ADHD関連

ADHDの認知③ 他者の不在

 「これはこれ」「今しかない」という認知の世界に住んでいる結果として、当然対人関係にも多数派やASと大きく異なる認知が生じる。

 言ってみれば、「他者との関係を意識しない限り単独」、「あなたもこの”場”に加わっていると説明されなければ周囲に人がいても自分には関係ない」という、基本的に「ひとりが当たり前」なのだ。

 物理的空間的に会話するような近い距離に複数の人がいたとして、その複数の人同士が話をしていて、途中で自分に話を振られると、「急に言われてもわからない」、時には「私は話に入っていなかったはずじゃないの?」ということになる。

 つまり、「あなたも話に加わっているのよ」と説明されない限り、その「場」に参加していることにならないのだ。

 これは対人関係の全ての場合に当てはまる。「場の雰囲気」とか「状況」は、人から言葉で説明されるか、または自分で努力して客観的物理的な状況分析をしてそこから導き出された仮説という形で「想定」しない限り自覚されることは無い。

 これは「始めから非常に近い距離で他者が感じられ前提されているASの人や、直観的に場の中での重要性などの「位置関係」を感じ取って行動を決定する多数派と根本的に異なる人間関係の認知であり、ここからADHDの「理解不能」な言動が生じていると私は考える。

 ADHDのコーチングでは、この直観的に分からない状況理解を、意識して「状況分析」で補うトレーニングを行うことが主体になる。ADHDは当たり前にこの努力をしないと生きていけないのだが、現実の中では「一生懸命自分なりに合わせているつもりなのだが」結果は残念ながら見当外れになっていることが多い。

 ADHDからの努力は当たり前として、家族やパートナーには、「これくらい出来ないのだ」という出発点を理解してもらうことは相互理解のために有効だろう。

 この意味でも、ADHDは視覚障害や聴覚障害に近い「能力の欠損」であると思う。ただそういった障害と同じように、「逆に出来ないなりにやっていく方法もある」ことも言える。  


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コメント

    • yurin
    • 2007年 1月 18日

     >この意味でも、ADHDは視覚障害や聴覚障害に近い「能力の欠損」であると思う。ただそういった障害と同じように、「逆に出来ないなりにやっていく方法もある」ことも言える。 
    能力の欠損、といえば確かにそうかも。読みをはずすことはしょっちゅうあると思います。
    ただ、『人間関係全体を見渡せる立場』にいると、若干ましな気がします。具体的に言うと『仕切られるよりは仕切る立場』に立つほうが、『欠損した力』を補いやすくなることもあります。
    今年度私はPTAのある部の部長を務めることになりましたが、去年よりはるかに楽になったのは『反対なら反対、とはっきり言ってくださいね』『できないときはできないと、はっきり言うようにしましょう』・・・と言えるようになったことです。 『みんながいやだというなら私は無理にその計画を実行しませんから』と理由を示せる。仕切られる側にいると、これらすべて言葉で確認しにくいのが辛かったです。
    『言いたいことをはっきり言って、楽しい仕事をしましょう』。自分にあった環境が自分で作れるなら、多少大変でも部長をやるほうが私は快適です。

    • 匿名
    • 2007年 1月 21日

    衝動性の強い私は少し違った感じでした。
    なんでもかんでも口を挟んでしまう私は、しょっちゅう「あなたに聞いてない」とか「だまりなさい」といわれ続けたため、
    向こうから意見を求められない限り、自分はかやの外に居ようという努力をしています・・・
    その結果
    >物理的空間的に会話するような近い距離に複数の人がいたとして、その複数の人同士が話をしていて、途中で自分に話を振られると、「急に言われてもわからない」、時には「私は話に入っていなかったはずじゃないの?」ということになる。
    と同じ状況は、よく起こります。
    一方で、しゃべらなくていい場面で余計な口を挟んでしまう癖はなかなか治りません。

    • Lis
    • 2007年 1月 22日

    >「これはこれ」「今しかない」
    これは実感できるのですが、「他者の不在」がよく分かりません.
    「急に言われてもわからない」というより、全体の話題の中から刺激を受けた一つのことを自分の中で一人で展開しているうちに話題についていけなくなってるとか(今でもありますが、子供の頃授業中によくあった気がします)、「急に発言を求められる」と不意打ちくらった感じになるのはありますが.
    実は同様に、ASとADHDを分けるキーワードでもある「愛着」が自分にはないはず? というのも... そうなんだろうか? と思うところのものです.
    私が認知する自分は、かなり特定の人に「愛着」しているように感じていますし、面倒見が人一番良いと思います.人に濃く関わりすぎるところがあると思います.
    しかしこれも今日のblogにある「努力の結果」なんでしょうか? あるいは愛着という概念が分からないので自分の中にある別のものと置き換えて誤解しているのだろうかと思ったりもします.
    認知が歪んでいると言われたASはさぞ苦しかろうと思い、ギリギリまで告知をしないで周りで努力しようとしていますが、認知さえできないADHDが告知されて逆に救われる(らしい?)のはどうしてなんでしょう? 実際私は「そうだったのか」で楽になっていることがたくさんありますが、ASがそうなれないのはどうしてなのか、分かるようで分かりません.

    • yurin
    • 2007年 1月 23日

    >認知が歪んでいると言われたASはさぞ苦しかろうと思い、ギリギリまで告知をしないで周りで努力しようとしていますが、認知さえできないADHDが告知されて逆に救われる(らしい?)のはどうしてなんでしょう? 実際私は「そうだったのか」で楽になっていることがたくさんありますが、ASがそうなれないのはどうしてなのか、分かるようで分かりません.
    このあたりが、私には良く理解できません、いえ、正確に言うと
    『ADHDが救われる』という部分が特に。
    さて、私は救われているんでしょうか?ここでは自分のADHDをカミングアウトしてますが、普段の付き合いでこの話をすることはありませんし、同じ役員仲間でも私はただ『変わり者』で通っています。
    もしも役員仲間に同じようにカミングアウトしたら『救われる』かどうかも、実際のところはわかりません。
    ただADHDには『発想を転換する』という武器があるのは確かかもしれません。もしも『ADHDが救われる』としたら、恐らくこの部分が大きいでしょう。またいざとなったら『一人でもいい』と開き直ることもできます。これがASから見てどう見えるかはわかりません。・・・もしかしたら諦めでしょうか?諦めることはASにとって、堕落のようなことを意味するのなら、ADHDは『諦めばかりで堕落した人間』という見方になりますね。
    『ああいう人間になりたくない』=『ASとしての誇り』という意味ならば、私はそれも受け止めましょう。
    でも私はこうも言います。『私はそれでもADHDに生まれてよかった』と。

    • 匿名
    • 2007年 1月 29日

    コメントありがとうございました。
    yurin様
     ここではあえて「最初の状態」と「努力したあと」を分けて書いています。そのほうがADHDで無い人にわかりやすいとおもうので。
    daisy様
     「口を挟む」という行動も、結局その「場」の話の流れやそれぞれの人の気持ちなどとは別に、「言葉に反応」という感じではないですか?
     表面上は人に寄って行っているように見えますが、実は「一人の行動」であると言えるように思います。
    Lis様
     ADHDにも困っている相手に対する「合理的な親切」や「尊敬」はあります。「愛着・執着」は、もっと支配的で、「この相手しかない」という無条件な性格を持っています。
     例えば「相手が困っていなかったら」「解決するべき、助けるべき問題が無かったら」と考えてみましょう。
     辛くても、本当に相手に告げるべきと判断したら、自分の責任ではっきり言うことは必要です。
     このあたりAC的な感じもします。
    yurin様
     自己評価が下がったADHDが、その理由が分かって救われるというのがよく見られるパターンです。私もそうでした。
    コメントありがとうございました。
     

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