の元に、突如、謎の審判団が現れ、見ている私が「エェー」と思うのもつかの間、なぜか「ロスタイム」という時間を設けられたらしい登場人物が戸惑いながらも必死に自分の状況を行動していく様子に「なんだこのドラマ Σ( ̄o ̄)」とテレビ画面に釘付けに。
2話目以降は、「あ、またこの審判団の人たちが出てきた」「今度はどんな思いを持った人が出てくるんだろう」「なぜ毎回、主人公以外の人には審判団の人たちが見えないんだろうなぁ」「彼ら(審判団)は何者なんだろうか」
…たぶん、というか、これは感情移入とは言わないと思います。
あと、同じ理由で、2011年に松田翔太と高橋克実が出演していたドラマ「ドン★キホーテ」とか、2012年にTOKIOの松岡昌宏が主演で出ていたドラマ「13歳のハローワーク」が好きでしたね。
魂が入れ替わるとか、タイムスリップするとか、現実に考えるとありえない出来事だとは思うけれど、なぜか人生の妙味が感じられるんです。私自身の現在を思い、過去を思い、もう一度現在を思って未来の自分を思う。ドラマの中の人間が発する何気ない一言が、実は私にとって何かささやかな意味みたいなものがあるのではないかな、と、言葉にならない思いを感じながら、ドラマを見終わってみてそう思いました。
しかしまぁ、こんな感じだから、私は自分の感情を確認するのが不得手です。
私の場合は、ロールプレイともシミュレーションとも断言できないですね。
(Fさんへ続き)
>そっか、これがやっぱり『覚悟』なんですね。
>結果を予測した上でやる(選択した)のだから、そうなります。
>理不尽をぶつけられても合わせ続けなければならない苦しさは、私にもたぶん、わかると思います。
ただ、私の場合、今現在の愛着相手である文通相手(おそらくADHDの人)は、Fさんが言うような「自分が狙う結果を得るため予測する作業」を私に向けた事が無いし、一方的な試し行動や分析に基づいた理屈ずくめで私を理不尽に責めたりする事が無いので、私の方の「予測」については、私の方で手放す事が可能になっています。「自分が狙う結果を得るため予測する作業、を、しない」と自分で選ぶのも、また一つの「選択」だろうと私は思っていますよ(^^)
ちなみに、私が困惑している時は「ただ単に困惑している状態」と、余計な意味を含めずに受け取ってもらえるので、ささやかな幸せを感じているところです。
私はの場合、ASというところまでは現実のお医者様に確認を取っていますが、元々は積極奇異型だったと自己診断しているところです。長い時間をかけて対話を含む様々なサポートを受け続けた事により、慢性的不全感はおさまったところですが、いまだに二次障害(色々な身体症状)が治りきっていないと自分でわかるので、AS的な中心志向性が弱まったままの現状であるかもしれないと、一応自分ではそう思っていますよ。
Fさん
お返事が遅くなりました。『ガス無しライター』のエントリでは、私が混乱させてしましました。
ここのFさんのコメントを読んでいると、ASとしてスッキリ理解できます。つじつまが合います。よかった!
凧糸の表現、ASらしいなと思いました。私には対人距離をそのように表現することができません。凧(自分)は凧で自由に飛んでいたい、高く飛びたい、糸は見えていない(人は関係ない=対人個体認識の障害)、そんな感じですもの。
そうそう思い出しました。私は子どもの日に大凧をあげる凧揚げ祭りがあるところで育ちました。町ごとに大凧があり、その年に生まれた長男の名前を書いた初凧(家長制度が残っている)を最初に揚げ、そこから続々と大凧が揚がる。そして、凧糸を絡ませ、摩擦により相手方の凧糸を切って落とす喧嘩凧があります。荒々しいと思うかもしれませんが、町内の大人も子供も一緒になって力を合わせて競うことに醍醐味があります。ASさんにはこのような祭りは苦痛でしょうね。
あはは。また思考が飛んじゃった。
「簿記」といえば、積極奇異の学生が簿記検定2級にトライしていました。私は簿記のことなどわからないと言ったら丁寧に説明してくれましてね。左右のバランスときっちり数字が合うのが気持ちいいみたいでした。説明されてもちんぷんかんぷんでしたが・・・。簿記1級までトライしてみたらといってみたらそこまではしないとのことでした。簿記2級でも合格率が20%前後ですものね。さすが数字に強いASだと思いましたよ。
そうそう、終わってしまったけれど、某ドラマの夫婦の物語は、あれは完全に積極奇異とのび太だったね。このように積極的に取り扱われたのは初めてではないかと思います。認知度が上がってきたのでしょうね。二人のやり取りを見ていると、どこでどうすれ違うのか、かみ合わないのか、ものすごくよく描かれています。俳優さんたちの身体的な動きも似せていて、よく研究したなぁと思いました。
あはは。また思考が飛んじゃった。
toriさんへ
お答えいただけて嬉しいです。ありがとうございます。
私も一緒にごちますよw
顔が見えないからという表現が、とても印象的でした。
私もネット上のコミュニケーションが好きです。理由は、文字で見れるし履歴が追いやすいから、ですね。すぐ、忘れてしまうし思い違いも多いので。
匿名の方が気が楽なんですね。
他者に自己を表現することが苦手なんでしょうかね。それともそんな必要がないのかなあ。私は匿名であればその意味を考えてしまいそうです。意味なく自分が埋没してしまうのは、少し怖いかも。
ただ、人の輪に入りたいということは交流はどこかで求めていらっしゃるんでしょうね。その点で、近いものを感じました。
信頼って難しいですよね。変な自立心があるせいか、他人に全てを預けるようで不安です。自分が信頼しきれない+相手の信頼を読み取れないことで、失望させてしまうことも多いです。
私は人であれものであれ「不動のもの」を嗜好する傾向がありますw
自分がコロコロと変わってしまうからかな。もし自分が変わっても、変わらないで待っていてくれる、間違ったことを言っても場当たり的に対応しないでくれる事に安心・感謝します。文化的な建築とかより、大自然の風景って感じでしょうか。
ええ、匿名の方がはっちゃけられるんですよねぇ^^;
自分を解き放つ唯一の方法なのかもしれませんねぇ
簿記について少しだけ。
簿記は、左右のバランスがとれているとともに、自己完結している世界でもあります。仕訳をして、決算で締めて、一部を翌期に持ち込む。その作業を繰り返しおこなえるよう、仕組みが完成されています。
仕組みが完成されていて自己完結しているから、ASには馴染むのかもしれません。
ただ、完成されているのは仕組みまでで、その中身は意外に流動的です。そこを納得できるかどうかで、ASの簿記の出来不出来が決まってくるのかも。
別のエントリーで触れた俺の上司がこの流動的な側面をまったく理解できておらず、パワハラチックに頭ごなしの否定を何度も受けて、いやぁ参りました。
本題から遠い話でごめんなさい。
zzz さん
分かるような気がします、その話。
私は短期間であったけれど、何年も前に食品倉庫の管理をしていた事がありましたが、この仕事がいかに自分に向いていないかがよく分かりました。
たしかに、簿記の中身(現場の流れ)は流動的ですね。
簿記が形式的に完成されていて自己完結していても、現場が流動的である以上、自分の中の矛盾によるかなりのストレスが生じます。
私の場合は、各現場の調理人さんとの交渉や連携に始まり、注文した調味料や備品などの到着日時の予測、伝票の整理や記帳、業者さんとの心理の読み合いによる対応、到着した品をそれぞれの場所に補充し現在の在庫状況を確認する…などでしたが、刻一刻と現場の状況が変わっていくその流動さに対応できずに溺れていってしまいそうでした。正直私には荷が重かったです。
…本題からそれましたね、すみません。
ですが、zzzさんが書いてくれた事により、AS的な苦労を分かち合えたような気がして、(一方的ですが)なんかちょっと嬉しかったです。
さーこさん、ありがとう。さーこさんからそんな言葉をいただいて、俺も嬉しいなぁ。
もうちょっとだけ本題から外れさせていただくと、そう、現場って流動的なんですよね。ASは、流動的だということはきちんと認識できても、それに追い付いていくのが難しい。
現場の手伝いに行く(半ば行かされる)ことがかつて何度かあって、あたふたしたものです。準備していても、当たり前のようにそれだけでは足りず、どうにかなると思っていないとやってらなかったっす。現場の人ってすごいよな、と改めて尊敬もしました。
さーこさんも、ご自身としてはぎりぎりだったのかもしれませんが、こなしていたのですから尊敬します。そんな俺がひとつえらそうなことを言ってしまうと、こなしていたことは今後につながるはずだし、自信を持っていい経験だと思います。
俺は、経理畑を歩んでいまして、現場から上がってくる伝票などの書類や情報にしょっちゅう触れています。流動的な現場から回ってくる書類や情報はやはり流動的です。それに合わせて経理側も流動的に対応していく必要があって、経理という枠の中で柔軟に対応するよう意識してます。
中身の流動性に納得感があれば、ASなら経理職は基本的に向いていると思っています。ただ、ASの中でも数字の転記が苦手などの個性があって、その個性によっては経理以外の仕事が向いている人もいるとは思います。
あー、もう少し本題から外れさせてもらおうかな。甘えてすみません。
さーこさんはアロマテラピーを学んでいらっしゃるんですよね。身近なADHDがやはり学んでいまして、ときおりその話が出てきます。日によって香りの感じ方が変わる、好きな香りも変わってくるという話を聞いて、まあそういうものだろうなとは思っていたんです。
それが、疲れのたまってきたときに、これをと出されたものを嗅いでみたら、それまでより強烈に香りを感じてびっくり。何のアロマかは忘れてしまいましたが、いいもんだな、と思いました。
日によってそこまで異なる、というのは、自分の反応はある程度一定しているものだろうという思い込みを変えるのに十分でした。こういう思い込みはAS的なのかな?
人の体って不思議だなと思います。発達障害も、その不思議さのひとつと捉えています。
Fさん
最新エントリーを読んで思ったのですが、もしかしてFさん「ASのAC」じゃないかな?(すでに回復してるかもしれませんが)
情報を欲している方がいらっしゃるので、とりあえず記事だけでも目を通してみてはいかがでしょう?(^-^)
道産娘さん
>Fさんの「4割位で諦められる」というのは、「相手がADHDで、わからないから妥協できる」という意味かもしれません。
うーん・・・私の内面はそんな清らかではないんです。
『諦め』には複数の理由があります。
件の彼女や自分の親に対しては、「これがこの人の限界か」という上から目線な諦め。
どうしても諦めきれない人(大事な人)には、(『定規』をあてはめて理解しようと頑張ったけど無理で)「努力しても理解できないし、理解してもらえないんだな、やっぱり」と相手がそのままでいることを認める形で諦める。(理解できないまま丸のみする)
『ガス無しライター』のコメントの終盤で、『勝つために戦略を練るか?』という話になりました。
私は「戦略は考えもしないことが多い」というコメントを返しました。
普段の生活では『勝つ』必要がないのでそうなるのですが、まったく考えないわけじゃないのです。
自分が狙う状況にするために必要なら戦略は練りますし、不必要な誰かをばっさり切ることができます。
(『ASの対人認識』の『露骨にモノ扱いになることが多く、相手は傷つく』と言う部分がそれっぽい?)
この状況に自分が不要だと思えば、自分もばっさり切れます。(辞める・縁を切るという選択肢を選ぶ)
この状態になっているときは自分でも「いつもと違う」自覚があるのです。
目的がはっきりしていて『目が覚めている』感じがしますし、おそろしく冷徹になっています。
それで「自分は冷たい人間だという自覚がある」と前に書きました。
謙遜ではなくて、自覚があります。
(このあたりが結果主義のジャイアンかも?と思った根拠でした)
私が、ACと名乗ってもいい環境で育ったのは事実です。
夫に会うまで、周りは全部敵だと思っていました。
敵というと『害を及ぼしてくるもの』というふうに読めると思うのですが、私にとっての敵は『異物(自分じゃないもの)』です。
今は夫(たぶんADHD)のおかげでだいぶ楽になっているんじゃないかとは思います。
夫は太陽です。そして私はいつも北風です。
最新エントリは、もう一度ゆっくり読んでみますね。ありがとうございます。
さーこさん
>『凧糸切れちゃった状態』でも、無理して繋げなくたっていいじゃん。
自分の気持ちの持ち方ひとつで世界は変わる、と私も思います。
世界なんて自分の主観の産物でしかないから。
さーこさんの『内観』を読んで、スガシカオさんの「コノユビトマレ」という歌を思い出しました。
私はこの人の歌が昔からとても好きです。(一部、歌詞が濃すぎる歌もあるのですが・・・)
>ちなみに、私が困惑している時は「ただ単に困惑している状態」と、余計な意味を含めずに受け取ってもらえるので、ささやかな幸せを感じているところです。
いい御関係ですね。
夫(たぶんADHD)には、「私が部屋にこもっていても、放っといてほしい」と頼んであります。
そんなとき夫はテレビゲームをしたり、たまに部屋をのぞいて「おやつ食べる?」とプリンを買ってきてくれたりして、必要以上に絡んで来ません。
私が初めて尿管結石になったとき、夫は家で仕事をしていました。
私は自力で病院に行こうとしたものの動けず、玄関で横になって休んでいたら、車を出してくれました。
夫はあくまでマイペースです。
こちらが頼むまで放っておいてくれるのがありがたいです。
職場にも一人、とてものび太っぽい同僚がいるのですが、彼女も『裏』がないのでとても楽です。
m2さん
ショッカーに感情移入していた、というお話なのですが、私には状況(シナリオ)の理不尽さに突っ込んでいるように読めました。
(「仮面ライダーはえせ正義をふりかざしている」「その状況でトドメを刺さないなんてあり得ない」)
『家政婦のミタ』は気になったものの、見てないんですよ。この際だから見てみようかなあ。
いいなーいいなーちょうどいいパートナー(・ω・`)=3私にも早く見つかりますようにっ。
さてさてAS的ではない感情移入ってあるかなあと最近よく考えていました。
それで思いついたんですが、私は物にも感情移入します。これは対象物の感情をうけとっている訳ではないですよね。「物なんだから考えたりする訳がない」と知っていますが、自分がその状況であればどう感じるか?ということに思いを巡らせます。
ルンバっていう掃除機を持っているんですが、自動で掃除をしたり、充電場所に戻って音楽を鳴らしたり(ちょっと嬉しそうな音)します。顔もないですが、とてもかわいいと思いますw
逆にガンダム的な顔のあるロボットはちょっと苦手です。機能として必要なさそうなのに人間のような形をしているのが不気味です(手と足はギリわかる)。
猫や犬は実際感情があるので、より感情移入しやすいですね。ただ、置き換えるだけで同一として感じることは出来ないので「ペットじゃなくて家族」論はわかりません…。犬じゃんって思ってしまいます。(どちらも好きですよw)
Fさん
いい御関係…なのかな。私は文通相手と会った事はありませんが、Fさんの旦那さんのようなそんな人っぽそう、と思ってはいます。あくまでマイペースな人なんですねぇ。私の気持ちがラクになるありがたい人だけど、なぜ数年も私と続いているのか、相手に無理している感じがないだけに、謎で不思議ですね。
スガシカオさんの歌詞を見てみましたが、たしかに私が書いた内観のような感じではありますね。
私の方は、かつて一番よく聞いていたのは白鳥マイカさんという人の歌でした。トワ・エ・モア、白鳥英美子さんの娘さんです。デビューして数年経った頃から聴き始めました。およそ10年ほど前の話ですね。歌詞で言えば「星の道しるべ」、歌で言えば「Red Clover」が一番好きでした。こちらは歌詞が濃すぎるどころか、曲や歌は美しいけれど、心の底までのぞくような深さとこわさがあるので、申し訳ないのですが、調べたり聞いたりするのは自己責任でお願いします…m(_ _)m
>自分の気持ちの持ち方ひとつで世界は変わる、と私も思います。
ありがとうございます(^^)
さーこさん、お元気で!
またAS記事にコメントしにきて下さいね♪(o・ω・)ノ))
Fさん
>夫は太陽です。そして私はいつも北風です。
(旅人の)コートを脱がそうと必死になっているFさんに、「そんなに一生懸命にならなくても良いんだよ。」と教えてくれる、そんな関係かなと思いました。
素敵なご主人ですねぇ。
きっとFさん、完璧主義でゼロ百思考が強いんじゃないかな?(以前、m2さんに対してもそう思ったことがあります。)
その為に冷徹になって戦略を練り、不要な人間を切り捨てているのだろうと思います。
ちなみに、ジャイアンは完璧にやろうと思ってもできない…というより、そこに辿り着けないんですね。
表面的な評価や周囲と比較して「より上を目指す」といった感じかな。
私がそうでした(汗)
Fさんの場合「表面的」というよりは、戦略を練る等「プロセス」にもこだわるのかな?って気もしますね。
完璧主義のFさんに対して、おおらかなご主人が「ほどほどで良い」と教えてくれるんじゃないでしょうか。
なんだかバランスが取れていて、良い関係ですよね♪
さーこさん
またお話出来ることを祈ってますね。
自分はどうやらASらしいものの、型を調べてみるも、イマイチ実感がなく、
まぁそのうち分かるといいなぁと思ってます。
沢山のコメント、参考にさせて頂きます(^ ^)
お元気で!
完璧主義・・・最近思ってることがあります。
私が子どもを苦手なのは、かつて子どもだったときの自分の『目』を覚えているからかもしれないと。
小学校1年のときに曾祖母が亡くなりました。
お通夜からお葬式までが小学校1年生にはすごく長くて、私は亡くなった曾祖母に手紙を書くことを勧められ、画用紙に絵と手紙を書きました。
ひいばあちゃん、天ごくでも元気でね
ちょっと変な気もしたが、そう書きました。
それを見た大叔母が、「死んじゃったのに元気なわけないじゃない」と私に言いました。
私は、天国は見たことがないけど、ひいばあちゃんはこれからはそこで暮らすのだと思っていました。
それなら楽しく暮らしてほしいと思って書きました。
誰も知らない世界である以上、その考えが間違いだとも思いませんでした。
それから(やつあたりという言葉は当時の私の辞書にはなかったが)、大叔母は私のような子どもに意地悪を言わずにいられないほど悲しい気持ちなのだということは理解できました。
私は言うべき言葉が見当たらず、困って、何も言えず泣きました。
大叔母はそれを見て、「ごめん、ごめん、おばちゃんが悪かった」と言って泣きました。
物心がついたときから、大人はそんな生々しい生き物でした。子どもにも洞察できる程度の。
そのときは「大人って完璧じゃないんだな」ということを強烈に思いました。
相手は親だったり見ず知らずのおばさんだったり担任の先生だったりしますが、大人の理不尽さを感じたことは、今でも覚えています。
大人になった今考えても、「相手がおかしい」と思うのですが、忘れられないのです。
私は『不躾な子どもの目』を覚えていて、大人になった自分が完璧じゃないことが気になるのかもしれない。(目の前の子どもに、子どもの自分を投影している?)
それで私は子どもが苦手なのかなあと思っています。
級友相手にもよく泣きました。
クラスで一、二を争う泣き虫だったはずです。
なつもかさん
私は特に物を大事にしないのですが・・・(!)
大学のときに貸与されていた楽器だけは別格でした。
自分が表現したいことを余さず伝えてくれる素敵な奴で、こっそり名前をつけてました。
何だかその楽器には人格があるような気がしてました。
卒業時に返すのが辛かったです。
今思ったのですが、私は愛着と感情移入の区別がつきにくい・・・です・・・
(私の楽器に対する思いは愛着のような・・・)
以前ハムスター(♂)を1匹飼いしてたんですが、亡くなってしまいました。
歳も歳だったんですが、そのハムスターをつがいで飼ってやらなかったことが最後に気になって・・・
生物として生まれてきたのに、人間(私)の勝手で彼は遺伝子を残せなかった。
彼は何のために生まれてきたんだろう?って。
彼が死んでしまったことももちろん悲しかったのですが、もし彼に子どもがいたら、このもやもやとした気分は晴れるんだろうか?と考えたことを思い出しました。
(←また始まった。余計なことを言うと「揚げ足取り等の攻撃材料」に利用されそうなので、無視しようかな。本当可哀想な人!)
Fさん
中々難しいですね。
「自分は子供達の見本になるような完璧な大人ではない」ということにとらわれ過ぎじゃないかな?って気もしますが…
子供の頃に抱いた「大人に対する不信感」を忘れられず、自分と同じ思いをさせたくないために、自然と子供を避けてしまうのかもしれませんね。
Fさん、最新エントリーの内容に当てはまりそうな気がしますが、今はご主人のおかげで落ち着いてるのかな。
何もかも一人で背負い込んだり、逆に他人に対して「完璧」を求めすぎないように気を付ければ、(身体症状の改善も含め)もっと楽に生きられるのかな?と考えてしまいました。
道産娘さん
幾人かに「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と繰り返したのは誰でしょう?
まさか、あなたが言ったことまでも私が言ったことにしてしまうおつもりではないでしょうね?
人に擦り付けないでください。
道産娘さん
私はあなたが「揚げ足取り」「おうむ返し」「思い上がり」と繰り返さなければ、あなたに指摘することはありませんでした。
つまり、道産娘さんが自分で相手に攻撃しているのだと自己突っ込みし、攻撃することを止めていれば、私に攻撃されることはなかったのです。
誰が攻撃を仕掛けたのですか。ご自身ですよ。
道産娘さん
>子供の頃に抱いた「大人に対する不信感」を忘れられず、自分と同じ思いをさせたくないために、自然と子供を避けてしまうのかもしれませんね。
それに気づいてから、「目の前のこの子は自分じゃない、初めて会う子だ!」と強く思えば何とかなるのですが、それをやらないと、最初から嫌われているような、妙な居心地の悪さがあるんです。
不思議なことに、1対1じゃなければだいじょうぶなんですよ。
自分が完璧じゃないと思うし、もはや完璧でいようとも思わないんですが、それが許されない環境だと元に戻っちゃいますね。
(立場以上の責任を求められる→完璧でいようとする→できてない部分が気になって全部フォローする→余裕がなくなる→異様に疲れる)
私にADHDの真似事は無理です。
『わざと気が利かないふり』は負担が大きすぎて、自分で自分の毒素に中てられているみたい(意地悪をしているようで気分が悪い)です。
一体「ほどほど」というのがどこらへんにあるのか・・・自分は十分に折れている(妥協している)つもりなので、しんどいです。
みさん
なら、そう思えば良いじゃないですか。
あなたは私にどうして欲しいんですか?
私やさーこさんを悪者にして、このブログの他のコメント者さん達に叩かれることを望んでるんですか?
その為に、自分の主張を訴え続けているのですか?
そんな「虚しい努力」、いい加減さっさと止めたらどうです?
私はほぼ傍観者の一人ですが、
多々のコメントを読んでコメントされている方、誰も悪者だなんて思いません。
でも抗ってばかりの人をみると[めんどくさい。]と、感じます。
めんどくさいのは勿体ないです。加わってしまうとただただ勿体ないことが増えていくだけなので残念に思います。
誰に何を言われようが自分の問題だと考えています。
自分の問題を人に押し付けるのも人の問題を取り上げるのも傲慢ではないかと思っています。
ここは発達障害の方の数少ない率直でいられる場所でもあると思うので大切にしていきましょう!
Fさん
「ほどほど加減」
こればかりはご本人が実感するしかないのかな?って気がしますが…
できないとなると、環境そのものを変えるしかないですよね。
ただ、無理してADHDっぽく振る舞う必要は無いと思いますよ。
「他人を近くに感じ過ぎて、困っている人を放っておくことを苦痛に感じる」のは、むしろあなたの長所なので、そこを抑え込んで他人を無視し続けるのはかえって「不自然」だと思います。
Fさんが「妥協できている」というなら、何も問題無いですよね♪
いびつさん
「抗っている人をめんどくさく思う」
そういうものですかね?(傍観者なら、別にどうでも良いと思うものかと)
ただ、確かに自分でも「大人気ない」という自覚があり、いちいち反応するのは良くないかなと感じていました。
「挑発に乗る・乗らない」も「自己責任」ってことですね。
分かりました!
できる限りみさんをスルー(無視)致します。
ご指摘ありがとうございました。
あと、皆さんへ
場の雰囲気を悪くしてしまい、申し訳ありませんでした。
道産娘さん
多分その人は、マイナスでもいいからストロークが欲しいだけ。
ADHDならここまで無計算で無利益な行動はとらないような気がする。他のADHDの方を見ても、引き際を心得てるし、騒ぎを起こすときの原動力となってる理屈が、もっと大人の理屈だと思う。
往生際が悪く「個人」に根を持ち、周囲を扇動しようとする(けど失敗する)のはADHDの特徴ではないように感じる。
ADHDを装った、他の障害の可能性があるんじゃないかなぁと。
先生のHPやブログを読んで、実行して、ここまで悪化していくなんて、なかなか考えられない。読んだ上で、ADHDらしい行動を「身につけている」ようにしか見えないなぁと思ってます。
自分は、孤立型について分析を深めていく中で、のび太と孤立型は同一人物じゃないかと考えるようになりました。孤立型は対人関係の部分でADHDに対する対処法と、自分と同じ受動型などASに対する対処法を併用しなければ対処できない、空気を読み間違える場面が多いことに気付きました。ADHDとASの両方の障害を併せ持つような気がします。AS側から見たら孤立型で、ADHD側から見るとのび太になるのではないでしょうか。
すみません、上のコメントは、自分が孤立型と思われる身近な人とコミュニケーションを図る時に相手の考えていることを、その人の性質に基づいて読もうとすると場面によって読み間違えることが多いため、自分から見た実感です。分かりにくかったですね。直感的なものでしかなく、よく分析して出した結論というわけではないので、あしからず。
いびつさーーーーーん><わかるよーーーー。
ぬまおさーーーーーん><そう思うのもわかるよーーーー。
ただ、のび太である私は能動的に人と関わろうという意思はあるんですよー。だから、自分から孤立するわけじゃないんですーー。
求めるのに得られない寂しさーーー><
道産娘さん
貴方の「あなたは私にどうして欲しいんですか?」に、真剣にお答えいたします。
>ただ、確かに自分でも「大人気ない」という自覚があり、いちいち反応するのは良くないかなと感じていました。
その通りですね。あなたは『受動型ASの受験生が勉強しない理由』で、
「みさん
一ヶ所誤解があるので訂正致します。
>それを受けて、道産娘さんは孤立型ではないかということと、「衝動性」が見られるならやはりジャイアンだと思うと書いています。
私は始めからぬまおさんの奥様は「孤立型ではない」と、否定的な見方をしてましたが?
>奥様は孤立型ではないかと。
多分、この表現が肯定とも否定とも受け取れ、紛らわしかったのだと思います。失礼致しました」
このように私にコメントされました。この「奥様は孤立型ではないかと。」は、「奥様は孤立型ではないかと思います」とすれば、「孤立型」を肯定する文に読めます。それを、「否定的な見方をしてましたが?」と返している。
否定的な見方をしていた自分の「正当性」を訴え、相手である私に読み間違ったことを「攻撃」して、その後に謝っている。大人気なかったですね。
大人気なかったのは、『受動型ASの受験生が勉強しない理由』の大地さんへのコメントからです。大地さんへの貴方の独り言という「攻撃」からです。
私は貴方に、ご自身の姿に正面から向き合ってほしいのです。ご自身の「正当化」する姿、そして「攻撃」するご自身の姿を。他人の分析をする前に。
衝動的に自己正当化および攻撃する前に一度立ち止まって考えるべきことがあります。衝動に任せての言動が相手に与える影響、その後に起こる自分への負の見返りです。
自分への負の見返りは自分でしか解決できないものです。幾年をも経てその負の見返りは甦ってくるものです。その負の見返りは、自分がした行動の「選択」における「結果」です。
おわかりになったでしょうか。もしあの時、自分の「正当性」を訴えず、相手である私に読み間違ったことを「攻撃」せず、素直に謝っていればどうなっていたか、想像力が働くADHDであったら思い至るはずです。
ホックさん
試しに。
(以下は私の独り言です。なお、特定の人について言っている訳ではありませんので、ASの方は「自分の事だ」と決めつけて考えないで下さい。)
私の周囲の受動型ASは、私が理解しようと歩み寄れば、「揚げ足取り」や「おうむ返し」で人をからかうような事ばかり言って、「バカにしてる?」と聞けば、それ以上責められないよう、か弱そうな素振りを見せて非言語アピール。
黙って話を聞いていれば、「受け入れて貰って当然」と言わんばかりに高圧的な態度になり、要求は甚だしくなる。
だから最終的に、相手に自分の感情が伝わらないよう「無表情」を貫き、「事務的」にその場をやり過ごす。
相手を自分に依存させない為に、とても効果的な方法だと思ったから。
でもそれでは自分が辛い。
結局我慢できずに「貴方といると、自分を押し殺さなければならない」と伝えるのが精一杯。
「お前は何様だ?」
「どれだけ偉いんだ?」
「思い上がるな!」
そう言ってやりたかった。
…以上です。
先生、暴言吐いてすみません。大人げない…でもスッキリしましたm(__)m過去のトラウマが吹き出してしまったようです。きっとこの気持ちは受動型には解らないでしょう。
ホックさん
どう思いましたでしょうかね。
これは道産娘さんが大地さんに発言した内容です。
相手の発言に怒りを感じたら、このように発言するのがよいのでしょうか?
私はこのように発言することに不快を感じました。
ホックさんの立場から、このような発言についてのご感想を聞きたいです。
みさん
ご想像にお任せします!
みさん
ハイハイ、どうもすいませんでした。
これで満足ですよね。
きっといびつさんは「挑発に乗る側(私のこと)も責任を自覚しなさい」と言いたかったのだと思います。
「傲慢」なのはお互い様ですよ。
非常に遅くなりましたが返信。
>なつもかさん
考えましたが、孤独感というものは「認識できない」が結論ですね。
人がいるかいないかは、自分も含めて1と0のデジタルな情報です。人数という数字でしかありません。
孤立型ASは意識が世界の外のガラスケースに保管されていて、現実に存在する自分はただのインターフェイスのようなもの、と考えるとわかりやすいかもしれません。
孤独感云々以前の問題として、単独であることが前提条件。孤独感を感じるには、他者と接触する経験が必要なのではないでしょうか。
ホックさん、ぬまおさん
いびつさんがADHDかASかはちょっと解りませんが…「その通りだな」と思う部分はあります。
>自分の問題を人に押し付けるのも人の問題を取り上げるのも傲慢ではないかと思っています。
その通りですね。
みさんの挑発に乗って、私も嫌味を言うことで反撃しましたから。
「売られた喧嘩は買う!」「相手が先に攻撃してきたから、じゃあ私も…」という姿勢は、明らかにのび太ではありませんよね。(中心志向の部分が反応したみたいです…)
>誰に何を言われようが自分の問題だと考えています。
みさんの攻撃に対し腹が立ったのは事実ですが、だからと言って、周囲の迷惑を省みずただ怒りに任せて言い返すことは「無責任」だと思いました。
なので私は、今後みさんが何を言ってきても「(出来る限り)無視」することにします。
ちなみに「抗い続ける人は面倒・勿体無い」という考えは昨日からずっと気になってましたが、正直私にもよく分かりませんでした。(迷惑…ならまだ分かりますが)
特に「何故面倒臭いことが勿体無いのか?」不思議に思っています。
ホックさん、ぬまおさん、コメントありがとうございましたm(__)m
あと、ホックさんの説明を読んで思ったのですが、多分ホックさんがご説明されているADHDというのは「ジャイアンADHD」のことじゃないかな?
多分いびつさんは「天然のび太」の方じゃないかって気がします。
同じのび太でも「合理的強迫的ジャイアン」の方は「状況察知能力の高さや強迫的な厳しさ等」が残るので、ヤンバル先生のような感じになるのでしょうけど、「天然のび太」の方はそこまで物事に執着しないので、あまり理屈っぽい印象にならないんじゃないかな?
とはいえ「人は人、自分は自分」と割り切ることができる部分は共通しているので、みさんを無視できない私に対して「それは傲慢なジャイアンのすることですよ」と忠告してくれたのでしょう。
ホックさん、(騒ぎの時は)いつもありがとうね♪(^-^)v
>なつもかさん
ちょっと孤立型について誤解があるようなので、妻の特徴を簡単に書きますね。
妻には「中心志向」が見られないです。自分に対してのみ本心や秘密を打ち明けて他の人には絶対に見せないので、自分には愛着はあるようです。
妻に直接聞いたところ、「外では、わざわざ出しゃばってまでこだわりを主張したくないので、人が仕切っている時にはそれに従う。自分が決めていい場面になったら徹底的にこだわる」そうです。本人は、「内と外で変えているつもりは一切ない」と言っているけど、自分からみると全然違います。内で見せる攻撃性や本音を外では絶対に出さないので。つまり、衝動統制をしているということです。外ではいつもニコニコ笑顔で、家に帰るとストレスを発散するために孤立する時間が必要になるようです。
「想像しても人の気持ちはよく分からないので、考えない」と言っていました。小説が好きなので、「感情移入しないのに本なんて読んで面白いの?」と聞いたら、「そんな考えの人もいるんだと思うだけだけど、おもしろいよ」と言ってました。状況移入はあるようで、別れの場面を見て泣いているのを見たことが一回だけあります。
妻は自分よりも友達が多く、年賀状もたくさん出します。年に一度くらいずつそれぞれの友達と会い、何人かで食事会などもしています。ただ、「別に友達は必要ない。年に一度会えれば十分」と話しているから、人とは深くかかわらない感じで、メール交換もしていないです。「もし、一人きりで生活することになったら耐えられるか」と聞いたところ、「つまらなくなるので外へ出掛けることもあるかもしれないけど、喫茶店に行って店員とあいさつを交わせれば満足。職場で人と会えれば、それも必要ない」と言っていました。
妻が企画した女子会に何度かお邪魔したこともあるけど、妻は会話についていけてない感じで、キャラとしては天然。理由としては、相手の話に共感する場面が少なく、相手の考えていることを正確に理解していない様子から、微妙に会話がずれていくような印象があります。
孤立型は、衝動統制ができて外でブチ切れることがなく、家にストレスのはけ口になる愛着、もしくはストレスを昇華できる趣味、孤立できる環境などがあれば、実は社会にそれほど問題なく適応できるタイプだと思います。
道産娘さん
貴方の「否定的な見方をしてましたが?」という「攻撃」から始まっているのです。攻撃を仕掛けたのは貴方です。それを棚上げして、私が攻撃したように話をすり替えています。
>みさんの挑発に乗って、私も嫌味を言うことで反撃しましたから。
「売られた喧嘩は買う!」「相手が先に攻撃してきたから、じゃあ私も…」という姿勢は、明らかにのび太ではありませんよね。(中心志向の部分が反応したみたいです…)
私はあの時、挑発などしていない。攻撃したのは貴方であり、攻撃を受けたのは私です。その反撃をしたのが私です。話をすり替えないでください。
攻撃した自分を認めたくないための責任転嫁、ずっと私は迷惑しているのです。
人に「それ以上責められないよう、か弱そうな素振りを見せて非言語アピール。」と書くのであれば、ご自身の攻撃を棚に上げて、人に責任転嫁することをやめませんか。
嶺往無識さんへ
お返事ありがとうございます。孤立型さんがご自身でここにコメントしてくださる事自体、すごくありがたいです。
「認識できない」きっと、そうなんじゃないかなと思っていたんです。本当にありがとうございます!
ぬまおさんへ
すみません、適当に叫んでしまったので誤解とかも色々ありそうです^^;
実は私は孤立型さんの事はさっぱりわからないんです(AS自体がすごく難しく、シーンごとの対処は想像できても、それらを1体につなげて考えられません;;)。
ですが、お嫁さんのお話を具体的に聞けるのはとてもありがたいです。どこが違うのかわかりやすいです(^^)
「内と外」や「境界」「攻撃性」のあたりはのび太にはないところかもしれませんね。
私の場合、内と外があるとしたら自分とそれ以外…という感じです。もしかして本当にぴったり来る人が内側に入るのかもしれませんが、私にはまだわからないです(T–T)
小説、感情移入がなくても楽しめると思いますよ!トリック的な物やお話の構成に工夫のある物、世界観自体が新しい物もありますよね。私も気分を左右されたくない時はそういう物を楽しみます。
また、他人の物語だと思って見てもそのまま楽しめるかもしれませんね(普段の生活全てがそう見えているわけだし、特に違和感がなさそう)。
ずっとひとりではつまらないというのは同じかもしれないです。
ただ、嶺往無識さんの言うように孤独が認識できない状態での「つまらない」であれば、内観は違うんだろうなー。
お嫁さんは自ら企画もされるんですよね。
うーんちょっと不思議。愛着のあるなしが状況を変えるんでしょうか。。ストレスはどこで生まれるんだろう。。
孤立型ものび太も、対外への影響力がほぼない(影響しようと思わない)ために、ほぼ問題なく適応している感は出せると思います。
のび太のしりぬぐいをしている人と、孤立型さんのストレスのはけ口となってる人がそれでよければ…といったところでしょうか^^;
み さん
確かに道産娘さんは論理的な面ではむちゃくちゃです。
でも、ADHDっていうのは、それが自然なのではないですか?
論理性の欠陥をカバーするための行動は必要ですが、やり方はいろいろあります。
道産娘さんは論理性の欠陥はあるものとあきらめて、他人に気を使うという形でカバーしています。
ADHDの特性を考えると、こちらの方が自然な対応で、道産娘さんの対応はお手本のように思えます。
みさんに論理的な欠陥を指摘され、自己評価は一時的に下がりますが、他の人から行動を支持されれば、自己評価は回復できます。
みさんは、論理的な欠陥を努力でカバーするやり方です。
みさんのASとも間違えられるような論理性はASの私から見ても賞賛に値します。
でも、これは誰にでもできるやり方ではないです。
みさんくらい、頭抜けて高いIQが無ければできない荒業です。
(嫌味な言い方になりますが、こう言わないと空気がもっと悪くなるので失礼)
私のやり方も、高いIQが無ければできないと思います。
だからこそ、自分のやり方を人に押し付けようとは思いません。
高いIQを持つ人は、それを自覚しないと却っておかしなことになります。
今のみさんに不足しているのは、その自覚だけだと思いますよ。
道産娘さんは、みさんのように天才ではないから、同じような対応はできない、と思えば、腹も立たないでしょう。
はっΣ(・o・;)ぬまおさん
こちらの記事、読み返してみました。
孤立型には愛着がないと…書かれています!
私もうちんぷんかんぷんです><;;
道産娘さん>
なんだか今自分の前発言を読み返すとすごく偉そうに発言していて恥ずかしさが‥しかも[めんどくさい]という発言はすごく言葉足らずで、考えさせてしまって申し訳ないです。。自分の感覚的な部分で話していました>< 過剰に反応されても仕方ないような文章にも謙虚に応えてく出さってほんっとうにありがたいです。 めんどくさく思うことや前発言について説明させてもらいたいのですが伝えるという表現がまとまってから説明させてください! 道産娘さんとお話しできてすごく嬉しく思います。 >同じのび太でも「合理的強迫的ジャイアン」の方は「状況察知能力の高さや強迫的な厳しさ等」が残るので、ヤンバル先生のような感じになるのでしょうけど、「天然のび太」の方はそこまで物事に執着しないので、あまり理屈っぽい印象にならないんじゃないかな?
道産娘さんの↑の発言、するどい!と、はっとさせられました。「ジャイアンからの移行のび太」が把握しずらかったのですが少し鮮明になりました。ありがとうございます。
なつもかさん>
なつもかさんのお話はすごくわかりやすいです!
私自信、のび太だと自分自身を認識していますが小5男子の情緒というか精神年齢で落ち着いてしまったので粗雑で率直で無邪気でしかないタイプなのかな。と、自分自身を認識しています。自分が子供なのが大きいと思うのですが同じ発達障害でもみなさん大人なんだなぁ。と、よく思います。
また、同じのび太でもなつもかさんのような柔らかい雰囲気もあるんだなーって思いました。言葉も丁寧で適切だし羨ましいっす。
私は天然とはほとんど言われず、よく人見知りはしないけど人馴れしていないといわれます。
なつもかさんは天然だと言われますか~?
m2さん
>でも、ADHDっていうのは、それが自然なのではないですか?
ADHDの自然状態は、注意が容易にそれてしまう「注意欠陥」と、「衝動」的に何かを言ったりやったりする状態の事です。のび太ADHDは後者が目立たない。そして、注意欠陥や衝動によって失敗したことに自分突っ込みをするのが自然状態です。
「論理的な面ではむちゃくちゃ」な状態がADHDの自然状態ではなく、自分の都合の良いように辻褄を合わせようとするから論理がむちゃくちゃになるだけです。モンスターペアレンツの言う事って論理がむちゃくちゃでしょ。自分の意見を押し通したいためにむちゃくちゃな論理を仕立ててしまう。暴君型ジャイアンがよくやる事です。
そして、ジャイアンに甘やかしや尻拭いは禁物です。
きっと道産娘さんは成人した今まで、ASの庇護を受け、「自分のした事について謝る機会を失ってきた。それどころか、自分から先に殴っても責任転嫁すれば自分のした事を直視しないで済むことを学習してきてしまった」のだと思います。
『受動型ASの受験生が勉強しない理由』から見ていて、ASに取り入るのが非常にうまく、自己弁護してASの人の庇護を引き出す事が得意のようです。養育環境下で培われた能力でしょう。よく見ると、庇護してくれそうなASさんに話しかけています。ASの庇護に依存し、自分のした事に責任を取らないでいます。
AS養育環境下で育った依存型暴君型ジャイアンの依存の仕方、暴君の働き方、勉強になります。
「み」 さま
この発言は合理的な自己突っ込みのある人間とは思えません。
「おのれは何様か」という自己突っ込みを最低今後5年間
365日24時間毎分毎秒自分がつぶれるまで続けてください。
当分コメントは載らないと思ったほうが良いですね。
一発退場です。
YANABRU
なつもかさん、先生が今回のエントリーで述べているのは、こういうことではないでしょうか。
愛着にはいろいろなかたちがあるけれども、孤立型ASには「愛着の対象に尽くす」というかたちでの愛着がない。言い換えると、孤立型ASの愛着は、尽くす愛着ではない。
m2さん!いいですね。IQが高いという自虐!笑
とても素敵な表現です。
私は論理性とか合理性とかを”ご自分の中”で”それなりに”求めている場合、どんなにクラッシャーであっても魅力的だなと思うんです。私の中では、みさんも、m2さんも非常に好感を持てるキャラクターなんです。(それぞれ性別が逆だったらまた違いそうですけど。)
こちらのエントリーじゃないですが、m2さんが多数派と女のび太を一緒にしたときに感じた悲しさはこのせいかもしれないですね。
私は結構好感持ってるのに煙たがられちゃったっていうw
別れたいから無茶な要求(多数派女性なら怒って別れる)をする男に全く気づかず、最終的に「なんなんだよお前!」と逆切れされる女のび太の切なさを思い出しました…。しくしくしく。
のび太は変なのーと思いながら既存システムの破滅を待つのは苦でなく「破滅したら呼んでね、それまで遊んでるからー」というスタンスで。出る杭があれば「出るのはいいよ、どんどんやって!でもその角度はおかしくない?」というとことん能天気でKYな人種なんだなあと。
実感しました。役に立ちたいのになー。切ないです。
>特徴的なのは、「感情移入」が見られないところだ。映画やドラマなどの作中人物の気持ちになることが無く、あくまでも「鑑賞者」として自分は外に居るということだ。
嶺往無識さんは自分への感情移入はないと言う・・。
私は自分にも感情移入しますからASではないですね・・。
ふうむ・・
すみません・・・道産娘さん、いびつさん。
私が書いた「その人」はいびつさんの事ではなく、みさんです。(私にはみさんがADHDだとは思えません)
道産娘さんの解説、よくわかります。ありがとうございます。
私は、無視できない道産娘さんを、止めたいという気持ちと、やっちまえ!(笑)という気持ちと、両方ありますよ。
いびつさんの仰るとおり、挑発に乗るのは賢くないと思っています。でも、挑発した側を放置して、された側を注意するのも程度問題だと思ってます。
m2さんの言うとおりで、私は道産娘さんの理論や正当性を支持してるのではありません。欠点も矛盾も沢山ある道産娘さんを人として好ましく思っているのです。
みさんが「自分が正しい」と主張されている文面はもう随分前から読んでません。自分に都合のいいところだけ抜粋した文面と説明なんて読む価値もないですから。
>JETさん
私は合併症一切なし、純粋にアスペルガーのみで障害等級1級に認定されるほど尖った個体です。
(通常、合併症込みで3級が限界だそうです)
そのため、自己分析のための物差しとして私を使うのはあまりお勧めしません。
>なつもかさん
>「内と外」や「境界」「攻撃性」のあたりはのび太にはないところかもしれませんね。
そうかーのび太には攻撃性がないんだ。中心志向がなくて攻撃性がないとなると、ほとんど自分と同じタイプみたいですね。もしかして、自分は受動型だと思ってたけど、もしかしたら、のび太かな?注意欠陥はほとんどないんだけど。実は自分の身近に、のび太さんがいないので、先生のブログだけを見て何となく思っただけなので勘違いしてたみたいです。
妻も境界はないみたいなんだけど、なんで外で本心や攻撃性を出さないのか聞いたら、「出したら大変なことになるでしょ」と言われました。なんで家では出すのか聞いたら、「我慢できないから」と言われました。ついでに、「なんでそんなこと聞くの?」と言われました。
>お嫁さんは自ら企画もされるんですよね。うーんちょっと不思議。愛着のあるなしが状況を変えるんでしょうか。。ストレスはどこで生まれるんだろう。。
友達が多いので、いろんな友達とまとめて一回で会うため効率がいいことと、一対一で会うより大勢で会う方が好きみたいです。ストレスは、自分のやり方に口を出された時や、自分の予定通りに事が進まなかった時、人が思い通りに動かなかった時、身体的に疲れた時などに感じるみたいです。自己中だなぁ。
>孤立型さんのストレスのはけ口となってる人がそれでよければ…といったところでしょうか^^;
前は自分がはけ口になってたので嫌でした^^;孤立できる時間を用意したら、読書を趣味にしてくれたので、自分がはけ口にはならなくなったので良かったー。
一見、ADHDっぽくも見えるけど、ディズニーランドに行ってもどこへ行っても、時間さえあれば本を読んでいる姿を見ると、やっぱりASだなーと思います。読書は飽きないのか聞いたら、一章ずつ4冊くらいを同時に読み進めているから飽きないと言っていました。その読み方もどうかと思うけど。
横レスします!すみません!
>煙たがられちゃったっていうw
ああそうか!m2さん多数派きらいだから!気付かなかった!
あとはうっすら同意!(笑)
私はクール過ぎると怒られていたな。。。
み さんの言うことは理解できなくはないのだが、一番肝心なところがわからない。
道産娘さんは暴君型ジャイアンなのだろう。
でも、それのどこが悪いんだ?
暴君型ジャイアンであったって、ASに依存していたって、いいじゃないか?
ああ…ついにレッドカードが…^^;
いびつさんへ
人馴れ…非常におもしろかったですw
私もいびつさんの言う事はよくわかりますよー。思考回路が近い気がします!!
実際の私は多分いびつさんとそう変わらないです。
こうやって文字を自分で見ながら発言する事と、話す事は全然違うんです。ここで文字を打つ時は意図せず誰かを傷つけたくないので、いろんな意味にとらえられない表現・言葉を選んでいます。出来るだけ…になってしまいますが。
実際話をする時はそんなに時間をかけて言葉を選べないので、よくボロがでます;;
ただ、相手の立場や心情で言葉を選ぶ事は変わりません。
「天然」昔はあったけど今は年齢が…^^;
「癒し系」は時々あります。癒す気はないんですけど、疲れてる人にはそう見えるみたいです。後で「裏切られた!w(全然癒し系じゃない!)」となります。笑
>嶺往無識さん
そうなんですか。ではものさしにしないです。嶺往無識さんに聞いてもいいですか。嶺往無識さんはこうしてここでなつもかさんや私と話す(書く、読むですけど)ことは他者との接触になりますか。他者との接触ってどんなこと?
嶺往無識さんは音楽を聴きますか。私は音楽を聴いて歌詞でなくメロディで泣いたりします。そういうのも感情移入だと思ったのですが。。
それであの嶺往無識さんてお名前どう読むんですか。みねおうむしきさんかな
>なつもかさん
うっすらとかごめんなさいね。私はのんびりしすぎとかおっとりとか言われる情緒障害長くてたぶん暗いので気にしないでね!大体同じです!
今気が付いた先生こわい
zzzさんへ
ふむふむ。補足ありがとうございます。愛着って私にはちょっと難しい概念です。
そのお話ですとASからみると特異な状態だけど、いわゆる「普通」の「好き」に当たりそうだなぁと思いました。
必要とされたいけど、必要とされるためのアクションはしない。のかなぁ。
ぬまおさんへ
あら、ぬまおさん自身がのび太だとまた新しい考え方が必要ですね!
うーんと、のび太自身に攻撃性はない(正確に言うと小さすぎて気づかれないか、方法が下手)んですが、攻撃だととらえられる事はあります。
それはほとんどの場合「うっかり」失礼な言い方になってしまうだけです。
当人としては、攻撃しても気づいてもらえない上に意図せず相手を怒らせるという困った状態です。
だからといって人に当たる事はまずないでしょう。自己突っ込みで自分が傷つくだけなので。
執着心が弱いため「まぁいっか」でだいたい済みます。それか、悶々としているうちに他の出来事で忘れる。。
ぬまおさんの「自己中だなあ」は、結構のび太的ですよw
私は”自分のやり方に口を出された時や、自分の予定通りに事が進まなかった時、人が思い通りに動かなかった時、身体的に疲れた時”に、あー休みたいとか、もうなんだよ!位は思います。
(これを自分では上手に感じられないのび太がいます。その場合は気づかないうちにストレスを溜め込んでうつ病ないし身体症状に発展する場合があると思います。)
現時点で私は他人が関わる事をコントロールできると思っていないので「ま、そんなもんよね」となるし、自分だけの場合は「あらまた失敗。まあ困るの自分だしいっか」です。
YANBARU先生、皆さん
お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。
ホックさん
みさんの事だったんですねf(^_^;
失礼致しました。
>いびつさんの仰るとおり、挑発に乗るのは賢くないと思っています。
そうか…ホックさんは「賢い」という見方をされるんですね。
確かに、言われっぱなしで我慢の限界!とも思ったんですが、責任云々より「ここで自分が感情的になることで、暴君のみさんと同じになりたくない。」という、変な意地もありました(苦笑)
相手に対して「揚げ足取りやおうむ返しだ」と言った以上、自分が同じことをしてやり返すのはどこか抵抗がありました。(怒りに負けた時、正当化してやり返そうとはしましたが)
正直、彼女に対し「可哀想」という気持ちもありましたが、だからと言って私にはどうすることもできません。
とりあえず、自分に「自己突っ込み」があることが分かったので少し安心しましたが、「中心志向型ジャイアン」の攻撃性も強いようなので、調子に乗りすぎないよう気を付けます。
いや〜自分では抜け目無くて「ASっぽい」と思ってたけど、ASさんから見たら穴だらけだったんですねぇ。
気が付かなかった己のKYっぷりに唖然としました!(笑)
なつもかさん
すみません。孤立型に攻撃性があると言ったのは間違いでした。以前、自分は攻撃を受けていたと勘違いしていただけです。孤立させておくようにしたら、今は全く攻撃を受けていない。つまり、自分から妻に絡んでいって反撃を受けていただけです。だから、愛着に対しても孤立型は自分から攻撃を仕掛けてくるようなことはないけど、反撃はするみたいです。
境界については自分と、それ以外という境界しかないようです。反撃をしても後で問題が起きない場面では、自分の有利不利に関係なく、徹底的に反撃をするというのが特徴だと思います。
>「内と外」や「境界」「攻撃性」のあたりはのび太にはないところかもしれませんね。
「内と外」や「境界」「攻撃性」については孤立型にもないようです。のび太さんは有利不利を考えずに反撃するような場面はありますか?
なつもかさんにイイね!しておきました
のび太解説のとこあと全部同意します!
ぬまおさんのことは分りません
>JETさん
>他者との接触
経験が無いのでわかりません。おそらく、共感という錯覚を得ることかと思います。
ここで話してるのも、ゲームのキャラクターと話すのと変わりません。
>音楽
音楽による感動は、風景や数式を見て感動するのと同じです。そこに他者の感情を感じることはありません。
>嶺往無識の読み
「れいおう むしき」です。嶺は海嶺/海溝、往は過ぎ去る、無識は「知らないということを識っている」=無知の知から取っています。
まあ、単に000の当て字なわけですが。
なつもかさん、発達障害の話で出てくる「愛着」は、専門用語と考えたほうがいいかもしれません。
愛着って言葉を聞くと、愛情やなつかしさ、執着、安心感、手放すときの寂しさ哀しさ、なんてことを思い浮かべませんか。
ASを語る上で欠かせない「愛着」は、愛情やなつかしさがあってもなくてもいいものです。つまり、ASの愛着は、執着と安心感とで出来ています。ここに愛情やなつかしさが乗っかる場合もあれば、乗らない場合もあります。
愛情がなくても執着と安心感とがありますから、ASは愛着の対象に、しばしば問題行動をぶつけてしまいがちです。執着と安心感が中心ですから、手放すときは「寂しさ哀しさ」程度では収まらないことがしばしばあり、やはり問題行動を引き起こしてしまいがちです。
なつもかさんのおっしゃる「普通」の「好き」のイメージが、もしも愛情のあるなしに関係なく、執着と安心感とで出来ているものなら、ずばりそうだといえそうです。
ただ、ASにとって愛着の対象は一方通行でよく、言ってみれば片思いです。片思いが安心感で満たされているかというと、むしろ不安感と入り混じっていますよね。だから、愛着と「好き」とは、ちょっと違うかもしれません。
そういえば、ADHDを語る上で欠かせない「自己ツッコミ」も、字面とはちょっと違う意味のようですね。だから、ASには少しとっつきづらい。でも、ADHDどうしでは、特に説明されなくても何となく分かってしまうんですよね。
「愛着」も同じで、字面とは意味がちょっと違うのだけど、ASどうしでは何となく分かってしまうんです。ああ、この感じね、と。
隣のエントリーの先生のコメント、今気付きました。
…っていうか、いつの間にかさーこさん戻って来てるし(笑)
m2さん
m2さんや他の方々がみさんを説得したり、なだめようとして下さってたのは分かってました。(とはいえ、若干複雑な気持ちでm2さんの↑コメントを読んでましたが)
以前から言おうと思ってたことがあります。
>道産娘さんは、みさんのように天才ではないから、同じような対応はできない、と思えば、腹も立たないでしょう。
正直、中心志向の強かった、ACになる以前の私なら喜んでこの説得に応じたでしょう。
中心志向型は「褒められることが原動力」ですからね。(半面、妬みや嫉みもハンパないですが)
きっとm2さんは、中心志向型ジャイアンのことをよくご存知なんですね。
ただ、依存型のみさんには通用しないと思います。
彼女は自分で衝動をコントロールできず、他者を動かして衝動をコントロールするしかないのでしょう。
その「他者」が、今回は私。
彼女はここ最近、私を含むコメント者を攻撃→謝る→自己正当化してまた攻撃…を繰り返してましたよね。
きっと私が彼女に平伏すまで、ずっと続けるつもりだったのでしょう。
(続きです)
おそらくみさんは「自分自身の問題」を自覚できず、「私に一方的に攻撃された」と認識してたのだと思います。
彼女に悪気はなく「自分の主張が正しい」ということを、ただ私や他の方々に受け入れて欲しかったのでしょう。
途中で怒りを抑えて謝ったのも、そのために空気を読んでのことでしょうね。
きっと継続して考えられない上、自分の責任を自覚できないので、何度も同じことを繰り返してしまうんだなと思いました。
なので彼女を納得させるためにm2さんや他の方々にできることと言えば…
「みさんの味方をして一緒になって私を攻撃し、このブログから追い出すか謝罪させる」
ことぐらいでしょうか。
私には受動型ASや依存型ジャイアンのような「柔軟」な対応はできないので、たまに羨ましく思う時がありますよ。
おまけに議論では絶対m2さんやみさんに勝てませんから。(思春期の反抗期レベルの言い訳で精一杯だな)
でも、根本的な解決方法は、本人が「自分の問題を自覚する」しかないと考えてます。
受動型ASのm2さんには、中々理解が難しいかもしれませんね(^_^;)
ぬまおさんへ
自分からしかける攻撃と、反撃。重要な違いだと思いました。
見分けられたのは素晴らしいですね!
前のコメントと少し重なりますが、恐らくのび太は反撃もできないと思います。孤立型さんの場合はこだわりを軸に反撃できるんでしょう。のび太は他者に対する時、自分という軸も他人という軸もこだわりという軸もないです。
(私のように空虚で浅薄な自己しか持たない者には、みなさんが突き動かされるこれらの軸が非常に興味深いです。)自分が思う事はわかるので、自分だったらこう思うという事を伝える事しかできません。これは1人でも大勢でも変わらないので、時にKYになりますね。
見よう見まねで自分が伝えたいものの為に「反撃や攻撃っぽい形」をとることはできます。この方法で適応する…こうするとみんなわかってくれるという学習をする…可能性はありますが、のび太にとって不健康な方法だと思います。
zzzさんへ
大切な部分を説明していただいてありがとうございます。当事者からこういった説明をいただけるのがこの場所のとてもいい点ですよね。嬉しいです。
ご指摘通り、私は間違って「愛着」を捉えていたようです。愛情があってのものだと思っていました…。余計に自分の中でかみくだくのに時間がかかりそうです(笑)
愛着が満たされた状態、愛着が存在しない状態というのがありえるのかな?と少し興味を持ちました。ASのエントリーを読んでみます。
あと自己ツッコミについて、上手に説明できるように少し考えてみます( *`ω´)
@@@@@
最近気になっているのは、ジャイアンとのび太は合理的ADHDに統合されていくとして、それぞれのASさんは適応力を持って「ほどほど」を身につける事でどこに向かって行くのかな?ということです。
みなさんはどう思われますか?
>それぞれのASさんは適応力を持って「ほどほど」を身につける事でどこに向かって行くのかな?ということです。
私個人に限って言うなら、私はもう、心身につらい事はしたくないのでね。
最低限の社会接触ができればそれでいいですよ。
以前は愛着との関係を断つ際に、イメージ的に言って、自分の体の一部である片腕をきりおとすイメージをしていましたが、毎回お葬式のような儀式をしなければいけないのはしんどすぎるし、つらすぎるのでね。合理的思考は私の場合、愛着から離れる時に起こる自傷イメージをしなくていいようにするためのものです。
どこに向かって行くのかというよりも、自分そのものに帰っていくのかな。他人が私を理解できなくても仕方がないです。なるべく健やかに生活したいですね。
>嶺往無識さん
ありがとうございます。もっと根掘り葉掘り聞きたいですが止めておきます(笑)嶺往無識さんのお話は、私が考える神に似ていて楽しいのです。また気が向いたらお話聞かせてください。
>なつもかさん
>どこに向かって行くのかな?
環境や身体や好みといった個性。(あと普遍)
自分も知らないところ。かな
私もお騒がせの一角を担ってましたね。
ご迷惑をお掛けしました。
改めて、本音で話せる場=本性丸出しにして良い場とは違うのだと認識しました。私も肝に銘じます。
道産娘さん
こちらこそ、ありがとうございます。
私はもしかして、道産娘さんを焚きつけて、みさんと戦うよう仕向けたりしなかったか?と、ここ数日悶々してました。
道産娘さんが特別穴だらけなんて事は思ってないです(笑)なんと言うか、人間らしい凸凹があって、魅力的な人だと感じます。それは他の皆様もです。
道産娘さん
断ったにもかかわらず、勝手によくわからない役職につけられてしまいました。
幸い(?)同僚ののび太さんも一緒でして、「無理だったら『やっぱり無理でした』って言いに行けばいいですよ~」という彼女の話を聞き、
『未来永劫、続けなければならないわけではない』
と思うことにしました。
最悪でも仕事を辞めたらそこまでで終わり、一生ついて回るわけじゃない。
良く考えれば当たり前なんだけど、私にはそういう発想が難しいです。
>ただ、無理してADHDっぽく振る舞う必要は無いと思いますよ。
ありがとう。
私は、自分のために、元の私に戻ります。
(『ほどほどに』戻れるかなあ・・・)
なつもかさん
『愛着』って言葉、難しいですよね。
私もADHDとASの記事両方読んでいたのに、ぴんと来ませんでした。
『人の近さ』も、五感の過敏のせいで無視できないのかと・・・心理的な意味ではなく、もっと即物的?な意味に理解してました。
>最近気になっているのは、ジャイアンとのび太は合理的ADHDに統合されていくとして、それぞれのASさんは適応力を持って「ほどほど」を身につける事でどこに向かって行くのかな?ということです。
ASは次第に孤立型になっていくのかな?と思います。
愛着がないわけではないのだけど、生きていくうちに、『100%の理解』を諦めたり、相手が持つ自分とは違う考えを認めたりして、ほどほどで妥協することを学習する。
それは、zzzさんの言葉を借りるなら、「執着と安心感」を手放すことで。
不安定なまま我慢し続けることになるから、もう最初から相手に近づきすぎないように気を付ける。
それは外から見れば、我が道を行く人(孤立、見ようによっては自立)に見えるかもしれません。
愛着を忘れたASに見えて・・・いや、相当観察を重ねないと、もはやASに見えないのでは。
なつもかさん
妻は結婚前、なつもかさんとほとんど同じだったような気がします。しかし、結婚して子どもが生まれてから不適応が激しくなった気がします。これは、なつもかさんのコメントを参考にしながら自分の妻のことを書いているだけであって、のび太や孤立型がこうだ、という話ではないのでご承知おきください。
>前のコメントと少し重なりますが、恐らくのび太は反撃もできないと思います。孤立型さんの場合はこだわりを軸に反撃できるんでしょう。のび太は他者に対する時、自分という軸も他人という軸もこだわりという軸もないです。
実は、こだわりについて妻は、「計画や予定を立てること」だと言っていて、急な予定変更は絶対にダメです。一発で機嫌が悪くなります。ほかにも、細かい部分でこだわりのように感じることは多々あります。ただ、こだわりの軸には愛着である自分が常にいるような気もする。内側に入ってきた愛着を軸にするのかな?自分の行動次第で妻の気分が大きく左右されているのは間違いないです。自分が友達と遭うために出掛ける時は、非常に不機嫌になります。かといって自分に尽くすようなことはしません。あくまでマイペースです。
計画や予定に関して言うと、毎月、月はじめに自分と子どもの一カ月分の予定を全部、自分に言って、後日、忘れたので聞き返すと「言ったよね」と言って、なかなか教えてくれない。自分に過度の期待をして、一度言えば理解・記憶していると思い込んでいるみたい。計画を立てるのが大好きで、例えばディズニーランドに行く前に徹底的にリサーチして、行く場所やおみやげまで決めているのに、いざ、行ってみると、ベンチで本を読んだりしている。楽しくないのかい!と突っ込みたくなる感じです。
つづき
>自分が思う事はわかるので、自分だったらこう思うという事を伝える事しかできません。これは1人でも大勢でも変わらないので、時にKYになりますね。
妻も基本的にはそんな感じです。たまに、とんちんかんなことを言います。
>見よう見まねで自分が伝えたいものの為に「反撃や攻撃っぽい形」をとることはできます。この方法で適応する「こうするとみんなわかってくれるという学習をする」可能性はありますが、のび太にとって不健康な方法だと思います。
妻がイラついている時に一番多く見られる攻撃は、食事の時に自分が率先して動かないことに対して「自分でやって」と言って、ご飯をよそってくれないこと。「明日やればいいでしょ」と言って家事をやらなくなること(自分に対して家事をやれという意思表明)。あと、無表情で怖い顔をする(子どもは、これがフラッシュバックになっています)。話しかけても聴こえないふりをして無視すること。妻が不満を感じる自分の行動に対して意思を表明する反撃行動は以上です。
つまり、よく観察して慣れないと、攻撃・反撃されていることにすら全く気付かないレベルですが、本人はプンプン怒っています。自分が反撃を見過ごして反応を示さないと、自分の部屋に閉じこもってしまったり、寝込んでしまうこともあります。頭の中でファンタジーをしているのでしょう。たまに「クソ野郎」なんていう言葉を独り言で言ってるけど、直接自分には言いません。
これは、子どもを生む前と、孤立させる時間を作り、家事や子育てをほとんど自分がやるようになった後の現状です。反撃も問題と言えるレベルではないです。
不適応を起こしたのは、まずは結婚してからで、自分の部屋に閉じこもることが多くなりました。今考えれば孤立させることが最大のストレス解消なわけだから放っておけばよかったんだけど、心配して声を掛けるたびにイライラしていました。このころは家事もしっかりやっていたけど、自分の親がたまに様子を見に来ることに対してもイライラしていました。予定していないのに急に自宅に人が来ることは、今でも絶対にダメです。
つづき
子どもが生まれてから本格的に不適応が見られるようになり、生まれて3カ月で狂ってしまいました。子どもの泣き声を聞いた途端に急に笑いだし、わけのわからない言葉を話して、動き回ったりした後にうずくまって、ゲラゲラ笑っていました。怖かったです。子どもを実家に避難させて、妻の母親を呼んでなだめてもらったんですが、子どもの頃に退行してしまったような感じでした。これが人が狂うってことかーと目の当たりにしました。
それから、自分がいる時は、なるべく妻と子どもを離すようにして、自分と子どもが寝た後にテレビを見たり、本を読んだりするようになると、みるみる不適応がなくなり、子どもを保育園に預けるために働きに出ると、完全復活です。
ただ、おかしかった当時は、子どもの泣き声やわがまま、つきまといに対する反撃はひどく、大声で怒鳴ったり、朝から寝込んだり、首を絞める真似をしたり、自分の頭をたたき出したり、トイレにこもってうずくまったりして、子どもが病気になったりした時は、「かわいそうという気持ちはあるけど、死んでくれた方が楽」などと言っていました。子どもが3歳以下だったから記憶に残っていないと思うんだけど。
今は妻に発達障害があることを言って、ストレスを溜めないように言ってるので、自分でも気をつけているようです。子どもの世話などで孤立する時間がなくなると、大変なことになるようです。
>どこに向かって行くのかな?
自分の場合、対人能力を高めて人を知り、ACからも抜けたことで、人によっては攻撃とも受け取られる可能性がある、愛着に対する自分が必要かどうかを試すような行動もなくなったみたい。AC時代には人から必要とされたい共依存的な欲求もあったと思うけど、今は別にないかな。今の愛着は妻と子ども、友達。妻にはあまり期待できないので、依存する気持ちはほとんどない状態。ほどほどってやつかな?
今、たどり着いた先にいると思うんだけど、元々、中心志向も攻撃性もないため、限りなくのび太に近い感じかな?妻への対応法も分かった今、ここに書き込んでいるのは、自己満足を満たすための純粋な興味以外にないと思う。
元暴君型としては(いや、今もそういう傾向はあるかもしれませんが)
みさんの発想がよくわかるので、なんとも言えぬ悲しい(切ない?)気分になりました。
「どちらが間違っていて、どちらが正しいか」
という対比が、異常なほどに重かった自分を思い出します。
なぜ正誤にこだわるのか、それは、正しければ「我慢しなくて良い」からです。
だからね、子供の頃から、僕には、論理が友達のようなものだったのです。
論理的に掘り下げ、自分が正しいことを証明できれば、それで物事が通ると「思って」いたのですから、大事な大事な生活ツールでもありました。
正しいのに通らないのなら、それは相手がおかしいことになる。
相手がおかしいのなら、自分は好きに振舞っていい。だって相手が悪いのですから。
そしてぐちゃぐちゃと長ったらしい論理を繰り出し、相手が理解できないのを「いいことに」勝ったつもりにばかりなっていました。(僕は自分が勝った「つもり」になっていることにすら気付いていなかった!)
勝ち負けって、なんでしょうね
正しい、間違っているって、なんでしょうね
そこに「絶対的ななにか」があるとしたら、なんなのでしょうね。
悲しいことに、僕らはふわふわした仮説の上にしか、存在していないのではないでしょうか。
掘り下げても掘り下げても、主観しかでてこない。
客観的ななにかなんてどこにあるのでしょうか。
「強固で絶対的ななにか」
それを信じる必要性って、なんでしょうね。
道産娘さんは鋭いですね。
私もあれで説得できなかったのは少し想定外でした。
>根本的な解決方法は、本人が「自分の問題を自覚する」しかないと考えてます
これは、その通りだと私も思います。
ただ、
>彼女を納得させるためにm2さんや他の方々にできることと言えば
力づくで納得させるしかないと思いますよ。
もう、論理的にこてんぱんに打ち負かせるようにスタイルを変えてます。
最後の質問をしてから、みさんのコメントが無いので、回答に悩んでいるのだと思います。
まあ、悩むような質問をしているので、当然なのですが。
なつもかさん
ASが「ほどほど」を身に着けたところでなれるのは企業戦士だと思います。(公務員含)
「ほどほど」を「ほどほど」にしないと、東京電力になってしまいます。誰も責任を取らない無責任組織の誕生です。
私も企業勤めである以上、適当に「ほどほど」してます。
でも、嫌ですね。絶対嫌。後何年かの我慢だろうけど。
YANBARU先生、後は、私の現実のお医者様と一緒に考えていこうと思っています。
一日一日が流動し、その中で、工夫したり養生したりして行くんです。
先生が、全国の発達障害者のため、そして世の中の理解のために先陣をきって書いてくださっている魂に、私は絶句いたします。どうか心身にお気をつけてください。
私は私に会いに行きます。この現実で、長い時間をかけて、少しずつ。体験と行動、という形で、これからは私を確かめていけそうです。
先生をはじめ、私を取り戻す瞬間に遭遇した皆様、お騒がせしてすみませんでした。私の人生の場面場面が、高速スライドショーのようにフラッシュ的に現れては流れて行き、再構築がなされたようです。まるで暴れ馬に乗っているようでしたので、コメントが返せず、一貫性も論理性もない私の発言に惑ってしまった人もいると思います。すみませんでした。
そして、私の人生に一度、やって来るかもしれない貴重な機会を尊重してくださって、本当にありがとうございました。
道産娘さん、ホックさんへ
お二人ともとてもいい落としどころを習得されているなと思いました!
いろんな気持ちを抱える羽目になったとは思うんですが、発達障害を持ちながら生活して行くための姿勢を影ながら一緒に考えさせていただきました。ありがとうございます。おつかれさまでした。
考えてくださったみなさまへ
私が投げかけた言葉ををキャッチして、この場に投げ返していただけてとても嬉しいです。なんだか感激してしまいました(T▽T)
みなさんが前進する力を少しずつ分けてもらった気分です。本当にありがとうございました。
>ASの行き着く先
終着点の一つが、他人と無関係な「自己」の完成かと。
私の場合、それ以来大きな変化がない。
正しさを求めるのは、揺るがぬ自分を得たいから、ではないだろうか。
リクエストもあるので、少々自分語り。
私が完成したのは14のとき。
・死と破壊、つまりは「終焉」が普遍であり不変であるという認識。
・量子力学で触れた「観測」とは何か、という命題。
経路は省略する(というか覚えてない)が、この2つより最終的に、
・自分の存在を否定することは不可能である
という結論を得た。最終的に、高校で習ったコギト・エルゴ・スムという思想で「我在」まで圧縮されることになったが、基本的にこの自分の存在というのは、今でも揺るがぬ柱であり、おそらく死ぬまで変わらないだろう。
余談。自分が他のASの方と大分違うな、と思った点について。
>計画や予定に関して
私は何か変更があっても「情報が更新された」と認識するだけ。……まあ、実際に対応できるか、となると如何せんマイペース過ぎて(苦笑)
>主張がぶつかったときについて
まずは、論理立てて考えるべきものか、感情や感覚で判断すべきものか考える。
前者の場合、理系の方なら最終的にこの形式に落ち着くのだろうけど
・相手が自分より多くの情報を持っている。
・自分の知識が古い。
・使っている言葉の意味や定義が異なる。
この3つを最初に疑い、互いに確認を行うようにする。お互い論理立てて考えてるならこれで結論が出る。
後者の場合それを伝えて「この議論は不毛だから止めないか?」と提案する。とは言え、人数以下の個数にしなければならない場合が多い、というか、議論になってる時点で絞らなければならないので、まあ、こっから先は記事にある「優先順位」の問題になる。
と、敬語じゃなくなってますね。不快になられた方がいたら失礼しました。
そろそろ記事に沿った内容をコメントしなきゃいけませんね。
今回の件についての内容は、これで最後にします。
先生、皆さん、引っ掻き回して申し訳ありませんでした。
なつもかさん
みさんを説得しようとしてた時、とても「柔軟」な対応をしておられたのが印象的でした。
対立する二者の間に立って調整するのがお上手なんですね(^-^)
見習いたいけど…多分無理だなぁ(汗)
私もなつもかさんを始め、皆さんのコメントを拝見して「自分だけじゃないんだな」と励まされてます。
多数派の価値観に振り回されぬよう、お互い自信(自分)を持って生きて参りましょう!
ちなみに自己突っ込みについて。
m2さんの「道産娘さんが暴君型で何が悪いんだ?依存したって良いじゃないか。」というみさんへの発言。
(m2さんは受動型なので、自己突っ込みは必要ありませんが)私はとても抵抗があります。
同じ台詞を私が言おうものなら「じゃあ何でお前(私)はこのブログ読んでるんだ?」という突っ込みが入るので言えないですね。
何かストッパーやブレーキのようなものが働いて、口にしたり行動に移すことができないのかなと考えてます。(多分あってると思いますが…)
m2さん
2013.03.30 14:54
↑このみさんの書き込みを再度読んで下さい。
先生からみさんへのメッセージが追加されています。
みさんはもうここには現れませんよ。
悠々とさん
本当は真っ先に悠々とさんへ謝らなければならないと思っていました。
他のトピで悠々とさんに質問した「無視」について、はからずもみさんに発揮する事になりました。すみません。
(あれが私なりの無視です。返事はするけど答えない)
どうやら私はASらしいのですが、悠々とさんの書き込みが、何故か一番自分の体験に近いのです。
私も小さい頃から理屈っぽく、20代最初までは、論破できれば自分が正しい=好きなように振舞ってよいと思っていました。
でも、周囲が大人になるにつれ、そういう態度は許されなくなり、また、理論でやり返される事も増えました。
最終的に「人間は正誤で動くのではなく、好き嫌いで動くのだ」という事実(多分多数派の?)に出会い、衝撃を受けました。
道産娘さん
「じゃあ何でお前(私)はこのブログ読んでるんだ?」
これが自己ツッコミなんですね。
こういう自問自答をしている人に、ASはいとも簡単に「承認」のハンコを押してしまうのでしょうね(苦笑)
「好きで読んでるんだからいいじゃん!」
嶺往無識さんのお話は引き続き楽しく興味深いです!
もし良かったら現在また今後の興味関心事について教えていただけませんか?
私は興味は茫漠と広がってしまって考えているうちに一日終わってしまうんですが。それが趣味なのかなとも思うんですが。
興味関心事の選択は、優先順位の基準は何ですか?
あっ秘密だったら結構ですよ
では嶺往無識さん言語については?母語は最初に出会う他者ではないのだろうか?私にはそう思えてならんのですが。。。
質問ばかりですみません
ぬまおさんへ
ぬまおさんもお嫁さんも大変な思いをされましたね。今は状態が落ち着いているということ、お聞きできてよかったです。
キャパシティを超えてしまった時の行動は、発達障害とはまた別のものとしてどうにもできなかったのでしょうね。自分の内なる想いを認識するのが下手な人は身体や心を休めるのを怠りがちです。ぬまおさんが気付いて教えてあげる事ができてよかったと思います。
お話を聞いていると時期によって行動も変わっているようですし、現状でこのタイプだ!と思うのは難しそうです。落ち着いてご本人の中で自覚が芽生えるといいですね。
あと、ぬまおさんがのび太的になっているという話と関連して…私の行動を支える軸ってなんなのかな?って思っていました。そうしたら、興味や関心だなと気づきました(*^^*)近づいていますね!笑
嶺往無識さんへ
やはり全く逆の視点から、かなり近い認識に至っていて非常に興味深いです!
私のターニングポイントは他者を見つけた時でした。全てがうすぼんやりとしたのび太の世界から、他者を見つける事で初めて世界の枠が少し見えました。
でもADHDはできた先からこぼれて行くので完成する事はなさそうです…。
論理は感情に勝てないと、私も思います。
困った事に「だって嫌なんだもん」は最強です…!
さて、ぼつぼつ返信。の前に悠々とさんの書き込みで気になった点が2点。
>正誤
根本的に勘違いしてる人が多いのですが、正誤と言うのは数式化できない限り「感情」か「損益」のどちらかです。勝ち負けで考えるのは、それが感情論であることを認識できていないのが原因です。
>主観と客観
完全な「客観」というものが実際には存在しないことが量子力学によって証明されています。これを追い求めるのはただの徒労です。
>興味関心
やはり一番は認識の拡大です。そのための討論ほど楽しいことはありません。
逆に相手を言い負かすことしか考えてない手合いは一番嫌いな人間です。
>母語
言葉はツールです。そこに自我がない。
>論理は感情に勝てない。
感情など実際の現象の対処には何の役にも立ちません。
土壇場で役に立つのは天地を読む理、科学だけです。
m2さん、僭越ながら少しだけ。
俺はm2さんの↑コメント(道産娘さん、ごめん、いただいちゃいました)を読んだとき、リスクがあると感じていました。コメントを入れようかとも思ったのですが、すでにみさんからのコメントが掲載承認待ちで入っているだろうと予想し、控えました。結果、予想は的中し危惧が現実のものとなっていました。
m2さんのとった手法は十分に分かるものですし、たいていは通用するものだと思います。ただ、公開された掲示板ではリスクが小さくないものでもあります。
説得する(ないしなだめる)相手を全面的に承認しつつ、対立するもう一方を低めて言う場合、熱くなっている相手はそれに同調し、場合により対立するもう一方をけなしにかかります。同調や「けなし」でその人が冷静になるため、火消しになるのですよね。
公開された掲示板でこれをおこなうと、説得する相手のおこなうだろう「けなし」も公開されてしまいます。俺はこれをおそれていました。
熱くなっている場合、「けなし」はなかなか止められないものです。だから、「けなし」を誘発しない手法がよかったのではないか。俺はそう思っています。m2さんに責任があるとは思っていません。むしろ、新たな手法を編み出す好機なのかもしれません。
(余談。道産娘さんが嫌な気持ちになるだろうなぁ、というおそれもありました。道産娘さんなら理解してくれるだろう、とm2さん少し甘えちゃってたでしょ。)
出遅れですが「ほどほど」について。
俺は「ほどほど」を身に付けることで、前向きに「世の中ってだいだいこんなもの」が分かり、まんまるく生きられるだろうな、と思っています。
ああ、ROMに戻ろうと思いつつこの体たらく。デクレシェンドでいきます…。
>なつもかさん
自分はのび太かもしれないとも思ったんだけど、自己突っ込みができないんだよね。自己突っ込みがないと、のび太とは言えないので、やっぱり受動型なんだろうなー。
自己突っ込みというのは、自分の行動を客観視した上での自問自答形式での反省・自制のことだろうとは、何となく想像できるんだけど、いざ、まねしてみようと思ってもできない。やり方がよく分からないこともあるけど、自分に対して問いかける、という行為をしようとすると、はじめから答えが出ているような質問しか思い浮かばない。想像力の限界なのかな?自分の場合、質問を考えた時点で答えが出ているので、自問自答の形式が成り立たない感じ。
ADHDの自己突っ込みに似たようなものとして、あえて挙げるとすると、自分の場合は「問題認識」であって、認識した問題が解決するまで延々と考え続けることになります。だから、問題解決能力が高まるほど悩むことも少なくなると思う。自分のようなタイプには共通していると思うけど、コミュニケーションについては永遠の課題で、一生考え続けていくことになりそうです。常に考え続けているからこそ、特に人と活発な交流がなくても空気が読めるようになるのかもしれないです。空気が読めるようになることで、自制が働くようになるんだと思います。
ホックさん
ちなみに、「焚き付けてる」とは思ってませんでしたよ(^-^)
多分ホックさんは受動型ですよね?
他の受動型の方々もそうですが、「上手に空気を読んで、加減しながら言葉を発してるな」と思ってました。
私が無視をした理由の中に「無視します!という言葉以外は発しません。ですからもう諦めて下さい。」という非言語的な意味もあったかも…
私の自己突っ込みは中心志向由来の「やるからには徹底的に」という高過ぎる突っ込みだったかもしれませんねぇ(苦笑)
冷静に言い返すのが合理的な対処法かもしれませんが、正直に「あなたがそれを言いますか?」と突っ込んだら、余計こじれるでしょうし…難しい。
Fさん
>「無理だったら『やっぱり無理でした』って言いに行けばいいですよ〜」という彼女の話を聞き、
『未来永劫、続けなければならないわけではない』
と思うことにしました。
良い考え方ですね。
完璧にこなすことが「100」で、何もしないのが「ゼロ」
(愛着への依存もそうですが)とりあえずやってみないことには「60%」の感覚も掴めないですよね。
きついなと感じた時に、他の人に頼るようにすると良いかもしれませんね。
嶺往無識さんありがとうございます。お話明快ですね。損益に感情が乗ってる正誤の主張とかよくあるような。。個人的には痛み分けでいいだろうと思ってる。その割合で争うのだと。客観が存在しない証明があってよかったです。
一番は認識の拡大ですか!それはとってもいいですね~。それしかないかも。そして討論が楽しいと。。討論出来たら楽しそうです。私は意識的にも無意識的にも入力命なので。。。
言葉はツールなんですね。自我がないものは他者ではない。そうでしょうね。。。
私の感じる他者は想像の域を出ないので拡大解釈しているのです。私は一番近い他者は死者の記憶だと思っていて、(それを他者だとすればですが)それは自分の脳の、記憶の中にあるからかも。接触は終わっていて考えやすいだけかも。私は実際に他者と接触はしているが、生きてると判断不能と思うなどあります。
ホックさん
僕は受動型AS父と受動型AS祖母の緩やかな支配下で育ちましたから、その影響は強いと思います。
子供の頃、二人は絶対的な存在でした。
(のびた母は愛してはいるものの、ずいぶん軽んじていたように思います。)
「理屈が正しければ(そうすることが当たり前である、ということがわかれば)そうするのが正しい」
というスタイルは受動型ASの行動を真似たものなのかもしれません。
僕の場合は、猫相手に「僕の考える当たり前」を押し付けてみて、衝撃的に世界理解をしました。
今考えるとただの馬鹿ですけどね(´・ω・`)
僕から見ると、「二人が喧嘩している」ところへどちらかに肩入れした第三者が入っていくこと自体がちょっと不快でした。
僕はこの、第三者の「肩入れ」に過剰反応するようなところがあります。
例え自分が味方されたとしても「第三者は黙ってろ!」と思ってしまう。
(ちなみに責めているわけでは、ないですよ。これもまた、僕が勝手に抱いた感情です。どうしてもそう思ってしまう。ごめんなさい)
考えてみると、そういう観点で見て、m2さんの介入の仕方には公平性を感じたので、好感を抱きました。
(ただ、「~という立場であるから~しよう」という論法は、たぶん通らないだろうなぁ、とは思いました。みさんは、「絶対的に見た場合の」正当性はなにか、を考えていたのだと思います。どこにもないんですけどね、そんなもの)
嶺往無識さん
正誤について、同意します。
僕もそのとおりだと思う。
善悪、正誤、潔い、卑怯
これらは主観的意見を「共有物として」修飾したものだと思います。
(過去の経験を含め)他者の肯定否定がその根拠として存在するだけの、他者依存的な概念なのだと思います。
主観客観について
客観とはなにか、と言うお話になりますね
多数意見、ということになれば客観=普通はどうか、であり、立場によって変化するものになってしまう。
絶対的な、例えば神様の見たものだとして、神様は絶対的であると「確信」するのは自分であり、それはやはり主観に落とし込まれてしまう。
僕は、論理整合と仮説だけで世界を見ることにしました。
なにもない世界に、論理整合の塊と、無と論理整合をつなぐ仮説がある。
そんな世界観。
たしかなものなんてなにもない!と思ってから、とても自由で気楽になりました。(それもまた仮説ですけれどね。笑)
悠々とさん
>僕から見ると、「二人が喧嘩している」ところへどちらかに肩入れした第三者が入っていくこと自体がちょっと不快でした。
僕はこの、第三者の「肩入れ」に過剰反応するようなところがあります。
例え自分が味方されたとしても「第三者は黙ってろ!」と思ってしまう。
不快な思いをさせてすみませんでした。今後気をつけますね。
悠々とさん
すみません、送信してしまいました。
私は「自分は最初からそこにいた当事者」という認識でした。
第三者は黙ってろ!は、ジャイアン諸氏の共通概念のように思います。
今回の事でも、険悪になった途端、ADHDの方々はスッと居なくなったように感じました。(ASさん達は逆に集まってきたような・・・私もその一人かな)私はそれを「えっ?知らんふりしちゃうの!?」と思ってました(笑)
道産娘さん
>「あなたがそれを言いますか?」
私もずっとそう思っていましたよ。
言ってる事が間違っているわけではないけど、設定が間違ってる、と感じてました。
(私の考えてる神は様付けではなく
「どうしたらいいんだ!」という時に「どっちでもええよ!」と教えてくれる何かです・・・
頼れはしません・・・
一回分ったのでもういないかもしれません・・)
(上記はただの説明です)(はい神は死んだ)
>みさん
みさんは人の話に乗っかってしまったからいけなかったと私は思ってます。
昨日は自己突っ込みについて考えていたんだけど、自分にとって自己突っ込みに似たようなものは「失敗体験」だなと思いました。失敗体験や人に怒られた時の記憶は、どれも鮮明に覚えていて、頭の中で似たような場面に出会うと思い出して、なんかをやろうとした時、やっぱりやめようとか思うこともあります。
その時に自分が感じた何とも言えない嫌な気持ちまでリアルに再現されます。別にその場面ではなくても、思い出そうと思えばいつでも思い出せるのでフラッシュバックではないと思うんだけど、思い出しただけで嫌な気持ちまで再現されます。問題認識なんかではなく、それが自己突っ込みに相当する自制に当たると思いました。
皆さんに前から聞いてみたいと思っていたのは、失敗体験の記憶というのは鮮明に覚えていて、その時の気分や情景までを含めた全てを克明に再現できるようなものなんでしょうか?
zzzさん、m2さん
あっ、大丈夫ですよ♪
以前「参加者のみなさんへお願い」の記事でも、m2さんがみさんのことを説得されてましたので、きっと今回もそうだろうなと思ってました。(ちなみに、依存型ジャイアンと思われる人達の攻撃は感じていましたが、一応「何を偉そうなことを!」という自分への突っ込みが入ったので、言い返さずスルーしました。)
ただ、m2さんが「(ADHDの)依存を肯定する発言↑」をされてたので、退場命令が出るのでは?とヒヤヒヤしたのも事実です…気を付けた方が良いですよ(^_^;)
(私の想像ですが)おそらく「道産娘が暴君だって、ASに依存したって良いじゃないか?」と言ったところで、みさんは「先生はADHDは依存は駄目だと言っておられます…」等と言い返して、結局同じことの繰り返しになるだけじゃないかなぁ(苦笑)
おそらくASさん(と多数派)は、短期間で同じ失敗を何度も繰り返して周囲の信頼を失う、または愛想を尽かされる…等まずあり得ないですよね。
ADHDはそれが分からないんですよね。
だから周囲に迷惑をかけないためにも「合理的な自己突っ込み」や「責任の認識」等が必要なのかなと思います。
>ぬまおさん
失敗体験の記憶は一瞬一場面がすっとよぎるだけです(笑)
全てを克明になどは思い出せないです。何が起きていたか(何が失敗だったか)は後で考えないと分からないのです。
>皆さんに前から聞いてみたいと思っていたのは、失敗体験の記憶というのは鮮明に覚えていて、その時の気分や情景までを含めた全てを克明に再現できるようなものなんでしょうか?
覚えてます。
その事件が起きたときの状況、こちらが何と言ったら相手がどう言ったか、そのとき相手の態度やその発言に感じた矛盾、それに対しどう考えてどう反応したか。
記憶のすり替えが起こったりしてないかが、少し不安ですが・・・
相手が何故そういう行動を取ったかという動機や感情的な部分までは、リアルタイムではなかなかわかりません。
事件は自分の中であとあとまで引っかかっていて、ずっと考え続けてようやく、はっと思い当たります。(考え続けても意味がわからないときもあります)
気分が落ち込んでいるときに、失敗(うまく行かなかったこと)を思い出してまた憂鬱になり、その鬱々とした気分がさらに増幅していきます。
私も、フラッシュバックはないです。
予定変更でパニックもないです。
仕事をしているときに、怒鳴られたり物を投げつけられたりということがたまにありますが、これも「意味がわからない」と対処に戸惑うだけです。
「怖い」と言える人や取り乱せる人がうらやましいです。
ところで、今更なのですが・・・
>ただ、m2さんが「(ADHDの)依存を肯定する発言↑」をされてたので、退場命令が出るのでは?とヒヤヒヤしたのも事実です…気を付けた方が良いですよ(^_^;)
肯定・・・確かに肯定してるのですけど、私は全然違う意味に読んでました。
みさんが道産娘さんにとやかく言うことについて、「余計なお世話じゃないの?(あなたの言う「尊厳」はどこへ行ったの?)」と言う意味で「依存したっていいじゃないか」と突っ込んだのかと思ってました。
同じ発言でも読み取り方が全然違いますね・・・。
道産娘さん
退場命令ねぇ、前一度出ましたよ。
あの時と違うのは、道産娘さんがいること。
具体的にイメージがつかめるかどうか、は重要なんですよ。
>先生はADHDは依存は駄目だと言っておられます
と言って来るだろうと思ってました。
そうしたら、偏屈者宣言から、「周囲に迷惑をかける結果になる」ことを避けるのが、一番必要なこと、と返す予定でした。
依存することは悪いわけではなく、依存した結果、周囲に迷惑をかけることが駄目と言っているわけです。
別スレでPaulさんも言っていますが、依存すること自体は決して悪いことでは無いんです。
その結果、依存した相手や、共依存の結果周囲に迷惑をかけなければいいんです。
ジャイアンが依存を嫌うのはわかります。
我々から見ると、ジャイアンは努力すれば自分で何でもできてしまう、それは長所であり、欠点でもあります。
自分の経験からも、一人で全部こなしてしまうのが一番楽なんです。
ジャイアンは能力に恵まれていますが、時間は誰にでも平等です。
何でもできるジャイアンでも、一人で全部やることに固執していては、欠けている能力があっても他人と助け合うことができる受動型ASには絶対に勝てないんです。
どうしても時間が足りなくなっちゃうんです。
我々だって一人で全部できるなら、そうしたいですよ。
でも、どうしても足りない能力があるからできない。
その結果、助けを求めることになり、その結果、他人と協力できるだけなんです。
「依存」は他人と共存するための、第一歩となる重要な経験なんです。
今回、道産娘さんをどう守るか? を一番重要な点として考えていました。
なつもかさんがいうように、ADHDは全部取り込んでしまうのですよね。
ASなら、みさんの発言なんてばかばかしいから捨てる、ということは可能です。でも、ADHDは自分宛の発言を何があろうと捨てられないのですよね。
皆さん、みさんの発言を止めようと必死でしたが、私は違います。
いかに、道産娘さんを肯定するか、を考えていました。
みさんに否定されても、より大きな肯定で上書きする、それでしかADHDの人を守ることはできないと思ってます。
最終的に多くの人から、肯定していただいたから、道産娘さんは平常心を保てたのだと思います。
一方、みさんについてですが、たぶん他の人とは全く違う見方をしています。
みさんの暴走は、単に誰かに自分を止めて欲しかっただけ、そう思ってます。だから、先生にあの形で止められて良かったのだと。
みさんはご自身で「(道産娘さんのように)ADHDらしい失敗をすると、親に叱られた」と語っています。
みさんは、最初から道産娘さんの方が正しいのはわかっていたはずです。そうでなければ、あの議論の最中に自分の子供の頃の話をする必要はありませんから。
道産娘さんの行動を見ていると、親に怒られた気持ちがよみがえってくる、だから嫌だったのだと思います。
たぶん、ADHDの特性を考えると、親に叱られた経験よりも大きな経験で上書きする以外、改善しないのだろうと思います。
で、そのために敢えてあのような行動を取ったのだろうと考えています。
あそこまで派手にやって、先生に止められた。
この辛い経験で、親に叱られた時の記憶が上書きされてくれると良いなあ、と思います。
ぬまおさんへ
答えが出ているというのはいい言葉ですね。
同じ意味ではないけれど、私も答えは出ているのだと思います。私達がどう受け止め、どう行動するかだけで。答えの周りでどう心地よく過ごすかそれぞれ考えているんでしょうね。
私達の優先したい軸は、シンプルな答えを曲げて認識させるようです。だいたいの人は自分の認識法を正しいと感じます。それは、幸も不幸も生みます。
私の認識方法では世の中の全てはそれぞれ自分です。錯覚だらけだけど、私はこの世界を気に入っています。
ちなみにぬまおさんの「答えが出ている」をADHD的に翻訳すると、「知っている事しかわからない」かなあ。
…自己ツッコミについて
自分の外側の起こりえるリスクを想定する事に近いです。問題意識はかなりいい線ですね!
あまりにも率直に考えるため思考や行動ががんじがらめになります。これが「ほどほどに」できないために、まだ起こっていない事にASさんの「失敗体験」のようなものを感じます。実際は考えるというより自然に自分を否定する声が聞こえる感じです。(本当に聞こえたら別の病気)
常駐型のウイルスチェックまたは口うるさいオカンだと思って下さい。
過去の事も突っ込むんでしょうけど、起こる前の方が本来の自己ツッコミぽい気がします。のび太だからかな(忘れちゃうしな)。自己ツッコミを超える衝動なんてないし、突っ込んでないじゃんそれってなります(^_^;)はは。
…体験の記憶について
私はいい事も悪い事も忘れます。(ヒントがあれば思い出せます。)
一度おそらくASさんに痛い事や怖い事をいつまでも忘れないと言われて、驚きましたし想像してとても怖かったです。
覚えていられないことも恐ろしいです。物事を信じる基盤を失ったような感覚で、今ある記憶を疑い、自分の始まりがわからなくなります。
私は当初若年性のアルツハイマーを疑っていました。記憶も興味も跳ぶので習慣を身に付けるのが難しく、年齢を重ねるごとに周りと差が開くのを痛感します。
少し訂正します。
↑の「合理的な自己突っ込み(もしくは合理的思考)」や「責任の認識」の話ですが、この言い方は厳し過ぎますね。(偉そうなことを言って、自分がそこまで完璧にできるとは思えないし…また中心志向の考えだな)
自分も他人に迷惑をかける存在に変わりないですが、「責任」を認識し「合理的に考え続けること」で、多数派やASとの共存が可能なんだなと考えてます。
Fさん
そうですね、「大きなお世話ですよ!」って意味でしょうね。
ただ、ああ言った発言からヒートアップして収拾がつかなくなると、どちらが「退場」と言われてもおかしくないよなぁ…と思ったので(^_^;)
今回はみさんだけが退場という結果になりましたが。
m2さん
ちょっとつっこんで話してみようかな。
m2さんの言う「依存」とは、「助け合い」という意味に近いかなって気がしますね。
「助け合い」の中にはADHDの「利用」も含まれてると思います。
「利用」はADHDにとって健康的な考え方です。
「依存」がADHDにとって良くないのは、相手の考え方に依存して自分自身を抑え込むうちに、自己評価が下がったり身体症状が現れることがあるからだと思います。
(続きです)
要するに、自分の頭で考えず、精神的に相手に依存することが良くないということですね。
なのでADHDが相手に「依存」していない状態で、例えば家事や仕事の分担等の頼み事をして、お互いに「利用」し合うのは問題ないと思います。
ただ、ジャイアンだと共依存になりやすく、周囲に当たり散らしたり、自己評価が下がって病気になる等のリスクが大きいのでしょう。
>何でもできるジャイアンでも、一人で全部やることに固執していては、欠けている能力があっても他人と助け合うことができる受動型ASには絶対に勝てないんです。
これはうっかりすると「単独プレー」に走りやすい「中心志向型ジャイアン」の私にはありがたい言葉です。
できないくせに全部自分で完璧にやろうとし、かといってフォローされると落ち込むし…本当面倒臭い性格ですねぇ。(ちなみに、今でも「利用」には抵抗があります)
そういえば、以前どこかのエントリーでみさんが私のことを「(KYの部分が)母親に似ていて腹が立つ」と、皮肉ってたような…
m2さんの言うこと、間違ってないかもしれませんね。
私は一緒に問題を明確にしてから(ホックさんのいうずれ、m2さんの言う迷惑のあたりと同じつもり)、もともと先生が止めない内はオッケー的な書き込みがあったので…そこに丸投げしちゃダメじゃない?ってとこに持って行きたかったんですよね。
今の状態が苦しいと思うのか疑問です。止められるまでやって止められただけですもの。なんでかなとは思うでしょうけど。反撃できないのは苦しいかな。
ADHDの話が跳ぶのは、深い意味が無いこと多いですよ。私には、自分の経緯を説明して説得の材料にしているだけのように見えました。
どちらかというとm2さんの「道産娘さんの方が正しい」の方が衝撃なんじゃないかなぁ。「正しい」は特別なので。
@@@@@@
憶測で他人の事を話すのは自己ツッコミの地雷ですね。「お前に何がわかる!」「偉そうに!」「そんなに自分の意図を誇示しないではいられないのか!」「最近調子に乗ってないか」発動中です。
あーうるさいうるさい。
何度もすみません。どうしても伝えたい事がもう一つ。
ADHDはいなくなってASが集まってきた…というお話と関連して。
ASさんたちは、ADHDがしたくてもできないところで肯定をくれます。これはすごく、ありがたいことです。コメントでも何度か出てきましたよね。救われます。
ADHD同志では肯定できないことがあるんです。こういう時おそらく、黙ります。嘘は言えないから。私はホックさんやm2さんの様にどちらかを肯定することはできそうにありません。
(今ならわかります。私が壊れる時は、嘘をつく時です。)
すごいです。ほんと。
>みさん
人の話に乗っかってしまったと書いたのは、みさんは他者の不利益と見て、誤りを正すという大義名分を見つけてそれに自分の感情を乗っけて木に登ってしまったのではないかということです。それで合理的自己突っ込みが機能しなかったのではないか。
しかし当人達が合理的突っ込みと反省でもう終わらせた話だったんですよ。このブログでそんなに闘わなくたっていいんです。殆ど困っている人しか来ていないんですから。
自分のエゴでなければ合理的自己突っ込みは機能しないです。だから人の話に乗っかってはダメなんだよ。当人達を利益を守るどころか人質か生贄みたいにしてしまう。
利用しただけだろうか?だがそうでないとしたら、みさん、ありがとうね。
以前調べものしてる時「観測」においての客観の不在を何かで読んだことがあったのを思い出しました。
主観を取り去ろうとすれば何の判断も出来なくなると。現実の生活では判断し続けなければならないが、無関心でなくどっちでもいいというのは不在のはずの客観に似ている。
判断をしないどっちでもいいというただ見ている目という視点が自分の主観の中に持てることは癒し。嶺往さんが私もゲームのキャラクターと同じというのは嬉しくて泣きたいくらいの癒し。
↑困った人→困っている人です
癒し~
JETさん
>失敗体験の記憶は一瞬一場面がすっとよぎるだけです(笑)
お答え、ありがとうございます。人によって違うもんなんですね。知らなかった。その後、色々と思い出してみたんだけど、今となっては大したことないじゃん、って感じる失敗体験に嫌な思いは感じないことが分かりました。
インターネットでの対人関係の失敗もたくさんあったけど、映像がないのでほとんど覚えてないです。どうも、現実社会で実際に体験した失敗でないと、失敗体験としては認識されにくいようです。
Fさん
>気分が落ち込んでいるときに、失敗(うまく行かなかったこと)を思い出してまた憂鬱になり、その鬱々とした気分がさらに増幅していきます。
AC時代には自分も同じことをやってました。失敗体験の記憶は自分と同じみたいですね。
受動型と孤立型は見た目も行動も似ているけど、妻は「孤独と言う言葉は知っているけど、孤独感は感じたことがない。そこら中に人がいっぱいいるのに、孤独感を感じる人なんているの?」と言っていました。あと、聴覚過敏で子どもの泣き声に耐えられないそうです。妻も、実家がたまに子どもを預かるとか、早めに保育園に預けるとかすれば、大変なことにはならなかったんだと思うんだけど。
自分の場合は友達がいないとか、しばらく会わないとかで孤独感や寂しさを感じます。ウザイほど人が好きみたいで、小さいころは親とかの愛着には迷惑をかけていたと思います。そこらへんはあまり覚えてないです。失敗だったと感じてなかったのかな?孤独感を感じたことがあるのが受動型で、ないのが孤立型だと思うんですけど、Fさんはどうですか?
なつもかさん
自己突っ込みの説明と分かりやすい例示、ありがとうございました。ようやく自分なりに理解できたところです。自分には自己突っ込みはないけど、「受動突っ込み」がコミュニケーションの場面では必ず入ることに気付きました。
それは、どういうものかというと「これを言ったら、この人はこう思うだろうから言うのをやめよう」「相手に誤解されるおそれがあるので言い方を変えよう」「自分がこんなことをしたら、皆、どん引きかな?」などで、あくまで経験を基に自分の立場から相手の考えを想像した上で、頭の中にそのような考えが自動的に浮かんできます。もしかして積極奇異型には、この受動突っ込みがないから問題行動に発展するのかな?
だけど、ADHDのような「自己突っ込み」が入ったことは一度もないです。あくまで相手があってこそ成り立つ受動的な突っ込みがあるだけです。初対面の人に対しては受動突っ込みが際限なく入ってくるので、ある程度雰囲気で相手を絞り込まないと、会話がワンテンポ遅れたり、頭がフリーズする場面も増えてきます。初対面でも一対一なら当たり障りのない会話で相手を探ることができます。全員知り合いでも何人かを同時に相手にする時は、その場の空気が読めるまで何を話せばいいか分からずに頭がフリーズすることも多いです。
つづき
相手の返答、受け止め方をある程度想定して投げ掛けるコミュニケーション法となるため、まずは相手の出方を待つ受動的な会話になるのかもしれません。悪く言えば、相手の発言を自分が求めているものにコントロールしているとも言えます。悪気はないんですよ(^^;)。
自分と同じ受動型の人が相手の反応を読み間違えている、または自分とは考え方が違うため、「相手の気分を害する」と感じられる発言をしている場面を見た時、「相手の考えを読み切れてないんじゃないの」=「受動突っ込みが止まっている」と感じ、「そのやり方はまずいだろう」と指摘することになります。
なつもかさんが皆に気を使いながら文章を書いているということを以前コメントしていましたが、もしかして自分と同じような受動突っ込みも入っているということですか?自己突っ込みと受動突っ込みの両方が入るとなると、頭の中が突っ込みだらけになって、思考や行動が自制されずぎて大変なことになっているんじゃないかと想像できます。
ADHDの人には自己突っ込み以外にも、相手の反応を自分なりに考えた上で発言を自制するような、相手がいることで成り立つ「受動突っ込み」が入ることもあるんですか?
うわぁ・・・JETさんのコメントで目から鱗が!!
だから、「ADHDの方はスッと居なくなった」のですね。
他人の話に乗っからないように、なんですね。
私は自分の意見をうまく文章にするのが苦手なので、毎度、書き込みの前にモタモタします。そのうち誰かの発言に「それだ!」と思って「同意です」となります。
(きっとこれが肩入れしたとか、片方だけ肯定とか、そう見えるんだろうなと思いつつ・・・)
色々書きたいこと、お返事したいことがあったのですが、霧散しましたわ・・・
ホックさん
>「えっ?知らんふりしちゃうの!?」
これ、僕からすると、結構びっくりするような捉え方です。
ASさんたちは「介入しない方が失礼だ」というような捉え方をするのでしょうか?
僕の場合、喧嘩や議論などは「決闘」に近いのかもしれないな、と思いました。
「神聖なる戦いを汚してはならない!」
というような感覚に近いのかもしれません。
互いにフェアな条件で「正しいこと」を探り合うのがベストである。そんなイメージ
なので、「端から見ると、今はこう見えるね」などの発言には好感をもったりしますね。(例えそれが相手優位な発言であっても、です)
m2さんのように「あれは方便でした」と言われると、「なんだ嘘なのか。」とがっかりしますけれど。
これは恐らく、フェアネスに敬意を感じるってことなんだと思います。
(フェアネスがないのが受動型ASの「文化」だとするなら、それはそれとして受け入れますけれど。)
m2さん
>なんでもできるジャイアン
これは不思議な発言に思います。
この不全感まみれの人間たちに、「なんでもできる」なんてとんでもないと僕は思ってしまう。
受動型のひとたちのお話を聞いていると
「自分達は弱者である」とか
「自分達は攻撃性のない人間である」
「ASは心情に配慮する」などの言説がたびたびでてきます。
僕はここに、侮辱を感じてしまう。
なぜならその言葉は裏返せば
「あなた方は強者であるのに甘えている」
「あなた方には攻撃性がある」(特に攻撃欲、というもので説明したぬまおさんの発言は、あからさまに差別的でした。ジャイアンが快楽攻撃者だと言うのですから。)
「あなた方は配慮をしていない」
ということになってしまうのですもの。
その言葉に、攻撃性が、ないと言うのですか!
どこが配慮した発言なのですか!と僕は思ってしまう。
悪意のないのは知っていますよ。
でも悪意がなければ差別したって良いというのでしょうか。
受動型のひとたちがみなそうだ、とは言いません。
でもあまりにもひどい言葉が多いと感じます。
きっとASのひとたちから見たジャイアンの言葉も、同じなんでしょう。
とすれば「文化が違う」だけなのではないのですか?
僕から見れば、差別感にまみれたあまりにひどいレイシズムがそこにあります。(ジャイアンだって人に配慮はします。けれど人は自分と同じじゃ、ないんですよ!自分由来で配慮したら文化の違いは超えられないんです。ASさん方だって一緒ですよ!完璧な他者モデルを内に持つひとなんて、いないんです。)
ここ最近のやりとりを見ていて、のび太さんたちが「論理的な裏」というものに気づかないのは印象的でした。
「対比構造の意識」というのはジャイアンに特有のものなのでしょうか。
「石が悪い」というのも
考えてみれば、「石がない状況の想定」と「石の有無でのシミュレーション対比」の帰結と考えられるのではないかしら
と考えるとこれも深読みですかね
「論理的深読み」
ASさんの場合の深読みは
「経験的深読み」ですかね
「以前こうだったので今回もこうだろ」と言うような。
「正しい」「正しくない」に固執するのも依存だな、と最近、考えます
m2さんの発言は腹立たしく思うことが多いのですが、合理性を感じることも多いです。
みさんは、おそらく合理性と論理的正義を混同していたのじゃないな、と
僕は思うんです。
ジャベール警部は正しい
正しいけれど、彼は合理的か?
いいえ、彼は暴君なのです。
ジャン・バルジャンは、非論理的行動をとります
では彼は非合理なのでしょうか?
いいえ!彼こそ合理型です!
合理とは損得であると僕は考えます
では損得とはなにか
それが、求めるべきものだと思うのです
悠々と さん、
>「文化が違う」だけなのではないのですか?
そうだと思いますよ。
なら、ジャイアンの方も自分が被害者だ、なんて騒がないでくださいね。あなた方も害を加えているのですから。
あなた方が被害者づらしなければ、こんなことは言いませんよ。
ジャイアンは「強者」です。
ただ、強者ゆえの苦しみもある、ということです。
それは、私がIQが高いための苦しみがある、ということと同じことでしょう。
基本的に何でもできるから、ほとんど失敗をしたことがない。
だから、失敗に対する抵抗力が無い。
我々は失敗なんてしょっちゅうしているんです。
だから、少し失敗したくらいでは何も気にしない。
誰かが失敗したって気にしない。誰でも失敗くらいあるさ、って思うだけ。
ほとんど失敗しない人は、自分にも他人にも厳しくなってしまう。
私はジャイアンはF1エンジンの車で街中を走っているようなものだとイメージしています。
そんなことしたら、小回り利かないし、あちこちぶつけまくって早くも走れないし、周りも傷つける。これが不全感を感じる原因だと思ってます。
だから、普通を目指せば目指すほどおかしくなる。
街中で走るのをあきらめて、サーキットで走って初めて能力が開花できる、そういうものだと思ってます。
雑然とした街中でなら、F1より歩いた方が早く目的地に着く、ただそれだけのことだと考えます。
正社員としては働けないが、社長ならできる。そんなもんです。
楽ではない、とは思ってますよ。
ふむ。今回は介入してみよう。
悠々とさん、貴方はあまりにも自分の攻撃性に無自覚すぎませんか?
貴方の文章全体に「力こそ正義」の思想が滲み出ている。
>介入しない方が失礼だ
礼の問題ではありません。ASから見た場合、一切の建設的な所がない、暴力のための暴力の応酬になっていたため、制止しなければならないと判断されます。
まして、それを指して「神聖な決闘」などと嘯いては(あえて強い表現を使えば)粗暴な野蛮人と取られかねません。
>一人で全部こなしてしまうのが一番楽
と言ってるのに
>この不全感まみれの~
このような曲解をするのは異常です。新しい敵が欲しいのでしょうか?
そしてコレから続く文章は、まるでテロリストの自己正当化のテンプレです。その自覚がないところまで含めて。
というか何故レイシズム?この言葉を使いたがるのは……っと、ここではやめておきましょう。
>対比構造の意識
何故対立させたがるのか……謎極まりませんね。
というか、例示のような自己正当化のために過去を捻じ曲げるような発想よく思い浮かびますね。実にファンタジー。
m2さん
「利用」について補足です。(「依存と利用」のエントリーより)
>「利用」は非言語的な意味を伴わない現実的な関わりであり、(しつこく書けば)大事なことは、「利用」と表現する限り「責任は利用したほうにある」と責任が明確であるという事だ。
何だかコメント読み返してみると、「依存」と「利用」の違いが自分でもよく分からなくなってきたので…「利用した側が責任を自覚できるかどうか」ですね。
責任を認識できない場合は「丸投げ依存」になるそうです。(ちなみに、自分は「利用」はできるタイプでした。ちゃんと調べ直して良かった!(^-^;)
「利用」も「依存」も(やることは)表面的に似てるんですよね。
ADHDの内面的な問題なのですが、m2さんの言う「(仕事面等で)協力し合う」というのは、私から見れば「相手を信頼して自分の分(の仕事)を任せる」ということになります。
ただ、そこには(相手に任せた)自分の責任が伴うので、人に頼むのを躊躇してしまうこともあるでしょうね。
そういえば、以前のび助さんが言ってた「絶交」という台詞も、自分からは絶対言えないのですが、これも「自己責任」の重さからかな( ´艸`)
訂正
×みさんは、おそらく合理性と論理的正義を混同していた のじゃないな、と
↓
○みさんは、おそらく合理性と論理的正義を混同していた のじゃないかな、と
ぬまおさんへ
私のは受動ツッコミになることはありません。外観は同じかもしれないけど。
私には本来「私」しか認識できないので「私」と言う知識の「外枠」をコピーアンドペーストして「ぬまおさん」にしたてます。「中身」には、知り得たぬまおさんのデータを入れます。その「ぬまおさん」が意思を持って考えることを想像します。
そうやって、集団の中で共感したり感情を受け取った雰囲気を出していますよ。だから「ぬまおさん」が感じるであろう事も全部自己ツッコミです。名前を分けるなら他己ツッコミ?
受動ツッコミでない証拠に、初対面の人は独自データがないのでむしろツッコミ少ないです。とても楽。
ほんとうのぬまおさんと「ぬまおさん」は当然違うので思い違いしてしまう事は多いけど、余程でなければ失敗というより新たな発見と感じます。「そういう人だったのねーごめんごめん!」
間違った情報でもベースがあるのでフリーズはしませんよ。
という事で他者に気を遣ってるわけでも柔軟なわけでもないんです。(そう思ってもらえて、ラッキー!)
自分しか認識できないのに中心志向がない場合、どうしてそう考えるのかしら?が一番最初に来るだけです。それしかできない。気を遣ってるとしたら、意思と言葉がずれないように、ですね。
大人数になるとそれぞれの思惑と別に空気ができたり、どうして?と思っても確認できなかったりするので、少人数の方が好きです。
突然ですが・・・
「良寛さん」って「孤立型AS」なんでしょうかね。
日本人には良寛ファンってすごく多いんですよね。
良寛さんは孤独を愛したと同時にすごくさびしがり屋だったという人間くさい愛すべき人物ですね。
感情移入はあったと思います。良寛さんの甥が放蕩息子で、その父親である良寛さんの弟が、良寛さんに「兄貴、息子にひとつ説教してくれ」と頼んだそうですが、良寛さんはその甥と一晩世間話をして、お酒を飲みあかし、何にも言わずに帰ろうとしたそうです。
陰から見ていた良寛さんの弟は「兄貴は何にも言ってくれなかった」とがっかりしたそうです。
良寛さんがわらじを履こうとしたら、その甥がすっとそのわらじを揃えて履かせてくれた。
その甥の手にポタンと良寛さんの涙が落ちたとのこと。その涙で甥の心がガラッと変わってしまったという逸話があり、私が大好きな話です。
良寛さんって会ってみたいです。
>なぜならその言葉は裏返せば
純粋な疑問なのですが、ASの裏はADHDなのですか?
そこまで対局の存在でしたっけ?
>「利用」も「依存」も(やることは)表面的に似てるんですよね。
利用は1回きり、もしくは1回ごとの関係では?
「お願い!」で始まり、「ありがと!」で終わる用事のような。
依存は用事を作ってでも「お願い」し続ける、「ありがとう」は省略される、そんな気がします。
ありがとう、と会話を終わらせる事は、依存を上手に断つ方法ではないかと、密かに思ってます。
する側にとっても、させる(される)側にとっても。
道産娘さん
私は道産娘さんの行動は依存ではなくて利用だとは思ってますよ。
みさんに向けた発言だったので、「依存」と言ってますけど。
>そこには(相手に任せた)自分の責任が伴うので、人に頼むのを躊躇してしまう
外から見てると、実情はちょっと違うように見えます。
ジャイアンの場合、人に任せると自分でやるよりパフォーマンスが落ちるんです。
だから、自分でやった方が良い、ということになりがちだということなのだと思ってます。
パフォーマンスの悪い人がやったことに対して責任を持つのが嫌、というのは理解できなくもないのです。
で、全部引き受けた結果、死に物狂いの努力でこなしていくけれど、いつか破綻、というのがよく見られるパターンです。
人をうまく利用できないと、こうなっちゃうんですよね。
悠々とさんへ
まず、落ち着いて。文化が違うという前提で、もう少しわかりやすく書いていただけませんか(; ̄ェ ̄)はたから見てエキサイトしすぎー!
あともし本当に論理的に話したいなら、感情を含んだ言葉を安易に使わない方がいいと思います。反撃ならオッケーなルールなのかわかりませんけど、全然フェアに感じませんでしたよ。
こういうやり取りを見てると、中心志向って難儀だなって思います。
あなたが気になった部分、私も恐らく似た様に感じますけどあなたの様には発言出来ません。
攻撃してくると感じた人に対して攻撃を返す事は自己ツッコミの対象です。しかも自分が攻撃されていると感じているだけで、相手にそういう意図がないとわかっているんですよね。じゃああなたは今一方的に攻撃していることと何が違うんですか?
>悠々とさん
たぶん、今は、「はっきり言えこの野郎!」の状態になっていると思うので、はっきり言います。自分が、みさんに介入したことについて「神聖なる戦いを汚した」と気分を害していると思うので、自分がなんで介入したかについて説明します。
自分が一番仲の良い友達は典型的な暴君型ADHDで、30年以上の付き合いがあります。暴行事件などで何度か警察のお世話になって別荘に行ったりすることもあるけど、義理人情にも厚く、憎めないキャラクターです。お互いに分かり合えていると感じる関係で、依存や利用以上の絆を感じていて、ADHDについては、ある程度知っているつもりです。
みさんのコメントに直感で感じていたのはADHDではなく、積極奇異型です。反論できない状態の人に何か言うのは好きではないんですが、すみません。
みさんが初めに怒り出した時に今後の展開を予想し、みさんを肯定しながら道産子さんに反省を促すフォローをすぐさま入れ、道産子さんの罪悪感を刺激して衝動を抑えました。これで道産子さんが謝れば終わるかな?と想像していましたが失敗しました。自分が介入した時点で、悠々とさんが言う「フェアネス」は崩れて一方的な展開になったため、責任を感じて何とかしなければと思いました。
次に、過集中のせいにして終わらせるようにと「マタタビ」を投げてみましたが、それでもダメでした。積極奇異型の人に効果が高い一喝する方法を試したところ、いったんは収まった感じです。先生がコメント掲載を一部止めた可能性もありますが、あれに対して反論がなかったのは意外に感じました。反論に対する受け答えを用意して、終着点を決めていたんですけど。
>みさん、道産子さん
自分が余計な介入をしなければ、この展開にはならなかったかもしれなかったので、申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。
ぬまおさん
私は、人に囲まれているときは、たいてい黙って人の話を聞いています。
どの人が何を言ったか、どうしてそういう発言になっているか、以前の言動との矛盾があるときはなぜか、この場にいない人は誰か、そういった情報を解析・蓄積する時間です。
自分にとても言いたいことがあるときは発言します。
人に囲まれているときは、そんな(頭の中が忙しい)時間なので、さびしいとか孤独感を感じる余裕はありません。
友人に会えないときもさびしいと思いません。(古い友人を懐かしく思い出すことはありますが、会いたいとは思いません)
年賀状も、ろくに出さないです。
私は昔から引っ越しが多く、今住んでいるところは都道府県をまたいで10ヶ所目の住所なので、そもそも友人が作りにくく会いにくい環境です。
一人の環境はとても落ち着きます。
夫が海外出張のためひと月家を空けることがあります。
専業主婦をしていたときは、ひと月誰とも会話しない生活になりましたが、全く問題ありませんでした。
(買い物に行かずに何日持つか?という一人ゲームを始めてしまいます)
海外から帰ってきた夫が「玄関に蜘蛛の巣張ってたけど、いつから外出してないの?」と笑ってました。
(続き)
私が孤独を感じるのは、素の自分が出せないときです。
大事な人が目の前にいるが言いたいことが言えないとき、理解してもらえないと感じたとき、またそのことについて一人で考えているとき、です。
私は孤独を感じないわけではないのですが、孤独を感じる場面がぬまおさんとは違っているように思います。
幸い(?)、私には聴覚過敏はないと思います。
子どもの泣き声が耐えられないとのことですが、私はたいてい観察に入ります。(私には子どもがいないので、よその子を想定しています)
その子が何故泣いているのか、親の行動や様子を見て、もし自分が親だったらどうするだろうかと考えています。
子どもの行動に深い意味なんてないのでしょうが・・・
そして自分がその子の気を引くような何か面白いものを持ってないか考えますが、もし持っていても、自分から関わるのは少し怖いです。
ぬまおさんの受動突っ込みの説明を読んで、「私もこれだ」と思いました。
自分で突っ込むから自己突っ込みなんだと思ってました・・・(それで自分はADHDなのだと思ってました)
ちょっと面白かったので…
ジャイアンは強者なんでしょうか。
僕なんかはなんとなく弱さを感じます。
ジャイアンは人からチヤホヤされたいとか認められたい
とかいう感情から人一倍強いんですよね。
それって弱さじゃないですか。自分の存在を他人の評価の
あてにしてるあたりが弱さをあらわしてるきがするんですが。
悠々とさん
介入に関して。私は「最初からそこに居た当事者」なんですよ。
例えば、AさんとBさんがふたりっきりで居る時に喧嘩が始まったのであれば、私は門外漢です。
でも、Aさん、Bさんを含め、数人で話をしている時に、Aさんと、Bさんが険悪な空気になった。とすれば、一緒に会話している私は止めるなり、話題を変えるなりして雰囲気を戻そうと思ったです。
ですが今回は、「またか」という気分だったので、私の最終平気「無視」の出番になりました。
神聖な戦いであれば、往来でやらずに、自分でブログ作って戦えば、誰も文句言わなかったと思いますよ。
アメジストさん、ご存じかもしれませんが、良寛さんについては、ASだったのではないかとする本がありますよ。ご興味あれば、一読してみてはいかがでしょうか。
あと、この記事とそれるんですが、自己突っ込みに関して少しかかしてください。
僕はたぶん時々きれる合理的ADHDだと思います。
その僕は自己突っ込みがあるか?確かにあります。でもジャイアンの自己突っ込みと質がちょっと違うきがするんです。
あくまで主観的なイメージですがジャイアンの自己突っ込みには自己蔑視が含まれてるきがするんです。例えば自分は死ねばいいのか?とかですね。
僕の自分突っ込みはあくまで自分を傷つけない程度の自己反省レベルのような気がします。例えばニュアンス的には、自分はADHDだからいいパパにはなれんかもしれんな〜って感じだったり、あ〜あの時こうすればよかったとか、定型の人でも当たり前のようにしてるレベルのような気がするんです。
確かに妙に自分を客観的に合理的に評価する時はあるんですけど、そこにジャイアンの人のような激しさはあんまりないです。
だからジャイアンの人が合理的ADHDに近づくように強烈に自分に自己突っ込みを入れてるのを見るとそこまで自分を虐めんくてもって思うんです。
ZZZさん、ありがとうございます。
去年あたりに、いい本が出版されていますね。知りませんでした。さっそく注文しました。読むのが楽しみです。
ホックさん
>依存は用事を作ってでも「お願い」し続ける、「ありがとう」は省略される、そんな気がします。
周囲のASさん達の姿が思い浮かびました。
(少なくともADHDの私は)用事を頼む時はそれ以上の意味は無いのですが、ASさんは用事を頼むことに「他の意味」が含まれているように感じます。
用事そのものに重要な意味はなく、用事を頼むことで相手と関わることの方が重要なのかもしれませんね♪(よく、ちょっかいかけてくるASの人もいるので)
m2さん
うーん、パフォーマンスかなぁ…
人に任せる際、改めて説明しなきゃならないのが精神的に負担で、「なら全部自分でやった方が良いや」って思っちゃうんですよね。(過集中時は特に)
ちゃんと相手に説明したつもりでも、不安になって気が気でなかったりして(汗)
人に頼るのが下手だとは、自分でも思います。
ぬまおさん
いやいや、ぬまおさんは悪くないですよ(^o^;)
みさんは積極奇異ではないと思います。
さーこさんのように人を近くに感じてなさそうだったし、首尾一貫したこだわりを持つ積極奇異なら短期間で(二転三転する発言を繰り返す等)あんなに目まぐるしく変わらないと思います。
(続きです)
多分彼女は元々私が気に入らなかったので、ぬまおさんが止めても一緒だったんじゃないかな。
「反社会行動」に関する私の発言は、確かに不適切だったと思い謝罪しましたが、その後の私の反抗的な態度が気に入らなかったのでしょう。(「あなたがそう思うならそれで良いです」という言い方は、私なりにやんわりと言ったつもりでしたが…逆効果でしたね)
始めから「私のことは放っておいて下さい」と言えば良かったのかもしれません(苦笑)
ぬまおさんが責任感じる必要はありませんよ♪
アメジストさんもホックさんも他の受動型ASの方々もそうですが、きっと皆さん「トラブルに敏感で、見て見ぬ振りをするのが苦痛」なんだろうなと思います。(介入の仕方も人それぞれですが)
ところで、ぬまおさんって「(隣のエントリーの定義の)ASのAC」って感じしないですね。
ご両親への庇護は諦めていたようですが、幼い頃からお友達との間で自然と「60%のほどほど加減」を身に付けてきたんじゃないかなって気がします。
情緒障害だった受動弟と似てるなと思ったのが理由ですが、違っていたらスルーして下さいねm(__)m
話が行きつ戻りつしてますが、ぬまおさんへ
受動ツッコミ、判ります!!!
これで何となく自分がASだと自信が持てました。ありがとうございます。
所詮、自己診断は自己診断なので、アテにはならないとも思っていて・・・前にも書いてますが、私もみさんはADHDではなく、自閉圏か他の疾患だと感じました。
(誰の助けも請わなかったのは道産娘さんの方で、必死になって周囲の人を味方につけて何とかしようとしていたのはみさんの方だったと思います)
悠々とさんへ
今、皆さんは「翻訳」の作業中だと思うのですよ。
お互い思い違いをしていた点とか、同じ言葉でも意味が違っていたりとか、誤解の元となっている点を、平和に、悪意なく話合ってる最中だと思うんです。
その際にADHDにとっては失礼に感じる言葉もあるかも知れませんが、そこでいちいちいきり立っていては、折角の翻訳作業が進まないのでは?
悠々とさんが受動ASとは話をしたくない、と思われるのであれば、とりあえずここを見ないとか、色々方法があると思います。
道産娘さん
>アメジストさんもホックさんも他の受動型ASの方々もそうですが、きっと皆さん「トラブルに敏感で、見て見ぬ振りをするのが苦痛」なんだろうなと思います。(介入の仕方も人それぞれですが)
私の場合は確かにそうですね。トラブルに敏感です。
ただ、私の場合、ネット上のやりとりだから、時々お節介に顔を出すんだろうなと思います。
匿名だし、トラブルを起こしている人たちが、「自分の味方をしろ」とかせまってこないので、こちらがあくまでマイペースで中立的立場で関わることが可能だからです。
以前、リアルの世界で、子供の保護者同士のすごいバトルにうっかり巻き込まれそうになったことがありました。どちらともある程度付き合いがあったので、それぞれから「自分の味方になれ」的な勢いで迫られた時は、心底震え上がりました。
エネルギーはないし、もともと中立が好きだし、関わったら寿命が縮まると直感して、スリッとどちらからも距離を置きました。
ネット上とリアルの世界はかなり関わり方が違いますね。
自分は逆に関わりたくないので見て見ぬフリをしてるのですが、みさんはスルーすれば
それ以上追求してこなかったので、ああなったのは他の方にも原因は有るとは思います。
原因というとまた荒れるので説明すると、ここにいる方々が過干渉しすぎのような気がするんです。
前にお医者さんごっこと言ったのは別にみさんの事ではなかったのですが、反応したのはみさんだけでした。
あそこまでいくと被害妄想の類だとは思いますが、無視したらそれっきりでした。
知識を得て披露したいのはわからないでもないですが、決め付けで話を進めるのはいかがなものかと思います。
あとめんどくさいので流し読みですが、個人的な事象の相談ごとも病院でするべきではないでしょうか。
アメジストさん
私の場合はネットもリアルもさほど変わりません。
「より感情的になっている方をなだめる」ことが多いです。(例えば、このブログでのジャイアンvsASの場合、大抵ASをなだめますね)
どうも周囲のASさんを見てると、論理的に口論してるように見えて、実は相手に振り回されて言い返すのが精一杯なのでは?という感じがするので、つい(ASの方を)止めに入っちゃうんです。
「マイペース・中立的立場が好ましい」という人は多いでしょうね。
協調性もあるけど、一人の時間も苦にならないようで、単独行動をとる受動型の女性も結構見かけます。
ホックさん
私も不思議に思ってたんですが、どうもASの方からすると、みさんはASっぽく見えるみたいですね。(m2さんは「論理的な部分が似てる」と言ってましたっけ)
ちなみに「神聖なる戦い」についてですが、嶺往無識さんの意見に似てて「ただの喧嘩を美化しすぎじゃないか」って思いました。
野蛮人ですみません!
言い返す言葉もありませんΣ(ノд<)
私生活でもあまり変わらないかな?と思いますが、もっと消極的かも知れないですね。私もトラブル起こす人とは距離を置く方ですが、場に愛着があればなだめるなり、戦うなりしてます。何もせずに退避して、その場が失われた後で、もっと頑張っていたら・・・と思うのが辛いのかもです。でもこれは、性格というより、そういう経験をした事があって予測して行動してるだけかもしれませんね。
ASって理論的なんでしょうか。私は自分が感情的だと思ってるので、そこは個性のような気もします。
理論で「正しい」という結果が出ても、嫌いなもんは嫌いです(笑)
なつかもさん
>私には本来「私」しか認識できないので「私」と言う知識の「外枠」をコピーアンドペーストして「ぬまおさん」にしたてます。「中身」には、知り得たぬまおさんのデータを入れます。その「ぬまおさん」が意思を持って考えることを想像します。
自分の場合は今まで会ってきた人を、頭の中でかなり細分化していて、データベースを検索しながら、同じようなタイプの人に合わせて会話を組み立てている感じかな。新しいタイプの人に会うと、新しいデータベースができる感じ。違う場所で同じようなタイプの人と会って雑談している時、この会話の流れと内容はこの前話したな、とか感じることがあって、データベースに沿って会話をしていることがよく分かります。知らない人と会う機会がやたらと多いので、頭の中のデータベースは、発達障害の分類よりもはるかに細かいと思います。ほとんど直感ベースなんで、具体的に、どうとか言えないんだけど。
久しぶりに会った同じ人と、前と全く同じ話をしていることもあります。お互いに気付かずに全く同じ会話をしているということは、相手も自分と同じタイプなのかも。相手の個人情報が入ってくると会話の幅は格段に増していきます。覚えていればなんですけど。印象の薄い人は忘れるな。
やり方は違うけど、結果的には同じような感じになってるんですね。
実は、ここで書き込んでいる時、みなさんの顔を勝手に想像しています。普通はそういうもんなんですか?インターネットのオフ会に参加すると、想像と違くてビックリすることもあります(笑)
Fさん、ホックさん
自分の対人関係の行動は、受動突っ込みに支配されている感じがします。それが受動的な対人関係に関係しているんじゃないかと思うんですけどどうでしょう。
特に、学童期や青年期の肉親に対する時の受動ツッコミは普段の逆に働いて、怒りや嫌な気持ちを正確に伝えるために、より強い表現や行動に変換されていたような気がします。今はないですけど、子どもの頃には、親に対して反抗する時、「こう言った方がもっと効果があるんじゃないか」、とかいうツッコミが入ったような気がします。ツッコミには、裏と表があるような気がします。
ADHDの自己ツッコミにも裏と表があるのかな?
道産娘さん
>ところで、ぬまおさんって「(隣のエントリーの定義の)ASのAC」って感じしないですね。
ご両親への庇護は諦めていたようですが、幼い頃からお友達との間で自然と「60%のほどほど加減」を身に付けてきたんじゃないかなって気がします。
さーこさんと同じような再構築の体験をして、10年ほど前にACから抜けたみたいです。抜けた当時は依存が100%になって、やりたいことを全開にやりました。AC時代は依存がゼロです。人には誰にも頼っちゃダメだと思っていました。親でも友達でも。できることは全て自分でやっていたと思います。今は落ち着いて、依存は全盛期の20%程度です(てきとーです・笑)。受動弟もACから抜けたのかな?依存が100%だったら、趣味に、仕事に全力で活動していると思います。
おお、ものすごい反響ですね。
うーん・・僕としては、「僕の感じ方」を説明したつもりだったのですが
(思って「しまう」とか、「感じる」などの表現に、そうしたニュアンスを籠めたつもりでいました)
たしかに読み返してみると感情的に見えますね。
感情的にならずに感情を説明するって難しいですね。
申し訳ない。
僕としては、「こう感じるから~しろ!」という意味合いを籠めたつもりはありませんでした。
零さんとのやりとりで話したように、僕は「正しい」というものは「主観を公共化するための方便」だと考えています。
つまり「正しいことは人によって違う」というスタンス。
(厳密に言えば「正しいことは、目的設定によって変わるものだ」と考えています。)
その上で、この場所を「ルールが違うひとたちの相互理解の場」と捉えていますので(それもひとそれぞれでしょうけれど)
「僕の感じ方」というものを開示するのもよいかな、と考えました。
(そう感じることを「知って」、そしてどうするかということは、それぞれの人によって違いますよね。僕はそれで良いと思っています。)
さて、では、ご飯を食べてから、対個人用の返信を書くことにしますね。
m2さん
僕は、他のジャイアンさん方とは「別人」なので、他のジャイアンさん方の発言に責任を持つことはできません。
僕は自分を被害者だとは思っていませんよ。
(お互いにルールが違うことを意識できずに傷つけ合うような部分はあると思いますけれども。)
他の方は知りませんが、僕は失敗まみれなので
僕もまた「失敗して当たり前でしょ」と考えています。
再起不可能な失敗だけは避けるようにしていますが、失敗を見込んで、なんでもやってみることが気持ちよく生きるための、最適行動だと考えています。
その上で、考えるのですが、失敗が当たり前であれば「他人に100%を求める」という行動パターンを説明できないと思うんですよ。
m2さんにとって失敗が当たり前、ということと
ASにとって失敗が当たり前、ということとは違うのでは?
それか、「自分は駄目なので失敗して当たり前だけれど、駄目じゃない他人は失敗してはいけない」とか、そういう意識でしょうか?(嫌味ではなく、純粋な疑問です。違うなら違うと言ってくだされば、それで了解します)
零さん
「パワーこそジャスティス!」ですか。笑
僕は異常者ですけれど、他人に「僕にとっての正しい」を押し付ける気はないです。
ところで興味深いのですが
零さんは「ゲームキャラクターに対しても感情的になる」のでしょうか?
それとも僕は、ゲームキャラクターという認識からは外れましたか?
レイシズムについては、差別主義的、という意味で使いました。
これは「僕の認識では」特別なものではないです。
「内と外」という設定認識がある限り、誰しも無邪気なレイシストです。
だって動物として人間を見た場合、群れの内と外を分けられないのはおかしいでしょう?(生存のために、です。ADHDはそこらへんがおかしい。)
フェアネスとは、群れの内と外とを共通基準で計ること、とも言えます。
ただフェアネスにコミットした僕から見れば、アスペルガーはあまりにもひどいレイシストに見える。
(だからフェアネスがないのが文化なら受け入れる、と書きました)
そういう意味でした。
わかりづらかったですね。ごめんなさい。
ホックさん
>>なぜならその言葉は裏返せば
>ASの裏はADHDなのですか?
これもわかりづらい表現でしたね。
「受動型には攻撃性がない」という発言を例にとって説明をしてみますね。
僕の理解では
(それが普通とは違う理解の仕方だ、ということは「理解」しています。なので自分の理解を「論理的深読み」と表現しました。)
1.「受動型ASには攻撃性がない」(発言1)
↓
2.「受動型AS以外に攻撃性をもった人間群が存在する」(論理的裏読み)
↓
3.「そこにはジャイアンが『含まれて』いる」(推論)
です。
なので先日の書き込みには
「ジャイアンに攻撃性がある」ではなく
「あなた方には攻撃性がある」と書きました。
ここには「会話相手を想定しての発言である」という前提推測があります。
ちなみに「神聖なる決闘」という表現は比喩表現ですので、実際に神聖だと思っているわけではなかったりします。
(ちなみに、神聖である、穢れている、という言葉も主観の修飾表現だと考えます。主観の公共化と、公共的規範の主観化。どちらもあるでしょうね。ループ構造なのだと思います。)
感覚として、それに近いかな、というのは
僕の中の「ルール」としてそういう設定になっているな、というくらいの意味でした。
ですので、ASさんがどちらかに介入するのを「悪い」と言っているわけではなく
「僕は嫌だと感じる」と言いました。
僕が嫌だと感じたからと言って、貴方はそれをやめる必要があるとは、思いません。
ただ相互理解のためには、嫌だと感じることを「表現しないと始まらない」ですよね。
という前提でのお話でした。
なつもかさん
上に書いたことが、僕の真意でした。(真意?・・解説?)
中心志向というものを、僕は「『他者に対する』勝ち負け判定へのこだわり」と捉えています。(なので構造的に自己完結できないところが問題を起こしやすい、と認識。)
僕は元々「勝ちたい」という欲求はあまり強くない気がします。(たしかに、ないわけじゃないですよ)
暴君だったときも「他人がどうこう」というよりは「僕がしたいこと」を中心に見ている感じでした。(今もそれは変わってないように思います。軸足が『短期認識での損得』から『現実的長期認識での損得』にうつっただけのような気がします。)
僕は運動がひどく苦手だったので、勝ち負けにこだわると大変つらいことになってしまいます。
勉強も一番をとれるほどにはがんばれなかったので「勝つ!」という意識はなかったんじゃないかな。
(「結果的に勝ってた!うれしい!」とかはありました。)
勝負を避けて、自分の世界にばかりいました。
白昼夢ばっかり見てましたね。
しまった!ぬまおさんのコメント見落としてました!
ごめんなさい !
もう寝なきゃなので明日書きます!
おやすみなさい!
こりゃあかん。アカ過ぎる。
※先生、問題でしたら検閲なり弾くなり適切に対応してください。
まったく伝わってないのでストレートに言います。
自分に対しフェアという言葉を使い、他者に対して差別と言う、この展開パターンは民団系や共産系の法治主義に反旗する組織のものです。
そして決定的なのが
>主観を公共化
これは、当に力で押し通そうとするテロの思想です。非常に懸念を覚えます。
悠々とさんが司法の世話になる分には勝手ですが、それで先生に累が及ばないかというのが、私が貴方の発言に対して感じる最も大きな懸念です。
悠々とさん
>自分に対しフェアという言葉を使い、他者に対して差別と言う、
私も同じように感じました。
なので、「被害者づら」していると書かせていただきました。
もちろん、ご自身では意識していないでしょうが、回りからそう受け取られる発言であることは認識されておくと、今後は生きやすくなると思います。
>「そこにはジャイアンが『含まれて』いる」(推論)
我々は言葉を濁して書いてますね。
攻撃性があるのは「ジャイアン」なのですよ。
ドラえもんを見てわかりませんかね?
あれでジャイアンの攻撃性の認知できない、というのが障害の根本なのかもしれませんが。
たぶん、悠々とさんの攻撃性とは示すものは違っていると思います。
ジャイアンの攻撃性とは、他人に対する影響力の強さ、ということだと思います。
別にこのことはいいことでも悪いことでもありません。
攻撃性があるから悪い、と言っているわけではなく、集団への影響力が強いので、注意してくださいよ、と言っているにすぎません。
その影響力が悪い方向に向かった場合、強い影響力で相手を破壊してしまうエネルギーを持っている、ということが問題につながりやすいわけです。
>「自分は駄目なので失敗して当たり前だけれど、駄目じゃない他人は失敗してはいけない」
これは、AS・ADHD関係ありません。
ACの特徴です。
ACで自己評価が下がった場合、AS・ADHD問わずこのような思考になります。
身近なASのみで、これをASの特徴と判断するとおかしくなります。
ぬまおさん
>抜けた当時は依存が100%になって、やりたいことを全開にやりました。AC時代は依存がゼロです。人には誰にも頼っちゃダメだと思っていました。親でも友達でも。できることは全て自分でやっていたと思います。
なら間違いないでしょうね、失礼致しましたm(__)m
奥様に対して「かなり妥協できてるなぁ」という印象だったのですが、ぬまおさんは既にご自分でACを克服されてたんですね。
ちなみに、受動弟は成長するに連れてしつこさが増してきたので、ACではないかな。(おそらく思春期頃に情緒障害から回復して、しつこさ…というより、「人懐っこさ」が増したのかなと思います。それまでは他者の感情を感じられなかったのでしょうね)
ASのACの人は外では「普通」に合わせるようなので、愛着相手への接し方を見ないと判別しづらいかもしれませんね。
「100%自己責任」という考え方が、ASの人にとって「不自然」だということはよく分かりましたf(^_^;
ぬまおさん
「自分もそういうところがある」という自己突っ込みがまったくないわけではないのですが、私の場合は反論を口に出せないほどではないので、ADHDの自己突っ込みとは違うものなのかなあ・・・。
親や教師に対しては、「言うことがおかしい(場当たり的である、一貫性がない、矛盾を感じる)」と感じていました。
今でも、「どの口が言うか」と内心思うことがあります。
ぬまおさんの言う「裏と表」がよくつかめないのですが、外向きか内向きかということでしょうか?
受動ツッコミが衝動抑制に働くというのは、ありそうな気がします。
うまく抑制しきれなかったとしても、あとで反省して「さっきのはやつあたりだった、ごめん」と謝りに行くことがあります。
悠々とさん
えっと・・・『正義』に魅せられてしまったのでしょうか?
>ただフェアネスにコミットした僕から見れば、アスペルガーはあまりにもひどいレイシストに見える。
この文章はASが読むと「僕はフェアネスなのに、全てのアスペルガーはあまりにもひどいレイシストだ」になります。(たぶん)
>つまり「正しいことは人によって違う」というスタンス。
とあなたは言ったのに、その言葉に反している。
悠々とさんの「自分はフェアネス(正義)だ、そしてアスペルガーはレイシスト(悪)だ」という傲慢さと無自覚さに、ASが反発しているように見えます。
(悠々とさんにそこまでの強い意図があるかどうかは別問題です)
ここは、
「(僕はフェアネスでいたいと思って努めているのだけど、)一部のアスペルガーはあまりにもひどいレイシストに見える」
と少し緩めて書けば、穏やかな展開になると思います。
(私から見ても「えこひいきひどいな」と思うASはいますよ。ジャイアンにもいますけど)
もし本当に異文化を理解しようと思っているのなら、悠々とさんも『ASの努力③言葉の理解』のエントリを読んでくださると助かります。
他のASの方も・・・。
>それか、「自分は駄目なので失敗して当たり前だけれど、駄目じゃない他人は失敗してはいけない」とか、そういう意識でしょうか?(嫌味ではなく、純粋な疑問です。違うなら違うと言ってくだされば、それで了解します)
外(ASじゃない人)から見ると同じに見えるかもしれませんが、私はだいぶ違います。
私は、自分がよく失敗する駄目な人間なのは知っています。
なので「私以下って相当な駄目っ子だぞ?!」「どうした!だいじょうぶか!」「・・・心配で仕方ない・・・(我慢できずに手を出す)」となります。
この他人へのアクションが、世話焼き・管理依存・完璧主義に見えるかもしれません。
自分が思う『駄目なライン』と、他人から見た『駄目なライン』には乖離があるかもしれませんね。
えこひいきか・・・。
たしかに、興味ある人間とない人間の差は激しです。
私はただ好きか、無視かだけのつもりですが、
それが「えこひいき
みません。
・・ミスりました。もう一度書きます。
Fさんのコメントを読んで、
「私はみさんが好きだったのでからんでいたのだけど、それは道産娘さんを「えこひいき」していると取られるのかもしれない。たしかにそ~かもっ!」と思っいびっくりしました。
主観と客観の差というか・・・おもしろいです。
またひとつ勉強になりました。ありがとうございます。
わ~ん。゚(゚´Д`゚)゚。
先生がコメントをのせないだろう・・というつもりで書いたので、文が繋がらなくなりました。
「愛着」「愛着した時の行動」と「主観と客観の差」は、Fさんのコメントに刺激されて、私の中で初めて光が当たったので、今はまだ全然まとまってません。これからちょっと考えていこうと思います。
m(_ _;)mコメントランアラシテスミマセン・・・
自分のACが抜けて100%依存が全開になった時のことを書きますね。人が大好きで、人の役に立ちたい、自己満足を満たしたいという一次障害が全開になり、困っている人を助けることに強い興味を持ち、困っている人が困っていない状態になると興味を失って、その後、疎遠になるという、問題を次々と求め続けるような状態になりました。厄介な問題ほど、やる気が出る感じで、友達もどんどん増やし、遊びの誘いを断るのが大変なくらいでした。
女性に対しても積極的になり、好きになった女性と携帯番号とメールアドレスを交換し、直接話してデートの約束を取り付けるところまでは余裕なのに、電話もメールも自分からできないので実現しなかったりして(^^;)。今になって思えば、電話やメールをしようとすると、頭の中で考えた言葉や文章が、激しい受動突っ込みで全否定されていたんだと思う。
何の知識もないのに、精神的に参っている人を見つけてはカウンセリング的なことまでするようになり、友達の友達からも悩み事相談を受け、友達の友達を自分の住んでいたアパートに下宿させたり、興味のあるもの全てをやりたくなって過密なスケジュールを組んで精力的に活動し、性格が合いそうな男女を結びつけては付き合わせて2組の夫婦を誕生させるなど、今考えればメチャクチャお節介な人に変身しました。
今考えると恥ずかしくなるような、一時障害全開の状態でした。何に依存してたんでしょうか?人から助けを求められることが大好きで、問題を解決することで自己満足もほしかったのかな?別に人から感謝されても、されなくても、どうでもいいことで、ただ、ただ人の世話を焼き続けるという状態でした。自分としては迷惑をかけていたつもりはないんだけど、迷惑に感じていた人もいたのかな?結局、結婚して子どもが生まれて、妻と子どもの世話を焼くことで、衝動が抑えられている感じです。
自分と同じ受動型がなぜ、人に嫌がられる行動をするのか理解ができない。依存100%になったとしても、うざいだけだと思う。嫌なら、文句を言えば近付いて来なくなると思うんだけどなー。不思議だ。
Fさん
自分はほとんどの言動を受動突っ込みによって統制されているため、かなり覚悟を決めないと反撃すらできません。怒りが湧いてくること自体が少ないので、なかなか反撃の覚悟が決められず、時には怒った演技まで必要になります。
多分、孤立型の方が受動型よりも生きやすいかもしれないですね。妻がトラブルになった人間関係をバッサリと切り捨てるのを見ていると、うらやましく思う。妻は、ちょっと変わった人と見られながらも、自分の言いたいことは言って、怒る時には怒って、自分よりも伸び伸びと生きている感じがします。
>あとで反省して「さっきのはやつあたりだった、ごめん」と謝りに行くことがあります。
妻もよくあります。性格によって差はあるかもしれないけど、妻とFさんの行動は似ています。妻よりも会社にいる孤立型の後輩のAC時代の方がFさんに、もっと似ている感じがします。当時、会社の孤立型の後輩は、たまに切れる受動型という感じでした。
自分は発達障害について何も知らず、仲良くなって、自信をつけさせてあげようと思ってカウンセリングの真似事をしたところ、ACから抜けました。すると一時障害が突如として現れ、大変なことになりました。終わりなきバトルの始まりです。もう、二度とカウンセリングの真似事はしないようにしようと心に誓うぐらいの出来事でした。
FさんはACだと思うので、もし、これからACを抜く気があるのならば、受け皿を用意した方がいいです。能力を発揮して社会的には成功を収めるかもしれませんが、特に愛着(ご主人)との間で大変なことになると思います。孤立型がACから抜けた時の変化は、想像を絶するものがあります。
ぬまおさん
僕もみさんにはASっぽい文化を感じました。
ただ、ここにいる方々の中で一番自分に近いものを感じるのはみさんだったので、彼女も受動型ASの影響下で育った結果ADHD的に受動型ASの行動パターンを真似て「論理的に正しいことを追求する」というパターンに至ったのではないかしら?と考えています。(実際にどういう環境で育ったのかは知りませんけれども。推測として。)
うーん・・
僕の言い方が悪かったのですが、「僕に対してなにか気兼ねする必要はない、と僕は思います」。
なぜなら僕はADHDで文化が違うのですから、ASさんはASさんの正しいと思うことをしていれば良いと思うんですよ。
ただ僕がなにを不快に思って、なにを快く思うのか、というのは「情報として」あっても良いかな、と思うわけです。
(だって、誰しも「どう表現するか」は操作できても、「どう思うか」は操作しづらいですよね。表現しなくても心で思っていることは変えられないし、表現されなければ思いもよらないかもしれない。知った上でそれぞれ好きに振舞うのが良いんじゃないかな、というのが僕の考え方なのです)
ちなみに僕が不快に思う「介入」というのは、どちらかに「加勢」する形です。
終わりにしようと試行錯誤すること自体は不快には思わないような気がします。
そう考えると神聖なる決闘という例えはよくなかったですね。(様々な方向に大いに誤解を与える表現でした;)
零さん
>主観を公共化することはテロの思想
そのとおりだと思います。
「正しい」を主観から押し広げて他者に押し付けるとそういう帰結にもなりますね。
ところで
「テロの思想だと思う」のは主観ですけれど
「テロの思想である」とするのは果たして主観に留まっているでしょうか。
フェアについては、ちょっと表現がよろしくなかったですね。
僕はどうも強調表現を使いすぎますね。
m2さん
僕の定義するフェアネスは、決して「正しいもの」とは限らないことは説明したつもりだったのです。
例えば、味方を「味方だからという理由だけで助ける」のってフェアですかね?
敵と味方が怪我をしている。敵の方が重症だったから助けた。
これってフェアですけど、正しいですかね?
ADHDのフェアネスは、そういった不適切な側面を含むように思います。(ただし、ひとそれぞれですよ。あくまでも)
逆に差別は普遍的に誰でもしていると僕は書いたつもりなのですが、
重症の敵を助けずに軽症の味方を助けるのって差別じゃないですかね?
でもそれって間違ってますか?
僕が「あまりにもひどい!と腹を立てる」のと「間違っていると考える」のとは別のことです。
そして、「ジャイアン型ADHD」=「ドラえもんのジャイアン」ですかね?
ドラえもんのジャイアンが攻撃的に見える「から」ジャイアン方ADHDは攻撃的である、という論理はおかしいと思います。
「ジャイアン型」という表現はあくまで比喩であり、真理ではないはずです。
その上で、「影響力が強い」と言われれば、相対的にはそのとおりだとは思います。集団内での起点的行動を起こしやすい性質を持つ、という意味で同意です。
>「自分は駄目なので失敗して良いけれど、他人は駄目じゃないので失敗しては駄目」はACの特徴
ああ、なるほど、そうかもしれないですね。
Fさん
まさにそこは「失言だった」と思っていました(´・ω・`)
僕の発言自体が差別的でしたね。
>「僕はフェアでいたいと思って努めているのだけれど、一部のアスペルガーはレイシストに見える」
これは僕の言いたかったことに近いです。
表現は難しいですね・・
「現実理解のためには」フェアでなくちゃならないのだ、と僕は考えています。
そして理解しないとなにも進まないADHDは、「現実適応のために現実理解をしなければならない」ので、フェアネスに努めるインセンティブをもつと考えます。(必ずしも良いことではない、と考えていることは、m2さんへの返信に書きました)
なぜ理解しないとなにも進まないか、と言えば、長期記憶の方式が異なるためだと考えます。
記憶というものは、「覚えていても」思い出せないと使えない。
思い出すためには、刺激からロープワークのように関連する記憶を引き出す必要がある。
このときASは、大きなワーキングメモリによって、同時に情報テーブルに「乗っていた」記憶が紐付けされており、それを引っ張ることで記憶がよみがえりやすいのではないか、と推測しています。(短期記憶による記憶チェーン)
ADHDの場合、(ワーキングメモリの不足により過剰になった処理能力が引き起こす)「並列処理」中の関連のない事柄が紐付けされてしまっているので、とっぴな発想に繋がるのかな、と。(並列処理チェーン)
その上でADHDが長期記憶を使いこなすには、短期記憶チェーンの代わりになるものが必要となると考えます。
それが論理による紐付けであり(他に方法はあるかもしれませんが)
論理的理解が長期記憶を補佐するため、「論理的理解のために」フェアである必要がある、と
そういうことなんじゃないの?と今のところ、考えています。
ぬまおさん
私は、自分がACから抜けて一次障害が全開になった時に、自分に起こりうる事を、うっすら自分で想定していました。だから、ぬまおさんの一次障害全開になった時のお話は、やっぱりか、という確信を持ちつつ、貴重な実体験のお話として拝読させていただきました。
私はACを抜けた「直後」に、これから自分はどういう風に生きていきたいのか、これまで現実の専門相談員さんなどと対話した時に気付いては少しずつ蓄積してきた、自分の人の近さや愛着についての事、対人トラブルパターンやASの特性などの認識を元に、自分自身に突っ込みを入れ続けました。そりゃあ正直に言えば、ACの無い、元の私になりたかったけどね。でも、長すぎたACの時に感じていた、苦しかった辛かった事を忘れて一時の自由に身を任せ、その後の苦しみ(ぬまおさんの言う、終わりなきバトルの始まり)にまた戻るよりも、私の今現在までの人生、ACを抜ける前から抜けた後にかけてを考えてみた時に、これまで私がこの人生で体験してきた事、勉強してきた事、自分で自分を振り返ってきた事…などなどを含め、これまでとは違う視点で大きく自分を見る事を保つ事にしています。
私はどう生きていけるのか、この人生がどのように活かせるか、自分の望む位置や場とはどういう所でありどういうものなのか…今も考えています。
私の場合、ACを抜けた後の「受け皿」とは、先生のブログを一番初めから読んで考えてみる事でした。最初の方の記事には、「あなたの事を書き出してみましょう」というように、(仮想ではありますが、可能な限りの)対話形式で書いてあります。
ですが、私は考えていくうちにふと気がついたんです。なぜか私は、先生のブログを「参考程度に」する事ができるようになっている。これがどういう事なのかよくわかりませんが、とりあえず、今の私は、一次障害全開では無い、という事だけは言えるようです。
ちひろさん
多少の色眼鏡は誰でも(多数派でも)あると思います。
好きな人に優しく、嫌いな人(または興味ない人)に冷たく、それは人間だからある程度仕方ない。
別に万人に好かれる必要はないです。
それ(えこひいき)をやった結果を、自分できちんと受け止めればそれでいいと思います。
ただし、一方的に評価する立場(親・教師・上司など)の場合は、自分に厳しい基準を課さないと、『ひどいレイシスト』になっちゃうと思います。それは2重の意味でアンフェアです。
ぬまおさん
たいていの場合は「面倒くさいからもういいわ」で終わらせてしまいます。
行動に出すときはよっぽどのときです。
口火を切るときは、その人とは縁が切れることを想定した上でやります。
自分が納得した上でやってるかどうかがポイントなのかなあ・・・。
うまく行かなかったとしても、終わったことなので「次いこ!次!」となります。
>FさんはACだと思うので、もし、これからACを抜く気があるのならば、受け皿を用意した方がいいです。能力を発揮して社会的には成功を収めるかもしれませんが、特に愛着(ご主人)との間で大変なことになると思います。孤立型がACから抜けた時の変化は、想像を絶するものがあります。
発達障害を自覚したあとのほうがきついですし、自覚しないままのほうがよかったように思っています。
しんどさに気付かずに済んでたというか・・・。
夫への対応については、自分でも危ないなあ(我儘だなあ)と思うときがあるので、飲み込んでいます。
今、私の人生史上、最も甘やかされているので、気を抜くとボロが出ます。
残念なことに、何がしたいわけでもないので、社会的な成功はなさそうです(笑)。だからACならACのままでいいかもしれない。
漠然と思うのは、日本じゃない場所に行きたい。
日本は一度ドロップアウトするとやり直しがきかないので、窮屈です。
今は円が強いから・・・アジアのどこかに農場でも買って、のんびり暮らしたいです・・・。
ぬまおさんへ
分類わけ、わたしもしていますよー。タイプに合わせて会話アレンジします。
といっても、根がのび太なのでたいそうなことはできませんが。ははー(・▽・)!
自分の楽しい事ばっかりしゃべっちゃいまーす。
(ただ最近、この方法は楽だけど、近い分類に勝手に当てはめるので目の前の人だけが持つ可能性を見逃しかねないと、反省しています。。)
私は、ネット上で交流があっても顔とか雰囲気とかまったく想像ができません。他人を自分と置き換える以外の想像力が非常に弱いようです。前知識として伝えられていた情報を鵜呑みにするくらいしかできないですね。
よく「もっと○○だと思ったー」とか言われますけどすごく驚きます。何に関連づけて印象を感じるのかなーと。
もしも○○だったら…的な妄想は得意なのに、不思議なものです。
>これってフェアですけど、正しいですかね?
私は、このあたりを議論しようとは思ってない。
ただ、Fさんのコメントにもあるように、誤解を受けやすい(というよりほぼ確実に受ける)表現をしているので、その点を認識しておいたほうがいい、と言っているだけ。
自覚できないのは仕方ないけど、複数の人から同じように言われている、というのは、自分がそのように受け取られていると認識しないと生きづらいことになる。
ジャイアンと受動型ASに共通のことだが、自分の主観はあてにならない。多数派と価値観が違うのだから。
一人に批判されても気にすることはないが、複数の人から同じ批判をされた場合は、「自分の行動はそのような印象を与える」と思ったほうがいい。
その結果、どのような行動を取るか? は自由だが、結果として悪い結果となってもそれは自分の責任。
言っている意味はそうおかしくはないのだが、いかにも社会慣れしていなさそうな発言が多いのが気になる。
悠々とさんが生きづらさを感じていないようなら、こんなことは言わないが、そういうわけでもなさそうなので。
>「ジャイアン型ADHD」=「ドラえもんのジャイアン」ですかね?
ADHDをのび太とジャイアンで比喩しているのだから、これをドラえもんをモデルにしている、という以外に考えようはないと思いますが・・・
別に攻撃的、というのはそれだけでは悪い言葉ではない。
単に、「集団内での起点的行動を起こしやすい性質を持つ」と言っているのと大きな違いは無い。
何の起点的行動も無しに攻撃と感じることは絶対に無い。
起点的行動を多数するうちに、その中のいくつかは人によっては攻撃と感じることがある、ということ。
その行動に対する反発を攻撃と受け取っているのだろうけど、受動型AS側の視点としては、あくまでも起点的な行動があるから反発した、という認知になる。
だから、受動型ASが攻撃する時は、攻撃しているという認識はある。ただ、相手が先に攻撃しているのだから、自分は悪くない、という意
悠々とさん
書いている間に続きが・・・
悠々とさんの続きのコメントを読んで、「さっきのコメントでフェアって言葉を使うんじゃなかったなあ」と思いました。
悠々とさんの言う『フェア』は、公正でしょうか、公平でしょうか?
fairを引くと、どっちの意味も書いてあります。
以前、私はさーこさんから「(あなたは)中立な観察者ではありません」と言われたことがあります。
そのことが記憶に棘のように残っていたのを思い出しました。
中立と公正は違うと思うのだけど、さーこさんの中ではいっしょなのだろうか?と。
そしてどうも私は、フェア=正しいという意識が強いですね。
(『正義』に魅せられてしまったのでしょうか?という自分の発言から)
悠々とさんの言葉は「情報を正確に理解し判断するためには、まず『フェア』な目を持つ必要があると思っている」と読み取りました。
私自身はあまり記憶力がよくなくて・・・あれをやるとこれを忘れる、は日常茶飯事です。
YANBARU先生の「全く見られないウィンドウが生じないように、定期的に全部一回りするような点検をする」も意識的にやります。
そして理解しないと、覚えられません。
私の記憶は図書館みたいなイメージです。
情報にはインデックス(キーワード)を貼ります。(これで記憶を引きます)
仕舞う場所も決めます。(理解し、形を整え、適切な場所が決まらないと、仕舞えません)
そして仕舞う場所には、少し余裕を持たせます。(あとから関連する知識が増えたときのため。自分が知らない情報があるかもしれないから)
ときどき理解不能(分類不可能)なものや、諸事情により対応を後回しにするものがあります。(『中立』の棘のように)
それはとりあえず一時保管の場所に仕舞います。
『棘』はのどに引っかかった小骨みたいなもので、おさまりが悪くいびつなものとして、ずっと記憶のどこかに残ります。
やろうとしていることは非常に近い・・・気がしました。
私は、自分の人間関係を総入れ替えにはしません。
私は、自分がACを抜けた後も、しれっとした顔をして、ACの時から続いている今現在の友人たちと変わらず関わっていきたいです。
私が一番辛かった時に、他人が、私と関わってくれた事を、忘れたくはないんです。
ま、中には、今まで通用させていた自分のやり方が私に全く通じなくなったので、それで息巻いて説得やら反論やら、自分の立場を主張したり、私の立場を言葉で捏造したりと、色々な言葉で私に突っかかった人もいましたけどね。のべ8年ほどインターネットを通して文通した、障害をお持ちの人でしたが。そういう人とだけは、「私は先へ行くので、さようなら、お元気で」と言う以外になくなりますね。
私の現実面において以前と違うところは、自分の行動や言動に自分で自信を負う事が出来るという事。(責任を持つ、とも言えそうですが。)決して自信満々、鼻高々、なわけではないですが、失敗しても、以前の様に奈落の底に落ちるわけじゃないし、崩れ落ちるように泣くわけでもない。今、悲しい、今、嬉しい、そうした、私に訪れる感情をゆっくり感じる事が出来る、感情をゆっくりと味わう事ができる。そして、自分がどうしていきたいのか、考え、思う事ができる。
そして、今までお世話になってきた人と、今度は自信をもって、変わらず関わり大事にしていく事ができる。自分の問題と相手の問題を分けて考える事ができるから、相手との関係を大事にする事が、今、ようやくできるのではないか…。ふと思いました。
Fさん
>以前、私はさーこさんから「(あなたは)中立な観察者ではありません」と言われたことがあります。
そのことが記憶に棘のように残っていたのを思い出しました。
Fさん、その節は、言葉が足りなくて申し訳ありませんでした。
他人から見るとあなたがどういう風に見えるか、乱暴な状況説明になってしまって申し訳ありません。
現実のあなたの事は知り得ませんが、あなたが書かれた言葉から、あの時の、件の彼女が巻き起こす職場の事態の悪化の事を延々と書いていたあなたの言葉とその状態を見るだに、あなたが中立でも公正でもない「状態」なのは一目瞭然だと見たので、私はああいうコメントになりました。
つまり、「(あなたは)中立な(状態の)観察者ではありません」とあなたにお伝えしたかったのです。
私の方は、それだけです。他に意味は乗せていません。
>中立と公正は違うと思うのだけど、さーこさんの中ではいっしょなのだろうか?と。
私が言えるのは、ある個人が「中立な状態であるかどうか」「公正な状態であるかどうか」という事について、一個人として答える事だけなので、「中立という事実があるかどうか」「公正な事実があるかどうか」という事で私に尋ねられても、私には答える言葉を持たないので、答えられませんね…申し訳ありませんが。
ぬまおさん
ヨコからいきなりで申し訳ありませんが、もしよろしかったら、質問させてくださいませんか。
受動型ASなのに、ACが抜けて、いきなり「興味のあるもの全てをやりたくなって過密なスケジュールを組んで精力的に活動し…今考えればメチャクチャお節介な人に変身しました」という状態になったことがあったのですよね?
今振り返って、その状態は、ぬまおさんにとって不快とかつらいとかいうものだったのでしょうか?それとも好ましいものだったのでしょうか?
というのは、「そういう状態」(たぶんもっとすごい状態)になっている受動型の知人がいるからです。人が変わったように自信に満ち溢れ、夜も寝ないで何にでも首を突っ込み、仕切ります。立派なアウトプットも出しています。本人は楽しいと言います。でも、ACの時よりも、かえって不自然に見えるのです。誇大妄想と万能感(高い評価は確かに受けていますが、その事実以上に、自分はすごい人間だと言い、すごく偉い人としての態度を取ろうとする)が激しくなり、人をきちがい、低能とこけおろし、わずかな批判にも怒り、私に対しては、邪魔な人間で価値がないと、子供のような悪口を並べます。
私自身もASのはずなのですが、わかりません。これは長い目で見れば成長と言えるのか、または役割人格に憑りつかれただけなのか。喜ばしいことなのか、おそろしいことなのか。ひどい悪口を言われているのは共依存ということはかろうじて理解できて、距離を置いたのですが、あれこれ考えると、自分が自己評価の低い状態から抜けたいと思っていたことに疑問を感じてしまい、どちらに進んだらいいのかわからなくなってしまうのです。
ぬまおさんは孤立型の人の「終わりなきバトル」にも遭遇されたとのことですが、「終わりなき」ということは、受け皿のない「脱AC後の興奮」は終わらないんですか?(もちろん、全人類が同じ傾向ということはないでしょう。ぬまおさんのご感想でかまいません)
ぬまおさん
続けます。
>自分と同じ受動型がなぜ、人に嫌がられる行動をするのか理解ができない。依存100%になったとしても、うざいだけだと思う。嫌なら、文句を言えば近付いて来なくなると思うんだけどなー。
これについては、私はこう思いました。「人の役に立ちたい」「自分は役に立てるはず」という判断の根拠に、社会からのお墨付きがあると違うのではないでしょうか。たとえば、被災地の医師であるとか、不正と戦う弁護士であるとか、不出来な学生を指導する東大の教授であるとか。
そして生育環境の中で、その人が強い怒りを抱え込んできたかどうか。
怒りを持ち、かつお墨付きを持っていれば、一部の人に嫌われても「彼らは愚かであるからわかっていない」「皆私を妬んでいる」と言え、その言葉に説得力も付与されますから無敵の攻撃性でしょう。
でもその先に、何があるんでしょう。
人間は失敗(恥をかく、何かを奪われる)経験から学ぶと言いますけれど、上の方で、悠々とさんが「再起不可能な失敗だけは避ける」と書いておられますよね。失敗というのは、ある人にとってはやはりリスクかと思います。だからもしも、生涯人に頭を下げないでいい、無敵の環境(世界が認める天才科学者とか芸術家とかになってお取り巻きに囲まれるとか?)に恵まれたとしたら、自分を省みるなどということもせず、ひたすら前進、というのも、それはそれでありなのでしょうかね。
今仮にそういう恵まれた状態でも、いつか壁にぶつかるかもしれないと思って、失敗慣れしておくほうが、いいのでしょうかね。
自分を変えるって、自分のためなのか、人のためなのか、人のためが自分のためなのか、よくわからなくなってきました。
レスをいただいても、また何か月も潜伏してしまうかもしれません。私は時々、用語が統一されていないことに混乱して話を追えなくなってしまうのです。ただもしレスをいただいたら感謝して、きちんと読み、自分なりに考えるということは、あらかじめ書かせてください。
SANチェック SANチェック SANチェック ……
>悠々とさん
>テロ
主観ではなく言葉の定義です。思想の表現や実現のために他者を害したり、法を犯すのがテロです。
>「現実理解のためには」フェアでなくちゃならないのだ
これがガンですね。
フェア、公正、中立etc…これらは明文化されたものにしろ、不文律にしろ、複数の立場、意見の合意や承認によって形成されたルールを基準として判断する場合に用いる言葉です。
貴方は、貴方が作った貴方のためだけのルールブックに基づいた判断に対してフェアと言っています。
貴方はあまりに無自覚すぎる。
>敵と味方が~
どんな宗教ハマったらコレをフェアと呼ぶんですか?こんな判断をする兵士はどうあっても殺処分ですよ。
>ぬまおさん
>孤立型の方が生き安い
ぶっちゃけ、孤立型が生きる上で困難と言える困難って「どうやって収入を確保するか」くらいだと思います。
人間社会との乖離が大き過ぎるため生存可能な金額を稼ぎ出すというのは途方もない困難です(以前、とある相談所で「就職という形態は不可能だ。諦めろ」という趣旨のお言葉を頂きました(笑))。
誰か飼ってくれねーかなー(ぉ
ちひろさん
うわぁ〜(汗)
ちひろさんの大好きなみさんを、このブログから追い出す原因を作ったのは私ですよね…
恨まないで下さいネッ!(-人-)
ちなみに「えこひいき」だなんて思いませんでしたよ。
ぬまおさん
あれ?
ぬまおさんの話は「情緒障害から回復して、(他者を近くに感じられるようになり)人に近づきたい衝動に駆られるようになった」とも受け取れますね。
Fさんの方は「完璧に依存させて貰えないなら、全く依存できない」って感じで、「完璧主義のゼロ百思考」が強い印象があるんですが…
人によって違うのかな。
さーこさん
とりあえずACから抜けておめでとうございます!一時障害は自分の場合も会社の後輩の場合もそうでしたが、徐々に全開になっていく感じです。友達の総入れ替えというのは、共依存的な関係にある人だけで、普通の友達は今でも仲良しですよ。愛着だった文通相手との絶縁は仕方がないことだと思います。多分、共依存の関係だったんでしょう。
さーこさんが孤立型か積極奇異型かは分かりませんが、徐々に全開になっていく中で、相手を攻撃または反撃する気持ちがわいた時、一呼吸置いて抑えるようにすれば、社会的に問題は起きず、今までよりも、ずっと生きやすくなると思います。ストレス発散が重要。さーこさんには担当のお医者さんや、アロマテラピーとかがあるから、多分、大丈夫だね。第二の人生を楽しんでね!
嶺往無識さん
収入確保は難しそうですね。就職さえできれば、グチャグチャした人間関係に悩まなくて続きそうですけど。
道産子さん
もともと、人に近付きたくてしょうがなかったんだけど、自分に自信がなくて、なかなか声が掛けられなかった感じです。
黒たまごさん
時間がないので少しだけ。精力的に活動するのはとっても楽しいです。どんなに精力的でも、自分から外へ出て行って仕切ったりすることは、孤立型にも受動型にもないので、たぶん、その方は積極奇異型だと思います。積極奇異型の人については、あまり詳しくありません。
>嶺往無識さん
>ぶっちゃけ、孤立型が生きる上で困難と言える困難って「どうやって収入を確保するか」くらいだと思います。
>人間社会との乖離が大き過ぎるため生存可能な金額を稼ぎ出すというのは途方もない困難です(以前、とある
>相談所で「就職という形態は不可能だ。諦めろ」という趣旨のお言葉を頂きました(笑))。
>誰か飼ってくれねーかなー(ぉ
自分もその境地に達しつつあります。
多くを望まない代わりに自由を手に入れて、自分の好きなことをできればいいです。
それで生き長らえればいいやとようやく思えるようになりました
自分を縛ってたのは自分の思い込みだったと言えばいいのかもしれませんね。
嶺往さんを飼えればいいが無理・・
嶺往さんは自己突っ込みがあるんですね・・。
Fさんの言葉はほんとうに驚きです。
私がレイシストですか・・。
私の両親とも被爆者ですが、被爆手帳をもらっていません。今回の原発事故でわかるように、差別を恐れたからです。
それに、原爆が落ちた長崎県浦上地区も、迫害された隠れキリシタンの町。そこでは「原爆」そのものを、浦上五番崩れと呼ぶ人がいます。
そして今現在、私の実家はもとは炭鉱の積荷出港から発展した町にある、地元では名前の知られた特殊部落地区(古典宗教系)にあります。私はそのような町に生まれ、そのような町で子供時代を過ごしました。
(ちなみに、日本最大の某団体はもとは港湾労働者団体です)
そして、1000キロはなれた都市の、子供の小学校の体育館で、ママさんから「〇県、△町の・・・どこ?」と聞かれることとなりました。私はその時に嘘をつく理由がなかったので地名を答えたのですが、それがのちのママ友の方々の嫌がらせにどこまで関係したのかはわかりません。推測するのみです。
そこことを今まで書かなかったのは、
嶺往無識さんが『こりゃあかん。アカ過ぎる。※先生、問題でしたら検閲なり弾くなり適切に対応してください。先生に累が及ばないかというのが、私が貴方の発言に対して感じる最も大きな懸念です。』
と、書いたのと同じ懸念があったからです。
でも、名指ししてレイシストと呼ばれた以上・・書かせてもらいました。
理不尽に対して、復讐という行為を選ばす、憎しみに蓋をし、許し、黙って痛みをこらえて生活をしているひとが大勢います。
「レイシスト」という言葉を安易につかわないでください。
あなたがなにも知らないだけです。
理Ⅲで学校に入ったのにいつのまにかインド哲学になってて今は一人暮らしで家で翻訳の仕事をしているいとこがいるんですが・・孤立型ASの可能性ありますね・・。
ちょっと留守してたら、話の流れが早くてついて行けない状態に(笑)
ぬまおさん
親との関係と受動ツッコミは、あるような、ないような・・・
親も発達障害の疑い大!なので(父親がASで母親がADHDかも)一般的な家庭ではなかったです。
私も立派なACだったようで、高校受験数ヶ月前に仲良くなった勉強が出来ない友達(愛着の対象?)を数ランク上の私の志望校に一緒に合格するほど「面倒を見て学力を上げさせた」経験が私のACを治してしまったようで、高校時代はぬまおさんと同じ、一時障害全開という状態でした。
悠々とさん、お答えありがとうございます。
お気持ちを教えて頂いてありがとございました。
ちひろさーん、落ち着いて!!
Fさんが言ってるのは「親・教師・上司などの立場の時にえこひいきが過ぎると、えこひいきされない側から見たらひどい差別をされているように感じる」だと思うのです。
親→自分の子供たち(兄弟間の極端な格差)
教師→生徒
上司→部下
に対しては公平に接する義務があるからですよね。きっと、ちひろさんがレイシストだと言ったつもりはないのだと思いますよ。
私はえこひいきする人間なので、誰にそう見られても結構だと思っていますが、確かに部下や子供たちに対しては公平に接するようにしています。
それ以外の人間関係は基本「好かれたもん勝ち」だと思ってます。そして私は決して自分が好かれる人間ではない事も十分理解しています。その上で、やはり好かれる言動を取れる人間がひいきされるのは仕方ないと思っています。
最近のCMで宇宙人ジョーンズが、「この星では愛されるという勝ち方もある」と言ってますが、その通り!と思ってます。
私のえこひいきはプラスαであって、好きでも嫌いでもない大勢人の中で一部の人に「好き」がプラスされている状態です。
でも、色々お話を伺ってると、「誰かにプラスされると、誰かがマイナスになる」というような、ゼロサムのイメージを持つってる人もいるのかな。
公平でなければいけない立場(それこそ親や教師や上司など)では、誰かのプラス=誰かのマイナスになるのかもですが、そうじゃない立場の人にまで、公平な対応を求めるのは、ちょっとどうなの?と思います。
ちひろさん
ちひろさんの思考が追えなくなりました。
>ただし、一方的に評価する立場(親・教師・上司など)の場合は、自分に厳しい基準を課さないと、『ひどいレイシスト』になっちゃうと思います。それは2重の意味でアンフェアです。
おそらくこの部分に対してのコメントが返ってきたのだと思います。
私は、ちひろさんがひどいレイシストだとは言っていません。
上記の一文をもう少し細かく書きます。
自分と誰か(相手)がいたとします。
自分にそのつもりがなくても、相手に差別的な行動を取ってしまうかもしれない。
そして、自分が相手よりも社会的に強い立場であるときは、よっぽど気をつけないといけない。
社会的に強い立場であるがゆえに、相手に対して大きなダメージを一方的に与えてしまうのではないか?
それは二重の意味でアンフェアになる。
差別的な行動には『えこひいき』はもちろん、『冷遇』もあてはまります。
さらに、『自分』と『相手』の部分を、特定の誰かの名前に置き換えて読んでみるとどうでしょう?
(『相手』の部分に『ちひろさん』を置いてもいいです)
これで通じますか?
m2さん
横槍のようで申し訳ないのですけど、
>ジャイアンと受動型ASに共通のことだが、自分の主観はあてにならない。多数派と価値観が違うのだから。
>一人に批判されても気にすることはないが、複数の人から同じ批判をされた場合は、「自分の行動はそのような印象を与える」と思ったほうがいい。
そもそも『少数派』が多いこのブログで、「複数の人から同じ批判をされた場合は~」と一般論に広げるのは、苦しくないでしょうか?
m2さんは「受動型の価値観=多数派の価値観」と考えているように読めます。
前段との矛盾を感じます。
そして悠々とさんに疑問を投げかけたのはASっぽい人たちばかりなので、AS側の言葉の受け止め方にも歩み寄りの余地があるのでは?と思い、
>もし本当に異文化を理解しようと思っているのなら、悠々とさんも『ASの努力③言葉の理解』のエントリを読んでくださると助かります。
>他のASの方も・・・。
と書きました。
さーこさん
私はあのとき、「誰の側にも寄らないこと(自分が正しいかどうかは別)」という意味で『中立』という言葉を使いました。
当時の自分が中立な立場ではないことを自覚して、「私は中立な観察者に戻ります」と書きました。
私は自分が『公正』だとは書いていません。(意識して、書きませんでした)
>あなたが中立でも公正でもない「状態」なのは一目瞭然だと見たので、私はああいうコメントになりました。
という今回のコメントで、さーこさんにとっては『中立』と『公正』が一緒のようだということは理解しました。
お返事ありがとうございます。
ぬまおさん
貴重なアドバイス、どうもありがとう。さっそく私のデータベースに全部投入しました(笑)徐々に全開かぁ、なるほど。それと、たしかに一呼吸置いて抑えるようにすれば、社会的に問題は起きずに、今までよりもずっと生きやすくなると私も思います^^ストレス発散が重要、確かにね。これから私はどんな自分になるだろう。ああ、それと、ぬまおさん。私が積極奇異なのか孤立なのかは、私はどうでもいいと思うんですよ。だって、私は、私ですから(^^)v
Fさん
人生がんばってね。お返事ありがとうございました(^_^)/~
あ。単語に過剰反応し、誤解してしまいました。すみませんでしたm(_ _;)m。
いろいろ頭を冷やさないといけないみたいです・・。
問題点箇条書き。
・まずレッドカードな立ち回りをしている人物を複数人が止めようとする。これは最終的に先生が退場処分を下した。
・続いて、その状況に対しフェアではないと発言した者があった(悠々と氏)が、その発言内容が「法治主義と敵対する人間」を匂わせるに十分なものであったため、何人かが問い質した。
・何を問題視しているかが本質的に伝わっておらず、当人は判に捺したような犯罪者の言い分そのものの発言を続けた。
通常、位置を示すとき「点aからθ方向へ距離x」と表現するが、悠々とさん(というか、ジャイアン型の性質か?)は自分を点Oに置けると思い込んでいる。
演繹演算ができてないように思えるがそこが問題か?
フェア、公正、中立、正しい……そもそもルールを共有してないのにフェアも何も無い。レギュレーションが無いのに何故このような考え方をするのか?
以下返答
>就職さえすれば
どうなんでしょうね?本人が悩まなくても人間関係が原因でクビになりそうですが(笑)
他にも聴覚過敏(私が少し大きいと思う程度の音だと家族は聞こえないと言う)とか色々問題ありますし。
>自己突っ込み
ハテ?何処を見て私にそれがあると感じたのでしょうか?
演繹と帰納で論を組み上げ文章を整形して発信してるだけなのですが。
私も飼えたらいいのになぁ。楽しそう。
でも基本的に仕事に対するスタンスが同じだから(稼げなくても地位がなくても気楽で好きなことがしたい)ダメなんですよねぇ笑
良寛さんの話、面白そうですね。本読もうかなぁ。
歴史上の人じゃなくても、芸能人って発達障害者多いんだろうなぁとよく思います。薦められた星野源のエッセイがまるまるのび太だったり、オードリーのラジオをテキストに直したサイトを読んだらADHDとASコンビだなぁと思ったり。
家族のいざこざがよく持ち上がるのも、お金のせいだけじゃなくて発達障害ファミリーなせいだったりしてー。
松尾芭蕉だか一休さんだかの展覧会で「仮住まいに友達が来ていたのに帰ってしまって寂しくて泣いた」的な詩があったんです。私、こんなつぶやきが何百年かのこると思ったら噴き出してしまって。周りのおじおばさま方にすごく睨まれました。その詩が一番気に入りましたけどね。
悠々とさん
お返事ありがとうございます。率直な意見が聴けると、とてもありがたいです。
>「どう思うか」は操作しづらいですよね。表現しなくても心で思っていることは変えられないし、表現されなければ思いもよらないかもしれない。知った上でそれぞれ好きに振舞うのが良いんじゃないかな、
その通りだと思います。特に、自分は指摘されるのはありがたいと感じるので、なるべく、嫌な思いを感じたら、その時点でご指摘下さいm(_ _)m
Fさん
妻は両親の離婚や親の借金問題など、不幸な家庭環境に育ちましたが、ACになったことがないそうです。会社の後輩をACから抜くのも非常に簡単だったので、孤立型は本来ACになりにくいのかもしれません。これからACを抜けて一次障害が突然現れる可能性は高いと思う。自分なりに一次障害を押さえ込む受け皿を今から用意しておいた方がいいと思います。
妻に考えていることを突っ込んで聞いたところ、「これまで口には出したことがないけれど、自分は完璧で、自分以外の全ての人が自分より能力が低く見える。自分がダメだなんて思ったことは一度もない。周りの人が、自分が考える完璧な行動を取れないのを見ているだけでストレスになるので、直接言うことはないけど、頭の中で人に対して突っ込みまくっている」と話していました。
妻の言葉などから考えると、「自分の理解が絶対的に正しい」と考えているため、愛着に対しては完璧さを求めて攻撃的になるが、愛着以外の人に対しては基本的には受動突っ込みが発動して言動がある程度抑制されるため、対外的には問題が起きにくい。しかし、人と交流するだけでストレスがたまるため、外界との遮断が必要になるんじゃないのかな、と思いました。
AC時代は自己評価が低いため、愛着に求める完璧さのレベルが低く抑えられると思うけど、ACを抜けて自己評価が高くなると、とんでもなく高いレベルでの完璧さを求め、愛着がそれに応えられないとパニックなどの不適応を起こすことになるんじゃないかなぁ。
孤立型本人はACを抜ければ非常に快適に暮らせるようになると思いますが、結婚している場合、パートナーが対応できなければ破綻する可能性が高いと思う。自分は、完璧とまではいかなくとも、家事や子育てもする「イクメン」として、それなりに対応できているとは思います。
孤立型の後輩がACから抜けて一次障害が全開になった時のことについて書きます。ちょっと極端すぎて参考にならないかもしれないけど(^^;)。AC時代は自分と同じ受動型にしか見えない雰囲気で、たまに怒ることもあったけど、話しも良く合うので一緒に遊んだりして、後輩にとって初めてできた友達になりました。それまで二人で遊ぶような友達は一人もいなかったそうです。9年程前に「もっと自信を持ちなよ」と、簡単なカウンセリングをしたところ、あっという間にACから抜けました。
ACから抜けた当時、後輩は神様になってしまいました(笑)。笑い話でなく、自分がキリストや、お釈迦様の上を行く真理を見つけたと言い出し、バイブルとして自費出版で本まで出す有様です。ビックリしました。ここまで変化するとは思ってもいなかったです。本には数々の独自の教義や自分の頭の中のことなどが書かれており、過去のエピソードとして、運命の相手として登場した女性へのストーカー行為を激白。結論としては、「人は、運命によって決められた、たった一人の相手以外の人間はいらない」というような趣旨で、真理というのは孤立型の特徴そのものだったりします(笑)。
仕事の面では本来の実力を発揮し始め、会社の皆も、「前より、ものすごく良くなった」と言っていますが、家族と決裂して一人暮らしをはじめ、愛着だった自分に対しては、「人には、運命の相手以外の友達など必要ない」と言い出し、「人は、自分以外の人が考えていることを知ることも想像することすらも、できないはずだ」「近くにいると考えが読み取られる。怖い。悪魔だ」などとメチャクチャなことを言って拒絶反応を示し、絶縁を前提とした徹底的な反撃が始まりました。
その後、一次障害全開の状態から徐々に落ち着いてきて病的な言動はなくなりましたが、同じ職場にいるので今でも、後輩が自分のミスを探し出しては徹底的に追及し、「会社から消えてほしい」という趣旨のことを言うような攻撃が続き、自分が、たまに怒った振りをして問答無用に怒鳴りつけて黙らせるという状態です。一度、絶縁状を叩きつけた愛着とは修復不可能な関係になるのかもしれないです。前まで、積極奇異型だと思っていたけど、やっぱり孤立型だったみたいです。
なつもかさん
良寛さんの逸話って面白いものがたくさんありますよ。
よく忘れ物をする良寛さんは、持ち物に名前を書くことにしたのですが、書いた文字が
「おれがの」とか「ほんにおれがの」
というものでした。
意味は「俺の物」「本当に俺の物」ということだそうです。
金とか物は天下の回り物で、その時たまたま使っている人の物に過ぎず、永遠にその人の物ではないから、自分の名前は書きたくなかったんだそうです。
なんか、ユニークでしょ?
でも良寛さんの文字は特有だから、みんなが気づいて届けてくれたそうです。
>嶺往さん
>自己突っ込み
「(ぉ」のことですよ。(受動突っ込みなのかな?・・)嶺往さんにとって「(ぉ」は演繹と帰納の結果、文末に必要としてつけただけなんですよね。しかし私はこれを見て、直前の言葉への反証としての自己突っ込みだと思った訳です。
あとADHDは自分でレギュレーションを作ってかないといけないとこがあるんですよ。
もしかしたらと思う女性がいました。同じビルに入っている他の職場の人と仲良くされていました。・・が子分のようにみえるぐらいの接し方で、いつもの一人でいるスタンスとはあまりにもかけ離れていて、びっくりましたが、いつの間にかその人といるところを見かけなくなり、聞く機会があり聞いてみたところ、宗教に勧誘してきたので、ケンカしたとのことです。まったく悲しいとかの余韻がありませんでした。人の悲しい身の上話を聞いても、大変やったね…大変やったね・・としか言わない人でした。表情もあまり変わりませんでした。
続きなのですが、その女性は、趣味の詩を自費で作り無料で社内の職員に配っていました。私はどうしたらいいのかわからなくて、相手に自分から代金を支払いました・・・。あと・・・社内のお局の、今日の飲み会のお酌はしなくていいとの通達に一人反して、お酌を積極的にされていました。あと社内のお荷物の男性が自分の近くで人の悪口を言っているのを私を信用して言っているんだ・・・とその場にいた3人の秘密と勘違いしていました。。
私は今も昔も、文筆家、池田晶子さんの本が好きなので、今でもたまに読みます。いつか「暮らしの哲学」を読めるようになるといいなぁと思っています。
>(ぉ
あー、コレはセルフツッコミという「様式」ですね。パートとしては文章の整形になります。「いちおーホンネだけど、冗句として流して欲しい」ときに使います(笑)
>自分でレギュレーションを作ってかないといけない
そこはわかるんですけどね。何故自分専用のレギュレーションを基に他人を批判するのか?というところが問題なわけでして。
ルール自体も相当怪しいですが、そっちは方法的懐疑でローラーかければどうにかなるはずですが。
ちひろさん
すいません…間違って解釈してました(-人-)
ちひろさんの言う「えこひいき」って、「(本当は違うのに)周りからは道産娘に肩入れしてると見られる」という意味でしたね。
私はそんな風に捉えていませんでした。
以前みさんと言い合いになりそうだった時、アメジストさんと一緒に「コメント欄を荒らさないで」って私に言ってたので、純粋にトラブルを回避するためだと思ってました。(それ以後はみさんに構って欲しかった…ということなんですね)
嶺往無識さん
元々は私とみさんの言い合いが原因ですが、「ジャイアン同士の子供染みた下らない喧嘩」ですので、申し訳ありませんが話を広げて「テロ」や「犯罪者」等大それた単語を用いて討論するのは止めていただけませんか?
もちろん、「あなたが最初に言い出したことではない」ことは承知しております。
ただ私達の喧嘩は、上記の単語に値するようなものではございませんので、恐れ多い…と言うか、何だか恥ずかしいです(汗)
ここは人様のブログでADHD・AS・多数派と様々な方が集いますので、「私達の都合」でコメント欄を荒らしてはいけないし、ましてそれを周囲の方々のせいにはできません。
(ちょっと言葉足らずだったので…)
嶺往無識さん
私は嶺往無識さん達が「自由に討論すること」を否定するつもりはありません。(ついでに自己満足を理由に情報提供することも)
あくまで私の「個人的な考え」ですので、そこはご理解いただければと思います。
ちなみに、私とみさんのやり取りについてですが、私自身は「取り巻きが悪い」とは思いませんし、何がフェアか?なんて分かりません。
「傲慢なジャイアン同士が、周囲を巻き込みながら下らない喧嘩をしている」だけです。
自分の「エゴ」を「取り巻きの加担の仕方が悪い」と言えるのは、「自己正当化の言い訳」だと思いました。
また偉そうなことを言ってしまいましたが、皆さんが悪い訳ではありませんので、気にする必要無いですよ♪
星野源さんのび太・・!!泣けたっす・・・
道産娘さん
・・・そうなんです・・(><)
あの時は、みさんにもう少し客観的な視点を持って欲しいと思ったのです。
あれはトラブルを回避を目的とした発言と見せかけた、みさんへのからみ。だいたい私が「あらし」を嫌うなら、某掲示板の住人にはならないだろうし、第一次みさんバトルなんてやらないはず。「いい加減に・・」という言葉で逃げているとはいえ、もう完全にダブルスタンダードになっていて、自分で気づいて呆れているところです。
みさんは私とバトルを始める前に、「スピリチュアルペイン」と、自殺に失敗して治療にきた外国人労働者のことでコメントを残しています。その時から個人的な興味を持ったような気がします。
私が学生バイトをしたとき、その会社の社員の方に朝鮮学校を卒業した人がいました。私のふるさとは確かに今だに差別が残っていますが、と同時に、そいう方が当たり前のようにそばで働いている町でもありました。そんなことが重なったのだと思うのです。
こうやって書けば書くほど、私の興味はみさんに一点集中してるのがわかります。
もちろんっ。道産娘さんなんてど~でいい、とか思っているわけなですっ!
「えこひいき」や「良い子ちゃん」にみえた「ストーカー」ってことで・・・( ̄▽ ̄;)
主人が?かなっと思うのですが、男の人と趣味で盛り上がっていても気にする様子もなく、主人に腹を立てて当てつけで、高速バスで知り合いの女性宅に泊まりがけで行っても・・・・おかえり・・と快く出迎えてくれて??自分も息抜きできてよかったとばかりで、お互いよかったね?という感じでした。。。・・・・・・・
m2さん
うーん・・
僕は誤解を受けることはある程度仕方ないと考えています。
だから誤解に対してこうして何度でも解説しますし、間違えた部分について訂正を繰り返していますよね?(これが僕の責任の取り方なわけです。貴方の気に入る方法でないとしても、です。)
それもよろしくない、というお話であれば
僕は情動障害的に相手の顔色を伺ってびくびくしていなければなりません。
「間違えないようにした方がいいよ」
というアドバイスはADHDには酷だと思うんですよね。
(いやもちろん、間違えない方がいいとは思いますよ。できる限りは。)
ちなみに僕は人生楽しいです。
m2さんに限らず、人からはよく「生きづらそうだ」とは言われるのですが、自分の感覚としては好きなことを追求しているだけなので、わりと毎日楽しい。(意外かもしれませんが、m2さんとのやりとりもおもしろいと思っています。例え腹が立ってたとしても、です。ちょっとここら辺は「僕は」人と感覚が違うと思います)
特にここでたまに成立するような、ちょっと伝わりにくい抽象的思考が共有されたときなどは、本当に楽しいです。
道産娘さんが言われたように、そこらへんは完全に自己満足ですね。(自己満足が「誰か」の役にも立つならそれも嬉しい)
>ジャイアン型ADHD=ドラえもんのジャイアン、ではない
m2さんには、もっと抽象的な方が伝わるのでしょうか?
m2さんはこれを必要十分条件として捉えていますが、これは必要条件と十分条件に分かれます。
ドラえもんのジャイアンはジャイアン型ADHDですが、ジャイアン型ADHDはジャイアンではないですね?
と言いたいのです。
攻撃性については、起点的行動が攻撃性と見られることがあるのは理解しています。
けれど、これもまた必要条件と十分条件の話になりますが、起点的行動はすなわち攻撃、ということではありませんね?
であれば攻撃意図を持たない起点的行動に対する反撃があった場合、それを「ジャイアン型ADHDだけに原因がある」と捉えるのは無理があると言いたいのです。
これはジャイアン型ADHDに「原因がない」と言っているわけではありません。(そして受動型ASが悪いと言っているわけでもない)
Fさん
お、チャンネルが繋がったかもしれませんね。
嬉しいです
僕の使った「フェア」は公平という意味で、正しいという意味を含んだつもりはありませんでした。
フェア、というより相対的観点、と表現した方がよかったかもしれませんね。
Fさんの記憶は図書館のイメージなのですね。
僕の記憶はパソコンのフォルダ管理のイメージです。
階層管理がしてあり、フォルダ名称で中身を推測する形。
ただ、フォルダ名称のつけ方が適当なことが多く、開かないフォルダが多くあるようなイメージです。(そして意識していないと、ほとんど開かれないような場所に保管されてしまう)
特に人の顔と名前が別フォルダに入っていて、最近まで同一フォルダ内で管理する方法がわかりませんでした。(顔と名前を一致させることがすごく苦手でした。)
最近は、顔画像にテロップ風に名前を入れることで、同一フォルダで管理できるようになったらしく、あまり苦労せずに名前と顔が一致するようになりました。
ただ、人の顔と名前以外の長期記憶に関しては、むしろ人より優れていると感じることが多かったです。(論理的な関連付けのせいかと考えています)
収まりの悪い記憶については、Fさんの表現は、驚くほど僕の体験と似ていると感じます。
学生時代の教科書の表現などで、どうしても納得できなかった場所など、今でもありありと思い出したりします。
僕の妹もおそらく孤立型なのですが、それほど記憶力がよいわけでもなく、Fさんと同じようなことを言っていました。
対して受動型父は、よくよく聞いてみると写真のように映像記憶を行っているようで、恐ろしいほどの記憶力を持っています。
アスペルガーも映像記憶者でない場合は、普通と同じ記憶方式になるということなのかもしれませんね。
(とすると短期記憶チェーンの仮説は使えませんね)
ぬまおさん
ぬまおさんは相対的な観点から自分を見られるひとなのですね。
今回は、その場その場で言うのもよくないかな、としばらく取っておいたものを一時に全部出してしまったことが、誤解を生む原因でもあったかもしれません。
お役に立てたならなによりです。
ちひろさん
分かりました!
一つ気になってたことがあって、多分ちひろさんは「ある言葉」がきっかけで、過去の辛い出来事を思い出してしまい、感情的になってしまうところがあるのかなと思いました。(おそらくFさんに反発してた訳じゃなく、その「言葉」をご自身の過去の出来事と関連付けて考えてしまったのでしょうね。ASの特性?)
私とみさんの喧嘩をテーマに議論しないで欲しいってのもあるんだけど、正直、ちひろさんのような方が居る中で「差別主義」等の言葉を投げ掛けるのってどうなのかな?と思いました。(ASの方が誇大的であることは分かっていたので、上記のような言葉を投げ掛ければ相手の反感を買うことぐらい予測できますし、m2さんの言うように「理由もなく受動型本人から攻撃しない」と思います)
なので「問題提議」をされた嶺往無識さんの気持ちは分からなくもないです。
嶺往無識さん
議論を止めたこと、お気を悪くされたらごめんなさい。
私とみさんの問題なのに、他の方々に謝られるのが正直苦痛でした。
なので他の話題で議論していただけるとありがたいですね。
ここ最近の投稿をざっと読み渡しての感想文です。個人の個性をできるだけ捨てて、俺の感じた一般的な傾向を書いてみます。
ADHDとASとの違いについて。ADHDの人は、話を展開させることに長けていると感じました。対してASの人は、話を掘り下げていくことに長けていると感じました。
ジャイアンとのび太の違いについて。ジャイアンの人は、話の展開が積極的で、話の跳躍力があると感じました。対してのび太の人は、話の展開が連続的だと感じました。
積極奇異と受動の違いについて。積極奇異の人は、話題を引き継ぎながら関連する話題を掘り下げていき、話を膨らませていくように感じました。対して受動の人は、話題になっているテーマを主軸に掘り下げていくように感じました。
そして、エントリーテーマでもある孤立型について。孤立型の人は、とりわけ独特の世界観をもっているように感じました。それゆえ、その場の共通言語のようになっている言葉遣いに関わらず、独特の言葉遣いで話を掘り下げていくように感じました。その言葉を読み取る作業の過程で話題が広がっていく面白さをも感じました。
それと、私事ですが、転職しました。前職と異なり過分に任されている状況で、人間関係に悩む時間があまりなさそうです。裁量の幅が広いのはありがたい、と思っています。
あらら…私のコメントがきっかけでコメント数が激減しましたね。
別に議論を止めろって言ったつもりはなかったのですが…凄い影響力(苦笑)
最後に訂正させて下さい。
>私とみさんの問題なのに、他の方々に謝られるのが正直苦痛でした。
は、他の方々が悪いと言われるのが正直苦痛でした。
の間違いです。
あと、勘違いされてる方がいるようですが「自己満足を理由に情報提供している」というのは、他の受動型の方に対して言いました。
(嶺往無識さんへのコメント内で言ってしまったので、「しまった!」と思いました…)
嶺往無識さんのことではありませんので、勘違いなさらないで下さいね。
初めてコメします
ここ数日のみなさんのコメントを読んで思ったのですが、俺は元ACのADHDだと思うけどASは道産娘さんが思うほどか弱くないです。議論と称して攻撃してきた相手を叩くし、それを楽しんでる人もいる。けんかをけしかける取り巻きもいたしあと発言がころころ変わっていい加減なことばかり言う人とか。俺も身内がASだらけで言うことを真に受けて痛い目見てきた。彼らは強かですんで甘やかすのは良くないしばか正直な人間が損するだけです
あと文句があるなら無識さんじゃなくて悠々とさんに言えばいいじゃないか。最初に攻撃してきたのは悠々とさんだしだから道産娘さんも無識さん宛のコメに悠々とさんへの嫌味書いたんだよね?俺ならそうするねじゃないと卑怯でしょ。まっ言い訳されて攻撃も何もなかったことにされるのは目に見えてますけどねw
討論?そんな神聖なものじゃないでしょ。みんな面白がってその人叩いてるだけだしその人も周りの人達から注目されたくて攻撃してんだろーしw
言い返さないと余計ストレスたまるし道産娘さんが馬鹿を見るだけですよ
keromonさん
>発言がころころ変わっていい加減なことばかり言う人とか
これは自分のことだな(笑)なんで、みんなそこを突っ込まないのか不思議に思ってた。リアル社会ではジャイアンにそこを突っ込まれて「お前は少し黙ってろ。よく考えてから話せ」と言われます。これがAS被影響症候群の状態というやつか?keromonさんに突っ込まれて、ちょっとうれしかったりして。
考えがコロコロ変わって、次の日には違うことを言い出すので、結構、人には嫌われます。妻が怒る気持ちも分かる気がする(笑)。昨日出した結論が今日には変わっていることはしょっちゅうなので、優柔不断としか言えないな。人の上には立てないタイプだと自負しています。
そもそも、定まった自分の意見がないので流され続けている状態かも?自分に対して矛盾とかを遠慮せずに突っ込んでくれないと、勘違いしたままになってしまいます。逆に、いい加減なことを書いている、ぐらいに思ってくれた方が、正しいかどうか自分でもよく分からないことを書いているので、ありがたいです。自分のコメントは参考程度にとどめてください。
>道産子さん
ちなみに、今は突っ込み待ちの状態です。
携帯からです。
悠々とさん。
▷僕は誤解を受けることはある程度仕方ないと考えています。
だから誤解に対してこうして何度でも解説しますし、間違えた部分について訂正を繰り返していますよね?(これが僕の責任の取り方なわけです。貴方の気に入る方法でないとしても、です。)
それもよろしくない、というお話であれば
僕は情動障害的に相手の顔色を伺ってびくびくしていなければなりません。
「間違えないようにした方がいいよ」
というアドバイスはADHDには酷だと思うんですよね。
(いやもちろん、間違えない方がいいとは思いますよ。できる限りは。)
ちなみに僕は人生楽しいです。
m2さんに限らず、人からはよく「生きづらそうだ」とは言われるのですが、自分の感覚としては好きなことを追求しているだけなので、わりと毎日楽しい。(意外かもしれませんが、m2さんとのやりとりもおもしろいと思っています。例え腹が立ってたとしても、です。ちょっとここら辺は「僕は」人と感覚が違うと思います)◁
小生と本当によく似た感性をお持ちだと思います。
出張と懸案解決の旅に出ておりました。
大変有意義な旅でした。
悠々とさんのコメントを拝見して、何となく嬉しく感じました。
お互い言葉足らずで誤解を受けやすいですけどね。
道産娘さん、よかったらひとつ教えてください。ついでとはいえ、自己満足を理由に情報提供していることを否定しない、とあのタイミングでコメントしたのは、何か理由があってのことなのでしょうか。
カッコ書きであることと、嶺往無識さんの一連の投稿が自己満足理由の情報提供ではないといえることから、嶺往無識さんに宛てたものではないことは分かると思います。
一方で、少なくともここ最近の投稿で、道産娘さんが自己満足理由の情報提供を否定するかのように読めるコメントをしたことはなかったはずです。
だから、道産娘さんがそのような情報提供を否定しているかもしれない、とは誰も思っていないのではないかと。
それにも関わらず、あのタイミングであえてコメントしたのは、何か理由ないし意図があってのことなのかしらん、と思った次第です。
ただ、身近なジャイアンはときどき、思ったから口に出した、ということを言ってきます。それと同じで、ふと思い立ったからついでにコメントしたのかな、とも思っています。
先にも書きましたが、ジャイアンは思考に跳躍力があるので、ときどき話のつながりが分からんようになります。その違いが面白いし、跳んだ軌跡を追う作業に楽しみを感じてもいます。
自分の場合、人に気を遣われるのが一番さびしいと感じることで、昨日みたいなコメントを書き込んでいるのはなんでだろう?と考えていたんだけど、何となく理由が分かりました。相手の本音が聞けないと相手の正確な考えが読めなくなるからだ。受動型の自分の場合は、相手に気を遣われていると感じると、相手が気を遣わなくていいように、自分で相手の本音が出せる環境を調整するため、いじめられるような環境を自分で作っているのが、いじめられる原因かもしれない。いじめられている状態よりも、誰も相手にしてくれない状態の方がつらいのかもしれないな。
孤立型もベースはそれほど変わらないと思うので、相手に気を遣われるのは好きではないと思う。会社の後輩を見ていると、自分以外にも相手をわざと怒らせることを言う場面が多く見られる。多分、意識的に怒らせようとして言っているわけではないだろうけど、みんなが気を遣って言わないようにしていることを、あえてズバッと言っているので、無意識的に、自分とは違った形で本音が言い合えるような環境を作っているように感じる。
後輩と仲が良かった時は、徹底的に議論し、いつでも喧嘩のような言い争いばかりしていましたが、お互いに気を遣わない良い関係でした。ACを抜けてからは後輩が一方的に心を閉ざしてしまったため、議論に発展しない全否定の状態になりましたが、孤立型のパートナーや家族は、面倒でも相手に気を遣わずに徹底的に議論して分かりあえるような姿勢を持たないと、本人に対して間違ったメッセージを伝えることになるかもしれません。受動型と孤立型に気を遣って言いたいことを言わないと、多分、不健全な関係になってしまうと思います。
keromonさん
自分で「卑怯ではないか?」と自己嫌悪感(自己突っ込み?)を抱いていただけに、ハッキリ言われてショックも大きかったのですが「その通りだな」とすんなり認めることもできました。
コメントありがとうございます。
ぬまおさん、zzzさん
そうか、zzzさんは私が「衝動的に突飛な発言をした」と思われたんですね。
実際は少し違うのですが、確かにそう思われても仕方ないですよね(苦笑)
「自己満足を理由に情報提供する」
本人の名誉のために名前は伏せようかと思ったのですが、本人が「突っ込み待ち」とのことなので言っても良いよね(笑)
ぬまおさんのことです。
どうもぬまおさんのコメントを読むとASのACを間違って捉えてるよね?と思い、指摘したら無視されて、ふとこのエントリーの中で「自己満足で情報提供してる」とぬまおさんがコメントしてたのを思い出して「そうか…自己満足のためなんだ。ナーバスだなんて心配して、真面目に答えて損した!」とムカついたのもあって嶺往無識さん宛のコメント内で嫌味を言ってしまいました…大人気ない(^_^;)
以前も同じようなことがあったので、あまり余計なことを言わない方が良いかな。
(続きです)
keromonさんも言ってましたが、一口に受動型と言っても色々な方がいらっしゃるので、あまり気を使って庇い過ぎるのも考え物だよね…とは思います。(AS被影響症候群になりそうだし)
「差別主義」等の発言もそうだけど、言論の自由もあるから、どこからを「タブー」にすべきか正直分からない…最終的には先生に任せるしかないですね。(後は個々の責任ということでなるべく止めないようにします)
嶺往無識さんを止めた理由ですが、確かにkeromonさんの「止める相手が違うし卑怯だ」というご指摘は正しいですよね。
「嫌味」もその通りです。
「卑怯」と分かってて嶺往無識さんを止めたのもそれなりに理由(言い訳レベル)があるのですが、ここでは伏せますねm(__)m
一つ誤解して欲しくないのは、私は嶺往無識さんの言うことを否定してません。
ここが「発達障害者同士が理解を深める場」でなかったら、一緒になって言ってたかも♪(ぶっちゃけ心の中では煽ってました。嫌味は止めてハッキリ言った方が良いような気もしてきたし)
あと、遅くなりましたがzzzさん
転職されたんですね。
(新しい環境ですから)体調管理にはくれぐれも気を付けて下さいね。
道産娘さん
以前、なつもかさんのコメントで、「ADHDは一旦全部取り入れる」とあって納得感がありました。
裏を返すと、「ASは自分に都合の悪いことは取り込まない」です。
それが「こだわり」ってものだと思います。
道産娘さんの意見が、ぬまおさんにとっては取り込むと自分が壊れてしまうかもしれないから取り込まなかっただけで、悪意は無いです。
こだわりは自分が壊れてしまうことを防いでくれますが、同時に必要なことを取り入れられられないリスクでもあります。
ADHDの方は、こだわりを捨てろ、と簡単に言いますが、ASがこだわりを捨てたら簡単に壊れます。
自分のいろいろな経験を通して、「壊したほうがいい」と自分で納得して初めて、こだわりは壊れます。
これが成長ということだと思いますが、そう簡単にはいきません。
だから、ADHDを基準に、自分が言ったから相手に伝わっているはずなんて思わない方がいいです。
そして、伝わっているはず、なんて思い込むと誤解になります。
こだわりにブロックされたものは、ASは「最初から無かったもの」として取扱されます。
だから、何度言っても通じない、という事態も発生します。
AS同士(特に一方が受動型AS)だと、相手のこだわりにふれない言い方に切り替えて話がはじめて通じるなんてことは普通にあります。
ただ、それだけのことですから、道産娘さんも言いたいこと言っていればいいんですよ。
余計なことを言わないように気をつけたって、同じようなことは起こります。
道産子さん
すみません。無視していたんじゃなくて、後で返事をしようと思って忘れていた感じです(^^;)
コメントを見てて何となく分かると思うけど、ほかの事を考え出すと、前のことをすっかり忘れてしまうことがあるんです。それも一次障害なのかな?一次障害と二次障害の方を昨日見て、コメント入れました。返事が遅れてすみません。見てね!
あと、ほかにもコメントに答え忘れていることもあるかもしれないので、無視しているわけではないので、ご指摘ください。
m2さん
>ぬまおさんにとっては取り込むと自分が壊れてしまうかもしれないから取り込まなかっただけで、悪意は無いです。
自分の場合、人の考えを取り込みすぎて、すでに壊れているのかもしれません(笑)人の考えを取り込むこと自体が、こだわりになっているような気もします。
zzzさん
転職おめでとう!人間関係で悩まない職場だと、仕事がしやすいよね。自分も、基本的には全部、人と協力しないで一人で完結できる仕事なんで、人間関係が仕事に影響しないので続けられている感じです。
zzzさんは経理関係の仕事でしたっけ?妻は以前、会計事務所に勤めてて、今は全然別の分野でパートで働いているけど、会計もやってます。
あはは。わかりやすくなってきましたね!
間違えない方がいいよ と こだわらない方がいいよ ですか。
どっちもできないんですものね。
間違えてもいいよ、その代わり最低限〜〜〜しようね。
こだわってもいいよ、その代わりほどほどに〜〜〜しようね。
ってことですね。
こだわりによってなかったことにしてしまう…は非常に参考になりました。
話がよく変わり、説明しても返事だけよくて実質無視な方に、逆に怒られていた所なので。
思えば私は母ともそれで、どちらも理解不能になっていた気がします。
読んでてよかった。ありがとうございます。
ジャイアン義理父は孫の為、稼いだ財産をできる限り学費のたしに・・と少しずつ提供しています。ASの義理母はパートもしないで甘えてくるジャイアン兄嫁に腹を立てて出すのが嫌なのかと・・・思っていたら、お金が減るのが嫌とのことす。一千も出したくないようです。
>以前、なつもかさんのコメントで、「ADHDは一旦全部取り入れる」とあって納得感がありました。
裏を返すと、「ASは自分に都合の悪いことは取り込まない」です。
それが「こだわり」ってものだと思います。
道産娘さんの意見が、ぬまおさんにとっては取り込むと自分が壊れてしまうかもしれないから取り込まなかっただけで、悪意は無いです。
こだわりは自分が壊れてしまうことを防いでくれますが、同時に必要なことを取り入れられられないリスクでもあります。
ADHDの方は、こだわりを捨てろ、と簡単に言いますが、ASがこだわりを捨てたら簡単に壊れます。
自分のいろいろな経験を通して、「壊したほうがいい」と自分で納得して初めて、こだわりは壊れます。
これが成長ということだと思いますが、そう簡単にはいきません。
だから、ADHDを基準に、自分が言ったから相手に伝わっているはずなんて思わない方がいいです。
そして、伝わっているはず、なんて思い込むと誤解になります。
こだわりにブロックされたものは、ASは「最初から無かったもの」として取扱されます。
だから、何度言っても通じない、という事態も発生します。<
なるほど。
最近別居した夫婦そのものやなあ、と感心しました。
そうかあれだけ言ったこともほとんど届いてなかったのはそういうことなのかあ。
悲しいけど納得。
というかこりゃ最初からあかんわ。
Paulさん
よい旅路になられたようでよかった!
もっと上手く話せればなぁ、とは思うのですが・・
まぁ、失敗しながら学んでいくしかないですね。仕方ない。
基本的に朝と夕方の短時間しかネットに接続できない環境では、やっぱりコミュニケーションに支障が出ますね。すみません。
m2さん
身近にいる孤立型と思われる人についての情報を出し尽くしたところで、m2さんに質問です。
自分はm2さんの今までのコメントのうち2割ぐらいに賛同できないものがあり、自分とm2さんは型が明らかに違うと感じました。m2さん自身は受動型で間違いないと思いますか?自分が、のび太かも知れないと思ったけど、なつもかさんのおかげで、どうやら違うということが分かりました。なつもかさん、ありがとう!m2さんが受動型である場合、可能性としては自分がACから抜けた多数派(m2さんの言う能動的AS)で、自分が孤立型だと思っていた人達が受動型ということになると思うので、ぜひ、教えてもらいたいです。
自分は過去を振り返っても、うつ的な症状はあっても、怒りで精神が崩壊するような感覚を味わったことはないです。逆に、妻や会社の後輩には一時期、精神が崩壊したような状況が見られるので、統合失調症のような症状は、興奮(パニック)状態になった孤立型の特徴のようにも思っています。
また、「最初から無かったものにする」なんてことは自分には絶対に出来ない。妻は縁を切った友達を「最初からいなかった人」として扱い、写真まで全て破棄します。会社の後輩も、自分が話しかけると仕事関係の話であっても完全に無視して、返事すらしません。会社には、いないものとして対応されています。話し掛けてくるのは嫌がらせをする時だけです。
「自分に都合の悪いことは取り込まない」というのは、自分を完璧な人間だと思っていない限り、できないことだと思う。自分は、天才だと思ったことなんかも、今までに一度もありません。あと、自分の中では、たとえ金持ちになったとしても引きこもるという選択肢はないです。人と会えないと寂しくなりませんか?会社の後輩は1年ほど引きこもった経験があります。
妻と後輩とm2さんには同じ特徴があります。自分が勘違いしているだけなのか、受動型がそういうものであるのか、率直な意見を聞かせてほしいです。お願いします。
誤解を与える表現をする
↓
批判される
↓
謝りつつ、訂正する
この一連の流れの受け取り方は、人によって全然違っていておもしろいですね。
「訂正の受け入れ」という観点で見ると、ASの型にもADHDの型にも関係していないように見えます。そこが特におもしろく感じます。(面白おかしい、ではなく、興味深い、という意味でですよ)
僕は、言語表現というのはパズルみたいなものだと思うんですよね。
それぞれの人間がそれぞれの「当たり前」を持っていて、その「当たり前」に基づいて発言をする。
受け取る側は、それぞれの「当たり前」に基づいてそれを判断する。
これが一般的な定型者の言語認知だと思うんですね。
「当たり前」が共有されているから、「理解されるであろう話しかしない」し「理解しやすいことしか話されないから基本的に理解できる」。
だからこそm2さんが言うように高能力であっても高IQ者は苦しむことになる。
なら異端者は、相手を理解をするためには、相手の「当たり前」を推測する必要がありますよね。
逆に、「こちらの当たり前」を理解して欲しい場合に、ではどうすれば良いのでしょうね。
深海で仲間を探すのは容易ではないけれど、僕は諦めたくは、ないんですよね。
ぬまおさん
>m2さんの今までのコメントのうち2割ぐらいに賛同できないものがあり
私の理論だと、正反対の場合は(結果として賛同できるものの)100%違うと思うことになります。
私の場合だと、ジャイアン女性相手がこれに近くなります。
積極奇異型ASだと、中心志向のある・なしで違い、ASの部分で共通、となるため、5割賛同できない、ということになります。
のび太だと、中心志向のある・なしで共通、ASとADHDで異なるため、やはり5割賛同できない、となります。
のび太のなつもかさんとは、中心志向の部分では共通点を持つので、半分くらいは共有できます。
つまり、2割程度の違いしかないなら、同じ型、というのが私の結論です。
ぬまおさんは同じ型だろうとは思いますもの。
AC経験の有無、AS度合いの違いで十分2割くらいは違うと思います。
後輩の方は受動型ASだろうと思いますが、奥さんは違うでしょう。
ここは敢えてこれ以上触れません。
悠々とさん
>「こちらの当たり前」を理解して欲しい場合
参考にならないでしょうが、小学生の時にはあきらめてました。
ただし、理解してくれる人をパートナーにすることはあきらめてません。
また、全然別の考え方として、「相手の当たり前が通じない場合になった時」は理解してもらえます。
・トラブル発生で、常識にこだわっていられない場合
・特定の人間(大概はジャイアンか受動型AS)がその場の空気を支配している場合
・「当たり前」が存在しないことが前提の場(ここ)
なので、問題が起こりそうな場合でも、問題が起こるまで待つ、というのは良くやります。
問題が起こる前は何を言っても一切聞いてもらえませんが、起こった後は大概何を言っても通ります。
zzzさんのおっしゃっていた話の跳躍力についてなんですが、ADHDにとっては基本的に跳ぶのが自然だと思います。意外な物が近くにあったり混ざったりと、知識の構造自体が跳びやすくなってるはず。
ここに来るのび太さんは、既に本来ののび太ではないと思うので(病識…病気じゃないけど…を持っている時点で抜けつつある)、「そんなに跳んだら他の人わからなだろ!」というツッコミをしているのかなと思います。
悪くとれば、目の前の事に脊髄反射でつぶやいてるだけ…笑
悠々とさんへ
私なら、理解してほしい時はこんな風です。
・わかりやすく説明することを心がけ
・相手に労力がかかる事を想定して申し訳ないと思いつつ
・理解が得られるよう協力を乞う
たいていの場合そこまで他人に期待をかける事自体が負担なので、そんな事は求めません。
私はしばらく疑問に思って様子を見ていたんですが、悠々とさんが探している仲間というのは自分に都合のいい仲間ということですか?
あなたの書き込みはすごく不思議です。
反撃?とはいえ人をまず批判し「僕は楽しいから大丈夫」と言う。しかも仲間を捜している…どういうことなんでしょう…もっと遊んでほしいということ?
もし私の目の前にそんな人が現れたら、無駄に攻撃される上にあなたの楽しみにつきあう義理はないなあと早々に退散します。
(となると仲間を捜すという目的は達成されないですね。それともそうやって振り分けてる?)
同じ内容の指摘になっているかちょっと自信ないですが、今までASの方々に言われていたのって、あなたの認識と周りの人の認識がずれているであろう事を示唆されていたのではないでしょうか。
なのであなたが楽しいかどうかはさておき、周りの人があなたといて楽しいかどうかなんじゃないでしょうか。
Fさんはここに集まる人はマイノリティだからここでの印象を一般化するのは難しいのでは?とおっしゃっていましたが、認知方法のバリエーションとして参考位にはなるんじゃないかなと、私は思います。
意味不明な人々も世の中それなりにいるようですし。
道産娘さん、回答に心からの感謝です。チュッ……はこの場にふさわしくないからやめておこう。(化けの皮がはがれないうちに、デクレッシェント、デクレッシェント。)
実は、道産娘さんの苛立ちも何となく見えてました。何にどうおかんむりなのかまでは見えないけれど、ボールを投げてどんな球が返ってくるのか、場を動かしてみよう。そんな気分でもありました。
皆さんそれぞれ、家事や仕事も含めた日常の中で、喜怒哀楽さまざまな感情が出てきますよね。楽しいことに出会えば心が軽くなるし、腹立たしいことを聞けばイライラする。それにとどまらず、何もなくても、天気が日によって時間によって異なるように、気分も動いています。
だから、同じものを読んでも、同じことを書き込もうとしても、日によって時間によって違ってくると思うんです。
いまだから言えることですが、一時期の悠々とさんやPaul Carpenterさんからも、日常で苛立ちか怒りかをつかまえてしまい、それが文章に乗っかっているように感じてました。苛立ちの向こうにある悲しみまで見えてくるようであり、だからこそ余計に読んでて辛かったんです。今は穏やかさを感じられます。えらそうなコメントで申し訳ない。
そういう俺も、その時の気分で文章がブレています。できるだけ抑えめを意識していますが、あまり抑え過ぎると味気のない文章になるので、小出しにブレさせています。
人間はそういうもので、それだからこそ人間だろうな、と俺自身納得してます。
m2さんの、「ASは自分に都合の悪いことは取り込まない」は、俺の感覚で表現しなおすと、処理し切れないものは取り込んでも処理をやめてしまう、ですね。
受け身的にいったん体内に入れてしまうけど、消化し切れないものはそのまま体の外に出るか、しまっちゃうおじさんがどこかへしまっちゃうか。どちらにしても未消化で放置されるのではないかと。
それから、道産娘さん、ぬまおさん、ありがとう。私事にも関わらず、お気遣いいただいて恐縮してます。
ぬまおさんは奥様の仕事ぶりで気付いているかもしれないけど、経理は仕事に波がありまして、入ってすぐに大波がやってきました。大残業の日々をプロサーファーのように華麗に乗りこなしたいものだな、と思いながらひとつずつやっつけています。それだけに、道産娘さんの「体調管理にはくれぐれも気を付けて下さいね」のひとことは染み入ります。
m2さん
お返事ありがとうございます。自分が挙げた会社の後輩の孤立型の特徴は、受動型の特徴と理解していいわけですね。一次障害が100%になった場合でもASの度合いによって行動が全く変わってくるということか。なるほど。
妻と後輩の違いも二割くらいで、後輩と仲が良かったころは、後輩がよく妻のことを「自分と全く同じタイプの人間だ」、と話していたから、妻も受動型に精神病かなんかが入った感じになるのかな?難しいな。自分の場合は結局、場当たり的に対応していくことになるので、妻の型とか、自分にとってはあんまり関係ないかもしれません。あんまり考えすぎても良くないということだな。
すみません、ここに結構、間違えたことを書いてしまったようなので、自分のコメントは参考にしないでください。
m2さんのお話、目から鱗です!
というのも、「自己満足で情報提供する」ことも「ASのこだわり」だと認識してませんでした(汗)
積極奇異の方みたいに首尾一貫してると「何がこだわりなのか?」分かり易いので、無理強いしないようこちらも対応できるのですが、受動型の方の場合、(ぬまおさんのように)相手によって発言を変えたり・合わせたりできるので、どこからがこだわりなのか?把握しづらい時がありますね。
というより、こう言った行動パターンも「こだわり」の中に入るのかな?
参考になりました。
これからは、返事がないときは「無視ではなく、こだわりの強さ故本人が納得しきれてないからだな」と思うことにしますね。
ということで、これからは柴咲コウのような傲慢生意気高飛車女キャラ全開で突っ込もうかな♪(柴咲コウさんに失礼ですね…)
ぬまおさん
(隣のエントリーには後程コメントしますね)
そうですね、ハッキリ言わないと後で爆発して周囲に当たり散らす結果になりますし…
ぬまおさんから「突っ込み待ち」と言われて、安心したと同時に少し驚きました。
きっとASの人って突っ込まれるの嫌だろうなって、変な先入観があったので。
(続きです)
奥様、私とちょっと似てますね(笑)
私の場合、基本的に出し惜しみできず、一度手を付けたものは目標を達成するまでやり通さないと気が済まないので、途中で変更されるとイライラすることがありますね。(なので先延ばし&初めから何もしないゼロ百思考に陥りがち)
要領の良い受動型の人に対して「妬ましい(コンプレックスを刺激される)」という気持ちもあって当たり散らすのかもしれない(^_^;)
中心志向型は半分は合理的ですからね、「何事も一生懸命やること」や「他人にも完璧を求めること」が理不尽であることは頭では分かるんです。
「自分の失敗は自分のせいだし、結果が得られないのは自分の努力が足りないから」という考えで、他人に完璧を求めることはありませんが、不機嫌にはなりがちですね。
高過ぎる自己突っ込みを合理的なところまで下げる必要はありそうです。
そういえば、m2さんへのコメントを読んで思ったのですが、ぬまおさんの奥様って「ASのAC」や「ジャイアン」の特徴にも若干当てはまりますよね。
孤立型って一見のび太に似てるでしょ?
多少反発はしても、そこまで気性が荒いかな?って思いました。
「クソ野郎!」とか…
なつもかさん。
>あはは。わかりやすくなってきましたね!
間違えない方がいいよ と こだわらない方がいいよ ですか。
どっちもできないんですものね。
間違えてもいいよ、その代わり最低限〜〜〜しようね。
こだわってもいいよ、その代わりほどほどに〜〜〜しようね。
ってことですね。<
これってめちゃわかりやすいですよね。スイッチ3つしなかいジャイアンには重宝しますよ。
ZZZさん。
>いまだから言えることですが、一時期の悠々とさんやPaul Carpenterさんからも、日常で苛立ちか怒りかをつかまえてしまい、それが文章に乗っかっているように感じてました。苛立ちの向こうにある悲しみまで見えてくるようであり、だからこそ余計に読んでて辛かったんです。今は穏やかさを感じられます。えらそうなコメントで申し訳ない。
そういう俺も、その時の気分で文章がブレています。できるだけ抑えめを意識していますが、あまり抑え過ぎると味気のない文章になるので、小出しにブレさせています。
人間はそういうもので、それだからこそ人間だろうな、と俺自身納得してます。<
ありがとうございます。
別に人を悲しませたり怒らせたりするのが本意では決してないんですけどね。
いろんな目的を一気に達成しようと焦って、本意が十分に通じないことはよくあります。
目的のためには手段を選ばず。たとえ自分が極悪人と断定されようとも。
だからあとで散々フォローしなければならないんですけどね。
でもそういう生き方しかできないんですよ。そういう人種も存在するということです。
この程度じゃあイエローは出ないでしょうけど。
義母は水準以上の資産を持ちながら、3.40年前の服を愛用していて、口にするものも常に安いもので、
何か頂くことがあるとすれば、ずーとため込んだ食器、贈答品、袖を通さなかった昔の洋服・・・かな・・・新しく私たち夫婦の為に・・と買ってくださることは一度もなかったです。裏表がないと言えば裏表がないのかな
ぬまおさん、私がまず参考にするのはその人が自分について語っている部分ですよ。その人の基準が分ればその人が他の人について語るのも参考にしてますよ。その中でも「これは違うんじゃない・・」とかまた試行錯誤したりw情報いっぱいありがとう。
>なつもかさん
私もアルツハイマー疑ってたけど脳神経科で検査したらそうではなかったの。私は普段は短期記憶は無いからメモに頼ってるし、不注意で食器用洗剤でマウスウオッシュするような人なんだけど、普段の記憶は匂いや言葉で係留されてるのがある。「あー秋の運動会の朝の匂いだ・・。」とか「あの道の夜の匂いだ・・。」「あの子の家と同じ匂いだ・・。」とかあるのです。「あの」に相当する画像がちらっと出る。「あの」が特定の何を指すのかは調べて考えないと分らないのだけど。
それと、もやっとする意味の分らない誰かの言葉があると、それは何処かに係留されていて(記録はされていて?)、全く関係ない時にその言葉の続きがあると(聞いたり見たりすると)(どうして続くのかは考えないと分らないが)うっと思い出したりする。
そういうのありますか?
この文章意味不明かな
コメント欄に流れがあって、さらさら流れている感じがあり、読みやすいですね。読んでいて疲れません。
私はマイペースが強いので、流れに乗ることはほとんどせず、横っちょで独り言をボソボソ言っていたいタイプなので、皆さん、スルーしてくださいね。
孤立型にもいろいろな程度があるのでしょうが、私に孤立型の傾向があるとしても、すごく強い孤立型ではないのかもしれません。
なぜなら私は家族を持っていて、その最小単位は必要としているからです。家族の存在で、精神的な安定を得ています。
家族を持たずに1人山の中で暮らしたら、寂しくてしかたないだろうと思います。
その家族も現在は皆マイペース傾向が強まってきていて、お互いにあまり干渉し合わず、でも仲が良い感じなので、恵まれた環境と言えます。
社会との関わりは医療機関、商店、美容院、などが主でしょうか。
友達もいるにはいますが、密な交流は控えていて、時たまメールをやりとりするくらい。現在は相手が会いたいと言ってきても、エネルギーがないから会うのは勘弁してほしいと断っています。過去はそれなりに会って、おしゃべりもしましたが、今は何だかしんどいです。
家族はOKですが、親戚レベルになると、もう付き合いがおっくうになります。冠婚葬祭の付き合いも最小限にしています。
JETさん。
>私がまず参考にするのはその人が自分について語っている部分ですよ。その人の基準が分ればその人が他の人について語るのも参考にしてますよ。<
そうですよね。人と人が少しでも近づく時って自分のことを語る時ですよね。
アメジストさん。
>孤立型にもいろいろな程度があるのでしょうが、私に孤立型の傾向があるとしても、すごく強い孤立型ではないのかもしれません。
なぜなら私は家族を持っていて、その最小単位は必要としているからです。家族の存在で、精神的な安定を得ています。<
ついついその家族を破壊しかねないジャイアンADHDのACです。というかすでに別居しておりますが。
「砂漠の丘の上で独り吼え続けるライオン」は別にやりたくてやってるわけでもないんですけどね。
でも知らないうちにそうなってしまうんですよね。厄介なことに。
家族は大切ですね。
でもその中で完全に孤立してしまうと出て行くしかないんですよ。
余計なことでしたね。流してください。
道産子さん
自己満足で情報提供しているわけではなくて、自分の孤立型に関する意見に対して「それは違うんじゃないか」とかいう、みなさんの意見を求めていたつもりだったんだけど、はっきり言わないとダメでしたね(^^;)。自分が盲信に走らないように、ADHDの厳しい突っ込みで、論理的な矛盾を突いてもらうことに期待しています。
そうそう、道産子さんは妻とそっくりで、コメントを見ていて実は始めからそう思ってたりして。たまにブチ切れる所も似ており、他人とは思えない感じです。妻の昔の様子を書きますので、道産子さんと比較してみてください。
本人は「中学以前の記憶がない」と言っていますが、妻の幼馴染の話を聞くと、幼稚園の頃は、自分の欲望に忠実で、ちょっと怖い感じだったそうです。親などから聞いた話では、友達とも家族とも遊ばず、ひたすら一人でおとなしく、ぬり絵をして遊んでいたそうです。本人が覚えていることとして、「ぬり絵をしていて、少しでもはみ出すと怒りがこみ上げてきて破り捨てた」と言っていました。
母親の話では、人に何か言われると言われた通りに動いて失敗し、知的障害を心配したそうです。小中学校時代は、ジャイアン母親と怒鳴り合いの喧嘩を毎日のようにしていたと、友達が言っていました。数学が得意で、高校には推薦で入ったみたいです。
すみません、これだけしか情報がなくて(^^;)本人が覚えていないもんで。
>ぬまおさん
私のジャイアン友人は付き合いたくなくなれば友人達と縁を切れるし、写真を捨ててるかは分らないけど、切れば付き合いは無かったもの、ぐらいになります。気難しいので軋轢を避けるため仕事で一人深夜のシフトに入ってましたが、合わない後輩(本人曰く・仕事ができないやつ)に仕事を教える時に不整脈、嘔吐する眩暈、頭痛、等の身体症状が出て、辞めざるをえなくなりました。趣味は一人で部屋にこもってプリズンブレイクをイッキ見したり読書したり。息子さんが二人いるのですが家の中でSNSで会話したりするそうです。完ぺき主義。数学はふつうかな。
JETさんへ
においですかぁ。私、においは少ないかも。既視感ってあるけどそれは既臭感!?w
言葉で出てくる記憶やシーンはありますよー。色とか形とか音とか。ああ、おんなじ音。っていうのはよくあります。ひとりで楽しんでしまいます♪
前にm2さんや無識さんが聴覚優位(というか過敏)のお話をされてましたけれど、JETさんは画像に結びつけるんですね。私も視覚優位な気がします。色と形で物を覚えている事が多いし、文字も形で思い浮かびます。
聴覚はむしろ鈍感なんだと思いますが、驚くほど声マネが下手です!関係ないかなw
JETさんは他のエントリーで「時間が経っても続きができる」話を書いていましたよね。
私はよく「それは今言う事ではないだろう」という間違いをしてしまうんですけど、それと根っこは同じかなーと思いました。
例えば今の話題が途中なのに新しい話題になってしまった時、私はとりあえず最後まで言い切ろうとしてしまいがちです。
ただ、どうしてももう言えない状況(離れるとか、会えないとか)になったとして、時間をおいて同じ話題を話したとしたら…。やはり私も違和感を感じないと思います。
他人に「もう飽きたんだな」と思われている事も「ちょっと休憩中」なだけだったりするし、時間の経過を状況として加味するのが下手なのかもしれませんね。
ただ、いつでもまた続けられる事は、気に入っています(^▽^)思い出せさえすれば……!
アメジストさんへ
いいですね、家族。
私はいつからか、大きな木にもたれて心地よい風の中しずかに本を読んでいるイメージを持っていて、そこはとても安心できて暖かいんです。
そういう家族ができるなら、すばらしいなあって時々思っています。
アメジストさんのコメントは、曲がり角で思いがけず出会ったトルコキキョウを思い起こします(^^)
Paul Carpenterさん
人間にとって、「孤独との付き合い」は永遠のテーマですね。
なつもかさん
トルコキキョウ!何だか恐縮です。
zzzさん
確かに、人間ですからその時の感情に左右されるのは仕方の無いことです。
私は「失敗する事」自体悪いことだとは思いません。
自分も注意欠陥から同じ失敗を繰り返すことがありますし…
「失敗に対する捉え方」って言えば良いのかな。
明らかに「自己責任」を認識できる人間の発言じゃないよね?って。
「別に人のことだからどうでも良いじゃん、放っとけって!」と頭では分かっているので、自分からはなるべく言わないようにしてますが、やはり攻撃されたら言い返したくなるんですよね。(ちなみに、ぬまおさんのように「もしかしてご本人は気付いてないのかも」と判断した方には指摘してます。まぁ、お節介なだけかもしれませんが)
>なつもかさん
匂いの想起はあまりないか。。音なんだね。これは個人差なんでしょうね。私は視力を匂いで補ってる感があるので・・でコンサータの効果ってこういうことかなと想像したりするのです。音の記憶ってどんなのかな・・(銭湯で湯桶がカコーンとひびくのを想像)口マネは出来ないね。口笛も吹けないし。言葉で想起するのは悠々とさんの論理チェーン仮説に似てるかなと思って聞いてみた。あと閉じない感覚器官、鼻と耳は感情に対して大事なんじゃないかなとか。。。
>時間の経過を状況として加味するのが下手なのかも
そうだと思う。「・・続きが出来るね」って言われた時はよくわからないままだったのだけど、この孤立型ASの記事や嶺往さんやpaulさんのコメントで思い出して、そういうとこを言ってたんだなと・・。関連付けの無さなどもあるのでしょう。
なつもかさんはお母さんASなせいか、なんとなく穏やかな感じがするね。大きな木とはなつもかさんのことではないのだろうか。家族の?イメージといえば私は渡り鳥だなぁ。YANBARU先生の他者のロケットのイメージに似ている。ジャイアン家庭のイメージなのかも。過酷な感じでw
なつもかさんの周りにADHDは居ないのかな?ADHDと出会うことは無いの?
おおう、完全に実験観察終えてしまった感覚になってここのこと忘れてました(笑)
制止を行った方は、その気配を感じたのかな?
まあ、忘れてたくらいなので気分的にどうこうというものはありません。
思考の跳躍がどの程度厄介な障害か把握できました。演繹ができないというのは本当に大変ですね……。
>処理し切れないものは取り込んでも処理をやめてしまう
これねー、理解されないんですよねー。「頭がいいからわかるはずだ」って決め付けられちゃう。
そういう場合って大抵、相手の思考に跳躍があったり、展開途中に感情が挟まってたりするんです。演繹でも帰納でも思考を辿れない場合、理解できないんですよ。
そしてASに取って一番楽な解決方法が「相手の思考の矛盾点を問い詰める」だったりします。
上げ足取りが得意で反省しないと言われるのはこのためですね。
>気性が荒い
これって孤立型の特徴なのかな?
攻撃(反撃含む)するときの基準が、法律などの既成のルールで、そこに(ホンネが出ることはありますが)気分やテンションによる補正はあんまりありません。
司法の介入を受けない行動であれば、本人に取って大した攻撃ではないはずです。
そして逆説、ルールを逸脱したように見える行動には敏感です。私の場合、アカの臭いには山で肉食獣と遭遇したとき以上に警戒心が振り切れますね。ZAPZAPZAP!
>自己責任
自己責任ってあんまり好きな言葉じゃないんですよね……。
多少ズレた話ですが、自己責任論って乱数の絡むゲームをやったことのない人や、元々運がいい人が好むように思えます。
……。乱数事故で笑い話にもならないミスをして「いつも通り」「流石過ぎる」とゲーム仲間に言われる程度の運の持ち主の僻みでした。
JETさん
>情報いっぱいありがとう。
そう言ってもらえると救われます(^^)
JETさんの友達は妻にそっくりですね!同一人物っぽいですね。自分は前まで、妻のことを依存型ジャイアン(情緒障害型)で、後輩は積極奇異型だと思っていました。その後、後輩はKYの受動型かなと思うようになり、後輩も妻も、よくよく見てみれば受動型っぽいなーと感じて二転三転したけど、自分とはあまりにも違いすぎました。
ADHDとASの両方の特徴を感じて判断に迷いましたが、道産子さんのコメントがヒントになって孤立型の特徴で「複合としての世界理解」を見たところ、この二人に共通しているのってこれじゃん、と思って孤立型だと判断したわけです。JETさんの友達はどうですか?
つづき
①こだわりはどうしようもない-こだわりが強すぎて普通の環境で適応できない
妻と後輩は自分の裁量である程度できる仕事であるため、適した環境にある
②意味の説明がAS的な一義的なものだけとなり、他の意味はあり得ないという頑なさ
二人共、自分が理解しているルールを社会一般のルールとして人に適用する
③愛着の対象に対する支配的な考え方(相手の意思や偶然・突発的変化を想定できない)
後輩は人妻へのストーカー。妻は自分に対して完璧な夫を求める。仕事の影響による予定変更などお構いなし。付き合っている時は一方的な行動が目立ちました。
④過度に首尾一貫し、偶然性が排除されたり別の必然的な解釈を与えられたりする
⑤被害妄想的な解釈-「他者も首尾一貫しているはず」「たまたまなんてことはない」
後輩は何年経っても過去の自分の発言にこだわって追求してくる。妻は予定や時間の変更などを、被害妄想的な独自の解釈をする
⑥一度感じた気分や生じた観念が不可逆的に「消えない」という体験上の特徴
二人共、昔、自分が言ったことで嫌な思いをした経験を何かあると持ち出してくる。「あの時もこういったよね」と。
⑦悩まないけれどきつい、ストレスが体にくる
後輩は前の職場は失敗がもとで退職し、引きこもった経験がある。妻は寝込む。二人共、たまに精神が不安定になる
⑧聞こえることは回避できない-聴覚過敏
後輩はよく分からないけど、前に幻聴が聞こえることがあると言っていた。妻は自分でそう言っている。
⑨言葉は少なく詩的、象徴的な表現を好む-独自の世界理解
二人共、普段はあまりしゃべらない。後輩は自費出版した本では象徴的な表現だらけで意味がよくわからなかった。妻は自分を純白のシーツに例えて、「ポツポツとシミができて、黄色に染まった」というようなことをたまに言う。
ほかにも、「人が何を考えているかなんて考えたこともない」、「友達はいらない」など、共通する部分が多いです。
ぬまおさん
私も「あなたはACじゃないですか?」と言われても、ぴんと来ないです。
子ども時代を一つずつ思い出せば「結構ひどい仕打ちを受けた気もする」のですが、今さらどうなるわけでもないですし・・・。
弟妹と格差をつけられた分、親孝行を少なめにするのでいいんじゃないかと思ってます。
ぬまおさんはイクメンパパとして、頑張ってらっしゃるんですね。
自分の子どもってどんな感じなのでしょう?よその子とは違って見えるのですか?
私は自分の子どもはまったく想像ができません。
もし子どもが出来ても、自分が育てられなかったらと思うと踏み切れません。
「子どもが欲しい」と盛り上がっている人の気持ちがまったく理解できず、無邪気なその一言が、私にははるか遠いです。
夫に対してはどこまで言えばいいものか悩みます。言いたいことはいろいろあるんですが・・・
夫はお風呂を勧めてもなかなか入ってくれません。
一生懸命働いて帰って来たのに、「くさいからお風呂に入って」って言うのもかわいそうです。
最近は「苦いにおいがするからお風呂に入って」と言っています。
結婚して20kg太り、痩せる宣言して早1年半・・・本人曰く「10kg痩せて5kg戻った」そうですが、まったく変化が感じられません。
ダイエット本を買ってきて私に作らせては「ボリュームが足りない」と自分でコンビニの肉団子を買ってきます。
「『出されたものを食べてるだけで痩せられる』とか都合のいいこと考えてるわけじゃないよね。運動しなさい」とグサリと刺しましたが、・・・無傷のようです。
会社の後輩のお話、ありがとうございました。
AC抜けたあとが強烈ですね。
「話し掛けてくるのは嫌がらせをする時だけ」というのもなかなか・・・。
積極奇異の人も、気に入らないとしつこく(本当にしつこく)攻撃してくる印象があるのですが・・・自分の思い違いだと気付くと、もじもじしながら寄って来ます。
(こういうところは「ちょっと可愛い」と思ってしまいます)
型の違いなのか、ACが混じってるからなのか・・・?
悠々とさん
以前、例の同僚に仕事(保険証の入力について)を教えていたとき、
「・・・何ヶ所見るんでしたっけ?」
と聞かれたことがあります。
(おそらく資格取得年月日とか資格喪失予定年月日など、見るべきポイントの数を尋ねたものと思われます)
私は「○ヶ所見てください」と説明した覚えはないので「さあ、わかりません」と答えましたが、内心「似たことしてるなあ」と思いました。
『覚えていないといけないこと』を落とさないために、数で把握しようとしていたものと思われます。
>ただ、人の顔と名前以外の長期記憶に関しては、むしろ人より優れていると感じることが多かったです。(論理的な関連付けのせいかと考えています)
一度綺麗に整理して納めると、忘れないですね。
「これってどうするんだっけ?」人から聞かれたときも、すぐに根拠(前例だったり法令だったり)を引っ張って来られます。
人の顔と名前は私も苦手です。
名前は音ではなく漢字で覚えますが、私は一文字抜けたりします。
例えば野比のび太さんなら、
「野・・・なんだっけ・・・下はのび太だなあ・・・。野口?違う・・・野原・・・?・・・あ、野比!」
って感じです。
m2さん
僕はm2さんに聞きたかったのです。
「世間一般に合わせていて、貴方は貴方を理解してくれるひとを見つけられると思いますか?」
僕は、自分が普通でないことを痛いくらいにわかっています。
そして普通でない人間が、どうにかして普通に擬態しようとすることも知っています。
特に高機能者であればあるほど擬態が上手くなる。
で、擬態が上手ければ上手いほど孤独になってしまう。
彼は理解はできても理解されないままずっと過ごすことになる。
いわしが群れの中でパートナーを探すやり方で、はたして深海魚がパートナーを見つけられるだろうか
これは僕が、ずっと考えてきたことです。
>相手の「当たり前」が通じない事態になったとき
これは前者と「理解」の定義を変えてのお話ですね
僕もこれは実感としてわかります。
ある種の能力を求められる環境になると、その能力が認められ、そして認められれば違いは容認されやすくなる。
場を実力主義に落とし込む、とも言えますか。
一種の環境調整でもありますね。
なつもかさん
僕は「普通のひとの群れ」では、わりと静かににこにこしています。
誰も傷つけたくない、誰にも反撃されないことを「目的」とするなら、喋らないのが一番ですね。
振り分けてる、というのは、遠からずだと思います。
出来る限り理解しやすいように考えているつもりですが、誰にでもわかる話をしているつもりもありません。
僕の基本スタンスはぬまおさんに近いものがあります。
「自分と違う他者を理解したい」
理解することを「目的」とした場合、感情表現があった方が解析上「得」なんですね。
だから僕は、僕と同じ目的を持つひとのために、感情を表現したかった。(そして感情的になって、行き過ぎた表現をして、失敗したわけです)
仲良く静かに、というスタンスで切り捨てられるマイノリティがいるんです。
僕は理解に飢えたひとと共にありたい。
>嶺往無識さん
ここで言う自己責任って、私が考えるぶんには嶺往さんだと「我在」に相当すると思います。ADHDがACを抜けるときの思想というか?運っていうとね・・運っていうとね・・
やっぱ「我在」に変換しといて下さい。
連呼してごめんなさい
Fさん
あー・・「何箇所」という覚え方は僕にも使えるかもしれません。
その発想はなかったのですが、ちょっと試してみようと思います。
僕の場合、その場その場で考えて、必要か必要でないかを毎回判断しているようなところがあります。
(何度かやってみて、自分で「なんて非効率なんだ!」と呆れつつ工夫を始める、というパターン)
長期記憶に関しても、やはり少し違う感じがしますね
僕の場合は、「演算方法」が記憶されていて、毎回演算するイメージ。
「この場合こうであるからこうでこうで、こうなり・・こうなるな」という、なんというか、記憶領域を省スペース化するような覚え方をしていると自分で思います。
(数学の問題を解くイメージに近いかもしれません。答えじゃなくて、解き方を覚えている感じ)
名前についての失敗は驚くほど一緒ですね・・
やぎぬまさんを、やぎさわさんと呼んでみたりといったことが日常茶飯事で
覚えるために、ぎぬぎぬぎぬ・・ぎぬ・・ぎぬっ、と頭の中で繰り返してみたり、色々試行錯誤してました
これは音で覚えようとしていたのだと思います。
最近は、先日書いたとおり、画像記憶に入れ込む形にしたら比較的上手くいくようになりました。
チェーンとして繋がっているかどうかが問題であるとして、自分はどうも「やり方がわからない」ということが多いように感じます。
やり方さえ考え出せばできることが多いのです。
(m2さんが「ジャイアンは努力すればできる」と言っていたのはこれのことかな・・とも考えたり)
>Fさん
私は同居ジャイアンにくさいから風呂に入れと言ってますよw
疲れがとれるから入れとか。くさいって言わないの優しいですね。何べんも言うのいやですよね。くさいですよね。
ぬまおさん
僕は、ASさん同士の違いや、ADHD同士の違いの中で、「型」ではなく、他者理解の階層が関係していると感じることが多々あります。
1.自分と他者が分けられない。
2.自分と違う他者はいても、単一的人間像しかない。
3.自分の周りの他者をそれぞれ理解していても、そこから外れた人間は単一的人間像になる。
そこからグラデーション的に拡がって、最終的に
4.人間ってのは全部別物
(型とは、理解のための恣意的枠組みでしかない)
というところにいくのだと思うのです。
これは外集団同質性バイアスという認知バイアスの根源でもあると思います。
つまり人は、理解していない他者を、「枠組み」で捉えようとする傾向がある。
ぬまおさんが言うACかACでないか、というのは2.3.あたりの階層にいる人間に対する説明だと感じます。
自分か他者か、しかない世界認識では、「自分が正しい」か「他者が正しい」かの2択です。
この世界で、「自分が間違っている」と考えると「正しい他者」に従って生きることになり
この世界で「自分は間違っていない」と考えると「自分と違う間違った他者」というものが生まれてしまう。
この観点で見たとき、Fさんは、他者理解が深い領域にあるように感じます。
「自分は間違っている」
と
「自分は間違っている可能性がある」(ここには裏側として、「自分は正しい可能性もある」が存在します)
この二つは大きく違うと思うのです。
>ぬまおさん
以下全てジャイアン友人の特徴です。
①(AS的なこだわりというより)自分の現実的不利益に基づいた自分ルール。給料、通勤時間、身体的疲労度、仕事の向き不向き、人間関係重視。
一見普通ぽいですが、選ぶ基準は絶対です。部屋に入りそこにいる人を見て自分が好きか嫌いかサッと分かるそうです。給料・労働条件は毎年交渉し一万づつ上げているなど。
②(AS的既成のルールではない)自分ルールは自分の行動に対してだけ。人には適用しない。ひとりで文句は言うが抑える。抑えすぎるとジャイアン的身体症状が出る。その環境を離れるとスカッと治る。
③(AS的な愛着はない)本人曰く愛情ではなく情だったと。。複数で行動する時自分が仕切っていれば自分ルール。相手の意思や偶然・突発的変化を想定してはいる。自分が仕切っていなければお任せ、しかし個人行動の自由は求める。
④⑤首尾一貫は自分ルールのみ…決めたことを覆されるのが嫌なのは不利益が起きる時。
⑥一度感じた気分や生じた観念が不可逆的に「消えない」という体験上の特徴
これはASの人のフラッシュバックやトレースでは?
>昔、自分が言ったことで嫌な思いをした経験を何かあると持ち出してくる。「あの時もこういったよね」と。
自分が受けた不利益は覚えている。縁が切れれば切る。。。
⑦始める前からくよくよ悩む。(上手く出来るか?)最中もくよくよ悩み続ける。
⑧大きな声は嫌い。(過敏でなく誰が聞いても大きい声・話の内容がつまらないと文句・逃げ出す・ゲーセンの騒音は平気)耳鳴りがすることはある。
⑨喋りたい時と喋りたくない時がある。会うと三時間位喋り続けることもある。家では無口。
詩的・象徴的表現はしない。
比喩表現はする。この見分け微妙ですね。奥さんは比喩では。。
「人が何を考えているか」は掴みきれない・ASの人のように追うことは出来ない
「友達は出来るがいらない」少数でいいと言う。
不眠症で20年来睡眠薬を使用。子供は好きではないが仕方ないと言うわりに育児を頑張る。上の子(ジャイアン)はもう自活しているが、怪獣と呼び同じ人間だから会いたくないと言う。
攻撃性はまだ抜けません~~
まず…たくさん、書きたいこと(言葉に変換したいこと)があります、
お約束しているコメント(お尋ね)への返信も含め、複数のエントリーに絡んで言葉にしたいです。
後日必ず(おそらく一つのエントリーに絞ってまとめて)コメント投稿します。(わたくしの場合こんな風によく宣言しては自分の首をしめちゃうこともあるのですが、こうすることで自分の行動を形作れるメリットもあります)
自分のことを孤立型ではないかと考えた時期がありました。
今、改めてこのエントリーを、そしてコメントでの皆様の意見感想等を拝読し
素は孤立型に近いかもと感じています。
幼少期の自分は(ぬまお様の奥様と違い、記憶は1歳前後からガッツリあります、)自分以外はただの自分の欲求をかなえる何かの塊だったり特に何も感じないモノだったりしましたし
ひとりがホントに安心します、(ぬまお様と違って、さみしいとか人恋しいことはないのです、今も幼少期も。いじめられてる時期以外は。)
さしあたって言えるのは自分の脳はASなんだといえること、ですかね、
っていうかこういう脳なのでそれ以上も以下もないというか想像もできないです。
Fさん
障害の型はともかく、発達障害があると子どもと接して聴覚過敏など何らかの影響があると思うけど、親に甘えて子どもを預けたり、保育園に早い時期から預けてしまえば、子どもを産んでも大丈夫だと思います。
機嫌が悪くなったら旦那にまかせるとか、子どもと距離を置くとかすれば何とかなるんじゃないでしょうか。誰に何と言われようとも、必要に応じて人に預ける覚悟さえしておけばいいんじゃないかな。自分の子どもは、今のところかわいいです。人の子とは違います。妻も平常時は、子どもはかわいいと言っています。
悠々とさん
自分が考えているACとは、かつて自分が経験してきたような、ダメな自分を基準にして世界を見ているような歪んだ視点のある状態のことです。
JETさん
お返事ありがとうございます。友達は見るからにジャイアンという感じで分かりやすいですね(笑)自分の友達の中にも似たようなタイプの人がいます。最近会ってないけど。妻と行動は似ているけど内面は違う感じですね。
>⑥一度感じた気分や生じた観念が不可逆的に「消えない」という体験上の特徴
これはASの人のフラッシュバックやトレースでは?
そうかも。勘違いしてたみたい。
>⑨喋りたい時と喋りたくない時がある。会うと三時間位喋り続けることもある。家では無口。
詩的・象徴的表現はしない。
比喩表現はする。この見分け微妙ですね。奥さんは比喩では。。
比喩かもしれないですね。後輩と比べて、妻は詩的・象徴的表現は少ないかも
ぬまおさん
>自分が考えているACとは、かつて自分が経験してきたような、ダメな自分を基準にして世界を見ているような 歪んだ視点のある状態のことです。
僕の場合ACを「自分はダメな人間だ。だから対立があった場合は基本的に相手が正しい」
と考えてしまうような状態と捉えてるのですが、
ぬまおさんの想定は、僕の想定とは違いますか??
あおいよる。さん
1歳から記憶があるなんてすごいですね!自分は3歳前後が限界です。時間がある時に、ぜひ、幼少期の話を書いてもらいたいです。ここに書き込んだ自分のコメントを見ることで、改めて気付くこととかもあって、自己分析が進むよね。孤立型も受動型も、愛着との関係以外では、それほど変わらないと自分は思っています。
ちなみに会社の後輩は幼少期、一人で、ひたすら地蔵や仏像を観察して絵に描いていたそうです。
悠々とさん
自分の脳の特徴的な問題だと思うんだけど、答えが出るまで考え続けてしまうところがあります。過集中に入ると時間ばかりが無駄に過ぎて無限ループに入ってしまうような感じがします。子ども時代はよく、ボーっとしていると言われたけど、頭の中ではいろんなことを考えていました。なので、たとえ間違えていてもいいので自分なりに納得できるような答えがほしいと思うところもあり、納得した時点でとりあえずの結論を出す、新しい情報が入るとまた少し考えて別の結論を出す、ということを繰り返すため、言っていることがコロコロ変わるのかもしれません。
何事にも完全な答えを求めてしまうと終わらなくなってしまうので、社会生活を送るための自己防衛的な対応ともいえます。
自分がACになったのは、知識が少ない子ども時代には理解できない出来事が多く、いちいち考え続けた結果、「自分がダメだから」という理由をもってくることで、たいていのことは納得できる、またはあきらめられるため、考えることから逃げるための思考形態なのかもしれません。虐待された子と結果的には同じような状況になっているのか。5歳から30歳までの25年間をACで過ごし、納得いかないことの全てをダメな自分のせいにして乗り切ってきたように思う。もっと若いころに勉強していれば早く抜けられた気がする(笑)
>「自分はダメな人間だ。だから対立があった場合は基本的に相手が正しい」
正しいか正しくないかは価値観の問題であって、ACは関係ないように思う。AC時代の自分であったら、自分の意見に自信がないため正誤の判断が難しい問題では、そもそも対立にならない。白いものを黒だと言い張る相手に対し、間違えたことを言っている相手を説き伏せる実力がないダメな自分を認識して「あきらめる」という選択をしていたと思う。今なら、あの手この手で説き伏せ、ダメなら妥協案を出します。
あと、自分の場合、何もする気が起きない無気力状態になることが時々ありました。
おや、?がふたつになってる。
スマホからの書き込みは、失敗が増えますね
悠々とさん
>ぬまおさん
>自分が考えているACとは、かつて自分が経験してきたような、ダメな自分を基準にして世界を見ているような 歪んだ視点のある状態のことです。
僕の場合ACを「自分はダメな人間だ。だから対立があった場合は基本的に相手が正しい」
と考えてしまうような状態と捉えてるのですが、
ぬまおさんの想定は、僕の想定とは違いますか??<
小生はこの中間地点をあっちに行ったりこっちに戻ったりの状態を常に繰り返している、揺れている状態とも考えられます。
それはACを脱するか脱しないかの境界地点に心身ともに置いている、ということなのかもしれません。
情緒障害型ADHDとも深い関係はありそうですが。
自分でもしんどくなるくらい自己突込みが激しいときは、こういうことを無意識に繰り返しているのかも、とも考えられますが。
私の高校の時の同級生は、依存型ジャイアン情緒障害タイプではなくて、もしかしたら、孤立型ASかな…。
彼女は何かにつけて、自分の中では厳密な意味で収まっているらしい比喩や抽象的な言葉の手紙ばかりを最終的に私に押し付けてくるという、いつも最後には私が我慢して言いたい事を飲み込むしかなくなる、という仲でしたが、積極奇異ASの私がACから回復しようとすると、なぜか彼女の方がACの様な状態になってしまい、私はこの現象を自分なりに理解するため、「私の行動、選択、この意思が悪い」と自分で思い込むしかなく、ACループ無限地獄でした。
ADHDさんの「人を必要としない」という事なら、なんだ、そうだったのか…と、かなり意気消沈しながら受けつけられますが、孤立型ASさんの、「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」というのは、私から見ると、そこはかとなく恐ろしく、何とも言えない恐さを感じます。しかし、私の弟がこのタイプかもしれず、なんとも複雑な感じですね…。
ADHD母は、私の弟の彼女に会いたくないと、時々ボヤいています( ̄- ̄;)弟の今の彼女は、弟と兄嫁の話を又聞きで推測するに、依存型ジャイアンさんか受動型ASさんではないのかと思い、私もあんまり弟の彼女には会いたくなくなります( ̄- ̄;)
ちなみに家族構成は、父(ASの様だが既に没)、母(ジャイアンADHD)、兄(たぶん受動型AS、家の中では基本俺様にしたいが、私のAC回復の過程による爆発により、家の中でも基本的に自分を抑える結果に…なんだか気の毒ですが私からの言葉での説明は出来る限りしてあるので頑張って。)、兄嫁(多数派、ACになるまいと自分で頑張っている模様。何かと健気な人。)、私(積極奇異型AS)、弟(たぶん孤立型AS)、妹(たぶんADHD)、です。
兄と弟は、互いの様にはなりたくないとお互いに思っている様で、弟が実家に帰省した際には、互いに非言語的な水面下で衝突しているようです。私には非言語は、さざ波や波動といったものでしか感じ取れないので、どういうやり取りがされているのかまではハッキリとはわかりませんが、今更ながら、変な家族!生まれてこのかた感じていた、とてつもない程の不可解さが、長い時間をかけて緩和されつつあるのを感じています。
先生の記事にある
>私が出会った孤立型ASの人は、非常に興味深かったが、「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」とはっきり言い切っていたことだった。
は、私にとっては不思議な感じがしました。
私は人を必要とする度合が他の人よりは弱いかもしれませんが、
「自分が人を必要とする度合」と「人が自分を必要とする度合」がイコールだと一番気が楽な感じがあります。
あと、さーこさんの話の中で出てきた「ACからの回復」についてですが、基本的に、人がACから回復することを見るのは大好きで、何だか感激があります。
アメジストさん
穏やかな気配をありがとうございます…f(^^)
先生の記事に書いてある孤立型さんのように、「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」とは、私ははっきり言いきれないんですよね…。
私の場合、そもそも人を要るか要らないか、○○だから必ず要る、○○だから必ず要らない、必要とされたい、必要としない、といったような二択だけではない、という事かもしれません。
私の側から言えば、相手の意向と自分の気持ちを出来るならば同じ程度に尊重していければいいなぁと思ったりする事がありますが、でもそのために自分自身が辛い目に合うのをじっと耐えたり我慢するって変な事だよね、と最近気づくようになりました。
来月、有資格者たちが集ってボランティアをする企画が公に持ち上がっているところなので、一緒に関わって楽しく、肩の力を抜いて同じ時間を過ごす事のできる異種業専門の仲間たちに会える事を、今楽しみにしているところです(^^)v
悠々とさんへ
私にとって仲良くすることは「手段」です。
間違うことを見逃してもらったり、他のことでカバーするチャンスを得ます。静かである事も手段なので、事を荒げたかったら得意そうな人にお願いします!(私にとって他人は利用するものです。その代わり、私は利用されることも厭いません。)
あなたが切り捨てられちゃうのは、なぜですか?仲良くしたくないから?できないから?静かにしたくないから?できないから?
切り捨て「られている」と感じている事は、少し大事な分かれ道のような気がしました。
JETさんへ
穏やか〜!ウットリ(*^▽^*)自分では思えないので嬉しいですw
音は…「この前あの店で聞いたBGMの効果音と、今何かが落ちた金属音がそっくりー!」と言った風です。
ADHD同士の熾烈な争いをした事はないです。振り返って見るとプライベートはASぽい方と(私のダメな所を許容+興味を持ってくれる)、仕事ではジャイアンぽい方と(利用し合う+仲間意識)よくいるような気がします。
基本的に対立する位なら距離をおきます。客観的に見て、私はかなりセコい立ち回りをする方です( ̄▽ ̄)へへ。
m2さん理論ではのび太と受動型ASさんは半分位理解できるという事でした。そうなると私にとって積極奇異型ASさんが一番遠く理解しにくい相手です。
私にはイマイチASさんたちの違いが実感できませんが、母の言う事はほとんど理解できないので(…笑)もともと遠い相手だったのかなぁと思います。
●型による私的ツッコミパターンfromのび太
ジャイアン…えーっ。そこ行っちゃうーー?
受動型…えーっ。気になるのそこなのー?
孤立型…えーっ。そんなとこから来たのー!
積極奇異型…えーっ。どこからきてどこ行ったのー?!
…嫌いな言葉について
m2さん・無識さんの「されて嫌な事は人にするな」「自己責任」どちらも私にとっては身近な言葉で驚きました!嫌いなんだーそうかーと興味深かったので、私の嫌いな言葉も…。私は「十人十色」が嫌いです!
それを知った上でさ!今話してるわけでしょ!うやむやにしおって!キー!ってなります…使い方の問題ですかねw
さーこさん
型の分類って難しいですよね。厳密なことを言うと、私は若い時は受動型⇒30代は積極奇異型⇒40代以降は孤立型みたいな傾向がありました。だから、あまり典型例ではないんですよね。現在の状態は消去法で行くと、孤立型に一番近いかなという程度です。
今度のなつもかさんの問いは、中心志向ですね。
>利用されることも厭いません
これは、中心志向が無い人の特徴と思います。
ただ、のび太&女性多数派は無条件ですが、受動型ASの場合は「Win-Winの関係」という前提がつきます。
一方的に利用されるだけ、というのは拒絶します。
ただし、例外はあります。
ジャイアンの中心志向は、「自分が利用されたくない」というのが出ていると感じます。
「自分が利用されたくない」から、「他人を必要としない」
というのが基本でしょう。
しかし、それでは当然「切り捨てられちゃう」ことになります。
ジャイアンの欲求を満たしながら、切り捨てられないようにするにはどうすればいいか?
「他人は利用するけど、自分は利用されない」をうまく実現すればいいんです。
こんな自分勝手な考えが許されるのか?
利用された他人が不満を感じなければいいんですよ。
道産娘さんが「他人は利用するもの」と平気で言っていましたが、これは珍しいと思います。
道産娘さんは、他人が不満を感じないように利用する術を身に着けていますね。
たぶん、これしか方法は無いと思います。
一部のジャイアンだけは、一方的に利用されたとしても自分を幸せにすることができます。これが例外です。
血縁以外の愛着の正体と思います。
私が見る限り、悠々とさんはまだこの域には達していないように思います。
なんとなく人生経験が足りないような気がするんです。
まともに社会と組み合っていたら当然淘汰されるような欠点がまだ残っていると感じるのです。
ここは道産娘さんに語ってもらいたいのですが、おそらく今の域に達するまでには、様々な苦労と今の域に導いてくれた人との出会いがあると思います。
今、悠々とさんに必要なのは、先を夢見て現実と向き合っていくことではないか? と思います。
一方、積極奇異型ASの中心志向は、「人を利用する」ことの方が中心に思えます。
「人を利用する」ために都合のいいルールを作るわけです。
そのルールの下では無条件に利用される、それは後に自分が無条件で人を利用したいから、ということです。
これは、積極奇異型AS同士ではWin-Winになりますが、受動型ASは「人を利用したい」とは積極的には思わないので、一方的に利用される形となり、反発し、ルールを乱す存在として迫害されます。
ジャイアンは努力次第でいい関係は築けますが、積極奇異型ASとは目的限定の狭い関係以外でいい関係を築くのは難しいと考えています。
こちらも例外があり、積極奇異型AS以外がルールを作っている場合には無機的にルールを守れとは言わなくなるので、普通に関係を築けます。
だから、自分がリーダーになっている時は、人間関係は安定するのでしょう。
m2さんは何となく、私の弟(10代後半から20代前半にかけて)に少し似ているなと思いました。
私の弟は、長い時間をかけて私を許容してくれているみたいですよ。
アメジストさん
私は、自分の幼少期の頃の型(積極奇異)を信用することにしていますよ。
それと、あまり無理されないでくださいね。疲れた時には、電気機器の電源をおとして、ゆっくり休んでみるのもいいと思いますよ。
孤立型さんの方から私に接する時、私に向けて意図のよく分からない質問をしたり、私にはよくわからない試し行動をされたり、試し行動をして私から引き出した反応を元に、浸食される事がなく崩れる事のない論理を、私の知らない間にいつの間にか構築されてしまいます。そして私は、あれやこれやの私の反応を一方的に引き出されてしまい、困惑を感じます。次いで苦痛を感じるようになります。最終的に私の側に多大な負担を強いる我慢をし続けなければいけなくなります。
唯一の例外は、孤立型さんの枠内における一定の範囲内(許容範囲内)に、私が到達する事が出来た時のみ、私の側には少しばかりの自由を許されるようになります。そして、孤立型さんは、通常状態でなぜか高圧的なんです。私はずっと長い事、孤立型さんの事が全くよくわかりませんでした。
私は、孤立型さんに関して言えば、困惑と苦痛と心労などを抱えて関わり、育ってきたようなものです。「なぜこうなっちゃったんだろう…」でしたね。
まだなつもかさんのコメに反応して独り言。。
>色と形で物を覚えている事が多いし、文字も形で思い浮かびます。(私もそうです)
聴覚はむしろ鈍感(これもそうです・既音感あります)
>ADHD同士の熾烈な争い というか
寂しがっているから、周りに同じような話ができる仲間がいないのかなあと思ったの。いないから寂しい訳ですね。はい。私は自分に合うことを選ぶと、ADHDに出会いやすい気はするんだ。。
JETさんへ
なんだか気にかけていただいているような気がして申し訳ない気持ちですー。そしてありがとー(。-_-。)
私のさみしさと言うのは「ジャイアンの空虚」というエントリーにすごく近いもので、実際に何かが得られたとしても埋め難い感覚のような気がしています。さみしいこと自体は慣れ親しんでいて、違和感はないんです。だから、大丈夫ですよ♪
逆に、私が求める方法で人と付き合うと、さみしさを感じさせがちなのでそちらに気をつけて行きたいなぁと思っています。
嗚呼……また一つ、ピースがピタリと嵌った。
人はすべからく、一個の器物だ。自身も例外ではない。
複雑な/シンプルな機械かもしれない。洗練された/粗末な部品かもしれない。石かも知れぬ。刃金かも知れぬ。水かも知れぬ。宝玉かも知れぬ。枝かも知れぬ。眼かも知れぬ。
ただ、説明書きが無いことだけは確かだ。
アレは何だろうか。如何様に扱えば良いだろうか。手探りで試す。験す。タメす。
自身はどうだろうか。
一個で完成したい。
もっとシンプルに成りたい。
余計なものは全て削ぎ落としたい。
そして、そして、
「誰か、使ってはくれないだろうか」
これが、たった一つの私の望み。
ただ、必要とされるときを待つ。
蔵の中で。匣の中で。
ただ、己を欲する手を待つ。
土の下で。梁の上で。
そのときを、待たず朽ちるもまた運命。
いきなりの電波失礼。
以下はあくまで個人の見解である点、留意していただきたい。
我々はヒトとモノを区別しない(できない)。もちろん自分も例外ではない。人間とは、マニュアルの無い機械なのだ。
他者に対して、ホモ・サピエンス(≒自ら思考し、決定するもの)への敬意として、精密機械を扱うように接するが、それはおそらく「傲慢」と映るだろう。
>自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない
というのは、(システムの部品ではなく)一個の道具として自分を使ってくれる人間を欲しているからだ。
お笑い芸人の鉄拳さんとか孤立型ぽくないすかw
嶺往無識さん
私の高校時の同級生だった彼女が、似たような事を言っていましたよ。
アタシにはマニュアル(説明書き)がない というような事を。
何かしらのモデルを探していたんでしょうかね。高校在学中には少し心理学に興味を持っていたようです。
彼女は高校に上がる前、バウムテスト(この紙に木をかいてください、というやつです)をやった事があったそうですが、木の中心にぽっかりとした穴をかいたそうです。
それをみた先生からは、「こんな木の絵は見たことがない」と言われたそうですよ。
返信、遅くなりました。
22日に、恋人に、プロポーズをしました(`・ω・´)
今からお返事書いていきますね
ぬまおさん
僕もまた、答えがでるまで考えてしまいます。
以前は決めつけがひどかったのですが、(先生の言うやっつけ完了型ですかね)
今は、「どこまでわかっているか」「どこまでわかりうるか」という観点が多いです。
だから、ぬまおさんの「新しい情報が入るとまた考える」というスタイルは僕にはすごく共感するものがあります。
「わからないことはわからない」
「わからないからこそ、理解したい」
「わかっているとは限らない」
>「正しいか正しくないかは価値観の問題であって、ACには関係ないように思う」
その考え方は、僕には新視点です(`・ω・´)
「自分は駄目だ」と考える時、全体として駄目だと感じてはいても、自分が正しいと感じる「部分」もあるということですね?
僕はACというものを捉えるにあたって、人格全体としての価値判断しか考えていませんでした。
全てにおいて「自分は駄目だ」と考えるのかと思っていた。
つまり僕の観点では「価値観が揺らいで定まらない状態」をACと捉えていたのですが
ぬまおさんの場合はそうではないわけですよね。
「価値観は定まっていても、それを外部出力できない状態」?
Paulさん
Paulさんは、自己ツッコミと会話したりしませんか?
「いや、それじゃ駄目だろ」
「いやでもこうも考えられないか?」
「いやいや、こう考えることもできるじゃない?」
「それもそうだけど、ではこういう想定ではどうだよ?」
「あ、なるほどその視点はなかった。ではこう考えると・・」
というような。
僕はいつも頭の中でくるくる想定を回しては自己ツッコミをしています。
(自己ツッコミというのは、僕の言葉に直すと「反証」になります。なので、「自己ツッコミが正しい」とは限らない、という観点で考えます。自己ツッコミに自己ツッコミし、それにまた自己ツッコム)
先生も自己ツッコミは苦しい、と書かれていましたけれど、あまり自己ツッコミが楽しいと思うひとはいないんですかね?
なつもかさん
「仲良く静かに、というスタンスで切り捨てられるマイノリティがいる」という言葉は、「僕が切り捨てられている」という主張ではありません。(全くもって違います。)
仲良く静かに、感情表現を廃して行動すれば、表面的いさかいを避けることはできます。(それは多数派的な行動パターンでもあります。)
けれど相手の本心を知るためには、感情表現もまた必要だ、と言いました。
そして自分と違う人間を理解することを目的にして、感情表現が必要だとしても、初めにやった僕のやり方は「まずかった」ことは再三ここで認めています。
ちなみに僕は、利用されること自体は気にならないです。
利用することもそれ自体を問題にはしません。
お互い様とも考えますけれど、一方的に利用する場合も、一方的に利用される場合も、嫌じゃないならそれで良い、と考えています。
一方的に利用されていても、長期的に見て相手が返してくれることも多いですから、あまりシビアに考えないことにしています。(情けはひとのためならず、ですかね)
m2さん
m2さんは、良い悪いと、好き嫌いの区別がついてないですね。
腹が立ったなら腹が立ったと言えば良いんです。
わざわざここでは確認できていない「相手の社会との関わり方」などを想定してまで「腹が立つ」を「悪い」に公共化する必要なんて、ないんですよ。
そうするのが貴方のやり方なら、僕はそれを「悪い」とは思いませんけれどね。
腹は立ちますね。
JETさん
そうなのです・・・。
「お風呂すぐ入れるよ!」とか「気持ちいいよ!」とか「腰痛が治るよ!」とか、お風呂に入ることで得られるメリットを強調するのですが、うまくいきません・・・。
それで業を煮やして「入って!」とはっきり言うことにしました。
夫はお風呂に行くまでは不機嫌ですが、出てきたときは上機嫌なので、たぶんお風呂が嫌いなんじゃなく、面倒くさい(腰が重い)んじゃないかと思うんです。
他に、脱いだ服を洗濯機に入れること、ゴミはゴミ箱へ捨てること、トイレから出たら手を洗うこと、を指導中です。
・・・書いてて情けなくなってきました。
ぬまおさん
自分の子は、人の子とは違うんですね。
「今のところ」の部分に、ぬまおさんの誠実さを感じました。
「誰に何と言われようとも、必要に応じて人に預ける覚悟」
私にとって家庭があまり楽しくなかったことを思い出せば、納得がいきます。
ありがとうございます。
悠々とさん、なつもかさん
なつもかさんの「味方を探して振り分けている」というのは、なかなか衝撃的な見方です。
ADHDから見ると、そう見えるんですね。
職場にも一人のび太さんがいますが、話していると「これは見ている世界が違うなあ」と思うことがあって、興味深いです。
僕は理解に飢えたひとと共にありたい、ですか。
悠々とさんにとっての「理解」はどういう意味を持つのでしょう。
どうして理解にこだわるのか?
どうして理解したいのか、共にありたいのか?
融合や同化に近い100%の「理解」・・・
私は、自分にそれができないのなら、他人にもそれを求められないのではないかと思うのです。
参考になるかわかりませんが、私から見た世界の話を書きます。
どなたに向けたものでもありません。
(↓以下は、精神的に不調を感じている人は読まないでください)
私が二十代後半の頃思っていたのは、自分は「袋小路の存在」であるということでした。
私には何代も先祖がいる。さまざまな偶然(淘汰)の結果、今ここに私は存在している。
それなのに私は異性に全く興味が抱けなかったり、子どもが欲しいと思えなかったりする。
自分の遺伝子を残すのが生物の定めだとしたら、私は、生物として失敗作なんじゃないか?
他の人は何の疑問も抱かず生きて、結婚し、その遺伝子を残し、脈々と続いていく。
私はどうなんだろう?一体何のために存在しているのだろう?
あるとき、母親に、何故私を産んだのか聞いてみました。
思春期の頃にも何度か聞きたいと思ったが、怖くて聞けなかった質問でした。
そのとき私は精神的に参っていたので、安心が欲しかったんだと思います。
母は「それなりの歳になったら、結婚するものだと思っていた」「結婚したら子どもを産むものだと思っていた」「世話をしていたら何となくかわいく思えてきた」と言いました。
この行き当たりばったりな返事が返って来たとき、私はとてもがっかりして、言いようのない寄る辺のなさを感じました。
(続き)
別に「私」じゃなくてもよかったわけだ。(当たり前と言えば当たり前か)
私は、こんないい加減な理由の上に存在しているんだ。(子どもの存在って親のエゴの産物でしかないんだ)
これが、母の言葉から得た私の結論でした。
「自分はどうも普通ではない」と自覚することは、そんなに難しくない。
私は自分の存在自体が偶然の産物であると理解したとき、何かがぶつっと切れて、それ以来ますます何のために生きているのかわからなくなりました。
死を選ばないから生きているだけで、能動的(主体的)に生きているとは言い難い。
もともと自分の衝動を自覚しにくいだけに、考えていると迷路にはまり込んでしまいます。
そして生きるための手段として普通の人のふりをすることはできるけど、普通にはなりきれない。
目の前のもの(人だったり物だったり)を理解するエネルギーは尽きない。(視界に入ると気になるから)
けれど目の前に何もなければ、それはそれで問題ないと思います。
AC関連の本で、「自己評価が低い人は子どもを作ることに積極的になれない場合がある」という話を読みましたが、今でも自分の『仮説』からきれいに脱却することはできません。
(↑ここまで)
Fさんあのね、私は理由は無くていいと思うのです。でも意味がある。新しい意味をもってお子さんが生まれて来る。それは生んでみないと分らないと思うのです。。
(精神的に不調な人、自我がうすい人にはインパクトが強すぎるので、読まない方がいいと思われます)
私は自分の安心のために、自分の母親に、何故私を産んだのかを聞いてみた事は一度もありません。
というのも、自分の存在の理由すべてが親によるものだとは、とても思えないからです。
私の場合は、「なぜか”私”が突然存在し、この世の人生とやらになぜか一生懸命臨んでいる」というもので、二次障害時やAC時であっても、基本的にこの感覚そのものが無くなる事はありませんでした。
私の母方は戦後の開拓団出身で、父方は島では有名な家出身なので、私が自分の親に自分の知らないことを聞くというのは、「親自身の人生を知り、その事を元に自分の出自をある程度確認し、今後の自分の人生の手がかりの一つとする」という事になります。
私の母は自分の人生を喋りたいほうの人らしく、親族の葬儀などの節目に思い出すのか、ほっといても大体喋ってくれます。ちなみに私は、私の母の母(祖母)そっくりだそうです。色々な意味で複雑ですが、祖母のエピソードを聞けば聞くほど、不器用な人なのに戦後の混乱期、激動の時代をよく生きたな、と思うようになり、今ではあまり腹も立たなくなり、不満や不可解もだいぶ薄れました。
数年前に、母から、病院で入院している祖母の死に際が近いと連絡があり、当時うつ的だった妹をたたき起こして私が仕切るようにして連れて行ったところ、奇跡的に間に合ったので、色々な意味で安堵しました(もちろん現場は壮絶でした)…が、私の母の姉(伯母)が間に合わなかったので、今はその後の伯母を少し気にかけているところです。
>母は「それなりの歳になったら、結婚するものだと思っていた」「結婚したら子どもを産むものだと思っていた」「世話をしていたら何となくかわいく思えてきた」と言いました。
Fさん、ごめんなさい!私の20代を思い出したら、だいたいFさんのお母様と同じ感覚でした。結婚することや子どもを生むことに何の哲学もありませんでした。
そして毎日子育てをするのと共にだんだん「母」になって行きました。こちらが育てられたというのが実感です。
現在は私にとって、子どもたちはかけがえのない存在になっています。
でも、人それぞれですから、「子どもを作ることに積極的になれないから無理して作らない」という選択肢も自分が納得した上で選ぶことは大事だと思います。
悠々とさん。
>22日に、恋人に、プロポーズをしました<
そうですか。やりましたね。いいお返事を祈っています。
>Paulさんは、自己ツッコミと会話したりしませんか?
「いや、それじゃ駄目だろ」
「いやでもこうも考えられないか?」
「いやいや、こう考えることもできるじゃない?」
「それもそうだけど、ではこういう想定ではどうだよ?」
「あ、なるほどその視点はなかった。ではこう考えると・・」
というような。
僕はいつも頭の中でくるくる想定を回しては自己ツッコミをしています。
(自己ツッコミというのは、僕の言葉に直すと「反証」になります。なので、「自己ツッコミが正しい」とは限らない、という観点で考えます。自己ツッコミに自己ツッコミし、それにまた自己ツッコム)
先生も自己ツッコミは苦しい、と書かれていましたけれど、あまり自己ツッコミが楽しいと思うひとはいないんですかね?<
全く同じです。毎日苦しみもがき辛い目にあっています。
でもそれが自分の生き方だと割り切っています。結局途中で妥協して、またあとでその妥協案を後悔して、の無限ループ。
最近武道始めました。体を動かし、他者と調和をとる鍛錬目的で。
>m2さんは、良い悪いと、好き嫌いの区別がついてないですね。
腹が立ったなら腹が立ったと言えば良いんです。<
いたく同意。
>でも、ADHDっていうのは、それが自然なのではないですか?
ADHDの自然状態は、注意が容易にそれてしまう「注意欠陥」と、「衝動」的に何かを言ったりやったりする状態の事です。のび太ADHDは後者が目立たない。そして、注意欠陥や衝動によって失敗したことに自分突っ込みをするのが自然状態です。
「論理的な面ではむちゃくちゃ」な状態がADHDの自然状態ではなく、自分の都合の良いように辻褄を合わせようとするから論理がむちゃくちゃになるだけです。モンスターペアレンツの言う事って論理がむちゃくちゃでしょ。自分の意見を押し通したいためにむちゃくちゃな論理を仕立ててしまう。暴君型ジャイアンがよくやる事です。
そして、ジャイアンに甘やかしや尻拭いは禁物です。<
たまたまみさんの過去のコメントを見ました。
なんか小生にばっちりはまっているような気がしました。
もしかしてみさんは小生に言おうとされていたのではなかろうか、と思ってしまいました。
>「論理的な面ではむちゃくちゃ」な状態がADHDの自然状態ではなく、自分の都合の良いように辻褄を合わせようとするから論理がむちゃくちゃになるだけです。<
自戒の念。
主人と結婚した時期は、私が意味不明な人たちで構成された家族の中で、意味不明状態からなかなか抜け出せなかった頃なので・・・だから結婚したのかな・・?とは私よりのかなり勝手な言い分なのですが、持っている物のレベルを考えると、あっちの方が断然上なんです。。。主人のACが抜けると、う~ん・・・ でも…孤立型となると…主人次第でも大丈夫かな・・・。。。ゴメンなさい。。
義理母がAS孤立だと思うのですが、義理父がジャイアンなので、二人の対応をしている時、自分が二重人格に思えてしまい・・・周りが案外意味不明に近い人ばかりなので、。。。主人に私ちゃんと対応できているかな・・・浮いていないかな・・・?と尋ねたら
・・・自分はかなり珍しく良い人なので、全然大丈夫やで~!???・・・やっぱり二重人格か・・・
Fさん
ご主人受動型っぽいですねー自分も何も問題がなければ、面倒くさがりで何もやらない人になってしまいます。相手が受動型なら怖い顔して命令するだけで言うこと聞きそう(笑)たまに「いつもありがとう」とか言ってあげれば満足しそうだ。飴とムチを使い分けよう!
子どもについては、自分もそうだけど、子育てをして初めて親になる感じです。妻は、うちの親に三歳になる前に保育園に預けると、愛情不足で子どもがかわいそうだ、と言われたため、三歳になるまで保育園に預けなかったことが不適応行動の原因になったと思います。案ずるより生むが易しです。
悠々とさん
おお!プロポーズしたんだ。返事はどうなったのかな?あんまり彼女に自分の価値観押し付けると嫌われちゃうぞ。婚約が決まってからが勝負どころ。マリッジブルーになるからなー。
>「価値観は定まっていても、それを外部出力できない状態」
価値観は自分の経験と知識で形作られるものだから、人によって違うのは当然なので、ACの歪んだ認知で判断すれば、歪んだものにもなる可能性もあると思います。人によるのかな?
子育てに関する独り言です。
今振り返ると、結構きつかったのが「公園デビュー」でした。
若かったのと、自分がASだという認識がはっきりとなかったので、ある意味、無理ができてしまったとも言えますが、毎日「子どもの社交性を育てるために」公園に通いました。
毎日通うことをノルマにして頑張りましたが、時々ふっと「ああ、明日も公園に行かなきゃいけない。疲れるなあ」などと思ったものです。
今ではとても無理ですが、若かったから子育てが何とかできたという場面がたくさんあります。
JETさん、さーこさん
私の中では「意味」と「理由」がとても近いんだと思います。
自分が生きる理由を他人に決めてもらうものではないということは、頭ではわかります。
けど、そのときは、自分が存在してもよい理由を立証する材料が、自分の中にひとつもなかった。
だから不様にも母にそれを尋ねたのです。
そして理屈で片づけられない(納得できない)部分がずっと引っかかり続けるのが、自分でも難儀だなあと思います。
アメジストさん
産まないという選択が許されるようになってきましたし、時代が変わってきたのだと思います。
どうか謝らないでください。
母とアメジストさんは別の人ですし、それに「何となく産んだ」という言葉が、母に不信感を抱いた原因のすべてではありません。
この件に関しては、「(長男の嫁という立場を考えて)産んでおいたほうが、あんたのため」と言うのが母の意見です。
私はそんな理由で作られる子も気の毒な気がします。
母がADHDなのかASなのか未だによくわからないのですが、私とは見ている世界が違う気がしています。
ぬまおさん
私は夫のことをADHD(どちらかと言うとジャイアンっぽい)だと思っています・・・夫の母と、夫の父の母がとてもADHDっぽいです。
確かに怖い顔すると、たいていお風呂に行きますよ!(とてもしぶしぶ)
私が「かっこいい」とか「デキるな~」とおだてると、夫は調子に乗ります。
たまに洗濯を干したりすると「職場で自慢してきていいよ!(いい旦那さんアピールして来て)」と言います。
そしてびっくりするほど飽き性です。
二人で一緒にニュースを見た場合、ほぼ同じ感想のようなのですが、単に私に合わせているだけなのかもしれないと最近思い始めました。
悠々とさん
よいお返事が来るといいですね!
Fさん
私の母は「子孫繁栄」が家族の理想だと長く強く思っていました。
弟夫婦(長男)は夫婦で相談した結果、子どもは作らないことにしていました。
母が自分のこだわりに苦しくなった様子だったので、カウンセリングを受けさせました。その結果、ようやくこだわりから解放され、孫のことはあきらめました。
母を避けていた弟夫婦はまた母とよく連絡を取るようになりました。
こういう葛藤はよくあることでしょうね。
プロポーズのお返事はよいものでした!
いよいよ僕も結婚です。
お相手は変わり者の定型者なのですが、父親が合理的ADHD(おそらく中心志向ジャイアン上がり)で、母親が高機能な定型者であるという家族構成のせいか、厳密な言語理解が可能なので、一緒にいてとても楽なひとです。
上手くいけばいいな!と思っています(`・ω・´)
さて、少し酔っ払いですが、お返事書いていきますね
Fさん
僕にとっての「理解」とはなにか
と聞かれて、考え込んでしまいました。
完璧な答えを用意したくて返信を先延ばししてしまいました。
けれど、完璧になんて、できないですね。
舌足らずになると思いますが、お許しください。
(気になるところ、わからないところをつっこんで聞いてくださると、自己発見にもなって嬉しかったりします)
まず初めに、僕にとっての「理解」には、「肯定」という意味が含まれないことを強調しておきたいと思います。
僕は、僕が理解されるのであれば、否定されても良い。レイヤーとして、厳密にそこは分かれたものとして定義しています。
その上で説明するなら
おそらく、僕の使う理解という言葉には2通り以上の意味があります。
ひとつは対人関係においての理解
もうひとつは事象に対しての理解
自己分析するに、
対人関係においての理解とは
一体一の関係において、相手の発想「原理」が理解できる、発想の基礎構造が理解できる、というような意味で使っているように思います。
この「理解できる」というのは、瞬間的なものではないことに特色があるかもしれません。
言語的やりとりで、誤解を訂正し、ゆっくりとでも真意に近づいてゆけるのなら、僕の中でそれは、「理解」された状態と言えます。
そう考えるなら、「相手を理解することを諦めない。理解『できると信じる』状態」を「理解」と読んでいるのかもしれません。
続
Fさん
承前
もうひとつ、事象についての理解について
これは、物事が、「なぜそうあるのか」遡って遡って、論理的な「根っこ」からその事象を論理的に導ける状態、と言えると思います。
全ての物事には、仮定があり、前提条件があり、別の物事とのつながりがあります。
この、「仮定」「前提条件」「つながり」を見つけることが、事象についての僕の理解だと思います。
その上で、それがわからないなら、わからない、とカテゴライズする。
わからないことばかりですが、わからないという前提にたって、仮説を立て、現実との整合性を探り、より「もっともらしい」仮説を探してゆく。
こういう考え方をアブダクションというらしいのですが、僕にはこれが楽しくて仕方がない。
なぜこれをするのか、と言えば、僕の生まれてからの生育環境に由来するのでしょうけれど、実益を兼ねた趣味、とするのがしっくりきます。
理解をすれば、先に進める。
理解ができていなければ、なにもできない。
間違える。
僕の究極的な目的は、「充足して死ぬ」ことです。
そのためには「充足して生きたい」。
そのためには「充足するとはなにか、を知りたい」
「充足とはなにかを知るために、この身体を知りたい。この身体が生きる、この社会を知りたい。この社会の構成要素たる人間を分解解析していきたい。」
そうやって掘り下げること、それ自体が、僕にとっての「生きる」ということなのだと思います。
とても楽しいんです。
Paulさん
武道は良いですね!
僕は最近、もっぱら姿勢と呼吸について調べては実践しているのですけれど
知れば知るほど、大学時代にやっていた少林寺拳法を思い出します。
もっと身体の動かし方がわかっていたなら、おもしろかっただろうになぁ、と
全てを反証して生きるには、ちょっと時間は、早すぎますね
もっと一日が長ければいいのにと、いつも思います。
やりたいことはいくらでもあって
やらなきゃいけないこともいくらでもある
早く早く、と思っていても、いつも身体はついてこない。
仕方がないので、ゆっくりゆっくりと
効率的な反証方法を探して、生きています。
ぬまおさん
ACについて
例えば「私は駄目な人間なので、~については人並みにすることができない。なので、別の~でこれを補おうと思う」
と『確信』した認知は、
自分が駄目である、という認識と確定的な価値規範を両立できると思うんですね。
けれど、これってACですかね?
僕の知っているAC、境界例のひとたちは、こういうひとたちではなかったのです。
ひとになにか言われるたびに「あ、私はまた間違った。こうではない。だから私は駄目なのだ。駄目なやつだ駄目なやつだ」とその場その場で修正を繰り返してわけがわからなくなるような人たちでしたから、そういうイメージが染み付いてしまっているようです。
価値観はひとによって違うので、ひとと話していると、価値観のすり合わせが起こります。
そのときに、他者の価値観に対して自分の価値観が「劣っている」と認識することがACなのかな、と思うのです。
ひとによって違うものに合わせようとするので、違うひとと話すたびに価値観が揺らぐ。だから苦しい。いつも居場所がない。
僕のACについての認識は、こういうものでした。
悠々とさん
婚約おめでとう!相手が多数派なら、多少のことは大目に見てくれそうだね(笑)
>「あ、私はまた間違った。こうではない。だから私は駄目なのだ。駄目なやつだ駄目なやつだ」とその場その場で修正を繰り返してわけがわからなくなるような人たち
それを口に出して言っているのは、ACではなくてジャイアンの可能性があります。会社のジャイアン(友人の医師から診断済みだそうです)は、いつも、何かあるたびにその言葉を口に出しています。会社のジャイアンは自己突込みを全部、口に出して言うので、自己突っ込みというのは口に出して言うものだと前まで認識していましたが、頭の中で聞こえてくるものみたいですね。
自分が駄目だということを確信しているのであればADHDの自己突込みというより、ACによる認知の歪みか、受動型のネガティブ思考かもしれないですね。コメントを見ていると、悠々とさんは、一体一の関係において、相手の発想「原理」が理解できているということで、受動型のように思いますが、ACを抜けてみないと、依存型ADHDかASかもよく分からないですね。
>人によって違うものに合わせようとするので、違うひとと話すたびに価値観が揺らぐ。
人の影響を受けているからASっぽいし、全体的な考え方としては自分に似ていますね。
>「充足して死ぬ」
これは多分、自分もそうだと思います。新しいエントリーにある先生の生活について、「うらやましい環境にあって、先生は幸せそうだ」と思うけど、人によって捉え方は違うみたいですね。
悠々とさん。
おめでとうございます!本当に嬉しいです。ご多幸をお祈りします。
小生も再婚目指して頑張ります。(もし縁起がよくなかったらごめんなさい)YANBARU先生も頑張って欲しいなあ。
>僕の究極的な目的は、「充足して死ぬ」ことです。
そのためには「充足して生きたい」。<
反省ばかりの人生でしたが、これから小生も変えていきたいと思っています。死ぬとき悔いがないように。
>全てを反証して生きるには、ちょっと時間は、早すぎますね
もっと一日が長ければいいのにと、いつも思います。
やりたいことはいくらでもあって
やらなきゃいけないこともいくらでもある
早く早く、と思っていても、いつも身体はついてこない。<
小生は心もついていきません。自己突込みが多すぎて。きちんと冷静に考えられたらもっと楽だろうになあ、と思いますがこればっかりは仕方ないかと。自己突込みに助けられることも多いですし。
>僕は最近、もっぱら姿勢と呼吸について調べては実践しているのですけれど
知れば知るほど、大学時代にやっていた少林寺拳法を思い出します。<
いいですね。中学時代にブルース・リーに憧れて奇声を発して蹴りまわってましたよ。もちろん壁や柱を。
武道は身体と心の鍛錬と、人間と自然との調和の再確認と、他者への敬意、礼儀作法の徹底目的で始めました。
心身ともに充実させることが、余計な依存心や情緒障害から解放してくれるのではないかと考えています。
いつかお手合わせできたらいいですね。
Fさん
いろいろと受動型を見分ける方法を考えてみたけど、愛着からの誘いを、余程のことがなければ嫌でも断れない特徴があるんで、Fさんがご主人に「一緒にウォーキングをしよう」と誘ってみれば分かるかも。「えー、いいよー」とか言うかもしれないけど、Fさんが「一人で行って来る」と言って出掛けようとすれば、受動型なら確実に「じゃあ、自分も一緒に行くよ」と言って動き出すと思います。
自分のためにやせようとか、絶対に思えないです。自分は太ってないんで必要ないんだけど。どんなメリットを提示されても自分のために動くことはできないけれど、愛着のためなら無理してでもやろうとします。
>確かに怖い顔すると、たいていお風呂に行きますよ!(とてもしぶしぶ)
結婚当初、自分もそうでした(笑)
>私が「かっこいい」とか「デキるな~」とおだてると、夫は調子に乗ります。
冗談には冗談で返します!
>たまに洗濯を干したりすると「職場で自慢してきていいよ!(いい旦那さんアピールして来て)」と言います。
照れ隠しだと思います。
>そしてびっくりするほど飽き性です。
熱中できるものに出会うまで、いろんなものに挑戦したりします。
>二人で一緒にニュースを見た場合、ほぼ同じ感想のようなのですが、単に私に合わせているだけなのかもしれないと最近思い始めました。
自分の場合、妻に合わせる時間が長くなってきたので、影響を受けて考え方も段々、似てきたような感じがします。
孤立型と思われる人が
・理解されたいという感情が自分を殺すのだろう
・譲渡した選択とその拒絶 -パラドックス- が自分の支配なのだろう
・自分の人間性を求めてきた が、
・縁を切ることによって無?の状態になっていくだろう、というか
そういうことを言っているが、これは手出しせず見守らなければならないところなのかどうなのでしょう。無力感・・。
>JETさん
「譲渡した選択とその拒絶」は支配である。
なんかすごい言葉で脳内メモしました。
「譲渡した選択」っていうのは、こちらから相手に対して何もメッセージをおくらない無責任甚だしい行為であり、そのくせ相手が思うようにコントロールされなかったら拒絶する。これは傲慢以外の何者でもないってことでしょうか。
謙虚さや優しさや依存のようにもとれる「譲渡した選択」を「支配」であるといいきるなんて・・すごいです。
>ちひろさん
んーなんかそうですねー
譲渡した選択とそ・・それに対する拒絶?
選択肢は相手にある、選択されることには無防備でありながら、拒絶するという?
相手への要求は無いというか拒絶させろと要求するというか
よくわかりませんけどとりあえず完全試合をめざすピッチャーみたいなのかなと思ってました。ちょっと違うかな。
試合を支配する・・
飼ってくれる球団を必要としている・・
>JETさん
コメントありがとうです。
わたしもよくわからないのですけど、完全試合でなければ勝利でないと思い込み、ヒット一本打たれたら試合を捨てて、全ての試合に負けつづける人・・・そんな人を想像してしまいました・・( ̄▽ ̄;)
まず(と、毎回前置きしてしまいます、すみません)、
自分が返信コメントすることやら自己分析やらその他諸々で
じっくり読めていなかった各エントリー、
この「孤立型AS」や最近の「一次障害と二次障害」「再び皆さんへのご協力のお願い」のコメント、
そして
それに付随して過去の「『ナンギ』の意味」「依存と利用」他AS関連のものを再度読んでみて
そこここに(もちろんここにも)コメントできたらと考えています。
JETさんの
>・譲渡した選択とその拒絶 -パラドックス- が自分の支配なのだろう
この部分、自己分析の新たな視点に切り口になっています。
感謝です。
初見(初読)の理解は…
→『ナニカの選択(意思決定or意見or取捨選択)の権利を相手に丸渡ししたけれど「ちょ、待って、やっぱりダメ!権利は無し!こっち選んで!(or話し合おう!)」と、相手が選択権を渡されてたことに気づくまでにすぐ引っ込めるor引っ込めたくなる』、ことかなぁ…
とイメージしたのでした。
(もちろん(?)その後のコメントのやり取りを拝読して
また違った視点になっています、
良い意味でドキドキしますね、他者のつぶやきorコメントor指摘は。凹みもしますけれども(うーん))
そうかー、他者には私の言動がこう写ることもありえるかもしれないよなぁ
などと
「他者の視点」
を学べた感覚になりました。
感謝です。
蛇足的に。
完全試合≒白黒しかない世界、なAS脳なら至極当然なこと。
まあ、あの、先のコメント内発言者の方は(孤立型と私が思っている人)、社会も掲示板も怖いということで黙しているのです。しかし私は本人がせっかく出力したのでここに載せたかったので勝手に書いたのです。
そしてやがて理解に向かっている・・嬉しいことでございます。。。
>・譲渡した選択とその拒絶 -パラドックス- が自分の支配なのだろう
他トピックのあおいよるさんの一連のコメントを読んでから上記フレーズを目にして感じた事を書きます。(それらのコメントを読んだ直後でなければ消化不良を起こしていたと思います。感謝。)
①譲渡した選択…
自分以外の誰かに判断を委ねる
②その拒絶…
判断を委ねる形はとったものの、自分が想定していた結果とは違った為に拒否反応が起こる
③自分の支配…
結局は自分のこだわり通りの結果を求めていたという事実の認識
自分のこだわりに気づかず譲渡してしまっているのか、初めから自分のこだわりを表現するということが選択肢としてありえないためにそうなるのかな?と思いました。
私なら③の時点で罪悪感に苛まれそうですが、孤立型さんなら特にそうでもないのかなぁ。自分のこだわりを他人に当てはめる事って、ご自身の中でどう処理されているのか少し興味を持ちました。
当たり前のことだから当てはめるのはなんとも思わないが、受け入れられないと悲しいとか、当てはめること自体好きではないのにやめられないとか、想像は難しいけれど内観は色々ありそうです。
(でもこんな書き方すると傷付けてしまうのかしらと少し心配…。開示して大丈夫な部分で教えていただけると嬉しいです!)
私から見ると、理解されるという経験をもてない ことがASの人の苦しませるでありましょうか。
自分を理解している他者を認識するということは要求を引っ込めてるということなわけで
それは部分的な理解に甘んじることが出来ているわけで
理解されるという経験をもてないのになんでそんなこと出来るわけ無いじゃんという
そうだよなあ!そうだそうだ!
だいぶ間が空いたので、今からあちこち読んできます。
今月末で念願の退職です。ああ、すっきり。
悠々とさんへ
遅くなりましたが・・・まずは、ご婚約おめでとうございます!
こっそり白状すると、悠々とさんのコメントを読むと、何となく似たような世界を見ている印象を受けます。
>まず初めに、僕にとっての「理解」には、「肯定」という意味が含まれないことを強調しておきたいと思います。
ここを読むと、特に。
以前別スレッドでドンパチやったときに「(Fさんは)承認欲求が強いのではないか」と指摘されました。
自分ではそう思わないのだけど、他人からはそう見えるのかな?と思いました。
「(正しいかどうかはさておき、)そういう考えがある(存在する)ということだけは認めてほしい」というのは、確かにあります。
まずは存在を認めてもらえないと、理解に至らないですから。
そして、理解が深まるのであれば、私も衝突することを厭いません。(その結果、相手との決別で終わることもあります)
対人関係でも仕事でもそうですが、「何故そうするのか(根拠)」を考える癖があります。
それなりの年月生きていると、たいていの人はパターンに分類できます。
「この単語を使ったということは、多分相手はこんな感じのことを考えている」「こういう理由で次はこういう行動を取るだろう」「こうしておくと関係がうまく行きそう」と考えながら付き合うのですが、たまにとてもユニークな人(想定外の反応を取る人)に出会います。
「これは見たことないタイプの人だなあ」となり、注意深く観察をします。
観察はとても楽しいです。
事象も同じで・・・
何か問題が起きた時、根拠となる法令や通達を漁るのが好きです。
自分の無知を未完成のパズルに例えるなら、ピースを埋めていくような感覚です。
ぬまおさんへ
微妙なラインです(笑)。
私が「ウォーキング行ってくる」と言うと「自分も行く」と言ってついて来ることもありますが、ゲームしてたりすると来ないですね。
帰りが遅いとお土産買って来る、頼まなくても車で迎えに来てくれるといった妙にまめなところもあれば、何回注意しても手を洗わなかったり(爪の中が黒い)、食べたお菓子のゴミを捨てなかったりといったズボラーさも兼ね備えています。
>「譲渡した選択とその拒絶」は支配である。
私もこのくだり、びっくりしました。
支配か・・・。
確かに、相手は恐怖は感じるかもしれないですね。
相手に譲渡した(選択権を譲った)のだから、文句は言わない。
でも歩み寄りもしないです。
実は以前、離婚の話が出たことがあるんです。(私が100%悪かったのですが)
夫は離婚届を用意していて、真剣な顔でそれを取り出しました。
私の名前の欄には夫の字で、私の名前が書いてありました。
私はそれを見て、「ここは私が署名しないと受理してもらえないんじゃないかな」とか「本籍地じゃないから戸籍謄本を添付しないとだめなんじゃないかな」とか考えていました。
このときは自分の冷酷さがつくづく嫌になりました。
でもそのツッコミを口に出すと、夫を余計追い詰めそうなので、何も言わなかったです。
「・・・用意したけど、嫌になっちゃった」と笑いながら離婚届を破って見せた夫に、私は「そう」とだけ答えました。
涙ひとつこぼさなかった私を見て、夫が初めて泣いたのを思い出しました。
自分としては、「それならそれでしょうがない」と思って、『投げている(諦めている)』以外の何物でもないんです。
「黙ることで威圧して、相手を思い通りに操作してやろう」という意図はなかったです。
強いて言うなら、「後悔するくらいならはじめからやるな」の首尾一貫性のほうじゃないかと。
相手に選択を委ねた以上、文句を言う権利はないので。
相手はこちらが歩み寄ってくることを想定してるんですね。
歩み寄らないことが「拒絶」と受け取られるとは、思いませんでした。
ま、だから先生は諦め諦めって言うんですね。
死者を求めれば擬似体験ができる。
それについて入力が終わったら更新しないのでは。孤立型の人の愛着は移り変わる必要が無いのでは。
微妙に話があっちゃこっちゃいってて面白いですが
私誰にもからんでないですよ
私はガッテンガッテンしたんだがなあ
みんなあまりぴんとこないんだなあ
>Fさん
歩み寄らないことが「拒絶」と受け取られるとは、思いませんでした。
↓
それはいくらなんでもワガママ自覚なさすぎなんじゃあ・・(>_<) 相手はこちらが歩み寄ってくることを想定してるんですね。 ↓ (゚д゚)(。_。) 試合しないけどこっちの勝利にしろとか、こっちの勝利が決定しているから試合はしないとか言う人がいれば、ワガママで卑怯で幼稚で傲慢だと思うでしょ。 「選択の譲渡」は・・・とても卑怯。
あのね違うんですよ、私構造はわかるんですよ。言葉だけで説明しようとすると語りえないのです。
字義どおりにとればいいんですよ。可も不可もない。
数式があればそっちのほうがいいに違いない。
数式の掲示板があれば参加するかもしれないなあ。
誰にも迷惑かけていない本人が耐えていることを言いたかった。
私はこの人が好きなのでそれだけです。
>ちひろさん
譲渡された選択自体は何も卑怯ではない。
そうじゃなくて夫婦関係のことを言いたいんでしょ。
分かった振りのLDさん。LDの自覚とは何か教えて下さい。
先週末は弟と妹の帰省にともなって親の還暦祝いをしようという事で((注)発案者は兄のお嫁さん)、いろいろと詰め込んだ週末でした。
弟(たぶん孤立型)を見ると、私が自立直前の状況になった事で、彼の中の実家で育った間の記憶(中学から高校までの記憶)が、今までは停滞していたのが(同じところで何度も引っかかる状態、頭の中で何度も想起される)、今回は「よく覚えていないんだよね」と消えかかっている様子でした。
一足早くに帰省した弟は、まだ到着していなかった妹(たぶんADHD)について、「意外だな、妹は実家には寄りつかないかと思っていた」とボソッと発言したり。
私は私で、「やはり(弟は)そう思うのか」とこっそり思ったりしていました。
兄弟4人が無事にそろい、還暦祝い(前祝い)も済んだ翌日の朝は弟が帰る日だったので、空港に向かう車の前で「(アロマ)のプロになったらまた来てね」と私が告げると、弟は一瞬驚いたような顔をしていました。空港の荷物検査の列に並んで私たちに片手を上げて挨拶をした時には、彼はすでに普通の顔をしておりましたが。
そして弟が帰った後、弟の恋人の話を妹が聞きたがったので、いま弟がこだわっている(納得できていない)「恋人の家族のトラブル話」を少し妹に話したところ、妹は「モノにとらわれるな、とらわれるな」と言っていました。
なんとも風変わりな家族(爆)
(私事になりますが、今月下旬から一人暮らしする事になりました。これからはそうそうインターネットができる環境ではなくなるので、無理せずあせらず、で、これからもがんばろうと思っています。)
弟との関係で学んだ事は、「相手(私)の立場に立つ(根本的な)想像が、(感情移入でさえも)出来ない」という事です。
文通相手は感情移入ができるようなので、おそらくは感情移入を通して私の状態を把握してくれているようですが、弟はそうではない。
私も耐えていた、という事が、弟には根本的に想像する事ができないようです。
「承認欲求」ですらもないと思いました。
少々つぶやかせてください。以下はただのひとりごとです。
「自分自身が、他人の存在を感情移入を持って認識できないから、まずはこちらの存在を認識してもらえないと、こちらからの、他者存在の認識、から、他者理解、にまで至らない」という事かな、おそらくは。
しかしこれは「理解」というものなのか…。私の拙い頭では想像する事が困難です。言葉で言い表すことができません。
「相互理解」ではない事は、おそらくたしかであろうが。
認識と、理(解)があり、感情移入がないとしたら…。
以前、かなり前ですが、アシモが子供達と一緒に追いかけごっこをしているテレビCMがありましたね。
私たちと同じ人間だという風に扱えば、そのように存在することになる。
私はそう思いました。
>JETさん
わかったふりとは失礼な・・そこまで私は賢くないぞ。
わかったふりなんじゃなくて「わかった!」と思うおバカさんですよ(*^^)v
あ・・でも・・書き方がちょっと悪かったです。
今までの話は私の話であり、Fさんの話でもJETさんのはなしでもないのです・・コメント欄で自己ツッコミそのまま書いてしまうと、自分を棚上げにした他者ツッコミを取られてしまうから注意だと・・以前自分で書いておきながらやってしまいました。本当にすみませんm(_ _;)m
もちろん夫婦関係が入っています。一番大きいです。
ワンルームマンション購入時に、わたしは夫に選択を譲渡しました。その自分の姿をそれはとても卑怯だったと、今、反省しているのです。人と人がそばにいて、ましてパートナーという責任のある立場であれば、「無視」は無責任であると同時に、無責任である自己を一方的に押し付けていることにほかならない。人と関係を構築するうえで、交渉のテーブルに乗らずに逃げて、そのくせ自己をおしつける、それが卑怯じゃなかったらなんなのでしょう。
自己愛が強く、身勝手、子供のように自己の要求が100%通って当然とどこか思ってる。そして社会の要求に答えて、自己を抑えることに大人としての誇りと自信をもたなければならないところで、「苦痛」を感じてしまうその幼稚さが「選択の譲渡」という耳障りの良い言葉で、交渉のテーブルから逃げ出すこと正当化しようとした。
私はなぜ奴隷になったのか・・・これは私自身のテーマです。
ですから、選択の譲渡は(奴隷でなく)支配である。この言葉は本当にいろいろ考えさせてもらいました。
被害者意識ばかり強くて自分の責任というか・・幼稚さに思いがまわらない自分に薄々気づいていたのですが、それれに切り込む剣をもっていませんでした。そんな私の剣になりました。
JETさん。良い言葉のプレゼント、ありがとうございました。
>相手はこちらが歩み寄ってくることを想定してるんですね。
歩み寄らないことが「拒絶」と受け取られるとは、思いませんでした。<
意味深な言葉ですね。
しかしジャイアンADHDとしては。
歩み寄ってくれそうな相手かどうかをまず判断しますね。
だから歩み寄ってくれなかったら、ああやっぱりそうだったか、で終わります。
冷たすぎますかね。
あ~~。
自分のコメントを読み返して、なぜ道産娘さんが「私のこと?」っていったのかわかったっΣ(|||▽||| )
> 道産娘さん
ネットの世界ではスルーがキホンですからっ!!!
みさんと交渉しようとするなんて、「ラブ&ピース」という旗をもって軍事境界線の前を歩くようなものですからっ(–;)
・・みさんは元気かな・・・。
>Fさん
Fさんは受動型さんだと思ってました。
孤立型さんの特徴が無いから。
>Fさん
受動型のACで孤立型っぽくなっている場合と、孤立型だと思っている後輩がACだった時のように受動型っぽくなっている場合は、受動型か孤立型か自分から見ても全く分からないです。切れやすいかどうかくらいしかポイントがないな。後輩の場合、ACから抜けて、自分とは明らかに違うことが分かりました。
Fさんは受動型のACのようにも感じます。自分と似ている部分が多いです。孤立型のACかもしれないですけど、依存型ジャイアンのACも似ているのかな?よくわからないけど。
ほかのエントリーに登場したFさんの元カレが、なんとなく自分の妻に似ているような印象を受けました。自分ルールを愛着のみに適用する感じとかが。
>あおいよるさん、ちひろさん、Fさん
三人とも出自の理由についてあまりいい印象を持っていないようですが、自分の場合だと「自分はダメだから諦めよう」というように、「自分は生まれてこなくても良かったんだから、これくらいのことは我慢しよう」と、AC的なあきらめの理由に使っている感じですか?
私の場合はちょっと変わっているかも。
育った場所は・・・ガラの悪さを自慢するよ~な街ですからっ!みかじめ料を払わなければ仕事ができないという県で、陸、海、空のインフラを持つ、人口4万弱のマフィア町( ̄▽ ̄;)・・そこにある有名な特殊部落地区って((((;゚Д゚))))でしょ?そんな場所差別するなんて人権うんぬんのまえに頭おかしいんじゃね~とおもう。でもそこの深部に眠るのは執務室で銃殺される町長じゃなくて、大量の動物の化石が発見された洞窟の宗教施設なんですけどね・・・((((;゚Д゚))))・・イヤコッチノガコワイカ・・
生まれた場所は・・リア医にも細かく聞き出されました。
近くにグランドがあったでしょ?なレベルで( ̄▽ ̄;)
毎年お盆には帰って必ず行った場所。
坂降りて左にまがったらその先に見えるのは浦上天主堂。
そのまま真っ直ぐに進むと平和公園、そのすぐ先のプールで遊んで、そのすぐ横を流れているのが浦上川。
私の心のふるさとに立っているのは爆心地すぐ近くに再興した赤レンガのカトリック教会です。
隠れキリシタンの里が弾圧された時に、踏み絵とか拷問とかおこなった屋敷を信者の方々買い取って、何年もかけて建設された教会です。それが原爆で吹っ飛ばされて、また同じ場所に再建されたもの。
そこで平和の祈りを捧げているのです。
苦しい時にはその姿が思い浮かびます。
ですから・・AC的なあきらめの理由に使ってはいないです。
>ちひろさん
色々思うこともあるかもしれないですけど、本当の故郷とか心の故郷があるっていうのはいいですね。浦上天主堂は一度見てみたいです。自分は生まれた場所に今でも住んでいるので、郷愁とかない感じです。故郷は遠くにないと何も感じないものかな。
自分の場合、自分はダメだと思ってたけどダメじゃないんだと考えたことでACから抜けたので、出自がトラウマになっているような場合は、親が「子どもをとっても愛していて、子どもがほしくてたまらなかったから産んだの」と答えれば納得する話なのかな、それとも別の疑問がわいてきて、どこまで行っても終わらないことなのかなとか、なんで自分は全然気にならないんだろう?とか考えながらちょっと聞いてみたくなって質問しました。ありがとうございます。
コメントできない人をからかうようなコメントはやめましょう。はっきり言って不快です。
ASの人は、主語がないのかな~と最近思っています。
自分も「おっと、今の発言は主語を省略してしまったぞ(相手が要領を得なくて不思議そうな顔をしている)」と思って、慌てて補足説明することがあります。
JETさんが簡潔に書いてくださってるので割愛します。ありがとう。
ちひろさんに1つ尋ねますが、「離婚を持ち出せば折れるだろう」と見越してハッタリをかますのは、問題ないのでしょうか?
ちひろさんの論理だと、これは卑怯の範疇ではないでしょうか?
卑怯とか、ワガママという感情的な言葉はぴんと来ません。色分けするには簡単な方法なのですが。
Paul Carpenterさん
>歩み寄ってくれそうな相手かどうかをまず判断しますね。
わかります。
ジャイアンって、脈なしと思ったら、寄り付きもしない印象です。
私は「歩み寄らない=それでいい」なので何も思わないですが、「寂しい」と感じるツンデレな人はいると思います。
慰留とか慰撫が、世間では一般的な行動であることは頭では理解できます。
婉曲的な訴えだったり、礼儀だったりもするのでしょう。
ジャイアンだと「交渉術って言ってよ!」って言いそうです。
ぬまおさん
私には、依存型ジャイアンの要素もあるように思うんです。
「情緒的に責められるとフリーズする」っていうのは、私にもあります。
「あなたって冷たい人ね」って言われたら「はい、すみません」って言うしかありません。(自覚がありますので)
通常は経験と学習で得たパターンを使いますが、ところどころ考えが至らなくて演じきれずボロが出て、責められる。
事態がねじれてしまって、「自分のことが嫌いなの?!」って尋ねられると、考えこんでしまって、反応できないです。(そしてそういうシーンほど、素早い反応が求められている)
思考停止しているわけではなく、記憶の反芻と解析モードに入っていますが、外から見るとどっちもフリーズでしょうね。
私がACを自覚したのは最近のこと(ここ1年半ほど)なので、それまでは出自についてもあまり気にしていませんでした。
ただ、両親とうまくいかない、好きになれない違和感はずっとありました。
「どうして私を生んだの?」とか「この家に生まれたくなかった」とかは怖くて言えなかったです。
最近になって母から「何となく生んだ」という話を聞いたとき、「やっぱりそうだったか。あなたはそういう人よね」と納得しました。
ノリで生んで適当に育てたのなら、私が後ろ指をさされるような生き方をしても、私の勝手だよなと思い、実家のことは気にしないことにしました。
実家には寄り付きませんし、電話もメールもしないです。
もし親から「子どもをとっても愛していて、子どもがほしくてたまらなかったから産んだの」と聞いたとしても、やっぱり納得しないんじゃないかなと思います。
少なくとも前段については、違和感がぬぐえないです。(それまでの行動が言葉を裏切っているから)
後段だけなら納得すると思います。
・・・でも結論は多分一緒です。(こっちが頼んでもないのに勝手に産んだんだから、私は好きにさせてもらう)
親子で文化が違う以上、どうしようもないかも・・・(子供のときなら納得したかもしれませんが)。
依存の特徴のひとつって対人操作性だと思っているのですけど、最近ようやくこの対人操作に対する嗅覚が芽生えてきました。
「自分にはわからない、やってほしい」オーラを出して、黙ってちらっとこっちを見たり、「Fさんが困ってるふうだから助けてあげて」と他の人を使って私に仕事をさせたりといった、気分の悪い人の魂胆を見抜けるようになりました。
本性が見えた瞬間に、相手が虫にしか見えなくなってしまうのが悩みです。
>Paul Carpenterさん
これって私のことですか?
みさんをからかったつもりはなかったのですが、そのように感じたのなら謝ります。不快にさせてすみませんでした。
仕事を辞めたくなる時の理由~我が家の兄弟編~
****
兄(たぶん受動型):あ~会社に拘束されてるわ~(´Д`)
私(積極奇異):あ~仕事量と人間関係がしんどいわ~(´Д`)
弟(たぶん孤立型):(…おそらく自分の中のこだわりにこだわる(目的にこだわる?)ため。私からは解析不能)辞めたいわ~
****
なつもか様、ぬまお様、ご質問(お尋ね)ありがとうございました。
それから
さーこ様のひとりごと(理解について)、F様の「虫にみえる」こと、それぞれに共感する部分がありました。
いすれも
自己分析のひとつにもなりますし
殊、お尋ねいただけることは
自分の姿が(文字を通してではありますが)どのように写っているのか、の他者視点の情報も得られますので感謝です。
ご質問については
それぞれにお返事したく考えています。必ず。(と宣言して自分の首を…いいえ、でもしたいのは本当です)お待ちいただければ幸いです。
先にこちらだけ。
ぬまお様の
>自分の場合だと「自分はダメだから諦めよう」というように
これはないです。
ダメという自己評価と
ガマンするという行為(決定、自己コントロール)はわたくしの中では次元が異なるモノです。
自己否定からスタートするならば
『自分はダメ、だから生きていてはいけない、だから死ぬべきだ。』、結論はこうなります。白黒の世界です。
>Fさん
お返事ありがとうございます。やっぱり、親に感じた不信感と言うのは感嘆にはぬぐえないものなんですね。自分も親として気をつけなければ。
自分にも依存型ジャイアンの要素や、のび太の要素があると思いますが、どちらかと言えば、受動型の次に、のび太に近いような感じがするので、受動型か、のび太かに絞って今後は考えて行きたいと思います。
Fさんは孤立型か依存型ジャイアンかな?妻や後輩についても依存型ジャインアンの線も捨て切れないです。
身近に確実に依存型ジャイアン、のび太と言い切れる人がいないので、実物を見ないと正確なイメージがつかみにくいです。とりあえず情報を出して先生に判断してもらって、何らかの治療に役立ててもらえれば、という気持ちはあります。
仕事などの人間関係に関するパターン~我が家の兄弟編~
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兄(たぶん受動型):専門領域のプロという自負?があるため、他分野の職員や上司などとドンパチやり合う。今はかなり抑えているほう(以前はプライベートで”キング(王様)”と呼ばれていた/(注):お嫁さん談)。自分の理想や思いとは異なる職場の方針や現状に自分を合わせ難い。ただし、後輩などの面倒見は良いほう。
私(積極奇異):立場の差、役職の違い、というものを認識しづらく実感しづらいので、部署の違いや、昇給や昇進、左遷などといった概念が統合できず、基本的に頭の中には存在しない。(頑張れば、部分的、一時的に認識は可能)。複雑で微妙な感情とそれにともなう対立構図がある人間関係(2人以上)の集団の中で働くのが精神的にしんどい(私本人が知らないうちに、人との板挟みになって振り回されたり、同僚たちの仲間意識?の中からいつの間にか除外されたりしていて、困惑したり落ち込んだりする。以前は同僚の中の裏ボス的存在(チーフ?)に温情をかけられていた事があった。職場の中で仕事の悩みを相談する人がいない状況になること多々)。
「障害者雇用」といったような、ある程度固定化されかけているが、その時の状況や状態に応じて配慮もかけてもらえる、という、揺れ幅の少ない立場の方が、比較的精神安定や状態安定がしやすい。
弟(たぶん孤立型):人間関係は広く浅く。いつ見ても「自由人」(動物占いでは「ペガサス」でした…)。家の中と外での態度や姿勢はあまり変わる事がない。働くようになる前に、自分の好きな事で子供たちとその保護者に定期的に関わる機会があったため、職場での人間関係の対応と対処の仕方は兄弟の中で一番うまいと思われる。基本的にドライなので「自然な表情変化には乏しい傾向」。実家に帰省すると、兄と変顔写真を撮っていたりする。兄弟の中では私と妹に対して高圧的姿勢で関わることがある。今現在の恋人と付き合っている理由は「仕事の価値観が合うから」。しかし結婚の決定打にはなっていない模様。
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好きなものや趣味志向~我が家の兄弟編~
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兄(たぶん受動型):「任侠ヘルパー」
私(積極奇異):「銃夢LO」
弟(たぶん孤立型):「青春系の音楽や漫画」(ミスチル、ゆず)(スラムダンク)
妹(たぶんADHD/AC気味?):過去→ 「切り絵などの創作」「自作PC」/現在→ 「洋裁」「コスプレ」
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Fさん
僕も「自分が正しいと思っているんだろ?」というようなことを言われて首を傾げることがあります。
ん?そう見えるのか?と。
どうもこれは、「肯定否定以前に、こちらの発言を理解してもらおう」という姿勢が招く誤解なのかな、と思います。
(定型非定型問わず)大抵のひとは「理解できないから否定する」し「理解できたら肯定」するわけですけれど、
僕にはそれが非合理に見えて仕方がないです。
もちろん、そういうものだ、とも思ってはいるのですが。
ここの厳密な「理解」に気持ちよさや楽しさを感じるような方を見つけると、うれしく感じます。
Fさん以外では、zzzさんにも似たものを感じていたりします。
Fさん
>こっちが頼んでもな いのに勝手に産んだんだから、私は好きにさせてもらう
他のADHDさん方から見てどうなのかはわからないのですが、
これは僕からすると
ジャイアン母の言葉(医療管理職)~意訳~
「人には持って生まれた天分というものがある。私はようやくその事がわかったの。」(人事採用についての話の派生での言葉)
誤投稿でした(´・ω・`)
僕からすると、
「好きにさせてもらう」
というのは、当たり前のことなので、覚悟したように
書いているのが少し新鮮に感じました。
僕の感覚では「好きに生きる」のがニュートラルで
「いっしょに生きる」のは「好きに生きる」の内にある選択のひとつでした。
ADHD、定型者、ASでは、群れの認識に差が見えるなぁ、と思ったりします
悠々とさん
>僕からすると、
「好きにさせてもらう」
というのは、当たり前のことなので、覚悟したように
書いているのが少し新鮮に感じました。
僕の感覚では「好きに生きる」のがニュートラルで
「いっしょに生きる」のは「好きに生きる」の内にある選択のひとつでした。<
小生も毎日好きに生きているので、覚悟せねばならない人もいるんだなあ、ってあらためて思いますね。
好きに生きたほうが楽だと思うんですけどね。
ただし周囲にはどれだけ迷惑かけとんねん、という突っ込みはありそうですが。
Paulさん
好きに生きるのにも、短期、中期、長期で目的設定ごとに最適行動が変わるのが難しいところですね。
短期的判断で好きに生きると中長期で目的から乖離するということが多い身体ですね。
難儀ですね。
悠々とさん。
>短期的判断で好きに生きると中長期で目的から乖離するということが多い身体ですね。
難儀ですね。<
これも毎日、毎回のように悩まされています。
というか、指摘されます。
まあ長期的に将来いつか理解してもらえれば、と楽観してしまうのが悪いクセなんですが。
ちょっとお邪魔して 先の孤立型と思われる人の言葉に補足します。スルーしてお話続けて下さい。
私が孤立型さんの話を分かりやすいと思うのは、言葉が記号であることが同じようだから。
言葉は意志の伝達として発展したから、指示する意味があるから使いづらいと思う。
それで先の孤立型と思われる人、この人は興味関心の追求・こだわり認識の拡大への欲求は強いです。生活はそれが主になっています。
・譲渡された・選択は 譲渡した・選択ではない
譲渡された=自分の意志でなく何かによって既にされてある譲渡・意識の上のことではない
選択=自我・意志による部分、こだわり以外の部分・選択を司る部分
拒絶=存在しない選択を使うことは不可能であるから
・譲渡された選択とその拒絶は逆説的に同時に成立しそれ故自分への支配と他者への支配も同時に成立することになる。
これは「支配」という言葉を使うならばそう言える、という説明。
元々支配という言葉はASの人のものではなくADHDであるYANBARU先生から見てのものであって。支配というのは強固な意志を表すので本来ASの人からはそぐわない言葉であろうと思うです。記号は状態を表しているだけだから。
理解されたいという感情は庇護に通ずるとこれは想像します。静かにこれがあるのが辛いところなのだろうと思います。
この人は嶺往さんと同じようだなと私は思います。
次にのび太の支配。
いや私の支配と言っておきましょう、KYもスペクトラムでしょうから。
私もKYにより支配していると言える。
私の 譲渡された・選択は 譲渡した・選択ではない
空気の中にある情報は譲渡された選択と言っていい
なんか知らんが使えないんだよね=拒絶している状態になってるね=わりと完全な支配(KY)
これも「支配」という言葉を使うならばそう言える。
これについては理解されたい感情は無い。説明はしてかなきゃならないけど。むしろ可笑しい。
何故か譲渡先は依存型どっぷりのジャイアンになっていて、統合失調に似た関係念慮に対して無防備になっている。でも支配する。
JETさん。
>私が孤立型さんの話を分かりやすいと思うのは、言葉が記号であることが同じようだから。
言葉は意志の伝達として発展したから、指示する意味があるから使いづらいと思う。<
>元々支配という言葉はASの人のものではなくADHDであるYANBARU先生から見てのものであって。支配というのは強固な意志を表すので本来ASの人からはそぐわない言葉であろうと思うです。記号は状態を表しているだけだから。<
>理解されたいという感情は庇護に通ずるとこれは想像します。静かにこれがあるのが辛いところなのだろうと思います。<
もしかしてASの想像力の飛ぶ範囲が非常に狭いことと関係があるのでしょうか。
想像が飛びすぎる上についつい言葉でお互いの理解というか支配を試みてしまうジャイアンADHDとの軋轢の大きな原因がここにあるかもしれない、とおぼろげに感じました。
極端に言えば記号で庇護を求める、ということですか。
スイッチ3つには難解ですね。特に相手に対して特別な感情が無い場合は。
上記JETのコメント内の
>>何故か譲渡先は・・・関係念慮に対して<<
この後に「私のほうは」を入れておいて下さい。すみません。
>Paulさん
んーそうですね
ジャイアンは何よりもまず言葉を求めておるようですからね。。
相手の意思を求めているというか。。
ジャイアンの言葉遣いを求めているというか。。
私も似たとこがありますが、たぶん状態を知りたいのだというとこがちょっと違うなと思います。
いや、受動型さんは支配がしっくりくると言っていましたね。。
悠々とさん
>僕の感覚では「好きに生きる」のがニュートラルで
「いっしょに生きる」のは「好きに生きる」の内にある選択のひとつでした。
本来はそういうものだと思います。
関係が深くない人(親しくない人)に対しては、厳密な『理解』にこだわらず、現実的な妥協点で終えることができます。
これが一番ストレスが少ないです。最初から近づきすぎないほうが楽です。本当は。
でも、一緒にいる時間が長くなってくると、だめですね。
自分の理解が足りないと感じるため、理解できるまで相手に合わせ続けることになります。
その間、自分自身の毒気にもあてられる(言いたい、言えない、苦しい)ので、疲れて来ます。
>どうもこれは、「肯定否定以前に、こちらの発言を理解してもらおう」という姿勢が招く誤解なのかな、と思います。
おそらく。
『ASと想像力⑥ 理解の可能性と結果の要求』のエントリに、似たようなコメントが見受けられます。
「勝ちたいのか」とか「正しいと言ってほしいのか」とか、的外れなことばかり言われると、本当にがっかりしますし、このときのイライラは何とも表現しづらいですね・・・。
侮辱されたときに近い怒りかも。
自分が理解するのも、相手に理解してもらうのも、どちらもとても重要です。
(続く)
(続き)
うちの院長(積極奇異と思われる)も、理解できないと食い下がりますよ。
特に、動機(なぜそういう行動を取ったか)について、知りたがります。
説明を聞いたものの納得できなかった場合、消化不良の顔つきのまま一旦その場を離れ、また10分後に追加質問(こういう事情があったんじゃないの?もしかして○○だった?)しにやって来て、やっぱり消化不良の顔つきのまま離れて、さらに10分後にまた(以下略)。これが何週間か続く・・・て感じです。
そりゃもうフル稼働で考えてるんだろうなあと思うのですが、他の人からは「しつこいわー」と言われてます。
本人は一生懸命なのに、ちょっと気の毒です。
※これを外から見れば、「ASは悪気の有無や、プロセスを大事にする」と見えるかもしれません。
私も、相手の意思をきちんと確認(理解)しないと動けません。
しつこく意思確認をしたがるのは、(自分には想像できない・知らない)何か深い理由があるかも・・・と考えるから。
つまり「可能性が残っているから(まだ0と確認していないから)」。
だから、いじめられても、その理由を一生懸命考え、しかし思いつかず、結果、動けなくなります。
このとき行動は停止していますが、思考は停止していません。
今までの相手の発言を思い出してつなぎ合わせ、何とかそれらしい形(一貫性を持たせようとする)にしようとこねくり回します。
でも、そんな「深い意味」はないことが多いです。
深い意味はないとわかった(もしくは、ないと確信した)ら、ようやく次の行動に移れます。→「じゃあ私も好きにさせてもらう」
Paul Carpenterさん
>小生も毎日好きに生きているので、覚悟せねばならない人もいるんだなあ、ってあらためて思いますね。
他人から見ると、私は好きに生きてるように見えると思いますよ。
『凧糸(相手との心理的なつながり)』が切れた瞬間から、本当にどうでもよくなっちゃうんです。
「一人芝居だったなんて馬鹿みたいだ。さあ、次いこ次」って。
あまりにもドライすぎるので、「繕わないとまずいな」という自覚があります。
昔、受動型ASのACと思われる同級生がいました。私は3年間その子と同じクラスで成人後数年まで会う機会がありました。
その子は片腕に障害を持つ身体障害者でしたが、私は知り合ってほどなくして彼女と根本的な価値観が合わない事に気がつきました。私はその子と何度も精神的な距離を置き独立独歩の関係でいこうとしたのですが、彼女はそんな私に、一方的な試し行動をし始め、左右の判別しづらい私に自分の片腕の障害で憤ってきた今までの鬱憤を延々と垂れ流し続けるようになりました。私は、私の知らない彼女の話にどう返したらいいのか分からずじっと愚痴を聞き続ける日々を送る事になりました。私は思うように彼女と距離が取れず、彼女の望む「フェアな関係」どころか完全なAC状態になり、じわりじわりと確実に自我が退行していく日々を送ることになったのです。
そして彼女は、とうとう「クラスで問題人物の私を管理する役」に自ら収まりました。しかし、何をどうやってあげても、私は変わらずクラスの中で問題人物のまま。
ついには他の女子からこう言われました。「彼女の気持ち(私を管理している子の気持ちを)も考えろ」と。
「あなたの事を羨ましく思う」「何を言っても平行線」「あなたは自分勝手で苦労した」「アタシはアタシの人生を生きる」
これらは、私を管理していた子から言われた言葉ですが、「どんなに少しの事でもいいからあなたの事をアタシに教えてください」と書いて卒業当日に一方的に私に押し付けた手紙の事は、彼女は後々コロリと忘れたようです。
独り相撲と、(被害)妄想で作り上げた、他人の意見や気持ちが入る隙間のないほど綿密な自己完結の記憶を元に、継ぎ接ぎで未練がましく私に押し付け続ける彼女を尻目に、私は、自分のACは自分一人で治すしかない、とある時期から悟りました。
そして、ある程度私自身の状態が回復したなと思った時点で「高校入学時から成人後まで一方的に押し付けられて私が困惑し延々悩み続けた手紙の全て」を「配達記録」を付けて、私の怒りの手紙と共に彼女に送り返しました。
彼女は「時々は手紙を見てアタシの事を思い返してください」という手紙も書いて私に押し付けていましたが、当時からの私の必死な思い返しでは全く足りなかったようです。
(当時私は激鬱状態で通学するのもやっとの事、それも、毎日毎時分のように意識が飛ぶのを抑え、ギリギリで自我を保っていたのですが)、そんな地獄のような状況と状態が続くさなかで100%の完全を求められる日々…よく生き延びたものです。
私は彼女と精神的な縁が切れてせいせいしたというよりも、このブログに出会って彼女の思考回路をある程度まで推測できるようになり、まさしく「九死に一生を得た」という感じでした。
私がなぜ怒ったのか、彼女はおそらくこれから先も理解できないだろうと思います。(本人にとってよほど劇的な転換点でもない限り。)
ちなみに…彼女は「幸福」を自ら求めていたようです。(他人の)結婚式に、誰かアタシを招いてくれないかな、というような事を言っていましたし、そこで幸福な気持ちを味わうという事を良いねというふうに言っていたので。
そうそう。「どこが間違っているのか言ってよ」とも言われましたね彼女には。私の認識がぐにゃっと捻じ曲がるような言葉です。
これは「どうしてこうなったの、分からなかったの」という言葉とも通じると思います。
それは、問いかけこそ自分からの発言だが相手由来の責任にしているという言葉だからですね。
さーこさん
>私は彼女と精神的な縁が切れてせいせいしたというよりも、このブログに出会って彼女の思考回路をある程度まで推測できるようになり、まさしく「九死に一生を得た」という感じでした。
重い体験の記録を読ませて頂きましたが、「九死に一生を得て」本当に良かった、良かったと思いました。
彼女の根底にあったものの中の一つに「不満」がありました。
「●●は~してくれない」「もっと~してくれていいのに、ねえ」
当時の彼女を知らない、現在知り合ったばかりの私が反論できない彼女の過去の話だからこそ、彼女は安心して自己完結して私に話すことができたのでしょう。成人後も、個人名や当時の状況が特定できないよう注意深く自己完結に話すクセは変わらなかったですが。
彼女本人は、とうとう最後まで自分の姿に気づかなかったようです。自ら自分の事を考えず、他人の事ばかり言い、自分の姿に自ら気がついていない人間とどうして「友人」になれるというのか。私が知らない間に私をコッソリ試し続け、私の知らない間に自己完結したり、ひねくれたり、すねたり、(いずれも大げさな演技がかっていた)と気を引き未練がましく試し続け、最後に手紙という形で自らの「不満」を私に押し付け続ける彼女に、私は同級生としてどうすればよかったのか。
苦悩し続けた私の尊厳を考えず「アタシの人格の尊重」を主張し、「確かにアタシはラクだったけど、でもそんなのひどすぎる」と言い放った彼女に、私はどうすればよかったというのか。
私は、彼女から押し付けら続けた手紙を返送すると共に、自分の発達障害者診断書のコピー(別機関に別件で提出した控え)も一緒に同封しました。「この診断書をあなたの理屈などで利用し使用するなら、あなたを社会的に訴えますよ」という一文付きで。
まさしく生き地獄でした。過去の私の記憶は、現在も冬眠している状態が続いているので、彼女に起こされないよう、ここに、静かに葬っておく事にします。
先生、何度も聞いてくださって、本当にありがとうございました。
さーこさんへ
コメントが特に私宛てにかかれているわけではないので、確信は持てないのですが・・・
さーこさんは、(Fを)孤立型だと睨んでいるときは、私と夫人と同一視し、受動型だと睨んでいるときは、私と同級生と同一視しているように感じます。
さーこさんが苦しかった経験(個人的に言いたかったこと)は、御本(夫人や同級生)にお願いします。
私はあなたの苦痛を直接取り除くことはできません。
それは私の罪ではありません。
念のため書きますが、私は自分の成長を拒んでいるつもりはありませんよ。
私は、以前、みさんにされたのと同じことを、今、さーこさんにされている気がするのです。
もう一度読み直していたのですが、さーこさんは今は同級生のことを、孤立型ではないかと考えているのですね。
私が上のさーこさんのコメントを「私宛てなのかもしれない」と関連付けて考えたのは、「分かった振り」のエントリで私が書いた「どうしてこうなったの?わからなかったの?」という問いかけを、ここでまた持ち出していると思ったからです。
>これは「どうしてこうなったの、分からなかったの」という言葉とも通じると思います。
それは、問いかけこそ自分からの発言だが相手由来の責任にしているという言葉だからですね。
私には、さーこさんは私のコメントを読むと、御自分の経験を思い出して辛くなってしまうので、私の態度を矯正したがっている(わかってほしいと訴えている)ように見えるのです。
(それがみさんの姿とかぶって見えます。)
私は、さーこさんと私の同僚が同じ人物だとは思いません。
メモの話も読みましたが、失敗しても確実に積み上げていくさーこさんと、私の同僚は全く違います。
職場の環境や雇用条件も違います。
御自分と、私の関わる人とを、同一視しないでほしいです。
さーこさんを苦しめた人と、私とを、同一視しないでほしいです。
でも、もし上のコメントが私宛てではないのなら、私の一方的な思い違いです。ごめんなさいね。
Fさん
>理解できるまで相手に合わせ続ける
積極奇異型院長さんのお話は、不安定状況からの離脱を重視した自己優先パターン?とでも言えるでしょうか。
そしてこの、理解できるまで相手に合わせる、というのはどんな感覚なのでしょう?
観察のための我慢とかかしら?
「中心志向でしょ」って言われるのはいつも頭にきますね。
「小物」って言われているような感覚。
勝ち負けなんてくだらない、と思っているのでなおさらですね。
『うすっぺらい価値観』を定規にされると、げんなりします。
まず初めに。
Fさん。アメジストさん。そして私のコメントを読んだ方々へ。
私のトラウマ噴出を見つめてくださって、ありがとうございました。
私が本当の意味で蘇り、真っ当な人生を歩むためには、通らなくてはならない道でした。
Fさんへ。大丈夫です。同一視はしていません。ただ、過ぎ去ったはずの自分の昔の記憶を少し思い出しただけです。それに、今の私なら、同一視をせずに自分を見つめることができるはずだと、私は自分の中に眠る力を信じています。ですので、大丈夫です。
今の私には、他人にダメージを与えてしまいそうになっても踏み止まる力がある。もう一度ゼロから家族の理解を作り上げ、医療と福祉のサポートを重ねながら、現実にて幸運な事に良き仲間に恵まれたからこそ今の私があるのだと、そう思います。
ようやく引越しも終わりました。これからは一人暮らしです。自由と責任、という環境になって初めて、たまには自分のために泣いても良いか、とようやく思えるようになったところです。
私のことは気になさらず、あなたはあなたの人生を歩んでください。遠くから応援しています。
アメジストさん。
一番ダメージを受けたのはアメジストさんかもしれませんね。
私は、大丈夫です。昔の私とは違います。
今は辛くても、いつかきっと笑って吹き飛ばしてやるんです。
生きていて良かったと、アメジストさんのコメントを読んで、初めて自分のために思いましたよ。
ありがとうございます。
アメジストさん、みなさま、お元気で。
良き人生を送れますように。
人間を「たんぱく質でできた機械」と捉えれば
個体間の意志疎通とは
ある個体Aが
1.脳内信号を
2.連絡用信号に置き換え
3.出力し
ある個体Bが
4.信号が入力され
5.個体Aからの連絡用信号を個体Bの脳内信号に置き換える
という複雑なことをやっているのではないか、と考えます。
そう考えれば、わからなくて、当たり前だよね。
僕は5%の理解を6%にする、というようなことに、喜びを感じます。
さーこさん
コメントありがとうございます。私は何もダメージは受けてませんよ、ご心配なくね。
さーこさんのエピソードが、私の娘の中学校時代の友達関係とちょっと似ていたので、他人事とは思えませんでした。
今は心が開放されていらっしゃるので、安心ですね。ご健康をお祈りいたします。
悠々とさん
私から見る限り、院長は説明されたことがわからない(もしくは心情的に納得できない)ために、繰り返し説明を求めているみたいです。
相手が説明できない特別な事情(状況や立場によるもの)があるのではないかと深読みして、助け船(?)のようなものを出して来たりします。
「いえ、そんな理由はないです」と助け船を断ると、不機嫌になってしまいます。不機嫌になって立ち去って、また何かを思い立って、助け舟を出しに来て(以下略)
理解できないという不安定状態から離脱したがっているのかもしれないですね。
>そしてこの、理解できるまで相手に合わせる、というのはどんな感覚なのでしょう?
「こうすればうまくいくだろう」と思っていたのに、相手から不満そうな態度を示されるときがあります。
単に別のことで機嫌が悪かったり、甘え(依存心)が出ていたりするときもあるのでしょうけど、私はそう考えにくいみたいです。
「自分の何かがまずかったようだ」と考えて、もう少し慎重に(丁寧に)相手に接するようになります。
たいていの人はそれでも問題ないのですけど、時々、何をしてあげても不満そうにして、どこまでも増長してくる人がいます。
その場合、私は自分の何がまずかったのかがわかりません(でも自分の何かがまずいはずだと考えます)。
分析モードのまま『正解』が見つかるまで(相手を理解できるまで)、ずっと相手に合わせ続けるはめになります。
言いたいことが言えないのは、自分が間違っているかもしれないから(何かを見落としているかもしれないから。自分が正しいという確信が持てないから)、です。
(続く)
(続き)
後で考えたら「あの人の態度、いくらなんでもひどくない?」と思うこともあります。
「相手が変だ」と感じた時は、早い段階でストレートに言う(心理的距離を初期化する)ことが必要ですが、仕事だと他に優先すべきことがあり、自分を抑えないといけないシーンが多いので、難しいです。
プライベートでも、親密な人(家族や恋人など)が相手だと「怖くて言えない」となります。
「怒ってよいシーンで怒れず、後で気が付く」という悩み(?)は、のび太さんにもあるみたいです。
>『うすっぺらい価値観』を定規にされると、げんなりします。
やっぱりそうなんですね。
相手が真剣である・理がある限りは、少々見下されても腹が立たないんですけど・・・。
勝ち負けの価値観をこちらにも適用されると、張り倒したくなりますね。
さーこさん
そうですか。それは大変失礼しました。
一人の時間って、ある意味贅沢ですよね。
私、今週一人暮らしなのですが、早速食生活が・・・。
さーこさんはしっかり食べて、『自由と責任』を満喫してくださいね。
Fさん
この確認作業(?)には、僕も自分で思い当たるものがあります。
「その反応はこういう意味ですか?」と僕も聞くことが多いです。
実際意味がわからなかったり、曖昧だったりするときにこの反応をとるのですが
そういえば親しいひと以外には「しつこい」と言われることはあまりないです。(親しいひとにはしつこいと言われます。しつこくしてでも理解した方が良い、と僕が考えているためだと思います)
曖昧な理解のまま行動に移して大失敗、という経験もあるのですが
ASのひとの中には失敗を極度に恐れるひとがいるので、その関係もあるのかな?と読んでいて思いました。
Fさん
相手に合わせるについて
説明を聞いてみて、全然違うといえば全然違うのですが、若干似たような行動をとることがあります。
僕は、相手との関係性の上で不都合があった場合に
「直接的に変更できるのは自分の行動および言動しかない」
と考えます。
ですので、その場合、相手を観察して自分の行動、言動をシミュレートしてみたり、実験してみたり、調べものをしてみたり
というパターンに移行します。
「自分のなにかがまずい」と考えているわけではないのですが
「自分のなにかが合目的的でない」とは考えます。
自己否定的(?)行動様式、と捉えると共通点があるかしら・・?
ただ、僕の場合は自己抑制的にはなりづらいですね。
抑制的に振舞っていると、だんだん実験したい欲が強くなってきます。(いろいろ思いつくたびに。)
「怒ってよいシーンで怒れず、あとで気がつく」
これは僕もありますね。
遠まわしな皮肉などは、見逃してあとで気付くことが多いです。
以前は思い返してシミュレーションが止まらずに、眠れなくなったりしてました。
今頃になっていまい申し訳ありません、
さーこ様となつもか様それぞれのコメントで感じたこと、お尋ねの件のお返事を投稿いたします。
written by さーこ / 2013.06.11 10:51より。
>「自分自身が、他人の存在を感情移入を持って認識できないから、まずはこちらの存在を認識してもらえないと、こちらからの、他者存在の認識、から、他者理解、にまで至らない」という事かな
>認識と、理(解)があり、感情移入がないとしたら…。
いずれも自分自身はどうなんだろうと脳内を探る作業をしながら拝読しました。
まず…感情移入という単語自体が今までの生活上出てこなかった(出てこない)、かつ、日ごろ『おそらく』あまり関連することがないと感じます。(語の定義での差異はあるかもしれません、けれど文字数の都合上意味の刷り合わせはしないで進めます、(っていう記載自体どうでもいいのかもですが(汗、うぬう))
例えばドラマも映画も実写では現在、ほぼ登場人物の感情には添えません。
感情を出す演技をしている役者さんを見ても「ふーん」くらいでストーリー理解に意識が置かれることが多い、んだろうと思います。
しかし全く泣いたことがない、わけではなく、小学生~高校の頃に見たアニメやドラマ、の中のいくつかは泣きました。
最終回に向けて「主人公の存在意義だの仲間に必要とされる姿だの夢は叶うよ絶対!的な報われる保証だの、そういったストーリー」と自分がおそらく求めていたものとが重なって共鳴したのかなぁ…と分析。
幼少期はアニメや特撮、父の見ていた時代劇がメインでした、今思えばどれもパターンが決まっていてそれが好きでした、殊アニメと特撮ヒーロー。絶対押さえていたのは(苦笑)タイムボカンシリーズ。漫才も見てました。
(続きます)
(続きです)
反面(?)愛着相手への独占欲や、その愛着に引っ付いている人への「(その瞬間の)本気の殺意」はあります。そういう部分とあわせて考えると「感情移入が欠落」しているのかなぁ…もしくは、私自身の脳の造りが…物事の仕組みや成り立ちの理路整然さの確認、根拠、自分が安心するための「これから起こる物事の、順序やその内容の見通し」…それらの収集を求めてしまう、収集に全力が注がれているがために、結果的に感情の入る余地が無い、という理由もあるかもしれません。
自分自身のことを時々「PCのように情報だけ発信or収集できればいいのになぁ」「スイッチOFFできたらいいのになぁ」と感じます。
なつもか様、大変に遅くなりました、申し訳ないです。
written by なつもか / 2013.06.10 04:20へ。
まず…
>でもこんな書き方すると傷付けてしまうのかしらと少し心配
についてですが、まったくもって大丈夫、です。逆に自分の分析になりますから他者からの質問は大好物だったりします。
「あなたA→BだからB→Aだよね」ってな具合に決めつけられるほうが禁忌、だったりする、かもしれません。
(この場合、『必要十分条件』が成立していないので該当しない場合があり得るからです。例えばAをリンゴ、Bを果物としますと、A→Bは成立しますがその逆は『果物であればリンゴ』とは限りません。バナナかもしれないしみかんかもしれない。)
…すみません、話が逸れました(←よくあるのです、わたくしの場合…反省)。
>1.譲渡した選択…自分以外の誰かに判断を委ねる
>2.その拒絶…判断を委ねる形はとったものの、自分が想定していた結果とは違った為に拒否反応が起こる
>3.自分の支配…結局は自分のこだわり通りの結果を求めていたという事実の認識
(中略)
>自分のこだわりを他人に当てはめる事って、ご自身の中でどう処理されているのか少し興味を持ちました。
ずっと、『1~3の過程のとおりに事が運ぶ場面』の具体例を脳内で探したのですがピンとくる(該当する)場面がでてきませんでした。
その原因は…おそらく、の域をでませんが
『こだわりを相手にあてはめようとする』という部分において私の脳が『あ、そういうのはないかなぁ』と処理したのだと考えます。
こだわりは、少なくともわたくしの場合は相手に委ね(渡し)ません。その詳細については後述します。
こだわりではなく、何かを選ぶという選択権を相手に与えて(委ねて)おきながら
相手の選択した結果に怒りや憤りや不満、もしくは不安やなんとなしのしっくりこない感覚を覚えることはあります。
そういう場合は、『委ねた時は本当に相手にまかせていて、自分の中の欲求に気付かなかった』ことが多いかなぁと振り返って感じています。
選ぶという自己意識がなさすぎるために、相手が選んで初めて「その選択肢とは違う選択肢」に自分を置く事ができ、『…あ、私、こっちが良かったんだ』てな具合に自分に気づく、…文字にするとそういう感じです。
(続きです)相手が愛着でもそうでなくてもそれが起こりますが
経験して自分の選択肢が決まっている、または最初から委ねるつもりもない事であれば、相手に選択権を与えるなんてこと自体しません。一人で選び取ります。
このカラクリは…
『自分の欲求を押し通す事』であれば私は人が不必要になります、これはわたくしの先ほどコメントしたことにも通じます、ヒトがモノになってしまう側面があるのです、わたくしのこの脳は。
場合によっては怒りや殺意が出ます。こだわりを邪魔された時の脳の反応にも通じます。
…こだわりについて少々。
自分のこだわり(自分なりに決めているルーチンも含む)を人に対して実行する…私なりの表現は
『自分のしたいようにするために、相手に自分ルールを強要する、もしくは自分がやりたいようにできるように環境を整えてどうにかしてでも実行する』。
相手への自分ルールの強要は私の場合、たいていは
『自分がするので、けして手を出さないで!という拒絶のメッセージを言語or非言語で表現』することで相手に伝えます。
ちなみに…自分の調子が悪いとその拒絶反応は強く出ます、(社会人としてだめですが。(落涙))例えば自分のやり方でやっている作業に手を出されて『放っておいてください!』と叫ぶ、なーんてことも。(脳内のホントの声は『手を出すな!触るな!私がやるって言ったろう!いやだって言ってるだろう!』。)
↑ある種の『パニック』でもあると言えるかもしれません。
(このような『誰しもがドン引きするor距離を置かれるorびっくりさせる』反応は見通しの立たない時や急な予定変更の時も起こります。)
…話がまたそれました(謝)
そういう意味では誰かと一緒にする『こだわり』なんて無い、ですかね、私の場合は。
とすれば、相手に委ねるなんてことも起こり得ない、ですね、おお、そうか。(と今、分析できました(感謝))
たっくさんの情報を一度にインプットして処理してアウトプットしないとさばけない会話や人づきあいが苦手なので
一緒に何かをする、ということを極力避けます。
自分にとって『脳が心地よいと感じるこだわり』をあえて相手に委ねることは…ほぼ無かったかなと記憶しています。
以上、少しでもなつもか様のご質問に答える(応える)内容であったなら幸いです。
(連投で申し訳ないです、)F様および悠々と様のコメントのやり取り内容に共感を覚えます。
すみません、思わずでした。
ぬまお様への御返事です。(そして…またもや連投になります…申し訳ありません)
>三人とも出自の理由についてあまりいい印象を持っていないようですが、自分の場合だと「自分はダメだから諦めよう」というように、「自分は生まれてこなくても良かったんだから、これくらいのことは我慢しよう」と、AC的なあきらめの理由に使っている感じですか?
わたくしの場合、(F様と似た記憶(認知)をしてきた、と『類似』の感覚を感じています、)父から「生んだ意味」を一方的に知らされたのが中学3年の時でした。
それまでは幼少期からずっと他の人との違い、ズレ、浮いているetcと感じていて
(自分の記憶上の出来事として)無視やからかいや仲間はずれ、存在抹消のような扱いがあったのですが
その父の宣言(告白)を聞いた瞬間、一瞬にして「ああ!『だから』そうだったんだ!(浮いていたんだ)」と当時の私の脳が意味づけ(てしまい)ました。
それくらいに衝撃が大きかった、のだろう、と今は振り返って感じます。
出自の理由は以前コメントで綴ったとおりですが
当時の私は既に
『一般的に、もしくは物語の中で「生みたくて生んだんじゃない」「お前なんか生まなきゃよかった」なことがありうる』ことを知っていました。
しかし
(以下、具体的な状況を列記します、…失礼いたします)
聞かされた理由はそのどれでもありませんでした、
家族を救うために生んだ、どうしても生まねばならなかった(と祈祷師に言われた)、障り(たたりだとか悪い事が起こることをこう言うそうです)がある知らなかったとはいえ水子には申し訳ない気持ちでいっぱいだ、償わねばならないetcetc、
そういった背景から父は母に「今度はおろすな、生むんだ」と命令し、母は言われるがまま生み、生んだ後で父がそう言った理由を知らされ、兄弟にも「この子は神の子だ、大事に扱え」と命令した、・・・そういうことを聞きました。(続きます)
あわせて「もう水子は成仏したから終わったことだ」とも言われました。
それを聞かされてしばらくは
自分の肉体(替わりに生まれてきて与えられたモノ)とそれを考えている脳を
客観視するもう一人の自分が見つめながら
…自分の存在はもう役目が終わったんだ、果たして生まれたから家族は救われたのだろうか?兄弟は私が誕生してよかったためしがあっただろうか?(と、自分と家族との記憶を再生しては『否』と自答し)、私でなくても誰でも大丈夫だったよな、この『みんなとズレる脳」でない脳を持つ他の誰かが生まれてきても大丈夫だったよな、
そういうことを逡巡しながら
…絶対このDNAは残しちゃいけないと思う、肉体には申し訳ないしこの細胞には何の罪もないんだけれど、でも残しちゃいけないと思う(※すでにこの思考をしていた時は人を好きにならなくなってしばらくたってました(今思えば好きだった人も愛着の範疇だった気が。))、私がいなかったら~~とかなかったのに(※さすがに長くなるので端折ります)うまい具合にみんなが幸せになれたろうに、だとか。そういったことを考えては時に泣きに泣きました。
ついでに(?)それでも子孫を残そうと周期的に反応をする肉体をDNAを気持ち悪く憎らしく思い、『精神的自殺』を希求していました。(この頃から『スイッチオフ』を希望)
上記の父の告白から数年後、さらに衝撃が。
まず、兄弟から「父からはお前の出生の理由は聞かされていた」と知り衝撃その2。
その後父と会話する機会があったので兄弟にも言ったのですねと確認したところ、「そうだ。言った。もうその話は終わったことだ、忘れてくれ、お前はお前で幸せになってくれたらそれでいい」。これを聞いてじわ〜っと衝撃その3。
今は時にその3の台詞を想起しては生死を自問自答します。「出生した背景は過ぎ去ったぞ、両親が亡くなったら本当にお前は一人になれるぞ、で?どうするんだ?お前はこの脳を持ったまま、頑張って工夫して、仕事を続けてお金を稼いで・・・そうまでして生きたいのか?どんなに注意しても叱責を受けたり顛末書ものの失態をするんだぞ、お前は仕事をすべきじゃないだろう?迷惑かけてまで生きたいか?どうなんだ?」と。(続きます)
(あとは、さすがにここでは表記してはいけないだろう言語の数々。)
現時点では単に「生きるための工夫に疲労しているから」だけなのかもですが
ACの変化が絡んでいるかもしれません。
少し話が広がるかもですが
就職直前に行っていた学校で「アサーティブコミュニケーション」「自己診断」な授業とシュミレーションがあったのですが
自己評価チェックテストは見事に『そのテストのマイナスの最大値』アーンドエゴグラムは見事に(?)「N」型(「厳しい父親」と「自由な子ども」が低く、「面倒をみる優しい母親」とACが高く、「冷静な大人」が中くらい)、
でもって
自己象および他者理解象は『「I’m not OK(私はOKではない)」かつ「You’re OK(あなたはOKである)」』でした。
今はそこまで自己評価が低くはない、ように感じますが(抜けてきたのでしょうか、そういえばこないだ久々にエゴグラムをやったところ、母親と冷静な大人が逆転、ACが若干減ってました)、自己象は自分を感じ取ること自体弱くなっている気もしますし
『こだわりを遂行する』『ルール遵守』場面では逆転している、と言っても過言ではないですし
やや崩れてきているかもしれません。
なので(とようやくここに来てぬまお様のお尋ねへの回答結論(汗、大謝り))
「生まれてくるはずも無かった自分がすること」への関心も丸ごとの自己肯定感(自己受容)もなく、
うまくいかなかったことへの向上心や反省、そして良い意味でのあきらめも切り替えも代替もなく、
加えてそれをする(生きている)自分は他者に迷惑をかける以外の何者でもない。・・・それ以外のことは関連付けて考察したことがありません。
…すみません、重すぎる、のですかね、もしそうだったとしたら申し訳ないです…。
悠々とさん
悠々とさんと私の行動は似ていると思います。
>僕は、相手との関係性の上で不都合があった場合に
>「直接的に変更できるのは自分の行動および言動しかない」
>と考えます。
人を直接変えるのは難しいですね。
力でねじ伏せようとする人が多いですが、私自身が頑固で譲らない性格なので、その方法は無理だと感じます。
私も、目的がはっきりしているなら、自分の行動パターンを変えて、相手をうまく釣り上げる方を選びます。
ただ、(ここでは本性丸出しなのですが)私は実際の生活で「しつこい」と言われたことはありません。
(言ってくれないだけなのかもですが)
私にしつこく食い下がる自覚があるのは、ルール(法令・規則)に関するときと、仕事に関するときです。
私はしつこいのが悪いことだとは思わないんですが・・・どうもあまり歓迎されないですよね。
例えば前回の言動と食い違う言動を取る人がいたとして、私は「そうですか」と、とりあえず否定しない態度を取ります。
相手にとってはそれは真実だったり事実だったりするのでしょう。私にはわからない深い理由や考えがあるのかもしれない。
また、「この人に言っても無駄だろう」とか「ここで衝突するより流しておいたほうが大局的に見て得策」と考えて飲み込むこともあります。
(続く)
(続き)
そして、相手によって『解析終了』の閾値が違います。(忍耐の限界とか、行動に移るラインとも言えるかも?)
親しくない相手の場合は、「この人はこういう人」「こちらが何をしても、不満しか口にしない人」と割り切れます(解析終了)。
場合によっては反撃に出ます。険悪になる・縁が切れる・不利益を想定の上で反撃するので、容赦しません。投資の損切りのような感覚です。
親密な人の場合は、「自分の理解が足りていないから満足してもらえないのだ」と感じるので、解析終了になりません。(何回も自分が折れて相手に合わせ続ける)
この『親密な』は「家族や恋人なら誰でも」というわけではありません。
私が最後まで合わせ続けた相手は、一人だけです。
両親はもうその対象ではありません。夫も多分違うと思います。
これから先はそういう人は現れないかもしれません。そうであることを望みます。
面白い人(ユニーク・見たことがないタイプだと感じる人)の場合も、自分が満足するまで(理解したと感じるまで)解析し続けます。
解析に熱中するあまり長く関わりすぎて、その結果切りにくくなるのだと、最近わかりました。
あおいよる。さん
新しいエントリがいくつも出てるし、ここはコメントものんびりと流れてるので、あまり気にしないでよいかと・・・。
>3.自分の支配…結局は自分のこだわり通りの結果を求めていたという事実の認識
(中略)
>自分のこだわりを他人に当てはめる事って、ご自身の中でどう処理されているのか少し興味を持ちました。
私も、「こだわり」の部分が「希望(もしくは要望)」だとすっきり理解できるのですが・・・。
「こだわり」となると、私もぴんと来ませんでした。
確かに、内心がっかりすることはありますね。
でも相手の選択が終わったあとで「そうじゃない!私はそうしてほしくなかったのに!」と後出し反撃することは、絶対にないです。
それは禁じ手なので。
私には、予定変更のパニックがないです。
例えば、誰かが今までと違う手順で進めようとしているとしたら、私は間違いなくそれに気が付きます。
そのうえで、なぜその手順でしようとしているのかを尋ねます。
相手の答えを聞いて、「合理的だ(今までの手順よりも良い)」と感じたら、私も乗り換えます。
そうでない場合は理由を述べて、今までの手順で進めるように伝えます。
ただ、「わからなくなるから手を出さないでほしい」というのはあります。
手順書や地図が頭の中にあるので、途中で手や口を出されると、どこまでやったかわからなくなっちゃうんです。
やりかけの書類を元あった場所から動かされると、書類の存在自体を忘れちゃいます・・・。(そして一週間後に、ふっと思い出す)
書類を動かした人がちゃんと処理してくれてるのなら、特に腹は立たないです。(「忘れてた~!やってくれてありがとう」と言えます)
(続きです)
>そういう場合は、『委ねた時は本当に相手にまかせていて、自分の中の欲求に気付かなかった』ことが多いかなぁと振り返って感じています。
私も、自分の中の欲求や動機を感じにくいです。
生きるための何かをしているとき(例えば仕事だったり家事だったり)は、目の前のことでいっぱい(そして全力)です。
このときは余計なことを考えませんし、無駄なく効率よくこなすことに集中しています。
でも、楽しむための何かはまったく思いつかないし、やろうとも思わないです。
「生きててつまらないなあ」と思うのですが、やりたいことが思いつかないです。
例えば誕生日に「何か欲しいものある?」と聞かれても、何も答えられない(欲しいものが何もない)状態です。
エゴグラムは昔から、可愛くない感じ(極端な)のW型です。
あおいよる。さんへ
丁寧なお返事、ありがとうございました。
自分から能動的に相手にこだわりを当てはめる事ってないんですね。
委ねていたはずが後から自分の欲求に気づくというのは、私にも身に覚えがあります(^_^;)私は委ねたことを後悔するのがしんどいので、今では大分上手に使い分けるようになりました…!
あおいよる。さんにとっては、こだわりの部分はお庭のようなものなのかなと感じました。きっととてもキレイに整頓されていて、芝の長さまで正確なんでしょうね。
知らない人がドシドシと侵入してきたら嬉しくないですよね。
気をつけたいなぁと思うと共に、そういう気持ちは少し共感できる気がしました!
お返事聞けて良かったです。ありがとうございました。
自コメで表現的に読解しにくい(伝わりにくい)箇所を発見しました…ので(謝)いくつか以下に記します。
>あおいよる。(御返事ラストです)
/ 2013.07.04 06:26、より。
>(と祈祷師に言われた)、
は、祈祷師に産まないと今の良くない状況が変わらないと言われた、という意味です。
>あおいよる。(これで御返事ラストです)
/ 2013.07.04 06:35、より。
>現時点では単に「生きるための工夫に疲労しているから」だけなのかもですが
これは生死に関して自問自答する理由として思いつく一つ、です。
>『こだわりを遂行する』『ルール遵守』場面では逆転している、と言っても過言ではないですし
主語が曖昧です…よね、これは『「自分はOKではない」という自己評価が』この場面においては逆転する、という意味です。
(んあ…でも基本は自己評価低いなぁ…→さらに分析。自分がOKというよりはそういう時の自分って純度の高い怒りや憤りで脳が充足されているので、自我は感じていないという感覚です。)
次はF様となつもか様に。
F様、
>あまり気にしないでよいかと・・・。
ありがとうございます、自分の気がかりが軽くなりました。(単純…?)
いくつかさらに共感した部分があります、少し述べます。
>それは禁じ手なので。
同意です。後輩育成では鉄則ですし。
>ただ、「わからなくなるから手を出さないでほしい」というのはあります。
基本、パニックチックにならないのはすごい(良いなぁ)と感じます。(修行が足りないです)
手を出されると困る感覚はわたくしにもあります。
自分のことを補足しますと
いわゆる仕事での淡々とした事務処理系で『手を出されたことそのもの』に激しいパニック(怒りや殺意が沸く)になるのは
調子の悪い時で、だいたいはならないです。
どっちかというと相手のやり方見てて、『なにその無駄な動き…』とか『こっちのほうが速いしミス少ないじゃん』な時にイラッとくる、
または冷徹な自分が相手に手法等を指摘して、あとで「そこまで相手を怒らせてた(嫌な思いにさせてた)のかーーーっっ!」となっちゃう感じです。(気付かない(知らされてない)私への嫌悪や距離置かれた系は山盛りかなぁとも。)
そして、エゴグラム。
>可愛くない感じ(極端な)のW型
そ、そうか、可愛くない…っっちゃあそーかもしれません(苦笑)わは。いいですね。
いえ、自コメの修正に記したとおり
今はわたくしもほぼWなので(←これ、それぞれの会社(?)で出されているテストによって若干結果がかわりますよね、質問文の表現の差異によるモノかと考察していますが。)
ある種自分らしさ満開な結果としての『可愛くない自分』はOKだわ、なーんて感じたり。
それからなつもか様。
まずは感謝です…!
>きっととてもキレイに整頓されていて、芝の長さまで正確なんでしょうね。
瞬時に脳内イメージできました、もう、無茶苦茶ピッタリな喩えです、『そっかぁ~』と得心いたしました。
芝のことは詳しくないのですが、喩えとして…芝の長さや種類や模様や配置のルール(こだわり、…まさにこだわりですね)、はその人その人で違っていて
他者が良かれと思って手入れしようものなら
そりゃあ怒るよなっていう。
ほんとに、ありがとうでした。
…ニックネームの後ろにカッコ書きで追記するのもあざとい(?)かもしれないと感じつつ
結局3連投しております(バカ、謝(仕事休憩中に下書きするものではないと自省))
追記を二つ。
>いえ、自コメの修正に記したとおり
しておりませんでした(←呆)
最近、オンラインでテストができるサイトを複数やってみた結果
いずれも「冷静な大人」がトップで「自由なこども」が最下位、あとは順位は前後しますが「厳格な父親」とACが高く、「母親」が過去よりガタンと落ち、ACが昔ほど抜きん出ていない(「大人」のほうが高い)のが共通していました。
そして
なつもか様…すみません、『まずは』と記しながら終わっておりました…(謝、ほんとに…)
読み間違えていたらご寛恕ください、もしわたくしの『質問にきちんと答えようとするあまりに細かすぎるくらい答えてしまった(という傾向があると自分で感じています)』ことが新たな気遣いを生んでしまっていましたら…申し訳なかったです。
けれど…個人的には共通部分もあるんだなとわかり、知れて嬉しく感じています。
>私は委ねたことを後悔するのがしんどいので
なるほど、そうかぁ(と新たな気付き、)
わたくしは委ねた結果厳しく叱責されればほぼ一発で『「まったく同じ場面」では一切しなくなる(替わりにどうすればいいかの指示がないと挙動不審になる(苦笑、汗))』、あとはさすがに何度も何度も経験すれば『ほぼ似たような同じ場面ならしなくなる』、です。
Fさん、あおいよる。さんのコメントを見ていると似たような所がたくさんあるんだけど、違うところもあって、言葉の定義の違いなのか、根本的に違うのか見極めるのが難しいところです。
自分が気にしているのは人との関係性だけかもしれないです。情報収集に全力を注ぐのは「相手がどんな人か」ということと、「行動を起こすために必要な材料と情報」だけで、必要なものが集まった時点で、始める前から「確実にできる」という自信に充ち溢れて終わった気になっているので、手順には、さほどこだわりません。関わる人の個々の特性と状況を見て、その都度考えていると思います。
ほぼ、直感に従って行動している感じですが、よほど追い詰められなければ、その場しのぎの対応は出来ません。後で、もっと面倒なことになると思うから。人間関係の修復は最も面倒くさいと感じることなので、なるべく壊さないように努めています。結局、より面倒くさいことを避けるための行動を選択しているような感じもする。
長期的な人生計画として大雑把に死ぬまでのことを考えてはいるけれど、短期計画はほとんど立てないです。途中で自分や関係者の考えが変わったりするので計画通りに行動することが困難です。ほかの人から自分より優れた提案があれば、即採用して方向転換します。旅行に行っても行き当たりばったりです。ちなみにエゴグラムは、いつやってもクッキリとしたN型の「優柔不断タイプ」で、調べるまでもないような感じです(笑)。
つづき
何で受動的な行動になるかといえば、人との関係性を考慮して随時行動に反映させるためなのかもしれません。人と対面した時、平時は主に相手の許容範囲を探りながら話題や行動を選択しているような気がします。この人には、この話をここまで言っても大丈夫、という感じ。
相手から話題を振ってもらえると、非常に話しやすいです。「あ、この話はしてもいいんだ」と分かるので。相手の許容範囲を超えると思われる言動については、口に出す前に、すかさず自己突っ込みが入ります。
ほかにも受動的な行動があって、笑顔には笑顔で、優しさには優しさを返します。合理的な話し方をする人には合理的に話し、冗談には冗談で返します。だけど、相手がこれと言った理由もなく、悪意を持って自分との人間関係を壊すような行動に出た時には、その場では修復は考えません。悪意には敏感です。人に殴られたら殴り返す、策略にはめられたら、もっと狡猾な策略を立てて反撃する、怒りには怒ったふり、クレーマーにはKYで応戦するような面もあります。
一段落して可能な限り人間関係を修復した上で、これ以上付き合いたくないと思えば距離を置きます。修復しないでそのまま決別すると、次に会った時も敵対行動をしてくるので、それが面倒だからです。
親の怒鳴り声には、反射的に怒鳴り声で返していたような気がする。「利用価値がない友達と付き合うのは時間と金の無駄だ」「人が寄る家は、へこむと昔から言う。人を家に呼ぶな」が口癖の親とは、やりたいことが全く違うからな。良いものも悪いものも「いただいたものを、そのままお返しする」という感じかな?
つづき
妻については今でも許容範囲が分からないです。前に関心を持っていた話題を振っても、しばらく経つと関心を示さなくなる。突然、不適応行動が出ることが多いんだけど、何を怒っているのか言わない。一年ほどたって、ようやく実母と金銭的トラブルがあって怒り狂っていたことを話すなど、一切相談もしないし、本心を打ち明けないので、許容範囲が今でもよく分からないです。
結局、一つ一つの不適応行動や、たまに見せる本音を検証して許容範囲を探り、何とか少しは自由に動ける範囲が見えてきた感じです。
とにかく子どもへの虐待だけは防がなければならないです。他人事ではなく身近に感じています。実は妻の母親が「妻に似ている」と言って、知人の娘をかわいがっていて、子どもが生まれたので、妻の母親はうちから娘の着られなくなった服を持って行って、知人の娘に回していたんだけど、知人の娘は自分の子を殺してしまいました。全国ニュースにもなって、自分の娘のお古を着ていた子どもが殺されてしまい、虐待は遠い話ではないことを実感しました。
>あおいよる。さん
お返事ありがとうございます。あおいよるさんが生まれたのは祈祷師の助言があり、理由はどうあれ親に望まれて生まれたと思うので、自分の感覚では、「生まれた時から超ラッキーじゃん」って思います(バカっぽくて済みません^^;)。
友達の何人かは子どもをおろす、おろさないで彼女と大げんかした末、しかたがなく結婚したんだけど、今は子煩悩で、子どもには「生まれてくれてありがとう」なんて言って真相は絶対に言ってないので、あおいよるさんの両親が真面目で嘘をつけない性格なだけのような気もします。Fさんの両親も同じかな?
「他者に迷惑をかける存在」という認識は、「周囲からの情報の、自分を評価する部分だけを過大に受け取ってしまう」という認知のゆがみによるものでしょうか。
自分のACだった時のイメージはジェンガです。頭の中の全ての記憶に「自分はダメだ、迷惑をかける存在だ」という情報が関連付けられ、記憶の隙間に挟まっており、記憶の一部だけを捉えて「そんなことはない」と否定しようとすると、全ての記憶に支障が生じるような危うさを感じていました。ある日、「自分はダメじゃない」という確信を得た時に、記憶との関連付けが解かれ、改めて記憶の中にある正確な状況を知ることができた感じがします。
エゴグラムと発達障害型の相関はおもしろそうですね。
私はエゴグラムは右端が極端に低い山型です。
少数派は協調性を極端に高くするか低くしないと社会適応は難しいと思います。
そこ以外は、ぬまおさんとは大差ないですね。
同じ受動型ASだとは思いますが、ACの有無で行動の結果は大きく変わると思います。
>怒りには怒ったふり
かっこ良く書いていますけど、相手に怒りの感情があったら、そんな冷静になれないですよね(笑
でも、自分に向けられた怒りとは限らないですよね。
相手からすると、怒りを向けている以外の相手から攻撃されるのが理不尽なのかもしれませんけど、例え自分以外の相手であっても、怒りの感情をもっている人には、怒りの感情が表れてしまいます。
受動型、っていうのは、NP>CPっていうことなんだろう。
だから、他人に向けられた怒りの感情も気になると思う。
ただ、ACが低い分、ぬまおさんほどCPが低くない。
そのために、相手に振り回されるところまではいかない。
FCはACの逆相関だろうし、AはASなら高くて当たり前。
受動型ASなら、Nか山のどちらかになりそう。
エゴグラム結果
一番数値の高いところ「NP」
左側が山、後は全て中間
/___ の形
「心優しき常識人」(こんな結果見た事なかった)
>m2さん
>かっこ良く書いていますけど、相手に怒りの感情があったら、そんな冷静になれないですよね(笑
そこが修行の成果といったところかな(笑)なんて、結局、m2さんみたいに天才ではないので、ACから抜けて、ある程度の対人関係ができるようになったところで、ただの受動型ASの障害を持った人なので、気を抜くと対人関係に困難のある障害者に戻るだけなんだよ。
多数派と同じようには自然に怒ることができなくて、怒りに怒りで返したら、ついつい非言語でやり返してしまうんで相手に気づかれなかったりして。ちゃんと怒ってるんだよ、という意思表示を分かりやすくしないと人によっては伝わらないんだよ。トホホホホ。
エゴグラムはちょっと回答を変えるだけで大きく変化するから、あんまり当てにならないかもしれないけど、何らかの目安にはなるかもね!
エゴグラム、そんなのあったなぁと思い出し、超久しぶりにやってみました。ネット検索したらいくつかヒットしたので、3つほどやってみました。
結果、どれもこれも、NPが超高い、CPが超低い。世話焼きのおばはんらしいっす。
責任感ないのかなぁ。規則は守るものじゃなく、道具として使うものなんだけどなぁ。守るべきは自分との約束なんだけどなぁ。そんなことをぼやきつつ。
ぬまお様、まずはありがとうございます。
>自分の感覚では、「生まれた時から超ラッキーじゃん」って思います
そっかー、そう受け止める人もいるかぁ、
とストレートに受け取りました。バカっぽくはないですよ、きっときっと。
でもって
嘘でも良いから産んで良かったって言って欲しい、と一時期考えてました、わは。
>情報収集に全力を注ぐのは(中略)必要なものが集まった時点で、始める前から「確実にできる」という自信に充ち溢れて終わった気に
安定し(てい)た時のわたくしがそれに近いです、どこいっちゃったんだ…と懐古しちゃいました。
それから
>笑顔には笑顔で、優しさには優しさを(中略)
>だけど、相手がこれと言った理由もなく、悪意を持って自分との人間関係を壊すような行動に出た時には(以下略)
ああ、そうだったよな!と開眼。
何でもかんでも直球で返してはないですけれど
相手をそのまま映し出すこと、ありますあります。愛着にあわせたくてあわせる、のと違って相手に染まるような感覚。
何と言いますか『お前ってよくも悪くも真っ白だよね』などと自分自身を見つめて揶揄しました。
そういえばここ最近、否、数年はマイナスにはマイナスで返すような応酬ばかりOR黙ってじっとしておくしかない環境だったりしましたので
もしや今は若干疲弊しているのかなぁ、と
以下に述べるエゴグラムの件も総合してそんな風に分析しました。
エントリー「一次障害と二次障害」&コメントを十分には熟読できていませんので
そのあたりも絡めてさらに自己分析していこうと考えています。
エゴグラムですが
皆様のを拝読して、もしやと思い
『職場での自分』と『一人の時の自分』(仕事以外は基本ひとり。)に分けて(脳内で状況を思い浮かべて想定)やってみましたら、結果が違いました。
「厳しい父親」が職場バージョンの自分だとデカく出ます。
「優しい母親」は職場の後輩育成時バージョンの自分だと高いですが
やはり疲弊があるのか、今はしたくない感覚があります。
あとはやはり質問の表現で違う気もします。
(例…~するべきだという表現をよく使う、だと△(→まったく使わないことはないから×ではない)決まり事はきちんと守るほうだ、だと○(→厳守だとか絶対守るべきだだったら△、かも))
エゴグラム!聞いたことがあるなぁと思ったら、一時期Facebookではやってやったことがありました(*^◯^*)
私はどうしてもACだけが異様に低くなります。
ABCで結果をつけると、BABACもしくはAAAACといった具合。
W型とは全く異なりますね!驚きです。
やっぱり色々な方がここに集まっていて、一緒にお話しているんですねぇ。
なんだかとても嬉しいです。先生機会を作ってくれてありがとうございます!
あおいよる。さん、俺も仕事とプライベートでは違っているようです。仕事のほうが明らかにA(だったよな?真ん中の部分)が高くなります。
検索でヒットした中に、質問の表現を異ならせることで仕事とプライベートそれぞれのエゴグラム判定をするページがありました。そこでは、仕事とプライベートで頭を切り替えることで心の安定が保たれているのかも、という趣旨のコメントが出てきました。なるほどなー、と。
>Fさん
最近いろいろありまして、自分の姉が高い確率で依存型ジャイアンだということが分かりました。あんまり知りたくなかったけど、先生がなんでADHDは依存がダメだと言っているのかがよく分かりました。依存はダメです。
Fさんも自分も、依存型ジャイアンでないことはたぶん間違いないと思います。
Fさん
探求的なスタンスが似ているのでしょうか?
分析したい。解析したいという欲求に共通点があるのかもしれませんね。
興味深いひとを解析し続けるところも一緒ですね。
僕の場合は、友人も恋人も、「分析対象としておもしろい」という点がとても重要なようです。
2点お聞きしたいのですが
Fさんは、「解析終了」状態になったあとに再解析を行うことがありますか?(僕は解析を保留することはあっても、終了、はないかもしれません)
Fさんが相手を理解できた、と感じるときは、相手の行動を予測できるとき、ですか?(Fさんにとっての「理解」という単語の定義を聞いてみたいのです)
さらにヒントをもらって、もう一度考えているところです。
「解析終了の閾値が人によって違う」
たぶんここがややこしいところだと思います。
単純に「その人のことが好きか・嫌いか」なだけなんですが。
ほとんどの人(好き・または好きでも嫌いでもない人)は、完全な解析終了まで行きません。
付き合ってある程度のところで解析には満足します。
たまに、てっきりこういう反応が返ってくるだろうと思っていたのに、予想外の反応があったとします。
「あれ?この人、そういう考え方をするのか」「こんな一面があるのね」と、自分の『理解』に修正を加えます。
その繰り返しです。
たまに修正する程度なので、それほどストレスも感じません。
時々、「意味がわからない」と感じる人がいます。
前回と言うことが違ったり、場当たり的な態度を取る(一貫性がない)人です。(私がすごく嫌いなタイプです)
「この人、意味がわからない」と感じながら、法則を探します。
その結果、「自分の保身のため」「特定の人に諂っているため」「勝つため」といった何らかの法則が読めたら、その人への解析は終了(打ち切り)になります。
(言動パターンが読める=100%理解した)
「これ以上関わるとデメリットの方が大きい」となると、反撃に出る、または一切の配慮をしないという冷たい態度を取ります。
『解析終了』には、かなりの傲慢さが含まれていると感じています。
もしかしたら私の『理解』はものすごく的外れなのかもしれないが、私はそれ以上知ることをしない。
その結果、私にとっては永遠に正解であり続けるからです。
前回、私はさらっと「合わせる」という言葉を使いましたが、これ、とても誤解を生む単語でした。
自分の理解に修正を加えることが、「合わせる」です。
意味がわからない人(一貫性がない人)といっしょにいるのは結構なストレスなので、相手に説明を求めますが、答えられない場合が多いです。(逆切れ・言い訳・同情・懐柔狙いなどの行動に出られる)
それも押して無理矢理合わせ続け(修正し続け)ていると、私が持たなくなります。
私が理解できたと感じるのは、相手の言動が予測できる(私が言語的に説明できる)と感じるときだと思います。
そして私は、相手の心情にはあまり興味がないのだと思います。
「何故そう思うか」「何故その行動を取るのか」ということには興味を覚えますが・・・。
心情と心理の違いでしょうか?
母の再婚相手が孤立型なように思います。
基本理屈で考える人なので、自分の考えとは違っていても理屈が通った人相手には 聞く耳を持たせることもある人で、
逆に 自分の都合で行動して、矛盾してばかりで、理屈が通じなくてその場の気持ちだけで動いて、自分のやったことには謝らないのに人が同じことをやればジメジメした文句をいって・・・
噂話や愚痴を話すのが大好きで、共感を求めてる人とは、衝突は多いあげくあいにくそうには思うものの、
他人との境界線がわかりにくい人だからこそ、受動型ASのように思う母のような人とはかえって 仲は続くのではないかなと思ったりします。
わたし自身は依存型ADHDを疑っているけれど、母の衝突したら
父?(再婚相手)曰く、母は 自分の都合でしか物事を考えない人だから仕方ないといってることがあります。そういう理解をしているように思います。
本人は、自分の考え(理屈)はしっかりしてるし、人を必要としなくてもやっていけると言うような、それが実行できる人だけれど
あまりにまじめで頭が硬すぎるという言葉では言い表せれないほどに、石頭というより岩頭なのではないかと思うぐらい融通がきかないです。
しっかりとした考えも理屈もある人であるけれど、周りからの目線は気にならない(周りの人に対して恥ずかしいからとか、気を使うことはない)ようで、
場や、周りの人への配慮や建前も必要だとは思うけれど、そういう考えはないようです。
本人は、結果がどうなろうと納得しているので、口出しすることでもないのだけれど、
こだわりというか、世の規則というか、理屈の部分で怒りだしたら手がつけられないので、
式などの世間一般的な形式での配慮や、周りのことを考えるとそれでよいのかと思うことが多々あります。
私の中での心理と心情は
多分、心理は、理由、理屈、考えのようなもので、
心情は、心、感情、気持ちのようなものに思っている気がします。
理屈だけではないもの、考えだけではどうにもならないこともあるけれど、
物事の答えは、白か、黒なのだそうです。
自分で納得して、自分で決めて、行動するんだから(自分に対してもそういう考えですが、相手も)
それ以外のことを何を考える必要があるのかと、
気を遣ったり、気持ち的な面のことを考える必要があるのか。
物事は白か黒かなんだから、どっちだかはっきりしろ。という感じがあります。
周りには、自分の考えのほかに、相手がどう思うか、そういう
一見めんどくさい感情も、入りまじりながら考えている人も、沢山いるように感じるのですが、
父は、自分の考えで物事を決めたり判断するので、
自分の気持ちというよりも、考えの方が大きいように思います。
気持ちよりも、考えを優先するというか、そういう価値観で、
自分自身が、白か黒かつけれて、そういう行動が出来てしまう人なので、
はっきりさせられない人のことは、よく分からないみたいです。
私の実体験を書いてみると、孤立型は必ず最後にひとこと言わないと気が済まない、気の強い、我の強い感じですね。
「変化に追い付けず対応ができない、という、鬱憤」がたまっているからなのでしょうか。
そう考えると納得ができそうですね。
>「興味関心の著しい偏り」
孤立型は、興味関心の対象には冷徹な論理分析を用いて接しますが、しかしASなので、ASらしい、人を感じているという気配があります。
興味関心以外のものは本当にどうでも良いという、本心からの行動を取るので、たいていの場合、私は、孤立型の人が踏みにじった人で、私を含めた他人の心までをもフォローする羽目になります。
人の心を、いじくっている(そしてそれが、本心からの、心からの行動であるという事実が巻き起こす、人心への被害がデカすぎる)のですが、本人はその酷さに自分で気がつかないようです。
(…どうやら後藤先生は、孤立型の執着対象になっているようですね。「より後藤先生にこだわるために、後藤先生の作るルールを守って我慢する。」本当におつかれさまでした。)
私が見たところ孤立型は、豹変ぶりが凄まじいです。
私ならば単に「おお」という遠い目をした感想で終わりますが、多数派で「人間愛」というものをお持ちで、なおかつ日常において常に少し精神的に弱っていそう方なら、おそらく一瞬で心がズタズタに壊れるだろう事が推測できます。
いつも抑うつを抱えてそうに見えるのは、「変化に追い付けず、対応できないでいる鬱憤を常に抱えているから」なのかもしれません。
社会の人間関係の中で過ごしていくのは困難だろう事が、私にはなんとなく分かります。
学生の時はそれなりにうまくやっていけそうな気がしますが、社会に出た途端…引きこもり、みたいなパターンになるかと。
「大勢の中で空気を読み合うよりも、一人一人の言動や行動パターンを観察し、その意味を考える」という事なら、研究職が向いていそうではありますが…研究職も人間同士の関わり合いがあると思うので、あまり有効な職ではなさそうですね。
私の妹(学生)は、結婚式場の披露宴の動画編集のアルバイトをし出した途端、「(しあわせな気持ちになれるし)バイト辞めたくない」と言っていました。あれだけ失敗を怖がっていたのに…現金だなぁ、と思いました。おそらくADHDだと思われます。
>「自分が好きな相手からは必要とされたいが、自分自身は人を必要としない」とはっきり言い切っていた
私は実のところ、そんな風にはっきり言い切れません。
不恰好でも自分が好きな相手とのコミュニケーションが通じ合えたら嬉しいし、節度をもった人との関わりの中で、ふと微笑みを返し合えた幸せな瞬間が、私の現在の記憶や過去の記憶として積み重なって層となり、私自身の生きる支えになっていますから。
現在の私は、「愛着の対象に尽くす」「全体を仕切ったり注目を浴びたがる」という「愛着」と「中心志向」が表面上見られないので、孤立型っぽく見えると思われますが、
「自分自身は人を必要としない」とは、とてもじゃないけどはっきりとは言い切れず、
さらには「外では自分のこだわりを強く主張しない」が、「周囲に「合わせる」形での妥協が見られない」という、現実ではなんともアンバランスすぎる状態となっております。
孤立型から「積極奇異なのに責任を取らない」という、自己流な他者分析を元にした、自己中な鬱積を勝手にぶつけられても、私には机上の空論である事がハッキリとわかっているので、「ふーん(感想)」で終わるという事になります。
私は、ASの特徴である「3.連合の学習障害 「想像力の飛ぶ範囲が非常に狭い」」を、広汎性発達障害の確定診断後に、長い時間をかけて範囲を広げてきた人間になります。
未診断の孤立型から何を言われようが、「あなたはたしかに論理思考はできるが、それは自己流の自己分析や他者分析(机上の空論)の領域を出ていない、という事実」や「自己中なこだわりをもっている」と、軽~く受け流すように、「…またか(…ヤレヤレ)」と思っといたほうが良さそうですね、これ以上私がPTSDに陥らないために。
「自分のこだわりの相手からは必要とされたい」、しかし、「自分自身は人を必要としない」
…正直、弟(孤立型)からの圧力が強すぎて苦痛になるので、彼とどう関わっていいのやらわかりません。
(というか、今の私は「必要って一体なんだったっけ…」というくらいの重症さです。)
「興味関心の著しい偏り」とありますが、私にとっては基本的に「無言の圧力」になります。私が一番欲しかった「情緒的なフォロー」を弟がやっている時でさえ、弟からは何がしかの圧力をずっと感じていました。
私に対しての情緒的なフォローがなくなった近年、弟は私に対してかなり加減をして関わるようになりました。(話を、何段階かスッ飛ばさずに、まるで年下の人に言うかのように、やさしく私に言うようになったんです…。正直まだ違和感がぬぐえません…。)
弟(孤立型)の対応には、私の時と、妹(のび太ADHD)の時とで、若干差があります。兄(受動型)へに至っては、もっと差があります。昔、本人が言った言葉によると、どうやら弟は、兄のように依存的にはなりたくないんだそうです。
弟は大体、私にとってイラッとする事(私の気にしている結婚の話とか)を、親戚の集まりの雑談の中でついポロッと言ってしまいますが、本人の表情、態度、動作、声音、行動、などを見ていると、悪気は、ないんですよねえ…。「こだわりの相手なのに、その相手の立場に立つ想像が出来ない」という事なのでしょう、たぶん。
ちなみに私は、孤立型と受動型の愛着対象として、知らずに板挟み状態になった事が何度かあります。
1つは、弟と兄との間。もう1つは、高校時代の同級生と、当時短い間お付き合いした男性との間です。
その当時は、非言語合戦(板挟み状態の私の頭の中には、孤立型と受動型の非言語が時間差で延々と送られてくる)という事態になってしまい、しかも私は非言語の解読スキルの精度はかなり低いので、解読不能のまま、かたや一方ではどんどん勝手に話が進められていき、かたやもう一方では、勝手に私の何かを待たれている、という異様な事態になり、私の心ごと置き去りにされてしまう、という不条理がよく起こっていました。
昔は何が起こっているのか本当によくわからなくて、かなり、本当にかなり、しんどかったです……(涙)
今回の、妹(のび太)と、弟(孤立型)の帰省時では、私が長い年月をかけてやってきた事が花開いたのか、私が何を言うまでもなく、ようやく大体の関係が fifty-fifty(五分五分)に戻ったようです。
弟からは、十数年ぶりに「お姉ちゃん」と呼んでいただけたので、これからはもう大丈夫でしょう。
……自分の運命に打ち勝ってやったぜ、ざまあみろ!!!
>「解析終了の閾値が人によって違う」
>たぶんここがややこしいところだと思います。
>単純に「その人のことが好きか・嫌いか」なだけなんですが。
(自分のコメントなので引用します)
コメントを書いた当時、書きつつ何かしっくりこないと思っていたのですが、わかりました。
「好きか嫌いか」じゃなくて、「興味があるか・ないか」です。「自分にとって好ましいか・好ましくないか」が基準ではなくて、「気になる人か・どうでもいい人か」。
たぶん、「理解し尽したい」という衝動に由来するのでしょう。
私は物を言うと決めたときにははっきり言うので、反論されることもよくあります。「この人のことが嫌いだから、全否定」は基本的にしないようにしています。人にはいいところも悪いところもあると思うので、「全部ひっくるめて全否定」では大雑把すぎる。
ただ、議論の最中に相手の言ってることが変だと思ったらそこは細かく確認した上で「こういう理由でおかしいと思う」とはっきり言うので、よく怖がられます。
暴力や暴言を「怖い」と思うのは正常だと思うけど、主張したこと自体を怖がられると「議論したかったんじゃないの?」と萎えた気分になります。